12月21日午後、文科相の馳浩が国のカネを握っている財務相の麻生太郎お大尽(大金持ち)に対して来年度予算案の閣僚折衝に臨んで交渉、来年度の公立小中学校の教職員定数を決めたと「NHK NEWS WEB」記事が伝えている。
麻生太郎の主張、と言っても、財務省の役人が算出した人数を単に麻生太郎が口にしているだけなのだろう。
少子化を理由に今後9年間で3万7000人の削減、初年度に当たる来年度は約3400人削減とする。
馳浩側の主張。これも文科省の役人が求めた人数なのだろう。
9年間で5500人程度の削減、来年度は60人の削減。
財務省側の今後9年間3万7000人に対して文科省側の今後9年間5500人程度と、求める教員の削減数にあまりにも開きがあり過ぎる。
9年間の削減数がどう決まったかは記事は書いていないが、来年度の削減数から推測できる。
馳浩が求めていた来年度60人の教員削減数に対して少子化等による学校や学級数の減少を踏まえて定数を4000人削減。
一方、貧困による教育格差等の課題への対応として特別配置の教職員を525人増の採用。差引き3475人の削減に決まった。
少子化が進んでいくと、年度を追う毎に削減幅が拡大していくだろうから、文部省側の9年間3万7000人の削減に近づいていくことになる。
記事は、〈この結果、教職員の給与などに充てる来年度の義務教育費国庫負担金は、今年度より13億円少ない1兆5271億円となりました。〉と解説している。
以上の顛末を見ると、馳浩が麻生太郎に完全に押し切られたように見える。何しろ教員削減要求数90人対削減決定数3475人である。勝負あった、麻生太郎の大勝ちといったところだろう。
だが、記事が紹介している閣僚折衝後の馳浩の発言は麻生太郎の大勝ちとは趣を異にすることになる。
馳浩「現場からの声を踏まえた措置だと考えている。再来年度以降の教職員の定数は、データを活用した学術研究や他国との評価も出して議論していきたい」
この「現場」とは教育現場のことを指すはずだ。
つまり来年度の特別配置の教職員525人増と差引き3475人の教員削減は財務省の公立学校関係の予算を扱う部署による教育「現場からの声を踏まえた措置」と言うことになる。
その部署が日本全体を通して教育現場を様々に調査、それら現場の声や状況を集約して決めたという意味であろう。
もし文部省側が調査した教育「現場からの声を踏まえた措置」と言うことなら、9年間で5500人程度の削減、来年度60人削減か、それに近い削減ということでなければならない。
本来、馳浩が踏まえなければならないのは文部省側が調査した教育「現場からの声」でなければならないはずだが、それが財務省側が調査した教育「現場からの声」となっていて、その声を受入れ、その声にある意味正当性を与えている
いわば自らの正当性をいともあっさりと放棄している。でなければ、「我々が調査した現場の声を踏まえて貰えなかったのは甚だ残念だ」、あるいは「我々の主張が認められなかったのは遺憾だ」といった趣旨の発言をしたはずである。
このような財務省側の主張に立った自らの正当性のいとも簡単な放棄は閣僚折衝の場で単に文科省を代表する馳浩が財務省を代表する麻生太郎に簡単に押し切られたということでは決してなく、閣僚折衝とは単なる形式であって、財務省側と文部省側との間で既に教員削減数を取り決めていて、それを公表する場が閣僚折衝ということであるはすだ。
馳浩は財務省側と文部省側との間で教員削減数を取り決める前に文部省側が決めていた9年間で5500人程度の削減、来年度は60人の削減という人数とスケジュールを発表済みであったために仕方なく掲げることになったのだろう。
だから、財務省側と削減数に大きな開きを見せてしまうことになった。
もし取り決めていなかったとしたら、財務省側の削減数はとても受け入れることも、簡単に押し切られることもできない数字となる。
要するに閣僚折衝とは名ばかりで、前以て取り決めたことを公表する馴れ合い芝居の場であった。
そのことを容易に理解させてしまう馳浩の発言となっていたということになる。
簡単に底が割れてしまう発言をするということは言葉の能力の問題であり、そのことはそのまま言葉を武器とする政治家としての能力に関係していく。
当然、言葉を理解し、自らの言葉と相互に響かせて新たな言葉を創造する教育にも通じる政治家の言葉の能力を欠如させているということは、欠如とまでいかなくても、未成熟、あるいは不完全であるということは特に言葉に関係する教育全般を扱う行政に携わる文科相という職に相応しいとは決して言えない大臣失格者と見做さないわけにはいかない。