名のもとに生きて

人の一生はだれもが等しく一回かぎり。
先人の気高い精神に敬意を表して、その生涯を追う

『ジョーカー・ゲーム』の時代② 1940年パリ

2017-05-08 08:38:42 | 読書
『ジョーカー・ゲーム』の時代背景
『誤算』1940年パリでの諜報活動
その前とその後のヨーロッパと日本








1. 『誤算』(『ジョーカー・ゲーム』より)
フランスでの諜報活動

1939年6月15日、マルセイユから入国。島野のパスポートにそう書かれている。日本からの留学生。フランス滞在約1年。ドイツ兵とのトラブルで側頭部に衝撃を受け、一時的な記憶障害を起こして、フランスのレジスタンスのメンバーに保護されている。彼は実は日本陸軍の諜報員である。
その事実は、レジスタンスのメンバーはもちろん本人も気づいていない。しかし、意識喪失時点からすでに島野の"普通でない"行動が怪しまれていた。それは‥
フランス滞在中の日本人の多くがろくにフランス語を操れないというのに、島野は流暢なパリ訛りのフランス語を話し、ドイツ兵とはドイツ語で対話し、意識喪失中の寝言はロシア語やハンガリー語だったらしい。さらに鏡に映った反転のラテン語の詩文を半覚醒の状態で読んだ。抱えられてアジトに運ばれた時、上ってきた階段の段数を口走った。『90:8:2』という謎の数字もつぶやいたという。
かけていた眼鏡に度が入っていない、口内に含み綿をしていた(含み綿は顔の印象や声質を変えるために使う)。
『君はいったい何者なんだ』とせまるメンバー達。本人も解らず困惑するが、心の奥底から警戒を促す声(『相手に情報を与えるな』)がして、島野はますます追い詰められる。
そこへレジスタンス狩りか、ドイツ兵が捜索にやって来た。島野は反射的に状況を察知し、3人のメンバーを疑念を抱かせる隙もなく指示し、臨時的な特殊工作でメンバーと脱走することに成功する。島野自身、自分の無意識下の判断能力に驚いていたが、レジスタンスリーダーであるアランは島野の高い能力と正義心に感動し、メンバーにならないかと誘う。
そこから先は本編で‥ということにしたいが、この先、またしても島野は危機を乗り越える。ささやかな兆候からも的確な予測をし、常に備えをしておく。そこに生じうるハプニングも『計算しうる誤算』として対策は万全に講じられている。尚、島野がレジスタンス活動家のアラン達に保護されたのは偶然ではなく、そもそもはレジスタンスに潜入して組織の内情を諜報するための、島野による工作だった。



パリのドイツ兵 ドイツ占領後の方が秩序正しく統治されていたらしい それが精神的な安定を生んだ


このストーリーはアニメ12話中の第3話で、元D機関員教育修了後の単独任務の最初の紹介にあたるが、これ以降の回の他の話と比してアクションも多く、記憶喪失設定というワクワクする要素もあり、島野の潜在的な能力の高さに舌を巻く華々しいスパイ物語になっている。(全話の中でいちばんかっこいい活躍を、波多野というあえてギャップありのキャラクターが、声優は梶裕貴で、というゼイタクな設定に唸る)←個人の感想です‥
もちろん、こうした能力は基礎力として他の機関員にも当然備わっていることも暗に理解できるので、導入として奏功である。

この任務で島野(波多野)が諜報活動で得ていた情報は、『90:8:2』という比。これはドイツ占領下フランス国内の『傍観者:対独協力者:レジスタンス』の比を表しているらしい。レジスタンスが2%という割合の低さからも、この一件はフランスがドイツ占領下に置かれて間もない時期のことと推察される。これについては後述する。
場所はパリ近郊ブーローニュの森近く、という設定。時期をもう少し細かく限定するなら、パリ無血占領が1940年6月14日、島野(波多野)は日独伊三国同盟締結の動向を聞き、フランスでの諜報活動を休止して日本に戻るのだが、同年夏と設定されている別の話(国内)に登場しているので、船での帰国に1ヶ月要したと仮定すると、7月中旬にはフランスを発ったと考えられる。ただ7月3日には地中海でフランス海軍の艦隊がイギリス海軍によって攻撃されたメルセルケビール海戦が起こっている。マルセイユ経由で帰国となると、地中海近辺の海路は情勢不安定だったかもしれない。大西洋ではドイツのUボートの脅威もある。フランス国内の移動も市民の移動による混乱や、三つの異なる支配地域間の移動はどうだったのか。外国人であることがそれをスムーズにしたか或いは逆か。
三国同盟締結の傾向は、7月22日の第二次近衛内閣発足により確実となるものの、その以前から同盟締結に反対する海軍幹部らが陸軍の差金で暗殺の標的にされるなど、英米派の米内内閣が倒される以前から兆候は明らかにあった。以上から、波多野のこの一件は7月上旬〜中旬、つまりパリ占領からひと月以内の事ではないかと考えられる。
尚、最終的な同盟締結は9月27日だが、同盟の内容については様々な紆余曲折もあった。この前後の時期と考えられる『ダブル・ジョーカー』(国内、第8〜9話)にも波多野は協力したことになっている。因みに、『ダブル・ジョーカー』は元英国大使への防諜が主任務で、D機関員実井が書生として潜入する、という話になっている。これは実際に行われていた吉田茂に対する防諜活動に似ており、吉田に対しては書生のほかに邸宅の庭を見下ろす二階建ての隣家からも別の機関員が監視していたと、中野学校卒業生が明らかにしている。

今回は、1940年に至るまでのフランスを中心に見直していく。
さらに、第3話の中で波多野が、"今回の任務における最大の誤算"と感じたのが、自らが前の任務で報告した『ナチスドイツがこの先英国と争われるはずの制海、制空戦について、明確なビジョンを持っているとは思えない』という情報が、役立てられることなく、三国同盟締結の流れに向かっていること、であった。

『ドイツ占領下フランスの、傍観者:協力者:レジスタンスの比は90:8:2』

『ナチスドイツがこの先英国と争われるはずの制海、制空戦について、明確なビジョンを持っているとは思えない』

波多野が得たこの2つの情報を裏付けそうな事実も調べてみた。
しかしこのドイツに関する情報はどこでどうやって集めたのだろうか。イギリス及び英連邦の海軍空軍の兵力と兵器性能、作戦と訓練、長期的な資源保有量を、ドイツの同様の情報を比較し、短期的長期的にすり合わせて判断する必要がある。
英仏がドイツに宣戦布告したのは1939年9月3日。英は参謀本部が、精鋭の情報機関を使って、勝算ありと判断したから宣戦布告した。ドイツ国内で諜報活動しなくても、フランスに居てそうした情報の一端を掴んで発信できる可能性はあっただろう。あるいは英国にいたのかもしれない。

ではここからアニメを離れて、1940年前後のフランス周辺の情勢を見直す。



2. 1940年までのヨーロッパ
日独伊三国同盟以前に、日独防共協定が1936年11月、日独伊三国防共協定が1937年11月に締結されている。それを頭の隅に入れておき‥

第一次大戦後のロカルノ条約によって非武装地帯に定められたラインラントは1935年に予定通り連合軍が撤兵。ヒトラーはそこへ軍を進める。1936年3月のラインラント進駐である。この動きに対してフランス軍は何も動かなかった。この時点では弱小だったドイツ軍は、フランス軍と正面で戦ったら負けていただろうと言われている。
同月、オーストリア併合により独墺合併
1936年8月のベルリンオリンピックが済むと、ヒトラーは次にチェコスロバキア・ズデーテン侵攻。これに対して、ヒトラー、ダラディエ、チェンバレン三者会談(ミュンヘン協定)によってズデーテン併合は英仏に認められた。この協定のために奔走したのは外交官エルンスト・フォン・ヴィイツゼッカー、のちのドイツ連邦大統領リヒャルト・フォン・ヴィイツゼッカー(別記事あり)の父である。しかし、ヒトラーはこのミュンヘン協定に応じたことをのちに後悔する。他国が準備不十分だったあの時に奇襲をかけるべきであったと。
1939年9月1日、これ以上の領土要求はしないというミュンヘン協定を破り、ヒトラーはポーランド侵攻に及ぶ。これに対し、英仏はドイツに宣戦布告。これまでのように、英仏は宥和を提案してくるだろうと高をくくっていたヒトラーは少々意表を突かれた。ここから第二次世界大戦が始まる。







1939年9月1日ポーランド侵攻の際、先述のリヒャルト・フォン・ヴィイツゼッカーは兄ハインリヒを失う。徴兵された兵卒だった兄弟はドイツ国防軍の一員として何が起きるのかわからないままポーランド国境を越え、突然戦闘が始まる。同じ連隊の中尉だった兄が連隊の最初の死者になった。
弟は一夜、埋められた兄の亡骸のそばで過ごした。この頃、彼ら二人の母は不安に駆られている。

『一人の男がドイツとヨーロッパ全体にカタストロフィーをもたらすことを神は許せるのだろうか?息子たちはどうなるの?わたしは一人もこの戦争に捧げる気はない。わたしたち一家。息子たちから得る無限の喜び。わたしたちの誇り。
前の戦争の経験から、わたしにはそれが何を意味するのかわかっている。〈消える〉ということ。生活は続き、わたしたちのものだったものは二度と戻ってこない。わたしたちが誇りに思っていた人たちを知らない新しい人たちが来る』

ハインリヒが亡くなる2日前に母はこう書いていた。かつて第一次大戦で、ケーテ・コルヴィッツ(別記事あり)が覚えた感情とまるで同じだ。さらにそれが《繰り返される》ことへの絶望感が、2度目の大戦のやり切れなさである。


このように、人々にはまだ第一次大戦の生々しい記憶が残っている時代である。それを踏まえての宣戦布告。ヒトラーも、そこを越えて英仏が宣戦布告してくることはないと考えていたかもしれない。
第一次大戦敗戦国の記憶。
一方、第一次大戦の戦勝国であったフランスでは、人々はどうだったのか。
前の大戦に従軍した人の10人中7人はヴェルダンを体験している。「ヴェルダンの肉挽き機」を目に見たのだ。思い出せば悪酔いしただろう。フランスでは兵士は定期的に入れ替えを行なっていたので、様々な戦場を体験していたのだ。その一方で、ドイツ軍を阻止したマルヌの会戦の勝利にも酔っていた。
戦勝国フランスは酔って道を誤った。次の戦いに備えて無用の長物マジノ線をせっせと拵えたのである。既に時代物になっていた塹壕戦で再び勝てると思う心と、攻められた恐怖からの、ひたすら防衛に傾く心が、無用の長物づくりに勤しむ愚直な姿になった。
逆に、敗戦国ドイツの方は、ベルサイユ条約で軍備を厳しく縮小化させられたために、少ない兵力での効率的な攻撃の工夫と訓練、空軍の実力向上、さらに特化した優れた兵器開発を行った。これが、第二次大戦初期のドイツの電撃戦を、目論見通りに成功させる。次の有事に対する備えではドイツはヨーロッパ世界で群を抜き、着々と形勢逆転を諮っていたのであった。

戦争の幕が上がってからしばらく、長い長い序曲が7か月も続く。「まやかし戦争」「奇妙な戦争」ともささやかれた。
戦争に突入したものの、後手に回りがちな英仏は、フィンランドがソ連と戦争(11月〜翌2月: 冬戦争)となってもなかなか援軍を出さず手遅れになり、西欧に見放されたかたちで敗れたフィンランドは、独立は維持できたが、ソ連に国土割譲させられた。
また、スペイン内戦である程度腕慣らししていたドイツやソ連に対し、英仏はスペイン内戦には中立だったため戦闘行為には腰が引け気味、ドイツとの戦争もできる限り様子見で済ませようという姿勢だった。
一方のドイツでも、この段階ではヨーロッパを破壊するほどの戦争を起こそうとはしていなかった。英仏との調停を信じていた。
しかしこの「まやかし戦争」はいよいよ「五月戦争」によって本格的な戦争の姿に変えられていった。1940年5月にヨーロッパは乱れていく。


3. 1940年夏『90:8:2』
1940年4月9日、ドイツによるデンマーク及びノルウェー侵攻。ドイツとしては来るべき戦争に備えるためにはなんとしてもノルウェーの鉄鉱石の確保が必要だった。また、海軍力で優るイギリスに制海権を奪われる前にノルウェーをまず第一に押さえねばならなかった。(別記事あり: ノルウェー、デンマーク王室関係、デンマーク抵抗運動)
ノルウェー港をドイツに先取された責任を問われ、英首相チェンバレンは辞任、チャーチルが新首相になる。ここに完全に、イギリスによる宥和政策は破綻し、チャーチル主導で英独は決戦姿勢になっていく。

五月戦争の展開はこうだ。
5月10日(たまたまチャーチル首相就任の日)、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクへの侵攻。
ルクセンブルクは即日降伏、オランダはロッテルダム空爆(900人死亡)を受け、17日に降伏。実はドイツ国防軍内の内通者からオランダ攻撃可能性の忠告があったが無視されていた。
ベルギーは国土壊滅寸前に、亡命せず指揮していた国王が独断で降伏、5月28日まで戦ったが、フランスの都合良い盾として期待されても応じられる程には至らなかった。(別記事あり: レオポルド3世)
独仏国境のマジノ線はあっさり回避され、オランダとベルギーの“回廊”あるいは“道”を、またしても使ってやってきたドイツ。シュリーフェンプランでの再来、その上アルデンヌの森を戦車で抜けてくるというまさかの奇襲に、いよいよフランスはドイツ軍と対面することになった。フランスの、マジノの要塞で膠着戦になる予想図などは笑止、ドイツが突き付けたのは急降下爆撃機と戦車による電撃戦の3D展開だった。
この当時、ドイツ軍保有の戦闘機は4000、対してフランス、ベルギー、イギリス、ポーランド、オランダ合わせて1200だった。この差が緒戦のドイツ勝利に結びつかなければおかしいだろう。


マジノ線の位置


マジノ線の要塞



ロッテルダム爆撃の規模は当時、ゲルニカ、ワルシャワに次いだ




いよいよ矛先はフランスへ向かった。しかし5月27日から始まったダンケルク撤退を眼前に、足踏みするという致命的な判断ミスをするヒトラー。パリをいち早く占領したいあまりのミスだったとも言われている。イギリスとの和解の可能性を残すためとも言われている。
6月、パリ市民は南を目指してごった返す。6月10日にはイタリア参戦、南も怪しくなった。フランスでは600万〜1000万人が逃亡していた。パリ市内では置き去りの牛の群れが街中をうろついていた。
6月13日パリ陥落。6月16日フランス降伏。
レイノーが辞任、ドイツ傀儡のペタンによるヴィシー政府が設立される。
この時期、イギリスでもフランスでもまだドイツとの融和を選ぼうとする考えがかなりあった。
1940年夏、五月戦争を経てもヨーロッパにまだ平和な空気が流れていたのは、英仏との調停で収拾できると思われていたからだ。

ドイツ軍兵士とパリの女性が席をうめるカフェ

カフェのクロークにはドイツ兵の帽子がたくさん



「パックス・ヒトレリカ」
フランスの、特に上流階級の間では現実を受け容れようと考える傾向があった。自由と民主主義の総本山たるフランスであったが、自らの生きてきたこの原理に疲弊し、疑問も感じていた。この腐った民主主義から解放されたい。力無い民主主義にしがみついていることに苦しく、ここへ来てドイツに統制されることでむしろ安堵しているような雰囲気であったという。この“麻痺”のような感覚が楽なのかもしれない。国家社会主義という陶酔には、考えることへのネグレクト、従っていれば安心、という集団心理がある。現代、この今、世界を見回せば、この陶酔に溶け込もうとする傾向が身近で散見できるではないか!

1940年に話を戻せばここに、90:8:2の数字の理由が見てとれる。

イギリスにおいても同様だった。国王ジョージ6世も当初、お荷物フランスを守るために擦り減るよりも、ヒトラーのドイツと協定を結ぶ宥和策を望んでいた。海を挟んだ英国の存在が維持されれば、大陸はドイツが握っても構わない。フランス敗北が明らかになった今、イギリス議会では和平提案を出すべく承認を通そうとしていたところだった。これほど宥和政策を推していたのは、第一次大戦で勝ったとはいえ経済的に大打撃を受けた苦い経験があったからである。
しかしこれをチャーチルが阻止した。
「戦いながら没落した国家は甦ったが、従順に降伏した国家は二度と立ち直れない」
5日間の討議の末、和平案は取り下げられた。
イギリスはドイツと真正面から対峙する。

1940年5月の時点でのイギリス参謀本部の見通しでは、ドイツの持てる資源に注目した上で、米ソの援助がなかったとしても英仏で勝てるという判断であった。おそらく1941年末に資源が尽きてドイツは破滅すると。
実はイギリスでも1935年から戦争準備が着々と進められていた。イギリス情報局情報部によってドイツ空軍の発達ぶりが認識されると、レーダー発明者や核分裂、ロケット開発の科学者らを擁護。また、ジャン・モネが渡米して極秘裡にルーズベルトと交渉、米国で飛行機製造してもらっている。これにより、米国参戦するや即応で兵力増強につながった。
1940年5月の時点でイギリスの国民は自国が負ける危惧を共有していたが、実際は勝算が整っていたのである。

1940年ロンドン 疎開する子供

6月9日に最初のロンドン空襲。『バトル・オブ・ブリテン』が始まった。ドイツはイギリス空軍を早期に叩きたいところだったが、レーダー技術に阻まれることになる。ドイツの戦闘機が奇襲をかけに行くと、必ずイギリスの戦闘機に迎え撃たれる。奇襲が奇襲にならない。このようにレーダーがあれば即応で迎撃できるばかりでなく、哨戒機を飛ばす必要もなくなった。このレーダーの存在にドイツは全く気づいてなかった。
またドイツ空軍の弱点は他にもあった。ドイツの戦闘機は陸戦の援護を主目的として設計されていた。空中戦は想定していない。燃料タンク容量が少ないため航続距離が短く、イギリスへの往復となれば30分以内でイギリス上空から引き揚げて来なければならない。爆弾の積載量も不足している。対フランス戦には有効でも、対イギリス戦には対応できなかった。

ドイツ海軍については圧倒的にイギリス海軍に及ばない。1944年に海軍の装備を完成させる計画だったその途上での早すぎる開戦に、海軍幹部は目をつぶり、『今や海軍は勇敢に死ぬことを知っているだけだ』と天を仰ぐしかなかった。ただし、Uボートの存在だけは恐れられていた。
さらに、英独の戦いでイギリス優位の要素として、ドイツ国防軍は上陸訓練をしたことがない、上陸に必要な船舶積載量を確保できていない、上陸用船艇もほとんど持っていない。
これらのことから、まずイギリス本土上陸作戦はあり得ないという判断が可能となる。空軍も先述の通り。そしてもう1つ、ドイツが誇るエニグマ暗号機は既にイギリスでは解読されていた。もちろんドイツ軍はそうと知らずに使用していた。
しかし後年、音速の2倍速V2ロケットがドイツで完成しイギリスに向けられるようになると、レーダーでは捕捉できなくなった上、高射砲も迎撃できない。その奇襲性と攻撃力にイギリスは恐怖に追い込まれる。1945年3月までに4発が撃ち込まれた。しかしドイツの資源力はここまでだった。



V2ロケットによる被害



ジョーカー・ゲームの話に戻る。
1939年から1940年、ポーランド侵攻、五月戦争と、ドイツ快進撃に触れながらも、英独の海空軍力を精確に分析し、ドイツに勝ち目なしとの報を本国に送った波多野。英独の海軍力や空軍力を情報で得るのは相当難しかったのではないかと思う。相当高い機密だったに違いないからだ。
波多野がもたらしたその情報を精査せず、陸軍はなぜ三国同盟に走ったのか。現実世界においては当初、ソ連も含めた四国同盟を検討していたのに、三国間に変わることのリスクは検討したのだろうか。
イタリア参戦にしても、この同盟にしても、『バスに乗り遅れるな』の強迫観念に支配されていたようだ。ドイツ、イタリア、日本、いずれも持たざる国であり、自国の資源のみでは勝てない国。先手必勝の短期決戦という選択しかない。ゆったり構えて情報分析・判断などに時を費やしている暇はない、というのだろうか。しかしそこは絶対に端折ってはいけないところなのだ。
『為せば成る』か、『成らぬものは成らぬ』なのか、行動を『為す』前に分析する必要がある。チャレンジしてみたがダメだった、という失敗談は10代の若者の個人レベルの話だけにしてほしい。

あまりにも盲滅法な開戦で暴れ、世界中を追い込んだことは、ニュルンベルクや東京で裁かれて然るべき罪といえる。戦犯だけが罰を受けて終わったつもりにしてはいけない。戦争責任は国民全体が負わねばならない。治安維持法を甘受し、翼賛会に参加し、他国で銃剣を振りかざした。軍部の指差す方向にそのまま従ったことに責任がないと考えてはいけない。



4. フランスの対独レジスタンス活動について
島野が潜入して探ろうとしたのは、対独レジスタンスの規模や構成や武器所持の程度など。
上記の通り、この時期まだフランス国内でのレジスタンスは下火である。アニメ作品では特定されていないが、小説『ジョーカー・ゲーム』の中では島野が、アラン達のアジトに二本の釣竿が置いてあるのを見て、彼らがdeux gaule(二本の釣竿)、すなわちド・ゴールの「自由フランス」に属する者であることを象徴的に示している。
シャルル・ド・ゴールがロンドンに亡命したのが6月17日で、パリ陥落から3日後のことであり、BBCから抵抗の呼びかけをしたのが6月18日。アランたちがそれ以降に組織されたとすると、7月初旬の段階ではまだ発足まもなく、今後どう発展するかを見るには時期尚早だったかもしれない。今回の島野は長期間潜り込む計画ではなさそうでもあった。
ちなみに自由フランス傘下の対独レジスタンスとして、フランス国内で活躍したものではマキ(maquis)が有名だ。森に潜みゲリラ活動を行う組織で、都市部よりブルターニュなど山間部で活動する。ヴィシー政府の徴用を拒否した者たちで構成されている。英米空軍機の脱出パイロットの救出、ユダヤ人の逃亡ほう助を日常的に行う一方、ノルマンディ上陸やプロヴァンス上陸においてもゲリラ戦で活躍する。バスク風ベレー帽が特徴である。マキのようなゲリラ兵士に捕まれば捕虜の扱いは受けられない。即、処刑される。そのためドイツ軍側でもゲリラへの報復は熾烈で、ゲリラ掃討として村ごと抹殺されたオラジュール・スル・グラヌの悲劇なども起きている。

ギィ・モケ(別記事あり)の処刑は1941年10月。エルンスト・ユンガー(別記事あり)がドイツ軍司令部の私信検閲としてパリに来たのは1941年。フランスの歴史の転換期を、ドイツ軍将校としてというよりむしろ文筆家として記録した日記は、時代の渦中での人々の影を残している。
レジスタンス組織間のややこしいせめぎ合いも生じたが、1944年8月19日レジスタンス蜂起まで、フランス抵抗運動 は4年間をかけて大きな力となり、やがてパリ解放の日を迎える。もっとも、これはレジスタンスの力が成したというよりは、ドイツの自滅と英米の干渉に依存した、というのが残念な事実だ。


ド・ゴールとチャーチル

捕まったレジスタンス兵



オマケの話‥
粉塵爆発について
島野がアランらとアジトから脱出するために、小麦粉を使って爆発を起こす。一瞬の機転で、記憶喪失のまま爆発工作を指示する才能。
なぜ小麦粉で爆発が起こせるのか?
可燃性の高い粉末と湿度と酸素と発火元のある一定の条件がそろうと爆発が起こる。発火することで短時間で酸化・燃焼を起こす。
燃えやすいアルミニウムやマグネシウムの金属粉、小麦粉、おがくず、トナーなどが発火する。これらが発生する工場、溶鉱炉、炭鉱などで起きやすい。工場規模になれば死者も出る。事故は多発している。
こうした日常的に手に入る素材を利用した爆発工作は、陸軍中野学校の『破壊法』のテキスト中にも記載がある。入手しても所持していても爆薬のように怪しまれないし、爆発後に残る物に不審な物も特定されにくい。
他にも、手近な爆発物として粘土爆弾も多用されたようだ。C-4などがそれである。余談だが、『NARUTO』のデイダラがこれの使い手だ。

パリ解放の喜び


長い長い絵巻物があるとして、自分がそこのどの時点に描かれるのか、人間である以上、宿命的に時代精神と生きることになる。今、1940年を振り返る私は1940年以降の絵を視界に入れながら振り返っている。『ジョーカー・ゲーム』の魅力は、登場人物の活動ぶりを、それ以降の絵巻を切り落として見ている感覚に引き込まれることである。与えられた任務を忠実にこなしているだけのことではあるが、この時代の中でこうして生きた人もいるということに新鮮に感情移入できた。

フランスの大統領選の行方を気にしながら、この記事を書いていた。フランス国民は極右を吟味し、その結果極右を選ばなかった。
フランスの空に、希望の五月の空気が満ちていることだろう。1940年の5月8日のフランスの空も思い浮かべてみる。

『ジョーカー・ゲーム』より 波多野

5 コメント

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引き込まれました (衣服研究室)
2017-05-14 01:04:53
今回も大変おもしろく読ませてもらいました。
こうした歴史には全く疎くてはずかしいのですが、こちらのブログの記事には引き込まれ頭に入ります。ジョーカーゲームというアニメが出てるのですね。見てみたいと思います。

従っていれば安心ということへの陶酔、ハインリヒの母の言葉、フランスの大統領選のこと。心にのこりました。
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Re:引き込まれました (geradeaus170718)
2017-05-14 07:31:40
コメントを寄せていただき
ありがとうございました。
最後まで読んでくださって嬉しいです!

過去のテンプレートを今の世界にあててみると、合ってしまう部分がずいぶん多く、驚かされます。多くの人は静かに日常の生活を送っているだけなのに、その傍らで小さな火事がじりじりと勢いを増してゆく。
この場面の次がどんな場面なのかは、みんな経験則で知っている‥

現実は風薫る5月。
目に映る景色の美しさだけ見ていたい、
そんなふうに思うこともあります。

重たい記事ばかりで恐縮ですが、目にとめていただき嬉しく思います。ありがとうございました。
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感想ありがとうございます (ここしゃんへ)
2017-07-13 23:13:40
こんばんは。こちらの記事にコメントをしていただいたんだと思いますが、『ルーマニア王女イレアナ』の方にコメントが上がってきました。
離れてしまいますがこちらにお返事させていただきます。
以前にも二度いただいていたんですね?
残念なことに受信できてなかったようです。
せっかくいただいたのに申し訳ありません。

昭和の戦争前夜のストーリーなのが面白くてアニメ見ました。10話は原作小説通りいきなりスパイの死から始まり、最も人気のキャラクターがセリフ一つもなかったという衝撃。こういう歴史物ではありませんが、『蟲師』もここしゃんにはおすすめです。ここしゃんのとんぼの写真、綺麗でしたね。静かな水面。通じるところがありそうに思います。
次の記事、何かと忙しくなかなか書き上げられずにおります。最近暗い内容のものばかりになっていて、ページ見てくださる皆さんにごめんなさいって気持ちです。次回のぶんも先に謝っておきます、ごめんなさい(;´Д`A

コメント、
どうもありがとうございました。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-03-04 23:43:22
時代背景の考察が興味深くて、とても楽しく読ませてもらいました。
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Re:Unknown (geradeaus170718)
2018-03-05 07:25:15
読んで下さりありがとうございます
『ジョーカー・ゲーム』はその時代を写して一層すごさ(カッコよさ)が味わえる作品です
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