菅首相夫人が昨日、公の場でご亭主の「疎い」発言を再度取上げた。
先ずは広く知られている菅首相の「疎い」発言が飛び出した経緯を。1月27日にアメリカの格付け会社「スタンダード・アンド・プアーズ」が日本国債の長期格付け引き下げを発表した。その夜の首相官邸で記者団から「どう受け止めているか」の質問を受ける。
菅首相「今、初めて聞きまして。本会議から出てきたばかりなのでちょっと、そういうことに疎いんでちょっと、改めて」(asahi.com)
当然マスコミだけではなく、野党もその発言を問題視しした。「疎い」はその方面の知識に欠けるという意味だからだ。一国の首相を務め、首相に就く前は財務大臣を例え短い期間であっても経験している。立場上、決して「疎い」知識であってはならないはずだが、「疎い」と自ら告白した。
マスコミや野党が「疎い」発言を問題視し出すと、菅首相は「本会議から出た直後で、格付けの変更を聞いていなかった。『疎い』というのは情報が入っていなかったということだ」(asahi.com)と、「疎い」発言の正当化に打って出た。
この正当化は無理があり過ぎ、こじつけ、牽強付会だとの情報提供となって、却って新たな騒ぎをつくり出すことには役立った。
警察は犯罪捜査で容疑者が浮かんだ時点でその容疑者の犯罪歴を調査し、前科のあるなしを参考に現在の人物像を浮かび上がらせる参考とする。マスコミは社会的に地位ある者が何か問題発言をしたとき、同じ件に関して過去にどのように発言していたかを調べ、現在の発言との整合性や所以を問うといったことをする。
菅首相は自身の《オフィシャルサイト》に小泉自民党首相時代の2002年5月31日、国債の格下げに関して次のような文章を残している。
〈日本の国債に対するムーディーズの格付けが二段階下がった。景気回復が見込めず財政悪化に歯止めがかからないと見られた結果。日本の国債はほとんどが日本国内で消化されその多くは銀行が買っている。通常なら格付けが下がれば国債も下がるのだが銀行は資金運用先が国債以外に無いため、国債の価格が下がらないという奇妙なことになっている。外国に資金が流出し始めれば一挙に国債は暴落する恐れがある。能天気な総理や財務大臣には分かっているのだろうか。 〉――
当然、公の場で機会あるごとにこのような発言でもって自民党政権の攻撃に使ったはずだ。
「能天気」という批判の言葉まで使ったのだから、自身はどのような場合でも能天気であってはならない。能天気であった場合、過去の言葉の正当性を失う。
マスコミはこの過去の発言を捉えて、それとの関連でも菅首相の今回の発言を問題とした。
発言の形を取る場合も含めて言葉は広い意味でのその人の思想を表す。当然、言葉についてあれこれ言うのはその人間の人格、あるいは専門の才能としている場合のその資質や資格を問うことにつながっている。政治を才能とし、政権運営を才能としている人間が国債の格下げに関して「疎い」としたことは政治的人格の面でも政治的資質の面でも果たして適切だろうかと。
勿論、「疎い」発言に限ったことではなく、首相の才能としてはふさわしくない参院選前の不用意な消費税発言、それ以後の終始一貫しない消費税の形式に関する発言、内閣発足後半年間は「仮免許の期間」とした発言、党内で議論もせず、韓国と話を通じさせていない状態で朝鮮半島有事の際の拉致被害者救出に自衛隊機を韓国に派遣して北朝鮮に入るとぶち上げ、党からは議論していない、韓国からは拒否反応を示されことも首相としての資質にクエスチョンマークをつけさせたたはずだ。
「疎い」発言にしても、この政治的人格や政治的資質に対するクエスチョンマークの文脈で把えられていたということである。
しかし菅首相夫人は身贔屓からか、「疎い」発言をこの文脈で把えず、この文脈の外に置く“疎さ”を否応もなしに発揮している。
1月29日の京都外国語大学での講演での取り上げが最初だった。最初の注文を出した。《菅首相夫人「疎いじゃない、知らなかったと言うの!」》(asahi.com/2011年1月30日9時33分)
記事は書いている。首相夫人は〈茶道藪内流の師範で、演題は「茶の湯と私」。だが、首相に「家庭内野党」と呼ばれる血が騒いだのか、話題は政治に脱線。首相の発言を「批判」した。〉――
首相夫人「『疎い』なんて言うんじゃない、『知らなかった』と言うんですよ、と(首相に)言いました」
首相夫人「あの人はおっちょこちょいなんです。トップになったら、おっちょこちょいじゃすまないの」
同じ内容を扱った、《「おっちょこちょいでは済まぬ」=首相夫人も「疎い」に苦言》(時事ドットコム/2011/01/29-23:55)
首相夫人「あの人、おっちょこちょい。でも、トップに就いたらおっちょこちょいでは済まない」
首相夫人「疎いと言うんじゃなくて(格下げ情報を)知らなかったと言うんですよ。借金の方が収入より多い予算をずっと組んでいたら(格下げは)当たり前なんです。だからこそ、社会保障を考えるのに与野党を超えて一緒に協議しないと無理なんです」
首相夫人「(疎い発言ではなく)何とかそういう話に持っていけなかったのか。私が秘書官に付いているわけではないので」
最後の発言は記事はもどかしさを訴えたものだとしているが、実際には気の利いた第三者が手取り足取りしないと菅首相は首相としての態度を維持できないと、その欠格性の間接的訴えとなっている。小賢しく出来上がっているからか、そのことに気づかない「疎さ」を示している。
「おっちょこちょい」も欠格性の訴えそのものだが、「トップに就いたらおっちょこちょいでは済まない」と言いつつ、「おっちょこちょい」だからと、そのことを以って免罪を求める意識が否応もなしに働いている。
このことは「社会保障を考えるのに与野党を超えて一緒に協議しないと無理なんです」の発言にも現れている。「疎い」発言を与野党協議で差し引きゼロの免罪としようとしているが、問われているのは菅首相の政治的才能であり、政治的資質である。双方を欠いている首相が与野党協議を差配しても、指導力の発揮は期待不可能で、満足な結末を取らない可能性が立ちはだかる。
菅首相の指導力のなさ、与野党協議が満足な結末を取らない可能性は協議に入る前から野党に対して自分たちの方から野党案を取り入れて政府案を変える用意があることを発信している無節操な妥協からも窺うことができる。
いわば、「疎い」発言は政治的人格性や政治的才能の象徴的な一つの表れであって、発言のみにとどまらないということである。
だが、首相夫人はこう言うべきだったと注意したとすることで修正が効くかのような「疎い」発言を繰返している。
そして昨日の再度の取上げ、横浜市内で開かれた公開討論会出の発言。
《菅首相夫人、マスコミに注文》(時事ドットコム/2011年2月5日(土)22:03)
首相夫人「『疎い』(という表現)は何なのという感じで引っ掛かるが、格下げで日本が一体どういう状況になっているのかが大事。そのことにはマスメディアが触れない」
首相夫人「本当に菅直人が首相をやれるのかなと半分思いながら付き合っている。だけど、誰がこの時期にやれるんですか。今までずっと何人も(長期には)やれていない」
《菅首相:「疎い」発言で伸子夫人が忠告…会合で明かす》(毎日jp/2011年2月6日 1時20分)
首相夫人「疎いという言葉を使ったのはまずい。そのニュースを知らない、と言えばいい」
首相夫人「ボンボン(首相に)なっては降ろし、なっては降ろし、誰がこの時期に(首相を)やれるんですか。マスコミが持ち上げたりたたいたりにずっと付き合っていたら日本人は滅ぶ」
首相夫人「20年かかってこうなった日本が1、2年で変わると思わないでほしい」
《「疎い」はまずかったと伸子首相夫人》(MSN産経/2011.2.5 21:14)
首相夫人「疎いを使ったのはまずい。『知らない』と言えばいいと(首相に)言った」
首相夫人「このマスメディアに付き合っている日本人は滅びる。何度首相の交代を繰り返すのか」
首相夫人「20年かかってこうなった日本が、1、2年で変わると思わないでほしい」
《「事業仕分けなど実績も評価して」、菅首相夫人が支持訴える/横浜》(カナコロ/2011年2月5日)
首相夫人「政権交代からまだ2年弱で、長年変えられなかった日本の政治を変えるには時間と相当な力が必要。事業仕分けの実績や一括交付金導入なども評価してほしい」
首相夫人「『そのニュースは知らない』と言うべきで疎いと言ったのはまずかった。その部分だけを取り上げ、首相を持ち上げては辞めさせる風潮は日本を滅ぼす」
どの記事も菅首相がどう応じたかの言及はない。「MSN産経」記事が、〈首相の返答には言及しなかった。〉と書いているから、言及のしようがなかったわけである。
やはり身贔屓からだろう、今回も免罪意識を働かせている。首相夫人がいくらくどいくらい、例え百万遍も「疎いという言葉を使ったのはまずい。そのニュースを知らない、と言えばいい」と訂正を図ったとしても、菅首相の発言は記録され、多くの国民の頭に既に記憶されて事実として残ってしまっていて、言葉自体だけではなく、政治的人格性や政治的資質に対する疑問符も共に最早訂正不可能となっている。
だが、首相夫人本人は自分の発言によって訂正が効き、そのことが免罪として作用すると思っているからだろう、再度の擁護発言となった。「疎い」ばかりの状況判断となっている。
夫人は「事業仕分けの実績や一括交付金導入なども評価してほしい」とそれらを菅首相の功績としているが、「事業仕分け」にしても省庁の反撃にあって中途半端に終わっている点、「一括交付金導入」の場合は自由に使えると言いながら国の規制が残っている点に指導力を満足に発揮できていない状況を残していて、首相夫人の方から評価を求めるまでにいっていない。
免罪意識は「20年かかってこうなった日本が1、2年で変わると思わないでほしい」、あるいは「政権交代からまだ2年弱で、長年変えられなかった日本の政治を変えるには時間と相当な力が必要」の発言に最も現れている。「1、2年で変わ」りはしないのに、あるいは「時間と相当な力が必要」なのに早々と世論調査で何回も問い、支持率が低いだ高いだと大騒ぎすると暗に批判している。
「1、2年で変わ」りはしない、「時間と相当な力が必要」なのは事実言っているとおりで、誰もが承知していることだが、だからこそ、1、2年であってもムダにできない、無駄にしたのでは回復できるものもできなくなって勿体無いということになる。例え1、2年の短い間でも確固とした指導力を保持した強い覚悟を持った指導者に強力に改革を進めることが求められることになる。
首相夫人も「相当な力が必要」と言っている。
果して菅首相がその人にふさわしい「相当な力」、いわば指導力、広く言うと、政治的人格性や政治的才能、政治的資質を持っているかを問わなければならないことになる。問わないままに指導力、その他の資質を欠く政治家をリーダーに据えていたのでは1、2年をあっという間にムダに消費してしまうことになる。
問われるべきは「20年かかってこうなった日本が1、2年で変わ」りはしないといったことではなく、あくまでもリーダーの資質・才能である。「20年かかってこうなった日本が1、2年で変わ」りはしないからこそ、凡庸な指導者、先見性も計画性もない指導者、「政治は結果責任」意識を欠いた指導者とは正反対の指導者、あるいは「マスコミが持ち上げたりたたいたり」の安易な評価を下すのは畏れ多いとするような政治家こそがリーダーとしての全うな資格を得るのではないだろうか。
何が問われているのかも見通すことができずに、首相の「疎い」発言をさも免罪が効くかのように擁護し、「格下げで日本が一体どういう状況になっているのかが大事。そのことにはマスメディアが触れない」とマスコミまで批判している。
実際にはマスコミが取り上げていないわけではない。ほんの2例を挙げるが、《8年ぶりに日本国債を格下げ、「政府債務比率がさらに悪化」と予測 - S&P》(マイコミジャーナル/2011/01/28)、《歳出・歳入両面から改革進める、国債格下げで野田財務相》(ロイター/2011年 01月 28日 10:35)、その他特に経済紙は取上げているはずである。
「そのことにはマスメディアが触れない」は夫人が疎いだけのことだろう。
これまでブログに散々書いてきたが、「首相がコロコロ変わるのはよくない」という基準で選ぶのではなく、あくまでも指導力を基準に選ぶべきだった。だが、民主党内の多くの議員もマスコミも国民の多くも“疎いことに”「コロコロ」否定を基準とした。
そのしっぺ返しが今始まろうとしている。
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