ここ二ヶ月、村上龍の、「限りなく透明に近いブルー」を少しずつ、再読していました。今日やっと読み終えました。
自分の知性が追いつかないのか、それとも、集中力が足りないのか、かなりハードでした。最初からすぐに主人公を含め、4,5人の薬、性、の描写が文学的(?)に書かれていて、全体の3分の1くらいのところまで続いています。
そこに事実としてあるのは、薬、ロック、性です。何十年も前に芥川賞を獲った作品で、私も読んで、ラストで感動したことだけを覚えていましたが、内容は余り覚えてはいませんでした。ただ、薬、ロック、複数の性の饗宴みたいなことだけ覚えていて、内容ははっきり言って、アウトロー。
ただラストの感動があるかどうかをもう一度確かめたかったのです。
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多数の読者は最初から、かなり長い、性、薬物の描写にうんざりして、読書することを、投げ出したかもしれないと思います。私も読み返して、しんどい思いをしました。まるで、18禁のポルノ映像じゃないかと。(主人公プラス恋人リリー、プラス数名の)
次はその状況から抜け出している主人公と恋人らしきリリーの、屋外での二人だけの空間の描写が続きます。ここも薬あり、幻想ありの描写です。
最期近くの章では、主人公がリリーから何度も「あなたは気が狂ってる--」と言われる行があって、主人公がその言葉に反撥するかのように、ブランデーグラスを床に叩きつける。
そして、グラスの欠けたガラスを自分の腕に突き刺す。
最期の章は病院にいる主人公の内面描写が続きます。限りなく透明に近いブルーとは、主人公が自分の腕に突き刺したワイングラスの透明な破片のことを言っていたのでした。
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血を縁に残したガラスの破片は夜明けの空気に染まりながら透明に近い。限りなく透明に近いブルーだ。僕は立ち上がり、自分のアパートに向かって歩きながら、このガラスみたいになりたいと思った。------------ --(省略)僕自身に映った優しい起伏を他の人々にも見せたいと思った。(限りなく透明に近いブルーより)
このあたりから私はこの小説に感動しました。今日読み終えた後も。ショッキングな内容でした。
(改めて)疲れました。
作者、村上龍はあとがきで、この作品を本にするときは装丁をやらせて欲しいと頼んだと書いてあります。そして実際に装丁をして、表紙はリリーの横顔だということです。あとがきの中で、彼はもう一言付け足しています。
リリー、もしこの本を買ったのなら、連絡してくれと------。
その後、リリーから連絡はあったのでしょうか?
村上龍の本を初めて読んだのは高校生くらい?「コインロッカーベイビーズ」でした。
衝撃的でしたね。その後、ポップアートに目覚めていた私は、ポストカードが付いていたんで(^^;)「ポップアートのある部屋」をなんと3冊買いました。ラブ&ポップあたりまではほとんど読破し、7冊くらいは本棚にもありますが、「限りなく・・」は読んだはずですが、事詳細な文節までは覚えていませんでした
本棚に追加する事もかねて、私も再読したくなりました。でも、今読むとほんと疲れそうですね。当時は、自分の時代になかったヒッピー的なものやアングラの芝居に憧れていたのですが、今考えるとやっぱり若かったんでしょうね。疲れもせずに寺山修二を読み漁ったり、アングラ芝居を見たりしていましたからねぇ。。
アナザービートルさんや、のんさんは読書でつねに感性を磨かれているのでしょうね。
私も見習わなければ!読書の秋ですもんね。
リリーは今頃、どうしているのでしょうね。。。
余談・うちの母の携帯の着メロはトキオの「青春」です(^^;)そういえば「青春」と名の付く歌はたくさんありますねぇ~
コインロッカーは私は上巻の途中で投げだしてしまいました。タイトル的には「限りなく--」と二作目の「海の向こうで戦争が始まる」が好きです。二作目は装丁も綺麗でした。今は文庫本しか見当たらないみたいですが。
寺山修司の本は、死んだ幼なじみが短歌が好きで、自費で本などを出版していたので、寺山氏の短歌などは読んだことがあります。天井桟敷などで、彼も時代の寵児として活躍してましたが、何しろ短命でしたね。短歌をやる人は結構短命なのでしょうか?寺山修司の影響を受けて、本を出した歌人も(名前は忘れましたが)確か早死にしました。
一行の中に何もかも詰め込む作業はストレスが多いのかもしれませんね。
ヒッピー的なもの、アングラ的なものは、その後どんな風に、後の時代の中で変わって行ったのでしょうか?又機会があれば確認しておきたいとは思っています。単に時代の産物であったとすれば寂しいことです。
お母様のトキオの「青春」は若いですね。
私の思い出す青春と言えば、吉田拓郎の「青春」、あるいはトップギャランの「青春時代」ですね。確か詩は阿久悠でしたね----。
私、ノンさんの時代は物質的には貧乏の時代だったと思います。Yukariさんの時代はまだ恵まれていたのですね。
コメントありがとうございました。
「えっ、本当? それはぜひ読まなくっちゃ」…ということで、その本を読んだのですが、マラソンはたまたま小説の材料にちょこっと使われていた程度で(ストーリーはほとんど忘れましたが)、主人公がマラソンを走るような話ではありませんでした。でも、とにかく自分が走った懐かしいニューヨーク・シティ・マラソンが背景に登場する小説を教えてもらったことはうれしかったです。さすが村上龍に詳しいアナザービートルさんでしたね。
「限りなく透明に近いブルー」は発表当時、世間に衝撃を与え、絶賛とこきおろしが相半ば渦巻く沸騰ぶりでしたが、僕はそのころ小松左京や筒井康隆のSFやナンセンス路線に傾倒していた最中でしたので、麻薬と荒廃というふうなこの小説のテーマにはついて行けなかったのと、文体が自分の生理に合わなかったことから、龍さんとはそれ以来、ずっと縁のないままで来ています。「透明に近いブルー」の意味は、この記事を読ませていただいて初めて知りました。
もともと僕は村上春樹のファンなので、ムラカミといえば、即座に春樹さんのほうを浮かべます。書店へ行けばたいていは真っ先に「村上」の本棚へ行くので、龍さんの本はその都度目にするのですが、お目当てはその隣の春樹のさんのほうです。
僕は性格的に春樹さんのタイプなのだと思っています。
生年月日が3日しか違わず、生まれも同じ京都で、一人っ子で、学生結婚をしたことも、海外のフルマラソンを走った時の年齢も、血液型も(むろん星座も)、そのあたりがみんな一緒なので親近感を覚えています。違うのは、文学的素養だけです(とほほ)。
春樹さん本人が冗談半分に書いていますが、
村上春樹が自閉症なら村上龍は自開症だ
僕の心の中のネジは、どちらかと言えば、自閉症的動きに惹かれる方向に巻かれている気がするので、それが龍さんを受けつけにくくしている遠因かも知れません。な~んて、何の話かわからなくなりましたが…。失礼しました。
ところで、僕にとっても「青春」といえばやはり「青春時代」ですね。いまでもカラオケはこの歌で閉めています(オジサンの典型だ)。
それと、舟木一夫の「あ~青春の胸の血は」です。いい歌ですなぁ、これも。しかし昭和38年頃の歌です。お互い中学生…?。ふる~い。
私は正直なところ、両村上氏のフアンなのです。
影響はむしろ、村上春樹氏の方から大分受けてます。デビュー作「風の歌に聞け」はクリアないい小説でした。これもいずれ、再読したいです。二作目の「1970年のピンボール」も良かったです。
「羊をめぐる冒険」あたりから、村上ワールドが出てきたような感じでしたね。ビートルズのノールウエイの森をタイトルにした、小説もありましたね。
村上龍氏の方は何かにつけ、アグレッシーブ
な感じはします。意外に思うかも知れませんが、私もついて行けない部分があります。文体がやはりアグレッシーブな感じはありますものね。
ただ同世代の人間として、両村上氏は若い頃からずっと好きでした。春樹氏のほうは、ジャズ喫茶店なんかもやってましたよね。ちょと、憧れてました。龍氏の方はインパクトに魅かれていたのでしょうか。いまでも二人とも好きです。この二人しかいない--に近い感覚です。
ただブログで村上龍氏のことを書いている間、どうして、ここに来て、春樹氏と差がついてきたのだろうか、と考えてました。
春樹氏の方は、カフカ関連の賞を獲ったりで、益々、世界的レベルになって来ていますね。いずれ、ノーベル賞に近づくのではありませんか?
それを思うと、村上龍氏の方はもう一つという気がします。
余談ですが以前「限りなく透明--」が英訳されてまして、講談社から出てました。
タイトルが Almost transparent blue で、私は
すごく、タイトルが気にいってました。
今考えると 「殆ど、透明のブルー」って言うぐらいの感じで、原題の、「限りなく透明に近いブルー」にはちょっと遠い気もします。まあ、割と上手い訳でしょうが。
英語のタイトルがすごく気にいっていたのと、限りなく--に思い入れが非常に強くて、数年前英会話を習っていた時に、話題、ネタとして、外人の女教師にAlmost transparent blue
を勧めたのです。私としては、ラストで感動してもらいたかったのです。村上龍の良さを分かって欲しかったのです。
そして数週間して、その女教師からコメントがありました。いい先生でした。ちゃんと読んでくれていたのですね。
ただコメントが「ご飯の時には読みたくない小説ですね--」と言ってました。彼女にとってはもしかしたら、殆どポルノ--に映っていたのかもしれません。
このあたりで今の村上春樹氏との差がついたのではないでしょうか?
でも村上龍氏もKYOKOという小説のあとがきで、この小説にはセックスもSMも麻薬も戦争もない。デビュー以来、自意識を吹き飛ばす手段としてそれらをモチーフに使ってきたが、この作品では必要がなかった。-----と書いてありました。 自意識を吹き飛ばす手段として、セックスetcを使って来たというのが、なんかすごいですよね。我々は彼に騙されているかもしれないと、ふと考えますよね。やはり彼も相当のツワモノでしょうね。
彼らも-- ああ青春の胸の血を--を聞いたのでしょうか?(笑)
1973年のピンボール(正)