「朝日」に次のようが記事が出ていた。「久米さん10年後の謝罪 Nステで『外人の日本語は片言がいいよね』」(06.12.21/夕刊)
内容は見出しから推察できるとおり、日本語を流暢に操る外国人に対する感想として久米宏が「外人の日本語は片言の方がいいよね」と喋ったことに対する「米国出身の有道出人(あるどう・でびと)」氏の抗議と「10年後の謝罪」美談(?)というわけである。その一部始終のイキサツは有道出人氏のHP「Arudou Debito/Dave Aldwinckle's Home Page」 に掲載されている。かいつまんで紹介すると、
「あるインド人が非常にお上手な日本語でしゃべ(っ)たようです。
その後、久米さんはこうおっしゃったそうです
『しかし、外人の日本語が片言がいいよね』」――
テレビ朝日に直接電話して抗議したところ、応対した者が「『片言は悪い言葉だと僕は思わない。あんただけだよ。』」と答えたという。
それが突然「10年後」に久米宏から謝罪のメールが届いた。その内容を引用すると、
「突然のメールで恐れ入ります。
私は、3年前までニュースステーションという番組に出演していた
久米宏と申します。
10年ほど前の話で恐縮ですが、
私が番組の中で、「外国人があまり日本語がうまいのはどうも・・・」
という趣旨の話をして、
それに対して貴方様が抗議の発言をしていらっしゃるのを最近知りました。
その時の状況は覚えています。
その方は、とにかく物凄く日本語が上手で、
あまりのうまさに驚いて、やはり外国の方は、外国人だと分かる日本語を話して
くれないと困る、というニュアンスで僕は話した記憶があります。
しかしながら、良く考えてみると、これはかなり失礼な発言だと思います。
いわゆる「島国根性」の視野の狭さ、と反省しています。
もし不愉快な思いをされたら、今頃何をとお思いでしょうが、
心からお詫びします。
久米宏。」――
有道出人氏は 「いつもテレビ朝日のニュースステションを拝見し、久米さんのざっくばらんのスタイルは非常に爽やかだと思います。」と久米宏に「片言」発言以外は好印象を持っている。また「私から皆様にお伝い(し)たいのは、久米宏さんは非常に良心的な方なので、いくらでも過去なことがあってもかかわらずきちんと責任を取ろうとしていますね。私から心から感謝いたします。どうもありがとうございました!」と、久米の〝潔さ〟を褒め称えている。
果して〝潔い〟とすることのできる「謝罪」なのだろうか。久米宏は自らの過ちを「『島国根性』の視野の狭さ、と反省しています。」と一般化している。一般化で済ますことができるだろうか。ごくごく平均的な一市民であったなら、その発言はその者が活動する狭い世界にほぼ限られる。インターネットで発信したとしても、その匿名性、もしくは無名性によって、流布の制限を受ける。
だが、久米宏は一つのテレビ局の視聴率高い、その高さに比例して社会的に広範囲に影響力を持っていると言える報道番組の〝顔〟として、長年ニュース報道に携わってきたのである。影響力の獲得は信頼の獲得に比例する。そして信頼は常に正当性をバックボーンとすることになる。正当性を失ったら、信頼されず、信頼されなければ、影響力を失う逆のプロセスを辿る。その発言・態度に正当性あるものとして信頼されていたからこそ、高視聴率を維持できたのだろう。
私自身は現在以上に以前はニュース番組や報道番組にチャンネルを回すよう心掛けていたが、久米宏の物言いが表面的、皮相的に思えて、いわば軽薄そのものに思えて神経が苛立つことが多く、単に事実を知ることを必要とした数回程度しか覗いていない。現在の司会者もその強すぎる何様意識が生理的に受けつけず、交代した当座、試しに覗いた程度で、最後のプロ野球ニュースぐらいはほんの数回覗いてはいるが、最後にチャンネルを回したのはいつのことか、覚えてすらいない。
いずれしても社会的影響力を持った者の発言である。どのようなものであっても、自分の発言・主張・見解が瞬時を置いて全国に流れ、多くの人間の思考に正当性と信頼性を裏打ちした影響を与えることを常に自覚していたはずであるし、自覚していなければならない立場にあったはずである。
そして現在でも報道人としての立場で活動している。それを可能としている要素は、社会的信用にまで高め、さして失わずに維持している正当性と信頼性を成果とした社会的影響力であるはずだし、そのことの証明でもあるだろう。
このことを裏返すなら、テレビカメラの前に顔を曝すことになる最初から「『島国根性』の視野の狭さ」に侵されることはいっときでも許されない立場に立たされていたのであり、現在でも同じ立場に依然として立っていて、そのことを常に自覚して自らを律するのが自らに課すべき責任と義務でもあるし、自己の立場上の社会に対する責任と義務でもあろう。
そうであるのに失言の原因を「『島国根性』の視野の狭さ」とし、それで済ませてしまっている、この安直さ、無神経、無感覚はどのような責任と義務の感覚からきているのだろうか。
もしも「『島国根性』の視野の狭さ」を久米宏が資質としているとしたら、それはすべてに反映されるだろから、一部の資質に過ぎないとすることはできず、その上報道人としてはあってはならない資質である以上、有道出人氏のように朝日テレビの「ニュースステション」の久米宏に好感を持ち、番組に親しんできた多くの人間が実際は「『島国根性』の視野の狭さ」を内に隠した人間の発言・主張・見解に、それがもっともらしく繕った見せかけであることに気づかずに正当性と信頼性を与えつつテレビ画面を通して接していたというパラドックスを滑稽にも演じてきたことになる。
私自身としたら、元々信用していなかったし、それとなく感じていた胡散臭さが証明された形だが。
抗議に対して応対に出たテレビ朝日の人間の「『片言は悪い言葉だと僕は思わない。あんただけだよ。』」は、「片言が悪い」と言っているのではなく、「外人は片言の方がいい」という束縛意識を問題にしたのだろうから、筋違いの自己正当化であり、相手に対して見当違いな冤罪を犯したことになる。
外国語を話し始めるとき、誰もが「片言」から出発する。日本人も例外ではない。いきなり流暢に喋れる人間などいないだろう。それを「悪い」とすることは誰もできなし、誰も「悪い」としないだろう。そのくらいのことも咄嗟に頭に回らないような人間が天下の朝日テレビで電話の応対に出る。そのことも驚きである。
束縛意識は抑圧意識を背景とする。軽い気持ちで言ったとしても、流暢に日本語を話す多くの外国人を直接・間接に見てきてもいるはずで、そのことに棹差す要求となっているのだから、「片言」に抑えておきたい欲求に衝き動かされた「片言の方がいいよね」であったろう。ニュース報道で正義の人を演じ続けている間に「島国根性」の一変形でもある何様意識の権威主義に侵されて持つに至った無意識の権力意志が、干渉できるはずもない外国人の言葉遣いに強制意識を滲ませた干渉を行ってしまったのではないだろうか。
かなり前に新聞記事で知ったことだが、嫁の来てがないまま中年に達してから結婚紹介業者の仲介で韓国人女性を妻とした日本人男性が、妻に外に出ることを許さず、人前で彼女の母国語である韓国語を喋ることも禁じたそうだ。名前も日本風に改名させた。彼女は流暢に日本語を操れるようになるまで、片言の日本語も使わせてもらえなかったに違いない。見事なまでの強制性・独善性である。
韓国人女性を妻にしたのは、顔だけでは外国人と見分けがつかなかったからだろう。しかし一言でも喋れば、日本人でないことが露見してしまう。それを隠そうとするのは韓国人女性を妻としたことを恥ずかしいとしているからで、韓国人を下に見る権威主義的な差別意識からの隠蔽であろう。もし白人女性だったら、見せびらかし歩いたに違いない。島国に住むことで育むこととなった「島国根性」が日本型の独善的な権威主義を行動様式とさせるに至っている。