名のもとに生きて

人の一生はだれもが等しく一回かぎり。
先人の気高い精神に敬意を表して、その生涯を追う

ロベスピエールの真理

2023-05-09 16:38:00 | 人物

マクシミリアン=マリ=イジドール・ド・ロベスピエール(1758〜1794)
『自由よ、汝の名においていかに多くの罪が犯されたことか!』
(ロベスピエールらにより処刑されたロラン夫人の最後の言葉)


1 生まれと風貌、秘密

18世紀末、社会構造の不均衡、財政難で大いに傾いていたフランス。そこに啓蒙主義社会を実現した革命家の代表的な人物、ロベスピエールとはどんな人だったのか。

ここであくまで「代表的な」としたのは彼一人が革命を先導したのではなく、当時の多くの政治家の一人にすぎないからだ。彼は特殊な存在だったのではなく、この時代に直面し、なすべきことを成し遂げようとした者の一人であり、結果、知られた通りの革命家として名を成すことになる。

実際、ロベスピエールが権限を握っていた期間は晩年の1年ほどでしかない。普段のロベスピエールはどんな様子の人なのか。

低身長、痩せ型、眼鏡を掛けている。質素だが整った身形。議場の演壇に上がる。なまりが少し、声量も身振りも大きくなく、原稿を用意して読む。姿に雄弁さはないが、その内容に圧倒される

同じように小柄で映えない風貌ながら、美声、身振り、天才的な弁術で聴衆を熱狂させた、後の世のゲッベルスとはまた違うようだ。しかし、ゆったりとした話しぶりはジャーナリストの記録しやすさを計ったものであり、それゆえにロベスピエールの演説は議会内よりも、外の民衆に向けたものだとされる。周到である。

生まれについて。兄弟姉妹4人のうちの最年長、父は地方の弁護士で上層ブルジョワ、母は商家育ちの中層ブルジョワである。子供の頃は内向的で、飼い鳥の絵を描いて過ごすことを好んだ。母は5人目の子の出産で亡くなり、父もそのショックから失踪したため、兄弟姉妹は別れて暮らした。親戚に大事に育てられ、また勤勉かつ優秀な彼は奨学金を得てパリで学び、卒業後は故郷に戻り弁護士として活躍した。エリート教育を受けた実力者ではあるが、あのような時代ゆえにコネがない分苦労はあった。生活ぶりは質素、少食、物静かだが愛想は良かった。とにかく勤勉、そして生涯独身だった。

パリで学び故郷に戻った若き法曹家ロベスピエール。彼には故郷において一つの負い目がある。両親が結婚した時、母はすでに懐妊5カ月だった。当時では明らかにタブーであり、地方ならば当然知れ渡る。それは生まれた当人にも払拭できない脛のキズであった。法曹家として自立後、ロベスピエールは婚外嫡出子や私生児、あらゆる弱い立場の人を擁護する。すすんで自ら話を聞きにいく。それにより貴族や既得権者には恨まれることになり、彼の地方エリート社交場での立場を危うくしつつあった。

2 革命家ロベスピエール

フランス革命は遠い時代のことのようだが、当時の啓蒙思想のモラルは十分に高かったと感じる。人口の2%、国土の20%を領有する特権階級(貴族、僧侶)は免税され、その他の国民が税負担のほか領地の地代も納めさせられていた。その状況からの立ち上がりである。アメリカ独立戦争の影響も受け、フランスは三部会を足掛かりに人権宣言、憲法、革命へと乗り出した。三部会では各地から選出された平民の有知識層の議員が議会で議論を進める。若く無名だったロベスピエールはその優れた演説でたちまち名を知られるようになった。初期の彼の主張は明解で繊細さも感じる。例を上げると、

「貧しい人が選挙に参加できるように、選挙集会に参加する時間と仕事に補償」「俳優、プロテスタント、ユダヤ教徒に市民権要求」「植民地の有色人にも政治的権利」「海軍の将校と水兵の刑罰を同一に」

また、請願権の行使を能動市民に限定すべきかについて、「非能動市民にこそ保障されるべきだ。人間は弱くて不幸であればあるほど請願がますます必要となるから」

ロベスピエールの目に映る国民とは貧困な民衆であり、貧困や不平等から民衆を救い上げるために演説をし続けていた。弁護士時代から変わらぬ姿勢だ。

3『すべての罪に対する処罰は、死刑である』

元から彼は死刑反対、戦争反対であった。しかし議会がオーストリアに宣戦布告したためフランスは革命と同時進行で諸外国と戦うこととなった。議会内の対立や地方での反革命運動は過激化し、ロベスピエールの思考は変形していく。内戦を防ぎ、革命を遂行するためには、国民の無知と政治の腐敗に対策をとるべきと。人民は善良であるが無知である。徳を説き教育する。また議会が腐敗しないよう既に議員だった者は次回選出されないよう提案、しかしこれは却下され、彼も議員を継続した。議会内での立場も浮上し、公安委員というある種の権利も持つに至った。

ロベスピエールは元からバイタリティに乏しく、その上寝る間を惜しんでの執務や演説原稿準備などにより徐々に体を壊し、病気(おそらく循環器系の)にも悩まされていた。自らに対する暗殺未遂事件もあった。そのせいだろうか、考えも近視眼的になり、さまざまな陰謀に神経を尖らせ、強圧的な対処を行うようになった。それがテロールと呼ばれるものである。

彼によれば、人民は理性によって、人民の敵は恐怖によって導かれる。平時は徳による、革命時は徳と恐怖による政治が必要だと。

「徳なくして恐怖は災禍、恐怖なくして徳は無力」

恐怖は拍車がかかり、歯止めが効かなくなっていき、裁判なく即決の死刑が横行する。プレリアル22日(6月10日)の法はその行き着く先を示している。同じ派閥で活動してきた仲間も既に対象になっていた。

もっともこれらの判断はロベスピエール一人が行なっていたわけではない。意外にも彼の署名はそれほど多くはなかったらしい。また死刑が苛烈に執行されてたその頃は病により公務に出られていなかったという。しかし彼は権力を持つ人だった。批判は被らなければならない。議員達は粛清の対象になることを怖れ、誰もが口をつぐんでいた。

テルミドール8日(7月26日)、ロベスピエールが6週間の療養後久しぶりに議会に現れる。演壇で放たれたこの言葉にいよいよ恐怖震撼した者達がいた。

「公共の自由に対する陰謀が存在する。この陰謀は国民公会の只中で策動している犯罪的な同盟のせいでその力を得ている。そしてこの同盟は、保安委員会やこの委員会の事務局の中にも共犯者を持っている。公安委員会のメンバーもこの陰謀に加担している」

議会内には各派閥間での策動もあったが、反革命運動鎮圧に地方派遣されていた議員のうち極端な虐殺を指揮した廉で、ロベスピエールによってパリに呼び戻されていたフーシェ、コロー=デルボワ、バラス等は戦慄した。ロベスピエールは自分達をターゲットにしているのだ、と直感した。

4 真理

翌日、議会でロベスピエールの一派は逮捕され、一夜明けて処刑された。彼はこの成行を予期していたと思われる。領袖の一人クトンも策動を察知しパリに残って共に処刑された。もう一人のサン=ジュスト、美貌の若き革命の大天使はまだ希望を見ていたかも知れない。一月程前、ジャコバンクラブでの憔悴気味の様子に励ましの声をかけた人に対し、ロベスピエールはこう答えていた。

「犯罪に対しての真理が私の唯一の安らぎの場だ。私は信奉者も称賛も欲しない。私の支えは私の意識の中にある」

真理という言葉の使用は、彼がずっと心に刻んできたルソーへの崇敬、それをしたためてきた「献辞」の中で使われている。

「私は、真理の崇拝に捧げられた高貴な生の苦悩をすべて理解した。同胞たちの幸福を求めたのだという自らの意識が、有徳の士に与えられる報酬なのである

真理と幸福はある程度乖離している。フランスはこの先も混迷が続いた。

逮捕の際、ロベスピエールは顎に銃弾を受け、言葉を奪われた。筆記を希望したが許されなかった。「私の意識の中」の言葉はついに外に出ることはなかった。


今に映して

今日を生きる我々から比べたら計り知れない教養を持ち、果敢に革命に挑んだこの時代の知識人達に尊敬の意を表する。無知なる民衆がこのさき手にしたのは皇帝であり、再びの王であった。しかし経済的な進歩は手中にした。人間の求める真理と幸福、これはなかなか一体ではないのは片腹痛い事実と思う。ロベスピエールの真摯な考えの中から我々の時代にひとつ教えを戴く。「人民がその権力を行使せず、人民自身がその意志を表明しないところでは、しかも代表者集団が腐敗しており、ほとんど人民と同一視されている場合には、自由は失われる」


参考:『ロベスピエール』ピーター・マクフィー著、『ロベスピエール世論を支配した革命家』松浦義弘著 他


フィリップ殿下とヨーロッパ王室

2021-05-30 22:25:00 | 人物
エジンバラ公フィリップ殿下
ヨーロッパ王室をともに生きた100年



エジンバラ公フィリップ
1921〜2021

2021年6月に100歳を迎えようとしていたエジンバラ公フィリップ殿下が4月に薨去。
100年のヨーロッパ王室の変遷を生きてきたエジンバラ公は、これまでこの場で取り上げてきた王室の方々とも幅広く縁が深い。女王の王配とはいえ、負けず劣らず高貴な出自であることを示しておきたい。



1. 血統
フィリップの血縁で特筆されるのは、母方の高祖母に英女王ヴィクトリア、父方の高祖父にロシア皇帝ニコライ1世がいること。
イギリス王室ではヴィクトリア女王の後、第二子長男のエドワード7世、その第二子次男ジョージ5世、その第一子長男エドワード8世、その弟ジョージ6世、その第一子長女エリザベスであり、エリザベス女王にとってもヴィクトリア女王は高祖母だ。フィリップは、ヴィクトリア女王の第三子次女アリス・ヘッセン大公妃、その第一子長女ヴィクトリア・バッテンベルク侯妃、その第一子長女アリス・ギリシャ王子アンドレアス妃、その第五子長男にあたる。
父方の高祖父ニコライ1世の後は、第五子次男コンスタンティン、その第二子長女オリガ・コンスタンティノブナロシア大公女・ギリシャ王ゲオルギオス1世妃、その第七子五男アンドレオスがフィリップの父だ。父ゲオルギオス1世はデンマークの王家からギリシャ王となっており、父はクリスチャン9世。兄フレゼリク8世がデンマーク王家を継いでいる。
主にこうした系譜を持つゆえに、ヨーロッパ各国の王室との繋がりが広範で、母方ではイギリスやドイツ、父方では北欧やロシアの王室と深く関係している。



ロシア皇帝ニコライ1世



英国ヴィクトリア女王



2. イギリス王室からの血友病

以前の記事に書いたとおり、ヴィクトリア女王の血縁には血友病が現れていた。フィリップの曽祖母であるヘッセン大公妃アリスは保因者だった。アリスの子女のうち、男子はその病で夭折、4人の娘のうち2人が保因者として嫁ぎ先に病をもたらした。とりわけ三女アリクス・ロシア皇后ニコライ2世妃はロシアの運命を変えることになった。次女エリザベートもロシア大公女妃であり、アリクスとともにロシア革命の犠牲となった。革命(1917)はフィリップの誕生(1921)以前のことではあるが、母アリスにとって皇帝の4人の皇女達は従姉妹であり、自分の娘達を遊ばせてもらうなど交流があった。叔母のエリザベートからは深く影響を受けている。フィリップの祖母ヴィクトリアはヘッセン大公妃アリスの長女だが、子孫に影響はなかったことから保因者でなかったとみられる。しかし、同じバッテンベルク家系に嫁いだ、ヴィクトリアの叔母すなわちヴィクトリア女王の末娘ベアトリスは病をもたらし、その娘ヴィクトリア・ユージェニーがスペイン国王に嫁いだことで不幸を広げてしまった。
なお、殺害されたロシア皇帝一家の遺体特定に際し、女系でつながる血縁者であるフィリップの遺伝子型の提供により確定に至った事実がある。該当者のうち提供を拒否した元ロシア皇族もいたが、フィリップはこころよく協力した。



ヘッセン大公妃アリス
ヴィクトリア女王の次女であり、血友病保因者
娘のうち二人に遺伝し、嫁ぎ先の男子が血友病となった



ヘッセン大公妃アリスの4人の娘
左から三女イレーネ、長女ヴィクトリア、次女エリザベート、四女アリクス
血友病はイレーネとアリクスが保因、エリザベートは子がなく不明、ヴィクトリアは受け継がなかった
また、エリザベートとアリクスはロシア革命でそれぞれ殺害された



ヴィクトリア女王の末娘ベアトリスとマウントバッテン家の子供達
男子二人が血友病に、娘はスペイン王室に嫁ぎ、血友病を王子達にもたらした



フィリップの母アリスの娘たちとロシア皇女マリアとアナスタシア





3. 母方の系譜



フィリップの両親
アリス・オブ・バッテンバーグ
ギリシャ王子アンドレオス


母アリスはドイツのバッテンベルク家の出身であるが、アリスの母ヴィクトリアを通じてヴィクトリア女王をよく訪ねていた。博識で聡明な孫娘ヴィクトリアを他国の王室に嫁がせなかったのは、なるべく呼び寄せたい女王の策であった。当時のイギリス王室の関係者で血縁がある方々は非常に多い。
フィリップは、ヴィクトリア女王からエドワード7世に続くジョージ5世の時代に生まれている。ジョージ5世は祖母の従兄弟であり、ギリシャの政変で王族に死刑が宣告された時、軍艦を差し向け、まだ生まれたばかりのフィリップを含めギリシャ王族を逃れさせたのはこの王だった。

ジョージ5世、エドワード8世、その後ジョージ6世のときにフィリップはエリザベスとの婚姻で英王室に入った。
その当時は、ヴィクトリア女王の次男で、先の「エジンバラ公」アルフレートと夫人のマリア・アレクサンドロヴナ元ロシア大公妃の娘マリア、祖母ヴィクトリアの従姉妹にあたるが、ルーマニア・フェルディナンド1世国王妃となり、その次女マリアはユーゴスラビア国王アレクサンダル1世妃に、長女エリザベタはのちのギリシャ王ゲオルギウス2世(フィリップの伯父)に嫁いだ。三女イレアナについては別記事にあるが、国王に嫁いではいない。マリア・アレクサンドロヴナの次女ヴィクトリア・メリタは、ヴィクトリア女王の勧めによりヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒ(祖母ヴィクトリアの弟)に嫁いだが、不倫を貫き、ロシア大公キリル・ウラディミロヴィチと再婚し、子孫が現在、ロシア皇位継承を唱えている。マリア・アレクサンドロヴナの望みが歪んだ形で成就した形だ。
ヴィクトリア女王の三男コノート公の美人姉妹の姉マーガレットは、スウェーデンの後の国王グスタフ6世に嫁いだが、多くの子を成した後若くして亡くなり、後妻となったのが長く独身だったバッテンベルク家の次女、母アリスの妹ルイーズだった。これにより、バッテンベルク家から、スペイン、スウェーデン、イギリスに王妃、王配を輩出したこととなった。



女王ヴィクトリア、末娘ベアトリス、孫娘ヴィクトリア、曽孫アリス


バッテンバーグ(マウントバッテン)家
アリス、ルイーズ、ジョージ、ルイス4兄弟姉妹



アリスとルイーズ
ルイーズはのちにスウェーデン王妃に


バッテンバーグ家とアリスの娘達



アンドレオスとアリスの家族写真
4姉妹とは年齢の離れているフィリップ






4. 父方の系譜

ギリシャは1863年にデンマーク王室から新たな国王を迎えることになった。すでに内定していたのはその同じ年に国王になったクリスチャン9世の次男であり、ゲオルギウス1世が17歳で即位した。父のデンマーク国王即位より7カ月早い。そのゲオルギウス1世の四男が、フィリップの父アンドレアス王子である。クリスチャン9世はヨーロッパの義父とあだ名されるが、その第一子はもちろんデンマーク国王に、第二子アレクサンドラはイギリス国王エドワード7世妃に、第三子がギリシャ国王に、第四子ダウマーがロシア皇帝アレクサンドル3世妃にとなるほか、孫カールがホーコン7世としてノルウェー国王に、曽孫マッタはホーコン7世の世継オラフ5世に嫁ぎ、マッタの妹アストリッドはベルギー国王レオポルド3世に嫁いだ。元々クリスチャン9世は王族の片隅の存在で貧しい暮らしぶりで子女の教育にも腐心していたほどだった。
ゲオルギウス1世が王妃迎えたのは、オリガ・コンスタンティノヴナ。ロシア皇帝ニコライ1世の孫娘である。8人を生み、そのうち3人はロシアの皇族と結婚した。フィリップの伯父や伯母はロシアとつながりが深いことになる。第三子アレクサンドラはパーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公に、第五子マリアはゲオルギ・ミハイロヴィチに嫁ぎ、第四子ニコラオスはエレナ・ウラディミロヴナ大公女を迎えた。アレクサンドラは妊娠中に事故で亡くなり、そのとき生まれたのがのちにラスプーチンを殺害したドミトリ・パヴロヴィチだった。また、ニコラオスとエレナの末娘マリアは、ジョージ5世の四男ケント公ジョージに嫁いだ。フィリップの従姉妹であり、ともにギリシャ王室からイギリス王室に入ったことになる。第二子ゲオルギウス、後のゲオルギウス2世は王子時代に当時ロシア皇太子ニコライと日本に遊び、大津事件にあった。ロシア革命で皇帝ニコライ2世はもちろん、親族となったパーヴェルやゲオルギも処刑され、やがてギリシャ王族も同じような危機に遭遇したのは前述した。フィリップが生まれたのはこの頃、ヨーロッパの先行きが不安定な時だった。しかし、4人の娘達から離れた年頃の、初めての男子誕生に、すでに疎遠になっていた母アリスと父アンドレアスは光を感じたことだろう。
イギリス海軍に助けられ、パリに逃れたギリシャ王族だったが、アンドレアスは家庭を顧みず女性に溺れ、精神を病んだ母は療養で遠くへ行き、姉達も皆ドイツに嫁いで行くと、フィリップは10歳にして一人になり、マウントバッテン家の祖母に引き取られた。教養高い祖母ヴィクトリアと、叔父のジョージやルイスに暖かく迎えられた。海軍で活躍していたルイス・マウントバッテンは、フィリップに影響を与え、フィリップもイギリスに帰化してイギリス海軍でキャリアを積んで行く。それは、大戦突入となれば姉達のいる国ドイツを敵に戦うこととなった。



アンドレオス王子


アンドレオス王子、ニコラオス王子、コンスタンティノス王太子



デンマーク王家クリスチャン9世の家庭
ダウマーの婚約者としてロシア皇太子アレクサンドルが来訪している
姉アレクサンドラはイギリスに嫁ぎ写真にいない



クリスチャン9世夫妻と三姉妹
左のアレクサンドラはエドワード7世妃になる
エリザベス女王の曽祖母にあたる
つまりエリザベスの曽祖母とフィリップの祖父は姉弟


5. 100年を生きる

ヨーロッパ王室の真ん中で100年を生きたフィリップ。同じくイギリス王室に入った王配で、ヴィクトリア女王の夫君アルバートと比較すると、フィリップの権限はかなり低くされており、公務では常に女王の後ろに身を置かねばならず、与えられた立場に苦しむこともあったに違いない。時代が進むに従って、タブロイドやテレビ放送で悪く評されることもあっただろう。私はそうした詳細を知らないが、子供時代の写真からは、豪快さと繊細さが両方見て取れる。ヨーロッパの大きな骨が静かに抜かれてしまったような寂しさを感じた。












































「もうひとつのドイツ」のために ナチ抵抗者たち

2020-05-17 17:37:00 | 出来事

ヒトラー政権の暴政、歓迎する愚かな国民
「もうひとつのドイツ」のために
命をかけた市民・将校・知識人たち



1944年7月20日事件
ヒトラー暗殺計画の実行者
クラウス・フォン・シュタウフェンベルク
1907~1944



クライザウ・サークル中心人物
ヘルムート・イェームス・フォン・モルトケ
1907〜1945



ビュルガーブロイケラー暗殺単独実行者
ゲオルグ・エルザー
1907〜1945



0. 恐るべき閣議決定

ナチ政権の横暴について、人種法による迫害及び大量虐殺などはよく知られており、いま我々のうちこれを非難しない者はないだろう。もっとも、当時は広く一般に賛同されていた。独裁に法律の仮面を被せたような全権委任法についても当時ドイツ国民の大多数が肯定し歓迎していた。その断面を表しているのが以下の一件である。

レーム事件、1934年6月30日。
ミュンヘンにてヒトラーの旧知の同胞レームを筆頭に突撃隊幹部らを一斉逮捕し即刻銃殺、同時にベルリンでも数千人規模の逮捕と粛清が行われた。その事件後の閣議決定により以下のような法律が公布された。

国家緊急防衛の諸措置に関する法律;

1934630日、71及び72の反逆及び売国行為を鎮圧するために執られた諸措置は、国家緊急防衛として正当なものとする」


この一条だけの法律に、背筋が凍る。事件の凄まじさにではなく、この簡素すぎる法律に…。さらに驚愕したのは、この一件後の国民の反応だ。実はヒトラー自身、粛清の規模があまりに大きくなりすぎ、民心が離れるかと心配していたが、実際国民はいっそう熱烈に支持したのである。確かに国民はそれまでの突撃隊の行き過ぎた横暴に辟易していたが、軍人や民間人も含めた大粛清という「手段」は非難されなかった。その上、あのような法律も国民の間で問題にされることはなかった。このとき既にドイツは後戻りできないところへ来てしまっていたと思う。

多くの国民がこうして盲目になっていた頃、ドイツのこの状況をなんとか正そうと密かに活動していた人達がいた。一般市民、学生、ジャーナリスト、宗教者、軍人、知識人らが、グループであるいは全くの個人で、それぞれの形で勇気ある行動を続けた。それが見つかるまで…

ユダヤ人を保護、他国への協力要請、自由の訴え、ヒトラー暗殺計画、政権転覆後の社会形成構想などさまざまだった。いずれも活動が発覚すれば極刑(残虐な死刑)となる。

ショル兄妹らの「白バラ」は有名で、当時でも彼らの悲運の結末に同情を寄せない者はなかった。その一方、戦争末期の、国防軍将校らによる暗殺・クーデター計画の失敗は「7月20日事件」として現代でこそ有名であるが、当時は既に敗戦色濃い時期だったにもかかわらず、国民は彼らを憎むべき反逆者と断罪し、ヒトラーへのさらなる熱い忠誠を誓った。ドイツの戦況悪化はヒトラーの指揮ではなく、国防軍に責任があると。この後敗戦までの数カ月で「国民同胞」に総力戦を呼びかけ、ドイツは壊滅的な被害(倍増)に斃れることになる。焦土と化し無条件降伏したドイツの国民はなお独裁主義から目覚めず、戦後も長らく彼ら抵抗者は反逆者であり続けた。

あの一条だけの法律の恐ろしさ。一方、今の日本でも時折、閣議決定のありえない内容に噴飯することがある。

「正当なものとする」「国家緊急防衛」

過去、一度でもそんな法律が存在した事実が、今を楽観したり看過してはならない、と警告している。

ここでは数多くのドイツの抵抗活動のうち3つ、

ビュルガーブロイケラー暗殺未遂事件、7月20日事件、この事件とも関係していた〈クライザウ・サークル〉について見て行く。




1. ビュルガーブロイケラー暗殺未遂事件
「平静でいられるはずはありません」(ゲオルグ・エルザー 尋問)

1939年11月8日ミュンヘン市のビアホールでのヒトラー演説集会が19時30分から2時間の予定で開催された。党員2千人超が集い、ゲッベルス、ヒムラー、ヘス、ボルマンらも最前列で参席。当夜は濃霧で、総統のベルリンへの帰路を列車に変更する必要のため30分ほど早く演説が終わる。終了後の会場で、21時20分、演壇後方の桟敷を支える石柱裏側根元部が爆発。桟敷崩落。8人死亡。ヒトラーや側近はすでに会場を後にしていて被害なしだった。
同じ夜、スイス国境を越えようとしていた男が一人逮捕された。拷問の末、男はビアホール爆破を単独で行ったことを自白。
この事件がイギリス諜報機関の仕業と確信し、公にイギリスを非難していたヒトラーや側近たちはこの男の単独犯行を信じようとしなかった。真実が証明されたが、国民には伏せられ、この一件を後のイギリスとの交渉に利用するべく、男は収容所独房の監視下に置かれた。ほぼ忘れられた存在になっていたが、敗戦が濃厚となった1945年4月に射殺された。

注目すべきは3点。
•全く無名な一市民による単独犯行だったこと。
•設置方法も含め、殺傷力高い精巧な爆破装置だったこと。
•時期が早く、ドイツの戦況が傾く以前であったこと。

犯行者ゲオルグ・エルザーは当時36歳、失業中の家具職人。南独シュヴァーベンの田舎町育ち、国民学校を出たあと借金苦の父母の農業を助け、大工、家具職人をしながら、臨時雇用で計器製造会社や採石場でも働いた。結婚し一子あったが離婚した。
酒乱の父をなだめ、弟妹に優しく、外に友人は少なかった。この計画も誰にも相談しなかった。

計画に至った理由。労働者の苦境を改善することが目的。自由な職業選択、ヒトラーユーゲントに蝕まれない家庭の信仰に基づいた子の教育、何より労働者が戦争に駆り出されないこと。そのためには国家指導部、特にヒトラー、ゲーリング、ゲッベルスを排除しなければならないと客観的に考えたことによる。決断したのが1938年秋。ズデーテン危機の頃。奇しくも時を同じくして、国防軍反ヒトラー派〈高級将校グループ〉によるヒトラー暗殺計画があった。戦争に突入する段階でヒトラーを拘束する計画だ。結局このとき、ミュンヘン会談により開戦の危機は免れたため、国防軍による「9月陰謀」は立ち消えになる。しかしヒトラーは時をおかずチェコ、ポーランド、オランダ、ベルギー、フランスと次々に侵攻した。将校達は失意のまま戦場での戦いに注力せざるを得なくなり以後は動きを潜めた。
一方のエルザーはミュンヘン協定に安堵することなく、早晩ヒトラーは周辺国を侵攻すると確信していた。この優れた先見力と迅速な行動力が、ドイツ軍が勝利を重ね、ヒトラー政権が絶頂にあった時期の不意の一撃となったのだ。エルザーは戦争に至る前から、ドイツがいずれ戦争を引き起こしかつ負けることを予見し、躊躇なく速やかに活動したのだ。
加えて入念さ。計器製造の仕事で信管の技術を、採石場の現場で火薬の扱いを身につけ、素人のものとは思えない高度な爆破装置を作成。その設置には、下見を含め3か月にわたってビアホールの常連客となって物置に身を潜め閉店を待ち、作業音を戸外の市電の音に合わせ、石柱に穴を掘った。完璧だった。…演説時間が予定通りだったなら。
エルザーはのちの尋問でこう答えた。「自分の行動によって、戦争でさらに多くの血が流されるのを阻止するつもりだったのです」と。「8人を死なせて平気か?」との質問には「平静でいられるはずはありません」
全てを一人で考え、計画し、実行し、罪も罰も背負う強さは、いつか認められれば天国へ行けるというシンプルな願いひとつのためだった。
エルザーのこの行動が戦後のドイツで受け容れられたのは実はつい最近だというのは驚きだ。名誉欲などない彼は、後世にではなく、神に認められたいという思いだったのだろう。


2. 7月20日事件
「神聖なるドイツよ、万歳!」(クラウス・フォン・シュタウフェンベルク 銃殺直前の叫び)

今でこそ数々の映画で賞賛されているが、この一件も戦後長らく「裏切者」の仕業とされた。実行者はクラウス・フォン・シュタウフェンベルクだが、共謀者は国防軍、外交官、教育者、法律家、神学者など多数。1944年7月20日、暗殺は失敗に終わった。同時に発動する予定のクーデター(ベルリン、パリ、ウィーンで同時)も失敗し、関係者は徹底的に調べ上げられた。
国防軍上層部には貴族出身が多く、教養高く、軍人として忠誠心も高かった。ヒトラー政権に不満があっても国家を守る責任で従った。「国家と国民」への忠誠がいつのまにか「ヒトラー総統」への忠誠に置き換えられ、前線特に東部戦線での住民や捕虜に対する親衛隊の残虐さやホロコーストの実態に接し、反ヒトラー派は連絡を取り合い暗殺を計画するに至った。中央軍首席作戦参謀大佐ヘニンク・フォン・トレスコウの指揮により、1943年3月ヒトラーのスモレンスク前線視察時の搭乗機に仕掛けた爆弾は寒さのため不発で失敗。同月再び一派のゲルスドルフ(余談;この翌月カチンの森の遺体を発見した)によるベルリンでのソ連武器展示会場での自爆計画も、ヒトラーの予想外の行動により失敗。一方で東部戦線の戦況は泥沼化し、転戦のためトレスコウはシュタウフェンベルクに後を託す。
クラウス・フォン・シュタウフェンベルクはシュヴァーベンの名門伯爵家出身(奇しくもゲオルク・エルザーと同郷)、北アフリカ戦線にて負傷し片眼と片掌と手指を失ってのち、国内予備軍一般軍務局参謀長となる。所属はオルブリヒト大将の下、反ヒトラー派の温床であり、加えて国内予備軍の緊急動員(ワルキューレ作戦)を発動するセクションでもあった。ナチスの国内外での横暴を止めるためにはヒトラーを暗殺するしかないと決意し、ワルキューレ作戦を偽装してクーデターも平行させるために、数々の抵抗グループ、特に転覆後の暫定政府案や政策策定の知見がある〈ゲルデラー・サークル〉や〈クライザウ・サークル〉と協働した。軍務だけでも多忙な一方でこれらの活動も進めねばならず、精神的にも負担は大きかったが、クライザウ・サークルで知り合った18歳年長のユリウス・レーバーと意気投合し、また行動をサポートする良き部下ヴェルナー・ヘフテンにも恵まれた。
反抗グループメンバーの中には、ヒトラーに同席する機会がシュタウフェンベルクよりも多く、実行するに有利な者は他にいたが、気持ちが定まらず拒否したため、計画遂行者でありながら実行者としても遂行せねばならないシュタウフェンベルクには、相当な重責がのしかかっただろう。勿論、表向きの軍務もこなした上で、である。
反ヒトラー派の上層部の意見として、ヒムラーの同時暗殺も狙わねばならなかったがなかなかヒムラー、ヒトラー両方そろう機会はなかった。
それを待つ内、レーバーが別件で逮捕されてしまう。親友をいち早く助けたい焦りも重なる。この日と決めてヘフテンと臨み、実行に及んだ7月20日。数々の予定外が重なり、仕掛けた爆発物はヒトラーには軽症を負わせただけだった。ベルリンの司令部に戻れたもののクーデターも失敗した。シュタウフェンベルク、ヘフテン、ベルリンで動いていたクィルンハイム、オルブリヒトの4人はその深夜、中庭で銃殺された。全て7月20日の出来事である。

日付が変わってまもなく、ヒトラーによるラジオ演説があった。ドイツ国民はそれまで以上に総統を讃え、実行者は裏切者として罵られた。銃殺後に埋葬されていたシュタウフェンベルクらの遺体は、ヒムラーの指示によってただちに掘り起こされ、勲章を剥ぎ取られ、遺体を焼いて灰にして始末された。このあと、生き残った協力者にはより辛辣な運命しか待っていなかった。



ヘニンク・フォン・トレスコウ
戦地で暗殺失敗の報を受けた後、自殺
ただこの時点で事件との関与は疑われてはいなかった



左シュタウフェンベルク 右クィルンハイム



シュタウフェンベルクと子供


3. クライザウ・サークル摘発
「忠誠の義務を私はもうとっくに感じていません」(ハンス=ベルント・フォン・ヘフテン 人民法廷にて)


ヘルムート・イェームス・フォン・モルトケはかつてのドイツ帝国の英雄大モルトケ、小モルトケの末裔であり、シェレージエン地方クライザウの領主だった。国際法の専門家で人権保護に尽くした。また国防軍防諜部のカナリスの部下も務めた。元々ナチス反対の立場であり、反ヒトラー派の外務省職員や学者と通じた。
同じく法律家のペーター・ヨルク・フォン・ヴァルテンブルク伯らとともにクライザウ・サークルを形成した。メンバーは法律家、外交官、大学教授、神学者など約20人。メンバーは比較的若いが、同様の活動をする〈ゲルデラー・サークル〉(元ライプツィヒ市長のカール・ゲルデラーが中心、大企業や英米政府要人とのつながりもある)とも連携しており、終戦後(敗戦後)のドイツのありうべき体制を協議する。ペーター・ヨルクは招集され、国防軍の反ヒトラー派ともつながる。ヨルクはシュタウフェンベルクの従兄弟。
モルトケはドイツの敗戦やソ連によるベルリン進駐を早くから予見しており、敗戦を経てからのドイツの再生を考えていたため、国防軍メンバーによる暗殺計画には反対だった。ヒトラーは正式な裁判で裁かれるべき。そうでなければ暗殺者は裏切者に、ヒトラーは殉教者になってしまうから。
そのためシュタウフェンベルクらとは距離を置こうとしていたが、東部戦線やホロコーストの現実がもはや差し迫った状況にあるとし、暗殺計画に協力することとなる。主にクーデター後の政府について具体的な形を構想した。
ところが1944年1月、モルトケが逮捕された。幸いサークルの存在には気づかれずヨルクが引き継いだ。7月になり、ナチスの罠にかかったレーバーとライヒヴァインが逮捕された。拷問は過酷であったが、二人は決してメンバーの名を口にしなかった。
そして7月20日のクーデター失敗。
ナチスによる執拗な検挙で、軍人、市民、知識人ら大変な数の共謀者が判明し、ヒトラーは激昂した。「奴らを屠畜のように吊るせ!」と指示。抵抗グループは拘禁され、激しい拷問にかけられたが、誰もが耐え、仲間の名前を言わなかった。処刑されたのは9人、7人が逃れた。
抵抗者達は拷問で喉をつぶされながらも、最後の場に毅然と立つ。人民法廷で悪名高き裁判官ローラント・フライスラーとやりあうのだ。


ローラント・フライスラー
戦争末期の人民法廷で多くはこの人物によって裁かれた。 大声で被告を罵倒し発言を遮るなどおよそ裁判の体をなしていない上、判決は死刑が圧倒的に多い
1945年2月アメリカの空爆で死亡
「白バラ」メンバーも彼によって死刑にされた
別記事ヘルムート・ヒューベナーも参考に


プレッツェンゼー収容所
抵抗者の多くは死刑判決後すぐにここに移され、即日処刑された。手前に斬首台、奥に絞首台


人民法廷とは、1934年にヒトラーによって制定された刑法改定によって立ち上げられた、「反逆者及び売国行為の罪に対する判決」のための裁判所である。ゲッベルスはこれを、「判決が合法的であるか否かは問題ではない。むしろ判決の合目的性のみが重要なのである」と言った。冒頭で話題にした一条きりの法律文をしのぐ恐ろしさを感じる。「法が終わるところ、暴政が始まる」。検察庁法改正案への反対意見書に引用されていたジョン・ロックの著書からの指摘がこのときのドイツには届かなかった。


「それは告発された者ではなく告発する者の姿である」
(對馬達雄『ヒトラーに抵抗した人々』)

法廷に立つクライザウ・サークルのメンバーは日々の拷問にやつれた姿だったが、フライスラーの挑発的な問いに臆せず答える。

ヨルクの裁判で、フライスラーが叫ぶ。

「ユダヤ人問題に関し、貴殿にはユダヤ人根絶は気に食わない、国家社会主義の法概念が気に食わないということだろう」

「違います、ユダヤ人問題がすべて、国家が神に対する宗教的、倫理的義務を排除し国民に無制限に権力をふるうことと結びついている、このことが重要なのです」

理屈の通用しない裁判官に屈することなく、自分の弁護でなく、言葉の力を使って真理を突く発言である。人生の最後に訴える思いでもある。刑はその夜に執行されるのだ。
軍人らのあと翌週は外交官らが立つ。
アダム・フォン・トロット、ハンス=ベルント・フォン・ヘフテン(シュタウフェンベルクとともに銃殺されたヴェルナーの兄)もナチスの非を堂々と指摘した。シュタウフェンベルクには双子の二人の兄がいるが、モルトケともつながりの深かった長兄ベルトルトも死刑となっている。
年を越して1945年1月にはレーバー、モルトケが死刑判決を受け、数日後に執行された。
ナチス支配の苦しみの下で危険を冒しながら形づくっていったクライザウ構想とはどんな内容だったのか。7月20日事件が起きていなければドイツはどうなっていたのか。


人民法廷傍聴席


入廷するアダム・フォン・トロット



レーバーの人民法廷裁判
過去にも非常に過酷な拷問監禁に耐えた屈強な精神がシュタウフェンベルクを支えた



ペーター・ヨルク人民法廷裁判
裁判中も処刑場でも毅然とした態度だった



モルトケ 人民法廷裁判


クライザウ・サークルにおいてヒトラー暗殺に否定的だったのは、ドイツの軍事的敗北だけがドイツと世界を救う前提となる、という考えからだった。その前提の上で、再建には3つの柱がある。

•ワイマル政復興の否定
•精神的基礎にキリスト教精神を据える
•国内経済の枠をこえてヨーロッパ経済秩序を形成させることが平和をもたらす

最も民主的なワイマル政から正当な手続きで成立したのがヒトラー政権であったことは事実である。国民が独裁を歓迎したのは世界恐慌による経済不安が原因であり、それが国内経済優先、自給自足経済、他国侵略、他民族迫害を支持した。国民の頭の中にはその手段が民主的か否かを考えるだけの能力も余裕もなかったということになるだろう。侵略された各国にパルチザン活動が起きていたのにドイツ国民はその方向に全く動かなかったことをメンバーは憂いている。戦後に生き残ったメンバーのハンス・ペータースは「民主主義者なくして民主政治は存在しない」と語った。衆愚政治に陥るのみ。このため、サークルでは地方政治にのみ普通選挙を適用し、州議会や国会は間接選挙かつ議院内閣制不採用としている。
ヒトラー・ユーゲントの方針と通ずるヒトラーの言にある「キリスト教は自然の法に反するもので、自然への抵抗である」。ここに言う自然の法は弱肉強食のようなもので、隣人に目を配り手を差し伸べるキリスト教とは相入れない。ボルマンは戦後に教会解体する予定でいたらしい。ヒトラー・ユーゲント的な教育を離れ、ヨーロッパ世界に向けて憎悪と虚偽を克服するためにも西欧に共通するキリスト教精神に立ち帰る必要を訴えている。その基盤に立って償う贖罪の観念がドイツ再建に重要な礎石だとする。平和再建を進めていくためには秩序ある経済が求められる。「経済の目的は人間にある」つまり自由放任主義ではなく、失業問題や環境問題などを解決しながら維持するものでなければならない。このようにクライザウ・サークル独自の方針は、復興をヨーロッパ全体で考えるものであった。その構想に見られるヨーロッパ内の統一通貨、関税撤廃、域内分業、世界経済との関係などはEU発足を実現した現在を予見するものだった。

あの時代に、命の危険を冒して知恵を寄せ合い、自分達を反逆者とし死刑にかける不甲斐ない国民とヨーロッパの未来を真剣に考えた彼等。対照的に当時なお支持を続けた国民を見限り、ヒトラーは国内を爆破せよと命じていた。
彼らが生きて平和を手にすることがなかったことはかなしい。その苦しみに報いるよう私達は決して同じ坂道を転がることのないよう、不断の努力をせねばならないことも忘れない。



社会教育者アドルフ・ライヒヴァインが獄中から我が子たちに向けて書いた手紙がとてもあたたかい。後世の私達皆に向けたやさしい手紙とも受け取れる。およそ20年後、ゲバラが子供達に残した手紙も相通じるので並べてみる。

ライヒヴァイン;
長女レナーテへ(11歳)
「機会があったら、いつでも人には親切にしなさい。助けたり与えたりする必要のある人たちにそうすることが、人生でいちばん大事なことです。だんだん自分が強くなり、楽しいこともどんどん増えてきて、いっぱい勉強するようになると、それだけ人びとを助けることができるようになるのです。これから頑張ってね、さようなら。お父さんより。」


ゲバラ;
「この手紙を読まねばならない時、お父さんはそばにはいられないでしょう。
…立派な革命家に成長しなさい。自然を支配できる技術を身につけるように、うんと勉強しなさい。
一人一人がはなればなれでは何の値打ちもないことを覚えておきなさい。
世界のどこがで誰かが不正な目にあっているとき、いたみを感じることができるようになりなさい。これが革命家において、最も美しい性質です。
いつまでも、子供達よ、みんなに会いたいと思っている。大きなキスを送り、抱きしめよう。
お父さんより」



ヘッセ『アウグストゥス』と故事「邯鄲の枕」

2020-02-15 13:16:00 | 読書

微睡みの前と後
夢と現実の境に





『アウグストゥス』はヘルマン・ヘッセ(1977〜1963)の短編集『メルヒェン』の一話で、元は1913年に創作されたもの。ヘッセの経歴についてはその作品に反映されているとおり、少年期の不安、戦争に沸き立つ時代にそぐわないため非難された平和への希求、自殺未遂、精神不安からの回復など、長い生涯に様々な屈折があった。『アウグストゥス』は1914年の第一次世界大戦開戦の前年の作で、平和な時代の最後の頃のものである。

中国故事「邯鄲の枕」は「邯鄲の夢」「一炊の夢」とも同じ謂。趙の都邯鄲を訪れた若者盧生がその地の宿屋で道士に出会い、自分の平凡な生活への不平をもらすと、道士は夢が叶うという枕を勧める。早速使った盧生は、みるみるうちに幸せをつかみ、時に不幸になることもあったが大望を叶え、王になり、やがて老齢となって満たされたまま死を迎えた。すると気付けば元の宿屋の同じ場所で、寝入る前に宿の婆が火にかけたお粥の鍋がまだ煮えてもいない、まさにほんの僅かな時間しか経過していなかったのだ。人生の全てを見てきた若者は心を新しくし、道士に礼を言って帰って行ったという話。日本でもよく知られており、能の演目としてもメジャーで、専用の「邯鄲男」という面がある。
『アウグストゥス』はこの故事と構成が似ているが、実は全く逆になっている。







1. あらすじ
エリーザベト夫人は夫を失ってまもなく、赤子が生まれようとしているのに、周囲に助けてくれる者がいない。先々のことが不安であるが、もしも何か自分でどうにもできないことが起きたら、隣に住む老人を頼ろうと決めている。挨拶くらいしかしたことがないが他に考えがなかった。不思議なことに、時々夕方頃老人の家から微かで精妙な音楽が聞こえることがあり、近隣でも老人は謎めいた存在でもあった。
お産が始まりそうになった時、どこからか現れた女性が全て世話をしてくれたが、聞いてみると隣の老人の依頼だと言う。エリーザベトはそのお礼と、生まれた子の洗礼のための名付け親になってもらいたいと隣家を訪れた。ピンスワンゲル老人は願いを聞き入れ、その子にアウグストゥスと名を授けた。そしてお祝いがわりに、母が子の将来に望むことを、その日夕方、彼の家からささやかな音楽が聞こえる間に願いを唱えるようにと言った。迷うままに母が願ったのは、「みんながお前を愛さずにはいられないように」というもの。

願いの通り、アウグストゥスは誰もが目を留め可愛がり、何かを与えたり世話をしようとしたりするのだった。願い通りで母も幸福だったが、ある少女への息子の傲慢な態度を垣間見、強い不安に陥った。彼のそうした態度はしばしば見られるようになり、母は自分のあの時の祈りのせいだと心を暗くしていった。
少年は幼い頃からビンスワンゲル老人を慕い、家に入れてもらうことがあった。家は狭く暗いが、暖かい暖炉の火と、どこからか聞こえてくるオルゴールのような音色の音楽、音楽が部屋に満ちると天使のような子供達が空中で戯れ踊る。遊び疲れている少年は老人の膝に寄りかかり、うっとりとその様を見ながら眠りに落ちるのだった。次第に、アウグストゥスは周囲から親切を受けながらも冷酷な態度をとることが多くなり、老人の部屋を訪れても音楽がめったに聞かれず、暖炉の火も乏しいものになっていった。

やがて誰かの好意によって優れた学校の寄宿舎に入れることになり、町を後にしたアウグストゥス。立派な大学生となり、家を再び訪れたのは母がもう危なくなってからのことだった。母を失い、疲れたアウグストゥスを老人は家に招いたが、かつてのように彼を迎える音楽も炉火なかった。
アウグストゥス青年は大学に戻ったが、学問に飽き、セレブたちとの享楽に明け暮れ、皆にちやほやされ、益々高慢になり、彼を慕ってくる人をわざと陥れたり、金品に汚くなったりしたが誰も彼を咎めなかった。またアウグストゥス自身、どんな豪勢な生活をしても満たされることがなかった。

あるときとても美しく心惹かれる女性を見出したが、公使をしている夫のある人だった。初めて心から求める女性に出会え、精一杯アピールし続け、ようやく告白して駆け落ちしようと誘う。すると彼女もまたアウグストゥスは初めて心から愛した人だと言う。ところが
「私は純潔でも善良でもない人を愛することがありえようとは、ついぞ考えたこともありませんでした。でも私は夫のもとにいることを数千倍も望みます。私は夫をあまり愛しておりませんけれども、夫は騎士であって、あなたのご存知ないような名誉と高貴さを豊かに備えております」
はかなく恋に破れ、それ以降、彼はますます退廃的になり堕落した。自暴自棄になり、気力も失い、生活もすさんできた。とうとう自殺をすることを決意する。ただし、邪悪な彼は死ぬその日に友人たちを祝宴に招くとうそぶき、自分の死んだ姿を見せつけて驚かしてやろうと計画した。全て準備万端でいざ毒杯をあおろうとしたとき、ドアが開いてビンスワンゲルが入ってきた。老人がまだ生きていたことに驚いていると、遠くからやってきたという老人はのどが渇いたとアウグストゥスの手から杯を取って飲み干してしまう。心配して動揺するアウグストゥスに、ビンスワンゲルは過去の母の願いの秘密を話し、愚かな願いだが母のために叶えたもので、それが君を不幸にしたと詫びた。
「今のところ、君の心が再び健康に清く朗らかになることなどおそらく不可能に思われるだろう。だがそれはできることなのだ」
そして
「君を再び楽しくするような不思議な力があると思ったら、それを願いたまえ」
アウグストゥスは遠い光を見極めるように思い巡らし、溢れる涙で決意する。
「ぼくの役に立たなかった古い魔力を取り消してください。その代わり、ぼくが人々を愛することができるようにしてください!」
涙ながらにぬかずくアウグストゥスを老人は抱き上げ、寝床に運び、
「これでいいんだよ。なにもかもよくなるだろう」
深い眠りに落ちたアウグストゥス。老人は静かに出て行った。

騒音で目が覚めたアウグストゥス、招かれた友人達が祝宴の支度が何もないことに怒り、室内を荒らし、略奪したりアウグストゥスに危害を加えたりして帰った。その後もたくさんの裁判に訴えられ、罵詈雑言を浴びせられ、唾を吐きかけられ、ただアウグストゥスはそんなにされても、相手の目の中に悪意以外のものを見つけては密かに静かに親しみを抱いていた。財産も物資も失い、浮浪者に身を落としても、困っている人にさりげなく手を貸し、感謝されることがなくとも満たされていた。

時が経ち次第に体も弱まり、疲れに打ち勝てなくなった。ある冬、雪がひどく降り始め、アウグストゥスは歩くのがようやくという有様になってきた。ふざけた子供らが彼に雪玉を投げつけ嘲って行ってしまったが、もはや大雪の夜の更けた町を歩く人は見られなかった。疲れに耐えきれず、ある路地を曲がったら、なぜかそこになつかしい彼の家と隣の老人の家が並んでいた。老人の家の窓に灯を認めたアウグストゥスは、やっとの思いでドアを叩く。迎え入れる老人。かつてのように古い毛皮を暖炉の前に広げ、二人の老人は並んで座り、火を見つめた。
(ここからは引用)

…「お前さんは遠い旅をしたね」
「ああ、ほんとに美しかった。私はただ少し疲れてしまった。あなたのところに泊まらせてもらえるでしょうか?そしたら、あすはまた旅を続けます」
「ああ、それもいいよ。だが、あの天使の踊りをもう一度見たいと思わないかい?」
「そりゃ、見たいです、また子どもになれるんでしたら」
「お前さんはまたたいそうきれいになった。ほんとによくわしを訪ねてきてくれた」
旅人はこんなに疲れたことはまだなかった。快い暖かさと火の光に彼はぼんやりしてしまって、今日と昔のあいだをもうはっきりと区別することができなかった。
「ビンスワンゲルおじさん。ぼくがまたいたずらしたので、おかあさんがうちで泣いちゃった。おじさん、ぼくがまたおとなしくするって言っておくれ。いい?」
「いいとも。安心するがいい。おかあさんはお前をかわいがっているんだよ」
今はもう暖炉の火は燃えほそっていた。名付け親はアウグストゥスの頭を自分のひざにのせた。美しい楽しい音楽が暗いへやにやさしく幸福にひびいた。すると、無数の小さい輝く霊が漂ってきて、空中で輪舞した。
ふと彼は母に呼ばれたような気がした。しかし彼はあまりに疲れていた。それに、名付け親が、母に話してやると約束してくれた。彼が眠りこむと、名付け親は彼の両手を組み合わしてやり、静かになった心臓に耳を澄ました。そのうちへやの中はすっかり夜になってしまった。







2. 微睡みの先に
邯鄲の故事では出来事は夢の中であり、目覚めたら現実がそのまま待っていて、盧生にはここから新たな始まりがある。『アウグストゥス』では微睡みから微睡みの間が全て現実の刻々と消費される人生で、最後の微睡みのあとには何もない。命とともに消える。アウグストゥスの生涯は特殊で、むしろこの世のものとは思えないような展開ではあるが、それは現実の生涯の初めから終わりだった。

我が子が誰からも愛されることを望むのは、愚かしいかもしれないがほとんど全ての親の願いだろう。我が子が他の子と見劣りしないよう、ちゃんとした服を着せてやりたい、一つ二つは習い事をさせてやりたい、そのために小さな苦労を積み重ねる親心を否定したくない。私もそうしてきた。ただそれは親自身の安心のために芽生える思いに過ぎないのかもしれない。親だからこそ近視眼的になってしまうのにはよくよく気をつけたいと反省する。

アウグストゥスが幸福を感じた後半生で何を見つめて生きていたのか。人々を愛するまなざしが書き出されている部分を引用し、心に落とし込みたい。
(以下引用)

しかし、派手な生活を送っている最中に彼を窒息させようとした恐ろしい空虚と孤独は、すっかり彼から離れてしまった。子どもたちが遊んだり、学校へ行ったりするのを見て、かわいく思った。自分の家の前のベンチにこしかけ、しなびた手をひなたで暖めている老人たちを、彼はいとおしく思った。思いこがれるまなざしで娘の後を追う若者や、仕事を終えて帰宅し、子どもを腕に抱き上げる労働者や、馬車に乗って静かに急ぎながら病人のことを考えている上品そうな利口そうな医者や、夕方場末の街灯のもとで待ち受けながら、彼のようにつまはじきにされた人間にさえもこびを売る粗末な身なりの哀れな少女などを見ると、それらの皆が彼の兄弟姉妹であった。

そのうち、冬になり、また夏になった。アウグストゥスは病気になって長い間施療病院に寝ていた。ここで、打ちのめされた貧しい人々が粘り強い力と希望をふるい起こして、生に執着し、死に打ち勝とうとしているのを見るという幸福を、彼は静かに感謝しながら味わった。重病患者の表情に忍耐が、回復期の人々の目に明るい喜びがつのってゆくのを見るのは、すばらしいことだった。死んだ人たちのおごそかな顔も美しかった。これらの全てより美しいのは、愛らしい清らかな看護婦たちの愛と忍耐とであった。

生老病死を自分だけに感じるのでなく周囲に見る。人々の輝きを見とめ、それらを大きく抱き寄せる。そんな仕草が見える。












腐敗した政治家や詐欺師のニュースを耳にすれば、この世の全ての営みが美しいわけではないと思うだろう。人に銃を向ける人間の目、午前中に爆撃機を操縦して空爆を行い、午後に帰宅し広場で野球する息子に手を振る操縦士の目、それらを愛をもって眺めることは無理だ。
ただしヘッセのこの作品は第一次大戦を迎える前年のもので、まだ究極の破滅を世界が経験する前のもの。一方の『邯鄲』は戦国時代とはいえ、紀元前の言い伝えである。
それでも自分の身の周りに目を向けて見れば小さな光を放つ幸福があふれている。
盧生も、平凡な日常に心を腐らせていたが、夢の跡に人生のはかなさに気づいた。どんな世にあっても、身辺に輝きを放っている愛しく小さいものたちを日々大切に集めて生きたい。それが日々の糧だ。








実は、これを書く前に、11月から準備して書くのにひと月ほどかけた記事があって、ようやくアップというときに本文全部が消えてしまうという大惨事があり…
やり切れなさに、勢いにまかせて二晩で書いたのがこれです。
落胆がおさまったころ、書き直しに挑戦したい。愚痴でした。

ヴァージニア・ウルフ 『灯台へ』生と死の距離

2019-09-29 16:18:50 | 人物


ヴィクトリア時代への追憶から
新しい時代の躍動と、底流する不穏な空気へ
抱える精神不安を繊細な言葉で覆う





ヴァージニア・ウルフ
Virginia Woolf
1882〜1941


1. 『灯台へ』
ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』を読んだ。
この作品は小説とは異なる新しい形式を試みたものだとしている。しかしこれをなんと呼んだらよいか、彼女も疑問のままにしている。

13歳のとき母を亡くす。美貌の母ジュリアは、画家エドワード・バーン=ジョーンズらラファエル前派の、あるいは伯母で写真家のジュリア・マーガレット・カメロンのモデルもつとめた。作品中のラムジー夫人は思い出の中の母を象っている。1846年から1995年を生きた母は、英国ヴィクトリア時代の典型的な中流夫人の持つべき魅力をそのまま体現する女性だった。『灯台へ』はその母、文筆家の父、8人の兄弟姉妹、父母の客人に似た人物達の物語でウルフ45歳の作品である。















ヴァージニア・ウルフとヴァネッサ・ベルの母
ジュリア/写真
エドワード・バーン=ジョーンズ『受胎告知』
ジュリアがモデルと言われている作品




2. スコットランドの孤島・夏の住居
ウルフの家族の夏の住居は、コーンウォール半島のセント・アイヴズ湾を見下ろす地にあったが、作品の舞台はスコットランドのヘブリディーズ諸島スカイ島だ。
ウルフの父は一女、母は二男一女を連れての再婚だった。その後、姉ヴァネッサ、兄、ヴァージニア、弟が誕生する。作品においても同じ家族構成で、他に数人の客人と使用人が一緒に過ごしている。



セント・アイヴズでクリケットをしているヴァージニア(左)とヴァネッサ


左からヴァネッサ、ステラ、ヴァージニア
ジュリアの産んだ7人の子のうちの女性3人




———

幼い息子ジェイムスが翌日の灯台行きを楽しみにしているが、すでに風が強く、望み薄だ。夫人は、夫や客人の空気を読まない物言いや態度に、想定内ながら疲れを感じつつ、常に周囲に心を配り、世話を焼く。日々、夫人はあらゆる人から感謝されることに喜びを感じているが、一方で相手によっては自分の厚情が期待されていないことにも気づいており、迷いを抱えている。自分の美しさも十分に生かしてきたが、五十を迎えた今は虚しい。
夕刻、女主人としての心を奮い立たせて催すディナーの席では、刻々変わる心境と、彼女を囲む人々、部屋を包む空気、声、戸外の気配が溶けあって、じわりと心が満たされてくる。夜闇に包まれ、蝋燭が卓上に灯る。やがてディナーは終わる。

「…敷居に足をかけたまま、こうして見ている間にも消えていこうとする光景の中に、夫人はあと一瞬だけとどまろうとした。それから身を動かし、ミンタの腕をとって部屋を出ると、もうあの光景は変化し、違った形をとり始めた。夫人は、肩ごしにもう一度だけ振り返って、それがもはや過去のものになったことを知った。」

このあたりまでが「第1章 窓」である。窓の内側には人々のこまごまとした思惑があり、外側では海が止まず波音を立て、灯台が回る光を放つ。無機的なものが窓から心に流れ込んで、なにかを刻みつけ、なにかが腑に落ちていく。
夫人のそんな様子を客観的に注視している人物がいる。画家で結婚適齢期をやや過ぎた女性リリーだ。夫人の欠点を見抜きながらも争い難く魅了されている。夫人はリリーの、愛嬌に欠けるが意志の強さに好感を持っている。

このあと、間狂言のような「第2章 時はゆく」が入る。夫人の急死、嫁ぎ先で亡くなった娘、戦死した息子のことなどが、10年のあいだ主人の訪問のなかったこの家を手入れする掃除婦によって語られる。そして、どうやら久しぶりに主人が訪れるらしいというところで「第3章 灯台へ」に移る。



3. 距離
灯台行きがかなわないまま、ラムジー夫人はロンドンの自宅で急死。10年が経つ。その間には世界大戦があり、家庭内で亡くなった者もあり、生きている者もそれぞれに歳をとった。
久々訪れた老嬢リリーは庭に出て絵を描く。その朝、ラムジー氏と、今や青年となったジェイムズとその姉プルーは船で灯台へとむかった。船の上では、過ぎたヴィクトリア時代を体現するかの父に、新しい価値観の息子が苛立ち、そのどちらにも距離をとって生ぬるく見守る娘が、目標の灯台を共に目指している。
陸と海。
海から陸の家を、陸から海上の船を見る。
その遠さ、小ささ。
キャンバスに向かいつつ、亡くなった夫人を思い返しながら、突如リリーは夫人の存在を初めて強く近くに感じ、こみ上げるように当惑する。

「ラムジー夫人!」

「つい最近までは、夫人のことを思い出しても何の問題もなかった。幽霊であれ空気であれ無そのものであれ、要するに昼でも夜でもたやすく安心して向き合えるものーいわば夫人はそういう存在だったのだ。ところが、それが急に手をのばしてきて、今のように激しく心臓を締めつけるのだ」


熱い涙の向こうに見える青、海、靄、遠く離れてそこにはおそらくラムジー氏がいる

「距離って途方もない力があるものね。だってこれだけ遠ざかると、みんな海に呑み込まれてしまって永久に姿を消し、まるで周囲の自然の一部になってしまったような気がするもの」

洋上の汽船の煙だけが漂う。
《惜別のしるしのように》

心の距離、生と死を隔てる距離、時を隔てる距離、遠く離れればいずれも一点であるかのよう。

———

ウルフのこの作品は、構成にも読後感にも能を観るようだ。

「なぜ人生はこんなに短く不可解なのか—」

リリーの問い。「なぜ」の答えはわからないが、行き着く先は微かに見える。安堵を手に入れる。両眼に涙は溢れても…



4. ヴァージニア・ウルフについて
ヴァージニア・ウルフと言えば、記憶に上るのは貴族女性との同性愛、精神衰弱からの自殺か。子供の頃は、知識豊かな文芸批評家の父レズリー・スティーブン、美しく聡明な母ジュリア・ダックワース、異母兄、異母姉、異父姉、兄、姉、弟と、セント・アイヴスの夏の家やロンドンのハイド・パークの自宅で過ごした。明るい子供時代。知識人の父レズリー・スティーブンのもとに、ブラウニング、ラスキン、ハーディ、メレディスらが訪れる家庭だった。
13歳で母を亡くし、初めて精神衰弱になった。
家庭で父から文学や歴史の他、別でギリシャ語の教育も受けていたが、15歳からは兄や弟の学ぶケンブリッジ大学キングスカレッジに学んだ。のちに画家になる姉ヴァネッサ(ヴァネッサ・ベル)は美術学校ロイヤル・アカデミーに入った。
この頃、母代わりだった異母姉ステラが、嫁いで3ヶ月で亡くなった。

22歳のときに父が亡くなり、再び精神衰弱に陥る。兄弟姉妹はブルームズベリに転居。兄の交友関係から、経済学者ケインズ、作家ストレイチー、美術評論家クライヴ・ベル(姉ヴァネッサと結婚)や画家ロジャー・フライ、社会評論家レナード・ウルフ(ヴァージニアと結婚)らケンブリッジの仲間が集い、交流した。ブルームズベリ・グループと呼ばれる。
翌年は母の死から10年後にあたり、一家の夏の家タランド・ハウスに客人と共に滞在。その翌年は親しかった兄トビーが旅行先での病がもとで亡くなる。家族の死に直面するたび、ヴァージニアは心を病んだ。


ヴァネッサ・ベル 『室内風景』ワインを飲んでくつろぐクライヴ・ベルとダンカン・グラント
ヴァネッサはベルとの結婚を維持したまま、ダンカン・グラントやロジャー・フライとも関係を持った。長女はグラントの子だが、ベルの子として育つ。ベルやグラントも他に異性同性の愛人がいた


ルパート・ブルック 詩人
美貌で有名だったが、トラブルからグループを脱退し、その後は薄幸の人生を送り、戦場で亡くなった


ロジャー・フライ 画 ヴァージニア・ウルフ像


レナード・ウルフ 国際政治学者 社会主義者 ブルームズベリーグループ発足当時からヴァージニアとは面識あり
ヴァージニアは27歳のときストレイチーに結婚を申し込まれたがいったん承諾後即解消
30歳のときセイロンから戻ったレナードと結婚する




5. ブルームズベリ・グループ
スティーブン家の兄弟姉妹の家の集いには、もはや過去のものとなったヴィクトリア時代の厳格性を押しつける空気はなく、新時代の自由を謳歌する交流があった。
当時、まだ評価されることのなかったフランスの後期印象派絵画を賞賛し、展覧会を開いてイギリスに紹介したのはグループのフライらだった。また同性愛も含め、夫婦間を超えた自由な恋愛や交遊を認め合った(オープン・マリッジ)。グループには既成の性愛を超越する作家エドワード・フォースター、詩人ジークフリード・サスーン、同じくルパート・ブルックもいた。
当初、グループは壮大なイタズラ(偽エチオピア皇帝事件)を引き起こしたことなどにより、社会からは白眼視されていたが、第一次大戦以降にはグループの平和主義的なスタンスに人々の理解が進み、ウルフの著作やケインズの経済論なども支持を広げた。

このグループに、貴族で外交官のハロルド・ニコルソンとその妻ヴィタ・サックヴィル=ウェストが参加する。ヴィタはヴァージニアへ敬愛を飛び越えて、恋愛感情を抱いた。


ハロルドとヴィタ(中央) 当時はまだ女性カップルが街歩きするのは非難を浴び、危険を伴った



ヴィタ


ヴィタと父





6. レズビアニズム
ヴァージニアは30歳でレナード・ウルフと結婚した。たびたび精神衰弱に陥るヴァージニアを夫はいたわり、彼女が生き生きと文芸活動に打ち込めるように、印刷機を購入して二人で手ずから印刷して出版した。
ヴァージニアがヴィタ・サックヴィル=ウェストと交際するようになったのは40歳のとき。ヴィタは10歳年下。由緒ある男爵家の一人娘であり、広壮なノール城に住む。ヴィタもまた、居城の塔の一室にこもり日夜精力的に創作する文筆家である。







ヴィタ


ヴァージニアを崇拝しつつ恋愛に巻き込んでいくヴィタに、夫ハロルドは寛容だ(レナードもだが)。ハロルドも同性愛者でもある。ヴァージニアはノールの城でヴィタと過ごすようになる。
ハロルドとヴィタには子息が二人いる。その一人、ナイジェルは「わたしたちの間には母と息子の関係はなかった」と語る。彼と弟の世話をしたのはヴァージニアだったらしい。ちなみに、ヴァージニアは子はいない。
ヴィタは元より名だたるレズビアンで、28歳のとき同性の元学友と電撃的にフランスに駆け落ちしたスキャンダルで有名だった。25歳で結婚していたヴィタには当時すでに二人の子もいた。相手は、14歳の時に知り合った4つ下のヴァイオレット・ケッペル。エドワード7世の愛妾アリス・ケッペルの娘だ。二人は10代の頃も恋愛関係にあったが、あらためて関係が再燃したのである。長身で中性的な顔立ちのヴィタは、若い男性に変装し女性の恋人を伴って颯爽と街へ出る。フェリクス・ユスーポフを思わせるが、同時代人なのでパリやロンドンで鉢合わせていたかもしれない。その後、ヴィタが夫と別れる気がないことから破局した。


ヴァイオレット・ケッペル
パリに住み続けた 才能ある小説家となる



そのヴィタがバージニアと関係するようになり、ヴァージニアが五十を迎える手前まで続く。ヴィタが別の若い女性に心を移して終わった。
しかしこの間、ヴァージニアは数々の代表作を生んだ。


晩年のヴィタ






シシング・ハーストの城



同時代を生きた貴族のステファン・テナントは、オスカー・ワイルドの記事の余談で取り上げた通り、Bright young peopleと呼ばれる享楽的なグループに属していた。彼はブルームズベリー・グループのジークフリート・サスーンの愛人だったこともある。晩年は堕落していた。
ヴィタはノール城を相続できず(女子相続不可)、やがてシシング・ハーストの城に移り、荒れた城をよみがえらせ、夫と共に庭園を美しく完成させて、イギリスのガーデニングの新たな先駆者となった。1962年没。



7. 『オーランドー』世界一長い恋文
時々訪れる鬱に悩みながら、ヴァージニアは名作を生み出す。鋭い感受性により時代の流れを敏感に感じ取り、妥協のない練られた表現を試みる。出版においてもエリオットやジョイスを世に出すなど、目が高く、世に貢献していた。
45歳で『灯台へ』(1927)を出した。これは自分の半生と、父母の世代の遺産となったヴィクトリア時代との分離が描かれ、ゆるやかな流れに身をまかせる静けさがあった。
つぎの『オーランドー』(1928)はガラリと変わる。ヴァージニアのもう一つの面が現れている。ヴィタの息子によれば、作品自体が世界一長い恋文のようだと。そう、これはヴァージニアがヴィタの魅力と境遇を称えた作品すなわち恋文だ。
この作品が発表される頃、ヴァージニアは髪を短くし、自動車を買い、ヴィタとフランス旅行に出かけた。
『灯台へ』の作者とは思えないほど、語り口は大変饒舌で、コミカルな設定もある。主人公はエリザベス1世に祝福されたことにより300年余生き続けているが、見かけ年齢は36才(当時のヴィタの年齢)。ノール城の過去から現在までの住人が連綿と一つの個体に織り成されて、イギリス文学の変遷を傍にして生きる。主人公はあるとき数日の眠りから覚めたら男性から女性に体が変わっていたという、童話世界のような不可思議展開も織り交ぜられている。オスカー・ワイルドを読んでいるような気分になるが、ヴァージニアがそんな世紀末的な要素もわざと織り込んでいるのは承知できる。イギリス文学の伝記でもあるからだ。
テンポ良い饒舌な流れはヴィタの小説『エドワーディアンズ』(1930)と重なる。ヴィタのこの作品にはジョージ5世の戴冠式のちょっと面白い様子が描かれているなど、貴族のリアルな暮らしぶりが知れて興味深い。また、名前を変えてはいるが、ノール城をベースにしているので、調度、維持管理、城主と城下、晩餐会など、生きた城の運営も垣間見られるのが良い。




髪を切って話題になったウルフ


ヴァージニアはしかし独自の文学を探求し続け、さらに斬新な小説『波』(1931)を生み出す。登場人物達がそれぞれに独白(独白であって対話ではない)を重ねて綴られていく形は、演劇のようであり、実存の新鮮な切り口のようであり、目を閉じて感じる景色のようである。
冒頭の、子供の澄んだ感覚で切り取られる情景描写の連続は透明感が刺すように響く。ヴィタの息子ナイジェル・ニコルソンの回想に結びつく。

一度、蝶をつかまえていたとき、こう聞かれた。
『ねぇ、教えて。子供でいるのはどんな感じなの?』

いまでもどう答えたか覚えているよ。

『どんな感じかだって?自分でもよく知っているはずだよ、ヴァージニア。自分でも子供だったんだから。でもぼくにはヴァージニアでいるのはどんなかんじなのか、わからないよ。まだ大人になったことがないから』


ヴァージニアはどんな顔をしただろう。こんなオトナな答えを返されて。



8. 死の想念
世界が徐々に暗くなりつつある中、ヴァージニアの心も不安定になっていく。周囲の励ましに応えて執筆を続けたが、甥の戦死、さらにロンドン空襲で家も出版社も焼かれ、サセックスの週末の家で細々と暮らすうち、心は沈み、浮き上がれなくなった。最後の作品『幕間』をようやく書き上げたもののその出来栄えにも苦しんだ。

1941年3月28日、夫と姉に遺書を1通ずつ残して川に身を投じる。なれた散策の道を歩みながら、石をポケットに貯めて川へ。もう浮かび上がらないように。
どこに沈み行こうとするのか。

夫宛の遺書
「また狂気がやってくるのがはっきりわかります。
あの恐ろしい経験をまた繰り返すなんて考えられません。
今度は直らないでしょう。
声が聞こえるし、集中できません。
それで最善と思えることをしようと思います。
あなたは私にできる限りの最高の幸せを与えてくれました。
この恐ろしい病気さえなければ、私たちほど幸せな二人はなかったでしょうに。
もう戦えない。
あなたの人生を台無しにしている。
私がいなければお仕事ができるのに。
きっとお仕事をなさるでしょう。
ほら、これをちゃんと書くこともできない。
読めない。…」



『灯台へ』では冷静に生と死を測り、その隔たりは遠いようで近く、重なる2点のように見えていた。遺書からは、現実の狂気の支配から逃げたい、生の世界に身の置き所がない様子しかうかがえない。
ユーモア溢れる才人、センスの良い会話、鋭敏な感性、美しい文章表現…
時代が暗澹と変わる中で難しいバランスを保つことを、躓かせた何かが彼女を連れ去った。
しかし見えない世界と見える世界は、2枚のレイヤーを重ねたように一点になるならば、
彼女はそう遠いところにはいないだろう。



モンクス・ハウスのウルフ
田舎の週末住宅であり、ロンドンの戦災後はここに暮らした