れいな日記《Reina- diary》

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北茨城市平潟の洗濯屋(遊女屋)

2006-08-17 | 北茨城市の歴史
平潟漁港入口

〇昭和60年代までこの付近は、橋げたまで海が迫っていたが、現在、港湾整備事業で整備され、港は、ちょっと遠くなった。
〇当時、橋の片辺は、殆んど洗濯屋(遊女屋)が軒を並べて営業していたと云われている。

北茨城市平潟港は、寛文11年(1,671)河村瑞賢が東廻航路を開発した時に、那珂湊、銚子、小湊(千葉県)とともに、同航路の寄港地に指定され、元禄、宝永(1,688~1,710)の頃から繁華な地となり、人の集まるところは、人間の欲望からの需用と供給が成立し、色街としても発展した。

平潟の洗濯屋
平潟の遊女屋は洗濯屋と呼ばれた。
天明年間(1,781~1788)、山崎屋武次右衛門他4人が、諸廻船の賄を洗濯下女に行わせ、その間に運送の手はずを調えれば、廻船の入津も多くなり港の振興になるとの理由で、一軒につき洗濯下女3人の召抱えを願い出、渡世の許可を得た。
これが平潟の洗濯屋(遊女屋)の始まりであった。その後、文政13年(1,830)には、洗濯屋の数は8軒(山崎屋、阿波屋、伊勢屋、伊勢屋、鱗屋、相模屋、近江屋、岩崎屋)に増え、これと不可分の仲宿43軒が仲間を結成し隆盛を極めたという。
しかし、天保13年(1,842)、天保の改革が行われ、風俗取締りもあり、翌14年に洗濯屋は渡世替えとなった。これに対し、洗濯屋5軒と村役人から渡世継続の嘆願が繰り返えされた。
その理由は、洗濯下女の働きがあるから廻船の入津も増え、諸商売が賑わい、かつまた、洗濯屋、仲宿の冥加金、積金は莫大で、平潟村の場合、村の必要経費は洗濯屋の積金により賄われることかが大きかったので、洗濯屋の禁止は、港や村の衰微につながるというものであった。
この願いは聞き届けられ、弘化3年(1,846)関八州御取締より洗濯屋、仲宿とも渡世再開が許された。
この洗濯屋は、年により増減はあったろうが、昭和初期まで続いたということである。

北茨城市史参照



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2 コメント

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昔は必要だったのですね (麦わら帽子)
2006-08-18 07:40:42
色街の遊女屋を洗濯屋と呼ぶなんて粋ですね。

命の洗濯・・・からでしょうか?。

残念ながら私が洗濯してもらう前に無くなってしまいましたが・・・(笑)。

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有難うございます。‥ (れいなじ)
2006-08-18 08:36:44
むぎわら帽子様いつものご訪問有難うございます。

私のb-log「れいな日記」は、ローカル日記にも拘らず、ご覧下されていることに感謝しております。

今後とも宜しくお願い申し上げます。
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