はじめて「ライ麦畑でつかまえて」を読んだのは
もう本当に数十年前で、
従って内容もクリアには覚えていません。
ただ今まで人にこの本を勧めたことがあったのは、
翻訳物で1,2を争うほど、
私の気持ちのなかに残っていたからだと思います。
先日この小説を書いたサリンジャーが死去したということで、
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%82%B5%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC/
改めてこの小説を見直したかったので、
ブログに書いています。
冒頭の表紙以外にもう一つ別の表紙の「ライ麦--」がありましたが、
多分今は入手不可能でしょう。
今はこの手の表紙しか見ません。(野崎孝氏の訳では)
私も昔の表紙のデザインを忘れました。
いいデザインでしたが。
そして2003年に出版された
村上春樹氏の訳の「ライ麦--」は邦題も付けられずに
原題で The Catcher in the Rye としかなっていません。
翻訳に関してはいろいろサリンジャーサイドから制約があったのだと思います。
私はずっと「ライ麦--」の訳は野崎氏のものが
いいだろうなと思っていましたから、
村上春樹氏訳の「ライ麦--」が出たときも
あまり関心は持ちませんでしたが、
今回、たまたまGETした村上氏の「ライ麦--」も
ある意味では新鮮であったかもしれません。
だって「ライ麦畑でつかまえて」というタイトルではありませんでしたからね。
あくまで原題のThe Catcher in the Rye ですからね。
そのまま訳せば「ライ麦畑の捕獲人」くらいでしょうからね。
どう考えても、つかまえて--と命令形になりませんが、
最初に翻訳物が出た際につけたタイトルは
人の関心を惹くものになっていますね。
うまい具合にタイトルを付けたものだと思います。
どちらの[ライ麦--]がいいのか分かりませんが、
この小説の冒頭の部分を比べて見たら、
ある程度の判断(あくまで主観的な)はできるかと思います。
野崎孝氏訳のもの
もしも君が、ほんとうにこの話を聞きたいんならだな、まず、僕がどこで生まれたかとか、チャチな幼年時代はどんなだったのかとか、僕が生まれる前に両親は何をやってたかとか、そういった[デーヴィド・カッパーフィールド]式のくだんないことから聞きたがるかもしれないけどさ、実をいうと僕は、そんなことはしゃべりたくないんだな。第一、そういったことは僕には退屈だし、第二に、僕の両親てのは、自分たちの身辺のことを話そうものなら、めいめいが二回ぐらいずつ脳溢血を起こしかねない人間なんだ。(冒頭、一部引用)
村上春樹氏訳のもの
こうして話を始めるとなると、君はまず最初に、僕がどこで生まれたかとか、どんなみっともない子供時代を送ったかとか、僕が生まれる前に両親が何をしていたかとか、その手のデイヴィッド・カッパーフィールド的なしょうもないあれこれを知りたがるかもしれない。でもはっきり言ってね、その手の話をする気になれないんだよ。そんなこと話したところであくびが出るばっかりだし、それにだいたい僕がもしそういう家庭の内情みたいなのをちらっとでも持ち出したら、うちの両親はきっとそろって二度ずつ脳溢血を起こしちゃうと思う。(冒頭、一部引用)
甲乙付けがたい訳ではありますが、
野崎氏の訳の主人公の方が荒削りの部分が少しあって、
よりサリンジャーが意図した人間像に近いのではないかと思います。
村上氏の訳は洗練されているとは思いますが。
いずれにしても、読んだのは20年以上前だなぁ。
ホールデン君が痛々しくて可哀想で・・・。
今読むとまた違うとらえかたが出来ると思う。どこにあるんだろ???
ただ、ジョンがこんな本を持っていた男に殺されたのは情けないです。
もう一つ創造的に考えることは出来なかったのでしょうかね。
きっとサリンジャーもそう願ってたと思うのですが。