沖縄の「アイデンティティー」を掲げ、普天間基地の辺野古への移設に強硬に反対していた翁長沖縄県知事が2018年8月8日に亡くなっった。
「1票の格差」を「コトバンク」がデジタル大辞泉の解説を用いて解説している。
〈選挙で、一人の議員が当選するために必要な得票数が選挙区によって異なること。そのため、有権者の一票の価値に格差が生じることをいう。→定数不均衡
[補説]選挙区の有権者数を議員定数で割った「議員一人当たりの有権者数」が最も多い選挙区Aで50万人、最も少ない選挙区Bで20万人だった場合、一票の格差は2.5倍で、選挙区Aの有権者が持つ一票の価値は選挙区Bの有権者の半分以下(5分の2)となる。
こうした格差は、憲法が保障する法の下の平等に反するとして、選挙の無効を求める訴訟が繰り返し提起されている。最高裁判所は、著しい格差(衆院選で3倍、参院選で6倍以上など)が生じた場合に、違憲あるいは違憲状態とする判断を示しているが、事情判決の法理により選挙は有効としている。 〉(文飾当方)
この「こうした格差は、憲法が保障する法の下の平等に反する」は、「日本国憲法第3章 国民の権利及び義務 第14条」、〈すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。〉を指している。
〈政治的関係において、差別されない〉は政治の扱いに於ける平等性を、 〈社会的関係において、差別されない。〉は社会を生きる上での平等性を謳っているはずである。
日本全体の面積に対して0.6%の面積しかない沖縄に日本全体のアメリカ軍専用施設の約70%が集中し、沖縄本島の約15%を占めている。このことは日本国憲法が保障している全ての国民を対象とした法の下の平等に対して政治的関係と社会的関係に於いて果たして平等であると言えるだろうか。
頻繁に指摘されていることだが、問題はこういった不平等性が沖縄自身よる自己決定によってでははく、一方的な他者決定に基づいていることであろう。
自己決定は、それがどのようなものであれ、自らが自立的存在であることを肯定された状況が可能とする。対して一方的な他者決定は支配と従属の関係が先にあって、自らが自立的存在であることを否定された状況が可能とする。
沖縄に於けるこのような関係性は歴史的なものとなっている。独立国家だった琉球王国の薩摩藩による独立国家の体裁は維持したままの併合を「Wikipedia」から見てみる。
〈島津藩による琉球併合
1609年(琉球暦万暦37年・和暦慶長14年)、薩摩藩の島津氏は3000名の兵を率いて3月4日に薩摩を出発し、3月8日には当時琉球王国の領土だった奄美大島に進軍。3月26日には沖縄本島に上陸し、4月1日には首里城にまで進軍した。島津軍に対して、琉球軍は島津軍より多い4000名の兵士を集めて対抗したが敗れた。4月5日には尚寧王が和睦を申し入れて首里城は開城した。
これ以降、琉球王国は薩摩藩の付庸国となり、薩摩藩への貢納を義務付けられ、江戸上りで江戸幕府に使節を派遣した。その後、明を滅ぼした清にも朝貢を続け、薩摩藩と清への両属という体制をとりながらも、琉球王国は独立国家の体裁を保ち、独自の文化を維持した。琉球王国が支配していた奄美群島は、薩摩藩直轄地となり分離されたが、表面上は琉球王国の領土とされ、中国や朝鮮からの難破船などに対応するため、引き続き王府の役人が派遣されていた。〉――
軍事的に支配と従属の関係を強いられることになった併合以降の琉球は薩摩藩によって一方的に過酷な徴税を強いられた。表面的には独立国家であったとしても、自立的存在たることを断たれた。
同じく「Wikipedia」から「琉球処分」
〈1871年、明治政府は廃藩置県によって琉球王国の領土を鹿児島県の管轄としたが、1872年には琉球藩を設置し、琉球国王尚泰を琉球藩王に「陞爵」(しょうしゃく)して華族とした。明治政府は、廃藩置県に向けて清国との冊封関係・通交を絶ち、明治の年号使用、藩王自ら上京することなどを再三迫ったが、琉球が従わなかったため、1879年3月、処分官松田道之が随員・警官・兵あわせて約600人を従えて来琉、武力的威圧のもとで、3月27日に首里城で廃藩置県を布達、首里城明け渡しを命じ、4月4日に琉球藩の廃止および沖縄県の設置がなされ、沖縄県令として鍋島直彬が赴任するに至り、王統の支配は終わった。〉――
琉球から沖縄への改称は日本の領土であることを示すためだという。この改称にも支配と従属の関係で律して自立的存在であることを否定、そのことが可能とする自己決定の剥奪を見て取ることができる。
薩摩藩に代わって、今度は日本政府が武力的威圧を用いて沖縄を支配と従属の関係下に置き、薩摩藩に引き続いて沖縄の自立的存在性を無視し、自己決定を認めない状況に置いた。
沖縄が日本に支配された、いわば日本の下にある存在ということからだろう、1910年の日本の韓国併合によって日本人が韓国人を二等国民として差別したように日本は沖縄を差別することになった。
差別自体が自立的存在性証明の重要な手掛りである自己決定を支配と従属が奪うことになっている構図を示す。
日本政府が沖縄と本土の同化政策や皇民化教育の徹底に乗り出した明治末期から大正時代にかけて、沖縄では差別解消を願って沖縄独特の姓名を本土風に改める改姓改名運動が起きた。
この自己決定の放棄となる日本風の改姓改名も、支配と従属の力学によって自立的存在性を否定されていることから発している止むを得ない選択であったはずだ。
そして太平洋戦争で唯一地上戦となった沖縄戦。沖縄が自立的存在として自己決定した戦争ではない。日本政府及び日本の軍部が決定して、沖縄に押し付けた。「沖縄県平和祈念資料館」が沖縄戦での死者、日本側188,136人の内訳を沖縄県出身一般人を94,000人、沖縄県出身軍人・軍属を28,228人。合計の沖縄県出身者を122,228人と記している。
沖縄県以外の日本人死者は65908人。沖縄県出身一般人が最も多い犠牲者となっている。
これが沖縄が起こしたわけではない、昭和天皇と日本政府と日本の軍部が起こした戦争の一部である沖縄戦の結末である。自立的存在であることをカギとした自己決定の関与の余地は何ら与えられていなかった。
そして敗戦、日本はGHQの占領下に置かれ、特に沖縄はアジアを睨む地政学的観点から土地が強制的に接収され、米軍の基地の島と化し、それが今日にまでほぼ続いている。
この土地の強制的接収にしても、沖縄の米軍基地化にしても、沖縄が自立的存在であることを認められた上で自己決定した事態ではなく、米軍と日本政府によって一方的に決定した逆の事態なのは断るまでもない。
日本は1952年4月28日に発効したサンフランシスコ平和条約によって全ての主権を回復し、独立を果たしたが、沖縄や小笠原諸島、奄美群島は米国の施政下に残った。
沖縄が米国の施政下に残るという自己決定を下したわけではない。宮内庁御用掛の寺崎英成が天皇の希望をメモに纏め、その希望をシーボルト連合国最高司令官政治顧問に伝え、シーボルトがマッカーサー元帥に図った米国による琉球諸島の軍事占領の継続とされている。
寺崎英成が纏めたメモには、〈天皇は米国による沖縄占領は日米双方に利し、共産主義勢力の影響を懸念する日本国民の賛同も得られる。〉などと記されているという。
沖縄が日本に返還されたのは1952年のサンフランシスコ平和条約締結から20年も遅れた1972年(昭和47年)5月15日である。この間、日本の一地方自治体としても、日本に於ける沖縄県民としても、自立的存在としての自己決定は許されなかった。
このように日本が沖縄を支配と従属の関係で律することで自立的存在を否定、否定を通した自己決定の剥奪は歴史として続いてきた。
そして日本全体の面積に対して0.6%の面積しかない沖縄に日本全体のアメリカ軍専用施設の約70%が集中し、沖縄本島の約15%を占めている現状が証明する基地の島としての役割を今以って与えられ続け、普天間米軍飛行場に関しても、辺野古への移設に反対しているにも関わらず、日本政府によって沖縄は自己決定外に置かれ、その自立的存在性は否定され、辺野古への移設が強行されようとしている。
このことは政治の扱いに於ける平等性と社会を生きる上での平等性を保障している「日本国憲法第3章 国民の権利及び義務 第14条」の法のもとに於ける平等から明らかに逸脱している。
1票の格差を憲法が保障する法の下の平等に反するからと問題にするなら、日本本土と沖縄の基地所在の格差も、法の下の平等の観点から問題になって然るべきだが、1票の格差程には問題になっていない。
この感覚は本土が現在も沖縄を下に見、差別感情をなくしていないことが原因となっているのだろうか。