名のもとに生きて

人の一生はだれもが等しく一回かぎり。
先人の気高い精神に敬意を表して、その生涯を追う

ロシア大公家系の末路 序/ニコライ1世

2016-07-16 19:45:47 | 人物
大公という称号

英語でいうgrand Duke、あるいはgrand Prince、ロシア語のВеликий князь(ベリーキークニャージ)、日本語の大公



皇帝の男系子孫に名乗ることが許される称号であったが、19世紀末期のロシアでは、ニコライ1世の男子子孫が多く、大公の人数が20を超えたことにより、大公の持つ権威弱体化と皇室経費膨大化を回避するために、1886年7月14日、アレクサンドル3世は家内法を定め、大公の称号は皇帝の息子および男系孫のみに許すものとした。
なるほど、ピョートル3世以降に連なる、ロマノフ=ホルシュタイン=ゴットルプ家で、1728年のピョートル3世誕生からの100年間では新たに生まれた大公はたった8人であったのが、その後、革命までのおよそ90年の間に30人が生まれている。
年代で見ると、1830年代2人、1840年代3人、1850年代6人、1860年代10人、1870年代7人、1880年代1人、1890年代なし、1900年代1人である。
1880年代以降の激減は、家内法による他、大公らの貴賎結婚が思いの外多かったことにもよる。
ロシア革命当時、存命していた大公16人中、処刑された者は8人、亡命した者も8人だった。


一覧
革命後存命
革命後処刑

1728 ピョートル・フョードロヴィチ (ピョートル3世)
1754 パーヴェル・ペトロヴィチ (パーヴェル1世)
1777 アレクサンドル・パヴロヴィチ (アレクサンドル1世)
1779 コンスタンチン・パヴロヴィチ
1796 ニコライ・パヴロヴィチ(ニコライ1世)
1798 ミハイル・パヴロヴィチ
1818 アレクサンドル・ニコラエヴィチ (アレクサンドル2世)
1827 コンスタンチン・ニコラエヴィチ
1831 ニコライ・ニコラエヴィチ
1832 ミハイル・ニコラエヴィチ
1843 ニコライ・アレクサンドロヴィチ
1845 アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ(アレクサンドル3世)
1847 ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ
1850アレクセイ・アレクサンドロヴィチ
1856 ニコライ・コンスタンチノヴィチ
1856 ニコライ・ニコラエヴィチ
1857 セルゲイ・アレクサンドロヴィチ
1858 コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ
1859 ニコライ・ミハイロヴィチ
1860 ドミトリ・コンスタンチノヴィチ
1860 パーヴェル・アレクサンドロヴィチ
1861 ミハイル・ミハイロヴィチ
1862 ヴャチェスラフ・コンスタンチノヴィチ
1863 ゲオルギ・ミハイロヴィチ
1864 ピョートル・ニコラエヴィチ
1866 アレクサンドル・ミハイロヴィチ
1868 ニコライ・アレクサンドロヴィチ(ニコライ2世)
1869 アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ
1869 セルゲイ・ミハイロヴィチ
1871 ゲオルギ・アレクサンドロヴィチ
1875 アレクサンドル・ウラジミロヴィチ
1875 アレクセイ・ミハイロヴィチ
1876 キリル・ウラジミロヴィチ
1877 ボリス・ウラジミロヴィチ
1878 ミハイル・アレクサンドロヴィチ
1879 アンドレイ・ウラジミロヴィチ
1891 ドミトリ・パヴロヴィチ
1904 アレクセイ・ニコラエヴィチ

男子が複数生まれて分家が広がったのは、ニコライ1世の子の代以降である。
ニコライ1世の男子は、

アレクサンドル・ニコラエヴィチ
コンスタンチン・ニコラエヴィチ
ニコライ・ニコラエヴィチ
ミハイル・ニコラエヴィチ

ニコライ1世の没後のおよそ60年間の、ロマノフ4分家(アレクサンドロヴィチ、コンスタンチノヴィチ、ニコラエヴィチ、ミハイロヴィチ)について、回を分けて見ていく。
今回は起点として、ニコライ1世についてのみを書く。




ニコライ1世

ニコライ1世
1796-1855 在位1825-1855

父は先先代のロシア皇帝パーヴェル1世、前皇帝は兄のアレクサンドル1世である。
母はマリア・フョードロヴナ(1759-1828)

先先代皇帝パーヴェル1世 ニコライ1世の父

ニコライの母マリア・フョードロヴナ
パーヴェル1世の二人目の妃
最初の妃ナタリア・アレクセーエヴナは第一子を死産後に身体を悪くして亡くなった




パーヴェル1世の子女は以下の通り。

❶アレクサンドル1世 1777-1825 在1801-1825
❷コンスタンチン 1779-1831
③アレクサンドラ 1783-1801
④エレナ 1784-1803
⑤マリア 1786-1859
⑥エカチェリーナ 1788-1819
⑦オリガ 1792-1795
⑧アンナ 1795-1865 オランダ王ウィレム1世妃
❾ニコライ1世 1796-1855 在1825-1855
➓ミハイル 1798-1849

アレクサンドル1世とニコライ1世との年齢差は19である。父パーヴェル1世が暗殺された時には、ニコライはまだ4歳。パーヴェル1世の暗殺には、長男アレクサンドルが関与していたとも言われている。アレクサンドルは、パーヴェルを嫌うエカテリーナ2世に大変可愛がられていた。パーヴェルは即位するとすぐに帝位継承法を制定して、以後、帝位継承は男子のみにしか認めないものとし、それ以外でも母の政治方針を全て覆した。
のちに、この帝位継承法の存在がニコライ2世と皇后に過大なストレスを加えることになったことは、ロシア帝政崩壊を加速させたと言える。

先代皇帝で兄のアレクサンドル1世 幼少時

アレクサンドル1世 青年期

アレクサンドル1世

アレクサンドル1世妃エリザベータ・アレクセーエヴナ 女子二人を生んだがいずれも愛人の子で早逝した アレクサンドル1世の庶子(女子)を育てる


パーヴェル1世の兄弟姉妹は、男子4人女子6人。
男子はそれ相応に生きたが、女子は3人が若くして亡くなっている。アンナはオランダ王ウィレム2世妃となり、次王ウィレム3世を生んだ。のちにウィレム3世には三男一女が生まれたが、王位継承前に男子は皆亡くなり、ウィルヘルミナが女王となった。

アレクサンドラとエレナ 二人とも10代で同じ頃に結婚し、アレクサンドラは第一子出産後、エレナは第二子出産後に亡くなった

アンナ のちにオランダ王妃


二男コンスタンチンは、最初の結婚は相手が故郷に帰ってしまって戻ることを拒否、のちに離婚が成立したが、次の結婚では貴賎結婚だったため、帝位継承権を放棄した。アレクサンドル1世には男子の継承者はおろか、正式な子はなかった。そのため、アレクサンドル1世亡き後は弟で三男のニコライが次の継承者となった。

アレクサンドル1世崩御

アレクサンドル1世のデスマスク

1825年即位後、ニコライ1世は汎スラヴ主義を掲げ、厳格な専制政治を貫いた。ポーランドやハンガリーの独立運動を鎮圧。アルメニア併合。日露和親条約を結び、東アジアへ進出。南部ではオスマン帝国とクリミア戦争にもつれ込む。
様々な苦境にさらされたまま、あっけなくインフルエンザに罹って崩御した。
妻はプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世元王女シャルロッテ・フォン・プロイセン、ロシア名アレクサンドラ・フョードロヴナである。
自分付きの女官が夫の愛妾になっても、夫の死後もその愛妾と親しくし、宮殿(アレクサンドル宮殿:エカテリーナ2世が息子アレクサンドルの結婚を記念して建設した宮殿で、代々の皇帝が夏の宮殿として利用。最後のニコライ2世は常住した)でともに暮らした。

ニコライ1世

ニコライ1世

ニコライ1世妃 アレクサンドラ・フョードロヴナ


ニコライ1世の子女。

❶アレクサンドル2世 1818-1881
②マリア 1819-1876
③オルガ 1822-1892
④アレクサンドラ 1825-1844
❺コンスタンチン 1827-1892
❻ニコライ 1831-1891
❼ミハイル 1832-1909

三姉妹について。

②マリア・ニコラエヴナ
長女マリアはロイヒテンブルク公マクシミリアンと恋愛の末結婚し、7人の子を授かり、マクシミリアンの死後に再婚、2人を授かるが、貴賎結婚のため父皇帝存命中は極秘であった。美術に関心が高く、イタリアで数多くの作品を蒐集した。

マリア・ニコラエヴナ ロイヒテンブルク公マクシミリアン妃


③オルガ・ニコラエヴナ
二女オルガはヴュルテンベルク国王カール1世妃となる。子女は授からなかった。

オルガ・ニコラエヴナ ヴュルテンベルク国王カール1世妃


④アレクサンドラ・ニコラエヴナ
三女アレクサンドラはヘッセン=カッセル方伯子フリードリヒと結婚したが、ロシアを離れる前に肺病になり、出産もしたが母子とも生きられず、子を抱いた姿で埋葬された。
このころ、ロシアではアレクサンドラという名を付けられた子は不幸な若死が多かったため、避ける傾向にあったにもかかわらず、やはりこういう結果になってしまった。
他には、
アレクサンドラ・パヴロヴナ 1783-1801
アレクサンドラ・ミハイロヴナ 1831-1832
アレクサンドラ・アレクサンドロヴナ 1842-1849
アレクサンドラ・ゲオルギエヴナ 1870-1891

パヴロヴナ、ゲオルギエヴナも、出産後すぐに亡くなった。ゲオルギエヴナの嬰児は助かり、革命後も生き残った大公ドミトリ・パヴロヴィチである。

アレクサンドラ・ニコラエヴナ ヘッセン=カッセル方伯子フリードリヒ妃

オルガとアレクサンドラ


それでは、のちに4分家を築く男兄弟についてを見る。

兄弟姉妹の構成を見ると、二男以下は、嫡男アレクサンドルとの間に三姉妹がはさまっているので歳の差が開いており、二男コンスタンチンで9つ、四男ミハイルは14歳の差がある。
アレクサンドル2世は即位時は37歳、弟達は23〜28歳であった。アレクサンドルは若い弟達に権威を授けるべく、軍人として活躍して名を上げられるよう重要なポストに就かせたが、どの弟もあまり実績を上げることはできなかった。

1855年、兄皇帝が暗殺され、甥のアレクサンドルがアレクサンドル3世として即位すると、新皇帝の叔父である3人はことごとく影響力を取り払われた。ミハイルは、1894年のアレクサンドル3世の没後も存命であったが、新しく即位したニコライ2世は大叔父ミハイルに対し敬意をもって接した。

ロシア帝国の最後まで、アレクサンドルの男系子孫が絶えなかったため、コンスタンチン、ニコライ、ミハイルの系統から皇帝が出ることはなく、そのため彼らの2代下からは家内法により、大公の位を失う。


アレクサンドロヴィチ、コンスタンチノヴィチ、ニコラエヴィチ、ミハイロヴィチの各系の子孫については、次回から順次、記事に上げていきます。

ニコライ2世戴冠式式次第(?)より
ニコライ2世

アレクサンドラ・フョードロヴナ皇后

左から右下 マリア・フョードロヴナ皇太后、ゲオルギ・アレクサンドロヴィチ皇太子、ミハイル・アレクサンドロヴィチ大公、オルガ・アレクサンドロヴィチ大公女

ウラディミル・アレクサンドロヴィチ大公、マリア・パヴロヴナ大公女、キリル・アレクサンドロヴィチ大公、ボリス・アレクサンドロヴィチ大公、エレナ・アレクサンドロヴィチ大公女、アンドレイ・アレクサンドロヴィチ大公

リュクセンブルク大公アドルフ、モナコ大公ルイ、オルデンブルク大公フリードリヒ・アウグスト、プロイセン大公ハインリヒ、プロイセン大公女イレーネ、ルーマニア大公フェルディナント、ルーマニア大公女マリア

ザクソン=コーブルク=ゴータ公アルフレート、マリア・アレクサンドロヴナ大公女、アルフレート、ベアトリス

アレクセイ・アレクサンドロヴィチ大公、セルゲイ・アレクサンドロヴィチ大公、エリザベータ・フョードロヴナ大公女、パーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公、ドミトリ・パヴロヴィチ大公、マリア・パヴロヴナ大公女

ミハイル・ニコラエヴィチ大公、ニコライ・ミハイロヴィチ大公、ゲオルギ・ミハイロヴィチ大公、アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公、クセニア・アレクサンドロヴナ大公女、セルゲイ・ミハイロヴィチ大公

ヴュルテンベルク大公女エルザ、ヴュルテンベルク大公女ヴェラ、ヴュルテンベルク大公女オルガ、ヴュルテンベルク大公アルブレヒト、ヘッセン大公女、ヘッセン大公、ルートヴィヒ・フォン・バッテンベルク、ヴィクトリア・フォン・バッテンベルク

オルガ・コンスタンチノヴナ大公女、ゲオルギ・コンスタンチノヴィチ大公、コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ大公、ニコライ・コンスタンチノヴィチ大公、デンマーク大公フレゼリク?、アナスタシア・ミハイロヴナ・メクレンベルク=シュベリーン大公女、イタリア大公ヴィットール・エマヌエーレ