名のもとに生きて

人の一生はだれもが等しく一回かぎり。
先人の気高い精神に敬意を表して、その生涯を追う

幼き日の甘い思い出 ルーマニア王女イレアナ

2016-12-15 21:47:18 | 人物

ルーマニア王女イレアナ
果たせなくなった
ロシア皇太子アレクセイとの可愛い約束




Princess Ileana of Romania
1909〜1991


以前の記事で、ルイス・マウントバッテンがマリア皇女に片想いしていたことを書きましたが、アレクセイ皇太子も可愛い思い出を生前に残しています。
ルーマニア王女イレアナは、ロマノフの皇帝一家がルーマニアを訪問した際、王家同志の交流を通して、子供らしい自然な好意から、4つ上のロシア皇太子と楽しい思い出を作りました。
5歳と9歳ですからもちろん恋とは違うでしょう。
しかし、ルーマニア滞在を終え、帰国するとき、アレクセイはイレアナに、「また会いに来る」そして「結婚を」と約束したと、イレアナの遠く甘い記憶に残されていました。
1914年春、ヨーロッパが戦争に突入するごくわずか前の、最後の煌めきの時。
子供が子供らしさを謳歌する。
美しく健康的なイレアナには、病気に、かけがえのない子供時代を中断させられてきたアレクセイには眩しかったことでしょう。この時は、アレクセイも健康で、ヨットの旅とルーマニアの国土を精いっぱい楽しんだことでしょう。
運命が決めた二人の行く末、
「生きる」ほうの運命を生きたイレアナの生涯を追います。


最後のロシア皇太子アレクセイ


1. ルーマニア王国
1859年に独立したルーマニア公国は、1881年にルーマニア王国となり、1947年にソ連共産党によって王が廃位させられ、1989年まで社会主義国家でした。ルーマニアの浅い歴史のなかで、現時点でもっとも長かったのは王国時代であり、現代でもなお、帰国した元国王は、権限は持たないものの旧王室として保護されています。

イレアナ王女は第二代王フェルディナント1世の3男3女子のうちの第五子三女として誕生。
母はイギリスのサクス=コバーク=ゴータ王女マリアです。

母、兄ニコラと









2. 母マリア
母マリアについて、マリアの父はヴィクトリア女王の二男エディンバラ公アルフレート、母はロシア皇女マリア・アレクサンドロヴナです。この辺りについては過去記事「デンマーク王女アレクサンドラ」をご参考下さい。

婚約時のマリーとフェルディナント




マリアの兄弟姉妹は、
❶アルフレート 1874〜1899
②マリー(マリア) 1875〜1938
③ヴィクトリア・メリタ 1876〜1936
④アレクサンドラ 1878〜1942
❺男子 夭折
⑥ベアトリス

ヴィクトリア・メリタについては、過去記事「ヘッセン大公家」と「ロマノフ大公 アレクサンドロヴィチ」をご参考下さい。
ベアトリスについては、「ミハイル・アレクサンドロヴィチ」のなかで、最初にミハイルが相思相愛の上結婚を希望したものの従兄弟関係のために許しを得られなかったのが、この方です。
また、スペインのアルフォンソ13世とも関係があり、問題になっていました。

サクス=コバーク=ゴータでは、エディンバラ公アルフレートの長男アルフレートが自殺してしまい、オールバニ公レオポルドの遺児が引き継ぎました。「王室の血友病」をご参考下さい。

マリーは従兄弟のジョージと相思相愛となり、兄弟である父親達は歓迎したものの、イギリスを心底嫌う母に猛反対され、縁談はあきらめることに。このくだりは「ジョージ5世」をご参考下さい。

マリーは結局、王家(イギリスを除く)に娘たちを嫁がせたい母に勧められるままに、ルーマニア王太子フェルディナントと結婚しますが、彼をすぐにひどく嫌い、「大嫌いな男」と周囲に公言していました。
マリア(結婚後にマリアと改名)には6人の子供がいます。そのうち、上の2人はフェルディナントとの子のようですが、真ん中の2人はロシア大公で従兄弟のボリス・ウラディミロヴィチとの子、下の2人は愛人バルブ・シュティルベイの子だと言われています。つまり、マリアとヴィクトリア・メリタ姉妹は、それぞれ従兄弟のキリルとボリス兄弟と浮気をしていたことになります。
温順で、波風立つのを嫌うフェルディナント王は、子供たちは全て認知しています。

❶カロル
②エリザベータ
③マリア
❹ニコラ
⑤イレアナ
❻ミルチャ

カロル1世、フェルディナント、マリアと上から4人までの子供達




王も王妃も青い眼であるのに、ミルチャにいたっては瞳が茶色だったため、明らかに怪しまれていたそうです。
それにもかかわらず、王妃マリアは国民に信頼され、尊敬されていました。
結婚してルーマニアに来てからは、熱烈な愛国者となり、ともすると流されやすい王に代わって実質的に統治していました。また、第一次大戦中には、赤十字の下で活動、積極的なボランティアを行うとともに、勇敢にもドイツとロシアの両方と戦う英断をし、ヴェルサイユ講和会議には王の代わりに出席。各国王室とのパイプもあり、講和では領土を4割も拡大する、見事な手腕で国民の期待に応えました。


マリア王妃

3. 少女時代の思い出
イレアナは、とても大きくて美しい青い瞳を持って生まれてきた女の子。マリア王妃はとりわけこの青い瞳の娘を愛しました。年上の子供たちの名は、王族のならいの通りに付けただけでしたが、外国へ嫁いできて年月も経ち、自分の考えを通すことにも自信を持ちつつあった王妃は、最愛の娘に、音楽的な響きのイレアナという名を自ら授けました。イレアナの弟ミルチャも同じでしたが、チフスで夭折しました。

夭折したミルチャ

母の教えねばならないことも、イレアナはすでに天から具わっている。
母の愛を、静かに、拒むことなく受け容れる。
健康でエレルギーに満ち、周囲を魅了してやまないイレアナを、尊い存在のように感じる。
マリアは晩年、娘を賛美する手記をのこしています。『The Child with the Blue Eyes』、母が我が子に向けるまなざしが、美しい表現で描かれている素晴らしい文章です。

母マリアとイレアナ

年上の兄姉とは歳が離れているため、イレアナの少女時期に、すでに姉たちは嫁いでいました。尚更、側に置いて愛でたい娘だったことでしょう。
エリザベータはギリシア王妃に、マリアはユーゴスラビア王妃になりました。





兄カロルとイレアナ

母マリアとエリザベート

次女マリア(愛称ミニョン)



4. 二つの戦争
第一次世界大戦は、だれも予想もしていなかったし、それゆえ、どんな戦いになるか、予測もできませんでした。
1914年春、まだ大戦の風の気配もない頃、皇帝専用ヨットはルーマニア、コストロマに寄せ、ルーマニア王室と親睦のときを持ちました。着艦から挨拶までの映像が残されています。










この旅は、オリガ皇女とカロル王太子のお見合いも兼ねていたのです。オリガはカロルを好ましく思わず、会話することすら不愉快なようでした。一方、ルーマニアのマリア王妃は、オリガの寡黙なところ、あまり美しくない顔立が気に入らなかったようです。オリガはこのあと、ロシアから離れたくないという理由で、他国の王室からの申し入れは断りました。イギリスのエドワード王子も候補だったそうです。

この気まずい雰囲気の中にありながら、純真に子どもの世界を楽しんでいたのは、アレクセイ皇太子とイレアナ王女、イレアナの兄のニコラ王子です。
3人で手をつなぎ走っている映像もありました。
この、たった一度の出会いが、きらきらと忘れがたい思い出を刻んで、大国の皇太子の可愛い約束が残されたのでした。
まもなく大戦が始まりましたが、遠い未来の平和なときに、再び出会えることを心の隅で信じていたかもしれません。でもそんな未来は来なかったのです。4年後、アレクセイは銃殺され、約束は永久に果たされなくなってしまいました。

アレクセイとオリガ 最後の写真




5. I Live Again
気丈で、高い精神力と行動力を持つイレアナは、戦時中、7歳のうちから赤十字の通訳をつとめたり、母とともに病院で看護をしたり。できることは躊躇せず、すすんで奉仕しました。
やがて戦争は終わります。
ルーマニア王室では、信頼を失うような出来事が起きます。イレアナの16歳歳上の兄カロルは、父と以前から折り合いが悪かったのでした。
その上、1918年、突然、ジジ・ランブリノという平民女性と勝手に結婚し、子供ももうけます。この結婚は王室法に反するとして無効にされ、1921年、母が苦心して決めてきた相手、ギリシャ王女エレーニと結婚、ミハイ王子が生まれます。ところが、たちまち別の女性マグダ・ルペスクとの醜聞。彼女はユダヤ系で離婚歴もあります。反ユダヤのルーマニアにおいて、国民は激怒。1925年、カロルは、国王の面前で王位継承権放棄の声明を出します。
1927年、カロルの子ミハイが、幼い王として即位。1928年、エレーニ王妃と正式に離婚。ただし、エレーニはルーマニアに王母として残りました。さらに、あろうことか、マルティーニという女子高校生との間に一男一女が生まれます。

カロルとジジ

正式結婚したエレーニとカロル

カロルと息子ミハイ

この破廉恥な王父、政治家にクーデターに利用され、1930年、突然帰国し、国王宣言します。傀儡の王は、第二次大戦の攻防で失敗、退位を迫られ、ポルトガルに逃亡しました。またしても父の残した混乱を、ミハイは復位して引き継ぎますが、すでに青年となっていたミハイ1世は、1947年にソ連の共産党に追われるまでを治め続けました。
カロルは逃亡するとき、王室の財宝をごっそり持ち出し、逃亡先で売って、生涯裕福に暮らせたそうですが、ルーマニアには2度と戻れませんでした。

この間の1930年、イレアナはスペインで出会ったハプスブルク=トスカーナ大公アントンと恋に落ち、翌年、ルーマニアで結婚します。






当時の国王カロル2世は、当日国内で自分よりも、慈善事業などを通して国民に愛されているイレアナにかつてから嫉妬しており、この結婚相手がハプスブルクであることに目をつけ、ルーマニアがハプスブルク家に支配される恐れがあると焚きつけて、2人を国外追放しました。
さらに、弟のニコラは、イギリス海軍のキャリアを捨てて、ミハイの摂政となるために帰国していましたが、兄カロルの帰国復帰の際に、離婚経験のある平民女性との結婚を望んでいることを相談します。兄は始めは優しく、先に既成事実を作ればあとで同意するとなだめておきながら、既成事実化したところで非難に転じ、ニコラの称号剥奪、国外追放を命じました。こうして、国内から弟妹を追い払い、母マリアも他界して、国はカロル1人の思うようになりました。
しかし1940年、国土を割譲しなければならない原因を作ったとしてカロル2世は退位させられ、ミハイ1世が復位することになりました。

ニコラ




カロル2世に国外追放されたアントン大公とイレアナはウィーン郊外に住まい、アントンはドイツ軍の航空隊に入隊していました。6人の子供に恵まれます。
戦時中は居城を病院として開放、近隣の村でも、孤児や貧困者を救うための施設を運営しました。
ドイツが降伏した1944年以降、ルーマニアに戻り、ブラン城に住みます。除隊した夫アントンも合流しました。ここでも、The Hospital of the Queen's Heartという病院を開設します。この名は、愛する亡き母を記念しています。

ブラン城
ドラキュラの城と言われているが実際はここにすんでいなかったらしい



ところが、ミハイが退位させられたあと、イレアナと家族も国外退去をせまられました。
一家は、ウィーン、スイス、アルゼンチン、アメリカへと身を移して行きました。
かつての王女は、いまは下僕も料理人も持たない、家庭の主婦になりました。キッチンに立ち、何をどうすればいいのか途方にくれたのは最初だけ。ジャムを作り、飼っている羊からホームスパンを編んだり、開拓精神でなんでも自分の能力に獲得しました。「子供たちを飢えさせないこと」に心血を注ぐ、積極的な主婦の生活を、アメリカで築いていきました。

アメリカで『I Live Again』というエッセイが書かれています。親しみやすい表現で、身近に彼女を感じる、優しさにあふれたエッセイです。

アメリカではミセス・ハプスブルク




6. 再び、I Live Again
子育ての手が離れてからは、アメリカの地で、共産党反対運動や正教会保護活動に尽力しました。
一方、家庭では、1954年、長く連れ添ったアントンと離婚。ひと月たたぬうちに再婚しましたが、11年後に再び離婚しました。その間、フランスに渡り、正教会で修道女になり、1967年、シスター・アレクサンドラとなってアメリカに戻りました。その後、1991年に亡くなるまで、正教会の修道女として祈りの生活を続けました。





王女から、居住を転々とし、晩年は静謐な祈りの中で穏やかに過ごしたイレアナ。天使のような子供時代も、老修道女の笑顔も、どちらもとても魅力的です。日本だったら、朝ドラのヒロインでしょう。

むかしむかしに、もうすでに残りわずかな人生しか残されていなかったアレクセイに、明るい楽しい時間を与えたイレアナ。20世紀を生き抜いてきたその手に、失われた皇太子の手の感触が時折よみがえることはあったでしょうか。育て上げた6人の子供達の手の記憶に混じりながら?
その手が彼女の時計を止めるまでのあいだに。








『I Live Again』『The child with Blue Eyes』などは英語版ウィキペディアのリンクから、閲覧していただくことが可能です。



15 コメント

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Unknown (ちい)
2016-12-16 07:45:39
初めまして。ロマノフ家が好きで検索していてたどり着きました。
文章が面白く、写真も豊富でとても素敵なブログですね!
100年くらい前のヨーロッパ王族が好きなので、とても読み応えありました。
しかし、姉妹で従兄弟と不倫して子供もうけるって、王族も乱れてますね‥。結構昔の方がその辺緩かったのでしょうか?

今後も無理ないペースで続けていただけると嬉しいです(^ ^)
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Re:Unknown (geradeaus170718)
2016-12-16 12:52:47
こんにちは
コメントいただき、ありがとうございます。
私もちいさんと同じで、あのくらいの年代のヨーロッパ王室に魅かれています。
平民女性と結婚したがる王子がずいぶんいるんだな、と思っていましたが、王族の女性たちのほうにも遠因があるのかな、と思いました。
まだまだ調べて書きたいことがたくさんあるので、ぼちぼち続けていくつもりです。
こんな調子のブログですが、おつきあいいただけたら嬉しいです
返信する
Unknown (佑美)
2016-12-26 15:02:29
いつも 興味深い内容を とても楽しく読ませて頂いてます!
ロマノフ家は 私も昔からかなり興味があり 沢山読んでいたのですが こちらのブログから 本当に知らなかった知識や興味深い画像を知りました
ありがとうございます
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Re:Unknown (geradeaus170718)
2016-12-26 22:10:28
コメントいただきありがとうございました。
返信が遅くなり、失礼いたしました。
ロマノフ家に関する本は、ついつい欲しくなって買ってしまいます。ただ、私の場合、最後の皇帝ファミリーについては些か情報通かもしれませんが、それ以前のロマノフ家についてはあまり詳しくはありません。
かわいらしいアレクセイの写真を、わが子を見るように眺めてシアワセな感じのロマノフファンです。
荒削りな内容で読みにくいかと思いますが、お目にとめていただけて光栄です。
ありがとうございます!
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Unknown (佑美)
2016-12-27 00:33:54
帝政ロシア末期は 本当に歴史の中でも 特別な時代だったと思います
ファベルジェ ラスプーチン 生きた芸術品のようなユスポフ夫妻 ハプスブルグ家やブルボン家よりも もっとドラマテイックで悲劇的だと思います
後世の私達の勝手なノスタルジーですが…
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Re:Unknown (geradeaus170718)
2016-12-27 00:52:56
おっしゃるとおり、美しく、悲劇的に感じますね。
大型船が沈んでいくのを見るような‥
非常に大きな国ロシアが、その大きさゆえに崩れていく、音も絵もない情景に息をのむ思いがしますね‥
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驚いて (ここしゃん)
2016-12-29 00:33:10
このところ忙しくてアメーバのブログにお邪魔できていなくて、久しぶりに伺うと止めていらして驚きました。
とても素敵なブログで刺激を受けていたのでちょっと寂しいです。
気づくのが遅くなってごめんなさい。
パソコンのお気に入りが消えてしまい、こちらを探すのに正確なブログ名を忘れて手間取ってしまいました。
もともとこちらが主でしたね。
これからはこの重厚なブログを静かに読ませて頂きます。
今までのやりとり楽しかったです。
ありがとうございました。
返信する
ここしゃんへ (geradeaus170718)
2016-12-29 10:19:40
すみません!
探して来て下さって、大変お手数おかけしました
最後のページに、終える旨とここのIDを入れていたのですが、削除までが早すぎたようです、失礼いたしました
あちらではゆる〜いことを書いていくつもりでいたのですが、ごちゃごちゃになってきたので閉じることにしたのです。ロマンくん!とかユーリ!!!みたいなのはもうちょっと続けたかったかな‥

昨今、不用意に見聞を広めては、心がざわざわして尖った文を書いてしまいます。ここしゃんのように、空を仰いで虹や光りを見つけられるように、私もならなければと思っています。
もし、今後こちらの長たらしいモノを読んでいただけたなら、ぜひご意見をお願いいたします。
ここしゃんのおおらかな視点で、おさめていただきたいと勝手ながら願っております。

蛇足ながら、最後の記事の後半(前半は「ユーリ!‥」の件なのでパス)、読んでいただけたらな、と思いまして、この次のコメントで上げます。
ご一読いただければ、と!

また、あちらのアカはまだ残っているので、時々いいねにおじゃまするつもりです

これまで本当にどうもありがとうございました。
返信する
あしあと (geradeaus170718)
2016-12-29 10:29:15
あしあと
マーガレット・F・パワーズ

ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
一つはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生で、いちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたはすべての道において、わたしとともに歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
ひとりのあしあとしかなかったのです。
いちばんあなたを必要としたときに、
あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
わたしにはわかりません」
主はささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりしない。
ましてや、苦しみや試みの時に。
《あしあとがひとつだったとき、
わたしはあなたを背負って歩いていた》」

これは作者が、婚約者と二人で海辺を歩いていたとき、ふと振り返ると、波であしあとが消されて、ひとり分のあしあとしかなかったことに不安を感じた彼女に、「あれは僕たちを背負ってくださる神様のあしあとだよ」と彼。
そこから生まれた詩だということです。

最近、似たようなイメージの記述に出会いました。それは、


平家物語「善光寺炎上」
そのころ、信濃の口で善光寺が炎上した。本尊阿弥陀如来は、昔、中天竺の舎衛国に、‥(中略)弥陀の三尊で、三国無双の霊像である。釈迦亡きあと、天竺に五百年鎮座していたのであったが、佛法の東漸にしたがい、百済の国へ移され、一千年ののち、百済の聖明王の時代、すなわちわが国の欽明天皇の時代におよんで、百済から日本へ渡られ、摂津の国難波の浦にとどまっておられた。つねに金色の光を放っておられたので、年号を金光と号したのである。その金光三年上旬に、信濃の国のの住人麻績の本多善光という者が、都へのぼったところ、阿弥陀如来にお会い申したので、そのままお誘いして、《昼は善光が如来を背負い、夜は善光が如来に背負われて》、信濃の国へくだって、水内の郡に安置し奉ってより以来、すでに五百八十余年の星霜を経たが、炎上はこのたびが初めてと聞く。「王法尽きんとては、仏法まず亡ず」という言葉がある。そのためか、さしもという霊寺、霊山の多くが滅び失せたのは、王法が末となった前兆であろうか、ともっぱらの噂であった。


こちらは神に背負われるだけでなく、
神を背負う。
絶対服従の神ではなく、人とともに手を差し伸べ合う間柄の神はやさしく、人のような「あしあと」を持っています。
背負い、背負われることは、人の日常でも、たびたびあること。心の側面も含めて、寄り添い、互いに手を、背中を貸しあう優しさは良いものです。
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Unknown (りつこ)
2016-12-30 03:10:43
秋頃から読ませていただいています。

マイケルジャクソンが好きで検索して、ライアン・ホワイトの記事を読んだのがきっかけです。

そこから引き続き、深夜一気に読んでしまいました。特に関心のなかったジャンルのお話が多いのにもかかわらず、とても面白く読ませる文章で、ブログとは思えない質だなあと驚いています。

普段読まないジャンルのことばかりなので、読むたびに世の中、知らないことが多いなあと感じさせてもらってます。

今回の記事も、とても面白く読ませていだたきました。イレアナの美しさと生き方に感嘆しました。幸せは自分の心次第、ですね。

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