木村 和美 Architect

建築家木村和美の日常活動とプロジェクトについてのブログ

●暑さの中でバカンス法を・・・

2010-07-24 22:26:46 | Weblog

 

連日の猛暑が続いている。夏にはいささか自信があった私も、この暑さにはお手上げの状態である。

湿気がなければ過ごしやすいのだが、日本の夏は日中外を歩くと必ず垂れるほどの汗をかき余計に熱さを感じるのだと思う。

 

冷房の効いた部屋で一日中過ごせば暑さは感じないが、そんな都合のよいわけには行かず勢い汗をかき、帰るとシャツを着替えることの連続で、どうにも仕事のペースは落ちてしまう。

こうなったら思い切って暑い内は仕事をせず、皆で休んだらどうだろう?

 

フランスの有名なバカンス法は1936年に制定されている。

当時は労働者階級に2週間の有給休暇をとらせるよう制度が創られたが、現在は5週間の連続有給休暇が保障されている。

8月はパリにはほとんど人がいなくなるというわけだ。

元々この法律はヒットラーが活躍した不況の時代、景気回復、不況脱出を目的として制定され、当時はフランスの旅行客は一挙に4倍に増え、景気回復に一定の役割を果たしたと言われている。

 

写真は、時代が下って1960~70年代フランスは、南仏ラングドックルシオン地域に労働者のためのリゾートを国家プロジェクトで造ったが、州都モンペリエの近くのグランドモットのハーバーとリゾートマンション群である。 

恵まれた環境に素晴らしい海の施設が出来ていて、1ヶ月近くの休暇にも十分対応できる。

 

日本のように、ゴールデンウイークとかシルバーウイークとか盆、正月と言うように何か義務として、移動するような短期間の休日より、一挙に1ヶ月を休むほうが様々な経済的、その他のメリットがあるのではないかと思う。

日本でも一時期多くの自治体で、グリーンツーリズム研究がされ集中休暇の法制化が試みられたがその後どうなったのか良くわからなくなってしまった。

 

景気回復のために成長経済の必要性が言われており、民主党はじめ政治家の皆さんもそれに言及されることが多い。

何も先端的な企業のみが成長経済を創るのではなく、公共的な政策や税金等の扱いの方法により、幾らでも成長経済は創れる例がある事を、この暑さの教訓で政治家や官僚諸氏に学んで欲しいものである。


●真夏の白昼夢

2010-07-18 21:52:11 | Weblog

 

 しばらくデスクワークに掛かり切りになっているうちに、梅雨が明けこの2,3日は照り付ける太陽が眩しいような真夏日となってしまった。

どうにも梅雨のうっとおしい日の連続には、気分的にも身体的にも下向き加減だったが、やっと爽快な夏の到来となった。

 

今日まで、締め切りに追われた作業の連続だったが、明日も一日あるので、午後から近くの公園に久し振りの太陽の日射しを浴びに出かけてみた。

若い頃の真夏の海の生活や、初めての建築現場で受けた炎天下でのゴルフの洗礼の思い出などで夏は、強い日差しを浴びないことには何かしら落ち着かない感じである。

 

公園の中の野球場では、夏の高校野球の神奈川県予選が行われており若人の応援の声や音がはち切れんばかりの勢いで聞こえてくる。

私は反対方向の樹林の中に入り、ベンチに寝転がって陽光をむさぼることにした。

かなり強い日差しだが、久し振りの日光浴は極めて快適である。

時折木立ちの間を涼しい風が通り抜けるのも、夏の始まりの特徴的な現象である。

 

ベンチの上で、川口マーン恵美氏の”ベルリン物語”を読む。

昨今のEUの経済危機の中でのドイツの重要な役割。

決勝戦には出れなかったが、ワールドカップでのドイツの力強い活躍ぶり。

1990年までは、二つの国に分かれていたドイツだが、今はEU諸国をリードする大国にのし上がってしまった。

同じ立場にありながら、今はアジアのただの一国になってしまったわが国との余りの差を思いながらベルリン物語を読む。

 

私はエトランゼとしてドイツの美しい風景や清潔な街並みを感心しながら、訪れた経験しかないのだが、べルリン物語の中で記述された数々の厳しい現実と近代の歴史を背景によくあれだけの国土を短期間に再生させたものだとドイツ民族の魂に感嘆する。

 

真夏の陽光を一杯に浴び、熱いドイツの再建の道に思いを馳せ、心身ともにリフレッシュした気持ちの午後のひと時であった。

公園の野球場からは、若い声援の掛け声がまだ聞こえていた。


●水戸芸術館の建築について

2010-07-11 22:16:36 | Weblog

 

週末の金曜日に又水戸に行ったが、仕事が早く終わったのでせっかくだからと思い水戸芸術館へ行ってみた。

駅前の地図によると水戸芸術館はすぐ近くのように思えて歩いてみると思いのほか遠く、途中で小雨も降ってきて散々な目にあった。

 

水戸芸術館は、1990年に建築家磯崎新氏の設計で建設された、音楽ホールや劇場、現代美術ギャラリー、会議室等を備えた芸術コンプレックスである。

当時の佐川市長が文化による町興しを意図し、市の年間予算の1%(約9億円)を活動資金にする制度を日本で初めて導入したことで有名になった。

当時私も模型写真などで、その計画案を見ることはあったが、実際の建築を見る機会がなかったので、楽しみにして訪れてみた。

 

遠方から、くねくねタワーと呼ばれるあの特徴的な正四面体を組み合わせ、らせん状に天に伸びていく銀色の塔を見つけ歩いて近づいていく。

場所は、中心市街地活性化のため小学校跡地に建設されたと聞くが何となく性格のはっきりしない地域に忽然と現れるこの螺旋状の塔も又異様な感じがする。

やっと水戸芸術館の正面入り口にたどり着き、芝生の植えられた中庭に面して建つこの芸術館の複合建築の前で、色々なことを感じた。

 

まずそのスケール感。それほど広いとは思えない土地に、大きなタワー、それと外壁の仕上げ材に使われている割肌の石材と、これまた表面が乱石風のモザイクタイル。

この建築の少し前に竣工し、ポストモダンの代表作と言われたつくばセンタービルに良く似た材料の構成である。

磯崎氏のミューズであるマリリン・モンローに似て、この建築は物質感が噴出しているようで、より大きく感じ、圧迫感がある。

いつか見た模型写真の素晴らしさに比較して、出来た物はどうもしっくりこない感じがした。材料の使い方やデザインにも、、、。

 

それともうひとつ、文化による町興しを標榜するなら、この素晴らしい中庭の周りに人がもっといてよい筈なのに誰もいない。

そして中庭の正面にはオブジェを宙吊りにし、それに噴水を組み合わせたアート・スペースがあるが、常時水が噴出してもったいない話だと思う。

イタリアはローマのトレビの泉やスペイン階段の前の噴水のように夜遅くまで人が佇んでいるようなら、こんなスペースも価値があるだろうが、、、、。

 

この建築は総工費が103億と聞いた。これらの施設を維持し運営していくためのコストも馬鹿にならない額だろう。

佐倉市の商業活性化のプロジェクトに取り組んだとき、ある人が100億円をこの地域に投入して町興しをすれば、昔日の栄光を取り戻せるだろうと言ったことを思い出したが、、、。 

 

 いかに優れた建築だと言われようとも、公共建築は日常的に人が近づいてくれなくては、やはりハコモノと言われても仕方がないと思う。何も建築家だけの責任とは思わないけれど、、、、。

企業や事業の目的はいかに多くの顧客を作って行くかだと聞かされたことがある。

 

小雨の中でひとり佇んでいるかのようなこの芸術館を見て、建築も社会の中でいかに人に好かれるかをもっと考えることが必要ではないかと思う。


●梅棹忠夫と国立民族学博物館

2010-07-06 22:23:18 | Weblog

 

 

文明の生態史観で有名な梅棹忠夫先生が亡くなられた。90歳だった。

若い頃、氏の情報産業論や知的生産の技術などを一生懸命に読んだことがある。

黒川さんが、若くしてスターダムにあった頃、青山一丁目の交差点にある三菱地所の青山ビルディングの11階の半分以上を黒川事務所、アーバンデザインコンサルタント、社会工学研究所の三つの会社で、借りていたことがあった。

そのころは三つの組織でよく行き来をして大変楽しかった思い出もあるが、あるとき、梅棹忠夫先生を囲んで討論会というか語り合う会を催したことがあった。

 

当時は良く考えるととても近づき難い偉い先生とも、平気で意見を交わしたり、失礼なことも話したりしたが、これも黒川さんのおかげだったかと思う。

 

情報産業論と言っても、コンピューターやIT機器を駆使するような話ではなく、もっと身近な情報を大事にするようにとか、あるいは過去のものを大切にすることから情報が得られると言うような、多少保守的な話をされたように記憶しており、物足りなくなった私は、生態学や人類学の実用性や効用性について先生に質問したことがあった。

その時先生は、都市のすべてが博物館になれば実用や効用という概念はなくなってしまうようなことを諭すように話してくれたが、しばらくその意味が理解できなかった。

 高度成長が終わり、安定成長時代かと思いきや様々な地殻変動で安定しない日本社会や世界の現象を見ていて、今何となくあの時先生が言いたかったことが理解できそうな気がしている。

 

梅棹先生が初代館長だった国立民族学博物館は、黒川紀章建築都市設計事務所で設計を行った。

私が20台後半の頃で、黒川さんが40歳ごろの作品である。

鳥瞰写真のように中庭を持ったブロックがいくつも重なり合って、増築が可能なユニークな形態をしている。

事務所では当時ヨーロッパの博物館資料を大量に集めて研究していたが、私は海外研修制度で偶々ヨーロッパのミュージアムを体験的に見てきたところだったので、このプランの原型がどこにあるのかもすぐ理解できたし、優れた着想だと思った記憶がある。

 

梅棹先生の文明の生態史観は、簡単に言うと自然現象と地理的条件から見て、大陸の中心から辺境の地にある西ヨーロッパ文明と日本文明の共通性、近似性に焦点をあてた独創的なものだが、近代以降の極端な西欧傾斜も故なきことではないのだろうと思う。

最近の中国や大陸の経済的成長、変貌や激動振りを大陸に詳しい先生はどのように見られていたのか一度聞いてみたかった、、、。


●アルマーニ・ホテル・・・ブルジュ・ハリファ

2010-07-04 21:59:17 | Weblog

 

世界で最も高い超高層ビルの中に、ジョルジュ・アルマーニがホテルをオープンするという話があった。

この超高層ビル、ブルジュ・ドバイは昨年のドバイ・ショックで完成がおくれ、又この間のアイスランド火山灰問題でも遅延するなど、やはり天に棹差し神様の逆鱗に触れたのか、ご難続きだったが何とか完成に漕ぎ着けたらしい。

828メートル、168階建て。このビルの不動産企画はドバイのエマール社、設計はアメリカのスキッドモア・オーイングス・メリル、建設は韓国のサムソン物産、ベルギーのベシックス。

脱石油、観光戦略時代のアラブ首長国連邦の象徴的なプロジェクトで、商業、居住、娯楽施設の核となる存在である。

名前も、首長のハリファ・ビン=ザイード・アール=ナヒヤールの名前を取り、現在ではブルジュ・ハリファと呼ぶそうだ。

 

アルマーニは、この建物の1階から39階までを使って、ホテルやコンドミニアム、アスレチックスなどのホスピタル施設をプロデュースしているようである。

それらの内装デザインをアルマーニが担当している。

写真は、38階にあるスイートのベッドルームだが、グレージュというアルマーニカラーを使った客室である。

内装デザインと言っても、家具やファブリックをファッションデザイナーの目で選んだと言うことで特別のホテル空間ではない。

 

天蓋ベッドを模した格子状の木の組み合わせや、天井材の選択の仕方に我々建築家のやり方とは異質なものを感じて興味深い。

しかし実物を見ていないのでなんとも言えないがここまでグレージュでやられると何となく陰気な気がしないでもない。

 

ファッション・デザイナーでスペース・デザインまで手がけるのは、かってのピエール・カルダン以来だがブランド商売もここまで来るとちょっとやりすぎかと思うが、アルマーニホテルは、今ミラノで、その後上海、ニューヨーク、東京とプロジェクトが続くようである。

高級コンドミニアムもエジプトで展開していくとのことだ。

 

カルダンの場合は、まだグローバル経済の規模も小さく、北京にレストランもオープンしたが、それほどのものではなかったと思う。

アメリカの株価が下落し、EU経済の不安定さも増す中で、ファッションの巨人の未来プロジェクトは順調に進むのだろうか、、、。


●ワールド・カップの余韻

2010-07-01 22:05:33 | Weblog

 

今日、ワールドカップ南アフリカ大会に出場したメンバーが帰国した。

決勝トーナメントに進出し、パラグアイに破れはしたが、多くの感動を与えたチームであった。

国民の多くが注目した4試合、睡眠不足が続いた日々だったが、これほど国民の気持ちを一つにさせるものは他にはないだろう。

 

 今大会では私は日本チームの活躍の他に、アルゼンチンのマラドーナの一挙手一動に大変興味があった。

リオネル・メッシの魅力的なドリブルスタイルも見ていてワクワクさせるが、まだまだマラドーナのそれには及ばない。

パラグアイ戦でも感じたが、南米のサッカーは力強さが違う。

体も大きさだけで言えば、それほど日本人も引けをとらないが、どうしても気持ちの問題、あるいは心の問題かとも思う。

 

マラドーナも貧しい家庭の生まれでそこから這い上がり現在の地位を獲得したと言う。

今回のアルゼンチンのFWの一人は、日々拳銃に見守られる中で幼少期を送ったようで、それを思えばサッカーでどれほどプレッシャーを受けようと物の数ではないようなことを言っていた。

やはりハングリーさがぜんぜん違う。そしてサッカーが生活の一部になっているのだろう。

日本ではちょっと名が売れるとすぐスポンサーが付いたり、テレビでちやほやされすぐに精神がスポイルされるようだ。

 

大分前に、”題名のない音楽会”という作曲家の黛敏郎氏の主宰する番組があり、その中でクラシックの指揮者の岩城宏之氏と確かキューバンボーイズというラテン系のバンドの指揮者が、それぞれクラシックとラテンの音楽を指揮しあう場面があったが、ラテンの指揮者が両方そつなくこなすのに、岩城氏はラテン音楽がまったく指揮できなかった。

やはりリズム感がぜんぜん違うのだと当時思った。

マラドーナの全盛時代のプレーを見ていると、変幻自在まるでラテン音楽の指揮者のようにグランドを駆け回っていた。

やはりラテンの血とハングリー精神がそのプレーに反映し、他の追随を許さない境地を作り出すのだろうと思う。

 

日本選手のこれからにこの精神を、、、、そして建築の設計でも都市の設計でも、ある意味ハングリー精神を忘れると途端につまらないものになってしまう。

 ワールドカップはまだ終わったわけではないが、帰国した選手達の表情や言葉の中に、自らの自戒の念を垣間見る思いではあった。