まず橋下の当選。ただでさえ有名タレントが選挙に強い日本国にあって吉本興業のお膝下、お笑いタレントエリアだけのことがある。80万票近い差の圧勝とテレビが報じていた。
残念ながら民主党候補熊谷貞俊には63歳という年齢もあるだろうが、大衆受けする華やかさが橋下に比べて劣っていた。
選挙戦最終日の土曜日には実質自公推薦の橋下にお笑いタレント出身東国原そのまんま東宮崎県知事が応援に駆けつけた。このことは橋下を応援したのと同時に自公を応援したことを意味する。この事態を占うと、今後限りなく自公化し、宮崎県議会の与党である自公の力を借りて彼らの要求を受け入れつつ、その見返りに自分の名を売る政治を一つ程度実現させてもらうといった取引政治に走るように思えてならない。
東国原知事就任から1年のこれまでの実績は殆どがお笑いタレントとしての資質が実現させた成果のみで、政治家としての資質は未だ成果を発揮できずにいる。未到達の成果を埋め合わせるための手打ちが自公化ではないかという予測である。府知事選橋下応援でPRや宣伝に供するタレント性のみでは財政再建の力とはなり得ないにも関わらず、「大阪を宣伝できるのは誰なんですか、大坂をPRをできるのは誰なんですか。橋本さんしかいないんじゃないですか」とそのタレント性のみを力とする訴えをしていたのも、同じタレント出身(橋下は弁護士でもあるが)でタレント性を頼みとしている同列意識が言わせた言葉なのだろう。
人間の才能(=タレント)は常に人格(=キャラクター)を伴うとは限らない。往々にして才能のみでその人間の人格までが価値づけられる。例えば野球や大相撲、ボクシングその他のスポーツの世界では、ボクシングとかで仕組んだ対戦を含んでいても、それが露見するまでその人間の人格までが成績の形で現れる才能によって価値づけられがちである。
会社員も所属する会社での仕事の成績によってそれぞれの才能が評価され、余程の正体を現さない限り、その才能を以ってその人格までが価値づけられる。
映画俳優やテレビタレントは自らの演技の才能のみによって形作られるのではない、物語の脚本によっても色づけられ、監督の指示によっても上塗りされる出演キャラクターの人間性によってその人間の人格まで往々にして価値づけられる。
出演キャラクター=人格となっているから、悪役専門の役者の場合はその子供が学校で「お前のお父さんは悪者だ」といったいじめを受けることになる。いつも素敵な妻役演じている女優が実際に結婚してイコール素敵な妻となり得ず、失格者となることも生じる。
政治家の場合は利害集団のよき代弁者足り得ることによっても手に入れることができる当選回数や役職の歴任を以ってその人間の才能とされ、その才能によって人格を含めた人間全体が価値づけられる。その食い違いによって当選回数を重ねて大臣に登りつめた政治家が世間向けの才能を裏切って「女は産む機械」といったホンネの正体を曝すことになり、見せ掛けの人格だったことが判明したりする。
お笑いタレント、お笑いタレントでなくてもテレビに出演して笑いを取ることを得意とするお笑いタレントまがいの橋下のようなテレビタレントに対して笑いの才能(=タレント)によって表現されることになる笑いを演じるキャラクターを実際のキャラクター(=人格)と価値づけてしまう過ちを犯しがちとなる。
その過ちが、参議院議員を2回務め、大阪府知事となり、2期目を235万票の圧勝で当選しながら、選挙中に女子大生運動員へのセクハラ行為で民事裁判での有罪、さらに強制ワイセツ行為での在宅起訴を受けて辞任するお笑いタレント出身の横山ノックのようなお笑いのキャラクターとは異なるキャラクター(=人格)を曝す事件に驚くことになるといった事態を引き起こすことになる。
今朝(08.1.28)の「日テレ24」が当選した橋下に10の質問をぶっつけていた。
「やしきたかじんが対抗馬だったら、勝てなかった」
――○と×の札を同時に上げる。
「実は結構前から政治家になろうと思っていた」
――首を傾げてから、×の札。
「若い女性から人気がある」
――成人式出席の和服の女性が選挙運動中の橋下にキャーキャーと駆け寄る
シーンがあったにも関わらず、×の札。
「選挙でお世話になった自民党・公明党には頭が上がらない」
――少し考えてから。×の札。
「橋本さんの当選で大阪は2万パーセント元気になる」
――○の札。
「色んな意味で東国原知事には負けない」
――同時に○と×の札。
「最近本音を言いたくてウズウズしている」――×の札。
「休日くらいはサングラスで過ごしたい」
――×の札。
「そろそろ8人目(の子供)を考えている」
――同時に○と×の札。
これは大阪府知事という地方自治体の首長に当選した人間にぶっつける質問ではなく、あくまでもタレントに向ける言葉であろう。橋下を依然としてタレントとして見、タレントとして扱っているからこそできる質問である。その方が大衆受けするからでもあろう。いわばテレビタレントのタレント(=才能)は深く大衆性と関わってそのキャラクター(=人格)へと橋渡しされていくことの証明でもある。
余程注意深く人間を見つめないと、才能(=タレント)を以ってキャラクター(=人格)とする過ちから抜け出れないことになる。
次に初場所千秋楽で1敗同士で優勝決定戦となった朝青龍対白鵬は白鵬の上手投げで賜杯を手にした。
元々不遜なところが生理的に受付けなくて朝青龍のファンではないし、白鵬にしてもミニ朝青龍の傾向があるように思えてファンでもないが(モンゴル勢では旭天鵬のファン)、しかし今回は朝青龍に優勝して欲しかった。怪我を理由に巡業を休み、その間モンゴルに帰国してサッカー試合に興じたことが世間の批判を浴びて2場所休場の処罰を受けた。
朝青龍のその態度を非難することで自らを何様の正義漢のキャラクター(=人格者)に仕立て、正義漢のキャラクターと化し、エセ正義感を満足させたテレビに出演のコメンテーターとか著名人とかがどれ程いたことかうんざりしていたから、そういった連中に一泡吹かせるためにも朝青龍に優勝を願うようになった。
だが願いは叶わず、白鵬の優勝となって、テレビに引っ張り凧となるから演じていたに過ぎない見せ掛けのキャラクター(=人格)を持ったエセ正義漢たちを満足させたに違いない。優勝が決定するまでヒヤヒヤしていただろうが、朝青龍が優勝を逃したことで怒りも露の正義漢を演じた手前、ほっとしたことだろう。
尤も2場所も休場して、その影響を引きずらずにあっさりと優勝したなら、慢心が募って土俵外でもしもの不届きな行為に及ぶようなことがあったなら、再びエセ正義漢たちを元気づけ、テレビで鼻持ちならない正義の言葉を野放し状態にさせることになる。そう思い直して、何様の正義漢たちを喜ばせた残念は忘れることにして優勝逃しを受け入れることにした。
最後に何様の正義漢を演じたタレントたち――やくみつる、内舘牧子、元NHK相撲解説者・杉山邦博、みのもんた、元大相撲力士・現タレントの竜虎、ビートたけしの兄、その他ワイドショー番組出演のコメンテーターetc.etc。