名のもとに生きて

人の一生はだれもが等しく一回かぎり。
先人の気高い精神に敬意を表して、その生涯を追う

背教者ユリアヌス帝 短命の英雄

2017-12-06 22:18:26 | 人物

ローマの理想と正義を求めて
西方平定、東方征伐
基督教倫理への危惧と向き合う孤高の哲学



フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス
Flavius Claudius Julianus
331/332〜363 在位361〜363



『背教者ユリアヌス』(上・中・下)辻邦生著
『ローマ帝国衰亡史』3・4巻
エドワード・ギボン著 中野好夫他訳




物語は霧の中で始まる。

「濃い霧は海から匐いあがっていた。
もちろん海も見えなければ、陸も見えなかった。ただ夜明け前の風に送られて、足早に動いている白い団塊が、どこかはっきり定めがたい空間を、ひたすら流れつづけている感じがあるだけだった

すると、突然、ある霧の流れが走りさったあとに、なにか嘘のように新鮮な青さで、ひろい海面がひろがりはじめ、次の瞬間、霧の走りさるあとから、白い波の砕けている海岸と、海岸にそった長い城壁と、城壁にかこまれた壮大なコンスタンティノポリスの宮殿の屋根の連なりが、一挙に、息をのむような鮮やかさで現れてきたのだった。

はじめ彼女は、何度か、その暗い霧のなかに、自分がうなされていた夢の場面をくりかえしてみるような気がして、思わず頭をふって、そうした妄想を払いのけようとしていた。
それはたとえば彼女が夜風の吹き荒れる暗い道を歩いているところとか、細い長廊下の奥にある小部屋とか、小部屋の戸をこじあけたとき、そこに見た重なりあう血みどろの屍体とか、その小部屋の奥に立っていたらしい男の影とか、そういったとぎれとぎれの映像にすぎなかったが、前後の脈絡はまるで曖昧なのに、そうした個々の場面は、現実の出来事鮮やかだった。…」


辻邦生『背教者ユリアヌス』の冒頭を引用した。

彼女とはバシリナ。当時の皇帝コンスタンティヌス1世の弟ユリウス・コンスタンティウスの後妻。ユリウスには前妻の息子が三人あり、バシリナはその四人目となる息子を出産するが、ほどなくして亡くなる。
その息子がフラウィウス・クラウディウス・ユリアヌスである。のちにローマ皇帝となるユリアヌス。その出生時の低い皇位継承順位から皇帝にのぼりつめるまでに何が起きたのか、数々の英断のうち、背教者と呼ばれるに至った経緯は、彼は何を成したか、何を成そうとしたのか、その根底の思想は、…等等。31歳にして一矢に斃れるまで、正義あふれる若い皇帝の聡明さ、しかし直面する世界の、重金属の砂漠のごとき重苦しさよ。
辻邦生の美しい世界を通してユリアヌスの生涯をつぶさに見る。短い生涯ながら、これほど濃密に生きた人物を他に知らない。そして彼とて例外なくあっけなく、シリアの砂塵のなかに命を閉じた。人の生の儚さよ。

20年ほど前にこの作品を読んで以来、いつか精読をと決めながら今に至った。合わせてエドワード・ギボン『ローマ帝国衰亡史』も読み、ユリアヌスの別の一面も知る。今回は主にギボンの書から、ユリアヌスの英雄的な側面を、次の回では辻邦生世界の誘導を得て、宗教の在り方に立ち向かう哲学的な側面を掘り下げていくことにする。





フラウィウス家虐殺事件
大帝と讃えられるコンスタンティヌス1世は、キリスト教を公認したことで有名。後世、聖人に列聖されている。皇帝にふさわしい資質と威容を備え、晩年は新都コンスタンティノポリスの宮廷を東洋風に華美に設え、自らも化粧し飾り立て、権力を誇示するに余念がなかった。治世が長過ぎたための醜態ともいえる。
後世に残す世嗣には、あまりにも多くの可能性を残して亡くなっていった。過去、4人の実子のうち、優秀な長子クリスプスは父をよく助け、多大な戦功を捧げたにもかかわらず、息子の資質に嫉妬した大帝はにべもなく処刑した。
皇帝薨去時、副帝の地位にあったのは、長子とは腹違いの3人の息子、コンスタンティヌス、コンスタンティウス、コンスタンス、それだけでなく、2人の甥小ダルマティウスとハンニバリアヌスも含めての5人、他にも目をかけていて実力もあった都督もあった。当然、揉めることになった。大帝の葬儀のあと、事件が起きる。小説冒頭のバシリナの夢はここにつながっているのである。

虐殺事件の大義はあった。おそらく偽造なる遺書が出てきて、大帝は自身が弟達によって毒殺されたゆえに息子達に仇を取るよう書かれていた。しかしすぐには何も起きず、葬儀の後、軍の篤志が主謀して虐殺が起きたという体裁になった。
被害に遭ったのは、大帝(母は愛妾)の腹違いの弟(母は正妻)ユリウスとダルマティウス、ユリウスの4人の息子のうちの2人、ダルマティウスの息子で共に副帝だった小ダルマティウスとハンニバリアヌス。以上の、フラウィウス家の6人と同時に、寵臣複数も同夜に暗殺された。直系の3人の副帝以外の、フラウィウス家男子全てが粛清の対象になったかたちだが、さすがに世間の風評を配慮してか、ユリウスのまだ年端も行かぬ二児は遺された。12歳で病弱だったガルスと、その腹違いの弟で6歳のユリアヌスである(他に一人、従兄弟で彼らの叔母の息子ネポティアヌスも遺されている)。事件後、広大なローマは3人の正帝、コンスタンティヌス21歳、コンスタンティウス20歳、コンスタンス17歳が分割統治を始めた。


幽閉
ユリアヌスはビテュニア(黒海南岸)の、亡き母方の祖母の邸に引き取られる。東方を統治するコンスタンティウスの息がかかった聖職者エウセビオスが付かず離れず監視し、逐一報告していた。ビテュニアで五年過ごし、エウセビオスが世を去ってからは山間の僻地の宮殿マケッルム(かつてのカッパドキア王の王宮)に移された。そこでは異母兄ガルスも一緒になった。彼らは厳しく囲われ、楽しみといって兄は狩を、弟は読書に没頭するしかなかった。皇族の身分を剥奪されたわけでもない兄弟は奴隷の仕事の手伝いにも日々従事していた。キリスト教聖職者が宮廷内に台頭していた当時のこと、兄弟はなりゆきのまま洗礼し、礼拝していた。彼らに聖職者を志すよう誘導したのはやはりコンスタンティウス帝だった。
知識欲旺盛なユリアヌスは、近隣のカッパドキアのゲオルギオスの図書室に時折通える許可を得て、その蔵書の中でギリシャ文学に触れ、強く惹かれるようになった。


副帝ガルス処刑
三分割統治のローマの歩みはその後どうだったのか。340年、コンスタンスとコンスタンティヌスの対立からコンスタンティヌスが没し、コンスタンスが西方とともにイタリアも手中にした。350年、軽薄なコンスタンス帝は蛮族出身の軍人マグネンティウスに暗殺された。皇位簒奪者マグネンティウスを討ち、ローマ全土を手にするべく、コンスタンティウスは西に向かわねばならない。その間、おろそかになる東方に置いて重石にする存在に皇族の血こそ叶うと考え、そこにガルスを登用したのだった。352年、ガルス副帝即位。若きガルスに自身の妹コンスタンティア(粛清されたハンニバリアヌスの元妻)を娶せ、アンティオキアに向かわせた。ガルスは在任中、ユダヤ属州の反乱鎮圧、イウサリア人鎮圧などの功績をあげたが、これは軍の将校らが有能であったことによる。ガルスの統治は酷薄で、妃コンスタンティアとともに残忍な粛清によって市民臣下を恐怖支配した。
密偵から報告を受けていたコンスタンティウス。353年マグネンティウスの自死で西方内戦が決着する。ガルス副帝の存在はもはや不要であり、厄介ごとをこれ以上起こされないためにも、メディオラヌム(現在ミラノ)の宮廷に呼び寄せ、仮初めの裁判による断罪を行なった。身に覚えのない謀反計画の罪を着せられた哀れなる副帝は、判決言い渡し直後に無惨で侮辱的な斬首、処刑地はポラ(クロアチア在)、かのクリスプスが酷たらしく処刑された同じ刑場だった。


ユリアヌスへの嫌疑
この間、ユリアヌスはどうしていたか。
348年、兄とともにマケッルム幽閉から解放され、首都コンスタンティノポリスに移ったユリアヌス。兄は宮廷に置かれたが、ユリアヌスは希望してニコメディア(現在イズミット)に留学。さらに憧れのアテナイへの留学。修辞学に高い関心を抱き、リバニウスの講義を間接的に受けることができたのは彼の至福であった。同時に、新プラトン主義の影響も受け、現今のキリスト教優越性と、皇帝周辺によるその庇護に疑念を深めるようになった。兄の処刑によってメディオラヌムに召還されるまでのこうした学生生活こそ、ユリアヌス安住の地であり、時であった。向学心高く、利発な彼は事実、非常に優れた学生であった。

兄の謀反計画に加担していたとの冤罪を着せられ、メディオラヌムに連行されたユリアヌス。7か月の監禁、いずれ形ばかりの裁判そして処刑を待つ身を救ったのは、コンスタンティウス帝の妃エウセビアだった。寵臣や宦官ら全てがユリアヌスを敵視していた宮廷にあって、ただ一人彼を懸命に擁護したのはエウセビアだった。エウセビア妃のとりなしで命を救われたユリアヌスは、皇帝の気の変わらぬうちにとの妃の計らいによって再びアテナイ留学へ戻った。


エウセビアとユリアヌス
聡明なエウセビアはコンスタンティウス帝のかけがえのない存在であり、皇帝に阿る宦官らの悪弊を皇帝を通じて諌めるなど、皇帝への妃の影響力は大きかった。『ローマ帝国衰亡史』のなかでコンスタンティウスについてはこう書かれている。
「和戦いずれにも才幹とぼしく、しかも部下将軍たちを恐れ、閣僚文官たちをも信頼せぬという凡庸君主」であると。ディオクレティアヌス帝時代から東方的な独裁専制傾向を強化し、中央集権化を進めてきたローマ皇室に、伴って跋扈するのが宦官であり、時に権力を牛耳っていた。ユリアヌスも小心な皇帝や宦官を脅かす存在に値し、この機会にガルスとともに消し去ろうとされていたのであった。エウセビアがユリアヌスを救ったのは、当初はこうした宦官や皇帝の姑息な動きを正すためだったかもしれない。しかしこのあとも妃はユリアヌスに心を傾け続け、アテナイ留学中のユリアヌスへ、自ら集めた蔵書を定期的に贈らせるなどの支援、文通を続けている。勿論、留学中でも厳しい監視下にあり、文通は全て検閲を受けた。妃には子がいないため、社会的に弱い立場のユリアヌスへ母性愛を注いでいたのかもしれない。ただし、のちにコンスタンティウス帝の妹ヘレナとユリアヌスとの政略結婚に対してはひどく嫉妬。「この点だけでは彼女も女性的やさしさを忘れ、天性の雅量もすっかりどこかへ往ってしまったらしい」(『ローマ皇帝衰亡史』より)
そしてこんな憶測も注記されている。
『妃ヘレナを介してユリアヌスとエウセビアとの関係は、永遠の謎ともいうべき不可解なものを秘めている。エウセビアは終生ついに一人の子も産まなかった。そのせいか、ユリアヌスがヘレナによって子供を儲けることに極度な嫉妬を燃やしたらしい。現にヘレナは一度子を産んだが、ほとんど死産同様の形で失っている。そこでこれはエウセビアが産婆を買収して殺させたのだとか、またその後はヘレナにある種の薬を飲ませ、二度と妊娠しないようにさせたとか、幾多流説が当時からあったらしい。ひどいのはユリアヌスとエウセビアの不倫の関係をいうものさえある。」
単純に女性として嫉妬したとも考えられるが、皇位継承に関して皇妃の立場からの焦燥もあったと考えられなくもない。辻邦生はこれを、ユリアヌスの純愛とエウセビアの愛憎の葛藤として描いているが、この部分だけでも崇高な美しい悲劇として劇中劇のようだ。


副帝ユリアヌス、ガリア派遣
355年5月からのギリシャ遊学は10月には打ち切られる。ローマの西方、東方で再び不穏な情勢になった。ユリアヌスはメディオラヌムに再び召還され、11月5日副帝に叙任された。叙任式は彼の誕生日でもあった。相変わらず宮廷はユリアヌスに冷酷だったが、エウセビアがよく励ました。メディオラヌムでの24日間、そしてガリア統治の最初の数ヶ月、まさに囚われているかのような新副帝の日々。父や兄の運命を自分もたどる道にいるのではとの不安に苛まれた。
しかし、新米カエサルのための軍事教練は良かった。兵達はユリアヌスに好感を持った。ユリアヌスの資質、これまでの哲学的思索から通じるものとして、軍がかかげる勇気や名声に対する崇敬、死への蔑視は彼の魂に響いた。過去の生活からも、学園生活での節制、寝食への寡欲は功奏し、兵卒の粗食すらも進んで受け容れた。学問で身につけた雄弁術や修辞法は、兵を前にして感動的な演説をふるう力になった。法律については素人だったが、哲学の素養がむしろ公正な判断を後押しし、裁判においても根気よく真摯に審議した。サルスティウスという年配の優れた人物を部下かつ知己として持ったのは幸運だった。
356年冬、ガリアの反乱を抑えるために足を踏み出す新副帝に、現地ローマ軍の将軍たちは冷酷だった。


アルゲントラートゥムの決戦、英雄
副帝ユリアヌスの護衛隊はたったの360兵。オータン、オセール、トロワを経てランスへ着くまでに後衛を蛮族に襲われる危機もあった。また、前年に急襲され廃墟となっていたケルンを視察、戦争の困難さを直に見た。サンスで包囲攻撃を受けた時は、不屈の勇気で耐え、駆け巡って兵を励まし、30日間の攻囲から勝利した。この間、近在の味方の将軍は再三の援軍要請を無視し続け、見殺しにしようとした。この他の作戦においてもさまざまな裏切りや怠慢に遭い、ユリアヌスは何度も窮地に立たされた。孤立無援。しかし、兵からの信頼を勝ち得たユリアヌスは新しく徴募した新軍団の力を得て、サヴェルマ要塞を再構築もし、蛮族討伐に勢力を傾けた。
そして決戦に打って出る。357年8月、アルゲントラートゥム(現ストラスブール)で敵3万5千のアレマンニ族コノマドリウス王と、味方1万3千とで対峙する。このとき、日暮れが近く、開戦を翌日に持ち越すべきか迷ったユリアヌスは将軍らと協議し、士気が高潮に達している今を逃さぬ決意をした。

「もし敗れんか、おそらく彼らの行動はあまねく軽挙妄動の汚名を烙印させるに相違ない。それだけにこの際はぜひ勇武を発揮し、逸りすぎた開戦の正しさを立証して見せるよう」(『ローマ帝国衰亡史』より)

かくして突撃のラッパが響いた。
決死のローマ軍。何しろ兵の数が違う。綿密に練られた作戦も有効だったが、ローマ側がひるむ箇所があれば、下がろうとする兵の前にユリアヌスが現れ、名誉と恥辱を訴えて激励した。矢や槍が飛び交う前線に、構わず駆けつける若きカエサルの勇気に、兵は応えぬわけにはいかなかった。この決戦に勝利したユリアヌスは、以降、ガリア地域に英雄の名をとどろかせたのだった。


ユリアヌスによるガリア統治
ユリアヌスの快進撃は続く。同じ年の12月、まさかの冬のフランク族討伐に続き、三次にわたる遠征でアレマンニ族と和平条約を結ぶ。ガリア一帯の平和構築後は復興に努める一方、各地要塞も強化。これには兵ばかりでなく、現地の民も進んで協力した。常に住民の安全と食糧の供給に心を砕いた。「将帥というよりもむしろ司政官たることに多くの喜び」を得ていたという。
善意に基づくユリアヌスの民政を、時に阻むのは宮廷とその息のかかった者達だった。民政官フロレンティウスが臨時付加税の承諾を求めたが、ユリアヌスはこれに署名しなかった。民を苦しめるものでしかなかったからだ。ところがこれが皇帝に知れて激怒された。ユリアヌスも怒った。

「こんな悪が長く処罰を免れたまま続くくらいなら、短期間でもよい、私はいまこの機を利用して善をなしたいのだ!」

若い、正義感に満ちたユリアヌスには、副帝という立場はもどかしいばかりだった。そしてこの叫びはユリアヌスの短い生涯の生き様をそのまま表現した予言のようでもある。そしてもしも彼の尊敬する賢帝マルクス・アウレリウスがこれを耳にしたのなら、この若者に喝采を送ったに違いない。
ユリアヌスは国民に広く慕われる一方、宮廷にとっては明らかに敵。陰湿な宮廷人らは彼を、紫衣をつけた山猿、毛むくじゃらの蛮人(小柄で毛深かったらしい、ギリシャかぶれのせいでローマ人にしては珍しく髭をたくわえていたためヤギとも)などと嘲った。皇帝はユリアヌスに嫉妬し、正帝の権威で副帝の手柄を自身の功績として公表していた。皇帝はガリアを治めた英雄に対し、不安や恐怖すら抱いた。
皇帝の猜疑心を宥めるはずのエウセビア妃は360年に亡くなっている。もう一人、皇帝と副帝をつなぎとめるべき存在のヘレナ妃も亡くなる。対決すれば皇帝の怒りを鎮める者はなく、宦官の追従が怒りを煽ることになるだろう。
しかし一件は起こるべくして起こった。


「正帝ユリアヌス万歳!」
ガリアは357年以来安定しており、ユリアヌスの軍事行動は減っていた。ユリアヌスはルテティア(現パリ)を拠点に防衛と内政に務めていた。
その一方、コンスタンティウスが睨みをきかせていた東方国境が不穏になり、宮廷によるものか皇帝自身によるものか、姑息な策が上がった。360年、ガリアのユリアヌス指揮下の精鋭から援軍を出すよう命令が下ったのである。それも精鋭中の精鋭の四個軍団と、それ以外の全ての部隊から各300兵ずつ、総じて麾下の約半数にあたる兵を引き抜こうというものだった。
まず、その数ではガリアの衛も覚束なくなる。しかしそれはなんとかできるとしても、ユリアヌスには軍団兵との間の約束があった。
「補助軍団はアルプス以南には出陣しない」契約になっていた。補助軍団は現地住民によって編成されたものであり、故郷を愛するガリアの人々にとってその地を離れての戦いなど意味も意義もないものだったのだ。
なぜローマの正規軍を援軍に回さないのか!
しかもガリア人を、ペルシア辺境の灼熱の砂漠の前線に立たせるとは、身体的にも過酷ではないか!
いくらガリアの反乱が沈静しているからといえ、兵を引き抜かれ、僻地にやられるのは防衛上厳しかったし、それ以上にユリアヌスを苦しめたのは、兵との契約を反故にすることであった。
しかし正帝の命令は、ローマ市民にとって絶対従わねばならないものなのだ。副帝を差し置いて命令を執行しに派遣された総務長官と官房長を突っぱねて、ユリアヌスは時間を稼いで塾考した。
結論は、
ローマの人間として皇帝に従うこと

そして即刻、各軍団に命令を送る。やむをえない、しかし激しい痛み、苦しみを伴う決断だった。夫や息子との別れの号泣を目にしてユリアヌスはいたたまれなくなり、命令により市中の馬車や荷車を掻き集めさせ、家族も行軍に随伴する助けにした。そんな心づかいに市民はあらためてユリアヌスの優しさに感激したのだった。
第一陣を見送り、その後もパリ周辺に集結してきた各軍団。その壮行式の場を、ユリアヌスはパリ城門外で考えていたが、さきの総務長官らは城門内でやればよい、と指示した。城門内で行う危険性をユリアヌスだけはわかっていたのである。
壮行式は静まり返り、ユリアヌスの演説も空虚に響くばかりで終わった。出陣前夜のその晩、起こるべくして起こったのだ。
ガリアの地から引き剥がされる苦しみ。敬愛する副帝が忌まわしい正帝の策に貶められていることへの憤懣。その思いがうねりになり、市民と兵を一団にして城門内になだれ込んだ。

「正帝(アウグストゥス)ユリアヌス万歳!」

ユリアヌスはこの事態を怖れていたのである。
城内に侵入した者達によって担ぎ出されたユリアヌスは、仮初めの冠を載せられ、民の熱烈な喝采の中で正帝と崇められた。この時点で、ユリアヌスは皇位簒奪者及び逆賊だが、できる限り抵抗した。コンスタンティウス帝との関係を辛うじてでも維持しておく必要を感じていたからである。この件が皇帝に暴露した後も、皇帝への書簡ではユリアヌスは自らを副帝で通している。自身は決してローマ全土をおさめようというつもりはなく、ただガリアでの主権を認めてもらい、現状を維持したいとの懇願の書を送った。しかし返ってきた皇帝の書簡は、ひどく侮辱的でユリアヌスを激怒させた。曰く、哀れな孤児を救ってやった恩を忘れたのかと。そこがユリアヌスの逆鱗に触れた。
一体誰が孤児にしたのだ!
兄さえも惨殺した。抑えていた感情が爆発し、とって返して送った返信は、こみ上げる怒りを叩きつけたものになっていた。
対決を決意する。ユリアヌスは内戦に向けて準備を始めた。


コンスタンティウス対ユリアヌス
持てる兵力は圧倒的にコンスタンティウス軍が上だった。数で圧倒的に優勢だった。しかしユリアヌスが従えているのは勇敢なガリア軍である。コンスタンティウス帝の元で東方で戦うのは拒否しても、親愛なるユリアヌス帝のためならば東方だろうと討って出ようというのである。361年、ゲルマンの蛮族をまずは抑えてからシルミウムを目指す。ユリアヌスは極秘の奇襲を謀る。行軍の数十日、ユリアヌスの大隊はアルキアヌス大森林(現シュバルツバルト:黒い森)に姿をくらまし、突如ドナウ川に現れた。皇軍は大騒ぎになった。
その頃、コンスタンティウス帝はようやく内戦に矛先を向けた。彼は内戦ではかつて負けたことがない。その上、ユリアヌス軍はアクィレイア市攻略戦で苦戦しているとの情報も得た。事実、ユリアヌスは思わぬ足留めに遭い、追い詰められていた。そこへ届いた急報。
コンスタンティウス帝が熱病で薨去したと。
死の直前、皇帝がユリアヌスを後継者に指名したと。
内戦は対決せぬまま突然に終わった。首都に入ったユリアヌスは民衆から心から歓迎されたが、その表情はかたく、前帝の遺骸を皇帝の衣服ではなく質素な喪服で迎えに出、葬列も徒歩で先頭を歩いた。父や兄の仇であり、対立して倒そうとしていた相手にもかかわらず、ローマを背負う苦難を生きた前帝の生涯に思うところがあったのだろう、沈痛な顔に涙が光っていたという。



ユリアヌス皇帝の改革
後代の者としては皇帝ユリアヌスがこのあと何年何ヶ月生きるのかを知っている。即位が361年11月3日、363年6月26日に亡くなった。副帝としては6年を、皇帝としては1年7ヶ月しか生きなかった。
361.11.3 コンスタンティウス2世死去
361.12.11 コンスタンティノポリス入城
362.7.18 アンティオキア入城
363.3.5 ペルシア遠征
363.6.26 戦闘中の負傷により死去

在位中の最後の4ヶ月は遠征に費やされたため、内政の改革に従事できたのは1年3ヶ月。ユリアヌスは哲学者として抱いてきた理想実現をめざし、さまざまな改革を一斉に進めた。その仕事ぶりはすごい。寝食の時間を惜しみ、食事は菜食で質素、仮眠程度の睡眠。書簡を自ら書きながら、文官の別件の報告を聞き、即座に判断して的確な指示を出す。それも速記官の手が追いつかないほどの速さで。夜更けまで仕事を続け、未明に著作に取り組み、朝方少し眠るが、官吏が登庁する頃にはすでにさまざまな仕事が片付いている、という具合だった。そのような激務にあっても、彼の判断は実に柔軟。流れるように即決、言いよどむことは皆無、簡潔で完璧な指示。しかも決して高圧的な態度をとらず、周囲には、自分に誤りがあれば是非正してほしいと謙虚に頼むのだった。
著作者、祭司長、行政官、将軍、皇帝…
どれもこれもユリアヌスの姿なのだった。

どのような改革が行われたのか。

宮廷は当時、東方風の華美な風とヒエラルキカルな組織で成り立っていたが、一切の無駄を撤廃。無駄な経費を削減した一方、たくさんの失業者を出した。

無駄な出費を切り詰めた上で、民からとる税金負担を低くした。

元老院の名誉、特権、権威を復活させる。

宮廷の宦官同様、権力にしがみ付いていたキリスト教聖職者らの特権を剥奪。宗教寛容策として、キリスト教以外の宗教や、異端として排除されていたキリスト教他派も奨励。とくに旧来のローマ多神教を優遇。過去にキリスト教徒によって破壊された神殿の賠償を求める。

ユリアヌスに「背教者」のレッテルが必ず付けられるのは、彼のこの宗教政策による。他の宗教に対して寛容ということは、それまで厚遇されていたキリスト教信者にとっては相対的に寛容ではなくなることになる。この不満がユリアヌスの英雄的活躍を全て帳消しにし、後年延々と、現代に至っても『背教者』呼ばわりされる者に貶めたのである。弾圧や迫害は道徳的になし得なかったし、逆効果なのは承知していたユリアヌス。ユリアヌスがキリスト教に対しどんな考えを持っていたか、それは次回に書く。とにかく、ユリアヌスを最も苦しめたのは宗教政策だったのだ。
そしてアンティオキア入城後、この宗教を挟んで民と対立する破目になる。

この苦境は耐え難かったが、ユリアヌスの本来の徳性は損なわれない。
紫衣は帝にのみ許される衣装であるが、一般民で個人用に紫の衣を作って着ていた人が捕らえられた。皇帝侮辱の罪で死刑は必至。報告を受けたユリアヌスは罪を問わず、着用の許可、さらに揃いになるようにと紫の靴をも訴えた者に届けさせた。
また、親衛隊の中にユリアヌス暗殺を企てた者達がいたが事前に漏洩した。目の前に出された裏切者に対し、ユリアヌスはただ説教しただけ。首謀者のみ国外追放、他はごく軽い処罰だけだった。他の皇帝でこのようなことが発覚すれば、広範囲に処刑されたことだろう。作戦中の軍隊内のことではユリアヌスは厳しい措置も講じたが、無用の罪を犯した者には寛大だった。

まず彼は自身の判断力や勇気に自信があった。過信ではなく現実に揺るぎないものであり、周囲もそれを承知している。ゆえに誰も彼に挑もうとは考えない。その状況が寛大さを定着させていたのだろう。その状況に踏ん反り返るのでなく、調和しようとする。また、中央集権化が積極的に推し進められてきたローマでは、皇帝を「主(ドミヌス)」と呼ぶのが習わしになっていた。ユリアヌスはそれを嫌い、共和制時代の「執政官(コンスル)」で呼ぶよう頼んでいた。あまりにもおこがましいと。自身は奉仕する者であり、奉仕されるべき者でありたいとは全く考えない、当時では珍しい皇帝だったようだ。では彼は何に奉仕していたのか。神か。いや、おそらくローマ、ローマに体現されている「理想」ではないだろうか。


ペルシャ遠征、クテシフォンへ
サーサーン朝ペルシャの当時の王シャープール2世は、異例の生前戴冠により王位に就き、クシャーン討伐、トルキスタン交易により栄え、アラブ遠征も行った活動的な王だった。キリスト教徒へは2倍の徴税を行うなどして迫害、ゾロアスター教を信仰していた。戦いでは象隊を持ち、踏みつぶす戦法を誇った。
東方からのフン族移動を受けてこれと同盟を結んで、40年のローマとの和平を破りこれと戦う。
コンスタンティウス帝との戦いでは、344年にシンガラ包囲戦で大敗、王子戦死、ニシビスやアミダの戦いでもローマに軍配が上がった。しかし359年に75日間におよぶアミダ包囲戦でローマを陥落させた。それを機に周辺都市を次々に奪還。新帝ユリアヌス即位後、ペルシャ側は和平交渉を求めたが、ユリアヌスはこれを突っぱね、いずれペルシャ攻撃に向かうだろうと豪語した。これは、改革などで国内がざわついている状況を戦功で打破したいと逸ったからだろうか。国内の状況よりも、内戦のために遠征してきた軍団兵らの士気をこの機会に東方で発揮させたいとの算段からだろうか。ユリアヌスのこととて綿密な計画や作戦で勝てる確信はあったかもしれない。決して無謀ではなかったと思うが、不運が重なって運命が行き止まってしまった。
二度と戻りたくないアンティオキアを出発、行軍は順調だったが、灼熱の砂漠、強風は体力を消耗させた。河沿いを進む軍は、装備や輜重を満載した海軍をも帯同した。陸を進む軍をある地点で分け、一方は北上させ、クテシフォンで合流して南北から攻撃を仕掛ける作戦にしていた。
ユーフラテス川を越えていよいよクテシフォンを望む地点まで到達した。あとはティグリス川を渡り、クテシフォンを攻める機を待つ。
作戦の内容も開始はいつなのかも、情報漏洩を避けるため、直前までユリアヌスの胸ひとつの中にしかない。一人で全軍を動かす勇気。ある日、船荷の点検のためとして一部(80隻)の船内を空にした。また、コケ市城壁脇で敵側からも観覧できる競技会を行った。敵も城壁越しに観戦を楽しんだ。その日の夕食後、ユリアヌスが突然の作戦開始を告げると、将軍たちもさすがに驚いた。

「勝利と安全とは一にこの一挙にあり。敵兵力は今後減少するどころか、次々と増援を得て増大することは明瞭。これ以上の延引が河幅の縮小をきたすわけでも、また堤防の高さを低めるわけでもない」

河を渡った先に睨みを利かせているペルシャ軍を攻めるには、夜闇の中の奇襲しかない。リスクも高かったが、渡ってすぐ防塁を越え、いきなり敵兵が密集している懐に飛び込み、接近戦で挑む。この状況下、敵側の弓矢や槍は役に立たない。夜は明けてなお攻撃は続き、ペルシャ側は陣地に死屍累々を残して潰走した。このクテシフォンの戦いはローマ軍の勝利。クテシフォン市街は目前。ここで引き続き市街を攻略するか、時を空けるか、ユリアヌスは協議にかけた。将軍たちの大方は、立て直しの時間が必要と考えた。ユリアヌスは結局、それに従った。本来のユリアヌスなら、勝機を逃さないよう即攻撃をかけたことだろう。彼にブレーキをかけたのは、北から来るはず別働の部隊の消息が依然として不明だったことによる。彼らはなぜ来ないのか。彼らとともに合流するはずのアルメニア軍はどうしたのか。
実は、別ルートにまわった南下軍は、二人の将軍が対立し、協力して行軍することができなくなった。アルメニア王も、ローマに協力する姿勢を見せておきながら、キリスト教に寛容でないユリアヌスへの反感から態度を渋っていた。しかし、何も知らないユリアヌスはひたすら信じて待っていた。期限を区切って見切りをつけるという選択肢を想定していなかったのは陥ち度だった。
ユリアヌスの新たな作戦は、ティグリス川沿いを北上しながら別働隊と合流し、北部から南下しつつクテシフォン首都攻略を果たすというものだった。この作戦に動き出した時、敵側から寝返ったという一人の貴族がわずかの手勢を伴って現れ、シャープール王や王室への不信や戦闘の不満を述べ、かれらへの恨みをローマ軍に内通することで果たしたいと懇願した。将官の中には怪しいと見て突っぱねようとした者もいたが、ユリアヌスは信じてしまった。北上行軍の道案内をすると言い、先の行路の具合から、船団の遡上は不可能と進言、ユリアヌスは20日分の糧食のみ残し、残りの食材、資材、武器を船ごと燃やしてしまった。退路を断つ覚悟。糧食は途中の村で調達すれば良い。
しかし案内人に付き従って行軍すれば、途中の村々はなぜかどこも焼く尽くされ、人一人家畜一匹いない。資材、食材を調達できない。さすがに怪しいと思った頃には案内人は姿をくらましていた。時すでに遅し、糧食は底をつき、行軍路は狭いエリアをぐるぐる回らされていたのだった。
次第にローマ軍は周囲をじりじりとペルシャ軍の小編成隊に付け回され、たびたび小規模な攻撃を仕掛けられるようになった。砂丘の陰に大軍がいる。そんな幻影に恐々としながら、とにかく糧食を得られそうな都市を目指して後退を続ける。熱さと恐怖で動転しそうな兵。彼らをこのような憂き目に遭わせてしまった負い目に苦しみながらも、ユリアヌスは小攻撃で乱れた隊列に駆けつけて、労い、奮い立たさせる。ユリアヌスは最後の時までユリアヌスらしさを失わない。『ローマ帝国衰亡史』の著者ギボンはユリアヌスをこう評した。
「資質の点では大カエサルほどの剛毅さ、高邁性がなかったし、またアウグストゥス帝ほどの見事な深慮もなかった。男らしさ、勇気の点ではトラヤヌス帝の方がより確乎として生得のものだったようだし、哲学者としてはマルクス・アウレリウス帝の方がより素朴単純さで一貫していた。とはいえユリアヌス帝もまた逆境には毅然として耐え、順境には適度の抑制を保つことを知っていた」


最後の戦い、死の床で
さすがに百戦錬磨のユリアヌス、逆境下の退行軍を慎重に先導していた。そこへ殿軍攻撃さるの報告。暑さのために胸甲を脱いでいたユリアヌスは即座に従者の一人から盾を奪い、親衛隊率いて救出に向かう。するとすぐにまた今度は先遣隊が攻撃された、と。今度はそちらへとって返すと、その途中、左翼中央が猛攻を受け、壊滅寸前との報。しかしそこは味方軽歩兵な旋転機動で敵騎兵背後を襲い、敵側が潰走。
(以下、『ローマ帝国衰亡史』より)

「危機といえば決まって先頭に立つユリアヌス帝は声を励まし、手を高くかざして追撃戦を督励した。いまや戦場は敵味方の区別すらつかぬ乱戦となり、みずからも四散し、気圧されがちだった新衛兵たちは、怖れ知らぬ彼等の君主の無防備な姿に慄然として、差し迫った危難の立て直しを切に懇願したのだった。だが、彼等がそう叫んだ瞬間だった、敵敗走部隊からの投槍と飛矢が雨のごとく注ぎ、そしてその投槍の一本が彼の腕を掠め、そのまま肋骨を貫き肝臓の奥深く突き刺さった。帝はその凶器を脇腹から引き抜こうとしたが、鋭い穂先がその指先を切断、意識を失い落馬した。すかさず親衛隊たちが駆け寄り、重傷の帝を静かに抱き起すとともに、とりあえず乱戦の巷を脱出、つい近くの幕舎まで運び込んだ。悲報はたちまち全軍の末端まで伝わったが、悲しみは逆にローマ軍不屈の勇と復讐心とを激しく鼓舞した。…」
この日、夜まで戦闘は続いた。この日の戦においてはペルシャ側の敗北。多大な被害を受けて退散した。

死の床で意識を快復したユリアヌスは、自分の終わりがまもなくであることを悟る。将軍たちや知己らが枕を囲んでいる中、自分の運命に感謝を告げる。「新帝の推戴に関し諸君の票を左右する惧れのあるごとき発言は、ことさらこれを差し控えるであろう。余の選択があるいは思慮を欠き、また判断を誤ることもあるやも知れず、万一もし余の推す人物が軍の同意をえられざるにおいては、当該人物にとっては致命的結果となるやも知れず。余はただ善良な一市民としてのみこれを言うのであるが、望むらくは今後もローマ人が有徳君主による統治に恵まれんことを。」
真夜中ごろ、水を飲み干した後、苦痛なく息を引き取ったとのことだ。


帝を失くしたローマ軍はこれ以上遠征を続けることはできず、ユリアヌスの遺体を守りながら、不利な和平契約を結んだ上で退却していった。新皇帝は、有力だったサルスティウスが高齢のため固辞。ほぼ偶然の成り行きでヨウィアヌスが皇帝となった。


早死にとは。
ユリアヌスがこの日の戦いで死ぬことがなかったら、この日の勝利でローマ軍の士気が高まり、遠征を続ける、あるいは遠征を中止するにしても、和平契約はもっと有利な内容にできたはず。
帰還できれば、不完全だったキリスト教政策を徹底し、ローマの宗教社会は以後の歴史に大きな変化を与えたかも知れない。何にせよ、死んでしまったらそれ以上のことは何も果たせないのが人たるものである。その後も生きていたなら「背教者」の別称も違っていたかも知れない。ただ、死んでこそ、死んだからこそようやく輝きを放ち出す者がある。「殉教者」だ。キリスト教独特の、死を代償にすることで輝く存在になれるという展開。ユリアヌスはキリスト教のこの傾向を蔑み、かつ施政者として苦しめられていた。
死んで掴む栄光に、なんの意味があるか。
当のその人にとって。
ユリアヌスは、ここで運命が終わらず、長く治世が続いていたなら、ちょうどコンスタンティヌス帝のように後代の姑息な振る舞いが過去の栄光をぬりつぶしてしまっただろうか、あるいは逆に英雄の輝きをさらに重ねつづけただろうか。
31歳の皇帝は新星の輝きを放ち始めた眩さのまま消えたが、死んでも英雄の美しさを我々に届けてくれる。一方で「背教者」のままでもある。2千年、キリスト教が存続するとは。




ユリアヌスがキリスト教と格闘する姿を、次回でまとめる。ところで今日、12/6はユリアヌスの誕生日らしい。そのためぜひ今日のうちにこの記事をあげておきたかったのでして…
ざっくり急ごしらえのままあげますが、あとで少しずつ手を入れるつもりです