渡辺喜美の「愛の構造改革」と安倍晋三の「美しい国」

2006-12-31 08:30:26 | Weblog

 客観的認識性がゼロだから言える「愛」と「美しい」

 政治資金収支報告書虚偽記載疑惑で辞任した佐田玄一郎前行革相の後釜に渡辺喜美氏が就任した。二世議員。父親は総理・総裁を狙っていたが最後まで夢を果たせなかった男で、一癖も二癖ありげだった金権体臭プンプンの政治家、というよりも政治屋に近い印象だった渡辺美智雄元外相。

 渡辺美智雄の「アメリカの黒人は破産してもアッケラカンのカーだ」の差別発言で内外から非難を浴びた前科は、「アッケラカンのカー」を政治家としてはあってならない黒人すべてを一律・同質に扱って人種的特質と見なす、そのことを何とも思わない客観的認識性の欠如を示すものだろう。

 新聞・テレビは金権体臭プンプンといった皮肉な人物評は行わない。「父親譲りの歯にきぬ着せぬ発言」とか、「父親似の歯切れのいい語り口」とか、渡辺喜美を評価することで、父親を豪放磊落な性格の持ち主であるがごとくの印象を与えている。まさか「アメリカの黒人は破産してもアッケラカンのカーだ」を「歯にきぬ着せぬ発言」のうちには入れてはいないと思う。

 安倍首相は渡辺氏の起用理由について「自民党行政改革推進本部の幹事を長く務めて、詳しい知識を持っているし、突破力がある。行革には突破力が必要で、そこを見込んだ」(06.12.28/19:52/読売新聞)ということだ。

 私自身には渡辺喜美の体型から判断して一部体育会系の「突破力」ということなら理解できるが、知能的な「突破力」は想像することはできない。

 タウンミーティングのヤラセ質問問題ではテレビで、「ちょっとお粗末ですね。タウンミーティング全部がこんなヤラセではないと思いますが、たまたま文部科学大臣がご出席されるってんでね、まあ、そういう方面の人たちがこういう文書をつくって流したんでしょうけどね」と「たまたま」の偶然とすることで、計画性の否定、一部の不作為的・恣意的独走行為だと「父親譲り歯切れのいい語り口」を駆使して限りなくちょっとした問題だと見せかける身内庇いの罪薄め・火消しをやらかせていた。知能的な「突破力」を持った人間のすることだろうか。

 身内庇いの意識が先ず働き、そのためにはご都合主義の解釈を臆面もなく優先させて、事実はどうなのかの解明姿勢をケロッとした顔で無視し、〝事実〟そのものまでを無視する。

 これは学校や教育委員会のいじめの事実の有無の検証よりも先に「いじめの事実はなかった」とする責任回避・事実無視を優先させるのと同じ姿勢だろう。

 事実無視は客観的認識性の欠如をベースとして可能となる姿勢であるが、このような事実無視・客観的認識性の欠如は就任の記者会見の言葉にも表れている。

 ――「しがらみとなっている制度、規制をこのまま放置すると税金が余計にかかり、将来の(国民)負担になる。愛の構造改革をやっていく」と抱負を述べた。天下り規制見直しなど公務員制度改革については、「公務員に誇りとやる気を持って働いてもらう必要がある。将来を見据えてこれから詰めていく」(同読売新聞)――

 「愛の構造改革」とは、これまた臆面もない。安倍晋三の「美しい国」と同じで、情緒的なアプローチ(認識態度)ではたいした期待もできない。精々官僚の政策の上に乗っかるぐらいではないだろうか。その証明として、今まで日本の過去の歴史をすべて振り返って、「愛」だ、「美しい」だと価値づけることができた政治が一度でも存在しなかったことを挙げることができる。美しい言葉を並べることはできる。だが、その美しい言葉どおりの世界を現実に遍く反映させ、美しい言葉どおりの世界を実現させることが一度でもできたことがあっただろうか。

 過去にはなかったが、未来世界では実現可能だとするのは人間の現実を知らない客観的認識性ゼロの人間が言うことである。

 「愛の構造改革」とはすべての国民に等しく恩恵を与える「構造改革」を言うものでなければ、「愛」なる形容詞を冠することはできないはずである。一部にのみ利する「構造改革」であったなら、「愛」とは言えないだろう。小泉式「構造改革」はまさに高所得者・大企業といった一部に利する「愛」なき構造改革であり、「愛」もなく一部にのみ利したからこその格差社会という美しい答を導き出すことができた。

 また「美しい国」とは格差という矛盾のない国を目指すことを意図した政策だろう。そうでなければ、「美しい」国にはなり得ない。格差がなければ、犯罪は起こりにくいし、格差とは反対の平等を大切にするために国民はこぞって規律を持って生きようとするだろう。小泉政治の否定が「美しい国」なのである。

 だが、如何なる時代であっても、矛盾のない社会は存在しない。美しい言葉どおりの世界を現実に遍く反映させ、美しい言葉どおりの世界を実現させることが一度でもできなかった当然の因果性としてある矛盾世界であろう。当たり前のことでしかないが、正義とか善とかは地位や立場によって異なってくるから、そこに矛盾が生じることになる。ある勢力にとって正義であり、善であることが、立場や地位の異なる勢力にとっても正義であり、善であるとは限らない。

 いわば全体にとっての絶対正義など存在しない。絶対善も存在しない。絶対正義・絶対善を実現させるだけの力を人類は有していない。永遠に獲得することもないだろう。当然、全体をプラス・マイナスに分ける。独裁者サダム・フセインの死刑はシーア派にとっては正義であっても、多くのスンニ派にとっては不正義とされるに違いない。

 全体にとっての絶対正義・絶対善が存在しない以上、すべての国民に等しく恩恵を与える「愛の構造改革」など実現させようがない。どのような「構造改革」であろうと、全体をプラス・マイナスに分け、格差、その他の様々な矛盾の発生は避けがたい。だが、政治は矛盾をつくる営みであってはならず、矛盾をなくすことを役目としているはずである。しかし人間には矛盾を完全になくす創造性を持たないとなれば、矛盾を如何に最小限にとどめるかを目標及び役目としなければならない。

 それを政策者の条件として自らに課さなければならない。政治を含めた人間の創造性の限界への厳しい認識を持って、初めてその条件を自らに課すことが可能となる。

 再び、如何なる時代であっても、矛盾のない社会は存在しなかったという言葉に戻らなければならない。「愛」だ、「美しい」だといった政治は実現させようがないのだから、禁句としてのみ存在する言葉としなければならない。政策者の条件としなければならない客観的認識性をまったく欠いているからこそ言える奇麗事であろう。

 渡辺喜美の「公務員に誇りとやる気を持って働いてもらう必要がある」の「誇りとやる気」にしても、問題がどこにあるのかを見る目(=客観的認識)を持たなければ、「愛」とか「美しい」といった言葉と同じく、単なる情緒的抽象語で終わる。

 下は上を見習う。政治家が官僚の手を借りなければ国会答弁もできず、政策らしい政策づくりもできない情けない姿を曝していながら、国会議員の先生です、大臣ですと何様顔にのさばり、懐を肥やしているのに、下に対してのみ「誇りとやる気」を期待するのはお門違いというものである。

 官僚の世界でも、一般官僚たるノンキャリアと高級官僚たるキャリアの世界は別で、キャリアが外部からの接待や贈答でうまい汁を吸い、退職後には天下って経済的にも何様的にも万々歳の生活を送っていく姿を目の当たりに見せつけられて、ノンキャリアたる下が「誇りとやる気」を発揮できると思っているのだろうか。自分たちなりに可能となる、裏金をプールして飲み食いに使うといった甘い汁吸いにせっせと精を出す下、上を見習う式責任意識しか望めないだろう。

 国会議員のセンセイ方たちが官僚の手を借りずに自らの力で政治を行う「誇りとやる気」の自立(自律)を果たしてこそ、下の者にしても上の者を見習って「誇りとやる気」の自立(自律)を果たさざるを得なくなる。

 政治家が自らの手で政治を行うことによって、今まで煩わせていた官僚の手を省くことになり、公務員の数も減らせる。

 安倍首相にしても渡辺行革相にしても、言葉は巧みに操ることはできても、事の実際は所詮官僚の手を借りて、あっちから1を加え、こっちからも1と、それを足して2とするような政策しかできないのではないか。人間営為に関わる客観的認識性と政治家自身に対する自己省察能力を欠いていても到達できる政策地点だからである。

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