12年前も当時の文部省は対策を講じるべく、教育再生会議ならぬ「いじめ対策緊急会議」を設置、「養護教諭の役割の強化や、『開かれた学校』を目指して家庭や地域と一体となった取り組みなどを求める報告書を正式にまとめ、与謝野馨文相に提出した」(1995.3.14.「朝日」)と新聞に出ている。
一定の年数を置いてのいじめの社会的問題化自体が同じことの繰返し、あるいは堂々巡りであるのに対して、対策にしても同じことの繰返し、あるいは堂々巡りを演じているのではないかと思えるから、参考のために「報告書」のうちの「基本的認識」部分の要旨だという記事に出ていた箇所を引用してみる。
「1.いじめられる側にもそれなりの理由があるとの意見が見受けられるが、いじめられる側の責に帰すことは断じてあってはならない。いじめは人権に関わる重大な問題である。いじめる側が悪いのだという認識に立ち、毅然とした態度で臨むことが必要である。社会では許されない行為は子供でも許されない。傍観したり、はやしたりする者がいるが、こういった行為も同様に許されないとの認識を持たせることが大切だ。
2.いじめは外からは見えにくい形で行われる。いじめられている子供も、恥ずかしさや仕返しを恐れるあまり、尋ねられても否定することが多い。従って、子供の苦しみをを親身になって受け止め、子供が発する危険信号をあらゆる機会を通じて鋭敏に把えることが大切である。その際、いじめかどうかの判断は、あくまでもいじめられている子どもの認識の問題であることを銘記し、表面的な判断で済ませることなく、細心の注意を払うことが不可欠である。
3.いじめは弱い者、集団とは異質な者を攻撃、排除する傾向に根ざして発生することが多い。特に学校では、教師が単一の価値尺度により児童生徒を評価する指導姿勢や何気ない言動などに大きなかかわりをもっている場合があることに留意すべきだ。子供一人一人を多様な個性を持つ、かけがえのない存在として受け止め、教師の役割は児童生徒の人格のよりよき発達を支援することにあるという児童生徒観に立つ必要がある。
4.いじめ問題では、親や教師などの関係者が責任を他に転嫁しあうという形で議論が拡散し、対応に実効性を欠くきらいがあった。最も大切なことは、関係者が一体となって問題に取り組み、早急な解決を図ることである。
5.家庭は子供の人格形成に一義的な責任を有しており、いじめ問題の解決のために重要な役割を担っている。各家庭において、家庭の教育的役割の重要性を再認識することが強く求められる」
最後の「4」の家庭に関わる提言(家庭教育の重要さの訴え)は、安倍新教育基本法が既に同じことの繰返し、あるいは堂々巡りを演じている。提言が何ら役に立たず、12年前と同じ状況が続いていたのである。ということは、提言が提言で終わっていたと言うことだろう。再び同じことの繰返し、あるいは堂々巡りが演じられない保証はどこにもない。提言が常習化し、提言とは提言で終わるを原則としかねない。その恐れがあるとしたら、「教育再生会議」などタウンミーティングと同じで時間とカネのムダ遣い、「いじめ対策緊急会議」の「報告書」をそのまま借用すれば済むことではなかっただろうか。
教育再生会議の総会が29日安倍総理大臣も出席して開催される。NHKの夜7時の「ニュース7」で振り返ってみる。
学校や教育委員会、向けた緊急提言。
①いじめる側の子どもに対して指導や懲戒の基準を明確に
し、毅然とした対応を取るとこと、
②別の教室で教育したり、社会奉仕をさせたりするなどの
対応
③子供や保護者が希望する場合はいじめられていることを
理由とする転向が制度として認められていることの周知
徹底。
いじめる側の子供への対応としては、
①出席停止を緊急提言に明記することが検討されたが、慎
重論があって、見送られたこと。
②いじめに関わったり、放置や助長した教員に懲戒処分を
適用すること。
③教育委員会がいじめを解決するためのチームをつくって
学校を支援すること。
保護者に対して、
①家庭の責任は重大だとして、保護者が子供にしっかり向
き合わなければならないことの要求。
これは既に指摘したように安倍新教育基本法の「第10条 父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有する」に重なる提案であり、前回の「いじめ対策緊急会議」の「基本的認識」に於ける「家庭は子供の人格形成に一義的な責任を有しており」の箇所の単なる繰返しであろう。
具体的方策として「朝日」によると、「家族の日」を創設して家族一緒に夕食を摂ることや、両親が子どもに読み聞かせをしたり、子守唄を歌ったりすることのススメを提案している。
「家族の日」を設けなくても、子供が小学生の間は一般的には家で一緒に食事を摂り、休日などには回転寿司や焼き肉店、ステーキハウス、ラーメン店といった場所に出掛けて家族揃っての食事を摂ることをする。家族揃っての外食は親子にとって特別の日であり、このような特別の日をつくることは正月になると親が子どもにお年玉を与えると同じくらいに時代的な親の義務・慣習となっている。
だが、子どもが中学生、高校生となるに従って親を敬遠するようになる。いわば小学生の間は通用した親子一緒の食事・外食が中学生、高校生になると通用しなくなる時代的状況をどうするかが問題となる。
小学生の間は通用した親子一緒の食事が、例え特別の日の外食であっても、お互いに単に食べ、味わい、腹を満たすだけのことに専念するばかりで、親子の会話が「どうだおいしいか」といった程度では、食事代金を自分調達できる年齢に達したなら、何も親と一緒に食事する必要は生じなくなる。
あるいは家で親が子どもと一緒に食事をしながら、「今日は何か学校であったか」といった、いつも決まりきった問いかけしかできなければ、「何か」ない日の方が多いだろうから、小学生の間は機械的に答えるだろうが、中学生、高校生となると答えるのが面倒臭くなって、無視することの方が多くなるに違いない。
あるいは子どもが学校であったことを親が問いかけるままに生真面目に答えたとしても、それがあったことをそのまま伝える事実のなぞり(=あったことのなぞり)であるなら、親のそういった習性を受け継いだ姿であるだろうから、親子共々のそういった機械性からはお互いにたいした刺激は期待できようもなく、次第に会話がなくなると言う同じ運命をたどることになるのだろう。
会話があったことのなぞり(=事実のなぞり)を習慣としているのは学校社会で教師が教科書に記されていることで一つの事実と化している知識をなぞったまま伝え、生徒がそのままに受け止める双方向の事実のなぞりに現れているし、サラリーマンが同僚と外で酒を飲み食事をしても、会話の内容が会社の人事(同僚同士の事実)に限定されると言われていることにも現れている。
親があった事実から他人にはない自分なりの言葉(=情報)を紡ぎ出す力があってこそ、他人にはないその新鮮さが子どもの関心・興味を刺激して知識欲を引き出し、同時に言葉を紡ぎ出す力が子どもにも伝わり、つむぎ出し合ったお互いに相手にはない言葉が相手にはないことが理由となって、相互の会話を刺激し、発展させていく。当然意味ある会話・言葉のやり取りとして、記憶にも残る。
親子をつなげる核は何か。それはコミュニケーションを於いて他にないだろう。勿論コミュニケーションは会話だけで成り立つものではない。無言の態度といったものも含まれる。例え意見が合わなくても、コミュニケーションを持つ関係が維持できている状況こそ、信頼を失わないでいる関係でもあるだろう。
そのためにこそ、両親が子どもに読み聞かせをしたり、子守唄を歌ったりする原因療法となるススメを提案していると言うのだろうが(学校に対しては朝10分間の「読書の時間」の創設を提案している)、読み聞かせや子守唄の素材から親が自分なりの言葉、あるいは情報を紡ぎ出して、子どもに伝えることをしなければ、単に読み、歌うだけといった、素材に頼るだけの機械的なコミュニケーションで終わることとなり、10何年かのちに再び何々会議を開催して緊急提言なるものを纏める同じことの繰返し・堂々巡りを演ずることになりかねない。
NHKの「ニュース7」は「百ます計算」の発案者である陰山英男教育再生会議委員にインタビューしている。「先ず学校が責任を持つ。他のところがサポート体制を取るということでね。要はあの、学校と家庭、地域社会が信頼関係をきちんと取り結べるかどうか、ここにかかっていると思うんですね」
渡辺美樹委員「いじめた人間こそ来させて、そしてしっかり更生するのが、これ学校の役割ですから、単純に提言しただけで私は効果というのはあまり期待できない、そう思います」
義家弘介(ヤンキー先生)「いじめを行う者ってていうのは、かなり影響力の強い生徒たちが実は多いんですよ。出席停止でもいい。別の教室でそれぞれ先生が向き合いながら、この問題を話しながら、クラス全体についてモノ言えるクラスっていうのつくっていかなければいけないですね」
伊吹文科相「いじめ、即出席停止という受け止め方をされて、現場で運用されると言うことについて、やや慎重でありたいなと。ただ、出席停止は私は否定しているわけじゃありませんから」
「出席停止」を初めとして、「家庭の日」や「読書の時間」の創設にしても、あるいは読み聞かせや子守唄を歌うススメにしても、「百ます計算」先生だけではなく、誰もがバカの一つ覚えのように提言している「学校と家庭、地域社会の信頼関係・提携」にしても、常に機会的な運用に陥る危険性、あるいは習慣・制度だけの問題で終わる危険性を抱えている。学校教師、親、地域のオッサン・オバサンが自分で紡ぎ出した言葉で話しかけなかったなら、何を話されようと子どもにとっては馬の耳に念仏で、単に頷くだけのことはさせても、テレビで喋るお笑いタレントやマンガの話す言葉にだけ興味を持つという傾向・習性を変えることはできないに違いない。
成人式で新成人が騒ぐのは、市長だ県会議員だ市議だと言った来賓の喋る言葉が既に誰かが言った言葉の焼き直し、あるいは誰れもが言っている使い古された言葉の繰返し、常套句をもっともらしげに並べただけの言葉で、そこには自分で紡ぎ出した言葉がなく、面白い言葉をいくらでもお目にかかることができるテレビやインターネットを知らない時代ならまだしも、知ってしまっているゆえになおさらに面白くも何ともないことが原因してのことだろう。
安倍総理のインタビュー。「政府は勿論ですが、学校現場、あるいは家庭・地域・教育委員会,それぞれができること、直ちにできることをすべて行う。そういう姿勢で取り組んでいくことが大切です。再生会議提言を先ずはみんなが実行していくことが大事ではないかと思います」
自分で紡ぎ出した言葉が思想にもなり、哲学にもなる。だが安倍首相の言葉には毎度のことだが、思想も哲学も感じることができない。即物的そのものの発言で終わっている。当たり前のことを当たり前に言っただけ。今までも「学校現場、あるいは家庭・地域・教育委員会、それぞれができること、直ちにできることをすべて行」ってきた。いじめのサイン・兆候を見逃すのは当たり前、自殺が起きると、いじめを否定し、否定しきれなくなって、仕方なくいじめの事実を認める。教育委員会も放置する。「取り組」み、「実行し」たことがそういったこととなっている。児童相談所が児童に対する虐待を見逃し、死に至らしめてしまうようにである。「実行していく」、「取り組んでいく」だけでは済まないことに気づかない鈍感さに侵されているから、「実行していく」、「取り組んでいく」と当たり前のことを当たり前こととしてしか言えないのだろう。
無責任の体質化は教師や親だけ、あるいは児童相談所といった福祉機関だけの問題ではなく、政治家・官僚・役人にも蔓延している日本人的な精神性であって、だからこそ12年前の「いじめ対策緊急会議」がムダとなり、同じことの繰返し・堂々巡りが演じられることとなった。なおさらに「実行していく」、「取り組んでいく」だけでは済まないにも関わらず、そういったことしか言えないこと自体が無責任を示すものだろう。
番組は最後に専門家に話を聞いている。
日本教育大学院大学川上亮一教授「いじめと言われるような現象もね、以前と比べると非常に陰湿的になったり、そういうことがあって、それをだから教師の方が抑えようと思っても、生徒がなかなか言うことを聞かないっていう、そういう状況が広がってますから、あの、何とかそういう秩序をもう一回取り戻そう、学校に規律をもう一回確立しなければいかんという、そういう方向はね、私はものすごく賛成ですね」
これがかつては「プロ教師」と自ら称していた東大出の男の言う言葉である。「陰湿的」なのは前々からであり、「教師の方が抑えようと思っても、生徒がなかなか言うことを聞かないっていう、そういう状況」にしても、前々から「広がって」いたことで、「以前と比べると」ではない。かつては中学校教師であったが、「プロ教師」として名を上げ、大学院教授にまで登りつめた。大学院教授として学生の前に立つには常識的に備えていなければならない客観的認識性を備えずに大学院生の前に立っているこの皮肉な倒錯は何を物語るのだろうか。日本の教育を物語っているのだろうか。
また一度だって秩序を「取り戻」したこともなければ、規律を「確立し」たこともない。学校教育者として何を見ていたのだろうか。
最後にNPOソーシャルワーク協会寺出壽美子理事長「いじめの加害者に対して、例えば別教室であるとか、個別指導するとかっていうことが、ま、今回出されたわけですけれども、却って子ともにとってはただ罰を受けているっていう、あのー、ことにしか判断されずに、子供は心を閉ざして、そしてまた大人の目の見えないところでいじめを繰返していく、ということではあまり実効性がないような気持がいたします」
安倍首相よりも「プロ教師」よりも、「百ます」よりも「ヤンキー先生」よりも、他の誰よりも、一番まともなことを言っている。「出席停止」もいいだろう。大いに結構。ヤンキー先生が言うように「別の教室でそれぞれ先生が向き合いながら、この問題を話しながら、クラス全体についてモノ言えるクラスっていうのつくっていかなければいけない」も結構。
だが、生徒と向き合う教師がもっともらしげな諭しの言葉しか紡ぎ出せなければ、生徒の反感を買うばかりだろう、「お前にセッキョーされたくないよ」とばかりに。 重要なのは教師にしても親にしても、普段からの言葉である。
文字数超過のために2回に分けます。
政府の教育再生会議が11月28日・30日(06年)と首相官邸で開かれた。30日の閉会後に纏められた緊急提言の発表。
28日夜9時からのNHK「ニュースウオッチ9」によると、27日の会議では都道府県や市町村の教育委員会に対していじめ側の児童・生徒の授業へ出席停止など厳しい措置を取ることを検討することや、いじめなど深刻な問題が起きた学校に教育委員会が支援チームを派遣する体制を整備することなどを求める内容の提言となる模様だと伝えていた。
どのような議論が展開したのか、どのような考えを出席委員それぞれが持っているのか、NHKだけではなく、民法の番組や新聞からも知り得る範囲でたいしたこともない検証を行ってみた。
ヤンキー先生と言われている、まだ若い羨ましいばかりのイケメンの義家弘介委員。確か横浜市の教育委員会で委員をしていたと思う。「待ったなしなんですよね。なぜいじめられた被害者が学校に行かなくていいのかと、自分の人生にマイナスになる選択をせざるを得ないのか。それは先ずいじめた人間を先ず教育すること。勿論出校停止ということは単純な線引きではなくて、出校停止にして教育することなんです」
早朝の「日テレ24」ではNHKが「出校停止にして教育することなんです」で終わっていた言葉のあとに、「それが何より必要なんです」という強い姿勢を示す言葉を付け加えていた。それだけ「出席停止」活用の積極派ということなのだろう。
「出席停止」自体は昭和22年3月31日公布、昭和22年4月 1日施行の「学校教育法」の
【第二章 小学校・第二十六条】〔児童の出席停止〕で「市町村の教育委員会は、性行不良であって他の児童の教育に妨げがあると認める児童があるときは、その保護者に対して、児童の出席停止を命ずることができる」。【第三章 中学校・第四十条】〔準用規定〕「第二十一条、第二十五条、第二十六条、第二十八条から第三十二条まで及び第三十四条の規定は、中学校に、これを準用する」と、小・中学校とも認められている。認められているにも関わらず活用してこなかった生徒管理方法をいじめ問題悪化の原因の一つと考えているからだろう。
但し「出席停止」は誰の目にも明らかなように出発点は原因療法ではなく、いじめが発覚してから行う対症療法であり、対症療法が終着点とすべき原因療法となり得るかを問題としなければならない。だが、これまでのいじめ問題の経緯からして、学校がいじめの兆候、あるいはサインを見逃していしまう問題意識の希薄さ・危機管理意識の欠如をほぼ常態化していることを考慮すると、対症療法が対症療法で終わってしまう可能性が大きい。
28日の「日テレ24」がいじめ問題に取り組んでいるという中嶋博行弁護士の意見を取り上げていた。
「今のいじめというのは一対一のいじめではなくて、大勢でひとりをいじめるというパターンなんですけど、その中心になっている、いじめの中心の生徒を出席停止処分にするという形で、目に見える形で処分すれば、いじめの集団というのは崩壊すると。私が実際に相談を受けたケースの中でも、いじめの集団の中心的な人物を処分すると、いうことで、いじめがなくなったケースってのはあります」
ヤンキー先生同様に対症療法としての「出席停止」の活用を提案しているが、特定の一つのいじめが終わっただけのことで、新たないじめ、あるいは別の場所で行われているかもしれないいじめには表に現れるまで効果はない。
そのことより問題としなければならないのは、「今のいじめというのは一対一のいじめではなくて、大勢でひとりをいじめるというパターン」となっているという認識がいじめ問題に取り組んでいる弁護士という役割に真っ当な資格を与える言葉となっているのだろうかという疑問である。
中嶋弁護士の言っていることは「以前は一対一のいじめが多かったが、今は大勢でひとりをいじめるパターンとなっている」ということだろう。だが12年前の1994年11月27日に首を吊った大河内清輝君のいじめ自殺事件は複数の同級生に身体的な暴力と金銭的な恐喝を受けて追いつめられた末の自殺であり、中嶋氏が言うように「以前は一対一のいじめ」という説に入らない。逆に現在のパターンだとする「大勢でひとりをいじめるパターン」による犠牲者であった。
大河内清輝君は担任である26歳の女性教師から問題を起こしているグループの一員だと思われていた。いつも一緒に行動を共にしていたからだが、他の仲間とは一人だけ雰囲気が違うことは気づいていた。威しとか暴力的意志の強制によって自己意志に反して仲間に取り込まれるといった権威主義的力学が働いた人間関係があることまで考える力がなかったのだろう。しかし戦前の軍国主義は学んでいるはずだし、新聞・ラジオが軍部の強要で御用機関に成り下がった歴史的事実も学んでいるはずである。また大学で児童心理学等も教師の資格の一つとして学んだだろう。国家の下位に位置する国民や新聞・ラジオといった存在自体を問題とするなら、国家(の思想)や国家機関に取り込まれた姿を取っていたのである。歴史を学びながら、人間の状況・人間の姿まで学ぶことができないのは、日本の学校教育が形を取って表面に現れた事実を現れた事実なりになぞる暗記教育となっていることも原因しているに違いない。
1995年2月に福岡で中学校2年の男子生徒が複数の同級生から万引きを強要されていたいじめがいじめ側の一人の生徒の母親が学校に申し出て発覚、一応の解決を見たが、その後いじめられていた生徒の父親がいじめがその後も続いていると勘違いして、以前いじめていた4人の生徒呼び出して自宅に3時間に亘って監禁し、包丁で殴ったりして監禁・傷害の容疑で警察に逮捕される事件に発展した事態にしても、発端は「一対一」ではなく、「大勢でひとりをいじめるというパターン」のものであった。
いじめグループは被害生徒に前記首吊り自殺した大河内清輝君の名前を取って「大河内清輝」というあだ名をつけて呼んでいたと言うが、被害生徒の置かれている状況がいじめであり、大河内清輝君と同じ状況を受けているものと自覚していたからできたあだ名付けであって、非常に悪質である。大河内清輝君が自殺したのは当然知っていたことだろうから、大河内君になぞらえていた以上、大内君と同じ結末が頭に入っていたはずで、それにも関わらずいじめを続けることができたのは、自制よりも付和雷同の力学が仲間同士で働いてしまう集団でのいじめ(=徒党型のいじめ)だったからではないだろうか。それとも、自殺する勇気なんかないと高をくくっていじめていたのだろうか。
2000年4月に発覚した名古屋市の私立中学校を卒業したばかりの3人の15歳の無職少年が同級生だった少年から合計5000万円もの大金を恐喝していた事件にしても、卒業間近の1月からと言うものの、在学中から始まっていたもので、「大勢でひとりをいじめるというパターン」の事件であろう。被害増額の計5000万円は繰返し暴力を受けいた息子を見かねた母親が死亡した父親の生命保険金を取り崩すなどして用立てたものだという。
逮捕されたとき、3人は5000万円ものカネを何に使ったのか費やしてしまい、殆ど現金を所持していなかったというから、その豪遊ぶりも税金を使って飲み食いする日本の官僚・役人に引けを取らない凄さである。
約2ヵ月後の2000年6月に岡山で起きた高校3年生の男子生徒が金属バットで母親を殴り殺した事件は野球部の後輩4人をいじめの仕返しにバットで殴り重軽傷を負わせ逃亡、生徒は殺してしまったと勘違いして、母親に迷惑をかけたくないという思いから、バットで殺害した事件である。
犯行後、自転車で逃亡。16日間、1000キロを走り抜き、7月6日秋田県で逮捕されたが、いじめ自体は後輩4人から受けた「大勢でひとりをいじめるというパターン」のものである。1000キロの道のりをどのくらいの必死さで自転車を漕いだのだろうか、その姿・エネルギーを想像すると痛ましいばかりである。
兄の弟に対する継続的ないじめは「一対一」のいじめであるが、最小限の人間関係を条件として一つの社会を成り立たせている場合に可能ないじめであって、学校とかクラスといった集団の人間関係を生存条件とする社会では、一般的にはいじめ側は集団の形を取るのではないだろうか。例えクラスの中で「一対一」のいじめがあったとしても、集団の中で他が交わることのない特殊な最小限の人間関係社会を形作っていた場合に限られるように思う。
集団を築くことで成り立っている社会に於いては、自己正当性は数の優位を取ることによって証明されるからである。仲間を多く抱えている人間は例え間違ったことをしても、仲間の庇護によって正しいとされる場合がある。逆に自分がいくら正しいことを言っても、多数の反感を買ったなら、集団から無視、あるいは排斥されることになる。そのことは政治の世界がよく証明していることである。
大河内清輝君がいじめを受けて首を吊って自殺してから、現在みたいに同様の自殺事件が相続いた。その自殺から20日も経たない1994年12月13日の早朝に岡崎市の市立中学校の1年生男子が父親が経営する工場内で制服姿で首を吊って死んでいる。遺書はなかったが、いじめがあったという同級生の証言がある。生徒はおとなしい性格で、同校の「いじめ・登校拒否対策委員会」で名前が上がることはなかったというから、今までの例と同様に如何にいじめが外に現れにくいか、自殺を発覚のキッカケとしなければならない場合があるということを物語っている。
その翌日の1994年12月14日、福島県の町立中学校3年生の男子生徒が雑木林で首を吊っている。自宅の自室に遺した遺書にはいじめられていた事実とクラスの3人の生徒の名前が書いてあったと言う。大河内清輝君自殺事件の後、学校が実施したいじめ調査に生徒の一人が自殺した生徒の名前を挙げて集団で無視されていると書いたが、学校側はどのような行動も起こさなかったと言う。この点に関しては、現在も12年前と殆ど変わっていない。変わっているのは大臣に自殺予告の手紙を書くといった現象ぐらいだろう。12年の歳月が社会を一層情報社会化したからではないだろうか。当時と比べてパソコンや携帯電話等でインターネットを通じて双方向のありとあらゆる情報が行き交い、〝知らせたい・知りたい〟が強迫観念にまで至っている時代となっている。にも関わらず、多くのいじめられている生徒がそのことを誰にも相談できないでいる。匿名でならできるが、名前が出て、誰であるか特定される相談はできないということなのだろうか。
翌1995年の2月5日には静岡県の浜松市立中の2年生男子がいじめの事実を記した遺書を遺して市内のマンションから飛び降り自殺している。複数の生徒から使い走り・万引き強要・暴力、それに髪を染めされられる、飲食をおごらされるの強制行為を受けたという。
さらに4月に入って16日に福岡県の豊前市の中2男子が2、3年生の計9人からいじめを受けていたという遺書を遺して自室で首を吊って自殺している。遺書の最後に「これは自殺じゃない。他殺だ!」と書いてあったという。そう、間接殺人に入る「他殺」だろう。
この12日後には長崎市立中学校の2年生女子が遺書に3人の男子生徒の名前を書き、いじめを受けていたという遺書を遺して校舎から飛び降り自殺している。
大河内清輝君がいじめ自殺する以前の同じ1年で、3人の中学生と高1の1人がいじめ自殺している。だが何と言っても世の中が注目したのは大河内清輝君のいじめ自殺事件だったろう。多額の現金恐喝と執拗で巧妙な数々のいじめ。いくつものいじめのサインがありながら、それを見逃していた学校。遺書を残しての自殺。その内容は悲惨ないじめであったにも関わらず、自己に対して冷静なまでに客観的で、恨みつらみはなく、周囲に対して優しい配慮さえ見せている。例えば「大河内清輝君の遺書の全文は次の通りです」と自身を客観視しさえしているし、恐喝していた4人の生徒の「名前が出せなくてスミマせん」とか、「僕からお金をとっていた人たちを責めないで下さい。僕が素直に差し出してしまったからいけないのです」と責めるべき相手を責めていない。
この事件をキッカケに新聞・テレビは連日のように関連情報を報道し、いじめが社会問題として大きく取り上げられるようになった。
キッカケとなる大きないじめ事件があって、初めて社会病理として把える。教育再生会議で議題とする今回のキッカケは福岡県筑前町の町立三輪中2年の男子生徒(13)のいじめ自殺なのは言うまでもない。生徒がいじめたいただけではなく、担任が生徒の成績をいちごの品種に譬えてランク付けする差別主義者であった(人権意識の希薄さ・欠如がいじめを生む)上に自らもいじめを働いていた異常さがクローズアップさせる原因をなし、そして自殺後の学校の責任回避の姿勢が問題をさらに大きくしていった。
そして大河内清輝君事件から12年後の再度のいじめクローズアップである。