名のもとに生きて

人の一生はだれもが等しく一回かぎり。
先人の気高い精神に敬意を表して、その生涯を追う

革命後のロマノフ大公たち 皇位継承

2016-08-15 09:52:23 | 人物
ロマノフ家 皇位継承の迷走
ウラディミロヴィチ家の動き


1913年 ロマノフ300年記念祭

1912年


1917年
ニコライ2世退位時の皇位継承順位 生年


1.大公アレクセイ・ニコラエヴィチ 1904
2.大公ミハイル・アレクサンドロヴィチ 1878
3.大公キリル・ウラディミロヴィチ 1876
4.大公ボリス・ウラディミロヴィチ 1877
5.大公アンドレイ・ウラディミロヴィチ 1879

6.大公パーヴェル・アレクサンドロヴィチ 1860
7.大公ディミトリ・パヴロヴィチ 1891
8.大公ニコライ・コンスタンチノヴィチ 1850

9.公イオアン・コンスタンチノヴィチ 1886
10.公フセヴォロド・イオアノヴィチ 1914
11.公ガヴリール・コンスタンチノヴィチ 1887

12.公コンスタンチン・コンスタンチノ 1891
13.公イゴール・コンスタンチノヴィチ 1894
14.公ゲオルギ・コンスタンチノヴィチ 1903
15.大公ディミトリ・コンスタンチノヴィチ 1860
16.大公ニコライ・ニコラエヴィチ 1856
17.大公ピョートル・ニコラエヴィチ 1864

18.公ロマン・ペトロヴィチ 1896
19.大公ニコライ・ミハイロヴィチ 1859
20.大公ミハイル・ミハイロヴィチ 1861
21.大公ゲオルギ・ミハイロヴィチ 1863
22.大公アレクサンドル・ミハイロヴィチ 1866
23.公アンドレイ・アレクサンドロヴィチ 1897
24.公フョードル・アレクサンドロヴィチ 1898
25.公ニキータ・アレクサンドロヴィチ 1900
26.公ディミトリ・アレクサンドロヴィチ 1901
27.公ロスチスラフ・アレクサンドロヴィチ 1902
28.公ヴァシーリー・アレクサンドロヴィチ 1907

29.大公セルゲイ・ミハイロヴィチ 1869

ロマノフ皇族のうちで、ニコライ2世退位時に皇位継承権を持つ者が上記29名。赤字は処刑された者。
ただし、8位のニコライ・コンスタンチノヴィチは廃嫡されて皇位継承権は剥奪されている。



処刑された者
1918.6.12-13 ペルミ近郊
大公ミハイル・アレクサンドロヴィチ 39歳
移動中処刑の通告ないまま銃殺

1918.7.16-17 エカテリンブルク
大公アレクセイ・ニコラエヴィチ 13歳
処刑通告後その室内で直ちに銃殺

1918.7.18 アラパエフスク近郊
公イオアン・コンスタンチノヴィチ 32歳
公コンスタンチン・コンスタンチノ 27歳
公イゴール・コンスタンチノヴィチ 23歳
大公セルゲイ・ミハイロヴィチ 48歳

処刑通告なし、森の廃坑に落とされる

1919.1.29-30 ペトロパブロフスク要塞
大公ディミトリ・コンスタンチノヴィチ 58歳
大公ニコライ・ミハイロヴィチ 59歳
大公ゲオルギ・ミハイロヴィチ 55歳
大公パーヴェル・アレクサンドロヴィチ 58歳

処刑通告なし、独房から移動させられ、一般の受刑者とともに銃殺

大公7名、公3名が処刑された。
もちろん、ボリシェビキは全員を殺害する計画だったが、国外脱出した者には手が及ばなかった。
唯一、釈放されたのはガヴリール。
彼は、ニコライ・ミハイロヴィチ大公らとともに拘束され、同じ運命になるはずだったが、ゴーリキーのとりなしと、もともと病気だったためすぐ死ぬだろうという判断で、フィンランドから亡命することを許された。
最年少はアレクセイ・ニコラエヴィチの13歳、最年長はニコライ・ミハイロヴィチの59歳。



1903年 ロマノフ王朝の歴代の衣装で仮装晩餐会





生き残った者 皇位継承順

〈アレクサンドロヴィチ家〉
1.大公キリル・ウラディミロヴィチ 1876
2.大公ボリス・ウラディミロヴィチ 1877
3.大公アンドレイ・ウラディミロヴィチ 1879
4.大公ディミトリ・パヴロヴィチ 1891


〈コンスタンチノヴィチ家〉
大公ニコライ・コンスタンチノヴィチ 1850
5.公フセヴォロド・イオアノヴィチ 1914
6.公ガヴリール・コンスタンチノヴィチ 1887
7.公ゲオルギ・コンスタンチノヴィチ 1903


〈ニコラエヴィチ家〉
8.大公ニコライ・ニコラエヴィチ 1856
9.大公ピョートル・ニコラエヴィチ 1864
10.公ロマン・ペトロヴィチ 1896


〈ミハイロヴィチ家〉
11.大公ミハイル・ミハイロヴィチ 1861
12.大公アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ
1897
13.公アンドレイ・アレクサンドロヴィチ 1897
14.公フョードル・アレクサンドロヴィチ 1898
15.公ニキータ・アレクサンドロヴィチ 1900
16.公ディミトリ・アレクサンドロヴィチ 1901
17.公ロスチスラフ・アレクサンドロヴィチ 1902
18.公ヴァシーリー・アレクサンドロヴィチ 1907


19名。大公9名、公10名。
革命勃発時の年齢で、最高齢はニコライ・コンスタンチノヴィチ67歳、最年少はフセヴォロド3歳。


結婚年順 没年ピンクは貴賎結婚

1889 大公ピョートル・ニコラエヴィチ 1931
1891 大公ミハイル・ミハイロヴィチ 1929
1894 大公アレクサンドル・ミハイロヴィチ 1933
1905 大公キリル・ウラディミロヴィチ(貴賎?) 1938
1907 大公ニコライ・ニコラエヴィチ 1929

1917 公ガブリール・コンスタンチノヴィチ 1955
1918 公アンドレイ・ミハイロヴィチ 1981
1919 大公ボリス・ウラディミロヴィチ 1943
1921 大公アンドレイ・ウラディミロヴィチ 1956
1921 公ロマン・ペトロヴィチ 1978
1922 公ニキータ・ミハイロヴィチ 1974
1926 大公ドミトリ・パヴロヴィチ 1942
1928 公ロスチスラフ・ミハイロヴィチ 1978
1931 公ドミトリ・ミハイロヴィチ 1969
1931 公ヴァシーリー・ミハイロヴィチ 1989
1939 公フセヴォロド・イオアノヴィチ 1973


上の通り、革命後に結婚した者は皆、貴賎結婚だった。

ロシアでの皇位継承に関する基本国家法によれば、
⑴君主はロシア正教徒
⑵帝室に男子の有資格者がいる限り、男子でなければならない
⑶男子の君主の母と妻は、結婚時においてロシア正教徒でなければならない
⑷別の有力な王家出身の女性と平等の結婚をしなければならない(貴族は該当しない)
⑸将来の君主は、現在の皇帝の許可を得た場合に限り結婚することができる


貴賎結婚をした場合、当人の皇位継承は維持されるが、その子には継承されない。
1989年にヴァシーリー・ミハイロヴィチが亡くなったあとは、皇位継承者は絶えたことになる。
もっとも、帝位そのものが今は存在しないので、誰も何も継承するものはないのだが。

これが、自然の成り行きであり、ロマノフの時代は静かに昇華していくのがよい、と勝手ながら私は思う。
しかし、懐古主義的な亡命ロシア人を取り込んで、皇帝のかたちを真似てそのつもりになったキリル大公の、常軌を逸した行動が、ロマノフ皇統の終わりに泥を塗ることになった。

亡命後、執務中のキリル大公


キリル大公の動き

1922 皇位を保護する者であることを公言
1924 皇帝を自称
その後、本来称号を得られないような貴賎結婚相手に皇帝の権限で称号授与を乱発、人気取りも兼ねて、皇帝の立場をアピール。
本来、国を統治するのが皇帝なのであって、政ごとを一切せず、そもそも統治するものもないのに、称号をプレゼントしたり、亡命宮廷をつくったりしても、ただの戯れでしかない。
特に、彼がそれをするということに反感を抱かれる理由は、革命が起きたときの、彼の皇帝に対する裏切り行為に由来する。

キリルは海軍にてキャリアを積んできたが、沈没を経験して以来、軍艦への乗艦を拒み、皇帝専用ヨットに乗船する水兵の隊の隊長を務めていた。革命直後、アレクサンドル宮殿に軟禁された皇后や皇太子や皇女らを警護していたのはこの水兵たちだった。水兵たちは多くがヨットで同行して、皇帝一家とは顔なじみでもあった。皇后は寒い夜空の下この水兵達一人一人に感謝を伝え、スープや紅茶を自ら振舞った。宮殿の周りに暴徒が増え、彼らしか頼りになるものがなかったからだった。ところが、ある朝、水兵たちは消えてしまったのである。キリルが命令を発して引き揚げさせたのだった。

皇帝専用ヨット シュタンダルト号

艦上でお味見する皇太子




そのうえ、自分の宮殿のうえに赤旗を立て、革命支持を示す赤い帽子を手に、国会のロジャンコに会いに行く。皇帝が正式に退位する前であり、皇帝への忠誠を破るごとき発言をしてロジャンコにさえたしなめられた。
新聞のインタビューでは、皇后を、カイザーヴィルヘルムの共犯者であるかのように語る。
こうした行動が他の皇族にはのちのちにも許せず、その行動から、キリルは皇位請求者にふさわしくないといわれた。

また、そもそもキリルとその弟達は、上の⑶の条件が適っていないので、皇位継承権そのものを持たないとする意見、そのうえ、帝政崩壊以前に結婚したキリルは⑸についても適っていない。結婚を皇帝に認められず、ドイツで秘密結婚し、国外追放処分されている。いとこ同士の結婚は正教では禁じられているので、この点に関しても皇帝の許可なしでは済まないものである。
しかし、父ウラディミルが亡くなったときに皇帝に赦され、キリルは復権した。その際に、結婚問題も皇帝に承認されたということなのだろうか。
キリルと同じような問題を起こした、ミハイル・アレクサンドロヴィチの場合と比較するならば、ミハイルは離婚経験ある平民と秘密結婚し、同じように帰国を赦されたのだが、身分違いのため、ミハイルの子には皇位継承権はなく、妻子はミハイルの居住する宮殿に入ることは許されなかった。パーヴェル・アレクサンドロヴィチの場合は、同じく離婚歴ありの平民女性だが、同居は許された。キリルの妻は離婚歴はあるけれど、王女であるため、さすがに別居にはさせないだろう。ただし、うえの2人の女性と違い、キリルの妻ヴィクトリア・メリタは、結婚した時点では正教に改宗していなかった。それは不問にされたのだろうか。あるいは、ニコライ・ニコラエヴィチの結婚をニコライ2世が承認したとき、まだ存命だったウラディミル・アレクサンドロヴィチが、キリルの結婚も認めるよう圧力をかけたらしい。そのタイミングで、皇帝は承認したのだろうか。
キリルの結婚相手ヴィクトリア・フョードロヴナは、アレクサンドラ皇后の兄ヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒと不仲で離婚したヴィクトリア・メリタであり、皇后は非常に嫌っていた。
キリルとヴィクトリア・メリタは幼なじみで結婚を望んでいたが、ヴィクトリア女王の勧めでヘッセン大公と結婚した。ヴィクトリア・メリタは、離婚理由にエルンストが男色だったからとも言っているが、ヴィクトリア・メリタはヘッセン大公妃であるうちから、月の半分をロシアのキリルのところで過ごす生活をしていたとのこと、こちらも非難されてしかるべきかと思われる。ただし、この時代、妃でありながらこのように振る舞う者はめずらしくはなかったかもしれない。

革命直後、フィンランドに亡命し、白軍がボリシェビキに勝利するタイミングでロシアに入り皇帝に担ぎ出される、その時をキリルは待っていたが、白軍は敗れ、キリルは家族とスイスに亡命した。

その過程で、1917年、キリルには男子ウラディミルが誕生していた。自称皇帝は息子に希望を託して1929年に亡くなった。


キリルの息子ウラディミルの動き

キリル大公と子供達 マリー、キーラ、ウラディミル

ウラディミルは父のように皇帝を自称はしなかったが、皇位請求者として周囲に認知させようとしていた。ソ連が崩れていく中で、ロシアから尊敬を集める契機も訪れた。
ウラディミルの心配事は、男子が生まれなかったことだった。
男子の元皇族はまだ数人生き残っているが、自分が彼らより長生きできなかった場合、皇位はそちらへまわってしまう。まさか暗殺でもしない限り、彼らの誰よりも長生きできるかどうかは不確定である。確実に自分の子孫に皇位を引き継いでいくためには、奥の手を。皇帝(皇位継承筆頭者?)として、娘マリアに継承する、と宣言をしたのである。
これが、他のロマノフ達を憤慨させた。これまで、キリルやウラディミルを支持してきたフセヴォロドもこれには怒り、ロマン・ニコラエヴィチらの側につくようになった。

マリアは1953年生まれ。宣言は1969年。1978年にマリアは、ホーエンツォレルン王子と結婚。1981年、長男ゲオルギ誕生。

1992年、ウラディミル亡くなる。

上の没年と比べれば、結局、ウラディミルがもっとも後まで生き残ったので、あの宣言は必要なかったばかりでなく、かえって波紋を広げただけだった。しかも、キリルの結婚ももちろんだが、ウラディミルの結婚についても非正統性を指摘されることになる。ウラディミルの結婚相手は、元グルジア王家由来の単なる貴族であるから、ウラディミルやマリアが他のロマノフの結婚を貴賎結婚だと言うなら、ウラディミルの結婚も同じ、つまりその子孫に皇位継承権がないというのも同じだ、と口撃されるに至った。
元グルジア王家というのは、バグラティオニ家。タチアナ・コンスタンチノヴナの結婚の時には認められたが、そのときそれが多くの人に意外だったように、一般的な認識として王家とは認識されてなかったのだろう。(タチアナは大公女ではなく公女であり、貴賎結婚をうるさく言うほどでもなかったからかもしれない。しかしながら、この結婚で生まれた子への皇位継承権は放棄するよう、署名させられた上での結婚承認だった。女性でも、男系が絶えた場合はその子(男子)に皇位が巡ってくる可能性があるためである。)
ただし、時の皇帝が認めればよい、という伝家の宝刀で、父が皇帝の役になるのだから、ウラディミルの結婚の正統性は全く気にすることはないようだ。

ドミトリ・パヴロヴィチ大公とウラディミル・キリロヴィチ
ドミトリはキリルの皇位を支持


キーラの結婚式
花嫁キーラの横、眼鏡の男性はフセヴォロド公
その他、元皇族多数




ロマノフ家協会


マリア・ウラディミロヴナ以外にも、ロマノフ家筆頭者を名乗る者がいる。
ウラディミロヴィチを除く3家で築くロマノフ家協会の代表者、現在はドミトリ・ロマノヴィチ公。
コンスタンチノヴィチは男子が絶え、ニコラエヴィチのロマンの2人の男子のうち、長男ニコライは最近亡くなり、次男のドミトリが筆頭である。
ただし、ドミトリにも男子がいないため、このあとはミハイロヴィチに受け継がれることになる。
ロマノフ家協会の主張は、基本国家法で定めるところの貴賎結婚の規定は、大公に求められるものであり、公にすぎない者には、結婚相手が貴族であっても貴賎結婚とみなされない、よって自分達の結婚は正式なものであり、子孫の皇位継承権は維持されうる、というものである。そのうえで、男系優先で継承していく場合、筆頭者がマリアであることはありえないと主張する。
曲解ともいえるが、法の規定の異常な厳しさを思えば、抜け道も必要かもしれない。時代も変わっていて、王室は身近で存在しなくなっている。
ロマノフ家協会の態度は、ロマノフ家の筆頭者として名乗りをあげるが、要請が無い限りは皇帝として名乗りをあげることはしない、というもののようだ。
現実的に、ロシアが皇帝をすえることは今後ありえないと誰もが今は思っている。ロマノフ家協会でもそう認識している。
もしも、なにかのきっかけで、ロシア国民の総意として、再び皇帝を望むのなら、そのときの国民がふさわしい人を選べばよい。ただ、そのときに万が一、ロマノフ家から選びたいということになればその意に応えられるようでありたい。
そういう姿勢なのだそうだ。
しかし、マリアのほうでもほぼ同じ考え方のようである。違うとすれば、今の立場においても尊敬を集めたいというところだろうか。ロマノフ家の他の者たちと自分とを、はっきり線引きするよう
周囲に求める。

こういう分裂すらおさめられないで、あの大きなロシアを治める皇帝に君臨するのはどうにも無理だろう。できれば、非現実的な皇位に固執することなく、和解して、革命の犠牲になった先祖のために祈りを捧げていただきたいと私は願う。


なお、ウラディミロヴィチ家の継承を支持しつつ、ロマノフ家協会とも良好な関係を持ち、皇位継承権は放棄し、ロマノフの名前も使わず、一アメリカ市民として暮らす、アウトローな末裔もいる。パーヴェル・ドミトリエヴィチ・ロマノフスキー=イリンスキーである。
キリルから与えられたロマノフスキーの名を捨て、ポール・イリンスキーと名乗る。
ドミトリ・パヴロヴィチの一人息子。
資産の相続も辞退。自分で築いたアメリカ市民としてのステイタスがあるので不要だと。
なんとも颯爽としている。
糸の切れた凧を思わせる自由さは、ドミトリ譲りなのかもしれない。

マリア大公と息子ゲオルギ


ロマノフ家協会代表 ドミトリ・ロマノヴィチ公 作家




ロシア大公家系の末路/ミハイロヴィチ家

2016-08-13 20:50:34 | 人物
低い帝位継承順位
自由奔放、リベラルなミハイロヴィチ
革命後もっとも多くのこされた家系





まずはニコライ1世子女をおさらい。


❶アレクサンドル2世 1818〜1881
②マリア 1819〜1876
③オルガ 1822〜1892
④アレクサンドラ 1825〜1844
❺コンスタンチン 1827〜1892
❻ニコライ 1831〜1891
❼ミハイル 1832〜1909

ミハイロヴィチは男子子孫が多く、革命後では、大公5名と公6名がのこされた。
大公のうち3名が処刑された。
公6名は、11歳〜20歳の兄弟たち。


〈第1世代〉
ミハイル・ニコラエヴィチ
1832〜1909



ロマノフ皇族のならいとして、軍人となる。
兄皇帝によってカフカス副王に任ぜられ、露土戦争後は砲兵総監、元帥。
バーデン大公女オリガ・フョードロヴナと結婚し、六男一女が生まれた。
愛人と奔放に暮らし、家庭を顧みない兄達と異なり、ミハイルは愛人を持たなかったが、軍務に熱心で、家庭はほとんど顧みなかったという。
愛人で家庭が壊れることはなかったものの、子供達に対して父母ともに非常に厳格だったためか、子の多くは屈折した家庭生活を送った。
20年ほど、カフカスで暮らしたが、アレクサンドル3世の代になってからサンクトペテルブルクに落ち着き、広大なミハイロフスキー宮殿で暮らした。
アレクサンドル3世は、愛人を囲う叔父達を嫌ったが、ミハイルにだけは年長者に対する敬意を払った。
1903年より、病気で車椅子の生活になった。療養のためカンヌで暮らすとそこには、ドイツに嫁ぎ、カンヌに定住していた娘アナスタシアや、国外追放されていた息子ミハイルとも顔をあわせるようになり、ようやく家族らしい関係に浴することができた。
76歳で死去。
革命以前のロマノフ家男子でもっとも長生きだった。

父ニコライ1世ー兄アレクサンドル2世ー甥アレクサンドル3世ーニコライ2世の、皇帝4代のもとに生きた最高齢の皇族
写真は晩年、ニコライ2世と



ミハイル・ニコラエヴィチの子女。

❶ニコライ 1859〜1919
②アナスタシア 1860〜1922
❸ミハイル 1861〜1929
❹ゲオルギ 1863〜1919
❺アレクサンドル 1866〜1933
❻セルゲイ 1869〜1918
❼アレクセイ 1875〜1895

早逝したアレクセイを除き、兄弟5人中の3人が処刑されたのは、コンスタンチノヴィチ家のプリンスたちの運命と重なる。



娘アナスタシアはメクレンベルク=シュベリーン大公フリードリヒ・フランツ3世に嫁ぎ、その長女アレクサンドリーネはデンマーク王クリスチャン10世妃、次女ツェツィーリアはドイツ皇太子ヴィルヘルム妃となった
アナスタシアは病弱な夫を顧みず、国を離れて派手な社交やギャンブルに明け暮れた。夫は謎の転落死、あるいは自殺。アナスタシアはまもなく愛人と再婚し一児をもうけた。
写真は曾孫ヴィルヘルムと



〈第2世代〉
ニコライ・ミハイロヴィチ
1859〜1919







ロマノフ家きっての歴史学者。
ミハイロヴィチ家の第1子長男として生まれた。
例外なく皇族のならいにより、軍人となるべく道を敷かれた。特に、父は軍事に関心が高かったが、ニコライは学問を好み軍務を嫌い、大学に行きたかったが父は許さなかった。軍では、マリア・フョードロヴナの近衛騎兵隊に所属。ここには、のちにフィンランドの英雄となるカール・マンネルヘイムも所属していた。マンネルヘイムは長身で187センチだったため抜擢されたとされ、ニコライも長身そろいのロマノフらしく、188センチと高かった。

父母は子供達に大変厳しかったが、母は優秀なニコライだけを溺愛した。
昆虫学、植物学の研究から、次第に歴史学を究めるようになる。皇帝の許しを得て、さまざまな図書や資料の閲覧ができた。革命で散逸したロマノフ家の宮殿や人物画、美術館の所蔵品が彼によって記録されていたことで、現在でも確認することができている。

母方のいとこ、バーデン大公フリードリヒ1世の娘ヴィクトリアとの結婚を望んだが、従姉妹との結婚に皇帝の許しが得られず断念。(ヴィクトリアはのちのスウェーデン王グスタフ5世妃、次男ヴィルヘルムはマリア・パヴロヴナの最初の結婚相手)
次に、オルレアン家アメリーとの結婚を希望したが、これも反対にあい断念。(アメリーはのちのポルトガル王カルロス1世妃)
その後は、結婚を希望せず、生涯独身。ただし、愛人や隠し子は複数いたらしい。

ニコライと母

ユーモア、イタズラ、冗談、気分屋、変人、軽率、ギャンブル好き。ただし、寛容で飾り気がなく、配下の者とも友人付き合いする、天真爛漫さが皇族皆から愛された。
しかし、先見性を持つゆえに、ロマノフ家が傾いていくのを人一倍憂えており、自らの自由主義を公言し憚らなかった。皇帝ニコライ2世には、度々、皇后の保守傾向の危険を訴え、謹慎にされた。
第一次大戦中は、久々に従軍。ただし、野戦病院訪問が主な任務で、日々送り込まれる負傷兵の多さに、ロシアの敗退を確信。もともと嫌っていたニコライ・ニコラエヴィチ最高司令官の、訓練未熟な兵を構わず戦場に送り出す無謀を批判した。

革命後は、弟ゲオルギとともに、前出のドミトリ・コンスタンチノヴィチ大公と同じ運命となった。
ニコライの釈放のために、フランス政府、ブルメル、ゴーリキーらが奔走したが叶わなかった。
処刑前に、抱いていた猫を近くにいた兵士に世話を頼み、3人は一斉射撃で射殺され、足下の穴に倒れこんでいった。

左からパーヴェル・アレクサンドロヴィチ、ニコライ・ミハイロヴィチ、皇后、セルゲイ・ミハイロヴィチ、皇帝、ゲオルギ・ミハイロヴィチ?、女性3人、セルゲイ・アレクサンドロヴィチ?、ピョートル・ニコラエヴィチ?
ニコライ大公の笑顔は魅力的



ミハイル・ミハイロヴィチ
1861〜1929



兄ニコライとミハイル


第3子次男ミハイルは、母に、優秀な兄と比較されながら、父母に厳しく育てられた。その幼少期の反動か、長じて、社交界ではギャンブル、女、派手に遊ぶ。
テック公女メアリー、ヘッセン大公女イレーネ、イギリス王女ルイーズに次々と求婚を断られ、メーレンブルク伯ゾフィー嬢と、許可なくイタリアで結婚。激怒した皇帝によって、地位を奪われ、入国不可にされた。アレクサンドル3世は彼を『馬鹿者』と呼んだ。母はショックで、程なくして療養先で亡くなったが、母の葬儀にも出席させてもらえなかった。
イギリス、フランス、ドイツを転々とし、カンヌに落ち着いた時、姉や父と和解。父の葬儀には、一時帰国を認められ、出席できた。
ロシア革命では、国外追放されていたことが幸いした。
晩年は経済的に立ち行かず、ジョージ5世や娘婿の援助で暮らした。次女ナデジダはバッテンバーグ家嫡男のジョージと結婚。

ミハイル・ミハイロヴィチと妻子

ミハイル・ミハイロヴィチの子女。

①アナスタシア 1892〜1937
②ナデジダ 1896〜1963
❸ミハイル 1898〜1959

息子ミハイルに子はいない。



ゲオルギ・ミハイロヴィチ
1863〜1919





第4子三男。自身も軍で活躍することを望んでいたが、幼少期に脚を悪くしたため、積極的な参加はできなかった。
物静かで引っ込み思案だが、優しい。大食い。
コインやメダルの膨大なコレクションは、革命を越えて後代に残された。

グルジア王家末裔の公女ニーナ・チャフチヴァーゼと恋愛、ただし、貴賎結婚にあたるために反対にあい、断念した。そのため、37歳まで未婚でいたが、一念発起して、エディンバラ公の娘マリーとの結婚を望んだが、マリーの母マリア・アレクサンドロヴナは娘をルーマニア王太子と結婚させるため、断った。
次に、ギリシャ王ゲオルギオス1世の娘マリアとの結婚を望む。マリアは平民と恋愛していたが、結婚できるわけもなく、無関心なままゲオルギとの結婚を受け入れた。ゲオルギは、この結婚に愛情はないが、時が経てば幸せになれるだろうと考えた。
しかし、マリアのロシア嫌いはひどく、夫とも離れたがった。1914年に、子供の健康にかこつけて、静養と称してイギリスへ。そのうち大戦が始まり、ロシアには戻らず、娘たちも優しい父とはその後もう会えなかった。娘たちは後年、母のこうした態度を冷酷だったと非難している。
大戦中、ゲオルギは日本にも派遣されていた。

革命後、妻子のいるイギリスへ亡命を希望したが受け入れられず、のちにフィンランド経由での国外脱出を許された。しかし、旅券に不備があったため、捕らえられた。これ以降、2度と国外脱出の機会がなくなってしまったために、運命が決まってしまった。
逮捕されてからは、兄ニコライと運命をともにした。

ゲオルギ・ミハイロヴィチの子女。

①ニーナ 1901〜1974
②クセニア 1903〜1965

ニーナはかつて父が恋して結婚を断念したチャフチャヴァーゼ家に嫁いだ。
クセニアはアメリカの富豪と結婚し、のちに一時アンナ・アンダーソンを保護していた。
妻マリア・ゲオルギエヴナは再婚し、ギリシャに帰国した。

クセニア(左)とニーナ



アレクサンドル・ミハイロヴィチ
1866〜1933



皇帝の娘クセニア大公女と結婚

第5子四男。ロマノフ家では数少ない海軍のキャリアを持つ。ちなみに、他に海軍に従事した皇族は、
コンスタンチン・ニコラエヴィチ
アレクセイ・アレクサンドロヴィチ
ゲオルギ・アレクサンドロヴィチ
キリル・ウラディミロヴィチ
アレクセイ・ミハイロヴィチ

このうち、ゲオルギとアレクセイ・ミハイロヴィチは早逝。キリルは搭乗艦の事故後から恐怖で海軍を離れたため、実質は3人と考えられる。

父がコーカサスからサンクトペテルブルクに異動になると、アレクサンドロヴィチ家の年長の子供達、ニコライやゲオルギ、クセニアらの遊び相手になった。そういうなかで、アレクサンドルと弟セルゲイは2人ともクセニアに恋して、結果、アレクサンドルとクセニアが結婚することとなった。
海軍の改革に取り組み、空軍の創設にも尽力した。

クセニアとの間には、六男一女。
ミハイロヴィチの兄弟は多かったにもかかわらず、正式な結婚の子孫を残せたのはアレクサンドルだけだった。

①イリナ 1895〜1970
❷アンドレイ 1897〜1981
❸フョードル 1898〜1968
❹ニキータ 1900〜1974
❺ドミトリ 1901〜1980
❻ロスチスラフ 1902〜1978
❼ヴァシーリー 1907〜1989

クセニアとニコライ2世はそれぞれ、同じ年の1894年に結婚し、子供達もそれぞれに生まれている。肝心の皇帝には、なかなか男子が生まれないのに、クセニアの家庭には次々に男子が生まれる。皇后は辛かったことだろう。
年令も血縁も近いため、皇帝の子供達とは一緒に遊ぶことが多かった。

末子ヴァシーリーはまだいない頃
すぐ上と5歳離れている




革命時はキエフで空軍の指揮をしていた。
首都にいなかったことが、アレクサンドルには幸いし、クリミアに逃亡していた家族に合流できた。
イギリス軍艦によって、妻子、皇太后、オルガ・アレクサンドロヴナ、ニコラエヴィチ家、イリナの嫁ぎ先のユスーポフ家とともに国外脱出。すでに関係が破綻していたクセニアとは、国外脱出後は別居した。
息子達は皆、貴賎結婚。フョードルは、パーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公の後妻の娘イリナと結婚している。その子に至っては、4人の祖父母のうち3人がロマノフ皇族(しかも大公)という、血の濃さからすれば正統性が高いように思ってしまうが、パーヴェルがそもそも貴賎結婚だったので全く考慮されない。
現在、アンドレイ、フョードル、ロスチスラフの男系子孫が残されている。

クリミアに軟禁中のロマノフ皇族と縁戚



セルゲイ・ミハイロヴィチ
1869〜1918





第6子五男。
軍では父の後を継いで砲兵総監、砲兵大将。
身長190センチ。数学や物理学に関心。
親しかったニコライ皇太子が結婚するにあたり、それまでの愛人だったバレリーナのマチルダ・クシェシンスカヤのことを、友人としてセルゲイに頼んだ。セルゲイは新しく、クシェシンスカヤの愛人兼パトロンとなり、立派なダーチャを買って与えた。
1900年頃から、クシェシンスカヤはセルゲイの甥アンドレイ・ウラディミロヴィチとも関係し始め、1902年には、どちらの子がわからない息子が生まれた。母子はセルゲイが養っていた。この三角関係はまだ続く。

第一次大戦時、セルゲイが療養から軍に復帰すると、砲兵部は汚職問題で荒れていた。汚職はクシェシンスカヤの利権に絡んでいたものだったため、セルゲイは処罰され、砲兵総監の地位を失う。こうしたスキャンダルにもかかわらず、クシェシンスカヤとの関係を維持しようとした。
革命時は、皇帝とモギリョフで一緒だった。ニコライ2世の退位署名に立ち会った。
クシェシンスカヤのいるサンクトペテルブルクに帰ったものの、一緒になるのを断られ、彼女は息子を連れてアンドレイのところへ行ってしまった。首都に残されたセルゲイは兄と共に、ボリシェビキに処刑された。

クシェシンスカヤの息子の名はウラディーミル。アンドレイの父名が付けられている。セルゲイからアンドレイに乗換えたのは、アンドレイのほうが皇位継承順位が格段に高いというのもあるのだろうか。
クシェシンスカヤはロマノフに食いついて離れず、いつか自分もロマノフの人間になる、と虎視眈々と狙い続け、とうとうなったのである。
アンドレイとの結婚は、アンドレイの母が決して許さなかったのだが、母亡き後すぐに結婚、自称皇帝の義兄キリルによって、ロマーノフスカヤ=クラーシンスカヤ公妃の称号を授かった。

マチルダ・クシェシンスカヤと息子ウラディミル


アレクセイ・ミハイロヴィチ
1875〜1895



両親と兄弟たち アレクサンドルを除く


第7子六男。ただし、1番早くに亡くなった。19歳。
兄アレクサンドルのように、海軍に進む。
海軍士官学校の訓練中に肺炎を起こしたが、父が療養を許さず、悪化。
結局、イタリアで療養したが、改善することなく亡くなった。



以上、ニコライ1世以降のロマノフの大公たちを一人一人調べた。
もう一度、ひととおり並べて総覧したい。
次の記事で考察します。




ところで。
今日はたまたま、アレクセイ・ニコラエヴィチの112回目の誕生日!
ここ数日、ずっと調べたり書いたりしていた世界というのは、112年前あたりのことなのか、
と、しみじみ‥
遠い時代のことだったのだとあらためて感じました。



帝政期、最後に生まれた大公。
彼の血友病がロシア帝国を崩壊させたと言われることもありますが、結局はロマノフたちの驕りや、民衆の粗暴な革命の犠牲にならねばならなかったのは、まだ子供に過ぎない彼でした。
この運命を生きたアレクセイを、とてもいとおしく思います。


ロシア大公家系の末路/ニコラエヴィチ

2016-08-11 21:31:18 | 人物
『黒い家族』とささやかれ
ロマノフの皇族たちから疎まれた
ニコラエヴィチ家


アレクサンドル3世とロマノフの血縁者たち

ニコライ1世の男系子孫である4分家を、引き続き紹介します。
ニコライ1世の子女
❶アレクサンドル2世 1818〜1881
②マリア 1819〜1876
③オルガ 1822〜1892
④アレクサンドラ 1825〜1844
❺コンスタンチン 1827〜1892
❻ニコライ 1831〜1891
❽ミハイル 1832〜1909


ニコラエヴィチは帝政崩壊までに大公は3人。
革命時に存命中の2人は亡命して生き延びた。
処刑された者はいない。



〈第1世代〉
ニコライ・ニコラエヴィチ
1831〜1891





同じ名前と父名を持つ息子と区別する目的で、年長を意味するстарший(スタールシー)を付けて呼ばれることもある。
ニコライ1世の第6子、三男。

陸軍でキャリアを積む。兄の後ろ盾で高いポストに付けられていたが、軍を指揮する能力に乏しく、失敗が多かったため、露土戦争後には非難された。
軍隊生活を好む一方、身辺はだらしなく、女好き、狩猟好き、公金横領で信用を落としていった。

オルデンブルク公の娘アレクサンドラ・ペトロヴナと結婚し、新築したニコラエフスキー宮殿に住んだ。アレクサンドラとの間に二男が生まれる。

❶ニコライ 1856〜1929
❷ピョートル 1864〜1931

長子ニコライを抱くアレクサンドラ・ペトロヴナ


地味な容貌のアレクサンドラとは不仲になり、バレリーナのエカチェリーナ・チスロヴァを愛人にし、家族と同じ宮殿に住まわせた。
チスロヴァとの間に三男二女が生まれる。

①オリガ 1868〜1950
❷ウラジーミル 1873〜1942
③エカチェリーナ 1874〜1940
❹ニコライ 1875〜1902
❺ガリーナ 1877〜1878

たまりかねたアレクサンドラ妃は、義兄の皇帝アレクサンドル2世に夫の不貞を訴えたが、同じように愛人を抱えているアレクサンドル2世は、逆にアレクサンドラを「静養」というかたちの国外追放にした。しかし、アレクサンドラはキエフにとどまり、離婚要請には断じて応じなかった。
一方で、チスロヴァからは自分を正式な妃にするようしつこく迫られた。
ニコライは妻が先に死んで、チスロヴァと結婚することを願ったが、結局、妻がもっとも長く生きたため、叶わなかった。
軍事費の不正請求によって役職剥奪され、破産。
チスロヴァが急死してからは精神的に不安定になり、アレクサンドル3世の命令によりクリミアで監禁された。



〈第2世代〉
ニコライ・ニコラエヴィチ
1856〜1929





父と区別するために、若いという意味のмладший(ムラートシー)を付けることもある。
同時代の皇帝ニコライ・アレクサンドロヴィチと区別するときは、それぞれの愛称「ニッキー(ニコライ2世)」、「ニコラーシャ」あるいは「ニキ・ニキ」で呼ばれた。
父とは違い、陸軍では尊敬された。

ニコライは193センチの長身、騎兵大将として大音声の号令、一糸乱れぬ騎兵を操る様は、威厳あり、迫力あり、圧巻だったといわれている。
20センチ以上も小さい皇帝の横に立つと、皇帝が気の毒にも見えたようだ。
身分による分け隔てを一切しないニコライは、兵士の信頼も厚く、陸軍は彼の下によく統制されていた。

ニコライ2世とニコライ・ニコラエヴィチ大公

1905年のロシア第一革命で、ニコライ2世は、立憲君主政を受け入れるか、軍事独裁体制によって専制を守るかの二択を迫られ、親衛隊サンクトペテルブルク軍管区長であるニコライ(ニコラーシャ)に、軍事独裁にむけての連携を打診したが、ニコラーシャはピストルを自身に向け、皇帝に、立憲制を受け入れるよう懇願した。
皇帝は、ニコラーシャを頼らずして軍を動員することは叶わなかったため、仕方なく立憲制を受け入れ、革命は小康状態になった。
しかし、専制を望んでいたアレクサンドラ皇后は、このことによりニコラーシャをひどく憎むようになった。

ニコライは長く、平民女性や女優と不倫を続けていたが、弟の妃の妹と出会い、結婚を望む。
弟ピョートルの妃は、モンテネグロ王ニコラ1世の娘ミリツァ・ニコラエヴナ。その妹、アナスタシア(スタナ)・ニコラエヴナと出会ったのは、ロイヒテンブルク公との離婚直後だった。離婚歴ある相手と結婚する場合、死別による離婚以外の再婚は皇族には認められていなかったが、皇帝はこの結婚を許可した。
子供は生まれていない。

第一次世界大戦開戦。
ニコライは帝国軍最高司令官。ロシア軍は多大な犠牲者を出しながらも、当初は緊迫感がなかった。1915年、戦況悪化に乗じて、ニコライの力を削ぎたいアレクサンドラ皇后とラスプーチンは、最高司令官を解任し、カフカス方面軍に送る。
その後は皇帝が最高司令官を兼ねて本営に詰めることになるが、それは内政を皇后に委ねる結果となり、帝国は内部からも壊れていくことになった。皇帝は、二月革命で退位させられると、後任の最高司令官をニコライに任命したが、本営に到着したニコライは臨時政府によって即座に解任された。

ニコライは他のロマノフの親族達と同様、クリミアに避難。最終的に、皇太后はじめアレクサンドロヴィチの家族らとともにイギリスの軍艦で国外脱出した。

ニコライの義弟にあたるイタリア王ヴィットリオ・エマヌエーレ3世の招きでニコラエヴィチ家はイタリアに身を寄せ、その後パリへ移る。

1922年に、白軍が開催したゼムスキー・ソボル(全国会議)において、ニコライを皇帝に据えての帝政復活を企てた。ニコライは、皇位継承順位は低いにもかかわらず、亡命ロシア人、特に元軍関係者から尊敬を集めており、もっとも皇帝に相応しいとみなされた。他方、皇位継承順位筆頭のキリル・ウラジミロヴィチは人気がなかった。
過去に、ロマノフを皇帝に選んだ、権威あるゼムスキー・ソボルによって選ばれたことは重く受け止められるべきではあったが、ニコライは、皇太后への配慮と、離婚歴のある女性と結婚したことを理由に、自分より弟が選出されるにふさわしいとして辞退した。もっとも、弟は兄を皇帝に推していた。




ピョートル・ニコラエヴィチ
1864〜1931





兄ニコライより9歳下。ロマノフ家の慣いとして軍人になったが、病弱で、軍務には性格的にもあまり向いていなかった。芸術、特に建築に優れていた。物静かで似た性格の、ドミトリ・コンスタンチノヴィチとは親しかった。ただし、切れ者で正反対の性格の兄の、影のような存在ではあったが、生涯にわたって親しかった。

ピョートルは軍では兄ニコライの参謀であった。
妃同士が姉妹でもあるため、亡命先でも兄弟で行動を共にした。

モンテネグロ王女ミリツァ・ニコラエヴィチと結婚。一男三女が生まれる。

ミリツァ(右)とアナスタシア


〈第3世代〉
この代では、遡ってニコライ1世は曽祖父となるため、大公ではなく公(プリンス)である。

ピョートルの子女。

①マリナ 1892〜1931
❷ロマン 1896〜1978
③ナジェジダ 1898〜1988
④ソフィア 1898(ナジェジダと双子)


マリナとロマン

ミリツァの3人の子供達

ロマン・ペトロヴィチ

ロマン・ペトロヴィチ 再建されたイタリア傀儡国家のモンテネグロ王国の王位に就くよう要請されたが辞退した
母はモンテネグロ王女、母方の叔母が元イタリア王妃という縁による




『黒い家族』と呼ばれて


ピョートル、妃のミリツァ、その妹アナスタシアの3人を指して『黒い家族』とささやかれていたのはなぜか。
黒い家族、あるいは、邪悪な権力の中心とまで言われたのには、皇后アレクサンドラとの関係においてだった。

アレクサンドラ皇后が結婚してロシアにやってきた時、そもそもが内向的な性格の上、ロシア語が苦手、華やかすぎる宮廷や皇太后とそりが合わず、たちまち孤立。そんな皇后に優しかったのが、同じように外国から嫁いで来ていたミリツァだった。
モンテネグロ王家出身ではあるが、ロシアと比べるなら辺境の小国にすぎない。モンテネグロのネグロとは黒を意味するのと、ミリツァやアナスタシアは黒髪に黒い瞳であったので、それにも因んで黒いイメージが植えつけられていた。
色だけでなく、暗いイメージと結びつけられたのは、彼女達の神秘主義傾向やオカルト趣味に起因した。ただし、この時代、そうした傾向は、ロシアだけでなくヨーロッパの王家ではめずらしいものではなかった。おそらく非難されたのは、皇后を神秘主義に巻き込み、最終的にラスプーチンをもたらしたという点においてだった。
しかし、これについても、皇后は結婚前からそういう性向を持っていたためだと言われている。
黒い家族と言われた彼女達にどんな思惑があったかはわからないが、周囲の宮廷人たちから見て、彼女達が、皇后に取り入ろうとしているかのように感じられて、半分は嫉妬からあだ名されたと考えてよいだろう。
アレクサンドラは、自分の抱えるさまざまな問題を克服しようとして、神以外にもさまざまなものにすがった。特に、男子がなかなか生まれず、ノイローゼ状態。想像妊娠するほどだった。
ミリツァがフランスから連れてきたフィリップ・バショによって祈祷を受け、妊娠したが、生まれたのはアナスタシア皇女だった。
再び、さまざまな呪詛に頼り、待望の皇太子が生まれてからは、その血友病の不安に苦しみ、ラスプーチンが連れてこられた。
相互依存関係にお互い満足したラスプーチンもアレクサンドラも、次第にミリツァたちを遠ざけるようになった。さらに、妹アナスタシアがニコライ・ニコラエヴィチと結婚したことについては、皇后は良しとせず、皇后自らミリツァらを黒い家族と呼んで、以降、疎遠になった。
皇后は、威厳と風格があって、皆に慕われているニコライ・ニコラエヴィチ大公の存在を、皇帝の威信を脅かす者として、常々不愉快に思っていた。ラスプーチンは、皇后に媚びるため、ニコライの失脚を狙っていた。


ミリツァとアナスタシアの長姉ゾルカ(兄弟姉妹は三男九女)はセルビア王ペータル1世との間に五子を産み、産褥死した。生き残った二男一女のうちの一女、イェレナを、ミリツァとアナスタシアで引き取って育てた。
イェレナは、コンスタンチン・コンスタンチノヴィチの長男イオアン公とのちに結婚した。因みに、同じ時期にイオアンの妹タチアナ・コンスタンチノヴナも結婚したが、貴賎結婚になるかどうか波紋を呼んだ一方で、イオアンの相手はセルビア王の娘であり、十分な相手だった。
なお、ミリツァとピョートルの娘ナジェジダは、コンスタンチノヴィチのオレグと婚約していたのだが、オレグは第一次世界大戦で戦死した。

イェレナ・ペトロヴナとイオアン・コンスタンチノヴィチ



ニコラエヴィチ家はそもそもが少なく、革命で処刑された者もいない。もちろんチェカは逮捕の機会を狙っていたが、イギリスへ亡命する機会を得られたことが命を救った。
亡命先では特に政治的に動くこともなく、静かに生活をしていたが、キリルとその息子ウラディミルの皇位継承は承認しなかった。
ピョートルの一人息子ロマンを介して、現代にロマノフの子孫を残している。

ロシア大公家系の末路/コンスタンチノヴィチ家

2016-08-02 22:25:30 | 人物
そのほとんどが革命で殺された
コンスタンチノヴィチ家の不幸
芸術を愛した高貴な家系
付記;タチアナ・コンスタンチノヴナ



ニコライ1世と4人の息子達



ここでもう一度、ニコライ1世の子女を記すと、

❶アレクサンドル2世
②マリア
③オリガ
④アレクサンドラ
❺コンスタンチン
❻ニコライ
❼ミハイル

今回は第五子二男のコンスタンチン・ニコラエヴィチ(1827〜1892)とその子孫の大公、今回は公についても書く。

アレクサンドロヴィチ家は3代続けて皇帝を輩出したので大公は多かったが、1886年の帝室家内法によってコンスタンチノヴィチ家、ニコラエヴィチ家、ミハイロヴィチ家は第三世代以降の子孫は大公にはなれなくなった。発令当時には既に生まれていたコンスタンチン・コンスタンチノヴィチ家の長男イオアンは、例外なく自動的に大公の位を失い、公になってしまった。
そのため、コンスタンチノヴィチ家は大公は5名までで終わり、次世代の公(愛人や貴賎結婚を除く、ロマノフの正式な公)は5名。革命が起こり、当時存命していた6名のうち4名が処刑された。
アレクサンドロヴィチ家でも、パーリイ公を含めて4名が処刑されたわけだが、かなりの人数が助かっていたことを考えると皮肉である。
尚、今回は人数が少ないので、コンスタンチノヴィチ家の美しい娘タチアナについて、付記したい。ロマノフ家のなかで、最も美しいと思う公女である。

コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ大公の娘 タチアナ公女




〈第Ⅰ世代〉
コンスタンチン・ニコラエヴィチ
1827〜1892











海軍軍人、のちに兄皇帝の時代になってから海軍元帥に。知性的で人望厚かった叔母エレナ(叔父ミハイル・パヴロヴィチ妃)の薫陶を受け、芸術の才能に恵まれた。ピアノと、特にチェロには優れていた。スマートではないが知的であった。
政治的には改革を兄アレクサンドル2世とともに進めようとし、農奴解放に尽くす。しかし、改革は機が熟さぬまま進められたため、1864年、ポーランドで一月蜂起が起きた。この一件から、兄皇帝は保守に戻り、弾圧を強めていった。
さらに、兄が亡くなり、アレクサンドル3世が即位すると、鬱陶しいと思われていた叔父達は重職を解任された。新皇帝アレクサンドルは強度に保守的でもあり、リベラルは叔父とは合わなかった。アレクサンドルにとって、父を始め、愛人を平気で作り家庭をないがしろにする叔父達は、軽蔑すべき存在でもあった。
コンスタンチン・ニコラエヴィチも、愛人問題で家庭間に亀裂を入れた。それはすぐに、息子の愛人問題となってしっぺ返しがくる。

妻はザクセン=アルテンブルク公ヨーゼフの娘アレクサンドラ・イオシフォヴナ。コンスタンチンの姉オリガ(ヴュルテンベルク王妃)の結婚式で初対面だったらしい。明るく、上品で、誰からも好感を持たれるエレガントな彼女は、音楽にも優れており、コンスタンチンとも趣味が合った。


アレクサンドラに生まれた子女は以下。

❶ニコライ 1850〜1918
②オリガ 1851〜1926
③ヴェラ 1854〜1912
❹コンスタンチン 1858〜1915
❺ドミトリー 1860〜1919
❻ヴャチェスラフ 1862〜1879


アレクサンドラと子供達(ヴャチェスラフの生まれる前)


60年代後半あたりから、アンナ・クズネツォーヴァというバレリーナを愛人にし、愛人と愛人の子の二男三女を家族と同じ宮殿に住まわせた。


父のこうした振る舞いで、子供達にどういう影響がでるのか。
宮殿内で、アレクサンドラ妃が先代皇帝に贈られた高価なイコンの装飾の宝石が盗まれた。それは、長男ニコライが愛人にそそのかされて盗んだのだった。息子は称号はそのままに、僻地に軟禁、階級剥奪。
母は、息子と夫の背信に苦しみ、神秘主義にのめり込んでいった。さらに追い討ちをかけるように、末子ヴャチェスラフが早逝。
引退後のコンスタンチンは脳卒中で不自由な身体となり、晩年、世話をしたのはアレクサンドラ妃だった。

アレクサンドラ・イオシフォヴナ、娘オルガ・コンスタンチノヴナ(ギリシャ王ゲオルギー1世妃)、孫娘アレクサンドラ・ゲオルギエヴナ(写真立ての中、生前パーヴェル大公妃)、曾孫娘マリア・パヴロヴナ(デンマーク王子ヴィルヘルム妃)、曾曾孫レンナルト王子



〈第二世代〉
大公はこの世代まで。

ニコライ・.コンスタンチノヴィチ
1850〜1918





父とニコライ

陸軍軍人。陸軍学校では優秀な生徒だった。
しかし、アメリカ女性で高級娼婦?のファニー・リアと関係し、欧州旅行を共にしていた。
その後、ファニーにそそのかされて母のイコンの宝石を盗み、《狂人》とみなされ、国内追放、軟禁される。ファニーは国外追放された。
次には、愛人アレクサンドラ・アバサとの間に一男一女、その後、ナデージュダ・アレクサンドロヴナと貴賎結婚で二男、ダーリヤ・エリセーエヴナ重婚?で二男一女、さらに愛人ヴァレーリヤ・フメリニツカヤと関係。のちに、アレクサンドル3世によって、ナデージュダの二人の子には貴族の位と公の称号が与えられたが、トゥルケスタンに配流された。
軍人としては活躍していたニコライ。トゥルケスタンにおいては、灌漑、運河、工場、美術館など、私財を使って繁栄させた。
愛人の問題さえ除けば、有能だったようだ。
思想は、ロマノフ家でありながら革命に傾倒した。
没年は1918年、1月に肺炎で亡くなっている。ボリシェビキがロマノフ達の処刑に動き出す以前に亡くなったのは幸いだった。



コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ
1858〜1915





コンスタンチン・ニコラエヴィチの二男。
父の愛人問題、8つ上の兄の廃嫡、若いときにそれらを見てきたコンスタンチンは、ロマノフ家に対しての責任を自らに課そうとした。
皇族の一員として海軍に、のちに陸軍に従軍したが、軍人としては有能ではなかった。
むしろ教養高く、優雅で穏やかで、信仰心も厚く、優れた芸術家として皇族の尊敬を集めていた。
К.Р(K.R)のペンネームでの詩作、戯曲、翻訳、演劇、ピアノ、作曲など。ロマノフ家の美貌の傑作ともいえる容姿から奏でられる芸術は、ロマノフ家の最後の栄華を見るようだったろう。

コンスタンチンは、ザクセン=アルテンブルク公女エリザベータ・マヴリキエヴナと結婚。妃は正教に改宗せず、終生、ルター派で通したが、皇位継承順位は低いゆえにそれほど問題にされなかった。エリザベータには芸術的な素養はなかったものの、コンスタンチンとはよい関係だった。
コンスタンチンは日記の中で、自分の同性愛傾向を告白していたが、それは公にはされていなかった。彼のロマノフ家への責任意識により、愛人を作らずよい家庭を作り(もっとも男色なので愛人には手を出さないと思うが)、多くの子女を残した。先述の通り、子の世代は大公ではない。


❶イオアン 1886〜1918
❷ガヴリール 1887〜1955
③タチアナ 1890〜1970
❹コンスタンチン 1890〜1918
❺オレーグ 1892〜1914
❻イーゴリ 1894〜1918
❼ゲオルギー 1903〜1938
⑧ナターリア 1905
⑨ヴェラ 1906〜2001


イーゴリとゲオルギーの間がやや離れている。タチアナの待望の妹はひと月で亡くなり彼女はひどく悲しんだが、小さな妹ヴェラが翌年に誕生した。
兄弟達は皆、長身だが体が弱かった。



コンスタンチン・コンスタンチノヴィチの子供達全員

家族全員

1892年に父が亡くなった後、兄が廃嫡されていたため、コンスタンチンがコンスタンチノヴィチ家の家長となった。晩年に向かって悲劇は始まりつつあった。第一次大戦が始まると、息子達は従軍していったが、娘婿ムフランスキイと最愛の息子オレーグが戦死した。当時、コンスタンチン自身も長く病の床にあり、悲しみにくれながら1915年に亡くなった。コンスタンチンの葬儀は、革命前のロマノフ皇族最後の葬儀だった。
妻のエリザベータはその後のさらに過酷な運命を生きねばならなかった。病弱なガヴリールだけは釈放されたが、未成年のゲオルギーを除き、他の3人の息子は逮捕され、廃坑で処刑された。
まだ幼いゲオルギーとヴェラを連れて、スウェーデン王太子グスタフ・アドルフやベルギー王アルベール1世の庇護を受け、最後は自分の故郷アルテンブルクに落ち着いた。

亡命中のエリザベータ、タチアナ、ゲオルギー、ヴェラ、タチアナの子



ドミトリ・コンスタンチノヴィチ1860〜1919






コンスタンチン・ニコラエヴィチの三男。
兄コンスタンチン同様、責任感が強く、穏やかだった。音楽にも秀でていた。ピアノが上手だった。
海軍からのちに陸軍に移る。
軍人としても有能であった。配下の軍人達の信望厚く、慕われていた。
思想はリベラルだったが、節度ある人格で、政治に口出ししなかった。皇族の内で、誰からも最も親しまれる大公だった。
結婚せず、子供はいない。そのため、兄コンスタンチンの家のたくさんの子供達をかわいがった。
馬が趣味だった。
しかし視力をほとんど失っており、寡婦となっていたコンスタンチンの娘、タチアナが世話をしていた。

革命後は姪の世話を受けながら暮らしていたが、やがて逮捕され、1918年春からは国内流刑。
1919年1月、ペトログラードに戻され、共に監禁されていたニコライ・ミハイロヴィチ、ゲオルギ・ミハイロヴィチ、別で送られてきた病臥のパーヴェル・アレクサンドロヴィチとともに処刑された。


ヴャチェスラフ・コンスタンチノヴィチ
1862〜1879





後方に立っているヴャチェスラフ、左ドミトリ、中央コンスタンチン、母

コンスタンチン・ニコラエヴィチの四男。
16歳で脳出血で死去。





付記
タチアナ・コンスタンチノヴナ
1890〜1970

父のプロデュースする劇では家族や親族が演じる
タチアナは妖精のスタイル


コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ大公の第三子長女。男子の多い兄弟の中で、16歳年下の妹ができるまでの長い間、一人娘だった。
父の才能を継いで、ピアノが上手だった。














タチアナが宮廷にデビューしたのは14歳のとき。
1904年秋の、アレクセイ皇太子の洗礼式のときであった。
写真のようなコートドレスに白い手袋。
年齢の近い皇族では、ドミトリー・パヴロヴィチやアンドレイ・ヴラディミロヴィチがいる。





21歳のタチアナが結婚相手に選んだのは、2歳上のコンスタンチン・バグラティオニ=ムフランスキイ公。
グルジア王家バグラティオニ家の末裔ではあるが、王族とは見なせず、貴賎結婚にあたる。当然、両親の反対にあったが、タチアナは諦められなかった。ところが、皇帝(ニコライ2世)は、結婚相手はグルジアの王族であると、あっさり承認。貴賎結婚ではない、とお墨付きをもらえた。正教徒であるという点では問題なかった。
これは、キリル大公の貴賎結婚問題と比較するなら、特例とも考えられるような皇帝の判断だった。問題が、皇位継承順位が比較的高い大公の場合と、皇位とはほぼ無関係の公女の場合とで、判断を変えている可能性もあるが、革命後のキリル大公の皇位請求の正統性に大きく影響する前例になり得る。
ともかく、タチアナの結婚は祝福され、皇帝も翌年1911年の結婚式に参列した。しかし、二人の幸せのピリオドは、あっという間に打たれてしまう。





1914年、第一次大戦。
この年、弟オレーグが戦死。
その翌年、ムフランスキイ公が戦死。
タチアナたちは、1912年に長男と1914年に長女が誕生しており、幸せな家庭が築かれ始めた矢先の不幸となった。そして同じ年、父が亡くなる。
タチアナは幼子二人を連れて、叔父ドミトリの住むストレーリナのコンスタンチン宮殿に身を寄せ、目の悪い叔父「第二の父」の世話もしていた。
革命後、ロマノフの大公たちは軟禁され、逮捕され、投獄されるようになったが、タチアナはドミトリ叔父が投獄されるまでずっと、幼子二人とともに連れ添った。母や弟妹は、スウェーデン王室の招きで国外避難していたが、タチアナは叔父のために同行しなかった。
ドミトリ叔父は収監される前に、タチアナ家族を国外脱出させるよう、それまで自分に側近く仕えてくれた直属士官アレクサンドル・コロチェンツォフに同行を頼んだ。
ルーマニアを経由してスイスに落ち着いたのは1921年。その地で、タチアナはコロチェンツォフと結婚。タチアナより13歳年上である。
ところが、結婚の数カ月後に、コロチェンツォフは急病で亡くなってしまった。

タチアナの子供達 ティムラスとナタリア

タチアナ(中央)と子供達

子供達が独立した後、1946年にタチアナはスイスで修道尼となった。
その後、イスラエルのエルサレムの修道院に移り、その地で亡くなり、埋葬された。
尼としての名はタマラ。最初の夫の故郷グルジアのバグラティオニ王家の12世紀の女王の名をいただいている。
タチアナは1979年まで生きた。
革命後の流転の生涯を、シングルマザーとして生きねばならなかった。
亡命先で、比較的優雅に過ごせた元皇族は多い一方、その元の位に頼って他者にぶら下がることもなく、タチアナはつらい運命を、孤高に、立派に生きた。




壁面にはアレクセイ・ニコラエヴィチ、マリア・フョードロヴナ?、ニコライ2世?
おそらくロマノフの肖像画が飾られているようだ


タチアナの生涯についてはこちらに詳しいです

The destiny of the princess of the blood royal/Igor Obolensky



タチアナの息子ティムラス1912〜1992は、ニューヨークでトルストイの娘が設立したトルストイ・ファウンデーションに従事した。それ以前は、ユーゴスラビアで従軍していた。
2度の結婚でいずれも子供はいない。
タチアナの結婚に際して、その子孫の皇位継承権放棄にタチアナが署名している。
上は、トルストイ・ファウンデーションHPでの紹介ページ。




タチアナの娘ナタリア1914〜1984はイギリス貴族と結婚した