れいな日記《Reina- diary》

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岩城相馬街道(のちの陸前浜街道)と神岡宿(北茨城市)の飯盛女

2006-08-19 | 北茨城市の歴史

画像説明
関南宿(現在の神岡下付近)は、昭和初期頃まで国道六号線(陸前浜街道)であったがバイパス道路完成により、交通量が減り、現在は閑静な街となっている。

江戸幕府は、陸上交通として江戸を中心に、東海道、中山道、甲州道中、奥羽道中、日光道中の五街道を整備してこれを直轄として、多くの脇街道(主要地方道)をも整備した。
北茨城地方往古の主要街道は、海岸沿いに奥州に至る岩城相馬街道(脇街道)と棚倉(平潟)街道であった。江戸から水戸に至る水戸街道(水戸より江戸に向かう場合は江戸街道と呼ぶ)と、水戸以北の岩城相馬街道を「浜街道」と称した。
明治元年、陸奥の国が、陸奥、陸中、陸前、磐城、岩代と五つに分国されてからは、岩城相馬街道は「陸前浜街道」と改称された(明治5年4月29日)。
そして、五街道には、2.3里の間に一宿駅(宿・宿場)が置かれ、宿駅には、人馬継ぎ立て事務を行う問屋場、大名などが宿泊する本陣、脇本陣、一般旅行者の宿泊する旅籠屋などがあり、各駅ごとに一定の人馬が用意され、大名や一般武士、その他公用の旅行者や荷物の輸送に当たった。
宿場の人馬に不足が生じた場合は、あらかじめ指定してある近隣の村々からこれを調達した。
このような村を助郷といった。
※ 「神岡宿」の助郷村‥‥山小屋、八反、関本上、関本中、関本下、仁井田、神岡下、平潟(以上八村)
※ 「足洗宿」の助郷村‥‥松井、粟野、内野、大塚、上相田、日棚、木皿(以上七村)
北茨城地方の宿駅には、足洗・下桜井・磯原・神岡が挙げられているが、代表的なものは足洗・神岡の2つと伝えられている。

その賑やかな宿駅には、こんな話もある。

宿の飯盛女

港の洗濯女と同じようなものが旅籠屋の飯盛女と称するものである。
飯盛女とは、宿駅において、遊女にとって代わって出現した政府黙認の売春婦である。
幕府は、宿場におけるこの種の行為は極力抑えてきたが、公儀御用人や荷物継立てを円滑に行うためには、宿場財政を豊かにしておかなければならず、宿場繁栄のためには飯盛女は必要であった。
そこで政府は、享保3年(1,718)、旅籠1軒につき飯盛女を2人を許可したものである。
江戸時代末になると、飯盛女の対象は外部の旅行者から宿内の農民などに替わり、種々の問題を生じたという。
当地神岡宿(北茨城市)に飯盛女が置かれるようになったのは、天保7年(1,836)頃からで、当時飯盛女は日暮れ時に往還に出て、旅人、近郷の役人を問わず客引きしたので、松岡の役人から神岡宿の領主に次のような嘆願書が出された。
この要約内容は「神岡宿の宿屋で抱えている売春婦は、日暮時に街道に出て旅人、近郷村民の区別なく部屋に引き込んでしまう。磯原村の若者らは宿場に馴染みをつくり、家業を怠る者も出、下桜井、足洗の人馬継立の者は日銭が入るので神岡宿に行ったついでに遊んでしまい仕事に支障を来たしている。‥‥中には廃人も出る始末なので、飯盛女を置かないで欲しい」というものであった。
しかし、この廃止要請を受けることは、宿場財政の収入源を絶つことにもなり、現状維持のまま、その後も色街は繁昌したとのこと。

北茨城市史参照


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1 コメント

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次は・・・ (麦わら帽子)
2006-08-20 07:03:09
洗濯の後は炊事ですか、そうなると次は掃除女?(笑)。

そのものズバリでは風情も無いので、擬えた呼び方が良いですね。

れいなじさんの紹介文は非常に面白く拝見させて頂きました。

それにしても昔の村って、小さな単位だったのですね。

20軒もあれば立派な村だったとか?・・・飛騨での話ですが。
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