日本語朗読劇と英語翻訳朗読劇の活用による小学生のために使える英語とするための英語授業の総合教育化(日本語朗読劇付き)[1]

2020-08-10 11:06:51 | 教育
 2011年度から小学校5、6年生で英語授業が必修化された。5、6年生にさらに3年生、4年生加えた英語必修化が2020年4月から全面実施され、既に2018年度から移行措置が取られていたと言う。

 3、4年生の英語学習は「外国語活動」と名付けれらていて、その目標は、「聞くこと」「話すこと(やり取り)」「話すこと(発表)」の3つだそうだ。
 一方、5、6年生の英語学習は「外国語」の名称となっていて、その目標は、3、4年生で学んだことに加えて、「読むこと」「書くこと」、つまり話言葉の上積みの上に文字での扱いを自在にするということなのだろう。

 小学校高学年からのこの両方を達成して、英語という言語を用いたコミュニケーション活動をそれなりに活発化できれば、英語が国際共通語であることから、極度にグローバル化した今日、日本人の大方が必要に応じて国際社会の一員としての資格を持った諸活動の入り口に立つことが可能となるということなのだろう。

 ひと頃、「郷に入らば郷に従え、日本に来た外国人はここは日本なのだから、自国語を用いずに日本語を話せ」と主張する一部日本人がいたが、だからと言って、国際共通語である英語の地位を無視して済ますことができない現実は如何ともし難く立ちはだかる。

 例えば、私自身もそうだが、日本以外の国の情報を日本語訳に頼っていたなら、特に英語圏の情報の獲得に積極性を欠くことになるし、グローバル化に反して情報領域を自ら狭くすることになる。

 よく聞く話で、街で外国人に出会うと、英語が全然話せないことから、話しかけられたら面倒という思いで近づかないようにするということだが、その距離感を情報活動に於いて常に持ち続けることになりかねない。

 英語教育のもう一つの主な反対意見として「美しい日本語がありながら、その日本語さえも満足に習得できていない段階で、英語を習ってどうする。日本語の習得が先ではないか」というものがある。この反対意見の持ち主の多くは世界の他の言語と比較して日本語を特に優秀な言語と看做す保守派に多く見受けられるようだ。

 いくら日本語が優秀な言語であったとしても、それを用いる日本人が良からぬ言動の持ち主であった場合は、日本語の優秀さは意味をなくす。自分自身にしても偉そうな口が利けはしないが、要するに言語の優秀さよりもその言語を用いる人間個々が言語の優秀さに対応しているか否かを問題としなければならないが、この点は考慮に入れていないようだ。

 学校で英語を学んだとしても、使うことのできる能力にまで持っていくことができない現状は学校以外で英語を使う機会が日常的に少ないことも原因としてあるのかもしれない。使うことができる機会がそれなりにあれば、学んだことが生きてくるし、使う機会を通して、学校で学ばなかった英語も自分から学習していくこともできる。

 だが、学校以外で英語を使う機会が日常的に少ないこの状況は一般的には変化はないものと見るならば、今までと同様に学校の英語教育のみで、「読む」、「書く」、「聞く」、「話す」4技能の底上げを今まで以上に図らなければならないことになる。

 そこで自分自身が英語の「読む」、「書く」、「聞く」、「話す」4技能を全く以て欠いていることを承知の上で、現状の使うことができるところにまで十分に持っていくことができていない学校英語教育を使うことのできる場所にまで持っていく教育内容の変更を身の程知らずにも提案してみることにした。

 その方法とは英語に関わる4技能習得のみに重点を置くのではなく、英語の授業を総合教育化し、総合教育化の中で4技能を習得させることとする。

 総合教育化の方法は日本語朗読劇と英語翻訳朗読劇を活用する。具体的には3年生以上の各クラスの生徒を端数が出ないように5人、ないし6、7人にチーム分けして、各チームにメンバー同士の協力で、先ずテーマを決めさせて、日本語朗読劇を創作させる。

 この創作が総合教育化の手始めとなる。

 教師も時には相談に応じて、メンバーと同数の登場人物を設定して、セリフの多い少ないは少しぐらい偏っても、登場人物全てのセリフを頭に入れることになるから、さほど問題にしないことにして、とにかくメンバーと決められた生徒が主体となって、一編ずつの日本語朗読劇を全てのチームに共同で創作させる。

 創作させたところで、朗読劇だから、教壇に並んで立って、話す順番が来た者から台本を見ながらセリフを読み上げていくことになるが、先ず、どのメンバーも、台本を丸ごと暗記することを前提に始めることにする。

 但しセリフを単に読み上げるだけでは、朗読劇という体裁とはならない。セリフを用いた感情や思い入れの表出を場面、場面に応じて演じて初めて劇の体裁を取ることになる。教師は助言を与えて、台本の単なる読み上げで終わらせずに朗読劇の体裁でセリフを読み上げることができるまでに指導しなければならない。と同時に生徒全員でそれぞれのチームごとの朗読劇と演技の出来栄えを批評させ合うこととする。

 批評は鑑賞眼や判断力を養うことになる。

 台本を暗記したメンバーから台本なしのセリフ劇へと移行させる。全員がセリフ劇に移行できたところで、各チームが創作した日本語朗読劇を各チームごとに英和辞書や和英辞典、あるいはネットの翻訳アプリを使って、メンバーの力だけで英語朗読劇に翻訳させる。但しこの際に英語教師や「外国語指導助手」(ALT)は一切手を出さないことにする。あくまでもチームメンバーの協力のもと、自力で英語に翻訳させる。

 翻訳ができたところで、それが正しい英語となっているかどうか、そのとき初めて教師やALTの指導・助言のもと、各チームの朗読劇ごとに校正していくことにする。それぞれのチームが翻訳した英語が正しい英語への手直しとなることへの興味から、その校正授業に集中できない生徒は少ないはずである。

 この校正の段階で文法的な知識を一通り体系的に学ぶことにする。一通りなのは「話す」、「聞く」に重点を置くためである。

 各チームのすべての英語朗読劇が正しい英語によって校正されたのち、外国語指導助手が最適任だと思うが、チームごとの英語朗読劇の台本を朗読した撮影映像を家のパソコンかテレビで見ることができるようにDVDか、家にパソコンやブルーレイレコーダーがない生徒にはラジカセで聞くことができるようにCDにして、チームごとにそれぞれのメンバー全員に渡す。

 演者はあくまでも朗読劇として台本を読むのは勿論のことであるが、同時に英会話に於ける口の動きと言葉自体がより明確に伝わるように顔中心の撮影とし、演劇風に少々オーバーなアクセントとイントネーションを用いて音読することとする。

 教室に大型ディスプレイか電子黒板があるなら、そこに映して、目で捉えた口の動きと耳で捉えたアクセントやイントネーションの関連を学習して、生徒それぞれが「聞く」、「話す」の英語の2技能習得の参考にする。

 生徒一人ひとりにDVDかCDが渡されているから、自宅でも練習することができる。CDは映像で見ることはできないが、教室で映像を見ているなら、自身が上手に朗読できるようになるために自然と頭を研ぎ澄ますことになって、耳のみで映像までを思い浮かべることになる。

 文部科学省の達成年度2018年~2022年の「教育のICT化に向けた環境整備5か年計画」では、学習者用コンピュータは3クラスに1クラス分程度整備、指導者用コンピュータは授業を担任する教師1人1台、大型提示装置(大型テレビ、プロジェクタ、電子黒板)は100%整備と、それぞれに謳っているから、大型テレビや電子黒板が用意されていない教室でも、暫く待てば、英語朗読の模範を示す映像の閲覧に事欠かなくなることになる。

 次に各チームごとの英語朗読劇となる。正しい英語に手直しされた英語朗読劇台本を使い、日本語朗読劇と同様に全てのチームが自チームの台本を丸ごと暗記することを決まりとして、英語朗読劇を始めることにする。

 英語台本の読みに一定程度慣れて、余裕が出てくれば、既に日本語の台本を暗記しているから、おいおい日本語で意味を取りながら英語の文字を追い、セリフとして読み上げていくことができる。日本語で意味を取ることができるようになれば、英文の暗記を早めることができる。

 勿論、日本語朗読劇と同様に英語朗読劇もその台本を暗記したメンバーから順に台本なしの英語セリフ劇へと移行する。その場に立ったままの朗読劇の姿勢でセリフを口にしたとしても、日本語朗読劇も、英語朗読劇も、声によってだけではなく、ほんの僅かでしかなかったとしても、許される範囲の身振り、手振りで感情や思い入れを表出できるようになれば、一定程度の演劇に近づいていく。

 この状態に到達できるようになれば、「聞く」、「話す」の英語の2技能習得は達成できる。

 文部科学省は自己表現能力やコミュニケーション能力の向上のために学校教育での演劇教育を奨励しているということだが、プロの演劇集団を招いて、その演劇を鑑賞させるといったことに重点を置いているようで、生徒自らが演じる演劇教育はまだ重要視されていないように見える。

 文部科学省のホームページにある、「劇・ダンスに関する新学習指導要領における記述例(抜粋)」を見ると、小学校第1学年と2学年を対象とした国語の授業で、〈物語の読み聞かせを聞いたり、物語を演じたりすること〉との記述はあるが、第3学年以上にはこの記述は見当たらない。

 ここで思い切って3年生から6年生までの英語教育に日本語朗読劇とそれを英語に翻訳した英語朗読劇を取り入れた場合、子どもたちへの様々な効果が期待できる。

 先ず第一番に5、6人かの小集団となってメンバーがお互いに協力し合い、朗読劇を創作すること自体が創造力の育みだけではなく、人間関係の構築能力、あるいは他者との協調精神を養う力となり、さらに新しいものを作り出すという作業は子どもたちの感性を磨いていくことになる。

 また、それが朗読劇であり、セリフを暗記して台本なしの表現へと発展させたセリフ劇であったとしても、自分自身とは異なる劇中人物を演じること自体が集中力だけではなく、自己表現能力を育むことになり、他の登場人物と演じ合って、息を合わせることは他者を知ることを手がかりとして始まる自己形成やコミュニケーション能力の育みに役立っていく。

 さらに人間の現実や社会の現実の一部でも捉えた朗読劇を創作できたなら、創作できたことと、それを言葉で演じることは虚構でありながら、人間の現実や社会の現実を学んでいくキッカケを与えてくれる。

 このことは演じる者のみならず、観劇する側の生徒に対しても同じように人間の現実や社会の現実を学んでいく機会を与えることができる。

 そしてこのような様々な能力を手に入れることができた場合、それらの能力は社会で生きていくための力となってくれるはずである。

 要するに日本語朗読劇の創作から始まって、その朗読劇と英語翻訳した英語朗読劇のそれぞれの台本を用いた朗読と台本を暗記して、台本から離れたそれぞれのセリフ劇で英語の「読む・聞く・話す」の3技能をマスターしながら、社会で生きていくための様々な能力を学び取ることができるように仕向けるこの教育方法が英語授業の総合教育化ということになる。

 簡単に言い替えると、単に英語を学ぶだけで終わらせない、自己表現能力や自己形成能力、人間関係構築能力等々の様々な能力まで学んでいくことができる総合教育となる。

 英語の技能に関して言うと、残る英語学習は書く技能だけを残すことになる。英語で読むこと、聞くこと、話すことがスラスラとできるようになれば、英単語の綴りの基本はローマ字式だから、書くことはさして難しくはない。

 また、日本語朗読劇創作は国語範疇の教育であり、国語と英語の総合教育ということにもなる。

 参考のために小学校6年生用の日本語朗読劇を創作してみた。出来栄えは保証の限りではないが、方法論として提示しておく。

 朗読劇の上演時間と文章量はほぼ1万字・30分の関係にあるということからすると、この日本語朗読劇は約1時間ものということになって、少々長過ぎる嫌いがあるが、各チームの上演時間をどのくらいにするか、クラスごとに決めて、決めた範囲で創作していけばいい。

 英会話が全然できない者として英語翻訳は一から十まで翻訳アプリの「DeepL翻訳」とネット翻訳の「Google翻訳」、同じくネット翻訳である楽天の「Infoseekマルチ翻訳」と、「Weblio 翻訳」、その他に頼った。

 翻訳した英文の間違い訂正は英文校正ツールであるフリーソフトの「Ginger」に全面的に頼り、同じくフリーソフトのテキスト読み上げツール「Balabolka(バラボルカ)」を使って、英語朗読劇台本を読み上げて貰えば、それをオーディオファイルとして保存、何度でも聞き返して、言葉と意味を聞き取る練習もできる。

 但し英語翻訳した朗読劇台本はここでは割愛することにした。

 日本語朗読劇と英語翻訳朗読劇の活用による小学生のために使える英語とするための英語授業の総合教育化(日本語朗読劇付き)[2]に続く
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