木村 和美 Architect

建築家木村和美の日常活動とプロジェクトについてのブログ

クロージング 2007

2007-12-29 18:13:07 | Weblog
いよいよ2007年も暮れていく。今年は例年に比べて年の瀬らしさを感じないのはなぜだろうと思う。一つは喪中のハガキを11月中に出し終え年賀状を書かないからかもしれない。そして仕事が一段落ついてから又ひと悶着があり、年末ぎりぎりまでゴタゴタしたせいかもしれないとも思う。
いや最大の理由は暮れの恒例行事であった忘年会が激減したことが一番だろう。

いつも年の瀬には今年の反省と来年の抱負をノートに書き記しているのだが、昨年の暮れに立てた目標は達成されただろうか?
昨年暮れには丁度取り掛かった住宅設計や、その他住宅関連プロジェクトが多かったので、それに関する目標を書き連ねているが、振り返ってみて60%程度の出来栄えだと思う。
環境重視の住宅として企画したスコテッシュハウス、都心の再開発計画の中の住宅開発、地方の住宅地の戸建て住宅、マンション企画等々は今しばらく時間が掛かりそうである。

今年の予定外の嬉しい誤算は、リゾートの大きな計画に参画できたことである。久し振りにサインペンでスケッチする規模のプロジェクトであったが、現在の観光開発、旅行業界が直面する問題、建設業界が直面する問題、地方金融や産業が直面する様々な課題を凝縮したような計画であった。来年には又新しい動きがあるのだろう。

この一年経済の上向き傾向に引きずられて、我々の仕事も比較的安定した状況を示して来たが、6月の建築基準法改正に伴う建築工事の停滞、サブプライム問題に端を発する景気の不透明化、原油高による諸物価の高騰、さらに政治的状況の混迷を受けて来年はかなり厳しい年になることが予想される。
私自身は来年の課題は、仕事そのものよりもその周辺の環境固めに意を払いたいと思っている。一つは技術者同士の強いパートナーシップづくり、新しいネットワークづくり、パソコンのシステムを始めとしたオフィス設備の充実などである。
いずれにしてもコアとなる仕事を好回転させなければ出来ない話ではあるが、、、

この一週間は時間を見つけて又古い友人と勝手な議論ができた貴重な週でもあった
いずれも大学関係の仕事に従事している知人であったが、一方は有楽町で一方はみなとみらいで楽しい議論をした。有楽町はペニンシュラ東京がオープンし一度は皆そこのアフタヌーン・ティーを飲みたいのか行列が出来ているそうだ。その日は外国のアーティストが泊まっているようで周辺は若いギャルだらけでホテルに近づく気にもならなかった。
みなとみらいはパンパシフィックホテルのランチを取りながらの議論。現代の学生との交流についてそして教え導くことについて果てしなく議論は広がっていく。
そして結局は日本の教育体制、政治の批判、日本人批判となり、仕方がないネで終わってしまう。

難しい状況は変わらないが、こうして様々な議論が出来る自由とそして仲間を持っているだけでも幸せだと思って、来年も少しづつでも前向きに努力を続けてみようと思った次第である。

アーカイブ名建築

2007-12-21 23:46:06 | Weblog
昨日旅館の設計打ち合わせで、庭に面する階段のデザインの議論をした。階段を通して庭が遠望できるようにするためには軽快な階段が欲しい。これはと言う階段のデザインが少なくなったのは以前から感じているところである。

振り返って見ると高度成長期の建築は、技術によって新しい形や空間を創ってきたと思う。それだけに勇ましく力強さを感じるデザインが多かった。階段もその例に漏れない。写真は菊竹清訓氏の初期の傑作米子皆生温泉の”ホテル東光園”である。
建物自体が吊構造やHPシェルを採用した斬新なものであったが、庭に面する階段が、トラス階段と言って床面のみで構成され、廻りはサッシュ以外さえぎるものがなく開放的な階段である。この建物は綺麗なデザインと言うより、技術その物を露出させ今までにない造形を演出した典型的な建物である。
同じようなトラス階段を使ったホテルを同時期に菊竹氏は佐渡グランドホテルとして、佐渡島の両津湾に設計している。
今見ても迫力のある大胆な設計であるが、この詳細を調べようと思い、本日田町の建築学会の図書室に行った。
雑誌新建築と建築文化のバックナンバーで、二つの作品を探しながら1960~70年代の記事を追ってみたが、当時は今と比べて密度の濃い建築作品が多かったことを痛感するし、記事も充実している。当時の日本は今の中国や東南アジアのような状況だったのだろうと思う。

その中で、清家清先生の軽井沢プリンスホテル新館の建築に目を奪われた。なんでもない緩やかな曲線を使用した125mの板状の3階建てホテルである。その玄関庇とレストランにトラス構造の鉄骨をむきだしにしたこれも技術建築の一種であるが、不思議に技術を感じさせず、それは軽井沢の自然にひっそりと溶け込んでいる。しかも動線計画が抜群である。
清家先生は野尻湖にもプリンスホテルを設計しているが、これも緩やかな曲線を持って、野尻湖の樹林に埋没するような素晴らしい設計である。
菊竹さんの技術を露出させた建築に対し、これらはそれを内に包み込み自然に同化させた建築と言ってよいだろう。

さて今回、これらに匹敵するような設計が出来るだろうか
現代の宿泊施設は、当時より様々な面で複雑化してきており建築以外に留意する要素も多いことは事実であるが、今一度これらの名建築の中に多くのヒントや、学ぶべき点がたくさんあることを考慮したい。
それにしても今日は懐かしい建築の中に、改めて力強いデザインを発見したことを記しておきたく思った。

師走の日々の昨日今日

2007-12-19 00:14:08 | Weblog
流石に12月も半ばを過ぎると何となく慌しく年の瀬を実感する。
夕方横浜駅へ出ると階段を上り下りする人の群れが一段と足早くなり
夕闇と共に家路を急ぐのか、はたまた夜の街へと繰り出すのか、
とにかく何時にも増して混雑を呈していた。

昨日と今日で今年の仕事の集約が出来るような忙しくまた慌しかった二日間であった。今年の6月頃から続いている旅館プロジェクトのとりまとめ、リフォームビジネスの研修、電話とメールによる打ち合わせ、夜は一年を振り返り又新しい年を思う会合、そして今朝は西新宿での建物調査、午後からは懸案の住宅の工事工程打ち合わせとスペックの調整、夕刻の電話連絡等々、、、
今年を振り返るのはまだ早いかもしれないが、紆余曲折はあったにせよとにかく幾つかのプロジェクトが前向きに進みだしたのを善しとして、来年へ繋げたい気持ちである。

一番の収穫は、しばらく忘れていたビッグプロジェクトへの参加とそれを進める人との出会いと緊張そしてときめき。困難な仕事に付き物ではあるが、その過程で味わった様々な喜びと悔恨又は焦燥。新しい活動への意欲と一方で周辺の状況変化にリスクを思う日の繰り返しはいくら経験を積んでも変わらないように私の心を支配してくれた。

今年は収穫があったと同時に多くのものを失った年でもあったと思う。10月には黒川さんが亡くなった。薫陶を受けた日は遠くなっても、折に触れて修業時代を思い出し何かあると黒川さんならどうしただろうと思うことが度々あった。師の記事が世間を賑わすことに何がしかの勇気を与えられたことも多かった。
又2月には母を失った。長寿を全うしてくれたことを感謝したいが、あの時こうしたかった、もっと色々なことをしてしてやりたかったと今になると悔いが残る。

人は様々な思いを抱きながら生きていくのだが、時はなんでもないように無常に流れていく。
自然体で逆らわず流れるように生きていくのが人生の達人なのだろうか
いややはり自分は時に摩擦や抵抗を感じても、あるいは場合によって後退する事になっても、その時の自分の気持ちにある程度素直に生きてみたい。そして多分来年もそんな歩き方、生き方をするのだろうと思う。
まだまだ達人への道ははるかに遠く長い道のりなのだと思う。


生涯現役とリタイアーメント

2007-12-13 23:22:54 | Weblog
先頃、私の知り合いが中国の広州に工場を建設して良く行くらしいが
それほど年ではないのに、向こうでバスに乗ると席を譲られると言っていた。
ほとんど一次産業、二次産業なので街を活動的に動いているのは若い人が多いのだと言う。

考えてみると、生涯現役と言って高齢者が働いているのは日本の特殊現象かもしれないと思う。先だっての大連立の黒幕と言われた、読売新聞の渡辺恒雄氏(写真)などは80才台の半ばかと思うが、未だに主筆とやらで隠然たる影響力を誇っている。アメリカの大統領やリーダーは40台、50台が多いのだが、日本の総理は70台、経済界に至っては老練な社長が数え切れないほど居るようである。

ペンション事業で協力していた小杉恵氏は50才になった時、僕はもう引退したからのんびりやるよとあっさり言っていた。彼はアメリカで教育を受け、ヨーロッパの生活も長かったから、自然にそのような考えになったのだろう。もっとも引退しても楽しんで暮らせる環境にあったから出来る話しではあろうが、、、、

概して西洋の人達は50台までは猛烈に働いて、お金を貯めあとはスパッと引退して余生は自分の好きなことをして過ごす人が多い。又それがマジョリティであるから仲間達と一緒にやることも多いだろうし、老後の楽しみのために働く目的意識が強いのかもしれない。


日本でも昔は隠居という習慣があり、年取ってリタイヤーしてもそれなりの尊敬を集め、何かと頼りにされた人が多かったと思うが、戦後から現在にかけて余裕がなくなったのかあるいは、仕事以外に注目が集まらなくなったせいか又は経済的な理由か地位に恋々とする人が多くなったのが現実であろう。
我々の世代では、バブルに遭遇し大きな借金を背負った輩が多く、そのために生涯現役を目指すような人も結構いる。

建築の設計の仕事は、仕事さえあればある程度年をとっても出来る仕事であるし、私などそれほど老後のことを深刻に考えたことは余りなかったが、これほど政治家やお役人の不祥事が続くようになると、どんどんと世代交代して、若い人が活力ある国を創る必要があるのではないかと思ったりもする。

しかしそのためには最低限きちんとした年金制度と税制が整うことが前提であろう。後は宗教心と個人の価値観の問題のような気がしている。

都市再生、企業再生と建築デザイン

2007-12-09 22:16:20 | Weblog
1980年代のバブルは1990年の暮れに金利引き上げ、1991年から不動産取引の総量規制、瞬く間に景気は減速そして崩壊が始まりそれから苦難の10数年が始まった。
私は当時立川にクレストロータス・ビルという大型賃貸ビルの設計をし1990年の暮れに起工式が行われたが、金融関係の人達の落ち着かない表情に今後の景気の深刻さを痛感した記憶がある。

それからの10数年は文字通り失われた10年と言われ、建設不動産業界には塗炭の苦しみの連続であったが、小泉構造改革の一番手に都市再生が掲げられ、大幅な規制緩和(建築基準法の天空率による高さの緩和)により東京都の不動産マーケットは息を吹き返した。それは都心部のマンション需要の旺盛さに反映され、現在もまだ続いている。その背景には不良債権の処理を迅速に行った金融再生と低金利による有利な事業計画があったのだが、、、、。
建築デザインも超高層マンションの出現を機会に大規模建築が企画され、海外からの建築家やデザイナーも多く参入し、東京は様々な面で国際都市となってきた。

ここ数年の都市と建築の状況を簡単にスケッチすると上記のようになると思うが、再生されたのは金融と不動産で、肝心の企業の内容やソフトウエアについては本当に再生されたのかは大変疑わしいところである。従って今後の課題は本当の意味の企業再生(事業再生)がテーマになってくると思われる。
特に地方においては、地域経済の血液を供給する地方銀行や信用金庫の再生もこれからであり、同時に取り組むことが地域活性化の重要な課題となるだろう。

主として公共工事に依存していた地方の建設業もこの機を捉え、企業とのネットワークや情報収集に励み、業態の変容を図ることが必要となるだろう。我々建築デザインに携わるものも、企業の再生にデザイン面から協力し、自らのレパートリーを拡大していくことが望まれることになる。

我々の出来ることは企業の生産性向上に直接寄与することではないが、例えばそれがホテルや旅館のような装置型産業の場合は、設計デザインの役割は大変大きなものとなってくる。又自動車の工場やショールームなどは、設計により付加価値を付けることが出来れば大きな広報宣伝機能を持つことは明白であろうし、レストランなどの飲食業においてをやである。

失われた時を挽回するために金融再生、不動産再生、そして企業再生を通じて結果的には歪んだ福祉の再生、生活再生へと繋げて行く事が求められていると思う。
建設業や建築設計業が今直面する問題は大変厳しい状況にあるが、地域活性化のためには通らなければならない道と考えて努力すべき課題だと思う。

アルネ・ヤコブセンとコペンハーゲン

2007-12-04 20:48:25 | Weblog
今発刊中の芸術新潮12月号でデンマークの建築家、家具デザイナーのアルネ・ヤコブセンの特集を組んでいる。ヤコブセンは建築家としてよりも、そのオリジナルな家具のデザインで日本でも有名な作家である。

スワンチェア、エッグチェア、セブンチェアなど、北欧独特の柔らかい曲線を使用したシンプルな家具は多くの建築の中で使用されてきた。
私が初めてヤコブセンを知ったのもその家具デザインを通してであった。福岡の天神に西鉄グランドホテルと言う、浦辺鎮太郎氏設計のホテルがある。黒川事務所在所中、福岡銀行のプロジェクトをやった際良く利用したが,黒川さんは当時そこを常宿としていた。程よくクラシックな雰囲気で心地よいホテルであったが、その1階ロビーにヤコブセンのエッグチェアが置いてあった。

芸術新潮を見ると、ヤコブセンは家具だけでなく多くの素晴らしい建築を設計している。彼が40歳の頃コンペで獲得したと言うデンマーク第二の都市オーフス市の市庁舎と、ベルヴュービーチのベラヴィスタ集合住宅が秀逸である。オーフス市庁舎は、北欧の建物らしく外観はノルウエー産の大理石を使用した特に特徴のないシンプルなものであるが、そのインテリア空間は木を多用して暖かい、これが市役所の建物かと言う空間を作り出している。又4層吹き抜けのホールの真鍮の手摺のデザインが、繊細なタッチで素晴らしい。
フィンランドの代表的な建築家アルバー・アアルトも同様に木を使用したインテリア空間のデザインに長けた人であるが、これらのデザインには北欧独特の人間性と風土が大きく影響しているように思う。

私が初めてコペンハーゲンを訪れたのはもう25年前になる。白夜を経験しながらカストラップ空港に降り立ったがアメリカ経由で行ったので、それまでの殺伐とした雰囲気とまったく違う北欧のホスピタリティは天国であった。
商店街を歩いても、ショップの中に入ってもまずは暖かい笑顔が迎えてくれる。すぐ近くを川が流れていたが、そこにはボートを漕いでいる人達がいて私に向かって手を振ってくれた。夜は都心にある、有名なチボリ公園で過ごした。そこには照明に浮き上がるメリーゴーランドや御伽噺のような空間が用意され、レストランもたくさんあり市民は夜遅くまで何も気にすることなく楽しんでいた。盗難や暴力など皆無の雰囲気であった。私ははじめて見る北欧の福祉国家の実態に吃驚すると同時に、いっぺんに北欧ファンになってしまった。

シンプルで清潔な生活態度や、温かく人懐こい人間性がそのデザインに色濃く反映されていると思う。1960年代コペンハーゲンはヨーロッパの玄関口であったがそれを象徴するようにコペンハーゲンの中心街にヤコブセンデザインのSASローヤルホテルが立っている。そこの606号室スイートルームは、当時のままが保存され薄いブルーを基調としたデザインでスワンチェアとエッグチェアがインテリアを彩っている。

グローバル化と称するアメリカ化で、建築業界も身近な住宅も何となく暖かさやホスピタリティなど忘れているように感じられる。最近のサブプライム問題や基準法改正に伴う様々な混乱はその象徴に思える。
ささやかではあるが、北欧のデザインを通してそれとは違う世界があることを多くの人に知ってほしいと思う。