木村 和美 Architect

建築家木村和美の日常活動とプロジェクトについてのブログ

●日産グローバル・ギャラリーのオープン

2009-08-09 21:35:25 | Weblog

 

昨日、みなとみらいの日産グローバル本社の1、2階に新しいギャラリーがオープンした。

本日日曜日早速行ってみる。 横浜そごうから伸びる”はまみらいウオーク”と名付けられた歩道橋を渡って日産本社ビルへ向かう。

 

建築家谷口吉生設計の繊細なタッチの外観を見ながら近づいて行く。

ガラスとアルミのルーバーに覆われた高層部とギャラリーがある低層部で構成されているが、低層部は谷口氏の定番の門型壁と円柱、そしてフレームレスガラスで同じく氏の作品である、四国の美術館を思い出させてくれる。

 

ギャラリー内部は、スカイラインや日産GTの新車のレイアウト部分、未来のビークル、アクセサリーなどのプティック、デジタルインフォーメーション、カフェなどから成り立っているが、車不況の流れの中で今一つの来客振りではあった。

 

日産は1968年に創業の地の横浜から、銀座のこの前までの地に本社を移転した過去がある。

私は黒川事務所在所中、黒川さんと一緒に移転間もないこの本社にお邪魔したことがある。

その時、本社の1階にギャラリーがやはりあり、当時の人気者は”フェアレディZ”であった。

 

黒川さんが、その前にしゃがみこみ”これは今アメリカで、ジャガーのEタイプと同じ値段だよ”と私に言ったのを今でも覚えている。

それほどの人気車であった。

 

その時の日産への用向きは、当時話題になっていた”カプセル住宅”の役員の方への講演で、私はそのアシスタントとして付いて行ったのである。

当時の日産社長は石原俊氏であったが、その日は不在で、岩越副社長以下役員15名程度の方に、カプセルと住宅産業についての話を黒川さんはしていたが、当時はやはり日産もトヨタ同様住宅に興味があったのだろう。 その後はまったく音沙汰がなかったが、、、、。

 

みなとみらいに新しく出来た日産グローバルギャラリーで、当時のことを思い出しながら歩いていた。

来年には電気自動車が発売されると言うが、何となく従来の車の持つエネルギッシュでオイリーな機械の持つワイルドさは感じない。この新しい建物と同じように、、、。

 

建物の外部は、すぐに運河のそばの心地よいプロムナードとなっており、そこからはみなとみらいの超高層住宅群や、オフィスの新しい未来都市の景観が望め、丁度この建物が、旧市街と未来都市を結ぶ位置にあるようだ。

 

この立地のように日産グローバル本社が横浜の経済や生活を、夢の未来へと誘ってくれる、福の神になって欲しいと思いながら、ギャラリーを後にした。


●デザイナーの自宅

2009-08-06 20:02:04 | Weblog

 

今、日経新聞の私の履歴書で、ファッションデザイナーの芦田淳氏が自らの足跡について執筆をしている。

本日は8月6日広島の原爆記念日であるが、昭和20年当時芦田氏はこの日を山口県田布施の疎開先で迎えている。

 

偶々、本日の原爆記念日に合わせたように、今日の記事は中学生の氏が田布施の自宅の庭で腹に響くような地鳴りを聞いたことを生々しく伝えている。

 

数日前から、興味を持ってこの欄の記事を読んでいるのだが、現在の氏の華やかな活動からは想像出来ない戦時中の混乱の生活が綴られて、読むものを驚かせる。

 

デザイナー芦田氏の現在の自宅は目黒区青葉台の高級住宅地の一角にあり、それはソニーの故盛田昭夫氏などの住宅があった一帯である

 

上記の写真はほぼ十年ほど前に家庭画報で、掲載された芦田邸のサンルームとその外観だが、設計はフランス人の建築家で、当時は珍しかったパッシブ・ソーラーシステムを採用している。

 

 

 

北側に塀を兼ねたガラス温室を設け、そこで吸収した暖かい新鮮空気を、母屋に運び冬の暖房に利用している。

母屋はペアガラスのドームと外壁を外断熱にした建物となっており、蓄熱性能に優れた構造で、まるで今流行の環境対応型住宅をすでに十数年前に先取りをしているようである。

 

隣地との境界に温室をつくり隣家にも緑の柔らかさを、そしてそこで暖められた新鮮空気を利用する優れて合理的なアイデアが、この家をより魅力あるものにしていると言ってよいと思う。

 

芦田淳氏のファッションは、美智子皇后の専属デザイナーであったことから、高級品で手の届かない印象を受けるが、この自宅の考え方を見る限りは、極めて実用的な嗜好で造られており、単に美しいだけの物ではない。

 

幼年時代のすさまじい地獄絵の体験が、どのような経緯を経て華やかなファッションのデザインに結びついていくのか、今後の履歴書の記事の展開を期待しているところである。


●ある建築家の一生とその家族

2009-08-04 20:46:41 | Weblog

 

先週の土曜日の午前中に、デューデリゼンスの仕事で協力していた建築家の天野正和氏の訃報を聞いた。

金曜日の午前中に、彼と話した人から聞くとまったく元気で変わりない声だったと言うが、その午後、仕事中椅子に腰掛けたまま倒れていたとの事である。

死因は心筋梗塞だった。

 

ここ1年ばかりは、デューデリゼンスの仕事は少なくご無沙汰で電話で話すだけだったが、その前の2,3年はいわゆるファンドの隆盛で、仕事は山ほどあり南は沖縄から北は北海道まで、日曜日も休まずこなす状況だった。

 

天野さんは、いち早くデューデリの世界をリードしたハイ国際コンサルタントの加藤氏と、設備担当の昌和テクノ丸山氏と3人で、この仕事の基礎を作った先達である。

 

突然の訃報を聞き、多摩プラーザにある氏の自宅に行き面会をする。

奥様と娘さんお二人であるが、急の事で痛々しい。

元々心臓に疾患があり、大事にされてはいたのだが仕事のストレスも大きかったのであろう。

 

出棺となりお世話になった分、思いをこめて抱えさせていただく。

仕事も仕掛中のものがあり、仕事仲間で彼のオフィスにも行く。

綺麗に整理された仕事場は、氏の几帳面な性格そのままに資料類はきちんと整理され、まるで死ぬ事を予測していたかのような佇まいではあった。

 

式は、お別れ会という形の天野さんの好きだった音楽が流れる中で行われたが、長女の方の”父への言葉”に一瞬、建築家と言う職業を考えさせられる。

 

それは、彼女が幼い時、休日も仕事をする父に対する不満の回想から始まり、反発、そして我侭、長じての現在、父の気持ちが理解出来かけた時の突然の死に対する戸惑いと後悔のアンソロジーが、同じ娘を持つ私の心を痛いように挿して来た。

 

高度成長時はともかく、低成長に入ってからの建築界を取り巻く状況は極めて厳しい。 

式の後の会合では天野さんの思い出と共に、我々の業界の話になるが、建築を専攻しようという学生も少なくなったと聞く。、

もう少し安定した職業にならないものかとしばし議論。しかし厳しくとも、家族を残して急に亡くなるのは何とか避けたいものだ。

 

昨日までそばにいた人が、今日はいなくなりそれでも気丈に挨拶をする奥さんの姿を見ながら、この残された家族に何らかの神のご加護をと願わずにはいられない。

そして改めて天野さんのご冥福をお祈りします。


●アウトドア・リビング考

2009-08-02 17:52:14 | Weblog

 

商店建築社が刊行している、住宅専門誌”アイムホーム”の9月号でアウトドア・リビングが特集されている。

ほとんど一戸建て住宅のテラス・リビングの秀作が展開されているが、私はこれからの都心部の集合住宅のデザインにおいて、それが特に重要な課題となるような気がしている。

 

マンションのアウトドアと言うとバルコニーとなるが、現在はバルコニーも奥行き2mまでは、床面積に算入しなくて良いし、これから様々なバリエーションが出てくるだろう。

 

写真左は、和風のアウトドアスペースであるが、狭くても植樹とウッドデッキをうまく使って、快適なスペースを造っている。

日本では、庭は歴史的に観賞用として発展してきたが、西洋では古くから観賞用であると共に生活の場としてきた経験から、様々なアウトドアの利用の仕方があり、狭いスペースでも上手にそれを利用している。

特にスペインや、イタリーのラテン系のテラスやパティオの使い方に、感心する例が多いのは人の知るところである。

 

写真右は、イタリア、アマルフィー海岸の”ホテル・サンタ・カテリーナ”のテラスレストランだが、このような土地の傾斜を巧みに利用した使い方など幾らでも見ることが出来る。

葉山にある”ホテル音羽の森”は海を望む高台に建ち、テラスのあるレストランを所有しているが、日本ではどうしても夏の湿気が気になって、アウトドアよりも冷房の効いた屋内から海を眺める事になる。

 

とは言っても、天候の良い時にアウトドアで過ごすのは健康的で、精神的にも随分リフレッシュされ、一般のマンションでもこれから一つのテーマになるのは間違いないと思う。

現在は、バルコニーと言うと物干し場か、空調置き場、良くて植栽プラント置き場と言った感じだが、ちょっとした演出で、大きな違いが出るだろう。

 

近接した集合住宅の中で、プライバシーの事を言う人がいるが、綺麗にするとむしろ人に見て欲しいと言う人も出てきたようである。

 

これから少し、都心部の集合住宅のアウトドア・スペースについて良く考えてみたいと思っている。