名のもとに生きて

人の一生はだれもが等しく一回かぎり。
先人の気高い精神に敬意を表して、その生涯を追う

ヴァンゼー会議 75年前のベルリン

2017-01-20 21:21:56 | 出来事
1942年1月20日正午より
ベルリン湖畔の瀟洒な邸宅のダイニングにて
議題『ユダヤ人問題の最終的解決』

Endlösung der Judenfrage







ベルリンのヴァンゼー(湖)ほとりに今もある美しく白い邸宅は、別荘として建てられたものであり、75年前はナチス親衛隊が所有していた。
ここで1942年の今日(1/20)、会議があった。

主催者はSD(Sicherheitsdienst:親衛隊情報部)長官ラインハルト・ハイドリヒ。
招待者は、

ハインリヒ・ミラー
(国家保安本部秘密警察局局長)
ゲルハルト・クロップファー
(党官房法務局長)
フリードリヒ・ヴィルヘルム・クリツィンガー
(首相官房局長)
オットー・ホフマン
(親衛隊人種・移住本部)
ゲオルク・ライプブラント
(東部占領地省局長)
アルフレート・マイヤー
(東部占領地省次官)
ヴィルヘルム・シュトゥッカート
(内務省次官)
マルティン・フランツ・ユリウス・ルター
(外務省次官補)
エーリヒ・ノイマン
(4ヵ年計画省次官)
ルドルフ・ランケ
(ラトヴィア地区SD Sipo指揮官代理)
ヨーゼフ・ビューラー
(ポーランド総督府)
カール・エバーハルト・シェーンガルト
(ポーランド総督府SD Sipo指揮官)
ローランド・フライスラー
(司法省)
アドルフ・アイヒマン
(秘密警察局第Ⅳ部ユダヤ人担当課長)

上記15名、ナチスの組織の高官がそろっている。
この会議がこの日に行われたことが明らかなのは、文書が珍しく残っていたからであり、その文書の真偽についても関係者の日記や手記などから大方信頼できるとされている。

招待状、会議資料の一部だったと思われるプロトコル、会議内容に関する当事者間の手紙と、もう一つは議事録で、これにはハイドリヒのサインも記されているが、議事録については1947年にアメリカ軍が外務省で発見したものであるため、これは捏造の可能性がなくはない。(しかし、ニュルンベルク裁判では証拠資料として利用された)

この点から歴史修正主義者は、議事録等は偽物とみなし、この会議は実際には行われていない、行われたとしても議題の『最終的解決』が殺害を指すとは言及されていない、絶滅収容所は連合軍による捏造、とまで修正の筆を入れる。日本での南京大虐殺の扱いと類似している。
『最終的解決』が抹殺、『特別処置』が殺害であることは逃亡後逮捕されたアイヒマンが認めた。

しかしナチスによるユダヤ人虐殺はこの時期に始まったことではなく、前年夏から着々と実行されてきた。ではこの会議の目的は何だったのか。
ヒトラーもヒムラーもゲーリングも不在の会議ゆえ、それほど重大な決定があったというわけではない。ただ、この優雅な湖畔の広間で、戦争とも虐殺ともつながりのなさそうな空気のなかで、しめやかに話題にされたのが残虐極まる『解決』だったことに、人間の深層に潜む悪の存在をまざまざと感じる。そして、目に見える世界との乖離の残酷さ。(もしくはそれは救い?)



ナチスのユダヤ人問題を振り返ってみよう。
ヨーロッパでは20世紀初頭から〈衛生観念〉が広く浸透し、次第にそれは思想にも影響して〈純化〉が国家や民族にも求められるような動きになった。
ドイツ帝国ではそれが強く民族に向けられるようになり、社会ダーウィン主義やアーリア学説によって、「アーリア人種」中の「北方人種」を「主たる人種」と位置づけ、周辺のユダヤ人、ロマ、スラヴ人を劣等とした。もちろんここには総統であるヒトラーの意志が根底にあったのだが、主にイデオロギーを誘導したのはSS(Schutzstaffel:親衛隊)長官ハインリヒ・ヒムラーであった。
当初、党綱領においてこれらの人種に対しては国外追放を施策としていた。「処理」つまり抹殺を目指してはいなかった。計画では、1941年6月の独ソ戦展開により東方に領土を得て、そこへ「移送」することにしていた。しかしソ連との戦いに苦戦、移送の方針では維持できないことが明らかになる。


戦争の初期から、国防軍の後方に付いて敵性分子を銃殺する部隊アインザッツグルッペン(Einsatzgruppen)は存在した。冷酷で『金髪の野獣』とあだ名されたSD長官ハイドリヒの下部組織で、オーストリア併合以降、パルチザンや共産主義者の銃殺を行なった。東部方面でのみ展開。
次第に民間人も対象になり、対ポーランドでは主に知識人の殲滅後、一般市民を奴隷化する計画で、教員、貴族、叙勲者、指導者層が集合させられ、森や野原に連行され、銃殺後にその場に埋めた。
1941年7月、占領下ソ連でのアインザッツグルッペンによる大量虐殺。この頃、銃殺の対象からロマのような少数民族は除かれ、ユダヤ人を重点的に抹殺する方針に転換された。戦況が思うように行かない焦りによって、ヒトラーのユダヤ人への敵意がむき出しになったのだろう。1941年10月からはヨーロッパに残る全ユダヤ人を対象にした。
この過程で、〈純化〉のために、追放から殲滅に方法を変えている。


ヴァンゼー・プロトコルと呼ばれている会議資料
ヨーロッパ全体のユダヤ人の数をリストアップしたもの。AとBの分類は当時の勢力圏によるものか?ヨーロッパの隅々までもれなく把握、計上されている徹底ぶり。
Estland judenfrei とある。エストニアはユダヤ人ゼロ、を示す。


そうなると、アインザッツグルッペンによる銃殺ではなかなか効率が悪い。また、国防軍はアインザッツのあり方を嫌い、戦闘に差し支えるとして同行を拒んでいた。
また、SS長官ハインリヒ・ヒムラーが銃殺のもようを視察した際、ショックのためか気分を悪くして倒れそうになったことがあった。銃殺では感情的に負担が重いと考え、それまでに行われていた安楽死計画(T4 Aktion)の担当者の協力を得て、ガス室付きトラックで試験的に、ソ連兵捕虜を毒薬チクロンBで大量虐殺した。ヒムラーはガス室視察においても気分を悪くし、物陰で吐いていたらしい。No.2のハイドリヒに冷たく嘲笑されている。ヒムラーは善悪の振り幅が大きいと感じる。今後、もっとも調べてみたい人物である。

左ヒムラー 右ハイドリヒ


ヒムラー

ハイドリヒ

こうした実験を経て、強制収容所ならぬ絶滅収容所が1941年11月からポーランドに次々に建設された。ベウゼツ、ソビボル、トレブリンカ、ヘウムノ、マイダネク、アウシュヴィッツ=ビルケナウ‥
1942年に入ってからはこれらの殺人工場フル稼働。列車がせっせと運んできては、使えそうな者をいくらか残して、あとの者はわけのわからないうちにさっさと始末される。





実は、ヴァンゼーでの会議は1941年11月29日に予定されていたのだが、この頃、日本の参戦、ドイツのアメリカへの宣戦布告など、大きな動きがあったため、延期になったのだった。
すでに前年からユダヤ人虐殺は進んでいたのに、年が明けてから改めて「最終的解決」を議論するのはおかしくないか、という見方もあるが、本来は、絶滅収容所が建設されて本格的に始動する時期に予定された会議だったこと、また、集められたメンバーから考えると、関係先の機関や省との連携を確認し、横の繋がりで協力関係を築き、速やかに事を運ぶ体制作りが目的だった。ざっくり言えば、親睦会とか壮行会程度だったかもしれない。招待状によれば正午から昼食付きの90分間、ちょっとしたブレインストーミングです、というお誘いだったようだ。
ただ、ナチスの傾向として全てを声高に厳格な意味づけを行うのが常である。


ポーランド総督府長官ハンス・フランクが1941年12月16日の集会で総督府高官らに以下のように語ったことでも、会議が予定されていたことがわかる。


‥1月にこの問題について議論するための重要な会合がベルリンで行われる。私はこの会合に次官のビューラー博士を送る予定だ。国家保安本部の高官とラインハルト・ハイドリヒの元で行われる会合だ。その結果で、ユダヤ人の大量の移住が始まる。だが、これらのユダヤ人に何が起こるのか?きみたちは、彼らが東方に移住し村を作って住んでいるところを想像できるだろうか?ベルリンで我々は話した。なぜ、これらの問題全てが我々に降りかかっているのか?東方や帝国の辺境で、我々が彼らにできることは何も無い。彼らは自分たち自身を消し去るしかないのだ!・・・ここには、我々が射殺することも、毒殺することもできない350万のユダヤ人がいる。しかし、我々ができることは、1つか2つの策、それは彼らを消し去ることである。帝国では方策に関連して議論中である。・・


消し去るという目的は明らかにしても、方策は明らかにしていない。絶滅収容所の存在は、終戦までほとんどの人が知らなかった。ポーランドで軍務していた者のうち、少数が見聞きした程度の情報が耳打ちで伝わってはいたが。
ところで、このハンス・フランクは自身の中の二面性に苦しむところがあり、人間の弱さを晒しながら生きたナチス党員であった。「ぶれる」「ぶれない」とよく話題になるが、ああした時代に戦争中の国家とともに迷走し続けたトップの一人として、気丈にモラルを保ち続けることのいかに困難なことか。彼らは軒並み、IQはハイスコアだった。
フランクはニュルンベルク裁判で死刑になった。フランクはヴァンゼーの会議には出席していないが、あの会議に出ていた者で死刑になったのはアイヒマン一人。ヒトラーの後継者とみなされていたハイドリヒは暗殺されている。ローランド・フライスラーは悪名高き裁判官であり、反ナチスに対し裁判中に恫喝、判決の9割は死刑だった。空襲の瓦礫に埋まり死亡。
出席者15人中1人死刑、2人自殺、3人は暴力を受けての死、他は長く生きた。


恐ろしい虐殺の計画は、静かな日常のなかで練られた。遠くには、第一次大戦とつながっていなくもないが、穏やかそうな日常のすぐ隣、そこから残酷な萌芽が始まっていることもある。
これはドイツの場合であって、ソ連の残酷さはきっと異なる空気の中から芽生えるようにも思う。世の中が目に見えて歪み始める前に、種は撒かれている。厄介きわまりない。しかしどんなに禍々しい事件にも、胎動期は必ずあったといえる。




ドイツ語の記事だがちょうどこういうのが出ていた。施設は現在は博物館になっている。写真で様子がわかる⬇︎

75 Jahre Wannsee-Konferenz : Die Erfindung der Tötungsmaschinerie - Berlin - Tagesspiegel Mobil




ヴァンゼー博物館のホームページ⬇︎
House of the Wannsee Conference11 - Home









追記

1月27日はホロコースト犠牲者を想起する国際デーです。
194年1月27日に、アウシュビッツ収容所がソ連軍によって初めて解放されました。
人種差別が暴走するとこのような事態に陥る‥
という歴史を、世界の誰もが知っているはずです。これは絶対に繰り返してはいけない、ということもわかっているはず。

国家のトップのむき出しのヘイトが国民に共有された。これが湖に投げられた一石。
アムネスティの主張も合わせて未来も考える。
過去に手を置き、自分の心に手をあてて。

Folgenden interessanten Artikel habe ich bei Tagesspiegel gefunden

Beware hate speech, says Auschwitz Holocaust survivor

"We will fight this dangerous move with everything we’ve got. This wall would say that those from outside the United








"戦勝国のフリーハンド" と"カルタゴの平和"

2017-01-15 10:58:17 | 読書
チャーチルとルーズヴェルトの復讐主義
戦敗国ドイツを"カルタゴ"にしようとした
モーゲンソープランを承認


英米の空爆を受けて壊滅したベルリン


再びドイツの戦後復興について。
前記事では、終戦から40年までのドイツの歩みをドイツ人の省察で振り返るものであったが、今回はドイツが敗戦に至る過程での、連合国側首脳の迷走を追う。


1945年5月2日、ドイツの首都ベルリンがソ連軍によって完全に征服された。ヒトラーは4月30日に自殺していた。ベルリンの攻防だけでソ連兵は10万2000人が戦死している。
この日スターリンは、
「我々の祖国の自由と独立の戦いにおいて戦死した英雄に永遠の栄誉を!
そしてドイツの侵略者に対しては死を!」

と書き記した。

5月8日のドイツ降伏のとき、
イギリス首相チャーチルは、
「ドイツの降伏は人類の歴史においてもっとも大きな喜びをもたらした」

同じ日、アメリカ大統領トルーマンは、
「西側世界では邪悪な権力から解放された」
と、それぞれ語っている。

大陸の東と太平洋ではまだ日米が戦っており、ソ連参戦も機をみている状況ではあったが、ヨーロッパでは大戦から解放されたのだった。
そのため、チャーチルとトルーマンの感慨の深さには温度差が感じられる。


写真はおなじみのものではなく若い頃のもので選びました
ウィンストン・チャーチル





フランクリン・ルーズヴェルト





ハリー・トルーマン




ヨシフ・スターリン



この日に向けて、連合国側ではドイツ敗戦処理に関する会談を続けてきた。
1943年11月カイロ会談、同月テヘラン会談、1944年9月ケベック会談、1945年2月ヤルタ会談、さらに1945年7月ポツダム会談を経て、敗戦国ドイツの将来を、戦勝国の権限で設計していく。
この間、敵国側の無条件降伏に3国は拘った。戦勝者がフリーハンドを得るという名目上の目的があった。しかし無条件降伏を突きつけたばかりに、ドイツに必死の抗戦を煽ることとなり、結果、戦争は長引き、無駄な犠牲を増やしたとして非難されることもある。
無条件降伏はその後日本に対しても同様に突きつけられ、国体護持に強くこだわる日本を劫火に突き落とした。原爆という秘密兵器もある。ソ連参戦という切り札もある。日本に対しては妥協は必要なかったのだろう。1945年3月4月頃に日本は降伏の機会を窺い、密かに条件を模索し始めていた。しかし、3月の東京大空襲の犠牲も顧みられること能わず、ずるずると犠牲を増やし、二発も原爆を食らうまでの5ヶ月、決断はなされなかった。
戦争は玉砕するまでするものではない、ということを、どの国でも、この日独の破滅に学んだことだろう。

ケベック会談
左後 カナダ首相、前右 カナダ総督ケンブリッジ公 『王室の血友病』の過去記事あり


テヘラン会談

ヤルタ会談 ルーズヴェルトはもともと脚が悪く、車椅子だった上に、この頃は体調も悪かった
会談はニコライ2世のリバディア宮殿で行われた


ポツダム会談 飛行機嫌い、国外訪問嫌いのスターリンのために様々な配慮が必要だった

戦勝国は"フリーハンド"でどんな世界を描こうとしていたのか。そこにどんな思いが隠されていたのか。ヤルタやポツダムではひたすら、米英対ソの、占領地と賠償金の分捕り合戦になっていた。
実は、それまでの過程においてモラルを見失った危険な構想も浮上していた。世界のトップの様々な人達によって握られる筆で、一つの国の未来をつくることの危険と難しさ、不確かさは、敗戦国一国の未来だけでなく、世界の将来にも影を落とす。首脳が未来を間違えれば、世界は容易に壊れる。


さて、世界はこれからトランプ大統領を迎え入れることになる。アメリカの大統領として、世界のあちこちの衝突に直面してどのような采配が彼にできるのか。勿論、国内メディアや著名人らと小衝突している場合ではなくなるだろう。あの厚顔無礼には辟易だが、構想と手法がせめてまともであればと願う。

始めるのは簡単だが終わらせるのは難しいと言われる『戦争』。第二次世界大戦、その終わりをつける難行に、不確かで危険なフリーハンドを刻みつけた過去の2人の米大統領ルーズヴェルトとトルーマンに特に注意してみたい。

今回検証したいのは、モーゲンソープランと呼ばれる、危険な内容の指南書についてである。
その前に。


1. 狂気を狂気が裁く

生存者7000人
死体600体
37万着の男性の衣服
83万7千着の女性用コート服
無数の子供服
4万4千足の靴
1万4千枚のじゅうたん
14万人分の女性の頭髪

これらは、1945年1月25日にソ連軍によって最初に解放されたアウシュヴィッツの絶滅収容所で見つかったものだ。ここにナチスドイツの狂気が見える。残虐な民族浄化の、ごく一片の証拠にすぎないのだが。

ではこちらはどうか。

「殺せ、消してしまえ!
ドイツ人について穢れのないものなどまったくない。今生きているドイツ人についても、これから生まれてくるドイツ人についてもそうだ!
同志スターリンの指示に従え、そして洞窟の中に住むファシズムという動物を永久に足で踏み潰してしまえ。暴力でドイツ女性の人種的な高慢さを打ち砕け。彼女たちは格好の餌だ。勇猛で突進していく赤軍よ、殺せ!」


これはクレムリンのスター・コラムニスト、イリヤ・エレンブルクの扇動であると言われている。
すでにソ連はドイツ軍に攻め込まれて、まさにこの逆の通りの仕打ちを受けていた。そして、戦局は変わり、蹂躙の矢印は反対向きになり、ドイツ女性の受難の番が来た。
この行為は復讐であって、民族浄化ではないと言えるかもしれない。しかし、これから生まれてくるドイツ人まで殺す対象に含むのは、明らかに民族虐待への暴走と捉えられる。

あの女たちはドイツ人だったのだ。
まず強姦して、その後射殺することは許されていたのだ


ソルジェニーツィンの『収容所群島』に記されているこの文からは、復讐の一線を越えた恐ろしさがある。ドイツ人すなわち殺してよい、というのはユダヤ人を絶滅収容所送りにしたナチスの思考と同じだ。

『1945年のドイツ 瓦礫の中の希望』テオ・ゾンマー著(山本一之訳、原題"1945 Die Biographie eines Jahres")のなかで、こうした状況が客観的にまとめてられている。

アウシュヴィッツにおいて、国家社会主義とそれを喜んで実践する人々の精神は完全に荒廃していた。このことは強制収容所の惨状を見て驚愕し、怒り狂った世界の人々の前で明らかにされていった。これと同じように、東プロイセンが占領されたことによって生じた数々の惨劇は、残虐さや粗暴さ、あるいは人間の日動作が個人に対して暴威を振るっていたのはドイツだけではない、ということを明らかにしている。体制が非道であったこと、これについてはヒトラー体制であっても、またスターリン体制下においても変わりはない。
人道にもとるということは、国民性の問題ではない。イデオロギーによって視界を見失ったり、異常なまでの人種的な高慢さや宗教的狂信によって、残虐性が生まれるのである。文明という薄っぺらな虚飾が一度取り払われると、憎しみや復讐も残虐性を持つ動機となるのである。



戦争において残虐を極めたのはドイツだけではなく、ソ連もアメリカも同じだ。「腹の上のソ連兵より頭上の米兵の方が憎い」とベルリンの女性に言わしめるほど、空爆は冷酷な虐殺だ。
尚、上記の本は原題にドイツを限定していないとおり、日本の1945年の様相についてもかなりの紙幅で取り上げられている。
硫黄島の栗林中将は映画でも有名だが、妻へは、
「私は米国との戦争で自分の命を落とすことが残念でならない。しかし可能な限りの努力を尽くしてこの島を守る覚悟である」
と書き残している。
可能な限りの努力として、万歳突撃はさせず、考えうる限り最大の防御陣地を利用し、敵に大損害を与えた。
硫黄島攻略にあたって米軍では、軍艦から毒ガスの砲弾を撃ち込む予定であったのだが、ルーズヴェルト大統領は前線に出ることを望んだ。こんなに残酷な攻防になることは想像していなかったのだろう。この時の大損害は、米国に本土上陸をためらわせることになり、原子爆弾の完成が強くのぞまれるようになったのである。
しかし、ルーズヴェルトは戦争末期には持病で死に体だった。原子爆弾完成を確認できたのは、次のトルーマン大統領の時、ポツダム会談の最中のことだった。
あと半年早く完成していれば、原子爆弾はドイツのどこかに投下されたに違いない。

長崎にはファットマン(上)、広島にはリトルボーイが投下された

広島へ原爆を投下した後テニアン島に帰還したB29 愛称エノラゲイ

帰還後のエノラゲイの搭乗員
前出の本にはリトルボーイ投下までの過程が詳しく記されている


「ドイツをカルタゴにする」
ドイツにカルタゴの平和をもたらすのが世界の平和のためになる、という考え方があり、一方でそれは過酷だという反論もあった。
「カルタゴの平和」という言葉にはもちろん、ネガティブな意味が含まれている。国土大地をまさに根絶やしにして、未来にわたって再興することのないよう封じるかたちでの「平和」の提供だった。つまり未来を失わせる絶対的絶望的な平和だ。それに匹敵するのが、ルーズヴェルト大統領の腹心で財務長官のモーゲンソーの提唱したモーゲンソープランと呼ばれる物だ。
モーゲンソーはユダヤ人であり、ナチスに対してとりわけ憎しみは強かったのだろう。ただし、それは理解できても、財務長官の立場から提示する物として、理性を欠いた懲罰的に過ぎる内容だった。にもかかわらずルーズヴェルト大統領は同意、さらにはチャーチルも最終的に同意した。とち狂った連合国ツートップに、さすがにワシントンもロンドンも猛反発した。
メディアはもちろん、ハル国務長官やスティムソン陸軍長官、イーデン外相、クレイ将軍らはそれぞれ厳しく抗議した。

このときまだ、英米国内には統制されていないまっとうなメディアが存在し、かつトップに対して意見具申できる者が居り、渋々でも聞き入れる耳を持つトップでもあったことは貴重であった。
結果、この柔軟性が世界の硬直をかろうじて救った。



2. モーゲンソープラン
非常に稀有なケースとして財務長官であるモーゲンソーが英米ケベック会談へ出席。
本来、もし内閣から同伴するとするならば国務長官あたりになるところ、異例だった。
1944年9月。
提示された内容は、

ドイツの非武装化
ドイツ国防軍から武器を取り上げる
軍事力の基礎産業の破壊

ドイツ分割による弱体化
ドイツとオーストリアは分離させる
南北に分割、一部仏ソに割譲

産業解体
工業の中心ルール地方は国際管理地域とする上、全工場は6ヶ月以内に完全解体移送または破壊
技能者は転出分散させる

原状回復と賠償
ドイツ国内の産業資源と領土は賠償に充当させ、戦勝国または国際機関が管理する
国外での強制労働
国外資産は全て没収

非ナチ化軍事裁判
ナチス党員、支持者、軍国主義者、戦犯の逮捕及び銃殺

更にこれがモーゲンソーの言である。
「ドイツ人がどのようになろうと、私には知ったことではない。私は鉱山と工場のすべてを破壊するだろう。まずそれらが破壊されることに私は賛成である。住民についてはそれが終わってから考えても十分である」

ベルリン

英米ソ首脳は、戦後のドイツ人に自転車を作ることを許せば戦闘機を作る、金属製の家具を作るのを許せば戦車を作る、と危機感を募らせていたそうだが、まさかこれを真顔で話していたのだろうか。
このプランの内容はナチス宣伝相ゲッベルスにも掴まれ、ドイツ兵の士気を高めるのに大いに利用された。
「連合国はドイツを巨大なじゃがいも畑にするつもりらしい」
こんなプランを公にして、ゲッベルスの思うツボだ、と連合国将軍らは地団駄を踏んだ。

モーゲンソーは戦後ドイツの生活水準を1932年の大恐慌並みに落とすのを目標にしたようだが、何の根拠もないこの懲罰的な設定は猛反発を食らう。
ドイツの経済力を意図的に低く抑え込むことは、ヨーロッパ復興の妨げにしかならず、占領軍経費の増大のリスク、ドイツの共産主義化のおそれも生む。
たとえば、工業に従事させず本当に全ての国土を農業利用にさせれば、ドイツ人の6割しか養うことができない。占領国がそれを補う羽目になる。ましてや、ドイツが復興しなければヨーロッパ全体も共倒れになるのは必至だった。

ハル国務長官は、
「常軌を逸している。もしドイツ人が農業以外に何もしないとすれば、60%しか食っていけない。残りの40%は死ぬしかない」

スティムソン陸軍長官は、
「ドイツを治療することは癌の手術に似ている。悪性の組織は切り取る。しかし重要な器官は残さなければならない」
「まるでローマのカルタゴに対するような、こうした態度に恐怖しない人に会ったことがない。復讐心が暴走しており、次の世代にまた戦争が起こる種をまくだろう」


イーデン英国外相は、
「諸国民に対して自決権を保障した大西洋憲章に反する」

犯罪人を断罪する、ドイツ人から武器を奪い参謀本部を解体する、ナチスによって教育を受けた世代が交代するまで政府の行動を監督する、などの点ではスティムソン陸軍長官も賛成していたのだが、しかし、国を平和に再建し、最終的には国際社会に復帰させるという手段をドイツ人から奪うことは許されない、という考えだった。

かつて第一次世界大戦終結時のベルサイユ条約では、ドイツに対してあまりにも理不尽な、多額の賠償を負わせた。講和会議を仕切ったクレマンソー首相は「ドイツ人2000万人、多すぎる」と豪語するなど、対独強硬姿勢をあからさまに示したが、この極端な負債がドイツにファシズムを生んだということは既に誰の頭にもあった。そのうえでの、このモーゲンソープランである。

モーゲンソープラン以上に背筋が凍る提案もあった。ユダヤ人であるカウフマン博士は、戦争終結後には、18歳から60歳のドイツ人男性と、45歳以下のドイツ人女性を性的に不能にする処置をとることを求めるとしたパンフレットを配布した。
これはもう人権侵害どころか、全くナチスの民族絶滅の発想と同じだ。ところがルーズヴェルトはこれも採用しようと本気で考えていたようだ。
「我々はドイツ人に対して厳しく接しなければならない。これはドイツ民族に対してそうあるべきであり、ナチスだけではない。我々はドイツ人を去勢するか、簡単に子供を産まないような措置をとる必要がある」
これもルーズヴェルトの言である。


その後、大統領選出馬を考慮して、反対の多かったモーゲンソープランは表面的には引っ込められた。それでもルーズヴェルトの思いは根本的には変えられていないことか端々に窺える、こんな言葉もあった。1944年10月。
「ドイツは悲劇的な国民である。ドイツには軍事力のかけらも残しておくことが許されていない。潜在的に軍事力となる可能性のあるものでさえ許されない。しかしドイツ民族は奴隷化されるべきではない。結局、ドイツ民族は平和を愛し、法令を順守する国民として国際社会に復帰する路に戻るまでには多大な困難を経験するに違いない。軍事の削減とともに頭脳の削減も同時に進行しなければならない。完全にメンタルな改造が必要である。そしてそれが達成されるには40年を必要とするかもしれない」

ルーズヴェルトが死去すると、トルーマン大統領は財務省提案(モーゲンソープラン)を撤回した。
ポツダム会談前に、モーゲンソーは辞表を提出。
しかしこのトルーマンの考えにも、実施される計画の若干の改善の裏でドイツの頭を押さえておこうとする意図が少なからず表れている。

「ドイツは解放を目的として占領されない。戦争に敗れた敵国として占領される。その目的はドイツを抑圧することではなく、一定の重要な連合国の意図を実現するためのドイツ占領である。占領と行政を実施する場合には、連合国は公平かつ厳格、かつ孤高でなければならない。ドイツの行政官や住民と親交を結ぶことは厳しく禁止される」

親交を禁止、というのはなかなか差別的だ。戦勝国だからなのか、ありありと"上から目線"でもある。
結局、ドイツ占領基本指令として、

生活水準を大幅に低下させる
ガソリンや合成ゴムの製造の禁止
商船隊の組織や民間航空機の禁止
経済の制限(工業はおよそ25%まで)

などの厳しいものになり、モーゲンソープランの不寛容さがそのままに残っているものとなった。

連合国管理理事会米国常駐代表クレイ将軍は、その内容の馬鹿馬鹿しさをこう語った。
「これは経済に無知な人間の仕事である。ヨーロッパでもっとも訓練された労働者に対して、大陸のためにできるだけのものを生産することを禁止することはまったく意味がない。大陸は実際それを必要としている」


ベルリン

3. ドイツその後の戦後
ソ連との溝が次第に深くなっていったこともあって、西側としてはドイツを取り込み、ソ連を悪玉としてまつり上げようと、ドイツに対する経済政策に改善を施した。それが国務長官バーンズによる、1946年の「希望の演説」(ドイツ政策の見直し)だった。これはむしろ政治的な理由が強く、ポーランドにとっては憤激の内容だった。

ドイツでは、ハイパーインフレを乗り越え、のちに欧州最強の通貨となるマルクが生まれた。復興は近隣の戦勝国よりも早かった。工場が解体されたことで古い設備を一層でき、最新の設備をスムーズに導入できたことはむしろラッキーだった。
泥棒のようにドイツの工場機械を解体して持ち帰ったソ連やフランスでは、結局それを活かすことができず、どれもが錆びて野晒しのままになっていた。

「希望の演説」のジェームズ・バーンズ国務長官について少し。
バーンズは日本にとっては全くありがたくない人物だった。トルーマン大統領下の国務長官で対日強硬派、その以前、ルーズヴェルト大統領下ではマンハッタン計画を推進した。当然、原爆使用推進であり、日本に投下することで早期に終戦を、というのではなく、ソ連への示威行動として積極的に投下をトルーマンに強くすすめた。
また、知日派のジョセフ・グルー外交官、ヘンリー・スティムソン陸軍長官、ジェームズ・フォレスタル海軍長官による三人委員会によって、天皇制を残して間接民主制を選択させることで原爆を使用せずに日本との早期の講話を目指す動きがあったのだが、バーンズ国務長官によって捻り潰されている。
その後バーンズは、原爆を東側外交の切り札として軽率に使用しようとする傾向があったことから、危険視したトルーマン大統領によって1947年に罷免された。

沖縄戦での神風攻撃

零戦


4. 戦後の難しさ
終わらせることの難しさ、さらに難しいのは終わった後の戦後処理であることがわかった。
戦勝国のフリーハンドなるもののいかに高慢であやしいことか。
東京裁判、ニュルンベルク裁判も、その裁判のあり方自体に公正さが欠けているし、内容も不確かでただひたすら性急な裁判だった。それでも茶番だとは言えない。
歴史は少し後になってから眺めないとわかりにくい面もある。一方で現在進行中の歴史が自分の周りで常に動いている。時計が秒を刻むあの音。わたしの耳に届けられ続けるこの音を、ルーズヴェルトもチャーチルも、戦場の戦闘員も、エノラゲイのパイロットも聴いていた。その延長の時計の音である。






B29
投下するこの爆弾の数に驚く
落下していくこの下には多くの人が居やしないか
地上に落ちるまでの数秒が
その人の命のカウントダウンになってしまう運命の人が、いったい何人?
今から命を殺しにいく爆弾の影
人智を超えた神の手によるものとしか
むしろ考えられないくらいだ




『荒野の40年』と「50年」ヴァイツゼッカー演説

2017-01-01 23:59:34 | 人物

「過去に目を閉ざす者は‥」
リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー
戦後40年5月8日演説と戦後50年日本での演説




Richard Karl Freiherr von Weizsäcker
Bundespräsident
1920〜2015


第6代ドイツ連邦大統領リヒャルト・カール・フライヘァ・フォン・ヴァイツゼッカーによる、ドイツ敗戦後40年にあたる1985年5月8日に行われた連邦議会での記念演説は、戦後70年を経た現在においても、この一節で広く知られている。

『過去に目を閉ざす者は現在にも盲目となる』

今回は、邦訳版『荒れ野の40年』(永井清彦訳)をもとに演説の内容を概括すること、ヴァイツゼッカー大統領の生涯、演説当時の背景などを書きたい。
また、連邦議会での演説から10年後に日本に招かれた時の演説で、日独の戦後の歩みが比較されており、日本の外交姿勢に示唆が与えられている。
動いている歴史の中でもう一度立ち止まって考え直すために、ヴァイツゼッカーの残した言葉に耳を傾けたい。

『荒れ野の40年』
ドイツでは5月8日演説と呼ばれているヴァイツゼッカー大統領によるこの演説は、1945年ドイツの無条件降伏から40年の記念式典で行われたものである。当然この日は、近隣の旧連合国では戦勝記念日として祝典が行われていた。しかし、この日はドイツにとってこそ大切な日であるとヴァイツゼッカーは言う。

1985年5月8日演説

「われわれドイツ人はこの日にわれわれの間だけで記念の催しをいたしておりますが、これはどうしても必要なことであります。われわれは(判断の)規準を自らの力で見出さねばなりません。自分で、あるいは他人の力をかりて気持を慰めてみても、それだけのことでしかありません。ことを言いつくろったり、一面的になったりするのではなく、及ぶかぎり真実を直視する力がわれわれには必要であり、げんに力を備えております。

われわれにとっての5月8日とは、何よりもまず人びとがなめた辛酸を心に刻む日であり、同時にわれわれの歴史の歩みに思いをこらす日でもあります」


人びとがなめた辛酸というのは、ドイツの被害だけでなく加害も含む。事実として何が起きたのかを知り、
心に刻むこと。心に「刻む」ということ。
(心に刻む: erinnernは英語のremind、rememberに相当。inner:中へ、に接頭語er:目的・到達・達成を付けて、思い出す、覚える、思い起こさせる
ただし、"Remember Pearl Harbor"のrememberとは意識が異なる )


そして、歴史の歩みに思いをこらすというのは、起きたことの原因と、その結果として編み出された歴史および社会変革の因果を正しく解析せよ、ということであろう。

それらは、歴史家によって行われる議論によるのではなく、全ての個人が「誠実かつ純粋に」取り組むべきことだと強調される。そして、「帰結にこだわりなく責任をとる」ことが求められる。

ヴァイツゼッカーによれば、5月8日はナチズムの暴力支配からの解放の日だとみなしつつも、

「解放であったといっても、5月8日になってから多くの人びとの深刻な苦しみが始まり、その後もつづいていったことは忘れようもありません。しかしながら、故郷を追われ、隷属に陥った原因は、戦いが終わったところにあるのではありません。戦いが始まったところに、戦いへと通じていったあの暴力支配が開始されたところにこそ、その原因はあるのです」

という。それはつまりヒトラーが政権についた1933年1月30日。
そこに思いをこらせ、という。

戦いが終わった5月8日以降に深刻な苦しみが始まった、というのは、日本の終戦後とは異なる。戦後すぐ、ドイツ東部の人びとへの強制移住(ドイツ人追放)により50万から200万の死者が出た。
満州引き揚げやシベリア抑留の被害者数と比べても、桁違いの規模といえる。
無条件降伏という大きな不安だけではなく、多大なる実害に晒されたドイツ。そして分断。
暗い奈落の過去、不確実な未来。
それは、日本の戦後の比ではない。しかし、終戦の5月8日は、ナチスの暴力支配と人間蔑視から解放された日、誤った流れの終点だった。

Stunde null(零時:シュトゥンデ ヌル)から、ドイツはどんな道を歩むべきであったか。
ヴァイツゼッカーによれば、
まずは真実を心に刻むこと。

「目を閉ざさず、耳を塞がずにいた人びと、調べる気のある人たちなら、(ユダヤ人を強制的に)移送する列車に気づかないはずはありませんでした。人びとの想像力は、ユダヤ人絶滅の方法と規模には思い及ばなかったかもしれません。しかし、犯罪そのものに加え、余りにも多くの人たちが実際に起こっていたことを知らないでおこうと努めていたのが現実であります。当時まだ若く、ことの計画・実行に加わっていなかった私の世代も例外ではありません。

良心を麻痺させ、それは自分の権限外だとし、目を背け、沈黙するには多くの型がありました。戦いが終わり、筆舌に尽くしがたい大虐殺の全貌が明らかにしてなったとき、一切何も知らなかった、気配も感じなかった、と言い張った人はあまりにも多かったのであります。

一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません。罪といい無実といい、集団的ではなく個人的なものであります。

人間の罪には、露見したものもあれば隠しおおせたのもあります。告白した罪もあれば否認し通した罪もあります。充分に自覚してあの時代を生きてきた方がた、その人たちは今日、一人びとり自分がどう関わり合っていたかを静かに自問していただきたいのであります。

今日の人口の大部分はあの当時子供だったか、まだ生まれてもいませんでした。この人たちは自らが手を下してはいない行為について自らの罪を告白することはできません。

ドイツ人であるというだけの理由で、粗布の質素な服をまとって悔い改めるのを期待することは、感情をもった人間にできることではありません。
しかしながら先人は彼らに容易ならざる遺産を残したのであります。
罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。だれもが過去からの帰結に関わり合っており、過去に対する責任を負わされております。
心に刻みつづけることがなぜかくも重要なのかを理解するため、老幼互いに助け合わねばなりません。また助け会えるのであります。

問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです」

「心に刻むことなしに和解はない」

ヴァイツゼッカーはユダヤの格言のなかにメッセージを見つけている。

「忘れることを欲するならば捕囚は長びく
救いの秘密は心に刻むことにこそ」


「われわれ自身の内面に、智と情の記念碑が必要であります」
智と情、この二つが必ず併存することが必要だと確かに理解できよう。
二つを併せ持つことは、人生のどんな場面でも必要だろう。(そして次には勇気だろうか?)

ユダヤ人に対する罪だけではない。
戦争を通して、西側諸国への蹂躙や、隣国ポーランドやソ連ほか、東側諸国へはより深刻な損害を与えたし、勿論戦争ゆえ敵から損害を喰らいもした。
そして戦後、戦勝国も戦敗国もそれぞれに復興に立ち上がるなかで、精神面の最初の課題が与えられる。
「他の人びとの重荷に目を開き、常に相ともにこの重荷を担い、忘れることをしないという、人間としての力」が試されている。

故郷を追われる悲しみと喪失感は、なかなか想像しえないほど深く苦しいもののようである。それは島国の日本には全く経験のないものである。政治的な混乱の中、故郷を失った人々に対し、「法律上の主張で争うよりも、理解し合わねばならぬという戒めを優先させる」こと、それが、ヨーロッパの平和的秩序のためになしうる、人間としての貢献であるとヴァイツゼッカーは語る。
故郷への愛が平和への愛。
それはパトリオティズムであって、ナショナリズムではない。パトリオティズムとは、自身と祖先につながる土地や共同体への帰属意識や絆といったものだろうか。自国への偏愛から、他国より髪一本でも優れていたいと考えるナショナリズムとは異なるものである。

ヴァイツゼッカーは、演説の中で、戦後40年の当時において、具体的に向かうべき方向をいくつか具体的に示している。

「第三帝国において精神病患者が殺害されたことを心に刻むなら、‥

人種、宗教、政治上の理由から迫害され、目前の死に脅えていた人々に対し、しばしば他の国の国境が閉ざされていたことを心に刻むなら、‥

独裁下において自由な精神が迫害されたことを熟慮するなら、‥

中東情勢についての判断を下すさいには、‥

東側の隣人たちの戦時中の艱難を思うとき、‥」


このうち、現在、ドイツも含めEUが直面している難民問題に絡む2番目の提起についてのヴァイツゼッカーの考えは、「今日不当に迫害され、われわれに保護を求める人びとに対し門戸を閉ざすことはないでありましょう」とある。道徳的には確かに今のドイツには引き継がれているのだが、現実的な対応は相当困難だという印象は残念ながら否めない。ヴァイツゼッカーと同じCDU(ドイツキリスト教民主同盟)に属するメルケル首相は今、この問題に直面し、道徳と政治の計りの前で苦悩している。

この他に、演説のなかではドイツの分断についてが述べられている。一民族二国家という不自然な国家形態の悲しみや軋轢は、日本にも起こりうる分断だった。
演説から五年後、だれも予想できなかったドイツ統一が成る。演説では、ヴァイツゼッカーによって絞り出す涙のように語られた分断の悲しみと統一への果てなき切なる願いは、どれほど重いものだったのかが、語られる言葉のひとつひとつによって、分断を免れた我々の心すらも打つ。


さらに演説において、40年というのが、人間の生のスパンにおいて非常に大きな意味を持つと述べられている。
旧約聖書に照らして、遠い過去の聖書の言葉から警告を聴くのである。

「暗い時代が終り、新しく明るい未来への見通しが開かれるのか、あるいは忘れることの危険、その結果2対する警告であるのかは別として、40年の歳月は人間の意識に重大な影響を及ぼしております。‥
われわれのもとでは新しい世代が政治の責任をとれるだけに成長してまいりました。かつて起ったことへの責任は若い人たちにはありません。しかし、歴史のなかでそうした出来事から生じてきたことに対しては責任があります。‥
人間は何をしかねないのか、これをわれわれは自らの歴史から学びます。でありますから、われわれは今や別種の、よりよい人間になったなどと思い上がってはなりません。
道徳に反し究極の完成はありません
いかなる人間にとっても、また、いかなる土地においてもそうであります。われわれは人間として学んでまいりました。これからも人間として危険にさらされつづけるでありましょう。しかし、われわれはこうした危険を繰り返し乗り越えていくだけの力がそなわっております」

若い人たちへは、他のあらゆる人びとに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにと、年長者へは、率直さによって心に刻み続けることの重要性を若い人びとが理解できるように手助けする義務がある、と説く。「ユートピア的な救済論に逃避したり、道徳的に傲岸不遜になったりすることなく、歴史の真実を冷静かつ公平に見つめることができるよう」、若い人びとへの助力を求めている。

「及ぶかぎり真実を直視しようではありませんか」

こう結んで終わる演説は、今を日本に生きる私達にも、たくさんの示唆あるいは警告をもたらしはしないだろうか。


リヒャルト・ヴァイツゼッカーの生涯
リヒャルト・ヴァイツゼッカーは1920年、外交官エルンスト・フォン・ヴァイツゼッカー(男爵)の三男一女の末子としてシトゥットガルト新宮殿で生まれる。父の仕事により、スイス、デンマーク、ノルウェーで育ち、ベルリンに戻る。
祖父カールは法律家で、ヴュルテンベルク公国首相を務めている。父は海軍少佐から転じて外交官に、ヒトラー政権下で外務次官、ヴァチカン駐在大使。父の弟は神経学者。
リヒャルトの長兄カール・フリードリヒは高名な物理学者・哲学者であり、第二次大戦中はドイツの原子爆弾開発をしていた。
リヒャルトは1938年(18歳)に奉仕義務によりドイツ国防軍に入営、翌年の1939年9月1日のポーランド侵攻作戦に動員された。侵攻の翌日、同じ部隊の上官であった3歳上の次兄ハインリヒが、リヒャルトの数百メートルの目前で戦死した。
ポーランド侵攻作戦後は、西方転戦、1941年からはバルバロッサ作戦など東部戦線に参加。
リヒャルトは従軍のあいだ、国防軍の犯罪にも不条理にも直面し失望する一方で、国防軍のなかの見知った者達による1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件も身近で見、軍の一部には共感する部分もあったという。

手前にリヒャルト その後ろにハインリヒ 右端カール


1945年、戦後は大学で歴史学と法学を学ぶ。
しかし、父が、外務省に絡んだ一連の裁判(米軍による継続裁判で、連合国による裁判ではない)にかけられることとなり、リヒャルトは休学して弁護団の助手を務める。その際に手にし、目にしたドイツの犯罪に関する多数の報告書は、リヒャルトに大きな衝撃をもたらした。英国のチャーチルの援護を得たにもかかわらず、父は有罪となり5年拘留を下されたが、1年半で釈放された。裁判の後、父エルンストはその残りの生涯で二度と笑顔を見せなかったという。

父エルンストと若き日のリヒャルト

父エルンスト・フォン・ヴァイツゼッカー

兄カール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカー


エルンストは外務次官という立場にあり、人権犯罪を知りながらもそれを抗議しなかった。しかし、たとえそこで抗議を起こし、「殉教」したところで、誰一人救うことはできないのは明らかだった。
われわれはこういうとき、どうすればいいのだろうか。そしてそれを誰がどう裁けるのだろうか。
リヒャルトはどう考えたのだろう。
彼はのちの演説のなかで、法と裁判だけでは不十分であり、市民的勇気が必要だと説いている。
沈黙を破る勇気を一人一人の市民が持つべきだと、強い意志の言葉をわれわれは突きつけられている。


リヒャルトは裁判が終わって復学、1955年に法学博士号を取得。
その後は、西ベルリン市長を経て、国政の陰で道徳的な牽引者として信頼を集め、1984年、ヘルムート・コール首相当時に第6代大統領に就任した。
この当時、実はドイツ国内での敗戦国としての立ち位置の考え方には揺らぎがあった。経済的に発展し、世界に存在感を示してきたドイツ連邦が、その戦争責任をどう考えるのかに、コール首相はこう舵を切った。

「後から生まれた者の恩恵」と称し、敗戦時に15歳だった自分やその後の世代に戦争責任はない、と。


1984年 ドイツ連邦のコール首相とフランスのミッテラン大統領

それは、重苦しい過去から目を背けたがっていた大衆の感情に沿うところがあった。こうしたところから生まれた様々な議論の中で、他国にも目が向けられ、東欧からのドイツ人追放とて「人道に反する罪」に値する、ドイツ人も被害者である、という意見も上がった。

そんな中でむかえた1985年だった。
戦後40年の大統領演説は、その羅針盤になる重要な機となるのは、予期されていた。

その中で、コール首相より10歳年長かつ実戦経験も持つヴァイツゼッカー大統領によって、あのような演説が国民に届けられたのであった。

「歴史の真実を直視せよ」

さらに、戦争を知らない若い世代にも過去にたいする罪はなくても責任はあると説いた。

演説内容を事前に知った議員のうち、保守派のおよそ30人は賛同できないとして欠席した。議場の反応も薄かった。社会もすぐに絶賛したわけではなかった。しかし、言葉の力は深く響き続け、ドイツ国民ばかりでなく、世界に広く静かに反響を及ぼした。




日本においてもこの演説から省みるべき視点はいくつも浮かぶ。しかし、ヴァイツゼッカーはあの演説からさらに10年を経た1995年、戦後50年の折に来日し、各地で講演を行っている。そこでは、日本の立場を斟酌しつつ、ドイツの歩んだ道と比較しながら卓抜な評価を与えてくれている。それは、第三者による「真実の直視」という得難い視点である。充分に配慮された丁重な表現で、しかし厳しく核心を突いたものとなっている。それを以下に抜粋する。


ドイツと日本の戦後50年
この二国に共通している立場は、20世紀前半、ほとんどの近隣諸国と戦争状態に陥り、最終的に無条件降伏をしたということだ。
そもそも、地理的に遠く、文化も宗教も異なるにもかかわらず、たまたま戦争を介して、ソ連を挟んで牽制する目論見で同盟関係を結び、共に降伏したのだった。
ヨーロッパ大陸の中央に位置し、永年、隣国と密接に関わってきたドイツと異なり、島国日本はドイツにとってのイギリスのように、独自性を強く維持する伝統を、その国民感情に露わにしている、というのがドイツから見た日本の印象のようだ。
19世紀から20世紀へ、ヨーロッパではネイションという、本来は理性的な理念がナショナリズムへと膨大化し、二度の大戦による疲弊でイギリスすらも威信を失い、米ソのエルベ川の邂逅がその決定的な終止符になった。
今、EUとして存在することがヨーロッパの構成国ドイツの立場である。ネイションの理想は胸に、形態として求められるのはヨーロッパという国家理性(レゾン・デートル:存在理由、raison d'être)である、とヴァイツゼッカーは定義した。
ここから引用を挟んでいきたい。

しかし、過去の解釈は歴史家だけのものでしょうか。われわれ政治家や精神的指導者たちも参加する責任があるのではないでしょうか。
私は「ある」と確信しております。
仮に責任ある立場のドイツの指導者が

自国の戦時中の行為を歴史的に評価する用意がなかったり、あるいはそうできないとすれば、

戦争を始めたのがいったい誰であり、自国の軍隊が他の土地で何をしたのかについて判断を拒むようなことがあれば、

さっさと戦利品に手をだしておきながら、他国に対する攻撃を自衛だと解釈するようなことがあれば、

そんなことがあると、道徳的な結果はまったく論外としても、現在のわれわれにとって外交上の重大な結果をもたらすことになるでしょう。隣国から政治的・倫理的判断力に欠けるという評判をとったり、まだまだ何をするのか分からぬ危険な国だとみなされる、そんなことを望んだり、したりする余裕がドイツにあるものでしょうか。」

「自らの歴史と取り組もうとしない人は、自分の現在の立場、なぜそこに居るのかが理解できません。そして過去を否定する人は、過去を繰り返す危険を冒しているのです」


ドイツではまず、暗い歴史を振り返る公の議論のきっかけは教会から起こった。キリスト教の告解の慣習が底流にあったと考えられる。それが、戦争の原因と結果をタブー視することなく直視する必要が認識される機会になったのだった。

「しかしながら、死、追放そして不幸の原因は戦争の終結にあるのではなく、戦争へと通じていった、あの暴力支配の開始にあったのだという事実を無視してはなりません。
戦いの終局はドイツの悪の一章の誤った道の終末でした。この終末の中にはよりよい未来の浄福への希望の芽が秘められており、だからこそ解放だったのです」


ここを読んで、私は戦慄した。
「ドイツの悪」、「誤った道」という言い方にである。これまで、日本国内で戦争を振り返るときに、はっきりと「日本の悪」「誤った道」と言い切ったのは聞いたことがない。日本は日本の悪を認めようとしてこなかった。

ドイツでは、フランスやポーランドとも共同して統一教科書委員会を持っている。
さらに、ドイツは東西統一にも慎重だった。統一されたドイツで、再びナショナリズムが起こり他国に脅威をふるうという心配を近隣国に起こさせないよう、EUの構成である立場を優先する態度を示し、慎重に理解を得ていった。

演説では次に、日本に視点を移す。

「わたしには日本の歴史の動向を解釈する資格は有りませんが、外国から観察する者の目にはいくつかの歴史的連関が印象的であります。アジア太平洋地域で日本は、西側の影響を受けながらもそれに従属することのなかったアジア太平洋地域の唯一の国になりました。こうした方向に歩むことによって日本は、格別強力となり、つねに国民としての自らのアイデンティティを保持し、強化する術を心得て、19世紀末以来は精神的な意味でアジアの隣人たちにある程度背を向け、同時にこの地域で軍事的・政治的な権力を拡大したのでした

こうしてさまざまな種類の重大な軍事的紛争が起こり、日本ではその解釈をめぐって論争が行われております。ただ日本軍が進出したアジアのすべての国の民衆が、戦争と占領の時代の日本の役割についてかなりの程度まで一致した見方をしていることは疑いありません。これは過去の意味ではなく、きわめて今日的な意味をもつ事実なのです」

「12年にわたるナチズムの支配はドイツの歴史における異常な一時期であり、断絶であったのに、日本の場合はむしろある程度の歴史的な連続性を確認することができます。
たしかに日本は戦後、軍事行動に完全に背を向け、市場経済と民主主義を基盤とする活動で、歴史に新しい時代を開きました。しかし、宗教的な基盤、天皇制、そして国家体制は大幅に維持されてきたのでした。」


ヴァイツゼッカーはここで改めて、明暗双方をもつ過去の全遺産を受け入れ、ともに責任をもってこれを担うことが重要だと説く。

さて、このあとヴァイツゼッカーは、戦争のもろもろの事件、結果との対立が、敵であった諸国にとっても重要な問題なのだとして、二つの例を上げる。
まずはドイツとチェコの関係において、戦後2年にわたって300万と言われるドイツ系民族を非人道的に追放したチェコでは、ハヴェル大統領が、ヒトラーの犯罪は避難しつつも、チェコ人も重大な不正を行ったと告白した、ということ。その勇気と誠実さをたたえている。

「勝つために、あるいは勝利のあとに用いた手段、これが正当であったかどうかについては、戦勝国も自らと世界に対して釈明する責務があります。勝者にとって最大の道徳的誘惑は、自己の正当化であります。
ハヴェル大統領は、自国民をそうした誘惑から守り、そうすることによってドイツ人とチェコ人との間の和解による平和に貢献することを、自らの責務といたしました」


第二の例はアメリカだ。
「無防備の日本の一般市民に原子爆弾を投下した」理由をめぐるアメリカでの議論についてはもう、年来変わることなく我々も聞かされていて承知している。

「ワシントンのスミソニアン博物館で企画されていた展示をめぐる激しい論争を通じてわれわれが知ったことは、一方で退役軍人の名誉を守りつつ、他方で恐るべき原子爆弾の投下の動機に真実に即した迫り方をすることが、アメリカ人にとってどんなに困難かということでした。しかし、一点とくに強調しておきたいことがあります。わたしがアメリカとチェコの二つの例に言及致しましたのは、相手の側に自らの免責の理由を求めているからではありません。われわれは事件の歴史的な順序を否定してはなりませんし、相手側の犯した不正が言い訳になるわけでもありません

「戦争での罪や不正を公平に判断するには、歴史の真実に目を閉ざしてはなりません。この真実は不正を克服し、新たに相互の信頼を打ち樹てるという目的にして役立ちます。これが可能なのは、すべての側が独善を排している場合であります。

「過去を川のように流してしまえ」(水に流す)という原則にしたがっていたならば、何も解決できず、外交面での孤立を長引かせ、内政面では硬直状態を助長していただろう、ということです。‥ときには謝罪が必要ですが、信じてもいない謝罪なら、むしろ止めておくべきでしょう。本気でなければ、謝罪などしない方がましです。ドイツでの経験では、謝罪と償いの行動には特段の意味があり、ときには単なる言葉よりも大切であり効果的でさえありました」



「人間が歴史から学べるという証拠はありません」

それは率直だと思う。学べる可能性はあるものの、必ずしも学べるとは限らない。当たり前だが、歴史を経験さえすれば何もしなくても全自動でなにがしかを学べるなどというものではないし、真剣に日夜考え続けたとしても、それでよい結論へと導かれる保証もない。
しかし、誠実に歴史と向き合う姿勢が、人と人との間で手を取り合って平和に生きる大切なステップであり、それは必要なステップである。

ヴァイツゼッカーの日本へのメッセージは、改めて今に照らせば、現在、政治的に明らかに退行していることを示すインジケーターになっており、この先を思うと暗雲が空に立ち込めてくるような不安に襲われる。

日本はドイツに比べれば、戦争への反省は消極的なばかりでなく、一方的に水に流そうと、忘れようとしている。大衆の多くは、ヒロシマナガサキの原爆被害のことは大抵がわかっていても、戦時中に中国大陸で、太平洋の国ぐにで、日本が何をしてきたかを知らない。「そんな話、終戦記念日でもないのに‥」と、関心を示さない。そんななかの、米大統領のヒロシマ訪問や日本の首相の真珠湾訪問は、それ自体が中身のない外交なのを反映して、誰の心にも響かない。政治家の心は空き樽で、むなしく響くか、何の音も返ってこない。


改めて読むヴァイツゼッカーの演説に、まずは真実を知ることから始めたい。真実を直視する勇気と誠実さを、人は誰でも備えている。


ヴァイツゼッカーは信仰心の篤かった母親の影響により、自身の根底に聖書(特に旧約)の教養を敷いていて、演説においても引用することが多い。政治家として活躍する一方で、道徳家として一目おかれた人物であったのには、軸足が必ず信仰の世界にあったためであろう。
ただし、信仰心がそのまま人々の心を動かしたり世界を良くするというわけではなく、信仰する人の誠実な姿が周囲によい影響をもたらすのだと考えていた。それで彼は、信仰心を養い、言葉という媒体を駆使し、政治という形に落としていった。

崇高な道徳心は孤峰の花にせず、すべての人々のために、誰もが手に取れる身近な花のように、わかりやすい言葉のかたちで説いていく。

2015年1月31日に他界。94歳。
笑顔を取り戻すことのなかった父とは違い、晩年の穏やかな笑顔と屈託ない笑い声が、安心を与えてくれる。




執務机にて




少し長い動画だが、さわやかなオーラを放つヴァイツゼッカーに触れていただきたく、お勧め。

Richard von Weizsäcker - Für immer Präsident





こちらは1985年のドイツ連邦議会における演説の動画↓

Die Rede des Bundespräsidenten Herrn Richard von Weizsäcker