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もうチョットで日曜画家 (元海上自衛官の独白)

技量上がらぬ故の腹いせにせず。更にヘイトに堕せずをモットーに。

高校野球の改革案に思う

2025年01月20日 | 世相・世論
 高野連が、高校野球の7回制を検討しているらしい。
 現行の9回制は選手の負担が大きいとの判断に基づく改革であるが、如何なものであろうか。
 野球は9回制と考えるのは頑迷な伝統墨守・固定観念と切って捨てられるかもしれないが、これまでの9イニングを巡って繰り広げられる攻防・展開こそが野球と心得るので、7回制の野球は別のスポーツになるように思う。
 バレーからビーチバレーが、ラグビーから7人制ラグビーが、サッカーからはフットサルが、バスケットからはスリー・エックス・スリーが、と派生しているが、何れもが別のスポーツとして認知されているので尚更である。また、日米プロ野球でも、主として興行面から試合時間短縮のために、延長回制限、投球間隔制限、牽制球制限などのルール改正が為されているもののイニング短縮は取り沙汰されないのも、野球の原点は守るとの認識に立ってのことと思っている。閑話休題。
 原点と云えば、日本の家族社会の根幹をなす夫婦同姓の原則が覆されようとしている。憲法の「同姓記述」にも抵触すると考える問題を、石破総理・自・公・立は拙速に変えようと前のめりになっているが、世論調査や識者からは反対の意見が多い。そんな世論を察してか国民民主の玉木代表が、慎重な議論を求める意見を述べているのは、心強い。
 夫婦はともかく子供の姓をどうするのか、近年増加している離婚も絡めて検討する必要があると思うが、立民案では子供の姓選択に悩んだり確執が生じた場合は裁判所が判断するとして困難を丸投げしている。裁判官も、どの姓が将来に亘って有利かなどの判断に苦しむだろうし、姓の選択に司法が介入することは不適切であると思う。
 そもそも、旧姓や通称の使用で解決できない問題を抱えている人は極めて少ないとも報じられていることを思えば、僅か1年にも満たない議論で結論しなければならない喫緊の問題とも思えない。

当地の会釈事情

2025年01月18日 | 世相・世論
 買い物に行く途中、歩道上の前からくる3台の自転車に遭遇した。
 丁度離合するであろう地点に電柱があるので、自転車をやり過ごすために立ち止まった。自転車の主は東南アジア系と見受けられる若者であったが、驚いたことに3人とも道を譲った自分に会釈して走り去った。彼らの会釈がお国の風習か、はたまた郷に入らばの故かは分からないが、清々しく感じた。
 当地に越して早10か月、首都圏とは混雑の程度が低いとはいえ、公共交通機関の優先席に居座って寝たふりをする若者の姿を目にすることも少なく、席を譲られたことも首都圏の10年分くらいある。また若者に何かを譲れば、必ずに会釈や笑顔が返ってくる。
 流石、長幼に序を求める九州の風土と感じ入る半面、些かに残念に思うところがある。それは、老人に何かを譲っても、会釈が返されることは極端に少なく、皆無と云っても差し支えない程である。スーパーでカート道を譲ったり、病院で席を譲ったり、デパートのドアを支えて先に通したりしても、老人は平然と、当然のことと受け取るのか、会釈はおろか仏頂面を崩すことも無い。
 順送りの文化で、自分は若年時に老人に譲ったため、今その返礼を受けるのは当然ということであろうと推測しているが、些か寂しい思いがする。
 自衛隊では、高官の入室にはしかるべき隊員がドアを開けて待機し、入室前には「誰誰入られます」と室内に知らせることが一般的である。その際入室する高官はドア前に待機する隊員に会釈までには至らぬが「頷く」ことで謝意を表す。しかし、中にはそれらをしない高官もいるにはいるが、概ね統率力に難ある人と見られている場合が多い。
 会釈は集団生活の潤滑剤であり、決して卑屈の所作や自分の優位を損なう所作ではないと思うので、老人が会釈すら返さない九州文化と雖も一考に値する側面があるのでは無いだろうか。
 古来から、行違う人への心遣いとして「傘かしぎ」の美風があり、山本五十六提督は、兵卒の敬礼に対しても美しく答礼されたとされる。


ヒグマの生態を学ぶ

2024年12月28日 | 世相・世論

 本ブログでOSO18に関する思いや佐竹秋田県知事の”熊送る”発言を題材とした。

 採り溜めた録画中”アナザーストリー”で、エゾヒグマの生態についての動物学者の解説を知ることができた。1学者の主張する説には多くの異論があるのが一般的であるので、その解説が学会でどの程度支持されているのかは不明であるが、無学の自分にもナルホドと思えるものであった。
 番組によると、ヒグマは雑食性とされるが北海道のヒグマは明治初期まではエゾシカなどを補食する肉食系雑食であり、消化器官も肉食に近い構造であるそう、明治以降の北海道開拓に伴う入植者がエゾシカ等を乱獲したために、それ以降は已む無く草食系雑食に移行したそうである。また、ヒグマは母親の採餌行動を継承するために、母親にエゾシカ・家畜・人間の補食経験が無いと子供もそれらを餌として認識しないらしい。昭和初期に道北で2・3年周期で襲撃の時刻や方法、遺体の運搬方法が同じ人喰熊が出現したが、原因としては母熊が土葬死体を食べて人間が餌であることを学んで人喰熊となり、それを継承した子熊が成獣となり人喰熊になるという連鎖の結果であろうと推論されていた。
 OSO18は60頭以上もの家畜に危害を加えたが人間は襲わなかったことも、何らかの原因で家畜は餌であるとは認識したものの人間は餌と云う認識が無かったのかもしれない。
 先日のブログでは、OSO18が雑食系から肉食系になったという動物学者の意見に「たかだか百年で雑食動物が肉食動物に進化(変化)するのは疑問」と書いたのは自分の早とちりで、OSO18はヒグマ本来の食性・採餌行動に戻った(先祖返り)というのが正解であるらしい。

 秋田県が公開した抗議メールに「熊を送るなら送れ。野蛮人の秋田県人と違う自分は立派に共生してやる」と住所もないままに書かれている。しかしながら、番組に出演している動物学者や札幌市の担当者からは、エゾヒグマの生態から考えると人間と共生することは不可能で、それぞれのエリアを区切って共存することが精一杯であろうと述べられていた。
 上記抗議者のように動物可愛さのあまりに、野生動物にまでペットと同じ地位を広げようとする人がいるが、「やはり野に置け蓮華草(注)」ではないだろうか。

(注)「やはり野に置け蓮華草」のネット解説
 播磨(兵庫県)の俳人滝野瓢水が、遊女を身請けしようとした友人を諫めた句「手に取るな やはり野に置け 蓮華草」に由来し、自然の中で咲く蓮華草が美しいのと同じように、遊女は色町にいてこそ美しく見えるという意味。


”熊送る”に思う

2024年12月20日 | 世相・世論

 秋田県の佐竹知事の「熊送る」発言が話題である。

 発言は、スーパーに侵入・居座った熊を殺処分したことに対する県外からの苦情対応に関して、17日の県議会予算特別委員会における県議からの「毅然とした対応要求」に対して、《私にもし(苦情の電話が)きたら、完全に相手を威嚇する。お前のところに熊をを送るから住所を送ってくれと。こうすると相手が電話を切ります》と発言していたとのことである。
 佐竹知事と云えば、豪雪時の安易な災害派遣要請、四国料理は貧乏くさくて旨くない発言、何よりもイージスアショアの県内配備反対、等を記憶しているので、全体像としてはオール沖縄・玉城知事に近いイメージで良い印象は持っていなかったが、今回の「熊送る」発言には「いいね!」としたい。
 今回の苦情電話では30分間に及ぶケースも有るとされ、一昔以上前の距離・時間制の電話料金ならば数千円以上もかかったであろうが携帯電話での通話料金ゼロサービスによって、クレーマーは延々と苦情を述べたものであろう。思うにクレーマーは、勤務時間内にも長時間の無駄話ができる層であろうが、通話先の県庁職員にすれば溜まったものではないだろう。
 「熊と移民を迷惑対象として同列に扱うな」とのお叱りを覚悟しているが、不法移民の流入に音を上げたアメリカの各州(テキサス・アリゾナ・フロリダなど)は「不法移民の流入も無く、彼らに寛容であるべきとする地域(シカゴ・ニューヨーク・ワシントンDC)に飛行機で・バスで不法移民を運び込んだことがある。特に副大統領公邸前やセレブ・富裕層の別荘地などをターゲットとしているために、民主党政権への揺さぶりだけが目的であるかのように報じられているが、影響・被害の無い地域から理想論を主張する者に対して「現地の痛みを知ってから云え」という発想では、佐竹知事の発想と似通っていると思う。

 OSO18が射殺された時、自分もOSO18だけは生きながらえて欲しかったと書いて、お叱りを頂戴したことがあるが、自分の場合は「罠にもかからず、監視カメラもすり抜ける」という巧緻(高知?)な個体が、更にどのように進化するかを観たかったためである。OSO18の最後は、逃げることもせず座り込んだ姿勢のまま、狩猟免許を取得したばかりの新人ハンターに撃たれたとされている。
 死後の解剖で胃袋は空であったとされ、動物学者から「長年の肉食習慣から、熊本来の雑食機能を失ったのでは」との推論を読んだ覚えがあるが、肉食動物と草食・雑食動物間には、消化のための器官や機能が大きく異なり、そのために数百万年かけて分化・進化であろうことを思えば、単に数年の嗜好の変化でそうなるのかと疑問を持っている。
 論旨が変わってきたが、”熊送る”はカスハラ対応のキーワードに変化・洗練されるよう祈って、終演、


貸金庫事件に思う

2024年12月19日 | 世相・世論

 本日は、嫌になるほど貧民の、繰り言・嫉みである。

 三菱UFJ銀行の貸金庫窃盗事件が予想通りの展開となっている。
 11月23日に事件が明らかになった際には、被害者60人、被害額十数億円とされていたが、一昨日の会見では事件発覚後さらに数十人から被害申告が為されたので、被害額も増えるだろうとされていた。
 被害者数や被害額の増加は、貸金庫の性質上やむを得ないもので、貸金庫利用者が「これ程の金額の物を、これだけ盗られました」と申告すれば、銀行側としては「分りました」と答えるしかないだろう。
 会社員であった時、製品データ保全・保存のために会社契約の貸金庫を利用した経験しか無いので、以下は憶測にしか過ぎないが、おそらく個人契約の貸金庫については将に宝箱状態ではないだろうか。盗難予防のための貴金属保管は理解できるが、報道される現金被害についてはハリウッド映画を参考にすれば金融機関に預け入れれば「足が付く」種類のものではなかろうかと推測できる。
 貸金庫の容量から数千万を超える現金格納は無理であろうと思うが、それでも貧民からすれば目の玉が飛び出る額である。
 興味深いのは、事件発覚後に申告した人の多さである。勿論、銀行からの通報で確認・精査して盗難を知った人が大多数であろうと思うものの、ごみ焼却場で多額の現金発見が報じられると、北海道から沖縄に至る全国から持ち主が名乗り出るご時世、些かの便乗者が含まれているのではないだろうかと思うのは、下種の勘繰りであろうか。
 会見では、窃盗犯が40代女性行員と明らかにされたが、彼女が盗品を換金する術を知っていたのだろうかとの疑問が湧く。これまでの金融機関における女性行員横領の背後には男の影がちらつくので、今回も換金ルートを持っている手引き役・指南役が存在するのではないだろうかとも疑っている。

 マイナンバー制度導入の際、資産・財政状態の個人情報が丸裸になるという反対意見があった。隠すべき財産とて無いガラス張り課税の人生では自分の経済状態が個人情報と思ったことも無かったが、今回の事案を観て「多くの人が貸金庫に頼らざるを得ない程の資産家・金満家」であったのかと、将に打ちひしがれている。
 今回の事件によって思い出の貴金属などを失った人には同情するものの、現金の保管を主張する人に対しては、審議・審査の際に国税庁職員の同席が必要では?と悪態をついて、終演。