LOVE&DESIRE

沖縄で頑張る爺バンドのブログだったがいつの間にか爺の独り言(涙)。

はち公家の戦争(慰霊の日を前にして)

2012-06-20 11:14:24 | ブログ

 茂さんへ 怖い話が思いつかなかったので。

 事の始まりは「平和の礎」が建立されたことから始まる。我がはち公家にも戦没者が有り、彼らの名前を確認の為現地を訪れ、苦労して具志頭村エリアを探し出し、我が身内の一角、そこで目にしたものに思わず仰け反り、我が目を疑う。礎には「戦没者・・・はち公」っておいらの名前が間違って記載。う~けしからん。ので、具志頭村役場に事の次第を訴え、刻銘の修正を求め了承されるが長年にわたり放置。とっくの昔に修正されたと思っていたが甘かった。公務員は信用できんかも。

 昨年末に県の平和・男女共同参画課に過去帳、改製原戸籍、現場写真などの書類を揃え提出。そろそろ現場確認しようと思っているがどうなることやら?そのままだったら県庁爆破?

 その作業の途中で仏壇の位牌の皆様の詳しい事実を知る。伯父さん叔母さんなど戦死した事は知っていたのだが(皆様の身内にもいらっしゃると思いますが)我が父の戦前の家族の話。

 父(明治44年生)は戦前の昭和4年に妻トミと入籍し5人の子供を授かる。順調に生活を営んでいたであろうが戦争が全てを奪い去る。長女U子は昭和20年旧真壁村(現糸満市)にて16歳で戦死。たった一人で虚しくも16歳の人生を終える。その他の子供たち次女H子(9歳)三女T子(7歳)次男M(5歳)は母親と南洋から本土に疎開の途中、敵の攻撃に合い全員海の藻屑となる。(長男は3歳で病死)。幼い子供達の死、母の胸に抱かれ共に死んでいった事がせめてもの救いと言うしかない。戦争の残酷さよ。

 我が兄弟姉妹、生きていれば長女は83歳になり、感慨深く、そのほかの子供たちの失われた人生の重みを考えると、いかなる理由が有っても戦争は無しで願いたい。その後、戦争が終わり一時の自棄から立ち直った父、再婚し新しい家庭を持つ。人間は強いね。

 茂さんへ、下手な怪談より事実の方が恐ろしくないですか?