名のもとに生きて

人の一生はだれもが等しく一回かぎり。
先人の気高い精神に敬意を表して、その生涯を追う

エミリ・ディキンソン 家の中から見つめる世界

2018-10-07 08:27:17 | 人物

I'm Nobody. Who are you?
名もなき普遍人として死ぬ、
「そのとき」を模索して生きる喜びと美
アメリカの女性詩人エミリ・ディキンソン




Emily Dickinson
1830〜1986



わたしがもう生きていなかったら
駒鳥たちがやってきた時—
やってよね、赤いネクタイの子に、
形見のパン屑を。

深い眠りにおちいって、
わたしがありがとうをいえなくっても、
わかるわね、いおうとしているんだと
御影石の唇で!



岩波文庫 「対訳ディキンソン詩集」亀井俊介編より
以下、引用文は同書から







日常のなかで、ふと、なにかを覗き込んだ瞬間や、振り返った瞬間、あるいはふいに聴こえた音や、抜けていった空気に触れた一瞬に、死の気配に頰をなでられる感覚を得ることがある。「 人生の真っ只中にいても、死の手の中にいる」と、ラヴェル(前記事)は言ったが、まさにそれだ。

死を考えてみること。
哲学、宗教、他にも様々なアプローチはあると思うが、私の場合、いずれも焦点が合わなかった。ひとえに理解力とか性質とかの点で私の感覚には馴染まなかったのだろう。
他方、詩、音楽、美術を通すと掴めるものがある。詩には死の容を直接的につかまえようとするものがあり、絵画も画面の奥にそれを追うものあり、音楽にもその気配をイメージさせるものがある。

しかし、死の容をとらえようとする試行錯誤こそは、よりよく生きようとする方策にほかならない。死を探ることで、背面にはっきりと生を映すのである。
エミリ・ディキンソンの詩には、皮膚感覚の死の体験を、ユーモアに包んでシミュレーションしたものがいくつかある。悲壮感も大げさな耽美もない。自然の一場面、日常の延長上の一点だ。
死の輪郭を、生きた指がなぞって描く戯れの詩。


ディキンソンの手による押し花帳


アメリカの女流詩人エミリ・ディキンソンはマサチューセッツ州アマーストの上流家庭に生まれ育ち、五十数年の生涯の後半ほとんどを家から出ることなく過ごした。その作品は生前には数点しか世に出ることはなく、全く無名の人として人生を終えた。ところが死後に、クローゼットに眠る数千の詩作品が妹によって発見され、編集出版された。作品は忽ち広く読まれるようになった。


1830年生まれ、1886年没。アメリカの産業革命、南北戦争の時代に生きた。アメリカ社会の変革期にあたる。社会は純粋なピューリタニズムから物質主義へと次第に移行する。その流れに乗れなかったニューイングランドは文化的に後退した。
祖父はアマーストの名士であり、アマースト大学創立に関わった。父は弁護士、議員。2歳上の兄も弁護士。こうした家庭環境が幸いし、エミリは当時の女性としてはかなり高度な教育を受けていた。
天性の明るさと機知で、彼女は学校の人気者だった。しかし、あるきっかけからホームシックに陥る。17歳で寄宿制の女学校(現在のマウントホリョーク・アマースト大学)を退学し、帰宅後は家事手伝いとして、残りのすべての人生を過ごす。のちの作品にみる彼女の高い表現能力には、しっかりと培われた、こうした教育の土台があった。

聡明で快活なディキンソンが学校を中退せざるをえなかったのは、信仰告白ができなかったことに起因したと考えられている。アメリカの社会変化に対抗する反動的な流れ(信仰復興運動)として、今一度、信仰心を確かめる目的で、すべての人々に信仰告白が要求されていた。しかし、彼女は自分の心をまっすぐに見つめれば見つめるほど、表面的な信仰告白から遠のく。既存の共同社会を守る目的のために心を偽ることはできなかった。その頑なな姿勢が、周囲との壁となって、彼女を閉じこめた。彼女は自分から閉じこもることを選んだ。ただ、そうなっても家の箱の中での彼女は、本来の彼女のままだった。教会の集まりにはだんだん行かなくなったが、神を信仰しないわけではなかった。心の中の神を尊び信仰していたが、その信仰心は、神と自分の、一対一の結びつきに支えられているのが理想なのであって、周囲の社会で当たり前になっているような、教会や牧師を仲介した神との繋がりとか、信者間のコミュニティの連帯による安穏とかは無用だったのだろう。
疑問が起こる。ただひたすら家の中に暮らすだけで、詩人たる者の備えるべき高揚感は維持し得るものなのか、と。しかし、彼女の詩は、家の中だけの生活が詩人として決して退屈なものではないと明かしてくれる。

ディキンソンは生涯の中で一度ならず、淡い恋に目覚めることもあった。いずれも父や兄の客人だった。そしていずれも最初から叶わぬものだった。しかしその陶酔も、いずれ遠からずその迷いから冷めるのも、彼女は客観的に受けとめた上で、詩人の滋養にした。自分の中にしっかりとした柱を持っていて崩れない。マストを持つ舟のごとく、ときに帆を張り、波間に遊んで、ときに帆を下げ、じっと耳をすましている。踊らされずに踊る自在さ。家の中に在りながら、心と身体全体で受けとる身の回りの世界と、その陰に潜む死の世界を、恐れることなく、強靭な好奇心で描き取る。その気丈な感受性と、チラ見せしてくれるユーモアが、ディキンソンの魅力だ。
庭、室内、気配、草花、虫、光、風、箒、想念の中の海や草原。
そして、「——」。
ディキンソンは詩のなかで——(ダッシュ)を多用する。一息つく、余韻、残響を聴く、時の経過。呼吸、声、聴覚。

一例として、

Grand go the Years—— in the Crescent——
above them—— World scoop their Arcs——
And Firmaments—— row——
Diadems—— drop—— and Doges—— surrender——
Soundless as dots—— on a Disc of Snow——


その上を——歳月は大きく流れる——三日月を描いて——世界は旋回し弧をえぐる——
そして天空は——漕ぎ進む——
王冠は——落ち——総督たちは——屈服する——
しみのように音もなく——雪の地平に——

「雪花石膏の部屋で安らかに」’Safe in their Alabaster Chambers——'より一部


この例では極端に多く使われているが、タイトル(冒頭書き出し)からわかるように、墓の中の死者を描いたもので、長い長い年月のわずかな片鱗、実世界では重い出来事すら一片の薄い事象に削られて、全てがスローモーションで音を失い消えていく様子を、ダッシュが効果的に表現している。歳月を微分するかのように。



残されたたくさんの詩と手紙によって、ディキンソンの生涯がどのようであったかを探ることはできる。ほとんど外には出なかったため、近隣の人々でさえ、庭に立つ白いドレスの女性を見ることはごく稀にしかなかった。父の客人が家を訪れても、彼女は自分の部屋にこもって、顔を出さない。それでも現代のいわゆるひきこもりと違うのは、客人がいなければ家の中では自由に動き回り、溌剌と家事をこなした。父と、そして独身の妹も同居。近隣に兄が別所帯を持って住んでいた。アメリカ大陸の遠くでは南北戦争中で、新聞などを見れば不安も感じたが、なにしろ広い国の中の遠い話だった。
比較的良い時代に生き、家族に守られて、決して不幸ではなかったと思う。それゆえに、彼女の思うところの死は、生きることの延長上にごく自然に迎えるものだったのではないか。
風になびく草や、ロウソクの火などをながめては時折、死を思ってみる。ときにユーモラスに。

I'm nobody—私はだれでもない

名のもとに生きて、などというタイトルでこのブログを書いているが、名などは未練にすぎないとディキンソンに笑われそうだ。確かに、人は名もなく死に対面するだろう。死を感じる空気が頬をなでて吹きすぎる一瞬も、人は名を失っているのだろう。

わたしは誰でもない人! あなたは誰?


エミリ・ディキンソンではないかと言われている写真(左)


ディキンソンの作品を数点抜粋、以下。


「わたしは葬式を感じた、頭の中に」1861

わたしは葬式を感じた、頭の中に、
そして会葬者があちこちと
踏み歩き—踏み歩き——とうとう
感覚が破れていくように思えた——

そしてみんなが席につくと、
お祈りが、太鼓のように——
響き——響き続けて——とうとう
わたしの精神は麻痺していくような気がした——

それから彼らが棺を持ち上げ
またもや、あの「鉛の靴」をはいて
わたしの魂をきしみながら横切るのが聞こえた、
そして天空が——鳴りはじめた、

まるで空全体が一つの鐘になり、
この世の存在が、一つの耳になったかのように、
そしてわたしと、沈黙は、よそ者の種族となって
ここで、孤立して、打ちくだかれた——

それから理性の板が、割れてしまい、
わたしは落ちた、下へ、下へと——
そして落ちるごとに、別の世界にぶつかり、
そして——それから——知ることをやめた——




「わたしは「美」のために死んだ——」1862

わたしは「美」のために死んだ——が
墓に落ちつく間もなく
「真」のために死んだ人が、横たえられた
隣の部屋に——

彼はそっと疑問をもらした、「どうして失敗したんだろう?」
「「美」のためよ」とわたしが答えた——
「いや、ぼくは——「真」のため——けれどこの二つは一つ——
「兄弟だよ、ぼくたちは」と彼はいった——

それで、ある晩会った、親類として——
わたしたちは部屋ごしに話し合った——
やがて苔が唇にせまり——
おおいつくすまで——わたしたちの名を——





「わたしは「死」のためち止まれなかったので——」1863

わたしは死のために止まれなかったので——
「死」がやさしくわたしのために止まってくれた——
馬車に乗っているのはただわたしたち——
それと「不滅の生」だけだった。

わたしたちはゆっくり進んだ——彼は急ぐことを知らないし
わたしはもう放棄していた
この世の仕事も余暇もまた、
彼の親切にこたえるために——

わたしたちは学校を過ぎた、子供たちが
休み時間で遊んでいた——輪になって——
目を見張っている穀物の畠を過ぎた——
沈んでゆく太陽を過ぎた——

いやむしろ——太陽がわたしたちを過ぎた——

露が降りて震えと冷えを引き寄せた——
わたしのガウンは、くもの糸織り——
わたしのショールは——薄絹にすぎぬので——

わたしたちは止まった
地面が盛り上がったような家の前に——
屋根はほとんど見えない——
蛇腹は——土の中——

それから——何世紀もたつ——でもしかし
あの日よりも短く感じる
馬は「永遠」に向かっているのだと
最初にわたしが思ったあの一日よりも——






「草はなすべきことがあんまりない」1862

草はなすべきことがあんまりない——
単純な緑のひろがり——
ただ蝶の卵を孵し
蜜蜂をもてなすだけ——

そしてそよ風が運んでくる
美しい調べに一日じゅう揺れ——
日光をひざに抱きかかえ
みんなにお辞儀をし——

そして一晩じゅう、真珠のような、露に糸を通し——
美しく着飾るものだから
公爵夫人も平凡すぎる
その装いの前では——

そして死ぬ時も——神聖な
匂いにつつまれて去る——

眠りについた、野生の香料——
あるいは枯れていく、甘松のように——

それから、堂々たる納屋に住み——
毎日を夢のうちに過ごすだけ、
草はなすべきことがあんまりない
わたしは乾草になれたらいいのに——






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