木村 和美 Architect

建築家木村和美の日常活動とプロジェクトについてのブログ

●景況感の低下と建設多忙

2011-06-28 22:41:22 | Weblog

 

真夏のような暑さの今日、出たり入ったりの動きだけでも汗をかきクールビズどころの話ではなかった。

暑い上に湿気があるので、衣服が体にまとわりついて極めて不快である。

冷房温度28度で本当に普通の執務が出来るのか心配になるが、私はここ数年間北側の部屋に陣取り冷房無しでパッシブクーリングを実践してきたので多少は対応できる。

 

昨日夕刻から知人に会い、最近の状況について意見交換したが、一般的な経済状況は決してよくは無い。震災後3ヶ月が経過したが、成長率は3~5%は低下するようだ。驚く事に中国でも日本のこの影響で0.5%マイナスとの事を聞いた。

夕刻の居酒屋は、以前は満杯であったが昨日は空席が目立ち人が少ない。

自粛ムードに輪をかけて外食に対する様々な批判が多く厳しい状況だ。最近は居酒屋も一工夫必要で、今まで空白の昼間の宴会を予約制で取るところもあると聞いた。

高齢化社会となり日中でも自由な活動が出来る人が増えているからという。

 

先日宅急便が5時半以降集荷をしなくなったことを初めて知った。

計画停電で、夕刻からベルトコンベアが動かないという。被災地ではまったく産業活動がストップしているのだから当然といえば当然の事だと思う。

それに反して建設業は忙しくなってきた。

被災地の復興作業はまだ着手できないのに、東京を始め関東一円のこの地震の被害修復工事や状況を打開するための建設投資、設備投資が自ずから発生している。

その上材料不足の職人不足と来ているので、多忙感は倍加して、おかしな事だが高揚感が溢れている状況だ。

この建設事情は、いわゆる景気を好循環にさせるものとは相違するが、本格的な復興事業が緒に付く助走になればよいがと思う。政治がうまくかみ合って動いてくれる事を祈りたい。

 

それにしても昨今の政治状況はどうだろう。

ここまで来ると語るに落ちるというか、話すのもイヤになるほどの体たらくで民主党政権の崩壊を思わせる。

”ディグニティ”などという言葉を忘れさせるような茶番劇。

以前はまだ委員会等でディベートする緊張感があったものだが、今はもう議論等というものはなく、国民に語り掛ける言葉も無くなって後はエゴむき出しの政争のみ。

恥というものを知らなくなった政治家が多くなった。左翼政権というのはこんなものかと思う。

 

テレビは今日も必死で生活する被災地の人たちの自助努力やボランティアの活動を伝えている。

2年程度前に宮城沖で地震の起こる確率は90%以上と報告されている。その時東海地震の確率は85%といわれていた。

色んな意味の対策と準備がどうしても必要になると思われる。

 


●性悪説とは何だろう

2011-06-20 21:48:33 | Weblog

 

 

今日はあの地震が起こった東北の中心都市仙台に行き建物の調査をした。

東京発のやまびこに乗り、宇都宮を過ぎると車窓に展開する風景は、ほとんどが緑豊かな農村風景である。(写真左)

東海道新幹線ではこんな田園の景色が連続する様は中々見れないが、今回の仙台行きはその緑一杯の風景の印象が特に強い。

この豊かな農村が今回の放射能に犯されているというのは、確かに恐ろしい事だと思う。

 

新幹線の中からは被災地の状況も、原発の放射能の状況も見えはしない訳だから、この緑の風景のどこかで、ニュースで見る畜産業の悲惨な出来事や農作物の出荷停止が行われていることなどちょっと想像できない気分である。

新幹線の中に置かれているトラベル小冊子を見ると、作家の津本陽氏の東北に捧げるエッセイが目に付く。

そこに書かれているのは、東北の人たちの質朴だが暖かい人柄、、、。

津本氏でなくとも、私も東北に来るとそれを実感する。それはつまり性善説の世界ではないかと思う。

 

調査した仙台市内の建物は思ったより被害が少ない。あの地震は市内では震度6強から7ぐらいの強さだったという。

それだけから見ると関東大震災と同程度で、確かにコンクリートの剥離があったりクラックが発生してはいるが新耐震設計基準で建てられた高層建築にそれほどの被害は見られなかった。

一安心だが、余震が続いてまだまだ注意が必要である。

 

最近の世相を反映してか、書店の店頭にはあの君主論を書いた”マッキャベリ”(写真右)や人間不信の書といわれた”韓非子”などの書物が多く見られるようになった。

これらはいわゆる性悪説をベースにした言説といわれている。

 

厳しくなる一方の経済状況、予想もしなかった震災と原発事故の被害、どうしようもない政治家の無責任さ、等等、そして何が起こっても不思議でない社会のなかで、常に最悪の状況を想定して生きることになると、人はいやおうなく性悪説に基いた行動を取らざるを得ない事は歴史が教えるところでもある。

 

ニッコロ・マッキャベリは16世紀フィレンチェのメディッチ家が、韓非子は紀元前250年頃かの秦の始皇帝が取り入れた言説、思想であった。 

それぞれ性悪説云々というより、現実的な人間学に基いた行動規範だと言ってよいだろう。

 

マッキャベリは言っている。”運命の神は女神である。女神はイタズラ好きだ、身を任せていると翻弄される。こちらがひっぱったり突き飛ばしたりする必要がある。”と。

つまり人は慎重であるよりは、思い切って進むほうが良いのだと教えてくれる。

 

仙台からの帰りの新幹線の中、ほぼ一杯ですべて指定席の車両で勝手に席を替えても車掌さんからは一言もおとがめがなかった。

東海道とは違う雰囲気に戸惑いながら、この震災復興も民主政権の中を色々ガタガタ揺さぶってでも早く進める方策は無いものだろうかと思ったものだった。

 

 


●パブリック・ポリシー

2011-06-12 09:03:50 | Weblog

 

梅雨のはざ間なのか、蒸し暑いなと思っていると急に冷え込んだり、これも温暖化の影響の一つなのか不順な天候で、もう一つ快適な日々とは言いがたい。

先週は,今度の地震で影響のあった昔の仕事のアフターケアに忙しかった。 久し振りに以前お付き合いのあった構造の設計事務所や、施主の建物にお邪魔し当時の様々な思い出に浸ってみた。

当時は日本の景気もよい頃でやりがいのある仕事が多く、緊張してやった仕事だけに、議論したり実際の建物を見ると熱い気持ちが蘇ってきて懐かしい。

耐震設計の基本的なこととこれからの方向性を考えてみるが,原発の耐震設計も話題となる。

 

週末は、アメリカ事情に詳しいジャーナリスト日高義樹氏の最近の著作”世界の変化をしらない日本人”を読む。福島の原発事故に対するアメリカの見方を述べているところが興味深い。

日本では今回の福島原発事故は、東京電力が悪者にされ、全責任を持っているように言われているがアメリカでは企業は飽くまで利益志向で利潤追求のため経費を切り詰めようとするのが当然であると言う見方。

しかしレギュレーター即ち監督官庁はもっと大きな見地から安全性を考えて建築許可を出すべきで、今回の話は日本の監督官庁がその任務を怠ったため事故が起きたとしているようだ。

従ってこれは技術的な問題ではなく、危機管理体制の問題だと結論付けていてアメリカではその原因を余り深刻には考えていないとの事であった。

 

”パブリックポリシー”というのは政策を作る際の倫理規定や行動様式、規制範囲などについて研究する学問領域であるが、政治や政府の仕事を目指すなら必須の学問とされている。

アメリカではたくさんの大学にこの分野の大学院が設置され特にハーバードのケネディ行政院(写真右)は有名である。私も十数年前、慶応大学の都市経済専門の高橋潤二郎教授がこことジョイントセミナーを行ったときに参加しようと調査したことがある。

ロンドンのスクールオブエコノミックスや、パリの政治大学院も著名だが、日本では1963年に国際基督教大学に公共政策大学院が初めて設置されるるまではこの分野の研究は進んでなかったという事になる。

 

今回の原発事故は日本の監督官庁が何が公の利益になるかというパブリックポリシーをもたないまま許可したために事故が起きたという具合にアメリカは判断しているという事である。

 

こうしてみると日本の報道されている現状とアメリカの判断は随分違い、そこをメディアはなかなか伝えないし国民もわからない。原発事故は当たり前の事だが日本政府が全責任を取るべき事である。

日高氏はもともと保守サイドの人だから、この本では民主党政権はボロクソであるが、現在のダッチロールを見ているとあながち的外れではないようにも思えてくる。

もっと重要な事は、大地震への対応や馬鹿馬鹿しい政争に時間を費やしている間にも世界は刻々と変化し日本が国益を失っていく状況に気がつかないことである。

 

原発の後処理や震災の対応を見ていても公の責任と民の境界が曖昧となり、よくわからない状況となっている。

”パブリック・ポリシー”

原則としての公の役割を明確にし、各官公庁の行うべきことをはっきりと国民に伝えていくことが政府や政治家の仕事だが、民主党政権ではどうやら無理のようである。

 

 


●人相、骨相、声相

2011-06-04 21:15:15 | Weblog

 

 

先日の菅内閣不信任をめぐる一連の出来事を見ていて、これは本当に一国を預かる政治家のとる行動なのか余りの低レベルのやり取りで何とも言い様のない気持ちになった。

交わした書面の解釈で、やめるやめないなどという事は一般社会でよくある揉め事と同じ類で、あの人たちは、国民の目がすべてみているという事をまったく意識しない典型的な永田町族になってしまったと思う。

あの人たちとは、現在の民主党菅政権の人たちのことである。一晩眠ってやっと自分達のやっていること、言っている事に気がついたのか今日は少しまともな事を話していたようだった。

 

こんな中で、改めて菅政権の主だった人たちの人相を眺め直してみた。”40になれば自分の顔に責任を持て”と言ったのは、リンカーンだったか、今の政権でこれは良い顔だという人は中々見つからない。

菅総理は、与党になってからまったく顔が変わってしまった。

仙石前官房長官も病気をする前はふっくらとして良い顔だったが、官房長官になってからいわゆる悪相で、誠に失礼だがとても見れたものではない。

枝野氏も然りの感がある。岡田幹事長は本当に変な顔になってしまった。

何故だろうと思う。人間、権力を持つと変わるのだろうか?

 

骨相、観相、顔相などをまとめて人相というが、19世紀に学問として流行したのがオーストリアのフランツ・ガルによる骨相学で、頭蓋骨の形でその人の性格等の精神的気質がわかると主張したものだった。

これを拡大解釈して顔の形や表情で様々なものを読み取るのは現在でも占いや多くの人が日常的にやってiいる事である。

又同じように声相学というのは、声によってその人の人となりを判断する学問だが、これも常識的に一般社会で判断の基準に使われている。

建築家の黒川紀章さんは私が知っている頃この骨相学に興味を持ち、都市の骨相診断などと言ってそれぞれの都市の内容を、道路パターンや施設の配置パターンから読み取り、処方箋を書くやり方を全国の都市のマクロ分析に応用したりしていた。

私は当時声相学に興味があり、骨相と声相あるいは人相など黒川さんと議論した事もあるが、氏は声について一家言を持っていた。

学生時代に弁論部に所属していたので取り分け声については関心があったと言う。彼に建築を言葉で語らせるとこれが一品で、当時彼の話を聞くと皆なるほどと納得したが、それも声の質のおかげだと言っていた。

 

前川國男氏と坂倉準三氏はともに日本の近代建築の代表的な建築家だが、坂倉さんは声が素晴らしかったそうだ。

大きな声ではっきりと主張し、前川さんの方が先輩だが二人が論争すると坂倉さんが優位になるのは声のせいだと黒川さんが教えてくれたことがある。

 

学問的には色々あるが、結局バランスの問題で、見て気持ちのよい顔に、聞いて気持ちのよい声になるよう努力することが良識ある一般人の努力目標だろうと思う。

そうしてみると現在の民主党の人たちより自民党や他の野党の人たちの方が余程バランスのとれた顔や声をしているようにも思える。

 

残念だが経済界や官界も同じようなもので、今度の福島原発に登場したそれぞれの人達の顔や声を反芻してみるとよく理解できる気がしてくる。

骨相学の人種的分類の世界では、日本人を含むモンゴロイドは”倫理的に劣り、模倣的で独自性がない”とされているようだ。

 

他人のことをあれこれ批判しても詮無い事で、私は今日からでもカガミを見て少しでもバランスの取れた明るい顔をするよう、声をお腹から出してはっきり物を言うように努力したいと思い直した次第である。