空華 ー 日はまた昇る

小説の創作が好きである。私のブログFC2[永遠平和とアートを夢見る」と「猫のさまよう宝塔の道」もよろしく。

映画「大いなる幻影」

2019-09-21 09:01:38 | 映画「大いなる幻影 」

 


この映画はあまり戦闘の場面は出て来ないのが印象的でした。古い映画なのに、HDマスターで綺麗な映像でした。



最初、フランス軍の将校が戦闘機の任務につく所から始まる。ライト兄弟が飛行機の世界初の有人飛行を行ったのが、1903年で、第一次世界大戦の始まりのきっかけをなしたオーストリア・ハンガリー帝国のフランツ・フェルディナント大公夫妻の暗殺事件が1914年六月である。
この間に、飛行機は改良がなされ、大戦では実践に使われた。最初は敵の地形の偵察や敵軍の位置の確認に使われたが、木製の骨組みに帆布張りが金属へと改良され、武器も機関銃へとエスカレートしていった。後半では、毒ガス、タンクなどが出て来る戦争である。

この映画が戦争のどの場面かはっきりしないが、戦争が始まってまだ「すぐ戦争は終わる」と信じていた最初の頃とも考えられるが、ヴェルダンの戦いとも推測できる。


【1916年2月21日  三十八センチ長距離砲を皮切りに ドイツ軍は120門の砲門を開いた。ヴェルダンの北 フランス軍の前線には雨あられと降り注ぐ。
二十五日の午後には ドイツ軍はヴェルダンの主要堡塁の一つドウオモンを占領する。
砲弾における味方の誤爆を避けるために フランス軍の飛行隊が組織され 制空権を奪い返し偵察活動を行った

十月、ヴェルダンの戦いではフランス軍が巻き返した。十月二十四日 フランス軍はドゥオーモン堡塁を奪回した。ドイツ軍の損耗は百万と言われ、フランス軍も同じくらいというのだ。】という内容が飯倉章氏の「第一次世界大戦史」に書いてあったので、映画の中の「ドウオモン」をフランス軍奪還というニュースのところと合うので勝手にそういう風に想像して見る。


それにしては、映画の持つ雰囲気は戦争がすぐ終わると信じてお互いに紳士的な気持ちを持っていた時代の余韻が感じられる。


 


 フランスの戦闘機がドイツ軍のラウフェシュタイン大尉に撃墜され、フランス中尉と大尉が捕虜になる。彼らが入った捕虜収容所の好待遇なのには驚いた。


ラウフェシュタイン大尉は捕虜になった将校二人を食事に招き、実に紳士的に話をする。
怪我をしたマレシャル中尉が食事をしにくくしていると、横にいたドイツ軍の将校が食事を手伝ってあげる。
本当にあのような激しい戦争をしているのだろうかと錯覚するような場面である。

確かにドイツ軍の捕虜収容所には フランス軍の兵士が沢山、閉じ込められている。
しかし、最初の場面を見ると、これが捕虜かと思うほど、
窮屈でなく、何か陽気ささえ、感じられる。
何かのエンターテインメントの会員クラブかと錯覚するほどである。


Yo-Yo Ma, Kathryn Stott - Ave Maria (J.S. Bach/ Gounod)


 


ただ、映像が捕虜とはいえ、フランス軍の将校に焦点があてられているせいもあるだろう。


ド・ポアルデュー大尉は貴族であり、機械工出身のマレシャル中尉と二人が入った所には、ユダヤ人の金持ローゼンタールがいたこともあり、慰問品が届き、捕虜としてはかなりぜいたくな暮らしに見えた。彼らは夕食に食前酒のコニャクまで飲んでいる。

それを大目に見ていたのが、ドイツ軍のラウフェシュタイン大尉である。彼は貴族でもあった。彼はポアルデュー大尉に不思議な共感を感じて、最高の客のようにもてなしたのである。
こうしたことがゆるやかな捕虜生活となっているのだろうか。

それでも、あの激しい戦闘がそばで繰り返されているのに、という思いは残る。


 


 ド・ポアルデュー大尉とマレシャル中尉がいる部屋では、密かに床から穴を掘り、脱走の準備をしている。


しかし、これも本気なのか、退屈しのぎにやっているのか。
勿論、分かれば、射殺されるのだから、遊びではない、真剣なものだ。
しかし、漂うムードはのんびりだ。勿論、作業は土の中奥まで達するのだから、
酸欠状態になれば、いのちにかかわる。命綱で仲間が引っ張りあげ、コニャックを飲ませて、息を吹き返す場面もある。

一方で、フランス軍が女装して演劇をして、フランス軍兵士とドイツ軍兵士が観劇する場面がある。



しかし、途中で、ドウオモンの陣地をフランス軍が奪還したというニュースが入ると、演劇は中止になり、フランス国家が歌われる。観劇していたドイツ軍兵士はひっそりそこの仮の劇場を出る


途中で、収容所は変更になる。そのために、脱走用につくった穴は無駄になるので、新しく来た捕虜に伝えようとしたが、フランス語が分からない。

新しい収容所は堅固で昔、城だったところだ。司令官があのラウフェシュタイン大尉で、「再会できたことを喜ぶ」とド・ポアルデュー大尉を歓迎し、
「お一人の部屋が用意できなくて、すまなく思う」とド・ポアルデュー大尉に言う。しかし、この城は脱出不可能であると言い、城の中を案内する。



 このように、戦争を横目で見ながら、捕虜収容所では、二つの国の兵士は表面的に紳士道で、


脱走すれば、射殺という風に、奇妙な集団と集団の顔合わせになっている。
第二次大戦のドイツ軍のユダヤ人差別を知っていれば、誰でも
フランスの兵士の陽気な会話もこの映画の特徴であるが、奇妙に思うのではないか。

こんなお互いに紳士の会話が出来るならば、第一次マルヌの戦いのあと、にらみ合いの塹壕戦で、機関銃などによる死闘が繰り返されていることなど、嘘のようにも思えるし、そんなにらみ合いの死闘など何のためにやっているのかといぶかしく思う。

フランス将校たちは脱走を試みようとしている。
大勢のフランス兵が笛を吹く。司令官に不服のドイツ将校はドイツ兵にフランス兵の笛を取り上げさせる。そのあと、フランス兵は鍋などをたたいて、どんちゃん騒ぎ、これも取り上げるのに沢山のドイツ兵を使う。
こうしたことはフランスのド・ポアルデュー大尉の脱走計画の一部なのだ。
しばらく静かになって、ドイツ将校がほっとしていると、今度はド・ポアルデュー大尉一人の笛の音が高らかに城の中に響く。
大尉は笛を吹きながら、城の上の方に逃げて行く。沢山のドイツ兵が銃を持って追う。

ド・ポアルデュー大尉は貴族であり、仲間のフランス兵士から多少の不信の目を向けられていたが、ここでは、マレシャル中尉とユダヤ人のローゼンタールの二人の脱走を手助けするために、彼は目立つように逃げ、ドイツ軍の追撃を受ける。
司令官のラウフェシュタイン大尉は驚き、「逃げないでくれ、逃げると君を撃たなければならなくなる」と言う。

しかし、ド・ポアルデュー大尉は逃げ、撃たれ倒れる。ラウフェシュタイン大尉は足を狙ったのだが、腹に弾があたったために、ド・ポアルデュー大尉は死ぬ。
その間に、マレシャル中尉とユダヤ人のローゼンタールの二人は脱走に成功し、草原を駆け抜け、とあるドイツの女の家にころがりこむ。



 その女は家族の男を何人も戦争で失ったのだが、二人をかくまう。


立派な口髭をした男の写真が飾ってある。女は「夫です。ヴェルダンで死にました」と言う。やはり、間違いなく、この映画は「ヴェルダンの戦い」を描写したものだと思った。
そして、マレシャル中尉と女の間に、愛が芽生えた頃、スイスに向けて逃げなければならないと決断する。
国境の近くでドイツ兵に見つかり、射撃されるが二人が国境を超えると、ドイツ兵が「彼らはスイスに入った。討つのをやめよう」と言う。
二人が自然の濃いスイスの領内に逃げて行く所で、映画は終わる。


 


 


監督  ジャン・ルノワール


出演  ジャン・ギャバン


     ピエール・プレネー


 


 


【今度、大きな戦争をしたら、今は核兵器がありますから人類の存続すら、危うくなるでしょう。戦争の芽は日常の平凡な生活の中にあると思います。インターネットなどは、平和の声を大きくする素晴らしい道具だと思います】



【久里山不識より】
この映画はやはり、反戦映画です。今の日本で憲法九条を守るということがいかに重要であるかということを知る上でも、反戦映画の役割は大きい。それは、戦争の愚かさを教えてくれますから。
今の日本で日本国憲法を変えようとする一部の動きは重大です。環境権とかいうのは法律で十分やれますし、水俣病、イタイイタイ病などの多くの悲惨な公害を糾弾し、克服しようとしてきた多くの人々の努力はこの日本国憲法で基本的人権が守られていたからではないでしょうか。
一つでも変えるというのは口実になり、一度変えると、なしくずしに憲法九条の方まで手が伸びてしまう危険性があることを考えねばなりません。
基本的人権は、私の経験では今でも危うい状況がほんの一部ですが、あります。

この日本国憲法は人類の歴史の中で、これほど優れた内容を持つものが見当たらないと思われるほど、素晴らしいものであり、太平洋戦争のあと、人類の理想をめざす、気持ちの表現としてつくられたものです。一度、こわしたら、大変なことになるという危惧を抱きます。


 


 


 


 


コメント    この記事についてブログを書く
« いのちの海の夢 【散文詩】 | トップ | 小説のテーマと国連次長の談話 »

コメントを投稿

映画「大いなる幻影 」」カテゴリの最新記事