名のもとに生きて

人の一生はだれもが等しく一回かぎり。
先人の気高い精神に敬意を表して、その生涯を追う

革命家チェ・ゲバラ 赤いキリストの福音

2016-05-21 20:46:32 | 人物
「落ち着け、そしてよく狙え!
お前はこれから一人の人間を殺すのだ」
彼の最後の言葉が、躊躇う処刑者へ向けられた




Ernesto Rafael Guevara de la Serna
1928~1967





「イルディタ、アレイディタ、カミーロ、セリアエルネストへ

この手紙を読まねばならないとき、
お父さんはそばにはいられないでしょう。
とりわけ、
世界のどこかで誰かが不正な目にあっているときいたみを感じることができるようになりなさい。
これが革命家において、最も美しい性質です。
いつまでも、子どもたちよ、
みんなに会いたいと思っている。
大きなキスを送り、抱きしめよう。
お父さんより」





フィデル・カストロの右腕としてキューバ革命を成功させ、その後、キューバの首脳として貢献していたエルネスト・ゲバラ、通称チェは、キューバでの階級や地位、市民資格も捨てて、革命を望む他国へ突然のように旅立つ。帝国主義に搾取される人々を救うべく、革命家としての正義を貫くべく、いくつかの手紙を残して行き、帰らなかった。上は、5人の幼子への遺書である。
運命は彼の命の火を消したが、しかし彼の正義は貫かれ、後代の人々の心に火を灯す。
「20世紀で最も完璧な人間」(ジャン=ポール・サルトル)、「世界で一番格好良い男」(ジョン・レノン)、「好感は持てないが、驚嘆に値する人物」(フランス作家レジス・ドブレ)、そしてフィデル・カストロには「道徳の巨人」と評されたチェの生涯を振り返る。






生い立ち
1928年、ともにアルゼンチンの名門家の父母のもとに第一子長男として生まれる。のち2人の妹と2人の弟も。
エルネストは2歳で喘息を発症した。痙攣も伴うほどの重症な発作を度々起こした。父母は治療のためにコルドバに転居する。小学校への通学が困難で休みがちだったため、教育はほとんど母が授けた。







フランス語は早期に身につけ、家庭の3000冊超の父の蔵書から、ジュール・ベルヌ、デュマ、フロイト、ボードレールを愛読した。彼は、生涯にわたって常に読書を怠らなかった。
喘息は相変わらずひどかったが運動能力は高い。過激なスポーツを好み、発作を抑えながらサッカーやラグビーに興じた。

自立心の高い彼は13歳のとき、数ヶ月間、自転車で国内を一人旅した。手持ちの資金が尽きれば、付近で働いて、稼いでは旅を続けた。喘息がひどくなれば、途中で休んで快復を待たねばならなかった。



高校卒業後は、ブエノスアイレス大学医学部に進み、アレルギー研究を行う。
大学の長期休暇中に同級生の兄である親友とともに南米各国を旅する。南米各国の歪みを、旅で出会う貧農らとの出会いの中でつぶさに見た。
マイアミにも渡り、対照的な米国の裕福な生活も見た。

医師と医学生である2人は、グアテマラのハンセン病の病院で働いた。当時はまだ、この病は伝染すると考える人も多かったが、2人は伝染性はないと確信しており、治療のかたわら患者らと親密に過ごしていた。

エルネストは旅の途中で別れて帰国し、短期間で準備して医学部の卒業試験を受けた。6年の課程を3年で修了し、医師免許を得る。学生時代、成績は常に主席だったという。
医師にはなったが、当時の政権下で軍医にされるのを嫌い、別の友人と再びアルゼンチンから旅立つこととなった。
以降、生涯で彼がアルゼンチンに帰れたのは、キューバ革命成立後、たった4時間であった。
当時、彼には大変裕福な相続人である婚約者がいたし、若い優秀な医師として成功する可能性に恵まれ、周囲に羨ましがられていた。チェ自身もいずれ戻るつもりでいた。しかし、旅の途上の数々の出会いが、彼の進むレールの向きを変えていったのであった。




盟友らとの出会い
ボリビアにおける農地改革、グアテマラのアルベンス社会主義政権下の改革とクーデター。
大戦後の不安定な南米社会は、自由を求めて動き出そうとすればするほど、アメリカ帝国主義にどんどん絡め取られていった。訪れた地は皆その渦中にあり、激動のさなかでゲバラも自らの立脚点を見出していった。
その方向を導いたのは、イルダ・ガデア。ゲバラの最初の妻となる人である。ペルー人社会主義活動家のイルダは、国を追われグアテマラに亡命、そこでゲバラと出会った。イルダの導きで、亡命キューバ人とも出会った。クーデターにより彼らは命を狙われるようになり、メキシコに亡命。その地でイルダと結婚、翌年長女イルディタが生まれた。

最初の妻イルダ・ガデアと

メキシコでは、キューバ人の知り合いの伝手で、ラウル・カストロに出会った。ラウルは兄フィデルを中心とする仲間とともに、当時のバチスタ政権転覆を目指してキューバのモンカダ兵営を襲撃したが果たせず、メキシコに亡命していた。その後、ラウルを通じてフィデル・カストロと出会い、夜通し語り合ったのち、ゲバラは自分も、カストロの指揮するキューバ遠征軍に加わることにした。

「完全武装している国を侵攻するなんて、キューバ人はとんでもないことを言っているが、きみはどう思う?」
「たしかにとんでもないことよ。でも、ここで批判していればいい、とは思わないわ」
「僕もそう思うよ。きみがなんていうか、聞きたかったんだ。僕は遠征軍に参加する」


ゲバラを革命家の道へ導いたのは、もちろんフィデルであるが、この妻イルダと、名門にこだわらせず、持病があっても冒険旅に背を押した母セリアの存在が大きい。


キューバ革命
1956年11月25日に82人を乗せて出発したグランマ号は、キューバを目指した。25ヶ月間の闘いの中で生き残った当初メンバーは十数名となった。軍医として参加したゲバラは戦闘員としての頭角を現し、また天性のリーダー資質も発揮され、指揮官となり、少佐の位についた。彼ら反乱軍は、現地住民に対し融和的で、夜には山村の農民に読み書きを教えたり、ゲバラが治療や手術を施したりした。また、物資を地元の店から接収するにしても、代金は多めに置いていったため、信頼を集め、反乱軍に参加するかもしくは協力する者達は増えていった。時には、密告者や脱走兵の自供によって窮地に追い込まれることもあったが、フィデルの屈することない強さと、ゲバラの理知的な機転によって革命は前進し、シエラマエストラの山岳地帯を下り、都市部を制圧し、バチスタを国外逃亡へと追いやった。革命は成功した。

ゲバラはそれまでタバコは吸わなかったが、蚊よけのために喫煙が欠かせくなった 髭もそのために伸ばした

キューバ革命成立

ラウル・カストロ(現職議長)



ゲバラは組織の中で唯一、外国人であったが、革命に勲功のあった英雄として迎えられ、キューバ市民権を授けられるに至った。
娘を連れてキューバに降り立ったイルダは、夫が、反乱軍として活動している時に軍に付いて協力していた女性アレイダと事実上の婚姻関係になっていたことを知り、自分の方から離婚を願い出た。ただし、娘イルダはのちに生まれる兄弟たちと遊び、全く同じ姉弟のように暮らした。

ゲバラの後ろの笑顔の女性が2番目の妻アレイダ・マルチ


広島訪問
カストロを首相として、キューバは新しく生まれ変わるべく、ゲバラほか政府トップは毎日がフル回転だった。アジアアフリカ親善大使として日本へも来訪した。戦後、目覚ましく発展した日本の工業を、今後のキューバでも発展させたい思いもあったが、それは先の話として、最大の貿易相手だったアメリカとの関係がぐらつくことを見越して、何としても砂糖を買ってほしいと交渉することが主眼だった。
厳しい日程の中で、当初は希望したが予定に組み込まれなかった広島訪問が、滞在先の大阪から近いと聞き、翌日の予定を一部変更して訪れることとした。
平和祈念公園に献花し、原爆資料館を訪れた。
それまで口数の少なかったゲバラが、丹念に展示を見た後で突然、言った。

「アメリカにこんな目に遭わされておきながら、あなた達はなおアメリカの言いなりになるのか」

南米のどの国もアメリカに頭を押さえられて搾取されるのを見てきた、親米政権を倒すために武器を取って闘ってきた、その彼には、そう言われてきょとんとする日本人が不思議に映っただろう。
戦後にもしたたかに帝国主義は残った。帝国主義という暴力に対し、武器を取って闘うこと。そのために、一つの命や国が犠牲になることはやむを得ないと考えるゲバラ。親善大使として国々を回る中でも、革命家の自分が救いの手を差し伸べたくなる国がいくつもあった。しかし、まずはキューバをしっかり立ち上がらせる必要があった。


工業相として
帰国後、ゲバラはキューバの経済を安定させるべく、工業相に就任した。他のトップもだが、彼も経済においては素人である。それでも、執務室にいる間は経済学の本を読み、猛勉強した。毎日15~16時間働き、休日は事務員らを誘って奉仕労働。あるときはサトウキビの収穫、あるときは学校建設のためのレンガ運び。時間にルーズで、作業効率の悪い中南米気質は、己れにも周囲へも厳しいゲバラを、尊敬はするものの、ときに辟易したという。
また、公私混同を嫌い、家族が一度、買い物に行くのに公用車を借りたいと言ったところ、ものすごく厳しく叱られたそうである。

演説は得意ではなかったが、わかりやすいと評判で、教養豊かで多彩な知識の引き出しから巧みに説明した

休日の奉仕労働は国民の意識を高め、生産性の向上をめざしてもらいたかった

学校建設 革命後キューバの識字率は大幅に向上した

一方で、カストロは現実的に政治を舵取りする柔軟性もあり、理想主義に偏るゲバラは孤立しやすかった。他国をも容赦なく批難し、某国を怒らせ、カストロに手を焼かせる事態にもなり、ゲバラはこれ以上盟友に迷惑をかけないようにと、政界を去り、再び革命家として、自分の助けを求めている国で活動する決意をした。カストロに「別れの手紙」をしたため、国民には伏せたまま姿を消した。このあと、彼の革命家活動は当然のことながら極秘。カストロが粛清した、などと噂されもしたが、ゲバラの理想追求を理解し、信頼しているカストロは、ざわつく市民の対し毅然と立ちはだかり、裏では可能な限りゲバラに支援していた。「別れの手紙」を読めば、彼らの深い強い友情が決して折れないものであるとわかる。



フィデル・カストロと


「ゲバラ少佐についていえる唯一のことは、どんなときでもどこにいようとも、彼が革命にきわめて有用な存在だということだ。かれは多面性をもった男だし、理解力もある。もっとも完全な指導者のひとりだろう」
そして、「あるときがくれば、かれがいかなることに関係しているかを国民に知らせるだろう」「友情や兄弟のような関係や、かれとわたしとの間に存在してきた連帯について、まったく問題はない」と。
カストロはこのとき、予見していただろうか。
ゲバラ処刑の証拠として、カストロのもとに切り落とされた手首が届く時が来ることを。二つに一つの結末がそうなることは、カストロは承知していたことだろう。



コンゴへ、ボリビアへ
コンゴの反政府勢力のゲリラ活動を支援するべく、極秘で現地で活動を始めたキューバの有志の兵とゲバラ。しかし、現地の状況は理想とはかけ離れていた。コンゴ兵の士気もモラルも低く、現地農民からの略奪、脱走、金目当ての密告が多発、非協力的態度は現地民だけでなく、配下の兵にも明らかだった。

コンゴの作戦基地から送られたメッセージは、
「壊滅的状況。仲間と農民は、みな敵側に移ってしまった。信頼できるコンゴ兵は1人もいない」

国のために戦おうとする兵がいないところで、キューバのゲリラができることは何もない。
作戦失敗。
ゲバラは隠密に極秘に、遠回りのルートを警戒しながらまた極秘に帰国した。

数ヶ月の準備後、ゲバラは再び変装し、今度はボリビアを目指した。これが最後になるだろう、ということはゲバラ本人も自覚していた。家族とも無言の別れをしてきたに違いない。
ボリビアのジャングルで、喘息は悪化。体調不良で苛立ち、ある日つい、動こうとしない小馬を衝動的に強く打ち、怪我をさせてしまった。即座に、自分を抑えられなかったことにショックを受け、深く反省し、皆に不安を与えたことを詫びた。
それでも、ジャングルの中においてもゲバラは自分のスタイルを保持していた。時間があればいつでも読書し、日記に考えを書き留め、自己省察を怠らなかった。最後の日々まで、彼は「道徳の巨人」であり続けた。死が、もう身の回りに迫っていることを悟りつつ、革命家の彼は、“最後の血の一滴まで”闘おうと心を固めていたのだろう。

そのころ、脱走兵の密告により、ゲリラ軍の構成、作戦、さらに、司令官がゲバラであることが政府軍に知られることとなっていた。政府軍を支援するアメリカのCIAはゲバラの存在に驚き、彼を捕らえるこの好機を逃すまいと、政府軍に特殊訓練の手ほどきや武器供与をつうじて援護をした。

1967年10月、現地住民の目撃情報を得て、CIAは王手をかける。

もう1人のキューバ兵と共に、戦闘で負傷して包囲されたゲバラは捕らえられ、イゲラ村の小学校に放り込まれた。翌日午前10時、CIAより暗殺指示の電報があり、12時45分、先にもう1人が、続いてゲバラが銃殺された。
処刑を命じられた兵は酒に酔っていたが、ゲバラと相対して怯んだ。あの澄んだ眼を最後に見たのがその兵なのだ。あの澄んだ眼が最後に見たのがその兵なのだ。
「落ち着け、そしてよく狙え。お前はこれから
1人の人間を殺すのだ」

平静を失った兵は命中できず、右脚付け根、左胸、首の根元を撃ち、絶命させることができなかったため、上官が心臓を撃って殺した。
遺体は近隣住民に公開された。ゲリラ兵の奴の面でも見てやろう、と、からかい半分でやってきた老婆は涙を流して戻ってきた。
「なんてこった!殺された男はイエス様にそっくりじゃないか!」
たしかに、半裸で眼を半分開き、横たえられたゲバラの遺体は、十字架から降ろされたキリストの像によく似ている。

遺体写真あり↓


















その後、両手首が切断され、一つはカストロのもとに身元確認のために届けられたのは先述のとおり。
遺体は極秘の場所に埋められ、永らく不明であったのが、埋葬した兵がリーク。飛行場の下にあって捜索が困難であったが、数人の遺体と一緒に埋められているところが発見され、手首のない遺骸がゲバラであることがすぐに判明した。1997年、死から30年後であった。


ゲバラとは
ゲバラに接した人びとが後年に語る彼の人物像やエピソードと、ゲバラ本人による発言や日記により、「1人の人間」である彼の姿を追ってみたい。

趣味は写真撮影、チェス(かなり強い)、ゴルフ、ラグビー、サッカー。ゲーテを愛読、犬好き。ダンスと音楽は苦手。酒は飲まない。

彼には芯の強い母親がいて、常に自分のできる限りのことに力を発揮する姿勢、献身的な愛情、差別を嫌うこと、左翼的思想は、ほとんど母から受け継いでいると考えられる。
喘息発作に苦しむときも親身に尽くしたであろう母の危篤の知らせが、コンゴ行きを目前に訓練中のゲバラに届いた。彼は涙を見せたという。
そして日記に綴られた、

「お母さんに、ここに来てほしい。
そのひざに僕が頭をのせたら、
ただひたすら優しく「わたしのぼうや」
そっと僕の肌に触れてほしい。
僕の体がそう求めている」


願いが叶うなら時を超えたい、と思う、別れの重さが素直な言葉にくっきりと感じられる。

アルゼンチンに一時帰国したとき 母と弟






ゲバラは革命家のイメージに反して、本来、静かで理知的な人物だったらしい。母の影響により子供の頃から無宗教だが、宗教書を読むなどして宗教を哲学的に理解していたようである。音楽以外の芸術にも造詣が深く、教養も高かった。決して教養をひけらかさないが、近寄りがたい雰囲気を感じた人もいたらしい。しかし、そう感じた人も一目で惹かれた人も一様に語る印象として、彼のとびきり澄んだ眼がある。
広島を案内した日本の男性は、こう語る。

「眼がじつに澄んでいる人だったことが印象的です。‥のちに新聞でかれが工業相になったのを知ったとき、あの人物はなるべき人だったな、と思い、その後カストロと別れてボリビアで死んだと聞いたときも、なるほどと思ったことがあります。わたしの気持ちとしては、ゆっくり話せば、たとえば短歌などを話題にして話せる男ではないか、といったふうな感じでした」

別の方の語るところでは、
「戦場の匂いが残っているような感じだった。しかしその話し方その他はきわめて静かで落ち着いていた。‥忘れられないのは、彼の眼である。じつに澄んだ瞳で、ああ、死線をこえた人間の眼だな、とそのとき思ったことをいまでも憶えている」


外見の、そうしたイメージの一方で、内部には正義をどこまでも追い求め、帝国主義に戦いを挑む、熱い使命感が宿っていた。
彼は既に13歳のときから、圧政に対するデモや抗議行動には意味はなく、「実弾」が必要と訴え、周囲の友人を驚愕させた。
若い頃の日記に、戒めのように書かれている。

「グラナダ最後のカリフの母がその息子に言った。“お前が守ろうとしなかった都が亡ぶと言って、なにも泣くことはないのだ”」

ゲバラは“口だけ番長”になることを嫌った。そして、現実逃避もだ。

「ほんとうにいやなのは、ある現実、それは経済的現実とか政治的現実だが、それに直面すると、気おくれしてしまうこと。同志の中にはときどき、ダチョウが追い詰められると頭を砂に突っ込んで隠れたつもりになるように、現実を逃避する人たちがいた。経済問題になると、干ばつや帝国主義のせいにしてきた‥」


話が逸れるが、私は少し前にここに、ホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベラのことを書こうとして頓挫してしまった。スペイン内戦時にファランへ党を立ち上げたが、志半ばで銃殺された人だ。
冷静で理知的で高い理想を抱いていたリベラが、暴力止むなしを唱えるのに違和感を持ったからである。そこで、ゲバラと対比させて考えてみようと、改めて今回ゲバラの思想を掘り返してみたのだ。



ホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベラ


ちなみに現代、“赤いキリスト”などとも呼ばれるゲバラであるが、彼がキリストと自分の違いをこう語っている。

「僕はキリストじゃないし、慈善事業家でもない。‥キリストとは正反対だ‥
正しいと信じるもののために、手に入る武器は何でも使って戦う。自分自身が十字架にはりつけになるよりも、敵を打ち負かそうと思うのだ」


これを読むなら、彼が単なる武闘派なのだと誤解されてしまうだろう。
一方、リベラは暴力をどのように肯定していたか。

「‥最後にわれわれの願うことは、もしいつかこれが暴力によって成し遂げられなければならないのだとしたら、暴力から尻込みしてはならないということです‥たしかに対話が意思疎通の第一の手段であるということはきわめて正しいことです。しかし正義やパトリア(祖国)が傷つけられているときには、鉄拳とピストルの対話以外に認めうる対話はないのです」

ゲバラはどうか。

「平和革命と選挙による変革の道は可能性があるのなら望ましいし追求するべきだ。しかし、現在の条件のもとではラテン・アメリカのどの国においてもそのような希望は実現されることはありそうもないと思われる」

いずれも、情勢規定の上での肯定となっているし、他国に向けたものではなかったという共通点がある。
三好徹「チェ・ゲバラ伝」のなかで、筆者がこう述べている。

「武器をもって立ち上がることは、そして銃の引き金を引くことは、法律に反し、人を傷つけることになる。したがって武装闘争は悪である、という現実にわたしたち日本人は住んでいる。いまの日本では、武装闘争論をうけ入れる余地はない。というよりも、この激しい手段によらずとも、人間が抹殺されることはないし、条件がととのえば他の非武装闘争手段によって、変革を企てることもできる。だが、革命前のキューバがそうであったろうか。カストロやかれらの仲間たちは、武器によらずして、バチスタの悪政から人びとを解放することは可能だったろうか」

ゲバラにしてもカストロにしても、裕福な家庭に育ったにもかかわらず、弱者のために立ち上がった。ゲバラは学生時代の旅の途上で、生きるのが困難な人々の生活をたくさん見てきた。自分のためではなく、彼らのために武器を取り、命を賭けたのだった。

情勢がそのようだったなら誰もが武器をとって戦えるかというと、実際そうでもないと思われる。
シリア難民問題について、ある南米の大統領は、なぜ自国にとどまり戦わないのかと訝しがった。
もちろん、現地で勇敢に戦っている民兵もいる。

シリアには人道支援として大国が介入しているが、帝国主義国の搾取が先に見え透いてくる。
ゲバラの、国境を越えての第2弾第3弾の活動ではうまくいかなかったのは、自分の祖国のために戦う者ではなかったからではないか。ゲバラは純粋に人道的な介入を目指していたのが、これはとても困難な微妙な立場になってしまう。
日本の集団的自衛権がこうした複雑な難解な問題に絡んでいくことは、了解されているのか。慎重に、塾考し、議論することは、事態が進んでからはできないものである。

「ぼくらのすべての行動は、帝国主義に対する戦いの雄叫びであり、人類の敵・北アメリカに対する戦いの歌なのだ」

ボリビアのジャングルの空で、その歌は聞こえなくなってしまった。1967年10月8日。



カストロに宛てた別れの手紙は、ゲバラの自身の人生のこと、キューバのことなどが、謙虚に、友の立場も尊重しながら振り返っている。カストロは泣かずにこれを読めただろうか。
長いのでここに書けないが、「1人の人間」が終わりをつける、その手紙の最後の部分にこうある。

「どこで死のうと、キューバの革命戦士であることに責任感を持ち続け、革命戦士として行動しよう。妻子には、物質的なものは何も残さないが、悲しいとは思わない。むしろうれしい。彼女たちのために何をしてほしいとも望まない。国家が生活と教育を面倒見てくれるだろうから」



最後に一つ、エピソードを。
ボリビアに発つ前に、ラモンという仮名の老人に変装(剃髪し眼鏡をかけている)して、家族のもとを最後に訪れた。お客様はパパの友人、ということで。
娘のアレイディタはそのときそれがパパとは気付かなかったが、こんな思い出がある。

「父の思い出は、ほとんどありません‥最も大切な思い出は、最後に会った日のことでしょう。私たちは、そのお客さんが父だとはわかりませんでした。ラモンという老人に変装していたからです。私は5歳半でした。‥頭をテーブルにぶつけると、両手で抱きしめてくれたのです。私は母にいいました。
「ママ、内緒よ。あの人は、私のことが好きなんだと思うわ」
















アレクシエーヴィチ 『チェルノブイリの祈り』

2016-05-04 14:25:50 | 読書
「僕らが失ったのは町じゃない、全人生なんだ」
チェルノブイリ原発事故で被害の70%を被った
ベラルーシの10年の軌跡


30年後の現在 廃墟となっている家屋

2015年ノーベル文学賞を受賞したベラルーシの作家スベトラーナ・アレクシエーヴィチが、チェルノブイリ原発事故から10年後の1996年に、事故の影響を受けた市民へのインタビューをまとめた著作「チェルノブイリの祈り 未来の物語」を読み直しました。
チェルノブイリ原発事故は、1986年4月26日午前1時23分の発生から30年が経ちました。アレクシエーヴィチによるインタビューからでも既に20年が経ち、その間、福島の原発事故も起きました。
福島からは5年。
チェルノブイリの軌跡は、福島の未来において同じ轍を踏まぬよう、よくよく検証していかねばなりません。

4号機で、外部電源喪失を想定し出力を下げて運転する試験中、原子炉が不安定化して爆発。炉心はむき出しになり、火災が続いた。国際原子力事象評価尺度レベル7、史上最大規模。レベル7は福島第一とチェルノブイリの2件。
写真は事故直後 建屋が完全に崩壊した4号機


コントロールルーム

アレクシエーヴィチの著作では、事故の規模や被害状況、原因、責任などの追及はありません。あくまでも被害者の心情に耳を傾け、そのまま伝えるのみです。何が真実か、ということよりも、直面した人間の心に否応なく投影されるものはどんなものかを重視しているようです。
等身大の自分が、その事実に直面すればどう生きることになるのか、例えば自分の幼子が髪を失い、衰弱し、自分の運命に驚いたような顔をして死んでいくさまを目前に見る、その自分を想像する、そして考える。何をすればいい、何をすればよかったか?
運命だなどと言って諦めない。未来を少しでも残すため、考え、判断する力を各人が持つことが大切だということが、この本から伝わってきます。




被曝の実態
冒頭は、事故直後にメルトダウンの現場で生身で消火活動した消防隊員の、死に至る14日間の壮絶を、付き添った妊娠6ヶ月の妻が語ります。

放射能の危険性に対し、なんの認識もないまま消火活動に駆けつけ、大量の被曝をした隊員28人は、飛行機でモスクワの病院に運ばれます。致死量400レントゲンのところ1600レントゲンを浴び、彼ら自身が既に高度の放射性物質となり、のちに病院のスタッフもほとんど亡くなりました。
初めは頭痛、吐き気ていどだったのが、目も開けられないほど顔が腫れてきます。
中枢神経系も骨髄も完全に侵されます。
「私は毎日違う夫に会った」
青、赤、灰色がかった褐色‥
火傷が表面に出てくる。粘膜が層になって剥がれ落ちる。1日25~30回の下痢、手足の皮膚がひび割れ、全身が水泡に覆われ、髪が抜ける。朝替えたシーツが夕方には血だらけになる。手足を持ち上げると骨がぐらぐら揺れる。口から内臓の欠片が出てくる。そして死。

遺体はセロハン袋、木棺、袋、亜鉛の棺に入れられ、墓地では上にコンクリート板。
2ヶ月後、妻は28レントゲンの女児出産。肝硬変、先天性心臓欠陥、4時間後に亡くなる。
目に見えず、匂いもなく、音もなく、人体深く貫く放射線に、人がどう屠られるか。
このストーリーは最初に、こんな残酷極まる事実を突きつけて始まります。





事故現場近くの行政施設は処理作業員待機に使用されていた。捨てられた大量のガスマスクは、冷戦期に毒ガス攻撃に備えて用意されたものだった



自身へのインタビュー/取材と著作の目的
続いて、アレクシエーヴィチ自身へのインタビューという形で、見落とされた歴史を語ろうとする意志が述べられます。
「あの夜、この未知なるもの、謎にふれた人々がどんな気持ちでいたか、なにを感じたか」
「なにかが起きた。でも私たちはそのことを考える方法も、よく似た出来事も、体験も持たない。私たちの視力も聴力もそれについていけない、私たちの語彙ですら役に立たない。‥なにかを理解するためには、人は自分自身の枠から出なくてはなりません」
ベラルーシはこの事故と、巨大だった社会主義国の崩壊をほぼ同時に受けました。

ここで、先立って、巻末に添えられている事故の情報を元に確認します。
当時のベラルーシは旧ソ連邦に属する一国であり、独立は1990年。チェルノブイリ原発は旧ソ連内にありましたが、ベラルーシ、ウクライナ国境に隣接しているため、被害は南風によってベラルーシに偏り、大気中に放出された5000万キュリーの放射性核種の70%がベラルーシに降ってきました。1平方キロメートルあたり1キュリー以上の汚染は国土の23%(ウクライナは同4.8%、ロシアは0.5%)。
長期にわたる低線量放射線の影響で、がん、知的障害、神経・精神障害、遺伝的突然変異の患者数が毎年増加しています。

ベラルーシ(ベラルーシ共和国)は、苦渋の歴史を持っています。大国ロシア、ヨーロッパ列強の狭間に位置するだけに、世界大戦での被害は悲劇そのものでした。ドイツにより619の村を焼き払われ、4人に1人が死んだベラルーシは、このチェルノブイリの事故によって485の町村を失い、そのうち70は永久に土の中に埋められたのです。そして5人に1人が汚染地域に住んでいます(当時)



汚染地に暮らす住民
放射能による被害とはどのようなものなのか、事故当時、知る人は少なかったのは当然でしょう。「汚染されている」として禁じられた井戸水は、以前と変わらず澄んでいるし、牛乳も野菜も果物も、見た目も味も変わらない。「除染のため」として、住民は3日間だけ住まいを空け、森でキャンプをせよとの指示により慌ただしく村を出されました。しかし、決して帰ることはなかったのです。村は埋められるかあるいは廃墟になり、荒れた土と墓だけが残ることとなったのです。
「ぼくらが失ったのは町じゃない、全人生なんだ」
その「全人生」とは過去だけではなく、未来も含んでいたのです。


プリピャチ市

プリピャチ市民プール
原発城下町として、また旧ソ連の都市計画を具現化した街として1970年に建設されたプリピャチ(ウクライナ)は事故現場から3キロ。事故翌日には約5万人の市民全員が避難。現在、人口0人、郵便番号も登録削除されたゴーストタウンと化した


ゴーストタウンの遊園地


居住が禁止されている地域に住み続ける人、戻って住む人、移住してくる人達がいます。
住み続ける人には、代々その地で育ってきた老いた農民が多いようです。戦争を生き抜いた経験のある人達にとって、放射能との戦いは目に見えず、理解できないものではありますが、過去の過酷な戦争に打ち勝ったという自負もあり、放射能を恐れないのです。

「あのとき、えらい学者さんがきなさって、薪は洗って使えと集会所で演説しました。もう、おったまげたよ!布団カバー、シーツ、カーテンを洗いなおせというんですよ。家の中にあるのに!タンスや長持にはいっているのに。家の中に放射能があってたまるもんかね。窓ガラスもドアもあるんだから。放射能なら森や畑でさがしなってんだ‥」
「私の妹は亭主と村をでていったよ。ここから、20キロのところに。2ヶ月おったが、となりの奥さんが走ってきていったんだとよ。「あんたらの雌牛からうちの雌牛に放射能がうつっちまった、死にそうだよ」「どうやって放射能がうつるのかね?」「空中を飛んでさ、ほこりみたいに。放射能は飛べるんだよ」

一度避難したにも関わらず戻る人には、補償金目当ての場合もありますが、移住先の新しい暮らしに馴染めないことが原因となっているようです。



他方、そもそも住民ではなかった人が空き家を求めて移住してくる場合があります。当時、ソ連邦内部で紛争中だったタジキスタンやチェチェン、キルギスから来るのです。

「私は、ここはあそこほどこわくありません。ここには銃を撃つ人はいない。それだけでもましです」「土地や水がこわいなんて考えられない。恐ろしいのは人間です」
「私はいろいろ質問されたり、驚いた目で見られるんです。ある人は、面と向かってわたしにきいたわ。「ペストやコレラがはやっている土地でも子どもをつれてきますか?」ペストやコレラたったら‥。でも、ここでいわれているような恐怖を私は知らないのです。私の記憶にありませんから」

今日死ぬかもしれない、という恐怖と、目に見えない先が見えない恐怖とでは、その肌感覚が違うことでしょう。しかし、銃による恐怖は保護されればただちに解消されるもの、解決しうるものでありますが、放射能の恐怖は持続的に増幅するブラックホールであり、認識しにくく、解決しにくいものなのです。



除染に駆り出された兵たち
町、家から追われた住民らに変わり、予備役兵が任務を知らされずに召集され、除染作業にあたらせられました。上司は「名誉」「昇給」をちらつかせ、挑んだ若者は次々に発病しました。
彼らの目に映った現場はどのようであったかが語られています。そこには素朴な驚きがあります。







「すてられた家。ドアに貼り紙。「親愛なる方へ、貴重品を探さないでください。私たちの家にはありません。なんでも使ってください。でも盗っていかないで。私たちは戻ってきますから」。ほかの家でもいろんな手紙を見ました。「私たちを許してね、私たちの家!」。「朝、でていきます」「夜、発ちます」日付、何時何分まで書いてある。ちぎった学習帳に書かれた手紙もあった。「ネコを殺さないでね。ネズミがぜんぶかじっちゃうから」「うちのジュリカを殺さないでね、いい子なんだよ」

「家に帰った。あそこで着ていたものはすっかり脱いで、ダストシュートに投げ込んだ。パイロット帽だけは幼い息子にやったんです。とてもほしがったから。息子はいつもかぶっていた。2年後、息子に診断がくだされた。脳浮腫‥このさきはあなたが書いてください。ぼくはこれ以上話したくない」

「アフガンから帰ったときには、これから生きるんだということがわかっていた。でも、チェルノブイリではなにもかも反対。殺されるのは帰ってからなんです」

「上空から大量の兵器が戦いをいどんでいた。大型ヘリコプター、中型ヘリコプター。MI-24、これは戦闘用ヘリコプターです。戦闘用ヘリに乗ってチェルノブイリでなにができるんだろう?」



住人のいなくなった村や町では、日々、盗難がありました。放射能に汚染された建具、家財は持ち出され、転売されていたのです。それらはそのままどこかで別荘として建っているらしいと。除染作業に使用され、廃棄処分されたトラックさえも姿を消していました。金属は特に強い放射性物資と化していたというのに。村に残っているのは墓だけだったと‥。


破壊された自然
現場に立った者にしか実感できなかった事として、人間が自然に対して施してしまった罪悪感があります。

「森を葬りました。樹木を1メートル半の長さに切り、シートにくるんで放射性廃棄物埋設地に埋めたんです。夜、寝付けなかった。目を閉じると、なにか黒いものがゆらゆらしてひっくり返るんです。生きもののように。地層は生きているんです。甲虫、クモ、ミミズといっしょに。‥だれかの詩で読んだことがあるんです、動物は別個の世界の住人なんだと。ぼくは彼らの名前すら知らずに、何十、何百、何千となく殺した。彼らの家、彼らの神秘さを破壊し、ひたすら葬ったのです。一番印象に残っているのは彼らのことです」


ドイツにより村ごと焼き払われ虐殺されたハティニ 以前の記事カティンと名前が似ていることから、ソ連はカティン事件の追及を受けたときわざとハティニとすり替えて報告したらしい 写真はハティニ記念公園

「がらんとした村。ペチカだけが立っている。まるでハティニだ。ハティニのまんなかにばあさんがふたり腰をおろしている。ばあさんたちは恐ろしくないんだ。ほかのやつなら気が狂っただろうに」

「ぼくが撮ったチェルノブイリの映画を子供たちに見せたんです。‥じつにいろんな質問が出ましたが、ひとつだけ脳裏に刻み込まれている。おとなしくて口数の少なそうな男の子でしたが、赤くなり、くちごもりながら聞いたのです。「どうしてあそこに残っている動物を助けちゃいけなかったの?」。ぼくは答えられなかった。‥ぼくらは動物や植物のところ、このもうひとつの世界におりていこうとしない。なのに、人間はあらゆる生き物にむかってチェルノブイリをふりあげてしまったんです」



人々の消えた町には野生動物が住んでいる
オオカミ イノシシ シカ ウシ ウマなど大型動物が多くいるため危険




事故後、人々の迷走
この本の中で、原発事故発生の原因を追及するところはありません。ただ、事故後の指導者側の行動や一般者の動向の関連性を、ベラルーシという国の社会体質として暴くことを、インタビューを通して丹念に提示しています。そこをつぶさに観察する事で、未来を見ようとしているのだと感じられます。


「事故処理作業に投入された部隊はぜんぶで210部隊、およそ34万人です。‥彼らは屋上で、燃料、原子炉の黒鉛、コンクリートや鉄骨の破片をかき集めたのです。‥無線操作のマジックハンドはしょっちゅう命令を拒否し、とんでもない動きをしました。放射線が高いところでは電子回路が故障するのです。いちばん頼りになる〈ロボット〉は兵士でした。軍服の色から、〈緑のロボット〉と呼ばれた。崩壊した原子炉の屋根を通りすぎた兵士は3600人です」

余談ですが、上空からの放水活動は福島でも行われていました。チェルノブイリでのこの作業に従事したパイロットはほとんどの方が犠牲者となりました。福島の時点ではこの危険性は明らかだったはずなのに、この方法をとらざるをえなかったのです。その後、高圧ポンプ車に変わりましたが、一時的にせよ、リスクの非常に高いことがわかっている手法をとるはめになったのは、前例に学んで備えておくことをしなかったからでしょう。安全神話を語るより、事故対応マニュアルを完備すべきです。それぞれの対応をだれが実行するかまで明確に決め、訓練が必要でしょう。軍事演習よりも重要です。

指導者たちは兵士だけでなく、市民の命さえも軽く見ている。当初から、事故の詳細を市民に告げず、避難も限定的にしか支持しませんでした。予定されていたメーデーの祝典のために、一日中屋外で子供たちを予行練習に駆り出してもいたのです。
市民の中でも知識のある人は、その危険性を承知していながら、『なにか』を信じて従い、口を閉ざしていました。そのなかで、ベラルーシの作家アレーシ・アダモービッチだけが演説を通して警鐘を鳴らしたのです。ところが被曝地の大人たちは冷ややかでした。

「環境保護監督局の上役たちが、騒然としだしたのは、わがベラルーシの作家、アレーシ・アダモービッチがモスクワで演説をし、警鐘をならしはじめてからです。アダモービッチに強い反感を抱いたんです。ここでくらしているのは彼らの子供や孫なのに、「たすけて!」と世界に向かって叫んだのは彼らじゃない。1人の作家でした。‥思い上がっているんだよ!ちゃんと通達があるじゃないか!上には従わなくちゃいかんよ!物理学者でもないくせに!このとき、わたしは、はじめてわかったんです、1937年がいったいなんであったか。いかにして起きたか」

1937年にはスターリンによる大粛清があったのでした。
上に従う、通達に従う。でなければ、党員証を取り上げられ、永遠に蔑まれることになります。
人々は自らすすんで、思考停止するのです。
それは昇格を望む人々だけではなく、市民も同じでした。

親しい主婦3人は、教師や医師といったインテリでした。みな子供がいます。1人が、明日、ここを離れると言い出しました。
「「もし子供たちが病気になったら、ぜったいに自分を許せないもの」
「新聞には数日後には正常に戻るって書いてあったわ。あそこには軍隊がいるし、ヘリコプターや装甲車もあるのよ。ラジオで聞いたわ」
「あなたにもすすめるわ。子供を連れて避難するのよ。これは戦争じゃないの。私たちには想像もつかないことが起きたのよ」
「みんながあなたみたいなことをしていたら、私たちはどうなるかしら?戦争にだって勝てっこなかったでしょうよ?」
「母性本能はどうしたの!狂信者よ!」

翌日、1人は子供を連れて町を出て、もう1人は子供を連れてメーデーに参加しました。いずれも自分の意志で、です。

「運命を信じていた。心の奥じゃぼくたちはみんな運命論者なんです、合理主義者じゃない。スラブ的な思考法です」
彼は放射線病を発病し二級身体障害者となった、と。

「わが国の人間は自分の事だけを考えることができないのです、自分の命のことだけを。ひとりでいることができない人間です。わが国の政治家は命の価値を考える頭がないが、国民もそうなんです」

「私たちの子どもたちは旗を持ってデモ行進に行くのよ。退役軍人、年老いたつわものたちも。
でも、これもやはり一種の無知なんです、自分の身に危険を感じないということは。私たちはいつも〈われわれ〉といい〈私〉とはいわなかった。でも、これは〈私〉よ!〈私〉は死にたくない、〈私〉はこわい」


事故から10年を経て、ソ連崩壊を経て、ようやく見つめた〈私〉。そのあり方を考えることを始められたとして、実際、まっとうに考え出せば次々に疑問が生まれ、判断に大いに悩むことにもなるでしょう。通達に従っていれば楽だった、という思考停止の時代に逆戻りしたくなるのでしょうか?
それは旧ソ連圏だけの問題ではなく、〈おかみ〉にしたがい安穏と過ごしてきたわが国の多数にも、私にも、あてはまらないとはいえません。



「ぼくが記憶していること。事故がおきて数日のうちに放射能やヒロシマ、ナガサキのついての本、レントゲンの本までもが図書館から姿をけしてしまったことだ」

ベラルーシの事故対応においては、上層部による情報操作がありました。例えば、毒ガスマスクやヨウ素錠剤の配布は、住民の不安を煽るおそれがあるからとして、倉庫にしまわれたままでした。
通達、公式見解。
日本の報道が最近陥っている危険をここに感じました。

子どもたちの記憶
最後に、アレクシエーヴィチが子供たちにインタビューしたものをいくつか上げます。

「ぼくは家に置いてきたんです。ぼくのハムスターを閉じ込めてきた。白いの。2日分のエサを置いてやった。でも、ぼくらは永久にもどれない」

「1年後、私たちは全員疎開させられ、村は埋められてしまいました。まず、大きな穴が掘られる。深さ5メートル。‥クレーンで家を引きはがし、穴に入れる。人形や、本、びんがころがっている。シャベルカーでかき集める。砂と粘土でおおい、平らにならす。村のあったところに原っぱができる。そこにライ麦がまかれた。そのしたは、私たちの家があるんです。学校も、村役場も。私の植物標本も。切手帳も2冊。取りに行きたかったわ。私は自転車も持っていたんです」





「兵隊さんたちが木や家や屋根を洗っていた。コルホーズの雌牛も。私、思ったの。森の動物はかわいそう。だれにも洗ってもらえないんだもの。みんな死んじゃうわ。森も、洗ってもらえない。森も死んじゃうわ」

高濃度汚染地域出身者の甲状腺がん発病率が有為に高いことが認められている 除染作業従事者はさらに白血病も多い PTSDや自殺の多さにも深刻に向き合わねばならない


ベラルーシでは、原発がこれほどの事故を起こし、被害は半永久的に続く重荷を背負っているにもかかわらず、現在、新たな原発を建設しています。チェルノブイリ原発も、実は完全に停止したのは最近でした(事故を起こした4号機以外。ただし、チェルノブイリはウクライナ領内)
日本でも、震災後に全ての原発は停止されたものの、5年と待たずに再稼動しています。他国への輸出もすすめています。輸出したプラントが事故を起こした場合、どうなるのか。
リスクと電力需要の天秤。経済発展との天秤。
人間の能力には限界があり、何もかもを欲しがることはかなわない。神話は、人間のものではないのです。

石棺と呼ばれたシェルターは30年を経て老朽化が著しい

現在は100年耐久を見込んだ新シェルターを建設中 既存の石棺ごと覆う形状で、構築後にスライドして設置する仕組み



メモ
・この事故では、広島の原爆250個分のプルトニウムが降り積もった

・現在、ベラルーシでは国内初の原子力発電施設2基を建設中である。リトアニアとの国境付近で、2018年、2020年完成予定。「どのみちベラルーシは周辺国の原発に囲まれている」
エネルギーの経済性と多角化がねらいのようだ

・昨今はチェルノブイリ見学ツアーがある。1日1人160ドル。立ち入り禁止区域に入る前に署名。地面に座らない、物を置かない、飲食しないなどの決め事がある。最近はドローンを使って現地の様子を見ることもできる。


2016年 30年目追悼式




以下、最近、廃炉になったベルギーの原子炉。