乗るなり皆が手慣れたものでお休みモードに入る。
たちまちあちこちから寝息が聞こえてくる。
お酒でも飲んでてな甘い考えはあっと言う間に消え伏せ。
おかげでゆっくり休んで快適な朝を迎えた。
仙台は震災からしっかりたチアがっているように思える。
それはよそ者の無責任な感想かと反省しなければ。
そんなに簡単なものではないだろう。
寒い朝だったけれど、久しぶりに鴨川にでかけた。
ほぼひと月位来てなかったかもしれない。五条大橋までくると、もう冬の使者であるゆりかもめが集団で生活していた。このあたりとか、丸太町あたり、今出川あたりでは冬場にかならずゆりかもめVSトンビのバトルが見られる?
今日もトンビが上空からピーヒャララ・・・と威嚇している。時々、トンビが近づくとゆりかもめが群れで移動する。
トンビにしたら、一年を通して生活しているのに、冬になると断りもなくやってくるゆりかもめであり、ゆりかもめにすれば、一年中いるんだから冬場くらい貸してくれてもいいやないかと思っているのか。
どちらにも言い分はあるのだろうが、ひょっとして国際法違反だとか、排他的経済水域とか、鳥語で会話をしているのかもしれない。
ここは仲良く暮らしてほしいものだ。去年は確か鴨川で飲食店に出勤前のサンタさんに出くわしたのだが、今日はジョギング中のサンタさんにであった。
いろんなサンタさんが存在する。サンタさんが消えたら、もう除夜の鐘がやってくる。
昨日、まだ酔いの残っていた僕に妻が「明日、御所の紅葉の写真を撮ってきてよ」と・・・
唐突な話に理由を聞くと・・・
妻のロンドンにいる友人から連絡があって「御所の紅葉の写真が欲しい」という。なぜかというと友人は以前に御所の近くに住んでいたようだが、その頃の御所の紅葉が忘れられないらしい。
それにしてもなぜ御所なのか。聞くと、この友人はお寺などあまり興味がなかったようで、御所の自然しか記憶にないという。
長く京都に住んでいたのに、こんな人もいるのか・・・と思うが一方で確かに御所の四季はすばらしい。
で早速、朝から御所に・・もう御所は初冬の雰囲気で常緑樹の緑が映えて赤・黄があまり見当たらない。少し歩くと、見事な?紅葉の残骸が見つかった。
「小さい秋見つけた」という歌があるが、御所で「秋欄慢の夢の跡」を見つけた。
御所内の閑院宮邸跡では、新年に備えて松の剪定が始まっていた。
もう御所は迎春ムードだ。
嵐山の近くに住む知り合いから「今年は紅葉が2週間ほど遅れて、嵐山の紅葉は今が盛りですよ」と聞いた。
実は今週の金曜日から嵐山の花灯路が始まる。毎年、紅葉の後の少し寂しくなった嵐山をライトアップなどで賑やかにしょうとされているのだが、今年は紅葉と見事にバッティングして、さぞかし渡月橋からの素晴らしい景色が見られそうだ。
18日(日)までの短い期間だが、「紅葉の嵯峨野・嵐山」が見られそうだ。
ところで、嵐山だけでなく京都全体の紅葉が遅れているようで山並みを見ると、かってあまり経験したことのないほどに紅葉の色が鮮やかだ。
職場の近くの山は牛尾山に連なる山々なのだが、東山辺りの山並みが常緑樹が混ざり合った紅葉と緑の共演なのだが、こちらの山は常緑樹が少なく、まさに「紅」一色だ。
「山が燃える」というのは、山火事か情念で燃え上がった「天城峠」くらいかと思っていたが・・・
こんな自然を体感できる環境で仕事をさせてもらって、感謝・感謝・・・
今日も朝から紅葉スポットに・・・
「京都の紅葉」といえば、僕の頭の中には嵐山、永観堂に東福寺が出てくる。で、今日はその東福寺に出かけた。
東福寺は「京都五山」のひとつだ。もともとは鎌倉幕府が鎌倉地方で中国を真似して作った「五山」だが、鎌倉幕府滅亡後に京都で「五山」が復活した。
ちなみに五山は、別格ー南禅寺、1位ー天竜寺、2位ー相国寺、3位ー建仁寺、4位ー東福寺、5位ー万寿寺となっている。万寿寺以外はなじみのお寺だ。
ところで、東福寺界隈に着くと、凄い人出に圧倒された。この時期に東福寺に行ったのは初めてで人から「凄いよ」と聞いていたが、例えはイマイチだが八坂神社の初詣みたいな混雑だ。
人と人の隙間から「紅葉が見えた」という感じで、留まることも出来ず流れ作業のように押し出された。
で、帰りに東福寺塔頭の退耕庵の紅葉をゆっくり観覧した。ここは小野小町ゆかりの寺で小町宛の恋文が納められているという。小野小町といえば山科の随心院もゆかりの寺だが・・・まあ、小町もあちこち動き回ってたわけだから。
退耕庵は幕末に長州藩の宿坊になっていたようで、鳥羽伏見の戦いで亡くなった長州藩士の菩提所になっている。先日は鳥羽伏見の戦いの会津藩の菩提所である金戒光明寺に寄ったが・・・
ここまできたので、雑踏を抜けて隣の泉踊寺に向かった。泉踊寺も沢山の人だが東福寺にはおよばない。さらに、ついでに泉踊寺のそばにある今熊野神社に向かった。
きれいな紅葉が迎えてくれた。
そこから思い立って清水山に入ろうとしたが・・・慣れ親しんだ山なのに迷った末に大谷本廟に出てしまった。ここも紅葉が綺麗に迎えてくれたが、どっと疲れが出てきて「今日の紅葉狩りはこれくらいにしておいてやろう」・・・
朝から500円の市バス一日乗車券を活用して、紅葉を満喫するためにめぼしい名所へ出かけた。
まずは市バス5番を乗って「真如堂」へ。東山界隈の紅葉の名所というとまず永観堂だが、ここ真如堂も見事な紅葉だ。
5番のバスは平安神宮や永観堂にも行くので、いっぱいの乗客だったが、真如堂まで来ると全員着席できるくらいに空いてきた。
真如堂の紅葉は今週末位が一番の見ごろになるそうだ。それでもきれいな紅葉を見せてくれていた。ついでにここから歩いて2,3分の金戒光明寺にある会津藩士の御墓に寄った。
鳥羽・伏見の戦い(薩摩・長州×幕府ー会津)で戦死した会津藩士のお墓になる。時代にめざとく対応した薩摩・長州と時代にもぶれずに国体を守ろうとした会津藩・・・飯盛山での白虎隊の自刃など個人的には会津に心を惹きつけられる。
次にここから歩いて10分ほどの法然院に向かった。途中、霊鑑寺に・・・ここは後水尾天皇の皇女を開基とする門跡寺院だ。
京都は門跡寺院が沢山あり、その値打ち?がよくわからない。この霊鑑寺の横道を山に入るとこの前紹介した平家を倒そうと企てた「鹿ケ谷の変」の首謀者・俊寛の邸宅を経由して大文字山に至る。
法然院につくと沢山の人で静寂を期待していたのに少しがっかりしたが、それでも山門は絵になる。
銀閣寺バス停まで戻って203号バスに5分ほど乗って出町柳駅から下鴨神社へ行った。
下鴨神社は七五三のこどもたちでいっぱいだった。子供より両親、両親よりも祖母祖父の方が張り切っている。
下鴨神社の紅葉はイマイチだった。で、下鴨神社の横にある糺の森を通って次の所へ。糺の森には地道に積もった落葉が地道の土と落ち葉が同化しかけていた。
もうじき落ち葉が土と同化して腐葉土になり、来年の春に備えた栄養を大地に与えてくれる。
次に出町柳から市バス203号で15分・・・北野天満宮へ向かった。
約3時間で6ケ所の紅葉スポットを走りまわった。
朝から紅葉を求めて鴨川ウオークへ。
鴨川添いは前にもコメントしているが、その時とあまり変わりなく早々に鴨川を離れて紅葉のメッカ・南禅寺へ向かった。
さすが南禅寺は観光客で繁華街(古い表現で)みたいな盛況だ。隣の永観堂の紅葉には一歩及ばないと思うけれど、あと1週間ほどで一番綺麗な紅葉になりそうな気配だ。
で、何の躊躇もなく南禅寺の横に位置する水路閣から山へ入った。ここから山に入ると、日向神社や大文字へ抜けられるが、今日は途中から横道にそれて池谷地蔵とそばにある薬草園(ただし休園中)に行こう。
この前、大津から登って池谷地蔵・薬草園に行くことができなかったので、今日はぜひとも行かなくては・・・
大文字三角点の手前で、大文字三角点方向と俊寛僧都が平家打倒の陰謀計画をしたという山荘への方向と、もう一つこの前に登ってきた大津市藤尾方向に道が分かれてい。さらに藤尾方向の道は途中から比叡平への方面にも分かれる。
今日はその比叡平への道の途中にあるらしい池谷地蔵・薬草園に行く予定だ。
分かれ道から予定どおり藤尾方面、さらに比叡平方面へ・・・
しかし、比叡平方面に向かったのに池谷地蔵が出てこない。道に迷ったみたいだ。下の方から子供たちの野球練習の声が聞こえている。方向は間違いないと思うが・・・
迷った道沿いに動物の檻があって、そばによると急にごぞごぞしたかと思うと、野生の大イノシシが捕らわれていた。
もう心臓が止まる思いがした。
それから山道を地蔵さんを探してアチコチ・・・やっと見つけて池谷地蔵へ
どっと疲れてきた。そのまま比叡平の団地に入り、バスに乗って帰宅・・・
山の中も秋の気配が濃くなってきていた。厚く積み重ねられた落ち葉を踏みしめながら、ふと、あとひと月もしないうちに雪が降り積もってくるだろう。この山中も春までしばらくお別れだ。
もうそろそろ紅葉シーズンの真っ只中なのだろうか。
今日は夕方に車で出かける仕事があったのだが、街中へ行くまではそれほどに混雑していなかったのだが、帰りに街中から山科に帰る際に渋滞にはまってしまった。
京都市内は景観への配慮から街中に高速道路もなく、昔ながらの幹線道路が存在するだけで、確かに車で動くには非常に不便な街だ。
といって、観光地なるものが四方に点在しており、公共交通機関を使っていては1日では上辺だけ回ろうとしても到底無理だ。
パークアンドライドということで、郊外に車を駐車してバスや電車で動き回るよう推奨しているが、なかなか賛同を得られていないのが現状だ。
現に今日も沢山の車両が名神高速道路に向かって数珠つなぎだった。
そこで、提案だが、宿泊料も高速道路代も一日乗車券も入場料も、少し割高になってもいいし、たとえば1年で3回まで利用可能なものにするとかの工夫はどうだろう。
リピーターも増えるし、観光に来られた方も同じ場所の秋と春を見たり、全く違うところにゆっくり行ったりとバリエーョンが豊富になると思うのだが・・・
混雑の中で前の水戸ナンバーの車を見ながら、ふと感じた。
今日は午前中に仕事があって昼からウオーキングにでかけた。
職場の近くの山科四宮から大文字山を目指して山に入った。一度も通ったことのない道なので少し不安があるが、所詮は浅い山だし、道がわからなくなったら麓に降りれば何とかなる。
疎水を琵琶湖方向に向かって歩いていく。三井寺の山に入るところで疎水もトンネルに入る。ここで疎水ともお別れだ。明治時代の人はすごい水路を作ったものだ。日本一の水かめから水を引っ張ってきたわけだから・・・
しばらく歩くと、藤尾神社に出た。このあたりは大津市藤尾奥町になる。ここを右に行けば、小関越えに入り三井寺に出ていく。僕はここを左へ入って大文字山を目指す。
山道に入って急に気温が落ちてきた。日差しが遮られてひんやりする。紅葉はまだまだという感じだ。
いくつもの道があり、果たして選択した道が正しい道か少し不安になりつつ、小一時間ほどすると、大文字山へ至る標識が出てきた。薬草園にも出るが、今日は大文字を目指す。ここまで来ると山ばばあ・じじいが現われてきて、ほっとする。
そこから15分ほど歩いて如意ヶ岳の三角点に到着する。もう大文字の火床までもう少しだ。
さらに15分で火床に到着した。ここからの風景は絶景だ。やっと紅葉しかけた大文字山の木々の向こうに京都市内が一望できる。
少し休憩をして、慣れた山道を麓まで。
途中で前の職場の知り合いに出会った。山へ入ると前の職場の連中によく出会う。それも大概はグループのリーダー役で来ている。今日も子供4人を含む3家族で先頭を切って大文字へ登ってきていた。
前の職場の連中は身体を動かせるのが好きで、お人好しな人間が結構多い。
「さあ、頑張って行くよ。」と皆に大声で呼びかけて登っている知り合いを見て・・・遠くからでも前の職場の人間とわかる。
知り合いにも会えて、少しハ―ドだったけれど楽しい半日だった。
ここ数週間の週末は雨が降ったり、仕事があったりで、定番の「鴨川ウオーク」に出かける機会が少なかったので、今日は先ず鴨川へ。
ここ数日、秋らしい気候になってきたが、今日は久しぶりに暖かい日差しを受けて気持ちの良い「鴨川ウオーク」ができた。
鴨川添いの木々がトラ刈りみたいに色づいた葉が落ち始めてお世辞にも風情のある雰囲気とは言えない。
ふと、紅葉は確かに感動するほどに綺麗だが、違う方向から見ると寿命になった葉が枝から離れていく直前の姿で瀕死の姿を「きれいだ。きれいだ」とか言いながら眺めているわけだ・・・
とはいえ、やはりきれいなグラデーションを見せてくれる紅葉を目の当たりにすると瀕死の姿とは到底思えず見入ってしまう。
丸太町橋から上流の左岸を眺めると赤、黄、緑に青空が見事にマッチングしている。
帰りに地下鉄の市役所前に来ると、「大震災支援プロジェクト」のイベントが開催されていた。会場では津軽三味線の演奏が始まっていた。
大震災から8ヶ月が過ぎた。
京都御所に行ってきた。秋の一般公開の最終日で、さほど行きたくもなかったのだが、朝に妻と話をしていて妻から「御所の一般公開に行っておいでよ。春と秋に公開があるといっても次の春まで命があるとの保証もないし」と言われて・・・・
まあ、命はともかく、ひょっとして天皇陛下が「京都に住みたい」と言われたら、ここは天皇家の住まいだから、ハウジングセンターみたいに気軽に見に入るわけにいかなくなるわけで、そうならないうちに・・・
どんよりとした空が幸い?してか、びっくりするような人出でもなく、ゆっくりと中を見ることができた。
で、まず車寄せから、ここから歴代の天皇家の人々が入って行ったということになるが・・・質素な設えがかえって重厚さを感じさせる。
実は御所の中はもう10数回入っているが、常のごとく詳細な記憶は全くない。憶えているのは紫宸殿と御池の庭
くらいだ。
清涼殿がプライベートな建物で紫宸殿が公式行事に使われる建物で、ここで元服とか立太子などの行事が行われる。御池の庭もお客さん用の庭で、今まで気がつかなかったがプライベートには内庭がある。こちらの方がこじんまりして隅々まで目が行きとどいているような造りになっている。
少し赤みが出てきた木々を眺めながら、しばらく内庭でぼーっと・・・何度も来ている御所だけれど、こんなにゆっくりしたのは初めてだ。
帰りに、「ここだけしか売ってない」というフレーズに乗せられて、「御苑の菊」なるおまんじゅうを購入・・・
家へ帰って早速いただいた。どことなく上品な味が・・・?
今日は久しぶりに山に入ってきた。と言ってもそんな大層な山ではない。山科の毘沙門堂から入って蹴上・南禅寺までの山歩きだ。
地下鉄を降りて、毘沙門堂まで15分ほどダラダラ坂を上って行く。前に歩いている女子大生4人グループに追いつこうと頑張ったが、結局は毘沙門堂まで追いつかなかった。
彼女たちの会話が聞こえた。「昔は毘沙門堂のここに門があったんや」と・・・うん?そんな事は聞いたことがないが・・・ふと石柱を見ると、「毘沙門堂門跡」とあった。
(アホ・この門跡は門の跡という意味やない。これは門跡寺院というて、住職を皇室関係の人が務める格式の高いお寺と言う事や)とはいえ、ひょっとしたら、彼女たちの言うように門があったかもしれない。
紅葉を期待して来たのだが・・・紅葉?になっているのは毘沙門堂の赤い旗だけで見事に緑一色だ。
で、早々にここから山へ入った。山道には山ガ―ル・山ジジイ・山ババアが沢山歩いていた。山の中も赤や黄はジジババの服だけで、あとは緑ばかりだ。冬場の二流ゴルフ場のグリーンみたいに緑色スプレーを吹きつけているのではと思うほどに・・・
で、紅葉は諦めて蹴上の日向大神宮にまっしぐら。ここも緑ばかりで・・・ここまできたらと、南禅寺に向かって紅葉を探そう。
話は飛ぶが、大規模災害などがあれば、その現場に医師や救急隊員がやってきて、先ずけが人の治療の優先順位を決める。それをトリア―ジというのだが、その時の優先順位の色が赤・黄・緑だ。
今日はどことも緑で、大したけが人はいない?状況だ。もっと赤や黄が見たかったのだが・・・
南禅寺も観光客だけはびっくりするほど来ていたが、残念ながら紅葉はまだまだだ。やっと南禅寺の近くの屋敷に赤くなった貴重な木を発見した。
釣りに出かけて全く成果がなく、途中で釣り堀に行って最初にツバスを釣った時みたいな心境だ・・・
今日の朝は気分がなかなか高揚しなかった。
昨日のバンドOB会が心の片隅にあった塊のひとつを消化したせいかもしれない。
とはいえ、糖尿病対策も考えなければと鴨川ウオーキングにでかけた。
鴨川はこの前まで銀白色や黄金色のススキの穂が風にのってたなびいていたのに、土手の雑草刈りとともに刈り取られ、僕の髪の毛のように殺風景な川になっていた。
二条大橋のたもとにあったホテルフジタの解体工事もすっかり終わり、しばらくすると新しいホテルが姿を現すのだろう。
昨日、行われる予定だった時代祭が雨で今日に延期されたということで、三条大橋あたりに沢山の見物客が集まっていた。
時代祭はいわゆる「祭」と呼ばれる五穀豊穣感謝や鎮守の森の祭りでなく、首都が東京へ移ったあとの京都を活気づけるために市民が立ちあげたイベントで、「パレード」という類のものだが・・・京都三大祭りの一つになっている。
行列の本体がなかなか来ないので、やっと現われた「時代祭」の旗を撮って鴨川ウオーキングに戻った。
一杯の人のなかでじっと潜んでいるのはどうも苦手だ。
鴨川に戻って四条大橋の南あたりで、年老いた夫婦が土手にすわり、昼食をとられていた。
おじいさんがビールを片手にスケッチを・・・おばあさんが昼食のお弁当をひろげておじいさんに勧めていた。
結婚されて何年くらいになるのだろうか。子供も手を離れ、夫婦二人のほんのりとした休日の使い方・・・
思いきり幸せそうな光景だった。僕にはこういう光景は願うべくもないだろうけれど憧れだけは・・・
今日は左京区の岡崎公園・平安神宮一帯で行われた「京都学生祭典」のお手伝いに出かけた。
すごく良い天気で「これぞ秋晴れ」という晴天のなか、昼前から神宮道沿いで行われた「京炎そでふれコンテスト」は沢山の人で埋め尽くされていた。
残念ながら、他にもイベントは沢山行われていたのだが、お手伝いの関係で「そでふれコンテスト」しか見られなかったが・・・
夕方の6時30分から行われたグランドフィナーレはゆっくり見ることができた。
若い子たちの底しれぬエネルギーを感じる。同時に、このエネルギーを出させる源は何かと考えてしまう。
脚をひきずりながらも、高熱で朦朧としながらも、グループの一員として自分の役割を果たそうと頑張っている。
一体感を求めているのだろうか。既成社会からの押し付けでない集団志向が彼らの気持ちを揺り動かせているのだろうか。
いずれにしても規律正しく活気にあふれたグル―プばかりだ。
ただ、みんな同じような顔をしている。みんな同じような服を着ている。みんな同じような曲で踊っている。
今日のウオーキングは哲学の道から法然院の方にでかけた。
法然院は銀閣寺に住んでいた頃は休みの度に散歩に寄った場所だが、銀閣寺を離れてから一念発起しないとここまでやって来られない。
変わらず質素だが毅然としている山門をくぐる。気持ちよい秋風が山のニオイを乗せて漂ってくる。
後鳥羽上皇の女官であった松虫姫・鈴虫姫が上皇の留守の間に、ここにきて法然上人の説法を聞き、今まで貴族階級の教えだった仏教を「全ての人は南無阿弥陀仏に救われる」とする法然の専修念仏の教えに感銘する。
そして、二人は法然の弟子である住蓮房と安楽房を慕い出家する。
それを知った後鳥羽上皇は、住蓮房、安楽房を死罪に、法然を讃岐国へ流罪とした。
仏教を今のような民衆の宗教として普及させたのは法然であり、その弟子、親鸞であり蓮如なのだろう。その礎がこの法然院ということだ。
ところで、この法然院ではここの庭を見ていて「自然の庭は自然に作れない」(人を導いていく秘訣なり)とか色々な事を教えてもらったが、今日もいいものを見せてもらった。境内のつくばいだが、水の落ちるところに、さりげなく木の葉が置かれていて、うまく水が流れるように設えが施されている。
どうでもいいような事なのだが、この気遣いに感心してしまった。