名のもとに生きて

人の一生はだれもが等しく一回かぎり。
先人の気高い精神に敬意を表して、その生涯を追う

レニングラード封鎖 872日を生きる

2017-03-07 12:53:03 | 出来事
緩慢で残酷な、都市全体への死刑
飢餓と厳寒のレニングラード封鎖
絶望と矜持を生き抜く市民たち



戦時中のレニングラード カザン大聖堂前


レニングラード包囲戦
1941年9月8日〜1944年1月18日
1944年の秋、
自分たちが爆撃し砲撃した建物を修理・再建するために、ドイツ人捕虜がレニングラードに連れてこられた。市内はまだ半分が空だった。当時11歳のエレーナ・コージナはその奇妙で陰気な雰囲気を記憶している。
「人がとても少なかったので、広い大通りではその姿が消え失せていくように思われた。
‥この沈黙、空虚さ、動きの少なさは市の心だった。それは生と死の間のどこかで凝固しているみたいたった。
‥ドイツ人たちは私たちに目を向けないで通り過ぎた。彼らの顔は憔悴し、緊張していた。
私たちはみな黙って立っていた。叫び、呪いや侮辱の言葉は一つも出なかった。私たちは薄い、動かない壁のように立っていた。
そして背後にはわれわれの死者たちの亡霊が立っていた」


『レニングラード 封鎖
飢餓と非情の都市1941-44』
マイケル・ジョーンズ著
松本幸重訳

Leningrad : State of Siege
Michael Jones 2008




世界大戦において最も苛烈だった独ソ戦。
1941年6月にドイツは不可侵条約を破棄してソ連に侵入し、目を瞠る勢いで電撃戦を繰り広げる。ヒトラーが真っ先に狙ったのはレニングラード。かつてロシア革命が起こり、ボリシェヴィズム展開の心臓になった都市、その名にレーニンを冠した都市。敢えてそれを冒涜するがごとく、モスクワよりも優先してレニングラードを占領しようと意気込むヒトラー。

『ペテルスブルグ。
(ヒトラーは敢えて旧名で呼ぶ)
長きにわたりアジアの毒液をバルト地域に吐き出してきた悪の温床は、地表から消え去らねばならない』

戦闘の初めから市民がぐいぐい巻き込まれてしまったのは、市民を守ろうという心算の全くないソ連上層部の怠慢と傲りによるところが大きい。
1937年、ソ連で起きた赤軍大粛清によって、有能であったレニングラード司令官トゥハチェフスキーが処刑されたのには、ナチスSAのハイドリヒらの工作も絡んでいたものの、スターリン追従の似非英雄ヴォロシーロフの妬みで、いずれ必ず失脚させられただろうと言われている。粛清では、軍事のプロを忌み嫌い、時代遅れの精神論で戦おうとするヴォロシーロフによって、数多くの軍人が処刑された。まさにナチスの狙い通り、エキスパートを赤軍から排除し、無能な司令官ヴォロシーロフがレニングラード司令官となったことで、ソ連は自ずから弱体化した。

攻撃の標的とならないように目標となりそうな構築物は覆われた。こうした作業も民間人がかりだされ空腹を抱えながら作業した

大々的に掲示されたプロパガンダ


経過

レニングラードは、革命以前の帝国時代の名は現在と同じサンクトペテルブルク、帝都であった。第一次大戦以降革命以前はロシア風の呼名ペトログラード。1939年当時、レニングラードの人口はおよそ319万人。
1941年6月22日、ドイツはソ連に侵入して電撃的なバルバロッサ作戦を北方、南方、中央方面に同時展開。レニングラードへは占領および破壊を目標に北方軍集団が速攻進撃。

上層部の怠慢から防衛の準備をしていなかったレニングラードでは、この防衛戦初期に非常に多数の兵を無駄に死なせた。さらに市民(女性と子供と老人)を前線の塹壕掘りに強制的に従事させた。平服で参加した若者たちは夜冷えの中で野宿させられた。
体面が悪いとして渋るうち、疎開は遅きに失し、子供達が脱出すべく向かった先では、もうどこもドイツに制圧されてしまっていた。
引き裂かれた母子の悲鳴。
『子供たちを連れ戻して!ここで一緒に死んだほうが、どこか分からない場所で殺されるよりもましだわ』



無能ぶりを露呈したレニングラード司令官と市長の存在はドイツの進軍を大いに助ける。防衛の態勢を整えられず上へ下へすったもんだしているうち、幹線道路も鉄道も次々に遮断され、あっという間に完全に閉じ込められたレニングラード。9月8日には補給が途絶。ドイツ軍による空爆に対し、統制の乱れた空軍は追撃できない。海軍も陸軍もただひたすら混乱していた。

ドイツ軍は最初から攻防戦をするつもりはなく、「科学的な方法による破壊」(ミュンヘン栄養研究所ツィーゲルマイヤー教授)でレニングラードを制圧する考えだった。
『わが軍部隊の人命を危険にさらすまでもない。レニングラード市民はどっちみち死ぬ』
いわゆる兵糧攻めである。
そのため真っ先に狙うべきは勿論、市の備蓄の食糧倉庫である。無策の上層部は食糧をバダーエフ倉庫一ヶ所に保管したままで分散配置をしていなかったため、あっという間の一撃で失われた。


『この都市はすでに封鎖されている。われわれに残っているのは、それを爆撃、砲撃し、水源と電力源を破壊すること、その上で、生き残るのに必要な一切を住民に与えないことだ』
ヒトラーの明確な計画。

しかし、およそ900日もこの都市が持ちこたえ、復活することになるとはヒトラーでも誰でも思いもしなかっただろう。
ただし、失われた兵数(死亡)は40万人以上、失われた市民は100万人以上。傷は深い。
因みにアウシュヴィッツ絶滅収容所での犠牲者数は150万人位(あるいはそれ以下)と言われている。
アウシュヴィッツ犠牲者とレニングラード市民とではどちらが悲惨か、と考えてみる。
生理的に厳しいのは、人肉食にまで及んだレニングラードだろうか。家具の膠を削って煮こごりにして食べたり、革ベルトを煮て食べたり、人が人を襲って食らったのは、飢えがどれほど辛辣なのかを語る。
明日以降もう何も食べるものがない、パンの配給はいつ再開されるかわからない、配給の列に並ぶ体力がもうないかもしれない、という不安と絶えず闘う。他方、収容所では質はひどくても、自ら調達せずに定期的に胃に入るものがある。
レニングラードはさらに砲撃、空爆の恐怖にもさらされている。そしてこのレニングラードの地は冬期はマイナス20度を下回る。にもかかわらず燃料もない。窓ガラスは空襲で割れたまま。
しかし、名前を奪われ、尊厳を奪われたアウシュヴィッツの人々と比べれば、自宅(爆撃で失われていなければ)に住まい、地元に住まい、家族と過ごすことができるのは幸いだ。ただし、家族が飢えて衰弱して死んでいくのを傍らで見、それを葬ることもできず放置するやり切れなさが次第次第に心を蝕んでいく。逆に、あまりの飢えから平常心が失われ、家族間でも搾取しあう。
飢えが己の獣性を呼び起こし、己の人間性を壊滅させる有り様は、ホロコーストと比べていくらかでも救われているとは考えられない。むしろ間接的に仕組まれた罠にかけられるのは手の込んだ悲劇のようだ。

子供たちは飢えと不安で老人のような顔つきになってしまう



900日の封鎖の中で最も苛酷だったのは最初の冬、1941年の12月から翌年3月あたりまでだった。大きな岐路は1月末にパンの配給券が配られなかった上に、2月初めのほぼ2週間、配給がなされなかった時だった。この頃は気温マイナス30度。1日2万人の死者がでる。ここに至って、絶望して死にゆく者、獣になる者、打ち克ってより高い次元の人間性を生きる者にそれぞれ分かれたようである。
一方、この惨状を隠蔽すべく、この時期、上層部によって郵便連絡が遮断されている。なお、他地域から市に入る郵便配達員はしばしば襲われる危険があった。勿論、おいしそうに見えるからである。

初めの転機があった。
ロシアから切り離され孤島のようになっていたレニングラードへ向けて、凍ったラドガ湖上を物資運搬のトラックが走った。絶えず空襲される恐怖にさらされ、物資の重量で氷が割れて水没する恐怖にもさらされながらも、トラック輸送は敢行された。搬送を終えたトラックで、帰路に人を乗せて疎開させる、という計画だった。しかしまたしても疎開計画は遅々としてはかどらなかった。厳冬期の疎開は、消耗した人々には死のリスクもあった。惨状を秘匿するため、餓死寸前の人々を疎開させることを上層部は渋った。疎開させてもらうためには中間マージンとして、お金ではなく、パンを要求された。捗らないトラックでの疎開を待てず、禁じられていても自力で徒歩でラドガ湖を渡ろうとする人たちもいた。それにつけ込んで、ドイツ軍は缶詰に偽装した手榴弾を道沿いに置いていた。非常に気が滅入る話だ。
この運搬経路は『命の道』と名付けられ、市の希望だと宣伝されたが、しかし実際は、苦労して運ばれた食糧は上層部が握り占め、市民に配られなかったし、厳冬下の疎開も実を結ばなかった。結果、市民たちは皮肉をこめて『死の道』と呼んだ。

夜を徹して搬送が行われた。車列を狙って攻撃されることもあった

氷の穴に落ち、疎開の子供を満載したトラックごと沈むことも多かった


絶滅収容所では、裸の死体が山のように積まれていたが、その地獄絵はレニングラードの街中でも同じだった。埋葬地まで運ぶことのできない死体は厳寒の通り沿いのあちこちに積まれたままになっていて、回収が進まない。さらに水道も止まっており、排泄物もその脇で凍りついている。このまま春がやってくれば、疫病が蔓延するのは必至だ。ヒトラーは当然、疫病蔓延による壊滅も計算のうちで、内通者の状況報告で監視している。レニングラード市民も疫病は危惧してはいた。
そこへ、強圧的な上層部による命令で、女性市民に通りを清掃させることとなった。もはや誰にもそんな体力は残っていないはずだと思われていた。スコップを握るのがやっとだというのに、それを振るうことなんてできないと思っていた。命令されるまま、どうにか足元の狭いスペースを片付けることができた。すると、絶望の凍土から小さな芽が出てくるように、人々に力と希望が湧いてきたのであった。
自分たちの手でこの街を甦らせたい。
レニングラードは彼らの愛する街、これ以上失いたくない街であり、文化であったからだ。
どんなにひもじくても、図書館、映画館、バレエ、コンサート、美術館は開いていた。(バレエダンサーも吹奏楽器奏者も苦しい息で、幕間に亡くなった人もいた。それは観客も同じだった)
暖房もなく明かりもないが、通う人がいたから続いた。やがて、しばらくの間運行していなかった路面電車が復活したとき、その音に皆心を震わせた。
自分は生きた、生きている!
血がめぐるのを実感したに違いない。
春を迎えることができたこともよかった。
彼らは草を食べる。土に感謝しながら。
むしろこれが最初の転機だったと言えよう。

第二の転機はレニングラード方面軍の新司令官にゴヴォロフ中将を迎えたことだろう。精神論だけで突破させようとするだけのジューコフは、兵を惜しみなく戦場に押しやり、無駄に死なせることで陣地を守っているつもりになっていたが、もう限界だった。新司令官はあまり威勢のいい軍人ではなさそうたったが、兵を損なわないように、取るべき対策は取る堅実な司令官だった。これにより兵の士気は高まった。
一方のドイツ軍も、南方軍がセヴァストーポリを占領し、浮いた兵力をレニングラードへ回して夏の総攻撃に賭ける。それを迎えるソ連軍もゴヴォロフ司令官の下、イスクラ作戦と名打って徹底的、積極的な抗戦でドイツ軍撃滅をはかる。戦いは次第にソ連軍が優勢になり、封鎖から3度目の冬、いよいよソ連軍はプルコヴォ丘陵を基点に総攻撃にかかる。既にソ連兵はドイツ兵の2倍以上が準備されていた。
さかんな砲声が聞こえてくると、レニングラード市民は沸き立った。1944年1月18日、レニングラードの封鎖が解けた。872日を生き抜いた。
スターリンは「英雄都市」と讃えたが、市民はそれを手放しで喜ばなかった。施政者への不信はあの厳冬の飢餓の中でうず高く積もり、春が来ても夏が来ても、いつまでも心の奥に凍りついて融かすことは不可能だった。街を見回せば一目瞭然、失われたものはあまりにも大きかったのである。

プーシキン市の鉄道駅での攻防戦
モスクワ〜レニングラード間の路線が奪還され、封鎖は解除になった



封鎖を経験した市民の言葉によって編まれた、『レニングラード封鎖 飢餓と非情の都市1941-44』(マイケル・ジョーンズ著)の中では、封鎖を生き延びた人または封鎖の下の日記が発見された消息不明の人によって、直情的に日々の様子が語られている。

大きなパンの絵。9歳の子供が描いた。カットして食べるように、ナイフが傍に描いてある。この子の頭の中はパンのことでいっぱいだったのだ。
どんな時にどんな思いで生きていたのか。
あまりに切なく、ときには美しく強く、人間の底の深さを感じさせる表現に驚く。本当に悲惨の極限だったことだろう。それでも人はこんなふうに生きることができるのかということも知る。
あんな絶望的な状況の中にも希望を見つける人がいる、ということを。
以下は、印象的な部分を引用する。





前線と市内
ネフスキー大通りの近くに住んでいたユーラ(ユーリー)・リャビンキンは元気のいい15歳の少年だ。成績の良いことを誇りに思い、将来の夢は海軍にはいることだった。封鎖の日から日記をつけ始めたユーラの目に、現実と矛盾が映る。

『新聞のどの論説も叫んでいる。血の最後の一滴までレニングラードを守る!と。しかし、なぜかわが軍はまだ一度も勝っていない。武器も不足しているようだ。街頭の民警、さらには義勇軍兵士や赤軍兵士の一部までが持っているのはいつの時代だかわからないような昔の年式のライフル銃やモーゼル銃だ。ドイツ軍は戦車で押し込んでくる。それに対してこっちは戦車じゃなくて、手榴弾の束や火炎瓶で戦えと教えられている。これが実情なのだ!』

開戦初期の司令官ヴォロシーロフは実際、博物館の武器を持ち出して戦えばいいと胸を張っていたし、潜水艦で押し寄せるドイツ海軍に対抗するためのありとあらゆる『ふね』を徴発させたものの、その中にはタグボートあり、珍しいものとしてかつての皇帝専用豪華ヨットもありで、一体ドイツ兵に何を見せてくれようとしてるのだかまさに噴飯ものの混乱ぶりだった。
また、ドイツの航空隊に見せてくれたのは木製ダミーの戦車実物大模型で、こちらはマリインスキー劇場の舞台装置製作部の御製だそう。さぞ素晴らしかったのか、ドイツ空軍はだまされて数発撃ち込んできたと鼻高々。早急に都市の防衛施設を築かなければならないときに、工兵に何をやらせているのか?
続いて司令官になったジューコフがどうにか軍を動かすようになったものの、彼は兵の命を無駄に削ることに全く躊躇がなかった。『後退する兵、士官は銃殺』と命じる。
ラドガ湖上の要塞オレーシェクへ派遣される海兵部隊を指揮したニコライ・ヴァーヴィンの回想。

『しかし、わが部隊がラドガ湖上を横切って要塞にむけて派遣されたのは、何らかの理由で午後3時、白昼堂々とであった。ドイツ軍はすぐに空から発見した。そしてそのあとは大量処刑と化した。海兵退院たちには重い外套と長靴を脱ぎ捨てる時間がなかった。そして隊員たちは私の周りで溺れていった。私自身の上陸グループ200名のうち、岸にたどり着いたのはわずか14名だった』

この作戦がイかれてると思っても、誰もジューコフに意見できない。命令拒否、即解任になる。
司令部の通信士がジューコフについて語る。

『彼は大変な理論家で戦略家だった。しかし、かれが人命損失を気にかけている様子は決してなかった。彼は人命の犠牲を度外視して敵に対する攻撃を次々と命令し続けた。頻繁に現地の指揮官たちが彼に懇願してきた。ジューコフは耳を貸そうとしなかった。彼はただ、こう繰り返すのが常だった。『私は攻撃しろと言ったはずだ』』

最も悲惨だったのは、ジューコフが死守にこだわったネフスキー橋頭堡だ。

「第四海兵旅団の隊員の多くは17歳か18歳の若い士官学校生で、数ヶ月の訓練しか受けていなかった。誰ひとり生き残らなかったので、隊員たちの話は聞けない。彼らの存在が一瞬解見えるのは、ネフスキー橋頭堡から最近発掘された散乱した私物をとおしてである。血の染みが着いた党員証、浮き彫りのおるスプーン、手書きの聖像画。士官学校生の一人は友人たちから素朴なプレゼントをもらっていた。平べったい水筒である。その表面には次のような文字が乱暴に刻みこまれている
「ヴィクトル・クローヴリンへ、18歳の誕生日にあたって。1941年9月29日」。文字の下には同じ道具で刻まれたネフスキー橋頭堡の落書きがある。線で描かれているのはモスコフスカヤ・ドゥブロニカの集落、ネヴァ川に架けられた仮の舟橋、そして橋頭堡自体だ。クローヴリンがこのプレゼントをもらったその日のうちに舟橋はドイツ軍の砲火で破壊された。それから1ヶ月のうちに海兵旅団はほぼ全滅した。」


ネヴァ川にはたくさんの若い兵が沈んでいる。


同じ頃、市内に暮らすゲオルギー・クニャーゼフ(ソ連科学アカデミー文書館長)が日記に記す。

『もし愛する妻を失い、わが都市が破壊され荒廃し、私に任されている文書館が全滅させられるのを目にすることになれば、何のために私は生きていなければならないのか?だが、殺されない場合、どのようにしてこの世を去るべきか?何よりも簡単な方法は縊死ということになる。美しくない最期だが、確実だ』

自分の領域が全て奪われる場合および自分が自分でなくなる境界を越える場合、死を選ぶしかないという考え。「これは将来の話」と断りつつ、極限を予想し覚悟を決めておく。そして確実にその「将来」は来る。
市内は秋が深まり、冬が近づいてくる。それはじりじりと闇へ引きずり込まれるような経過だった。

1941年10月。
カビの生えた小麦粉、油粕、倉庫の床掃除で集めた粉、で作ったパン。1日200グラム。松の幹。
11月。
犬と猫が市内の通りから消えた。
家具からとった膠のゼリー、壁紙、革ベルトを煮て食べる。この頃から階段を上るのが困難になる。
前出のユーラの日記。
「もう日記を付けている時ではないと母は言う。けれども僕は続ける。今後、自分が読み返す機会がなくなったとしても、多分、別の誰かが読み返して、ユーラ・リャビンキンという人間がこの世に生きていたこと、どんな人間だったか知るだろう。そして僕のことを笑い種にするだろう、そうだとも…」
「自分の夢に別れを告げるのはつらい。身を切られるよりつらい」


11月。パンは1日150グラムに。
10歳の少年の日記、「猫のフライを食べた」
市場には人肉のソーセージや煮こごりが出ている。親は子を遠くに使いにやることを控えた。

18歳の画家エレーナ・マルチラは、教授に目に入ったものを描き、記録するように言われた。
画家の観察眼が、信じられない様々な場面をとらえる。
人々が防空壕で怯えている中、居合わせた老音楽家がバイオリンを弾き始めた。

『彼は本当に勇気ある人だ。そして今、私は恐怖を感じていない。私たちの周囲では爆発が起きている。そして彼は私たちを安全な場所に導くかのようにバイオリンを弾いている。恐怖はなぜか弱まった。恐怖はもう私たちの体外に出ていた。そして私たちの体内には自分の音楽が響いていた。とても強烈な一体感があった』

あるとき、同じ防空壕の中のある少年が、飛行機の音で機体の種類や発射された爆弾の種類を判断、落下距離なども言い当てる。静かな口調で。

『その少年はまるで50年かけて50歳になったようだった。少年の顔はとても老けて見えた。そしてこの老化をとおして私が感じたのは、少年が子供時代の純真さをうばわれたということだった。彼の当然の好奇心が戦争のおぞましい機械とつながっているのを耳にしてぞっとした。しかしその時、私は少年の落ち着きがほかの人たちを安心させているのを見た。私はもっと近くから彼の顔をのぞきこんだ。私がそこに見たのは神秘的な知恵だった。私は小さな子供が賢い老人のように見える場合があることを理解した』



ネフスキー大通り どちらか片側は常に砲撃リスクが高かった


餓死は日に日に日常になっていく。エレーナ・スクリャービナの日記より。

「人々は飢えて弱ってしまって、死に抵抗できなくなっている。まるで寝入るように死んでいく。周囲の人たちも半死の状態なので、彼らに全く関心を向けない。死は一歩ごとに見られる現象になった」

飢餓の恐怖が根を下ろすにつれて、レニングラードの生き残りはもはや単なる数学的方程式ではなくなった、と感じたのはレニングラードの数学教授エウゲニー・リャーピンである。
人はエネルギーが不足すれば、次の段階として体内の脂肪などの蓄えを消費して生きる。しかし、過大なストレスによってそのサイクルが機能しなくなる。方程式の不成立。

『封鎖中にしばしば、少量のエネルギーの予備がまだ体内に残っているのに、そういう人が死んだ。彼のストーブは働き続けることができたはずだ。それなのに彼は死んだ』

蓄えのエネルギーがゼロになる前に、希望がゼロになった結果だろう。これが重要な岐路だった。

「ユーラ・リャビンキン少年も自分の絶望を見せないように頑張っていた。…帰宅後、母親や妹と口論した。『私たちはみな怒りっぽくなっている。もうずっと、母から穏やかな言葉を耳にしたことがない。…原因は、飢え、そして絶えずつきまとう砲撃と爆撃の恐怖』」

あとは弱肉強食本能だろうか。
しかしそんな人間性の崖っ淵にあっても、人間性を失わない人々は必ずいるのである。
エレーナ・マルチラの回想には二つの母子の像が現れる。
楽譜の入ったケースを小脇に、大きな重い楽器(ダブルベース)を橇で引く。子どもが橇の後ろを押している。母は他の人たちに希望を与えるためのコンサートに向かっている。

「今にも壊れそうだが、それでもなお力を持ち、働きかけようとする何かの存在を感じた」「もし2人が死ぬとしたら、一緒に死ぬだろう」

もう一つは、住宅ブロックの入口前で当直に立つ女性。眠っている子を抱いて、まっすぐに、静かに、堂々と立っている。その姿には、「死ぬなら、私たちは一緒に死ぬわ」、そんな挑戦的な不動のメッセージが感じられたという。
マルチラはこれを絵に描き気づく。「私が制作したのは聖母でした」、レニングラードの聖母…

「形は見えないが非常に怖いものの接近を彼女は感じた。幼い子供たちはそれを見ることができるようだった。彼らはマルチラの肩越しに、近くの一点を見つめた。そこには視線を向けるようなものは何もなかった。しかし、子供たちの顔は恐怖でひきつった」

「封鎖下のレニングラードでは『ベッドに行くな、危険だから!』と言い習わされてきた。自分はこのまま死ぬというある種の動物的直観があったときは、眠りについてはいけなかった。マルチラもそのようなときがあった。
『もしこのまま死ぬなら、画家として、手に絵筆を持って立派に死なせて』
寒く暗い、絶望的に静かな部屋で自画像を書き続けながら、やがて仄かな明かりが差すのを見る。それは、目にすることはないだろうと思っていた朝の光。
『私は死ななかった。もう死ぬことはない。私は生き残る』


ユーラ・リャビンキン少年は生き残れなかった。
「1942年1月3日の日記。
『僕は生きることを熱望している』
3日後。
『ほぼ完全に力がなくなった…時間がだらだら過ぎて行く、長く、いつまでも!…おお、神よ、僕にいったい何がおきているのか?』
『…食べたい、食べたい…』」



有名なターニャの日記。家族が次々に亡くなっていくのを、学習ノートの切れ端に『○月○日○時、○○が死んだ』とだけ綴る。最後のページで母が亡くなり、『残ったのはターニャだけ』。その後しばらく一人で枯れかかった植木鉢を抱えて生きていたが、保護されて疎開した先で亡くなった。



路上で倒れた人に、居合わせた人が手を差し伸べるか否か。ヒトラーは諜報員にそれを観察させていた。それが都市の崩壊プロセスのバロメータになるからだろう。
レニングラードでこの時期、手を貸す人は稀になった。心情では助けたい、しかし手を貸しても助けることはできず、自分も倒れて起き上がれなくなる。もう疲れた、それもいいかもしれない。でも、家では子どもがまっている。…そんな葛藤をする人がいる一方、追い剥ぎのように、倒れた人のポケットをまさぐり、配給券を奪っていく輩もいた。

共同墓地に橇で遺体を運ぶ
通りには野垂死にの死体もあちこちにあった
棺を造る木材はなく、大きな穴に共同で埋められるだけだった。仕方ないことだったがそれは虐殺現場の死体埋蔵と大差がない。家族は無力感で深く傷ついた



「ヴェーラ・ロゴワはレニングラードのある橋を渡ったとき、前の男の人の歩みがしだいに遅くなるのを目にした。その人は橋の向こう側に着くと、雪の中に沈みはじめ、それから大の字になって倒れた。ロゴワは、その人が死にそうなことを悟った。彼女はポケットに小さな氷砂糖のかけらを持っていた。そしてちゅうちょすることなく、その見知らぬ人のそばに行き、口の中に砂糖を入れた。通行人の誰かが彼女を叱りつけた。『どうしてあんたは自分の砂糖を無駄にするのか?彼にはもうそれが無駄だということが分からないのか?』その人は実際、五分後に死んだ。しかし、ロゴワは顔を上げて、はっきり言った。
『私はこの人を見捨てられたまま死なせたくないのよ』


イーゴリ・チャイコによる。
「『死体、死体、死体。雪だまりの上や、市内の通りや横町に放置されている。毛布、カーテン、シャツに包まれて。死者の多くは頭の周りに色鮮やかな布を巻いている。これは死体を集めに市内を巡回する自動車が雪の中の死体を見落とさないようにするためだ。死体を集める作業員は自分たちの仕事を色集めと呼んでいる』
チャイコが気づいたのは、人間的感情が硬化し、鈍くなった人が多いものの、それでも中には尊厳と思いやりの貴重な火種を残す人たちもいるということだった。彼がそれをもっとも強く感じたのは、死んだ子供を遺体安置所へ運ぶ悲しみに打ちひしがれた母親たちにである。彼女たちは布でくるんだ小さな遺体をいとおしげに抱きながら、厳しい空気の中を何キロも歩いていった。」


しかし悲劇のもう一面には、自分の死んだ息子を切り取ってメンチカツを作る母親もいた。



1942年1月29日の気温はマイナス32度。
街の景観は一変していた。暖炉に焚べるために、市中の塀という塀がなくなったからだ。それでも、街路の白樺や菩提樹に手をつける者は誰もいなかった。彼らはまだレニングラードが生きていると信じていたのだろう。

木材を運んでいく男たち




市内向けのラジオ放送で、レニングラードの詩人オリガ・ベルゴーリツは苦境の市民に心の言葉をかける。

『私は砲撃の間もあなたがたに語りかけます。砲撃の光を明かりにして…。
敵ができるのはつまり、破壊し、殺すこと…でも、私には愛することができる。私の魂には数えきれない財宝がある。私は愛し、生きていく』


春がくる。
街がどんなに変わってしまっていようと、太陽の光が温かさを帯び、人々のやつれた頰を差すようになる。草を食べる。もうずいぶん野菜を食べていない。草を求めて、幼い兄妹は連れ立って、赤い布で警戒されている地雷原にも入っていく。大丈夫、すっかり痩せて枝のような彼女たちの重みでは地雷は目をさまさない。

1942年春


6月11日の夕べ。ヴェーラ・インベル。
『銀色の阻塞気球が薄いピンク色の空に昇り、空に溶け込みそうに見えた』
『砲撃が毎日ある。でも、やはり春だ』
『立ち直りが早いレニングラード人たち!』


その一方で、アンナ・リハチョワは…。
『自然がますます生き生きとし、太陽が光を強め、緑が濃くなればなるほど、私は落ち込んだ。春は凍りついた感情を目覚めさせ、残酷にも私個人の悲しみを思い出させた。わたしは愛する息子の死を強烈に感じる。それは私が昼も夜も泣けるほどの苦痛と絶望を呼び起こす』

一人一人がつらく重いものを背負い、生きる、あるいは死に…
多くのものを諦め、失い…
それは一つ一つがどれもレニングラード内で起きていたことであり…

それに対しレニングラード市当局の態度はこうである。
「レニングラード市当局は、市を襲った悲劇に情緒的にかかわろうとする一切の行為に不信感を抱いた。そのかわりに、英雄的精神という壊れやすい概念をつくり上げた。すなわち、自制的な忍耐力は称揚するが、それを生み出した絶望的な困難は否定する概念である。
人前での悲しみの表明は国家に対する犯罪と見なされた。だが、庶民の経験の核心にあったのはまさにそのような悲しみだった。」


オルガ・ベルゴーリツは、自分が読んだ封鎖中の多くの日記について、回想記にこう記した

「これらの日記の沢山のページからは勝利したレニングラードの悲劇が、焼け焦げた匂いで、氷のように冷たく漂ってくる。これらの日記には個人が毎日の心配、努力、喜び、悲しみについてまったく率直に書いている。そして大抵の場合、深く個人的なことは同時により普遍的、より一般的なのだ。歴史が突然、気取らない、生きた人間の声で語りはじめる」


最初の、11歳の少女コージナの記憶。
1944年秋の一景。

「コージナは、この瞬間に何かとても重要なことが起きていると感じた。『ある難しい内面的かだいが、沈黙していなければならないという課題が達成されつつあった。しかし、私たちはそれが何であるか分からなかった』
ドイツ人たちは歩き続けていた。コージナはスローガンをぜんぶ知っていた。『子供たちを殺した者に死を!』『暗黒のファシスト軍団、呪われた略奪団との戦いに決起せよ!』。そして彼女は戦いが依然として、だがはるか遠くで続いているのを知っていた。『爆弾がドイツの諸都市に雨あられのように降り注いでいた。今、2〜3年前の私たちと同じように寒い地下室で身をかがめているのはドイツ人だった。今、空の爆音を聞いてどういう型の飛行機がやってくるのか、何を運んでいるのかを言い当てることができるのは、ドイツの子供たちだった」
『何かが私たちの内部で置き換わった。彼ら、これらの捕虜たちは軍団ではないし、呪われた略奪団ではなかった。疲れ切った、みすぼらしい、私たち自身と同じように栄養不良の人たちだった。彼らは敵で、人殺しだったのだろうか?そのとおりだ。しかし、私たちには復讐心はなかった。私たちの背負う、言い表せない悲しみの荷物はとてつもなく重かったし、私たちの喪失はとても取り戻せるものでなかったので…ほかのものに比べようがなかったので…復讐を考えるのがばかばかしかったのである。彼らから何を取り上げることができただろう、そしてそれが私たちをどう救うというのだろうか?』

『…悲しみに沈んだ通夜のさい、時として光と自由の不思議なひらめきが起きることがある。まるで私たちが重荷を背負って立っているのでなく、ゆっくりと苦労しながらどこかの場所へ、憎しみも死も流浪も、あるいは絶望もない場所へ昇って行くかのように』

『静かな早秋、1944年の秋のレニングラードは、使用禁止の建物の吹き飛ばされた窓から彼らと私たちを凝視していた。私たちの頭上には晴れた夕空が穏やかな広がりの中で燃えていた』



レニングラードのゲニウスロキ(地霊、守護精霊)が存在するなら、何もなかったかのように、落ち葉を降らせ、雪を降らせ、また土地を覆うだろう。隠蔽したがった人たちさえも等しく。
ネヴァ川の底の若い兵、ラドガ湖の底の子供達、共同墓穴の土の下に眠る人たち…
幾年も凍りながら融けながら、"どこかの場所"へ向かうだろう。


「自分の夢をあきらめねばならないのはつらい。
身を切られるよりつらい」

前出のユーラのこの言葉が、心にトゲのように刺さっている。
若者にこんな思いをさせないのが私の願いだ。

砲撃や空爆で荒廃したレニングラード


レニングラード郊外のペテルゴフ(当時ペトロドヴォレツ)の夏の宮殿は前線となり、荒れ果てた。ロープシャ宮殿も同様であった


『ロシアの戦い』より
ラドガ湖物資輸送に関する動画