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紫野大徳寺8 瑞峯院の表門と玄関と方丈

2022年06月24日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 興臨院を辞して、南隣の瑞峯院に行きました。ここは常時拝観可能な塔頭のひとつですが、U氏も私も大徳寺参拝は今回が初めてでしたから、山内のどこへ行っても入っても、全てが初めて見る物ばかりでした。

 

 表門です。瑞峯院は、「黄梅院文書」によれば北隣の興臨院の地を天文二十一年(1552)に分割して創建されたことが知られますので、現存の主要建築は天文二十一年以降に建てられたものと考えられます。表門も同じで、本堂(方丈)とともに国の重要文化財に指定されています。

 

 U氏が表門の細部を観察しつつ、「室町期の建築はどれも優美でいいなあ、よくぞ今日まで残ってくれたもんだねえ」と感心していましたが、私が「この部材とこの部分、軒廻りと小屋組は戦前の修理でたぶんいじってるよ、茅負は交換してあるね、妻飾りも大体交換しちゃってるのと違うか」とそれぞれを指して教えると、ガッカリした表情になってしばらく沈黙していました。

 後日、この表門の資料を探して読んでみたら、見立て通りに軒廻りと小屋組、野地は昭和六年に修理を受けており、茅負と妻飾りは新材に取り替えた旨が記録されていました。その状態で昭和四十七年から屋根の葺き替え工事を実施したとのことでした。だから現在も屋根が割合に綺麗に見えるわけでした。

 

 表門から中に進んで本堂(方丈)の折玄関口に進みました。こちらも興臨院の玄関とよく似た外観ですが、建築年代が近いからでしょう。この玄関も、本堂(方丈)とともに国の重要文化財に指定されています。

 

 こちらでもU氏が細部を観察していましたが、そのうちに「もしかして、これ、この玄関の部材も修理とか受けて交換したりしてる?」と訊いてきました。それで私もじっと観察して「これは修理は受けてるけど、解体修理も受けたみたいで表面処理が丁寧に仕上げてある。たぶん、創建時の状態に戻してあるんじゃないかな」と答えました。
 するとU氏は「そうか、創建当時の姿なわけか」と急にテンションが上がって、柱の干割れのヒビや修理時の継ぎ目などをルーペで観察したりしていました。

 

 装飾意匠の細部もさきに見た興臨院の玄関建築とよく似ています。が、こちらは上図の大瓶束(たいへいづか}の下部にフクロウの顔のような装飾が施してあるなど、やや建立時期が下がる頃の特徴が見られます。一説にてこの瑞峯院の本堂および玄関の建立時期を弘治年間(1555~1558)とするのも、こうした建築細部の特徴をとらえての見解かもしれません。

 

 玄関の柱礎盤付きの礎石です。丁寧に彫り込まれて柱を支えています。

 

 玄関の扉板です。地方の有力寺院ではこうした扉を一枚板で造るケースが散見されますが、大徳寺のような京洛の禅寺においては建具を細かく組み合わせてなるべく軽くする傾向がありましたから、このような薄い板を並べて貼りつけて扉板を造っています。

 

 折玄関の後ろにもみごとな唐破風が施されます。いわゆる前後唐破風造ですが、さきに見た興臨寺の唐破風と切妻の組み合わせよりは格式が上で贅沢に造られます。
 瑞峯院は徹岫宗九(てつしゅうそうきゅう 大徳寺第九十一世住持)を開祖とし、豊後の大友義鎮(宗麟)を開基としますが、徹岫宗九は興臨院開祖の小渓紹怤(しょうけいじょうふ)の法嗣にあたりますので、師匠よりも立派な寺を建てているわけです。

 

 本堂の前庭の「独坐庭」です。

 

 本堂(方丈)の前縁です。さきに見た龍源院の本堂(方丈)と同型式の六室構成をもちます。室町期禅宗方丈の典型的な平面を伝える遺構として貴重であり、国の重要文化財に指定されています。

 

 本堂正面上方に掛かる寺号額です。後奈良天皇の宸翰であるそうです。  (続く)

 

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