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2019年7月28日任期満了実施参院選で 安倍自民党を大敗に追いつめれば 政権運営が行き詰まり 2019年10月1日の消費税10%への増税を 断念させる可能性が生じる |
【お断り】西暦2019年4月28日までブログを休みます。この記事をトップページにとどめて、なるべく多くの読者の目に入るようにするためです。 |
安倍晋三が自民族優越主義者であり、そうであるばかりか、国粋主義者、国家主義者であることは何度もブログに書いてきたが、最近では西暦2019年4月4日の《安倍晋三の選ぶべくして選んだのか、国粋主義・国家主義・自民族優越主義と見事一致した新元号「令和」 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に書いた。
そして安倍晋三が言葉に節度がないのは国会で野党の追及を受けて事実でないこと・ウソをついて自己正当化を謀るとき、国会答弁が関係ない事柄にまで踏み込んで不必要に長々と喋ったり、最初の説明と最後の説明が繋がらず、小説で言うところの起承転結が終始一貫しないことを平気で押し通すといったところに現れている。
例を挙げると、ブログに取り上げたことだが、2018年8月12日に地元山口県下関市内で開催の長州「正論」懇話会の設立5周年記念講演会講演(産経ニュース/2018.8.14 10:00)の際、「近年でも『自衛隊を合憲』と言い切る憲法学者はわずか2割で、違憲論争が存在しています。その結果、多くの教科書に自衛隊の合憲性に議論があるとの記述があり、自衛官の子供たちも、その教科書で勉強しなければなりません。ある自衛官は息子さんから『お父さん、憲法違反なの?』と尋ねられたそうです。そのとき息子さんは、目に涙を浮かべていたと言います」と憲法で自衛隊合憲の明記がないことの障害が子供にまで及んでいることのエピソードを述べた。
立憲民主党の本多平直が2019年2月13日の衆院予算委員会に引き続いて、2019年2月20日衆院予算委員会で、「このエピソードは事実なのか」と問い質した。対して安倍晋三は要約すると、「防衛省担当総理秘書官を通じて航空自衛隊の幹部自衛官から伺った話で、秘書官自身が自衛隊、自衛官本人から、直接聞いたものであると、このように考えております」といった答弁を行っている。
この答弁は前段だけで済む話で、後段は二重の説明になっていて、余分な説明であるということだけではなく、前後の説明に矛盾がある。前段は自身の秘書官が航空自衛隊の幹部自衛官から直接伺った話だという断定形を取っているが、後段は「直接聞いたものであると、このように考えております」と推測形になっている。もし安倍晋三が総理秘書官から「航空自衛隊の幹部自衛官から伺った話」を直接伝えられていたことが事実なら、「直接聞いたものであると、このように考えております」と推測しなければならない必要性は生じない。前段が事実でないから、念を押さざるを得ず、非事実に対応させて、ついつい推測形になってしまったといったところなのだろう。
言葉に節度がないから、必要もない長々とした国会答弁を繰返して、野党からヤジられるたりする。
先ず元号「令和」の考案者であり、国際日本文化研究センター名誉教授であり、万葉集研究の第一人者の誉れ高い中西進が自民族優越主義者であることを証明しよう。文飾は当方。
記事は、〈自身の著書を出す筑摩書房(東京)に対し、万葉集は「令(うるわ)しく平和に生きる日本人の原点です」とのコメントを送っていた。同社は増刷にあわせて中西氏のコメント入りの帯を使い、18日をめどに書店に出荷する予定。〉と伝えている。
具体的には、〈増刷は1万部。2日、中西氏に重版決定の連絡を入れたところ、中西氏からファクスで〉件のコメントが送られてきたと紹介している。
万葉集は「令しく平和に生きる日本人の原点です」・・・・・
この「平和に生きる日本人」とは個人性を指した「日本人」ではなく、「日本人」全体を指し、民族性を持たせて「平和に生きる」という姿を取らせている。このことを一言で言うと、中西進は日本人性善説を唱えていることになる。
果たして現在の日本人は民族として常に「平和に生きる」姿を取っているのだろうか。あるいは民族として歴史を通して常に「平和に生きる」姿を取ってきたのだろうか。そうであるなら、違法建築だとか、検査データ改竄、あるいは検査偽装だとか、省庁の文書書改竄だとか、不正統計だとかは起こさない。常に常に正しい行いをしているだろう。戦前、天皇の名のもとに侵略戦争起こす歴史をつくり出すことはなかったろう。
いわば「令しい」か「令しくない」かにしても、あくまでも個人性であって、「平和に生きる」か、「生きない」かにしても、同じ個人性であり、それを日本人性善説に即して民族性で解釈するのは自民族優越主義以外の何ものでもない。
万葉集の成立の時期は奈良時代末期と考えられているという。時代は西暦710年から西暦794年の 85年間。この85年間は7世紀後半から10世紀頃まで続いた律令を基本法とする政治体制である律令制下にあった。
《律令公民制の研究- 京都大学学術情報リポジトリ》(鎌田元一)には次のような記述がある。
大化の改新を経て律令国家へと繋がっていき、朝廷や皇室、豪族に隷属して奉仕・貢納する人々を編成した部民制(べみんせい)としての〈部は(1)品部、(2)子代・名代、(3)部曲の三つの類型に分けられ、それぞれ(1)は天皇(朝廷)の民、(2)は皇室・皇族の私有民、(3)は諸豪族の私有民とされる。〉
いわば大化の改新の際に打ち出され、以後律令制下の「公地公民」の制度は土地と人民は全て国家(=天皇)の所有とし、私有を認めないことを原則としていたが、天皇の私有のみならず、皇族や諸豪族がそれぞれ分けて私有していた。
こいった支配階級に所有された人民に自由はなく、与えられた土地を耕し、決して軽くない税を課せられることになった。ネットで調べると、生活が楽だったといった表現は見つけることはできず、〈貴族が律令制下で贅沢な暮らしを享受する一方、農民は重い税金により貧しい暮らしを余儀なくされた。〉といった趣旨の記述を見つけることになる。
皇族や貴族は働かざる者の特権として和歌を詠み、蹴鞠などして麗しい優雅な生活を送ることができた。要するに万葉集はこのような皇族・貴族によって詠まれた和歌の世界でしかない。元号「令和」の発案者中西進は作品の世界だけを見て、万葉集は「令しく平和に生きる日本人の原点です」と言う。
自民族優越主義者は優秀な国民の優秀な事績のみに焦点を当てて民族の優越性を言い募ることから、国家に最高の価値を置き、個人を国家に従属させる国家主義と近親関係にある。結果的に国がどう動いてきたのかの視点に限った歴史や文化・伝統を重要視し、そういった世界の裏側にある一般人民の世界などには目もくれない。中西進について言うと、和歌の世界の裏側にあるどのような世界も覗こうとしない。
「高志(こし)の国」文学館の館長をしている中西進は西暦2019年4月14日に同館で新元号について解説したと西暦2019年4月16日付「毎日新聞」が伝えている。
「(新元号の考案者)私ではない。神とか天とか呼ばれるような人。
(中国では令月は2月を指す一方、日本は1月からであることに触れて、目を細め)正月を迎えると我々は春が来たと喜ぶ。(日本の)風土に感謝、尊敬したい。令和という時代を国民の1人として喜んで迎えたい」
歴史上の多くの時代に於いて一般国民が支配階級に虐げられてきたことを棚に上げて、「(日本の)風土に感謝、尊敬したい」とことほぐ(寿ぐ)ことができる。このように歴史的視野狭窄者だから、言葉に節度を与えることができない。
「神とか天とか呼ばれるような人」。考案者が自分だからこそ、このようにはぐらかすことができる。他人が考案者なら、このようにはぐらかすことはできない。膨大・豊富な知識から苦労して紡ぎ出すことになる元号のはずだから、そういった知識を無視して「神とか天とか呼ばれるような人」の一瞬の才能の閃きが紡ぎ出したかのように言うのは逆にバカにしたことになる。「考案者は私です」と喋ったも同然で、黙っていればいいものを、言葉に節度を持たせることができずにペラペラと喋るから、喋れば喋る程、「考案者は私です」と正体を明かすことになっている。
西暦2019年4月2日付「時事ドットコム」記事になると、ニュアンスがかなり違ってくる。西暦2019年4月2日に京都市内の自宅で時事通信の取材に応じた発言だという。
考案者かとの質問に「ノーコメント」
但し「元号は中西進という世俗の人間が決めるようなものではなく、天の声で決まるもの。考案者なんているはずがない」
これも考案者が自分だからこそ言うことができる。現実には「天の声」から比べたら、世俗そのものの人間が考案し、政治家を混じえた世俗の人間が決めていく。それを「天の声」が決めたとしている。つまり「天の声」に絶対性を与えて、その「天の声」が決めたことなのだからと、「令和」なる元号そのもに絶対性を纏わせていることになる。
そして元号が天皇の存在性とそ時代を表す以上、元号の絶対性は天皇の存在性とその時代に対しても絶対性を付与することになる。元号の絶対性に対して天皇の存在性とその時代は非絶対的だとしたなら、論理矛盾を来すことになる。元号に絶対性を置き、併せて天皇の存在性とその時代に絶対的価値観を対応させること程、危険な思想はない。
西暦2019年4月12になると、中西進はまた言葉を変えて「令和」を説明している。言葉に節度なきこと底なしである。「asahi.com 」(西暦2019年4月12日18時38分)
東京都内で開いた市民講座で「令和」について解説したのだという。
「辞書には『令は善なり』と書いてある。令と言えば善いことだ。こんなにすばらしい字はない。
(「れい」という発音について)『玲瓏(れいろう)玉のごとし』や『容姿端麗』など非常に美しいものに使われる。(「令」が「命令」の意味を含むとの指摘について)「文脈が違えばそれぞれ際だった側面が強調される。こじつけだ。
(自身が考案者であるかどうかについて)たまたま同じ名前の人が考案したかのごとく言われているが、たぶん今ここに座っている人間とは違う」
最後の発言に対して記事は、〈とけむに巻いた〉と解説している。
「令」が「命令」の意味を含むとの指摘が「こじつけ」なら、「れい」の発音が「『玲瓏(れいろう)玉のごとし』や『容姿端麗』など非常に美しいものに使われる」としていることも、同じ字を使っているわけではないから、こじつけそのものである。
「辞書には『令は善なり』と書いてある」と言っているが、どの辞書か根拠を示さないのは学者として卑怯である。根拠を示して、初めて第三者に対しても証明されることになる。根拠となる辞書を示さずに言うのは言葉に節度がないだけではなく、情報操作に当たる。
ネットで調べてみた。「ニコニコ大百科」
〈〔爾雅・釈詁〕に「令、善なり」「令、告なり」とある。字形亼+卩の会意。解釈に諸説ある。甲骨文や金文の字形は△のものの下に人が跪く姿の象形である。△については、口を逆さまにしたもので号令を発して人が跪くという解釈(〔文源〕)、礼冠を被って神のお告げを聞くという解釈(白川静)、廟屋を表し廟で命令を受けるという解釈(〔古籀補補〕)がある。〉(一部抜粋)
「爾雅」(じが)とは中国最古の字書であり、「釈詁」(しゃくこ)とは爾雅が19編に分類されて現存している字書の一つだそうだ。
「解釈に諸説ある」としているが、どれも上に対して下が従属している姿を表している。「神のお告げ」を伝えるのは上位者、あるいは支配階級の役割であり、被支配階級を従える意を取る。
〈漢字の起源と成り立ち 「甲骨文字の秘密」〉記事中の〈新元号「令和」が本当に意味するものとは?〉(2019年4月1日月曜日)は次のように述べている。一部抜粋。 〈新元号「令和」の由来と起源 新元号が今日(2019年4月1日)の閣議で決定発表された。 出展は万葉集ということだそうで、これでの元号は基本的に漢籍から取られたものだそうだが、そういう意味からもこの新しい元号は、これまでとは一線を画するものかも知れない。 しかし、この新元号の解釈を如何にしようとも、漢字の解釈から引き出される意味は、「命令に和すること」以外はないようである。 漢字「令」の成り立ち 漢字「令」の甲骨文字の上部の三角形は、許慎は上古の時代青銅楽器の外形の輪郭と考えた。即ち、鈴、鏡、の一種。下部は左を向いて跪いている男の人である。両形の会意で命令を発することを表示する。古典の典籍では、「古きもの将に新令あるときは木鋒を奮い上げ大衆に警告をする。木鋒は木の舌であり、文事には木鋒、武事には金鋒を奮う。 「金文は基本的には甲骨文の形態を受け継いでいる。小篆の下の部の人の形はいくらか変化し、楷書の形態は即ち根本的には鈴の字の人の形は見られない。其の実、令の字は別の角度からの解釈が合理的なのかも知れない。 大腿のマタを広げ佇立する男性の眼前に一人の跪いた人がある様がまさに「令」の源である。 この意味からまた拡張して「~させる」という意味が出る。 因みに、藤堂明保編「漢字源」による解釈では以下のようである。 「△印(おおいの下に集めることを示す)+人のひざまづく姿」で、人々を集めて、神や君主の宣告を伝えるさまを表す。〉(以上) |
この甲骨文字「令」が意味しているところは「ニコニコ百科」の記事と何ら変わらない。
律令制下の天皇、あるいは諸豪族は絶対権力を握っていた。この支配階級の絶対権力は軍人までが加わって、戦前まで続いていた。律令制下の天皇は戦前の天皇に譬えることができる。天皇は現人神で、日本国民に対しては絶対権力を担わされていた。天皇の命令は絶対で、批判は許されなかった。批判すれば、不敬罪で罰せられた。
先に触れたように律令制下の天皇や諸豪族の支配階級は絶対的権力を握り、被支配階級を成していた領民・農民は天皇や諸豪族の所有物であり、この関連性から支配階級の価値観が被支配階級の価値観に対して支配的・絶対的であったことを示す。戦前の日本を思い浮かべれば、簡単に理解できる。
そういった時代に於ける「令、善なり」、あるいは中西進が言う「令は善なり」を解釈した場合、「上の言うことを絶対とすることを善とする」、あるいは「上の命令を絶対とすること善とする」という価値観を取る。
要するに支配階級の価値観を「善」と看做させ、その価値感をそのまま受け入れることを「善」とする被支配階級の価値感を相互対応させた時代性以外に読み取ることはできない。
この相互対応形の価値観は戦前の「天皇陛下バンザイ」にも現れている。
このような時代性が背景にあるとも知らずに無視して、中西進は元号「令和」を正当化するために「令は善なり」を意味すると唱えることになった。言葉に節度のないばかりか、時代性の無視は国家を優先させる自民族優越主義者だからこそできる解釈そのものであろう。