れいな日記《Reina- diary》

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北茨城市華川町の炭鉱全盛期

2005-09-01 | 北茨城市の歴史
※ 画像は、華川町小豆畑山下(現在の華川公民館付近県道右側)

北茨城市華川町の炭鉱の歴史は、江戸時代末期の嘉永年間に石炭を江戸(東京)に市場を求めた常磐炭鉱北部坑の先駆者、上小津田地区に在住した神永喜八から始まりました。

爺は、昭和20年後半頃から、この上小津田、小豆畑地区も遊び場でしたから、この地域は、よく知っています。特に昭和30年代は炭鉱の好景気と神武景気・岩戸景気が続いて、炭鉱関係者は勿論のこと、村(市)政が豊かになり、ほぼ全ての職種の店が潤い、街の活気は大変なものでした。

ちょうどこの頃白黒テレビが出始まり、一般住民は購入できないテレビも炭鉱従業者は簡単に購入し、社宅の屋根は、テレビアンテナの林状態ぐらい炭鉱従事者はお金持ちでした。(或は“宵越しの金(現金)”は持たない性格だったかもしれません。)

そして山下地区は、暮市、祭礼、花火大会、運動会などが炭鉱㈱主催で行われ、華川劇場、新クラブ(劇場)の二つの劇場も交互して、映画、芝居(大衆芸能)を上演をするなど、賑やかな街には人で溢れていました。

爺が印象的なものは、度々杉本炭鉱が“新クラブ”で映画、芝居を上演提供して、その度に杉本炭鉱、杉本次平社長さんらが舞台あいさつをしていた事です。

※“華川劇場”は、画像で見るように鉄砲屋さんの道路を挟んだ前にありました。
※“新クラブ”は、現在の「華川郵便局」の並びの約200メートル先にありました。

北茨城市をつくった先人たち「杉本次平」の経歴など



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1 コメント

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父のいた町 (二ッ島)
2022-09-16 18:37:09
最近亡くなった親父が生まれも育ちもここで選炭場で働いていました、あまり多くは語らなったけど、ストリートビューで見せると
華川の町の話をしてくれたことがあります。
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