旧太子駅の景色を北側、ホッパー跡の横から見ながらホームに進みました。かつての旧太子駅の施設、設備は1971年の廃止後に撤去され、群馬鉄山関連の施設群跡とともに埋められました。
駅跡は、地元住民が公園として整備していましたが、2014年に地元の中之条町が駅跡を観光資源として再活用すべく、本格的に復元することを決定しました。埋まっている遺構を掘り出し、ホッパー跡を修復するため、2016年度よりクラウドファンディングにて寄付を募集し、集まった資金で約215メートル分のレールを敷設し、約71メートルのホームを復元しました。
なので、このホームは復元されたものです。かつてのホームとは規模も構造も異なっているようです。昔の写真を見ますとホームは東側にもう一基あったようで、そちらには待合室の小屋が設けられていた様子が分かります。
ホームと線路は復元ですが、上図の二基の車止めは、ホッパー跡とともに昔から残されたもので、旧太子駅の唯一の遺構となっています。
駅跡は、現在は古い貨車の博物館として観光の名所にすべく整備が進められていると聞きます。既に上図の国鉄ヨ6000形貨車をはじめとする9輌の各種の貨車が、全国各地の鉄道事業者より譲渡されて展示されています。
はじめは、ここ旧太子線にて鉱石運搬列車に使われていた貨車を残して保存しているのかと思っていましたが、当時の貨車はもう1輌も残っていないそうです。その代わりに、同時期に他の路線で使用されていた貨車を集めて保存している、ということです。
ヨ6000形貨車は内部も公開されていて、両側の昇降口から自由に出入り出来ます。内部は御覧の通りです。車掌が勤務していた部屋ですので、机とかも残されています。
このヨ6000形貨車は、かつての日本国有鉄道に在籍した事業用貨車(車掌車)の一種です。1962年から1969年までに905輌が製造され、当時の新型主力車掌車として全国で使用されましたが、1986年のダイヤ改正で貨物列車の車掌乗務が廃止され、分割民営化直前の1987年に全車が廃車となりました。
現在も各地に多くが保存されており、ここの6720号車はもとは京都市北区の大宮交通公園にあったのを、公園再整備によって撤去しこちらに譲渡したものです。
車内の机の上には、群馬鉄山から採掘された鉄鉱石の原石見本が展示されていました。
ヨ6000形貨車の向かいには、上図の小型の有蓋貨車2輌がありました。大井川鐡道の井川線で見たのと同じ貨車でした。
かつて大井川鐵道が所有し、井川線にて運用していた有蓋緩急車cワフ0形貨車です。1953年に4輌が製造され、そのうちのcワフ2・3の2輌が長期間休車となり、2014年に廃車となったのを譲り受けて、2018年にここに移されてきたものです。
2輌のうちのcワフ2は、大井川鐡道にて運用された頃のままの状態なので、御覧のとおり大井川鐡道の社章がペイントされています。いまの大井川鐡道井川線にいるcワフ1・4の2輌と同じ仕様です。
そして、大井川鐡道の社名もそのままとどめられています。作中にて各務原なでしこが示した社名は「奥静大井川線」と変えられてあります。
右のシーンですね。原作コミック第17巻154ページ2コマ目です。
各務原なでしこは大井川キャンプ編にて大井川鐡道に乗り、本線と井川線の両方を乗り継いで奥大井湖上駅まで行っています。アプト式列車に乗り、アプトいちしろ駅でのブッピガンも楽しんで、その頃から鉄道好きになっていったようですので、旧太子駅跡にて大井川鐡道の貨車に出会った時は嬉しかったようですね。
私も同じく嬉しかったです。しっかりと各務原なでしこの真似をしておきました。
もう1輌のcワフ3は、大井川鐡道井川線がまだ中部電力の専用軌道だった頃、1959年までの時期の仕様に復元されていました。この仕様は大井川鐡道に何度か行った際にも見たことが有りませんでしたので、ここで見られて良かったです。
これらの貨車は、鉄道車両としては大井川鐵道に在籍したのですが、所有者は中部電力のままなので、形式名にも「c」が冠されています。中部電力株式会社の社名も付けられています。
中部電力の社章です。いま大井川鐡道井川線で見られる全ての車輌にこのマークは見られませんから、ここで実際のマークを見られて参考になりました。
しかし、小さい貨車だなあ、と改めて思います。以前に大井川鐡道井川線の川根両国車両区を見物に行った折、その側線に同型貨車のcワフ1・4を見ましたが、そのときにも「小っちゃいなあ」と思いました。
大井川鐡道井川線の車輌は、機関車も客車もみんな小さいのですが、このcワフ2・3のような小型の貨車は余計に小さく見えてしまいます。 (続く)