名のもとに生きて

人の一生はだれもが等しく一回かぎり。
先人の気高い精神に敬意を表して、その生涯を追う

ヘッセ『アウグストゥス』と故事「邯鄲の枕」

2020-02-15 13:16:00 | 読書

微睡みの前と後
夢と現実の境に





『アウグストゥス』はヘルマン・ヘッセ(1977〜1963)の短編集『メルヒェン』の一話で、元は1913年に創作されたもの。ヘッセの経歴についてはその作品に反映されているとおり、少年期の不安、戦争に沸き立つ時代にそぐわないため非難された平和への希求、自殺未遂、精神不安からの回復など、長い生涯に様々な屈折があった。『アウグストゥス』は1914年の第一次世界大戦開戦の前年の作で、平和な時代の最後の頃のものである。

中国故事「邯鄲の枕」は「邯鄲の夢」「一炊の夢」とも同じ謂。趙の都邯鄲を訪れた若者盧生がその地の宿屋で道士に出会い、自分の平凡な生活への不平をもらすと、道士は夢が叶うという枕を勧める。早速使った盧生は、みるみるうちに幸せをつかみ、時に不幸になることもあったが大望を叶え、王になり、やがて老齢となって満たされたまま死を迎えた。すると気付けば元の宿屋の同じ場所で、寝入る前に宿の婆が火にかけたお粥の鍋がまだ煮えてもいない、まさにほんの僅かな時間しか経過していなかったのだ。人生の全てを見てきた若者は心を新しくし、道士に礼を言って帰って行ったという話。日本でもよく知られており、能の演目としてもメジャーで、専用の「邯鄲男」という面がある。
『アウグストゥス』はこの故事と構成が似ているが、実は全く逆になっている。







1. あらすじ
エリーザベト夫人は夫を失ってまもなく、赤子が生まれようとしているのに、周囲に助けてくれる者がいない。先々のことが不安であるが、もしも何か自分でどうにもできないことが起きたら、隣に住む老人を頼ろうと決めている。挨拶くらいしかしたことがないが他に考えがなかった。不思議なことに、時々夕方頃老人の家から微かで精妙な音楽が聞こえることがあり、近隣でも老人は謎めいた存在でもあった。
お産が始まりそうになった時、どこからか現れた女性が全て世話をしてくれたが、聞いてみると隣の老人の依頼だと言う。エリーザベトはそのお礼と、生まれた子の洗礼のための名付け親になってもらいたいと隣家を訪れた。ピンスワンゲル老人は願いを聞き入れ、その子にアウグストゥスと名を授けた。そしてお祝いがわりに、母が子の将来に望むことを、その日夕方、彼の家からささやかな音楽が聞こえる間に願いを唱えるようにと言った。迷うままに母が願ったのは、「みんながお前を愛さずにはいられないように」というもの。

願いの通り、アウグストゥスは誰もが目を留め可愛がり、何かを与えたり世話をしようとしたりするのだった。願い通りで母も幸福だったが、ある少女への息子の傲慢な態度を垣間見、強い不安に陥った。彼のそうした態度はしばしば見られるようになり、母は自分のあの時の祈りのせいだと心を暗くしていった。
少年は幼い頃からビンスワンゲル老人を慕い、家に入れてもらうことがあった。家は狭く暗いが、暖かい暖炉の火と、どこからか聞こえてくるオルゴールのような音色の音楽、音楽が部屋に満ちると天使のような子供達が空中で戯れ踊る。遊び疲れている少年は老人の膝に寄りかかり、うっとりとその様を見ながら眠りに落ちるのだった。次第に、アウグストゥスは周囲から親切を受けながらも冷酷な態度をとることが多くなり、老人の部屋を訪れても音楽がめったに聞かれず、暖炉の火も乏しいものになっていった。

やがて誰かの好意によって優れた学校の寄宿舎に入れることになり、町を後にしたアウグストゥス。立派な大学生となり、家を再び訪れたのは母がもう危なくなってからのことだった。母を失い、疲れたアウグストゥスを老人は家に招いたが、かつてのように彼を迎える音楽も炉火なかった。
アウグストゥス青年は大学に戻ったが、学問に飽き、セレブたちとの享楽に明け暮れ、皆にちやほやされ、益々高慢になり、彼を慕ってくる人をわざと陥れたり、金品に汚くなったりしたが誰も彼を咎めなかった。またアウグストゥス自身、どんな豪勢な生活をしても満たされることがなかった。

あるときとても美しく心惹かれる女性を見出したが、公使をしている夫のある人だった。初めて心から求める女性に出会え、精一杯アピールし続け、ようやく告白して駆け落ちしようと誘う。すると彼女もまたアウグストゥスは初めて心から愛した人だと言う。ところが
「私は純潔でも善良でもない人を愛することがありえようとは、ついぞ考えたこともありませんでした。でも私は夫のもとにいることを数千倍も望みます。私は夫をあまり愛しておりませんけれども、夫は騎士であって、あなたのご存知ないような名誉と高貴さを豊かに備えております」
はかなく恋に破れ、それ以降、彼はますます退廃的になり堕落した。自暴自棄になり、気力も失い、生活もすさんできた。とうとう自殺をすることを決意する。ただし、邪悪な彼は死ぬその日に友人たちを祝宴に招くとうそぶき、自分の死んだ姿を見せつけて驚かしてやろうと計画した。全て準備万端でいざ毒杯をあおろうとしたとき、ドアが開いてビンスワンゲルが入ってきた。老人がまだ生きていたことに驚いていると、遠くからやってきたという老人はのどが渇いたとアウグストゥスの手から杯を取って飲み干してしまう。心配して動揺するアウグストゥスに、ビンスワンゲルは過去の母の願いの秘密を話し、愚かな願いだが母のために叶えたもので、それが君を不幸にしたと詫びた。
「今のところ、君の心が再び健康に清く朗らかになることなどおそらく不可能に思われるだろう。だがそれはできることなのだ」
そして
「君を再び楽しくするような不思議な力があると思ったら、それを願いたまえ」
アウグストゥスは遠い光を見極めるように思い巡らし、溢れる涙で決意する。
「ぼくの役に立たなかった古い魔力を取り消してください。その代わり、ぼくが人々を愛することができるようにしてください!」
涙ながらにぬかずくアウグストゥスを老人は抱き上げ、寝床に運び、
「これでいいんだよ。なにもかもよくなるだろう」
深い眠りに落ちたアウグストゥス。老人は静かに出て行った。

騒音で目が覚めたアウグストゥス、招かれた友人達が祝宴の支度が何もないことに怒り、室内を荒らし、略奪したりアウグストゥスに危害を加えたりして帰った。その後もたくさんの裁判に訴えられ、罵詈雑言を浴びせられ、唾を吐きかけられ、ただアウグストゥスはそんなにされても、相手の目の中に悪意以外のものを見つけては密かに静かに親しみを抱いていた。財産も物資も失い、浮浪者に身を落としても、困っている人にさりげなく手を貸し、感謝されることがなくとも満たされていた。

時が経ち次第に体も弱まり、疲れに打ち勝てなくなった。ある冬、雪がひどく降り始め、アウグストゥスは歩くのがようやくという有様になってきた。ふざけた子供らが彼に雪玉を投げつけ嘲って行ってしまったが、もはや大雪の夜の更けた町を歩く人は見られなかった。疲れに耐えきれず、ある路地を曲がったら、なぜかそこになつかしい彼の家と隣の老人の家が並んでいた。老人の家の窓に灯を認めたアウグストゥスは、やっとの思いでドアを叩く。迎え入れる老人。かつてのように古い毛皮を暖炉の前に広げ、二人の老人は並んで座り、火を見つめた。
(ここからは引用)

…「お前さんは遠い旅をしたね」
「ああ、ほんとに美しかった。私はただ少し疲れてしまった。あなたのところに泊まらせてもらえるでしょうか?そしたら、あすはまた旅を続けます」
「ああ、それもいいよ。だが、あの天使の踊りをもう一度見たいと思わないかい?」
「そりゃ、見たいです、また子どもになれるんでしたら」
「お前さんはまたたいそうきれいになった。ほんとによくわしを訪ねてきてくれた」
旅人はこんなに疲れたことはまだなかった。快い暖かさと火の光に彼はぼんやりしてしまって、今日と昔のあいだをもうはっきりと区別することができなかった。
「ビンスワンゲルおじさん。ぼくがまたいたずらしたので、おかあさんがうちで泣いちゃった。おじさん、ぼくがまたおとなしくするって言っておくれ。いい?」
「いいとも。安心するがいい。おかあさんはお前をかわいがっているんだよ」
今はもう暖炉の火は燃えほそっていた。名付け親はアウグストゥスの頭を自分のひざにのせた。美しい楽しい音楽が暗いへやにやさしく幸福にひびいた。すると、無数の小さい輝く霊が漂ってきて、空中で輪舞した。
ふと彼は母に呼ばれたような気がした。しかし彼はあまりに疲れていた。それに、名付け親が、母に話してやると約束してくれた。彼が眠りこむと、名付け親は彼の両手を組み合わしてやり、静かになった心臓に耳を澄ました。そのうちへやの中はすっかり夜になってしまった。







2. 微睡みの先に
邯鄲の故事では出来事は夢の中であり、目覚めたら現実がそのまま待っていて、盧生にはここから新たな始まりがある。『アウグストゥス』では微睡みから微睡みの間が全て現実の刻々と消費される人生で、最後の微睡みのあとには何もない。命とともに消える。アウグストゥスの生涯は特殊で、むしろこの世のものとは思えないような展開ではあるが、それは現実の生涯の初めから終わりだった。

我が子が誰からも愛されることを望むのは、愚かしいかもしれないがほとんど全ての親の願いだろう。我が子が他の子と見劣りしないよう、ちゃんとした服を着せてやりたい、一つ二つは習い事をさせてやりたい、そのために小さな苦労を積み重ねる親心を否定したくない。私もそうしてきた。ただそれは親自身の安心のために芽生える思いに過ぎないのかもしれない。親だからこそ近視眼的になってしまうのにはよくよく気をつけたいと反省する。

アウグストゥスが幸福を感じた後半生で何を見つめて生きていたのか。人々を愛するまなざしが書き出されている部分を引用し、心に落とし込みたい。
(以下引用)

しかし、派手な生活を送っている最中に彼を窒息させようとした恐ろしい空虚と孤独は、すっかり彼から離れてしまった。子どもたちが遊んだり、学校へ行ったりするのを見て、かわいく思った。自分の家の前のベンチにこしかけ、しなびた手をひなたで暖めている老人たちを、彼はいとおしく思った。思いこがれるまなざしで娘の後を追う若者や、仕事を終えて帰宅し、子どもを腕に抱き上げる労働者や、馬車に乗って静かに急ぎながら病人のことを考えている上品そうな利口そうな医者や、夕方場末の街灯のもとで待ち受けながら、彼のようにつまはじきにされた人間にさえもこびを売る粗末な身なりの哀れな少女などを見ると、それらの皆が彼の兄弟姉妹であった。

そのうち、冬になり、また夏になった。アウグストゥスは病気になって長い間施療病院に寝ていた。ここで、打ちのめされた貧しい人々が粘り強い力と希望をふるい起こして、生に執着し、死に打ち勝とうとしているのを見るという幸福を、彼は静かに感謝しながら味わった。重病患者の表情に忍耐が、回復期の人々の目に明るい喜びがつのってゆくのを見るのは、すばらしいことだった。死んだ人たちのおごそかな顔も美しかった。これらの全てより美しいのは、愛らしい清らかな看護婦たちの愛と忍耐とであった。

生老病死を自分だけに感じるのでなく周囲に見る。人々の輝きを見とめ、それらを大きく抱き寄せる。そんな仕草が見える。












腐敗した政治家や詐欺師のニュースを耳にすれば、この世の全ての営みが美しいわけではないと思うだろう。人に銃を向ける人間の目、午前中に爆撃機を操縦して空爆を行い、午後に帰宅し広場で野球する息子に手を振る操縦士の目、それらを愛をもって眺めることは無理だ。
ただしヘッセのこの作品は第一次大戦を迎える前年のもので、まだ究極の破滅を世界が経験する前のもの。一方の『邯鄲』は戦国時代とはいえ、紀元前の言い伝えである。
それでも自分の身の周りに目を向けて見れば小さな光を放つ幸福があふれている。
盧生も、平凡な日常に心を腐らせていたが、夢の跡に人生のはかなさに気づいた。どんな世にあっても、身辺に輝きを放っている愛しく小さいものたちを日々大切に集めて生きたい。それが日々の糧だ。








実は、これを書く前に、11月から準備して書くのにひと月ほどかけた記事があって、ようやくアップというときに本文全部が消えてしまうという大惨事があり…
やり切れなさに、勢いにまかせて二晩で書いたのがこれです。
落胆がおさまったころ、書き直しに挑戦したい。愚痴でした。

アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』

2017-06-05 23:52:38 | 読書
「かわいい女の子でもいたかった」
従軍した女性の記憶
涙の宝石を繋ぐ作業の中から零れる物




写真は著作から引用したものではありません



序.
『戦争は女の顔をしていない』
スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ

WAR'S UNWOMANLY FACE
by Svetlana Alexievich 1984

2015年度ノーベル文学賞を受賞したスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの初期の著作。戦争の記憶をたどるドキュメンタリー作品で、1978年に取材を開始した。1978年当時では既に多くの戦争ドキュメンタリーが存在していたが、この著作が異色だったのは、取材するのが女性作家であり、取材対象も女性であったということ。更に、作家は取材対象者の年代と比べればいわば娘のような年齢であったことだ。
「いまさらわざわざ女に語らせなくても男が充分語り尽くしてきただろう」
そんな冷ややかな眼ざしのもとで、500人を超える女性の証言を預かり、思いを背に荷い、それらを大切に編む。重く、閉じ込められ、ようやくその口から零れた言葉、息づかい、沈黙‥
悲しみ苦しみの中でどこか美しいかたちは黒真珠
を想わせる。
アレクシエーヴィチの確かな手で繋がれた思いの粒。その微かな輝きに、同じ女性として深く共感。心の内側につたう滴。
著作のなかから、語られた記憶のなかから、私の内に取り込まれた映像のスクリーンショット。
悲しく美しい断片をここに呈示してみたい。



1. 戦争の記憶は青春の記憶

「あの人たちは地面の下で何をしているの?
戦争のあとじゃ、地上より地下のほうがたくさん人がいるんじゃないの」

アレクシエーヴィチが子供の頃、同じアパートの男の子にそう聞かれたらしい。
第二次世界大戦のソ連では100万人を超える女性が従軍した。最前線で激戦に投入されている女性の姿に敵方のドイツ兵は驚く。そればかりでなくパルチザンなどの抵抗運動に参加して戦った女性も多く、いずれも男性に劣らず勇敢だった。

「戦争は女の顔をしていない。しかし、この戦争で我々の母親たちの顔ほど厳しく、すさまじく、また美しい顔として記憶された物はなかった」(アレーシ・アダモーヴィチ)

アレクシエーヴィチの戦争の記憶は、子供としての体験だった。いわば後方で護られていた存在だ。当時、従軍した15歳から30歳の女性兵士の戦争体験は遠くに聞こえる話でしかなかっただろう。「戦時の人々しか知らなかった」、「女しかいない村」、それがアレクシエーヴィチの子供の頃の記憶であり、世界だった。
アレクシエーヴィチはあるときアダモーヴィチの『わたしは炎の村から来た』という著作を読んで、こうした調査をすることを決めたという。
女しかいない村で、女の声が戦争のことを呟く声を聴いて育ってきた彼女は、戦争について書かれている物、すなわち「男の言葉」で語られた「男の」戦争観ばかりが世に存在し、女たちはひたすら黙っているばかりの状況に違和感をおぼえる。

「女たちの」戦争にはそれなりの色、臭いがあり、光があり、気持ちが入っていた。そこには英雄もなく信じがたいような手柄もない、人間を超えてしまうようなスケールの事に関わっている人がいるだけ。そこでは人間たちだけがくるしんでいるのではなく、土も、小鳥たちも、木々も苦しんでいる。地上に生きているもののすべてが、言葉もなく苦しんでいる、だからなお恐ろしい‥

光学にはレンズの「強度」という概念がある。とらえた画像をより確実に見せるレンズの能力のことだ。そして、女性の戦争についての記憶というのは、その気持ちの強さ、痛みの強さにおいてもっとも「強度」が高い。「女が語る戦争」は「男の」それよりずっと恐ろしいと言える。男たちは歴史の陰に、事実の陰に、身を隠す。
女たちは男には見えないものを見出す力がある


語られなかった女たちの戦争の物語を書きたい。
アレクシエーヴィチはそう思い立ったのだった。



取材を通してアレクシエーヴィチは世界の深さを覗く。

「一人の人間の中で人間の部分はどれだけあるのか?その部分をどうやって守るのか?」
彼女はドストエフスキーの問いに向き合う。
戦争という獰猛な世界から平和な日常に戻ってきた人たちが感じる孤立感。それは別の惑星からやってきたようなものだと。死が身近だった人たちの言葉にならない感覚。当人はどう語ればよいものか知らず、聞くほうにも聞きとれない。

その人たちは話し相手であるわたしとは別の世界にいるのが常だ。こういう会話では少なくとも三人の人がそれに加わっている。今語っている人、その出来事があったときそのただ中にあった本人、そしてわたし。

今語られる内容には、今までの人生すべてが含まれてしまう。いまの感情も含んで過去の事実をとらえ直して語られてしまう。見たこと、読んだこと、どんな人と会ってきたか‥
インタヴューにどんな人が同席したかによっても物語は左右される。

時と空間を隔てることで書き直されたり書き加えられたり、という部分も承知で物語に耳を傾ける必要があり、語られる今の舞台装置による脚色も承知しておく必要もあり‥


あらためて確信したのはわたしたちの記憶というものが理想的な道具にはほど遠いということ。それはわがまま勝手なだけでなく、自分の時代に犬のようにつながれている。この人たちは自分が経験したそのことに惚れ込んでいる。というのも、これは単に戦争というだけでなく、彼らの青春でもあったのだから。

英雄、伝説の人、偉大な巨人‥
そういう大きな存在の人間が、彼女の前では現実の命を持つちっぽけな人間の姿になる。

どんなに私が空や海を眺めるのが好きであっても、やはり私は顕微鏡で覗くちっちゃな砂粒のほうにより惹かれる、一滴の世界に。そこに私が発見する大きな世界に。

時に恍惚に包まれて語られる青春であり、時に嗚咽と沈黙だけしかない修羅場である、女たちの記憶の粒、涙の粒。それらをアレクシエーヴィチは結晶にする、真珠を編む。


2. 女性兵士の実態
他国においては、従軍する女性は電話交換手や看護婦、炊事係など、後方で勤務する役割だけだった。しかしソ連では、女性兵士は男性と変わりなく前線に在り、実際に人を殺す兵員だった。
アレクシエーヴィチのインタヴューに答えた女性兵員たちの任務は実に多様だ。

狙撃兵、機関銃兵、衛生係、従軍記者、運転手、料理係、看護婦、洗濯係、航空整備士、理容師、書記(カメラマン)、電話交換手、土木大隊長、一等飛行士、パン焼き係(前線)、医師、運送係、装甲車修理工、歩兵、爆撃手、通信係、艦隊大尉、給食係、地雷除去工兵、斥候、人民芸術家、暗号解読係、機関士、高射砲兵、投光器操作係、政治指導員、輜重

狙撃兵はもちろん最前線で殺傷を行うし、爆撃手は一晩に12回も出撃する過酷任務を負う。機体はペラペラの木造で、火がつけばマッチのように燃えるだけだ。衛生係は、前線で重傷を負った兵士を背に負い、匍匐で塹壕まで引き摺ってくる。自分よりはるかに重い負傷兵二人を交互に負えば、わずかな距離でも時間はかかる。しかし負傷兵の命を思えば急を要するのである。地雷除去の「失敗」は一生に一度まで。つまり失敗は死。どれも死にとりまかれた環境のなかで、最大限の活動をする気概が必要とされる。


リュードミラ・パヴリチェンコは300人以上を倒した辣腕の狙撃兵







女性兵士の行軍において重大なネックとなるのは生理の問題だ。排泄も男性のようにどこでも済ませられるわけではない。配給される下着は男物、しかも男性兵士の半分しか支給されない。仕方なくシャツの袖を破いて当てがうが到底足りず、行軍中は脚をつたって地面に血が点々と垂れる。後から行軍する男性兵らは気づかぬふりをする。ズボンは血で汚れ、ガビガビになる。こんなことも慣れてしまえばと思うかもしれないが、まだ年端も行かない若い女性ゆえに恥ずかしさから大きなストレスだった。なかには従軍後に知らないまま初潮になり何が起きたかわからず、病気なのだと思って相談したら、年配の男性上官が親身に説明してくれたという話もあった。

もう一つ。15歳から20歳代の女性ならば恋愛と無縁ではいられない歳頃だ。恋愛があったからこそ生き続けることができたという人もいるが、逆に戦場で恋愛なんてふしだらだとばっさり斬り捨てる女性もいた。
中高生が「〇〇先輩、好き!」などと騒ぐのと同じように、「(上官の)〇〇中尉、すてき!」みたいに女子どうしで盛り上がっていて、中年の上官から「コラッ」とやんわり叱られるところなど、国家が違っても時代が違っても変わらないなと微笑ましく思える。
具体的な恋愛対象の男性がまわりにいなかったとしても、恋を夢見て可愛らしくしていたい。綺麗でいたい。髪を梳かしたい。けれども、後ろ髪は男のように刈り上げねばならず(後年は髪を伸ばせるようになった)、ささやかに前髪を撫で付ける程度にしか構うことができなかった。
自分のもっとも美しい時を戦場で過ごし、戦後はいっきに老けてしまう。そんな娘達が多かった。

従軍する他に、パルチザン活動や市民の抵抗運動もあった。幼子を連れたただの母親の散歩を装った索敵行動、赤子を無理矢理泣かせて検問をかい潜り、物品や情報を運ぶ。いつも成功するとは限らない。拷問の果てに見せしめの首を括られることは承知の上。わが子を危険にさらす苦しみとの板挟みに、人気ない森へ行き、子を抱きしめて泣いたという。

「朝に笄ありて夕に白骨と化す」
戦場の女性たちに笄(こうがい:かんざし)はもちろんないけれど、躍る心の美しさは哀しい哉、朝陽の中に輝くばかりであっただろう。




3. 音、色、空気、匂い、恋
緊迫した銃撃戦の最中であっても、死屍累々の凄惨な荒廃地にあっても、ふと美しいものを見つけて自分の置かれている状況を忘れることがあるのは女性ならではの感覚なのかもしれない。
アレクシエーヴィチはインタヴューを通してこういう印象を持った。
「戦争に女性らしい日常などありえないと思い込んでいた。…でも、私は間違っていた…まもなく、何人かの会見で気づいたことだが、女性たちが何の話をしていても必ず「美しさ」のことを思い出す、それは女性としての存在の根絶できない部分。」


「戦争の映画を見ても嘘だし、本を読んでも本当のことじゃない。違う…違うものになってしまう。自分で話し始めても、やはり、事実ほど恐ろしくないし、あれほど美しくもない。戦時中どんなに美しい朝があったかご存知?戦闘が始まる前…これが見納めかもしれないと思った朝。大地がそれは美しいの、空気も…太陽も…」(軍医外科)


「10年経っても、目を閉じれば、浮かんでくるんです。春、戦闘が終わったばかりの畑で負傷兵を捜している。畑の麦が踏み荒らされていて。ふと味方の若い兵士とドイツ人の兵士の死体に行き当たります。あおあおした麦畑でそらを見ているんです。死の影さえ見えません。空を見ている…あの目は忘れられません。」(衛生指導員)


「病室は恐ろしい静けさに包まれていた。あんな静寂はほかのどこにもなかった。人間は死ぬ時に必ず上を向くの。横を向いたり、そばに誰かがいてもそっちを見るということは決してないの。上だけ見てる。天井を。まるで空を見ているように。」(看護婦)


「憶えています…あの感覚を。雪の中では血の匂いがことさら強かったのを、はっきりと憶えています。
何を憶えているか…強烈な印象?記憶に刻み込まれていること?静寂ね。重傷の患者の病室の異常な静けさ。一番重傷の人たち…そういう人たちは互いに話をしないの。誰も呼びつけないし。多くは意識がない。たいていは横になったまま、黙っている。どこかあらぬ方を眺めて考えている。呼びかけても、聞こえていません。
何を考えていたんだろう?」(野戦病院メンバーの一人)



ラトヴィアの中立地帯に残されていた住人。妻がお産が始まったので助けて欲しいとその夫が軍医のところへ駆け込んだ。砲弾の雨にさらされながら、女医と警護の兵数名が小屋に向かい、無事出産。数日後、進軍のお別れに来たとき。
「(女の人は)まだ起き上がることができないのに、少し身を起こして美しい螺鈿のおしろい入れを私に差し出しました。一番大事にしていた物のようです。私はおしろい入れの蓋を開けました。夜の闇、あたりは銃声が鳴り響き、砲弾が炸裂している中で、おしろいの匂い…今でも思い出すと泣きたくなります。おしろいの匂い、螺鈿の蓋、ちいちゃな女の赤ちゃん、何かとても家庭的な、本当の女らしい生活…」(準医師)



「男たちは何事であれ私たちより苦労しないで順応できた。ああいう禁欲的な不便な生活に…ああいう関係に…でも、私たちは寂しかった。とても家が恋しかった。おかあさんが恋しかったし、暖かい家庭が恋しかった。モスクワから来ていたナターシャ・ジーリナという子がいて、勇敢な行為に対して「剛毅記章」をもらい、数日、家に帰らせてもらったの。その子が戻って来たとき私たちはその匂いをくんくん嗅ぎました。文字通り、行列を作って順番に匂いを嗅がせてもらった。おうちの匂いがすると言って。そんなに家が恋しかったの…」(衛生指導員)



「ある訓練の時。なぜかこれを思い出すとつい涙が出てしまうんです。春のことで射撃訓練が終わって、戻る時。スミレの花をたくさん摘んで小さな花束にして、銃剣につけて帰った。そうして歩いてたんです。キャンプに戻ると、指揮官は全員を整列させて、私に列から出るように言います。列から出るのに、花束をライフルに結びつけたのを忘れたままでした。指揮官は小言を言い始めました。「兵隊は兵隊らしく。花摘み娘ではないんだ!」こんな状況の中で花のことなんて考えられることが指揮官には理解できなかったんです。
でもスミレは捨てませんでした。そっとそれをはずしてポケットに入れました。スミレのせいで3日間の罰当番を課せられました。」(運転手



「空襲の中で山羊が一頭やって来て、そばに横たわるんです。伏せている私たちのそばに、そして大きな鳴き声をあげています。空襲が終わったら、私たちに付いてくるんです。人に身体を押し付けてきます。動物だって怖いんです。村に入った時、女の人に頼みました。「可哀想なの、飼ってちょうだい」救ってやりたかった…
村を奪還した。ある家の庭に入ると、…庭に射殺されたその家の主が倒れていた。そばに飼い犬が座っている。私たちを見つけて歯をむき出した。私たちに襲いかかるのではなく、私たちを呼んでいるふうだった。犬について小屋の中に入ると戸口に奥さんと三人の子供たちが倒れていた。犬はそのそばに座って泣いている。本当に泣いているの。人間が泣いているみたいに。」(野戦病院メンバーの一人)



「初めは死ぬのが怖かった。自分の中に、驚きと好奇心が同居していて、そのうち、疲れ果てたらどちらもなくなった。いつも力一杯働いていたから。そんなことを感じる余裕もなくなったのね。ただひとつだけ恐れていたのは死んだあと醜い姿をさらすこと。女としての恐怖だわ。砲弾で肉の断片にされたくなかったんです。そういうのを自分の目で見ていたし、その肉片を集めもしたから。」(衛生指導員)


「その子は棺の中に横たわって、本当にきれいだったわ、花嫁のようだった…」(歩兵)


「私はメダルを授与されることになったのだけど、古い詰め襟のシャツ一枚だったの。それで、ガーゼで襟を縫い付けたの。やっぱり白だから。そのとき自分がとてもきれいになったような気がしたわ。鏡はなかったから、見ることはできなかったけど。何もかも爆撃で壊されてしまったから」(通信兵)


「私がきれいだった頃が戦争で残念だわ、戦争中が娘盛り。それは焼けてしまった。その後は急に老けてしまったの…」(自動銃兵)



「ドイツのある村でお城に一泊したときのこと。部屋がたくさんあって、すばらしいものばかり!洋服ダンスの中は美しい服で一杯。一人一人がドレスを選びました。言葉では伝えきれないほど、きれい、長くふわっとして。…もう寝る時間で、みな疲れ果てていた。それぞれ気に入ったドレスを着たままたちまち寝入ったわ。」(狙撃兵)



「あたしたちはプチーツィン連隊長が大好きだったの。「おやじさん」って呼んでたわ。他の人と全然違う。女心を分かってくれたのよ。モスクワ近くまで退却したとき、一番辛い時期だったのに「モスクワももう近い、美容師を連れてくるから眉を描いたり、マスカラをつけたり、髪を巻いたりしなさい。そういうことはいけないんだが、みんなにきれいにしていてほしいから。戦争はそうすぐには終わらないからな」そう言って美容師を連れてきたの。髪をセットして、化粧もした。嬉しかった…」(電信係)


「曹長は「戦争で心が歪められないように、五月のバラのようにうっとりさせるような娘たちのままであるように」という意味の詩を捧げてくれました。私達は恋愛はしない、すべては戦争が終わってから、と誓って出征したんです…
私たちは恋を胸のうちで大切にしていました。恋愛はしないなんて子供じみた誓いは守りませんでした…恋していたんです…
もし、戦争で恋に落ちなかったら、私は生き延びられなかったでしょう。恋の気持ちが救ってくれていました、私を救ってくれたのは恋です…」(狙撃兵)


「私の初めてのキス…
ベラフヴォスチク少尉…私が少尉に恋をしているって誰にも打ち明けたことはなかった。中隊の誰にも気づかれていないと思っていたの。他の誰も好きにならなかった。
その少尉を埋葬したの…防水布に横たわっている、殺されたままの格好で。ドイツ軍が襲ってくるから急がないとならない…今すぐ…
お別れが始まって言われたの、「まず、お前から」。心臓が飛び出しそうだった。それでみんなが知っていたことがわかった。彼も知っていたのかもしれない。いま地中に埋められる。砂で覆われる…でも、彼も分かっていたのだと思ったらとてつもなく嬉しかった。彼も私を好いてくれていたかもしれない。彼がいま答えてくれるような気がした…
爆弾があちこち落ちている中で…彼は…防水布に横たわっている…あの瞬間…私は、喜んでいた…立って、一人微笑んでいる。アタマがおかしいみたい。私が嬉しかったのは、私の恋心を彼が知っていたかもしれないってこと
私は彼に近寄って、キスをしました。それまで一度も男の人にキスしたことがなかった…あれが初めてのキス…」(衛生指導員)


アレクシエーヴィチはこう記す。
「彼女たちは生き生きと話してくれた。戦時の「男向きの」日常で、「男がやること」である戦争のただ中でも自分らしさを残しておきたかったことを。女性の本性にそむきたくない、という思い。彼女たちは驚くほどたくさんの細々した戦時の日常を記憶していた。実にさまざまなディテール、ニュアンス、色合い、そして音を。その日常と女性であるという存在が切れ目なくぴったり身を寄せ合っていて、女性であった時間の流れが意味を持っていた。戦争を思い出す時も、何かそこに出来事があったというよりは、人生の流れのなかのひとつの時期のように思い出す。いくどとなく気づいたのだが、彼女たちと話していると、小さなことが大きなことに勝っていて、時にそれは歴史全体より勝ることもあった。」









4. 女性として戦争を生きる意志
「戦争が始まる直前、結婚の準備をしていたんです…音楽の先生と。でも母は許してくれなかった、「まだ若すぎる」って。まもなく、戦争が始まりました。私は前線に送ってくれと頼みました。家族の者はみな泣いて、旅の支度をしてくれました。…最初の死体を見たのは着任最初の日…私は思いました、おかあさんは私のことを結婚するには若すぎるけど、戦争には若すぎないって思ったのね、と。私の大好きなおかあさん。」(看護婦)


「負傷者が運ばれて来た。全身をぐるぐる巻きにして担架に横たわっている。頭の負傷で、ほんの僅かしか身体が見えない。でもその人は私を見て誰かを思い出したみたいだった。「ラリーサ、ラリーサ」と話しかけてくる。たぶん、恋人なんでしょう。…「来てくれたんだね、来てくれたんだ」私は手を取ってあげました。身をかがめると、「来てくれるって分かってたんだ」そして何かをささやいているんです。「戦争に行くときに君にキスするまがなかった、キスしてくれ」体をかがめてキスしてあげる。片方の目から涙がポロッとこぼれて包帯の中にゆっくり流れて消えた。それで終わり、その人は死んだの…」(看護婦)


「前線で女性を見れば男たちの顔は直ちに変わったわ。女性の声を聴いても、変身した。あるとき私は土豪のそばに腰を下ろして小さな声で歌い始めたの。みんな眠っていて誰も聴いていないと思ったんだけど、朝、指揮官が言いました。「俺たちみな眠っていなかった。女の声が恋しくてたまらなかったから」と」(衛生指導員)


「最初の尋問は覚えていません。…思っていたのはひとつだけ!奴らの前では決して死ぬまい!絶対に!すべてが終わって独房に戻されて初めて痛みを感じました。全身が傷ついていました。でも頑張る、がんばるの。私がだれも裏切らないで人間として死んだのだとおかあさんに知ってもらえるように。おかあさん!
あなたに話してあげたい…どんな人たちがあそこにいたか。ゲシュタポの地下室で死んでいった人たちのこと。あの人たちの勇気を知っているのはあの部屋の壁だけです。」(地下活動家)

この監房のなかで出会ったパラシュート兵のアーニャ、全身殴られて血だらけのアーニャが、房の高い穴から外を一目見たいから、持ち上げてくれるように頼む。弱っている皆で持ち上げてあげると、アーニャが、屋根の上に咲いているタンポポを見つけて皆が湧き立つ。
「アーニャの苗字は憶えていません。アーニャがどんなに死にたくなかったか忘れられません。白いふっくらした手を頭の後ろに置いて格子ごしに窓の外に叫ぶんです。「生きていたい!」」(同上)

尋問、拷問は全裸にされ、板に張り付けられ、骨が鳴るのが聞こえるほど引っ張られる。写真も撮られる。いかがわしい触られ方をされることもある。大変な侮辱だ。「死ぬことのほうが簡単だ」というのがよくわかる。それでも生きたいと思い、死ぬ間際まで不義理はしないという意志は自身の尊厳のためであり、それを認めて欲しいのはスターリンではなく母親だ。国家の威信のために戦っていたのではない。20歳にも満たないかという女性たちが守ろうとしたのは、スミレやタンポポのような小さな花、死んでしまう少女、母親の姿…そうした身近なもの。掌で包んでいたいものや腕に抱いていたいものに尽きるのではないか。小さき彼女たちが守ろうとした、より小さなものたちのために、彼女たちはどれほど身体を張らねばならなかったか。その健気さと強さに驚いている。









5. 戦後の失望
命をさんざん危険にさらして勝利を祖国にもたらした兵たちは、戦後の平和と幸せを手に入れられるつもりだった。しかし、スターリンは彼らを歓迎しなかった。

「わたしたちはほとんどみな、戦争が終わったらすべてが変わるんだと信じていました。スターリンは人民を信じるだろうって。ところが戦争がまだ終わらないうちから、列車がすでに次々にマガダン(オホーツクの流刑地)へ送られていました。捕虜になっていた人たち、ドイツの収容所を耐え抜いた人たちが逮捕されたんです。その人たちはヨーロッパを見てきてしまった人たちで、ヨーロッパの人たちがどんなふうに暮らしているかしゃべってしまうかもしれませんでした。ヨーロッパでは共産主義者なしで暮らしていて、どんな家に住み、どんな立派な道路があるかを。そしてコルホーズなどどこにもないことを。」


「ミンスクに着いても夫は家にいないの。夫は内務人民委員部に逮捕されて、監獄にいたの。そこに行くと…なんてことを言われたことか!「あなたの夫は裏切り者だ」私と夫は地下活動に参加していたのよ、二人とも。…「そんなはずはありません。彼の人こそ本物の共産主義者です」彼の捜査官は突然わめきだす。「だまれ、フランスの売女め!」占領地域に住んでいたこと、捕虜話になったこと、ドイツに連行されたこと、ファシストの強制収容所にいたこと、その全てに疑いがかけられたの。(この人はフランス人たちと収容所を脱出したあとフランスの抵抗運動家に一時保護されていた)ただ一つの質問は、「なぜ生き残ることができた?どうして死ななかったのか?」既に死んだ人たちでさえ疑われた…私たちが戦っていたこと、勝利のためにすべてを犠牲にしたことなどまったく考慮されなかった。勝利した、民衆は勝利したのよ!スターリンは結局民衆を信じなかった。祖国は我ら私たちにそういうお礼をしてくれたの。私たちが注いだ愛情とながした血に対して…」(地下活動家)


同じように捕虜とみなされた夫が逮捕され、自身は戦前学歴も高く教員をしていたにもかかわらず、戦後は夫の逮捕を理由に建築現場の肉体労働にしか従事できなかった妻の感慨。
「いまは何でも話せる世の中になったわ。私は訊きたいの、誰のせいなのかって。戦争が始まったばかりの何ヶ月かで何百万もの兵士や将校たちが捕虜になってしまったのは誰の責任なのか?知りたいの…戦争が始まる前に軍隊の幹部を抹殺してしまったのは誰なの?赤軍の指揮官たちを(ドイツのスパイだ」「日本のスパイだ」と中傷して銃殺してしまったのは、戦争が始まる前に赤軍の指導部をつぶしてしまったのは誰なの?ヒットラーの飛行機や戦車が相手なのに、ブジョンヌイの騎兵隊をあてにしてたのは誰なの?「我が国の国境はしっかり守られている」と国民に請け合ったのは誰?戦争が始まってすぐから弾が足りなかったのよ…
訊きたい…もう訊けるわ…私の人生はどこへ行っちゃったの?でも私は黙っている。今だって怖いの…恐怖のうちにこのまま死んでいくんだわ。悔しいし恥ずかしいことだけど…」(パルチザン連絡係)



スターリン、国民。
一体、裏切り者と指さされるのはどちらなのだろう。こうした国家への怒りは男女問わず多くの帰還兵が直面したものだった。
しかし元女性兵士に過酷だったのは国家だけではなかった。

「男たちは戦争に勝ち、英雄になり、理想の花婿になった。でも女たちに向けられる眼は全く違っていた。私たちの勝利は取り上げられてしまったの。〈普通の女性の幸せ〉とかいうものにこっそりすり替えられてしまった。…前線では男たちの態度はみごとだった。いつでもかばって大事にしてくれた。…やさしさ、暖かい心遣い以外眼にしたことがなかったのに。それが戦後はどう?やめとくわ…黙っておく…なぜ思い出すまいとするか?耐え難い思い出だからよ。」(高射砲指揮官)


「私は共同住宅に住んでいたんですが、同じ住宅の女たちはみなご主人と一緒に住んでいて、私を侮辱しました。いじわるを言うんです。「で、戦地ではたくさんの男と寝たんでしょ?へええ!」共同の台所で、私はジャガイモを煮ている鍋に酢を入れられました。塩を入れられたり…そうやって笑っているんです。
私の司令官が復員してきました。私のところに来て、私たちは結婚しました。一年後、彼は他の女のところへ行ってしまいました。わたしが働いていた工場の食堂の支配人のところへ。「彼女は香水の匂いがするんだ、君は軍靴と巻き布の匂いだからな」と。それっきり、一人で暮らしています」(射撃兵)


「男たちは黙っていたけど、女たちは?女たちはこう言ったんです。「あんたたちが戦地で何をしていたか知ってるわ。若さで誘惑して、あたしたちの亭主と懇ろになってたんだろ。戦地のあばずれ、戦争の雌犬め…」」(狙撃兵)

彼女は戦後に結婚し、二人の子を産んだが、二人目の子には障害があった。
「私が女の子を産んだ時、彼はしげしげと眺めて、すこし一緒にいたんだけど、非難の言葉を残して出て行ったんです。「まともな女なら戦争なんか行かないさ。銃撃を覚えるだって?だからまともな赤ん坊を産めないんだ」」(同上)


もちろん、実際に戦地妻をしていた人もいる。そうすることで自分の命を守ったという人もいるし、純粋に恋に落ちた人もいる。このことは全く非難するにはあたらないことだと私は思う。これを女性の側だけ避難し、男性に落ち度がないように考えるのは腑に落ちない。そして同性が非難すべきではない。
こんなこともあるので、元女性兵士たちは従軍手帳を隠し、年金を受給する権利も捨てて、目立たないように生きていくことになってしまった。
もう永久に、若い生き生きとした娘には戻れなくなってしまった。










6. 小さきものの集積から
アレクシエーヴィチがこの手法でインタビューを重ねていくなかで、人間の大きさについて再考する。
「私は大きな物語を一人の人間の大きさで考えようとしている。何かを理解するために。言葉を見つけ出すために。けれども、このそれほど大きくはない、そして見直すのに便利だと思われた一人の人間の心のなかでさえ、歴史を理解するよりはるかに分かりにくく、はるかに予測がつかないものなのだ。というのも私が相手にしているのは生の涙、生の気持ちだから。人間の生きた顔にも、話をしている時に心の痛みや恐怖の影が差す。時には人間の苦悩がかすかに分かる程度に美しく見えたりまでする。そういう時私は自分自身におびえてしまう。
道はただ一つ。人間を愛すること。愛をもって理解しようとすること。」


今回この記事においては従軍あるいは活動家となった若い女性を主体にしてきたが、若い人を見送り、葬らねばならなかった母親世代の女性たちの苦悩も「女の顔」をしていられない辛辣なものだったといえる。ケーテ・コルヴィッツの描く母の、隆々とした腕や肩が浮かぶ。
彼女たちは生と死の極限にさらされ、生の苦しみと死の安寧を見る。その狭間に、ぽとりとしずくのように落ちてくる死の運命。運命があっけなく戦地の人を分ける。そこに生きながら、水晶のような時間の宝石を手にすることがある。死がその宝石を零していくこともある。悲しい色、美しい色。
その色の褪せないうちに、私たちは見せてもらう。アレクシエーヴィチの手から受けて。

(所感)
語られたエピソードのなかで読んで涙が出てしまったのは、出産した女性から渡されたおしろい箱の話と好きだった将校の死顔に初めてキスをした話だった。なぜこの話なのか理由はわからないが自分の中のわずかな隙間から女性として共感できるものが強くあったためだろう。銃にスミレを付けた話も愛おしい。
私がちょうど彼女たちの歳頃は、自分が女であることを認めたくない思いがあった。女が嫌いなのではなく、自分が女らしく生きることは受け容れられなかった。女性兵士たちも潔く志願して戦地に行ったものの、心底の女性的感傷に触れるものに接して、唐突に突き刺される思いを体験した彼女らの話に、不意打ちの涙が出た。嫌だと言いつつもやはり自分もこれまで女として生きていたんだとあらためて思う。
失うものも得るものもあっただろうが、命を失えば全てが失われる。生き残れなかった人の話は聞くことすらできない。若く綺麗な娘たちの大切な青春を、葬ったり踏みにじったりしない世界でありたい。彼女たちに国家を守らせるのではなく、彼女たちを守る国家でなければならない。
















〈死の痛みについて〉
死に伴う痛みについて考えたことがなかった。こういう記事を書いて来たが、死んでいくことへの不安を想起し、同情することはできても、観念的な理解でしかない。肉体の死の多くは痛みを伴う。
前回の記事からの間に、肉親を喪くした。痛み苦しむ脇で、どんな言葉をかけても空に消えるだけ。すでに違う世界にいってしまった感じがしていた。
思えば、自分の初めての出産の時、ありきたりの出産が予想よりはるかに痛いものなのだとわかって驚いた。母を始め、古今東西全ての女性、雌の動物を尊いと思ったくらいだ。痛みを越えて出産が済んだ後の虚脱感は軽く死を経験した、ような気がした。

ある境界を乗り越えれば、この苦しい痛みに戻ってこなくてもいい。その先が死なのだとして…
きっといつか自分もその時思うのだろう。
ああこれがその痛みで、その先に待つものが何なのかと、身を以て知るだろう。
そしてようやく、先に逝った人々のことを身近に感じ、仰向いて手を離す、覚悟をするための痛みであるなら…






『ジョーカー・ゲーム』③としてドイツのアプヴェーアのことや、イギリスのスパイ組織のことを書くつもりだったのですが今回は挫折しました。
ソ連のスメールシも含め、いずれまとめたいなと思っております

『ジョーカー・ゲーム』の時代② 1940年パリ

2017-05-08 08:38:42 | 読書
『ジョーカー・ゲーム』の時代背景
『誤算』1940年パリでの諜報活動
その前とその後のヨーロッパと日本








1. 『誤算』(『ジョーカー・ゲーム』より)
フランスでの諜報活動

1939年6月15日、マルセイユから入国。島野のパスポートにそう書かれている。日本からの留学生。フランス滞在約1年。ドイツ兵とのトラブルで側頭部に衝撃を受け、一時的な記憶障害を起こして、フランスのレジスタンスのメンバーに保護されている。彼は実は日本陸軍の諜報員である。
その事実は、レジスタンスのメンバーはもちろん本人も気づいていない。しかし、意識喪失時点からすでに島野の"普通でない"行動が怪しまれていた。それは‥
フランス滞在中の日本人の多くがろくにフランス語を操れないというのに、島野は流暢なパリ訛りのフランス語を話し、ドイツ兵とはドイツ語で対話し、意識喪失中の寝言はロシア語やハンガリー語だったらしい。さらに鏡に映った反転のラテン語の詩文を半覚醒の状態で読んだ。抱えられてアジトに運ばれた時、上ってきた階段の段数を口走った。『90:8:2』という謎の数字もつぶやいたという。
かけていた眼鏡に度が入っていない、口内に含み綿をしていた(含み綿は顔の印象や声質を変えるために使う)。
『君はいったい何者なんだ』とせまるメンバー達。本人も解らず困惑するが、心の奥底から警戒を促す声(『相手に情報を与えるな』)がして、島野はますます追い詰められる。
そこへレジスタンス狩りか、ドイツ兵が捜索にやって来た。島野は反射的に状況を察知し、3人のメンバーを疑念を抱かせる隙もなく指示し、臨時的な特殊工作でメンバーと脱走することに成功する。島野自身、自分の無意識下の判断能力に驚いていたが、レジスタンスリーダーであるアランは島野の高い能力と正義心に感動し、メンバーにならないかと誘う。
そこから先は本編で‥ということにしたいが、この先、またしても島野は危機を乗り越える。ささやかな兆候からも的確な予測をし、常に備えをしておく。そこに生じうるハプニングも『計算しうる誤算』として対策は万全に講じられている。尚、島野がレジスタンス活動家のアラン達に保護されたのは偶然ではなく、そもそもはレジスタンスに潜入して組織の内情を諜報するための、島野による工作だった。



パリのドイツ兵 ドイツ占領後の方が秩序正しく統治されていたらしい それが精神的な安定を生んだ


このストーリーはアニメ12話中の第3話で、元D機関員教育修了後の単独任務の最初の紹介にあたるが、これ以降の回の他の話と比してアクションも多く、記憶喪失設定というワクワクする要素もあり、島野の潜在的な能力の高さに舌を巻く華々しいスパイ物語になっている。(全話の中でいちばんかっこいい活躍を、波多野というあえてギャップありのキャラクターが、声優は梶裕貴で、というゼイタクな設定に唸る)←個人の感想です‥
もちろん、こうした能力は基礎力として他の機関員にも当然備わっていることも暗に理解できるので、導入として奏功である。

この任務で島野(波多野)が諜報活動で得ていた情報は、『90:8:2』という比。これはドイツ占領下フランス国内の『傍観者:対独協力者:レジスタンス』の比を表しているらしい。レジスタンスが2%という割合の低さからも、この一件はフランスがドイツ占領下に置かれて間もない時期のことと推察される。これについては後述する。
場所はパリ近郊ブーローニュの森近く、という設定。時期をもう少し細かく限定するなら、パリ無血占領が1940年6月14日、島野(波多野)は日独伊三国同盟締結の動向を聞き、フランスでの諜報活動を休止して日本に戻るのだが、同年夏と設定されている別の話(国内)に登場しているので、船での帰国に1ヶ月要したと仮定すると、7月中旬にはフランスを発ったと考えられる。ただ7月3日には地中海でフランス海軍の艦隊がイギリス海軍によって攻撃されたメルセルケビール海戦が起こっている。マルセイユ経由で帰国となると、地中海近辺の海路は情勢不安定だったかもしれない。大西洋ではドイツのUボートの脅威もある。フランス国内の移動も市民の移動による混乱や、三つの異なる支配地域間の移動はどうだったのか。外国人であることがそれをスムーズにしたか或いは逆か。
三国同盟締結の傾向は、7月22日の第二次近衛内閣発足により確実となるものの、その以前から同盟締結に反対する海軍幹部らが陸軍の差金で暗殺の標的にされるなど、英米派の米内内閣が倒される以前から兆候は明らかにあった。以上から、波多野のこの一件は7月上旬〜中旬、つまりパリ占領からひと月以内の事ではないかと考えられる。
尚、最終的な同盟締結は9月27日だが、同盟の内容については様々な紆余曲折もあった。この前後の時期と考えられる『ダブル・ジョーカー』(国内、第8〜9話)にも波多野は協力したことになっている。因みに、『ダブル・ジョーカー』は元英国大使への防諜が主任務で、D機関員実井が書生として潜入する、という話になっている。これは実際に行われていた吉田茂に対する防諜活動に似ており、吉田に対しては書生のほかに邸宅の庭を見下ろす二階建ての隣家からも別の機関員が監視していたと、中野学校卒業生が明らかにしている。

今回は、1940年に至るまでのフランスを中心に見直していく。
さらに、第3話の中で波多野が、"今回の任務における最大の誤算"と感じたのが、自らが前の任務で報告した『ナチスドイツがこの先英国と争われるはずの制海、制空戦について、明確なビジョンを持っているとは思えない』という情報が、役立てられることなく、三国同盟締結の流れに向かっていること、であった。

『ドイツ占領下フランスの、傍観者:協力者:レジスタンスの比は90:8:2』

『ナチスドイツがこの先英国と争われるはずの制海、制空戦について、明確なビジョンを持っているとは思えない』

波多野が得たこの2つの情報を裏付けそうな事実も調べてみた。
しかしこのドイツに関する情報はどこでどうやって集めたのだろうか。イギリス及び英連邦の海軍空軍の兵力と兵器性能、作戦と訓練、長期的な資源保有量を、ドイツの同様の情報を比較し、短期的長期的にすり合わせて判断する必要がある。
英仏がドイツに宣戦布告したのは1939年9月3日。英は参謀本部が、精鋭の情報機関を使って、勝算ありと判断したから宣戦布告した。ドイツ国内で諜報活動しなくても、フランスに居てそうした情報の一端を掴んで発信できる可能性はあっただろう。あるいは英国にいたのかもしれない。

ではここからアニメを離れて、1940年前後のフランス周辺の情勢を見直す。



2. 1940年までのヨーロッパ
日独伊三国同盟以前に、日独防共協定が1936年11月、日独伊三国防共協定が1937年11月に締結されている。それを頭の隅に入れておき‥

第一次大戦後のロカルノ条約によって非武装地帯に定められたラインラントは1935年に予定通り連合軍が撤兵。ヒトラーはそこへ軍を進める。1936年3月のラインラント進駐である。この動きに対してフランス軍は何も動かなかった。この時点では弱小だったドイツ軍は、フランス軍と正面で戦ったら負けていただろうと言われている。
同月、オーストリア併合により独墺合併
1936年8月のベルリンオリンピックが済むと、ヒトラーは次にチェコスロバキア・ズデーテン侵攻。これに対して、ヒトラー、ダラディエ、チェンバレン三者会談(ミュンヘン協定)によってズデーテン併合は英仏に認められた。この協定のために奔走したのは外交官エルンスト・フォン・ヴィイツゼッカー、のちのドイツ連邦大統領リヒャルト・フォン・ヴィイツゼッカー(別記事あり)の父である。しかし、ヒトラーはこのミュンヘン協定に応じたことをのちに後悔する。他国が準備不十分だったあの時に奇襲をかけるべきであったと。
1939年9月1日、これ以上の領土要求はしないというミュンヘン協定を破り、ヒトラーはポーランド侵攻に及ぶ。これに対し、英仏はドイツに宣戦布告。これまでのように、英仏は宥和を提案してくるだろうと高をくくっていたヒトラーは少々意表を突かれた。ここから第二次世界大戦が始まる。







1939年9月1日ポーランド侵攻の際、先述のリヒャルト・フォン・ヴィイツゼッカーは兄ハインリヒを失う。徴兵された兵卒だった兄弟はドイツ国防軍の一員として何が起きるのかわからないままポーランド国境を越え、突然戦闘が始まる。同じ連隊の中尉だった兄が連隊の最初の死者になった。
弟は一夜、埋められた兄の亡骸のそばで過ごした。この頃、彼ら二人の母は不安に駆られている。

『一人の男がドイツとヨーロッパ全体にカタストロフィーをもたらすことを神は許せるのだろうか?息子たちはどうなるの?わたしは一人もこの戦争に捧げる気はない。わたしたち一家。息子たちから得る無限の喜び。わたしたちの誇り。
前の戦争の経験から、わたしにはそれが何を意味するのかわかっている。〈消える〉ということ。生活は続き、わたしたちのものだったものは二度と戻ってこない。わたしたちが誇りに思っていた人たちを知らない新しい人たちが来る』

ハインリヒが亡くなる2日前に母はこう書いていた。かつて第一次大戦で、ケーテ・コルヴィッツ(別記事あり)が覚えた感情とまるで同じだ。さらにそれが《繰り返される》ことへの絶望感が、2度目の大戦のやり切れなさである。


このように、人々にはまだ第一次大戦の生々しい記憶が残っている時代である。それを踏まえての宣戦布告。ヒトラーも、そこを越えて英仏が宣戦布告してくることはないと考えていたかもしれない。
第一次大戦敗戦国の記憶。
一方、第一次大戦の戦勝国であったフランスでは、人々はどうだったのか。
前の大戦に従軍した人の10人中7人はヴェルダンを体験している。「ヴェルダンの肉挽き機」を目に見たのだ。思い出せば悪酔いしただろう。フランスでは兵士は定期的に入れ替えを行なっていたので、様々な戦場を体験していたのだ。その一方で、ドイツ軍を阻止したマルヌの会戦の勝利にも酔っていた。
戦勝国フランスは酔って道を誤った。次の戦いに備えて無用の長物マジノ線をせっせと拵えたのである。既に時代物になっていた塹壕戦で再び勝てると思う心と、攻められた恐怖からの、ひたすら防衛に傾く心が、無用の長物づくりに勤しむ愚直な姿になった。
逆に、敗戦国ドイツの方は、ベルサイユ条約で軍備を厳しく縮小化させられたために、少ない兵力での効率的な攻撃の工夫と訓練、空軍の実力向上、さらに特化した優れた兵器開発を行った。これが、第二次大戦初期のドイツの電撃戦を、目論見通りに成功させる。次の有事に対する備えではドイツはヨーロッパ世界で群を抜き、着々と形勢逆転を諮っていたのであった。

戦争の幕が上がってからしばらく、長い長い序曲が7か月も続く。「まやかし戦争」「奇妙な戦争」ともささやかれた。
戦争に突入したものの、後手に回りがちな英仏は、フィンランドがソ連と戦争(11月〜翌2月: 冬戦争)となってもなかなか援軍を出さず手遅れになり、西欧に見放されたかたちで敗れたフィンランドは、独立は維持できたが、ソ連に国土割譲させられた。
また、スペイン内戦である程度腕慣らししていたドイツやソ連に対し、英仏はスペイン内戦には中立だったため戦闘行為には腰が引け気味、ドイツとの戦争もできる限り様子見で済ませようという姿勢だった。
一方のドイツでも、この段階ではヨーロッパを破壊するほどの戦争を起こそうとはしていなかった。英仏との調停を信じていた。
しかしこの「まやかし戦争」はいよいよ「五月戦争」によって本格的な戦争の姿に変えられていった。1940年5月にヨーロッパは乱れていく。


3. 1940年夏『90:8:2』
1940年4月9日、ドイツによるデンマーク及びノルウェー侵攻。ドイツとしては来るべき戦争に備えるためにはなんとしてもノルウェーの鉄鉱石の確保が必要だった。また、海軍力で優るイギリスに制海権を奪われる前にノルウェーをまず第一に押さえねばならなかった。(別記事あり: ノルウェー、デンマーク王室関係、デンマーク抵抗運動)
ノルウェー港をドイツに先取された責任を問われ、英首相チェンバレンは辞任、チャーチルが新首相になる。ここに完全に、イギリスによる宥和政策は破綻し、チャーチル主導で英独は決戦姿勢になっていく。

五月戦争の展開はこうだ。
5月10日(たまたまチャーチル首相就任の日)、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクへの侵攻。
ルクセンブルクは即日降伏、オランダはロッテルダム空爆(900人死亡)を受け、17日に降伏。実はドイツ国防軍内の内通者からオランダ攻撃可能性の忠告があったが無視されていた。
ベルギーは国土壊滅寸前に、亡命せず指揮していた国王が独断で降伏、5月28日まで戦ったが、フランスの都合良い盾として期待されても応じられる程には至らなかった。(別記事あり: レオポルド3世)
独仏国境のマジノ線はあっさり回避され、オランダとベルギーの“回廊”あるいは“道”を、またしても使ってやってきたドイツ。シュリーフェンプランでの再来、その上アルデンヌの森を戦車で抜けてくるというまさかの奇襲に、いよいよフランスはドイツ軍と対面することになった。フランスの、マジノの要塞で膠着戦になる予想図などは笑止、ドイツが突き付けたのは急降下爆撃機と戦車による電撃戦の3D展開だった。
この当時、ドイツ軍保有の戦闘機は4000、対してフランス、ベルギー、イギリス、ポーランド、オランダ合わせて1200だった。この差が緒戦のドイツ勝利に結びつかなければおかしいだろう。


マジノ線の位置


マジノ線の要塞



ロッテルダム爆撃の規模は当時、ゲルニカ、ワルシャワに次いだ




いよいよ矛先はフランスへ向かった。しかし5月27日から始まったダンケルク撤退を眼前に、足踏みするという致命的な判断ミスをするヒトラー。パリをいち早く占領したいあまりのミスだったとも言われている。イギリスとの和解の可能性を残すためとも言われている。
6月、パリ市民は南を目指してごった返す。6月10日にはイタリア参戦、南も怪しくなった。フランスでは600万〜1000万人が逃亡していた。パリ市内では置き去りの牛の群れが街中をうろついていた。
6月13日パリ陥落。6月16日フランス降伏。
レイノーが辞任、ドイツ傀儡のペタンによるヴィシー政府が設立される。
この時期、イギリスでもフランスでもまだドイツとの融和を選ぼうとする考えがかなりあった。
1940年夏、五月戦争を経てもヨーロッパにまだ平和な空気が流れていたのは、英仏との調停で収拾できると思われていたからだ。

ドイツ軍兵士とパリの女性が席をうめるカフェ

カフェのクロークにはドイツ兵の帽子がたくさん



「パックス・ヒトレリカ」
フランスの、特に上流階級の間では現実を受け容れようと考える傾向があった。自由と民主主義の総本山たるフランスであったが、自らの生きてきたこの原理に疲弊し、疑問も感じていた。この腐った民主主義から解放されたい。力無い民主主義にしがみついていることに苦しく、ここへ来てドイツに統制されることでむしろ安堵しているような雰囲気であったという。この“麻痺”のような感覚が楽なのかもしれない。国家社会主義という陶酔には、考えることへのネグレクト、従っていれば安心、という集団心理がある。現代、この今、世界を見回せば、この陶酔に溶け込もうとする傾向が身近で散見できるではないか!

1940年に話を戻せばここに、90:8:2の数字の理由が見てとれる。

イギリスにおいても同様だった。国王ジョージ6世も当初、お荷物フランスを守るために擦り減るよりも、ヒトラーのドイツと協定を結ぶ宥和策を望んでいた。海を挟んだ英国の存在が維持されれば、大陸はドイツが握っても構わない。フランス敗北が明らかになった今、イギリス議会では和平提案を出すべく承認を通そうとしていたところだった。これほど宥和政策を推していたのは、第一次大戦で勝ったとはいえ経済的に大打撃を受けた苦い経験があったからである。
しかしこれをチャーチルが阻止した。
「戦いながら没落した国家は甦ったが、従順に降伏した国家は二度と立ち直れない」
5日間の討議の末、和平案は取り下げられた。
イギリスはドイツと真正面から対峙する。

1940年5月の時点でのイギリス参謀本部の見通しでは、ドイツの持てる資源に注目した上で、米ソの援助がなかったとしても英仏で勝てるという判断であった。おそらく1941年末に資源が尽きてドイツは破滅すると。
実はイギリスでも1935年から戦争準備が着々と進められていた。イギリス情報局情報部によってドイツ空軍の発達ぶりが認識されると、レーダー発明者や核分裂、ロケット開発の科学者らを擁護。また、ジャン・モネが渡米して極秘裡にルーズベルトと交渉、米国で飛行機製造してもらっている。これにより、米国参戦するや即応で兵力増強につながった。
1940年5月の時点でイギリスの国民は自国が負ける危惧を共有していたが、実際は勝算が整っていたのである。

1940年ロンドン 疎開する子供

6月9日に最初のロンドン空襲。『バトル・オブ・ブリテン』が始まった。ドイツはイギリス空軍を早期に叩きたいところだったが、レーダー技術に阻まれることになる。ドイツの戦闘機が奇襲をかけに行くと、必ずイギリスの戦闘機に迎え撃たれる。奇襲が奇襲にならない。このようにレーダーがあれば即応で迎撃できるばかりでなく、哨戒機を飛ばす必要もなくなった。このレーダーの存在にドイツは全く気づいてなかった。
またドイツ空軍の弱点は他にもあった。ドイツの戦闘機は陸戦の援護を主目的として設計されていた。空中戦は想定していない。燃料タンク容量が少ないため航続距離が短く、イギリスへの往復となれば30分以内でイギリス上空から引き揚げて来なければならない。爆弾の積載量も不足している。対フランス戦には有効でも、対イギリス戦には対応できなかった。

ドイツ海軍については圧倒的にイギリス海軍に及ばない。1944年に海軍の装備を完成させる計画だったその途上での早すぎる開戦に、海軍幹部は目をつぶり、『今や海軍は勇敢に死ぬことを知っているだけだ』と天を仰ぐしかなかった。ただし、Uボートの存在だけは恐れられていた。
さらに、英独の戦いでイギリス優位の要素として、ドイツ国防軍は上陸訓練をしたことがない、上陸に必要な船舶積載量を確保できていない、上陸用船艇もほとんど持っていない。
これらのことから、まずイギリス本土上陸作戦はあり得ないという判断が可能となる。空軍も先述の通り。そしてもう1つ、ドイツが誇るエニグマ暗号機は既にイギリスでは解読されていた。もちろんドイツ軍はそうと知らずに使用していた。
しかし後年、音速の2倍速V2ロケットがドイツで完成しイギリスに向けられるようになると、レーダーでは捕捉できなくなった上、高射砲も迎撃できない。その奇襲性と攻撃力にイギリスは恐怖に追い込まれる。1945年3月までに4発が撃ち込まれた。しかしドイツの資源力はここまでだった。



V2ロケットによる被害



ジョーカー・ゲームの話に戻る。
1939年から1940年、ポーランド侵攻、五月戦争と、ドイツ快進撃に触れながらも、英独の海空軍力を精確に分析し、ドイツに勝ち目なしとの報を本国に送った波多野。英独の海軍力や空軍力を情報で得るのは相当難しかったのではないかと思う。相当高い機密だったに違いないからだ。
波多野がもたらしたその情報を精査せず、陸軍はなぜ三国同盟に走ったのか。現実世界においては当初、ソ連も含めた四国同盟を検討していたのに、三国間に変わることのリスクは検討したのだろうか。
イタリア参戦にしても、この同盟にしても、『バスに乗り遅れるな』の強迫観念に支配されていたようだ。ドイツ、イタリア、日本、いずれも持たざる国であり、自国の資源のみでは勝てない国。先手必勝の短期決戦という選択しかない。ゆったり構えて情報分析・判断などに時を費やしている暇はない、というのだろうか。しかしそこは絶対に端折ってはいけないところなのだ。
『為せば成る』か、『成らぬものは成らぬ』なのか、行動を『為す』前に分析する必要がある。チャレンジしてみたがダメだった、という失敗談は10代の若者の個人レベルの話だけにしてほしい。

あまりにも盲滅法な開戦で暴れ、世界中を追い込んだことは、ニュルンベルクや東京で裁かれて然るべき罪といえる。戦犯だけが罰を受けて終わったつもりにしてはいけない。戦争責任は国民全体が負わねばならない。治安維持法を甘受し、翼賛会に参加し、他国で銃剣を振りかざした。軍部の指差す方向にそのまま従ったことに責任がないと考えてはいけない。



4. フランスの対独レジスタンス活動について
島野が潜入して探ろうとしたのは、対独レジスタンスの規模や構成や武器所持の程度など。
上記の通り、この時期まだフランス国内でのレジスタンスは下火である。アニメ作品では特定されていないが、小説『ジョーカー・ゲーム』の中では島野が、アラン達のアジトに二本の釣竿が置いてあるのを見て、彼らがdeux gaule(二本の釣竿)、すなわちド・ゴールの「自由フランス」に属する者であることを象徴的に示している。
シャルル・ド・ゴールがロンドンに亡命したのが6月17日で、パリ陥落から3日後のことであり、BBCから抵抗の呼びかけをしたのが6月18日。アランたちがそれ以降に組織されたとすると、7月初旬の段階ではまだ発足まもなく、今後どう発展するかを見るには時期尚早だったかもしれない。今回の島野は長期間潜り込む計画ではなさそうでもあった。
ちなみに自由フランス傘下の対独レジスタンスとして、フランス国内で活躍したものではマキ(maquis)が有名だ。森に潜みゲリラ活動を行う組織で、都市部よりブルターニュなど山間部で活動する。ヴィシー政府の徴用を拒否した者たちで構成されている。英米空軍機の脱出パイロットの救出、ユダヤ人の逃亡ほう助を日常的に行う一方、ノルマンディ上陸やプロヴァンス上陸においてもゲリラ戦で活躍する。バスク風ベレー帽が特徴である。マキのようなゲリラ兵士に捕まれば捕虜の扱いは受けられない。即、処刑される。そのためドイツ軍側でもゲリラへの報復は熾烈で、ゲリラ掃討として村ごと抹殺されたオラジュール・スル・グラヌの悲劇なども起きている。

ギィ・モケ(別記事あり)の処刑は1941年10月。エルンスト・ユンガー(別記事あり)がドイツ軍司令部の私信検閲としてパリに来たのは1941年。フランスの歴史の転換期を、ドイツ軍将校としてというよりむしろ文筆家として記録した日記は、時代の渦中での人々の影を残している。
レジスタンス組織間のややこしいせめぎ合いも生じたが、1944年8月19日レジスタンス蜂起まで、フランス抵抗運動 は4年間をかけて大きな力となり、やがてパリ解放の日を迎える。もっとも、これはレジスタンスの力が成したというよりは、ドイツの自滅と英米の干渉に依存した、というのが残念な事実だ。


ド・ゴールとチャーチル

捕まったレジスタンス兵



オマケの話‥
粉塵爆発について
島野がアランらとアジトから脱出するために、小麦粉を使って爆発を起こす。一瞬の機転で、記憶喪失のまま爆発工作を指示する才能。
なぜ小麦粉で爆発が起こせるのか?
可燃性の高い粉末と湿度と酸素と発火元のある一定の条件がそろうと爆発が起こる。発火することで短時間で酸化・燃焼を起こす。
燃えやすいアルミニウムやマグネシウムの金属粉、小麦粉、おがくず、トナーなどが発火する。これらが発生する工場、溶鉱炉、炭鉱などで起きやすい。工場規模になれば死者も出る。事故は多発している。
こうした日常的に手に入る素材を利用した爆発工作は、陸軍中野学校の『破壊法』のテキスト中にも記載がある。入手しても所持していても爆薬のように怪しまれないし、爆発後に残る物に不審な物も特定されにくい。
他にも、手近な爆発物として粘土爆弾も多用されたようだ。C-4などがそれである。余談だが、『NARUTO』のデイダラがこれの使い手だ。

パリ解放の喜び


長い長い絵巻物があるとして、自分がそこのどの時点に描かれるのか、人間である以上、宿命的に時代精神と生きることになる。今、1940年を振り返る私は1940年以降の絵を視界に入れながら振り返っている。『ジョーカー・ゲーム』の魅力は、登場人物の活動ぶりを、それ以降の絵巻を切り落として見ている感覚に引き込まれることである。与えられた任務を忠実にこなしているだけのことではあるが、この時代の中でこうして生きた人もいるということに新鮮に感情移入できた。

フランスの大統領選の行方を気にしながら、この記事を書いていた。フランス国民は極右を吟味し、その結果極右を選ばなかった。
フランスの空に、希望の五月の空気が満ちていることだろう。1940年の5月8日のフランスの空も思い浮かべてみる。

『ジョーカー・ゲーム』より 波多野

『ジョーカー・ゲーム』の時代① 陸軍中野学校

2017-04-22 21:00:39 | 読書
TVアニメ『ジョーカー・ゲーム』の時代背景を俯瞰する

第一回
陸軍異色の情報機関『D機関』
その成り立ち、活動のストーリーと
実在した「陸軍中野学校」との対比




アニメ『ジョーカー・ゲーム』公式ホームページ
http://jokergame.jp/introduction/


原作
『ジョーカー・ゲーム』柳広司
『ダブル・ジョーカー』柳広司
『パラダイス・ロスト』柳広司
『ラスト・ワルツ』 柳広司




参考文献
『証言 陸軍中野学校 卒業生たちの追想』斎藤充功
『日本スパイ養成所 陸軍中野学校のすべて』斎藤充功ほか
『日本のインテリジェンス工作』山本武利
『ジョーカー・ゲームの謎』 KADOKAWA・柳広司 編
ほか


1.『ジョーカー・ゲーム』作品について

柳広司原作小説『ジョーカー・ゲーム』及びそのシリーズ全四巻の19本のストーリーは、架空の陸軍スパイ組織「D機関」諜報員らの、昭和12年機関設立から昭和16年大平洋戦争突入までの暗躍が描かれている。
小説では必ずしもD機関員がストーリーの主体というわけではなく、時にはストーリーの端を横切るだけの影のような登場もある。「もしや…」と気づいてもなぜか顔を思い出せない、というふうに。それこそが粗漏のない完全な任務成功の場合であって、逆に、機関員の派手な立廻りが主軸のストーリーは、諜報活動が想定外の事態に直面した一大危機状態なわけである。

痕跡もなく、記憶にも顕われないのが「正しい」諜報活動ならば、いわゆるスパイ映画のような後者のストーリーは本来あってはならない事態であり、そうとなれば諜報員が、自身の持てる能力を最大限に駆使して切り抜けねばならないのである。安易に殺すことも殺されることも、極力避けねばならない。

この小説の持つリアルさは、実在した「陸軍中野学校」をモデルにしているからだろうか。
陸軍中野学校では帝国陸軍に所属する組織でありながら、自由で柔軟な思考を是とする異色の教育が行われていた。
国の命運をかける重い任務を秘めて世界に密かに派遣されていった卒業生機関員たち。
すぐれて斬新な教育を受け、難しい実習を体得した、有能な選ばれし陸軍中野学校(当時の校名は後方勤務要員養成所)第1期生19名(1名は中途退学、卒業生18名)への期待は高かった。
しかし、まもなく日米開戦を迎え、中野学校の教育は、諜報活動よりも工作活動重視、やがてゲリラ作戦や前線の遊撃戦図上演習へとシフトしていき、卒業生の戦死も当然のことながら多くなっていった。

小説『ジョーカー・ゲーム』は全話が開戦前までの物語であるため、陸軍中野学校の目指していた本来目指していた諜報活動が描かれている。

「スパイは平時においてこそ活躍する存在だ。
いったん戦争が始まってしまえば存在意義そのものが失われる…。」

(『アジア・エクスプレス』より)

これは小説中、機関員の心中の言葉として語られるものだが、肯ける。しかし彼らの活躍は時すでに遅く、昭和14年〜16年、国際情勢の悪化に追いつけなかったのは、「情報は集めるより使う方が難しい。」(同作品中)の語りのとおり、「苦労して手に入れた情報がうまく機能していない」からであった。


小説シリーズのうちの11話が、第1期生8名のD機関員と所長結城中佐を登場させてのアニメ作品化されており、昨年の今頃に放映された。
本来、任務中のスパイは、個性やキャラクター性はあえて後退させるはずではあるものの、アニメとして描かれる以上、登場人物の個性が綿密に設定されていることに関しては、むしろ意外に現実的だとも思えるのは面白い。後述するが、それは中野学校の、個性をつぶさない教育方針とも合っている。
日頃アニメを見ない方でも、クールなストーリー展開と昭和戦前期の時間空間のこの作品は、硬質な情緒も味わえて鑑賞しやすいと思う。
また、全話が通奏低音でつながっているような小説の方も、読み進むうちに思わぬ方向にたどり着かされ、緊張感に毎度思わず息を吐く凄さがある。

これまでここでフィクションを取り上げたことはないが、かねてから関心を持っている年代ということもあり、作品の紹介と、多少深く鑑賞するために作品の時代背景を追って書くつもりである。(ただしネタバレしすぎないように)

第1回として今回は、陸軍中野学校を踏まえてフィクションのD機関を探り、第2回と第3回は欧州で活動した機関員のストーリー『誤算』『柩』(『ワルキューレ』含む)の背景としての仏独英事情を探る予定。以後、可能であれば、当時世界各国の最大懸念事項であった暗号技術に関わるストーリー『暗号名ケルベロス』や『ロビンソン』も紹介したいが、目下勉強中であり、書けるレベルになるか模索中。

はじめに、アニメの予告編から雰囲気をご覧ください⬇︎

『ジョーカー・ゲーム』予告編第2話〜第6話

『ジョーカー・ゲーム』予告編第7話〜第12話

予告編は公式ホームページ中にもあります。



2.スパイとは

スパイの仕事は、諜報(intelligence)、防諜(counter intelligence)、謀略(propaganda)など、情報を収集して明確な意思決定するもの、敵からの諜報探知さらに逆利用して偽情報で混乱させるもの、宣伝や情報操作によって思想誘導するものなどがある。新聞や放送などの公的な情報を分析することも含む。
全てを一人で行う場合もあるが、現地協力員とのネットワークを構築することも重要な仕事である。
得難い情報を得るためには工作が必要な場合もあり、そのためにはときに失敗の許されない破壊工作も行う。独特なツールが種々必要となるし、知識、判断力、演技力、ときに色仕掛けも重要なツールである。

スパイといえば、極秘人物が見えないように動くのが通常であるが(長期任務の場合はなりすましで別人(カバー)として周囲に溶け込むこともある)、あるべき地位を確立した著名人がスパイであることもあり、その場合、二重三重のスパイであることも多い。
欺く行為だけでも労苦を要するが、そこから真の情報を読みとって、さらに秘密裏に発信する技術や能力は、相当高いものが要求されるだろう。



3. 日本の特務機関

各国の諜報機関が、互いの国家の諜報機関についてを調べ上げるのは勿論である。参考文献『日本のインテリジェンス工作』(山本武利著)にて、オーストラリア軍が日本の特務機関についてまとめた報告書が紹介されている。実態と完全に一致するわけではないが、大変わかりやすい。

Australian Military Forces General Staff Army Headquarters, The Japanese Secret Intelligence Services Part 1-2, 1947

「日本陸軍インテリジェンス機関は、

陸軍、海軍、外務省それぞれが独自機関を持つ
外務省は連絡目的のみ、大本営が統括者
中国、満州、東アジア、シベリアで工作

平時
(ⅰ)潜在的敵国や侵略予定圏でのスパイ行為
(ⅱ)上記国家でのプロパガンダと破壊活動の準備

戦時
作戦中
(ⅲ)スパイ行為
(ⅳ)プロパガンダと第五列
占領地域
(ⅴ)国内の防衛上のスパイ行為
(ⅵ)地域住民の宣撫
(ⅶ)日本軍と地域住民あるいは地域政府との連携

情報活動に関係する諸機関
1 陸軍将校による特務機関
2 文民軍属
3 現地工作員
4 陸軍中野学校
5 昭和学校」


国内では当時あまり知られていなかった中野学校の存在が把握されていた。
たとえ拷問を受けても、防諜が本業の彼らが自白するはずはない。
中野学校についてはこうレポートされている。

「陸軍出身の場合、性格、自己犠牲の精神、高度の知性、勇気と忍耐、そして体格の強靭さに応じて選抜された。所属部隊長によって注目された者がこの組織に推薦され、通常訓練期間中、何人もの将校たちか彼を注意深く観察した。これらの将校たちが、必要とする資質を持っていると見なすと、その人物は東京にある中野学校(特務機関)の入学試験を受けさせられた。この厳しい試験を通過すると、彼は名前を変え、家族から遠ざかり、市民の服を身につけた。三年〔誤り。多くは1年以内で、例外的に1年半〕の課程を終えて卒業すると、工作員はいくつかの特別地域に送られ、そこで特務機関のためのスパイ行為を遂行した。学校での3年間に、生徒はスパイ行為、爆発物、全ての型の無線セットの操作、プロパガンダ、政治学、そして外国語の特訓を受けた。訓練のために、生徒は憲兵によって厳しく守られている工場地域に送られ、いくつかの建物への進入路を見つけるようにと指示された。生徒はいつも持ち歩いていた携帯ラジオセット(報告書によると、サイズはたったの4インチ×6インチだった)で司令部と接触するように指示された。」

正しくない部分もあるが中野学校についてをざっとつかむことができる。
陸軍将校による特務機関つまり大使館附武官や、外交官員は公的な諜報員であり、外交的な身分保証がある。それに対し、極秘のスパイ養成機関の中野学校出身者はNOC(Non Official Cover)と呼ばれるもので、身分も命も保証されない非公式の諜報員だ。
大使館附駐在武官とは、陸軍大学校をトップクラスで卒業したいわゆる軍刀組が配属されるのが常で、このブログでも紹介した山下奉文、今村均のほか、東條英機、永田鉄山、石原莞爾、本間雅晴、硫黄島で果てた栗林忠道、古いところではロシア革命に助力した明石元二郎。海軍では、山本五十六、米内光政、古賀峯一、山口多聞、源田実らが有名か。



2. 陸軍中野学校の時代背景

昭和13年(1938年)7月に陸軍中野学校は設立される。当時の海外、国内の情勢はどうだったか。

ヨーロッパは1936年にスペイン内乱勃発、反乱軍にドイツ・イタリア、共和国軍にソ連が加勢した。翌年、史上初の都市無差別空爆がゲルニカを襲う。その爆撃を行なったドイツは、1936年3月に非武装地帯ラインラントへ進駐している。さらにズデーテン併合。11月、日独防共協定締結。1937年11月に日独伊の三国防共協定。1938年11月は水晶の夜事件。ドイツの暴走にどの国も手を付けられないでいた。この間、ソ連ではスターリンによる大粛清、数百万人の処刑。

世界はヨーロッパ側だけで傾きはじめたのではない。大陸の東端にも動きがある。
昭和11年(1936年)2・26事件後、対テロ対策として軍部大臣現役武官制導入により、軍国主義体制強化。国際社会のなかでは、日本はこの事件に先立ち、第2次ロンドン軍縮会議にてワシントン海軍軍縮条約廃棄を通告しており、孤立状態のところをドイツに取り込まれた形で日独防共協定を結んだ。さらに、昭和12年(1937年)の盧溝橋事件から日中戦争に発展、忽ちのうちに『挙国一致、尽忠報国、堅忍持久』といった国民精神総動員運動が日本政府によって推進された。文部省による《国体の本義》「現人神たる天皇に絶対随順することが日本臣民の唯一生き残る道」、といった朦朦たるプロパガンダに国民は取り囲まれていった。昭和13年(1938年)、徐州作戦が日中戦争の戦線拡大と長期化を招く。
昭和13年7月、陸軍中野学校第1期生の教育が始まったのはこういう状況下だった。



3. それまでの諜報組織と中野学校設立の経緯

昭和12年当時の陸軍の諜報活動は、陸軍参謀本部第二部の四課で行われていた。ちなみに第一部は作戦課で、情報部門の第二部は比較的に軽視される傾向にあった。
四課は以下。

第五課 ソ連・独・仏・伊
第六課 米・英
第七課 中
第八課 謀略課

この謀略課はこの年に班から課に格上げとなったもので、国際情報の収集、機密情報の収集分析、宣伝工作、謀略活動、諜報活動などを行う。
これは軍の首脳部においても、諜報防諜活動が重要だとの認識が高まっていたことによる。
さらに、阿南惟幾が、国内及び国外防諜の強化を図るために科学的防諜機関の設立を命じ、当時、対ソ情報の第一人者であった秋草俊、田中新一、福本亀治によって、秘密戦実行要員養成機関として『情報勤務要員養成所』の開設準備が行われる。
昭和13年、1938年7月、陸軍省分室として『防諜研究所』が東京・九段下牛ヶ淵の愛国婦人会本部別館に開所し、第1期生19名が選ばれて入所した。翌年4月に東京・中野の陸軍電信跡地へ移転。学生は参謀本部付の扱いとなる。5月に『後方勤務要員養成所』に名前を変え、8月に『陸軍中野学校』となった。
ただし、極秘の機関であるから、施設の表札は陸軍通信研究所であり、部内での呼称は軍部調査部あるいは東部三三部隊であった。隣りの憲兵学校の出身者も戦後になってようやく陸軍中野学校とは隣りのあれだったのかと知ったそうで、平服の人たちが度々出入りするその施設の中で何が行なわれていたのかさっぱり知らなかったのだ。勿論、存在自体が極秘事項であったため、「中野学校」名は表向きには使用していなかった。
昭和20年になると東京は空襲にさらされ、中野学校も群馬・富岡中学校へ疎開した。この頃にはもう、卒業生は本土決戦要員として全国の軍管区司令部に派遣され、ゲリラ戦指揮など最前線で戦う準備にあてられていた。




4. 選抜方法

第1期生への応募は600名、選ばれたのは大学卒3名、高等専門学校卒11名、中等学校卒4名、大学中退者1名の計19名。倍率は約30倍。陸軍エリート畑の士官学校卒がひとりもいない。全員が学生あがりで、社会人経験者もいた。婚約者がいる者もいた。選考の際、妻子のある者については任務を考え除外した。入学前は、徴兵されて兵卒として軍隊を経験し、在隊中に幹部候補生を教育する予備士官学校、歩兵学校、戦車学校、騎兵学校、通信学校などに選抜入校し、教育期間が終わると原隊に戻され、そこで新兵教育に携わっていた者たちだ。
昭和13年7月から翌年8月までの1年を修了したのは18名、1名は「学業修習上不適任」として中途退学している。
2期以降は陸軍兵務局長から各校長へ候補者選考依頼、推薦候補者を書類選考、二次選考は口頭試問、憲兵司令部での身元調査。
ここで、各校に推薦を出してもらう場合、後方勤務要員についてや卒業後の任務など質問されても機密のためあまり詳しく答えられず、推薦する側も要領を得なくて困惑したという。
学校は1941年10月に陸軍省から参謀本部に移管された。
この後、太平洋戦争が始まると、防諜員へのニーズも変容し、教育内容も任務も変わらざるをえなくなった。
全体を通して、採用された者の出身は大学卒が多く、その中でも東京帝国大学(現在の東京大学)が最も多かった。早稲田や慶応も多く、海外大学卒もいた。教官も務めていた創立者の秋草中佐による、一期生修了後の振り返りとして、学生の成績は大学卒が優れ、中等学校卒は学問領域で理解が追いつかない部分もあり、1名を除きあまり良くなかった、さらに文系学生には理系知識をもっと体得させる必要があると報告している。
終戦までの7年間に卒業生2131名、そのうち戦死289名、刑死者8名、行方不明者376名。諜報員という任務上、行方不明者が多いのは当然かもしれない。やはり戦争となればこれほどの犠牲が出るものか。投入された優秀な人材が惜しい。




5. 教育内容

戦争勃発前の教育内容は秋草中佐のソ連での諜報工作の功績を生かして入念に計画された。
以下は第1期生の教育内容である。

一般教養基礎
国体学、思想学、統計学、心理学、戦争学、日本戦争論、交通学、築城学、気象学、航空学、海事学、薬物学

外国事情(軍事政略、兵要地誌)
ソ連、ドイツ、イタリア、英国、米国、フランス、中国、南方地域

語学
英語、ロシア語、中国語

専門学科
諜報、謀略、防諜、宣伝、経済謀略、秘密通信法、防諜技術、秘密兵器、破壊法、暗号解読

実科
秘密通信、写真術、変装術、開繊術、開錠術

術科
剣道、合気道

特別講座・講義
情報勤務、諜報勤務、満州事情、ポーランド事情、沿バルト三国事情、トルコ事情、支那事情、フランス事情、忍法、犯罪捜査、法医学、回教事情

『陸軍中野学校のすべて』より


その他
自動車実習、忍術、破壊(爆発物使用)、毒薬毒ガスの使い方、機密文書の試読、盗聴、暗号文作成と解読、送電線切断、金庫の開け方、手錠の外し方、スパイアイテム(ライター型超小型カメラ、万年筆型破壊器(先端に毒針)、秘密インキ、缶詰型爆薬など)

課外授業
通信学校、自動車学校、工兵学校、航空学校など
府中刑務所からスリを招いて実技指導をうけたこともある。
殺人法についても学ぶが、スパイの身上、秘密裏に瞬殺する必要があるため、毒殺が中心となる。大抵は青酸カリが使用された。


神奈川・三浦半島合宿では、水泳や爆破演習があり、共同演習を通して、それぞれ全国各地から集まった所員たちの親睦も深まった。
後期には満蒙研修旅行で1ヶ月強の時間と多大な費用をかけた訓練があった。これは、卒業後はそれぞれが単独で任務を遂行することを勘案し、旅のスタートから訓練になっている。
集合場所の新潟港の爆破を各自で立案して、集合時間までに答案提出するところから始まる。さらに、新潟では乗船する船舶の爆破とシージャックの課題、下船前に停車場の見取り図、夜行列車に乗り継げば今度は兵要地誌調査の課題、と気が休まる暇がなかった。
一般的な軍隊の作戦用の兵要地誌と異なり、地形だけではなく、諜報、謀略的観点での調査も必要になる。車窓の風景からもいろいろな状況を読み取る必要がある。学生らはこうしたハードな訓練にかなり参っていたらしいが、のちに卒業して任務についた時、こうした演習が非常に重要であったと実感したに違いない。

こんな話もある。
第2期生(教育期間10ヶ月)の実地教育では、ある日、秋草所長の演習があるとのことで集まると、「予定を変更したからお前たちは遊んでこい」ということで、9時半ごろに外出し、15時ごろに戻ってくると、自由時間で何をしてきたか行動経過を書け、と言われ、ひとりずつ質疑が行われた。デパートに行った、となると、何売り場か、売り場にどんな女がいたか、と質問されると、さてどんな顔か浮かばない。意外に覚えていないことが多いと実感、これには諜報における情報整理能力と記憶力、それを伝えることの難しさを教わった、とのことだった。


こうしたユニークな総合的な教育を受けた卒業生は、それをどう感じていたか。
第1期生の牧澤氏によれば、

「あの時代、日本人は「天皇や国家に忠誠を尽くす」ということが至誠とされていましたが、中野の教育で学生に求められたものは、国体イデオロギーよりも「個としての資質」を求められました。資質とは、「生き延びる諜報員は優秀である」ということなのです。それが中野教育の基本であったと、私は理解しています」


中野学校の教本『謀略の本義』にはこうある。

「謀略の意義 三
謀略は本質的に人道に反する性格であるがゆえに、絶対的必要のある場合以外は用いるべきではない。道義を基調とする制度を完備し秩序を確立した国家、社会においては個人、国体に関係なく、その生存発展に何ら不安がなければ必要ない。…」

「謀略の内容 一
国家間の闘争は単に武力に依るのみならず、政治、経済、思想等いわゆる総力戦の全部門にわたり行われるものである。したがって国家闘争の裏面的行為である謀略もまた、これら諸部門にわたって実施されるものである」

ここから読み取りたいのは、武力のみに頼らないで対外施策に取り組むことが、平時にも戦時にも求められている、ということである。これは謀略云々ではなく、国家社会一般の論といえる。そしてひとえにこのことを支えるために、諜報謀略の存在意義があるということが記されている。


『陸軍中野学校破壊殺傷教程』(昭和18年草案)という工作関連の教本に、こうある。

「第四章 破壊殺傷要員の戒律
一、略
二、秘上の隠密のうちに黙々と行動し、隠密のうちに、時にその屍を路傍にさらすべきをもって、あるいは青史を飾り、あるいは人口に膾炙するがごとき、一般武人の名誉のごとき、もとより望むところにあらず。
三、略
四、これを要するに感情を抑制し、冷徹、水のごとき理性にもとづき行動する他面、火のごとき熱誠を包蔵し、人に接する人間味豊富にして、自己を修むるには、神のごとき修練を目途とすべし。」

四はまるで忍者の訓戒のようだが、スパイの任務の難しさを考えれば、おおげさな話とは思われない。任務失敗、その場合のリスクは計り知れない

「破壊工作は必要以外に必要なし」
大きな工作には動員する人数も多く、時間や費用もかかる。情報もれ、連絡ミス、タイミングのロス‥人員を束ねるリーダーの力量に依存する。
必要以上に敵方にダメージを加えることも避けるべきだ。例えば、破壊する施設は基本的に生産、交通、頭脳部などだが、病院や学校、歴史的記念物などを破壊すれば、いたずらに敵方の感情を刺激して士気を高めるし、対外的な評価にも逆宣伝として影響する。計画にも実行にも細心の注意が払われねばならない。

諜報戦、防諜戦、器物や組織への破壊工作。
『音のする戦場』の戦いではなく、『Unsern War』、即ち、見えざる戦争によっても戦いが支えられていたという視点の存在に気付かされる。

加えて、上記教本の第十四章「ニ、工作要員の教育」には、陸軍に所属する機関とは思えぬ自由な発想が表出しているので記す。ここに工作要員とあるのは、中野学校生のことばかりでなく、現地で働いてもらう工作要員についてのことと考える。現地要員を選び、動かす能力も必要となる。

「二、工作要員の教育
選定せる工作要員に対し所望の教育を実施し、各人の特長を助長せしむるとともに、しかして指導員たる人物と、被指導員たる者とは、みずからその素養を異にすべくは当然なり。便宜上、集団教育を実施すること多き、個人教育を理想とすべし。何となれば、人間として個人差に応じ、その特色をますます助長せしむること、最も重要にして、画一せるところは、むしろ害なるをもってなり。何々式として一定の型に入ることは、この種隠密工作に暴露の端緒をなす恐れあり。…」

最後の一文、「一定の型に入ることは…」にあたる事が『ジョーカー・ゲーム』(『アジア・エクスプレス』)のなかでも触れられている。

因みに、この項の前の「一、工作要員の選定」には適性検査の項目があげられている。

「適性検査により威力謀略要員の具備すべき機能強度

1. 機能検査/作業速度検査
2. 知能検査/記憶力検査
3. 選別力検査
4. 構成力検査
5. 運動機能検査/握力機能検査、背筋力検査
6. 感覚、知覚検査/視触学弁別検査
7. 空間弁別検査」

これらの教育には莫大な金額がかかる。
学生のスーツだけで600着、満州への研修についても一回につき当時の旅費は相当な額ごかかるはずだが、陸軍ではしっかり予算をつけていた。ただし詳細は機密扱いなので、説明には苦慮したものと思われる。それほどこの学校に期待をよせていたことがわかる。
『ジョーカー・ゲーム』の

6. 卒業後の派遣先と任務

卒業後の第1期生に求められていた任務、それは「交代しない駐在武官」、つまり数年で任期を終える単なる箔づけの陸軍エリート駐在武官ではなく、永年、任地にあって現地情報ネットワークを操るスパイマスターになることだった。
「一期生は派遣国で生涯を終えることを命ぜられていた」

第1期生の任地は、省内のほか、コロンビア、アフガニスタン、英領インド、メキシコ、中国、ソ連、ドイツ、蘭領インドネシア、ブラジルなどたった。
先の牧澤氏の派遣地はコロンビア、次いでエクアドル。アメリカ班だった。しかし日米開戦後、ようやく1942年8月帰国。メキシコやブラジルに派遣されていた同期の卒業生らも船で帰国してきた。ただし、極秘事項なので彼らがどの地に派遣されていたかなどは互いに知らなかったという。しばらくは国内のアメリカ班で活動していたが、1944年7月に、台湾かフィリピンへ転属するよう命ぜられ、台湾を選んだ。フィリピンをえらんでいたらマニラ攻防戦で命を落としていたかもしれない。
卒業生の一部は海外に派遣されず、スパイ用のツール開発などに従事するため、登戸実験場で研究にあたる。勿論、国内での防諜任務もある。
登戸では対支経済謀略実施計画(杉工作)のための贋札印刷もやっており、中野の卒業生が工作員として搬送を秘密裏に行っていた。贋札の大量発行で蒋介石の政権下で経済的な破綻すなわちハイパーインフレを起こすことで転覆をはかる、それが杉工作だ。ナチス諜報機関のラインハルト・ハイドリヒが、イギリスに対して計画していたアンドレアス計画がヒントになっていた。アンドレアス計画は実行されなかったが、杉工作は機能した。ただし、所々の状況の変化から、戦況を転覆するほどの効果は得られなかった。




7. 暗号名『A3』

以下は『証言 陸軍中野学校 卒業生たちの追想』から。著者の斎藤充功氏が存命する中野学校卒業生を訪ね、インタビューを重ねながら明らかにした実話の一つである。

六丙 佐藤正
1944年1月〜7月 中野学校生
満州の予備士官学校卒業後、関東軍司令部参謀部第二課(情報部)に所属していた。
命令により中野学校へ。
卒業後、ハルビン情報本部奉天特務機関に所属
満鉄職員になりすまし、対ソ情報収集と抗日勢力把握に従事する。
ハルビンで手なづけていた白系ロシア人と接触中にメモをとるところを憲兵に見つかり、尋問と拷問を受ける。
中国服を着ていた上、全裸の身体検査にて満鉄の名刺と小型ブローニングを所持していたため厳しく追及を受ける。このとき、普段は使用をしないよう定められていた自分のコードネーム『A3』を告げ、身分照会を依頼。危うく拷問死を逃れ、解放された。コードネームは奉天を出るときに上官から授けられたものだった。
このあとも佐藤は満州内の各地を転々としながら情報収集に務めている。拷問で受けた傷のために、現在も歩行に難がある。




8. 創設者秋草俊の運命

当時、関東軍情報本部長は、中野学校創設に功績のあった秋草俊少将であった。秋草は、学校の設立、第1期生の教育に携わり、独自性の高い中野学校のオリジナルを形成した初代校長であった。『ジョーカー・ゲーム』の結城中佐のモデルと考えられる。
しかし、1940年に、中野学校職員と第1期卒業生3名が共謀して神戸事件を起こし、秋草は引責辞任となった。
秋草が中野学校校長を辞任したあと、中野学校は陸軍省付から参謀本部付になり、開戦も経て、秋草の構想したような秀れたスパイ学校とはかけ離れたものになっていった。
話が逸れるが、昭和19年には静岡に二俣分教所も開設されている。ここはゲリラ戦に特化した学校で、1974年にフィリピン・ルバング島から生還した小野田寛郎少尉も二俣分校第1期卒であった。昭和20年には極秘に泉工作が編成され、「地下より湧き出ずる泉のごとく」、全国に地下潜伏して、尽きないゲリラ戦を行う計画があった。

秋草大佐はドイツに派遣され、星野の名前で星機関なる、ベルリンを中心にハンブルグ、ワルシャワにも連なる諜報ネットワークを構築して情報収集や工作計画を行っていた。のちの回でも書くつもりだが、同盟国内でのスパイ行動は相当の慎重さが求められるという。
その後、終戦近い1945年には関東軍ハルビン特務機関で情報部部長として活動、16のネットワーク機関を満州国内にて束ねた。そのポイントを渡り歩いていたのが先ほどの中野学校六丙卒、符牒『A3』佐藤であった。
当時秋草は少将。
自身が優秀なスパイであり、指導者でもあった秋草だが、1945年8月9日、ソ連対日参戦の日、部長室で執務中にソ連兵に連行される。スパイを蔑むソ連はまんまと日本のスパイマスター秋草少将のスパイ狩りに成功する。
モスクワに護送され、昭和23年12月にスパイ罪で重労働25年の実刑、昭和24年3月、ウラジーミル監獄病院で死去した秋草。

しかし、スパイであった彼がなぜ易々と拘束されたのだろうか。当時、参謀本部も関東軍もソ連が侵攻してくることは予想していたものの、時期は最も後になると楽観していたのだった。この時点で、有益な諜報がされてなかったといえる。あるいは楽観論に握りつぶされたか。一部の司令官は8月初めと推察し、上部に指示を仰いでも、軍全体としてその時期の対応はしないと一蹴された。

秋草や部下は当時何をしていたのだろうか。
先の『A3』佐藤は、情報収集活動中にソ連侵攻の情報を得て、急遽ハルビンから満鉄経由で奉天へ逃れ、そこから帰国している。身分が知れれば、当然拘束されただろう。
部下のこの動きを秋草は知らなかっただろうか。
知ったとして、逃亡できる立場ではなかったに違いない。それでも軍に情報を上げられなかったあるいはいかされなかったのは失態だと思う。どのような思惑があったのだろう。
秋草同様、中野学校卒の二千数名は全世界の各地でそれぞれの敗戦があり、保護され得ない身分のままいかに生き、いかに死んだか。行方不明者376名は、実名でも変名でもなく、何者として消えていったのだろう。(3.3人に1人が死亡または行方不明)

生き残って帰国した、今は老齢の卒業生らは、今、かつての任地を訪れることがある。救ってくれた恩人の中国人に会いに、別の人はロシアの地に墓参りに行く。現地の協力者だったロシア人達は裏切り者として銃殺されたのだった。犠牲になった第五列の人々。私達にも繋がりがある人たちだったと考えるべきではないだろうか。




9. TVアニメのD機関

アニメ作品には、8人の機関員それぞれの任務の話で8話と、陸軍から出向してきた中尉の話が2話、D機関と対立する新たな諜報機関の話、結城中佐の過去の話、以上全12話で、全て原作の小説から受け継いでいるが、結末が小説と異なるものもいくつかある。
アニメ作品では、機関員名と任務の時の名が対照できるが、それにはあまり意味がない。機関員名はそもそも偽名であり、経歴も互いに偽っている設定だ。中野学校では卒業後の赴任先も互いに秘密だった。
D機関で結城中佐によって叩き込まれるのは、
「死ぬな、殺すな、とらわれるな」
という教訓だ。
死体を晒す即ち痕跡を残すことがスパイの存在を明らかにしてしまい、そこから足が付いて芋づる式にスパイ網があばかれる。情報を失うだけでなく、国家の信用にもヒビを入れる事になる。
任務失敗となれば、死を覚悟。それは選べない道なのだ。何となれば死んでお詫びの似非武士道は、許されないのである。また、死んでお詫びの逃げ道は、安易な失敗を導きかねないともいえる。
心臓が動いている限り、生きて情報を持ち帰れ」というのが中佐の命令である。これは、中野学校の「生き延びる諜報員は優秀である」の教えに通じている。

「とらわれるな」というのは、「囚われない」即ち拘束されないという意味ではないようだ。原則や通則に「捉われない」ことで、発見したり発想したりする。急襲された場合、武器を探すのではなく手近な物品で即座に反撃する。固定されない多角的な視点で見直す。さらに、感情にとらわれないということも重要である。自分という存在にすらとらわれないことも必要である。この思い、この感情を捨てたらもう自分自身でいることができなくなる。その葛藤のすえに、スパイとなることよりも自分であることを選んでD機関を辞めた者の話が最終回だった。全話を公式のとおり年代順にすると以下。

1937(S12)秋 D機関設立

1939(S14)春
(1)(2)『ジョーカー・ゲーム』(日本)
1939(S14)春
(12) 『ダブルクロス』(日本)
1939(S14)夏
(6)『アジア・エクスプレス』(満州)
1939(S14)秋
(5)『ロビンソン』(イギリス)
1940(S15)初夏
(7)『暗号名ケルベロス』(太平洋上)
1940(S15) 夏
(10)『追跡』(日本)
1940(S15)夏
(3)『誤算』(フランス)
1940(S15)初秋
(8)(9)『ダブル・ジョーカー』(日本)
1940(S15)秋(11) 『柩』(ドイツ)
1941(S16) 夏(4)『魔都』(上海)

1941.12.8 真珠湾攻撃

(数字)は話数


それぞれの内容は公式に詳しいが、ストーリーから考えて順が逆ではないかと思う箇所が、『追跡』と『誤算』。『誤算』と『シガレット・コード』から、波多野はフランスでの長期任務を中止して帰国、帰国後に『ダブル・ジョーカー』の任務にも協力している。『追跡』での尋問にも加担しているので、これは帰国後と思われる。
もう一つ、小説の他の話と合わせて考える場合、もしかしたら1941年かもしれないと思うのは『柩』。『ブラック・バード』(小説のみ)の終盤、機関員が真珠湾攻撃について知る場面で、その頃結城中佐がドイツで事故の対応をしていることになっている。その事故があの列車事故のことならば歯車がうまくあうような気がする。

それはさておき、『アジア・エクスプレス』以降、教育期間が修了し、各機関員がそれぞれの赴任地で単独で任務を行っている。
不測の事態に即時柔軟に対応する。または予測されうる不利な事態については、予め二重三重に手を打って備えてある。自身の不慮の死には、死体をさらすリスクにも備える。完全にカバーされた架空の人物として死ぬことになる。
アニメ作品に登場する機関員8名のうち、作品中で死ぬのは1名だけだが、もし日米開戦後の行く末を考えたならば、戦争が終わるまでに機関員らは世界のどこでどう生きただろうか。無事でいられたか。中野学校生の命運に重ねるならば、たとえ「死ぬな、‥」を心に誓って活動したとしても、ますます困難な境遇に置かれただろう。高度化する銃火器の問題もある。戦時の諜報員は、敵側の占領地域や、まもなく占領される地域に潜入させられる(自国の占領地域で防諜を行うこともある)。リスクが高いため複数が置かれるが、連携はできない。互いの存在は知らされないことになっている。命の危険が迫ったとしてそんな地域から脱出できるはずはない。自力では無理だし、自軍もおそらく救出には来ないだろう。まさに捨て駒だ。
戦時下の暴力的な内容の情報を掴む虚しさ、無益さに心が折れないだろうか。命を危険にさらしてまで掴んだ情報を、活かせず、否、活かさず敗北した将は、日本に限らずたくさんいる。しかし、大戦の後半になるほど目に見えない情報戦を制したものが勝利するようになっていった。戦時下の外交においても然り。
見るべきものを見ず、聞くべきことを聞かない体制が破滅をもたらす。
第1話『ジョーカー・ゲーム』の場面で、彼らはゲームをしているようで、実は駆け引きの攻防をしている。その攻防がゲームとして平板に競われていながら、冷静な頭脳のどこかで先々の不安な空気に対抗しようと挑んでいるように思えて、象徴的な場面である。決して佐久間中尉が感じたような、自分の有能さにおぼれているというのではないだろう。一人一人のなかで帝国陸軍の未来は予見できていたのではないかと思う。

PV2


PV3


PV4




10. スパイの生き方と名に思うこと

死んで姿を失ったとしても名前はその後にも歴として残る。そんなことを、過去のいくつかの記事で書いてきた。名はただの識別のためのものというのではなく、1対1の結びつきをちょっと神聖化して考えてみていたのだ。生きた証を名に託す、というつもりで。
ところがここでスパイの存在を考えてみると、彼らにとって名前は不特定な仮面のひとつでしかない。とある人物(カバー)として生きたり死んだりするが、それはそもそもだれでもない。誰でもない者として存在する、あるいは存在しない者として存在する。それでも人として成立しているのが事実だ。
多くの人は普通に戸籍を持つが、中野学校生では任務のために戸籍を抹消された人もいる。
それと比べるならば自分の名前のもとで死んでいくのは幸いといえる。
しかし、名前があろうとなかろうと、人として尊厳を失わない生き方もある。
名前に「とらわれるな」
事、自分に関しては、名前にそもそも拘りはなかったのだが、ここに書くようになってからそれは特別な意味を包摂していると考えるようになった。
でも底の部分で、ずっと変わっていない。
私の死体に名前はいらない。
最後には名前からも解放されていいではないかと。
「とらわれるな」といっても
芯の自分を捨てているわけではないだろう。
ただそれにとらわれない術を心得ている。
私は、スパイとして生きる「人生ゲーム」に加わっている人たちを理解できる。
そう思った。


「死してしかばね拾う者なし」
昔聞いた『桃太郎侍』の決め台詞。
なつかしい。




この次は『ジョーカー・ゲーム』の『誤算』から、ヨーロッパの混乱をざっとまとめて見返そうと思います。(予定‥)

"戦勝国のフリーハンド" と"カルタゴの平和"

2017-01-15 10:58:17 | 読書
チャーチルとルーズヴェルトの復讐主義
戦敗国ドイツを"カルタゴ"にしようとした
モーゲンソープランを承認


英米の空爆を受けて壊滅したベルリン


再びドイツの戦後復興について。
前記事では、終戦から40年までのドイツの歩みをドイツ人の省察で振り返るものであったが、今回はドイツが敗戦に至る過程での、連合国側首脳の迷走を追う。


1945年5月2日、ドイツの首都ベルリンがソ連軍によって完全に征服された。ヒトラーは4月30日に自殺していた。ベルリンの攻防だけでソ連兵は10万2000人が戦死している。
この日スターリンは、
「我々の祖国の自由と独立の戦いにおいて戦死した英雄に永遠の栄誉を!
そしてドイツの侵略者に対しては死を!」

と書き記した。

5月8日のドイツ降伏のとき、
イギリス首相チャーチルは、
「ドイツの降伏は人類の歴史においてもっとも大きな喜びをもたらした」

同じ日、アメリカ大統領トルーマンは、
「西側世界では邪悪な権力から解放された」
と、それぞれ語っている。

大陸の東と太平洋ではまだ日米が戦っており、ソ連参戦も機をみている状況ではあったが、ヨーロッパでは大戦から解放されたのだった。
そのため、チャーチルとトルーマンの感慨の深さには温度差が感じられる。


写真はおなじみのものではなく若い頃のもので選びました
ウィンストン・チャーチル





フランクリン・ルーズヴェルト





ハリー・トルーマン




ヨシフ・スターリン



この日に向けて、連合国側ではドイツ敗戦処理に関する会談を続けてきた。
1943年11月カイロ会談、同月テヘラン会談、1944年9月ケベック会談、1945年2月ヤルタ会談、さらに1945年7月ポツダム会談を経て、敗戦国ドイツの将来を、戦勝国の権限で設計していく。
この間、敵国側の無条件降伏に3国は拘った。戦勝者がフリーハンドを得るという名目上の目的があった。しかし無条件降伏を突きつけたばかりに、ドイツに必死の抗戦を煽ることとなり、結果、戦争は長引き、無駄な犠牲を増やしたとして非難されることもある。
無条件降伏はその後日本に対しても同様に突きつけられ、国体護持に強くこだわる日本を劫火に突き落とした。原爆という秘密兵器もある。ソ連参戦という切り札もある。日本に対しては妥協は必要なかったのだろう。1945年3月4月頃に日本は降伏の機会を窺い、密かに条件を模索し始めていた。しかし、3月の東京大空襲の犠牲も顧みられること能わず、ずるずると犠牲を増やし、二発も原爆を食らうまでの5ヶ月、決断はなされなかった。
戦争は玉砕するまでするものではない、ということを、どの国でも、この日独の破滅に学んだことだろう。

ケベック会談
左後 カナダ首相、前右 カナダ総督ケンブリッジ公 『王室の血友病』の過去記事あり


テヘラン会談

ヤルタ会談 ルーズヴェルトはもともと脚が悪く、車椅子だった上に、この頃は体調も悪かった
会談はニコライ2世のリバディア宮殿で行われた


ポツダム会談 飛行機嫌い、国外訪問嫌いのスターリンのために様々な配慮が必要だった

戦勝国は"フリーハンド"でどんな世界を描こうとしていたのか。そこにどんな思いが隠されていたのか。ヤルタやポツダムではひたすら、米英対ソの、占領地と賠償金の分捕り合戦になっていた。
実は、それまでの過程においてモラルを見失った危険な構想も浮上していた。世界のトップの様々な人達によって握られる筆で、一つの国の未来をつくることの危険と難しさ、不確かさは、敗戦国一国の未来だけでなく、世界の将来にも影を落とす。首脳が未来を間違えれば、世界は容易に壊れる。


さて、世界はこれからトランプ大統領を迎え入れることになる。アメリカの大統領として、世界のあちこちの衝突に直面してどのような采配が彼にできるのか。勿論、国内メディアや著名人らと小衝突している場合ではなくなるだろう。あの厚顔無礼には辟易だが、構想と手法がせめてまともであればと願う。

始めるのは簡単だが終わらせるのは難しいと言われる『戦争』。第二次世界大戦、その終わりをつける難行に、不確かで危険なフリーハンドを刻みつけた過去の2人の米大統領ルーズヴェルトとトルーマンに特に注意してみたい。

今回検証したいのは、モーゲンソープランと呼ばれる、危険な内容の指南書についてである。
その前に。


1. 狂気を狂気が裁く

生存者7000人
死体600体
37万着の男性の衣服
83万7千着の女性用コート服
無数の子供服
4万4千足の靴
1万4千枚のじゅうたん
14万人分の女性の頭髪

これらは、1945年1月25日にソ連軍によって最初に解放されたアウシュヴィッツの絶滅収容所で見つかったものだ。ここにナチスドイツの狂気が見える。残虐な民族浄化の、ごく一片の証拠にすぎないのだが。

ではこちらはどうか。

「殺せ、消してしまえ!
ドイツ人について穢れのないものなどまったくない。今生きているドイツ人についても、これから生まれてくるドイツ人についてもそうだ!
同志スターリンの指示に従え、そして洞窟の中に住むファシズムという動物を永久に足で踏み潰してしまえ。暴力でドイツ女性の人種的な高慢さを打ち砕け。彼女たちは格好の餌だ。勇猛で突進していく赤軍よ、殺せ!」


これはクレムリンのスター・コラムニスト、イリヤ・エレンブルクの扇動であると言われている。
すでにソ連はドイツ軍に攻め込まれて、まさにこの逆の通りの仕打ちを受けていた。そして、戦局は変わり、蹂躙の矢印は反対向きになり、ドイツ女性の受難の番が来た。
この行為は復讐であって、民族浄化ではないと言えるかもしれない。しかし、これから生まれてくるドイツ人まで殺す対象に含むのは、明らかに民族虐待への暴走と捉えられる。

あの女たちはドイツ人だったのだ。
まず強姦して、その後射殺することは許されていたのだ


ソルジェニーツィンの『収容所群島』に記されているこの文からは、復讐の一線を越えた恐ろしさがある。ドイツ人すなわち殺してよい、というのはユダヤ人を絶滅収容所送りにしたナチスの思考と同じだ。

『1945年のドイツ 瓦礫の中の希望』テオ・ゾンマー著(山本一之訳、原題"1945 Die Biographie eines Jahres")のなかで、こうした状況が客観的にまとめてられている。

アウシュヴィッツにおいて、国家社会主義とそれを喜んで実践する人々の精神は完全に荒廃していた。このことは強制収容所の惨状を見て驚愕し、怒り狂った世界の人々の前で明らかにされていった。これと同じように、東プロイセンが占領されたことによって生じた数々の惨劇は、残虐さや粗暴さ、あるいは人間の日動作が個人に対して暴威を振るっていたのはドイツだけではない、ということを明らかにしている。体制が非道であったこと、これについてはヒトラー体制であっても、またスターリン体制下においても変わりはない。
人道にもとるということは、国民性の問題ではない。イデオロギーによって視界を見失ったり、異常なまでの人種的な高慢さや宗教的狂信によって、残虐性が生まれるのである。文明という薄っぺらな虚飾が一度取り払われると、憎しみや復讐も残虐性を持つ動機となるのである。



戦争において残虐を極めたのはドイツだけではなく、ソ連もアメリカも同じだ。「腹の上のソ連兵より頭上の米兵の方が憎い」とベルリンの女性に言わしめるほど、空爆は冷酷な虐殺だ。
尚、上記の本は原題にドイツを限定していないとおり、日本の1945年の様相についてもかなりの紙幅で取り上げられている。
硫黄島の栗林中将は映画でも有名だが、妻へは、
「私は米国との戦争で自分の命を落とすことが残念でならない。しかし可能な限りの努力を尽くしてこの島を守る覚悟である」
と書き残している。
可能な限りの努力として、万歳突撃はさせず、考えうる限り最大の防御陣地を利用し、敵に大損害を与えた。
硫黄島攻略にあたって米軍では、軍艦から毒ガスの砲弾を撃ち込む予定であったのだが、ルーズヴェルト大統領は前線に出ることを望んだ。こんなに残酷な攻防になることは想像していなかったのだろう。この時の大損害は、米国に本土上陸をためらわせることになり、原子爆弾の完成が強くのぞまれるようになったのである。
しかし、ルーズヴェルトは戦争末期には持病で死に体だった。原子爆弾完成を確認できたのは、次のトルーマン大統領の時、ポツダム会談の最中のことだった。
あと半年早く完成していれば、原子爆弾はドイツのどこかに投下されたに違いない。

長崎にはファットマン(上)、広島にはリトルボーイが投下された

広島へ原爆を投下した後テニアン島に帰還したB29 愛称エノラゲイ

帰還後のエノラゲイの搭乗員
前出の本にはリトルボーイ投下までの過程が詳しく記されている


「ドイツをカルタゴにする」
ドイツにカルタゴの平和をもたらすのが世界の平和のためになる、という考え方があり、一方でそれは過酷だという反論もあった。
「カルタゴの平和」という言葉にはもちろん、ネガティブな意味が含まれている。国土大地をまさに根絶やしにして、未来にわたって再興することのないよう封じるかたちでの「平和」の提供だった。つまり未来を失わせる絶対的絶望的な平和だ。それに匹敵するのが、ルーズヴェルト大統領の腹心で財務長官のモーゲンソーの提唱したモーゲンソープランと呼ばれる物だ。
モーゲンソーはユダヤ人であり、ナチスに対してとりわけ憎しみは強かったのだろう。ただし、それは理解できても、財務長官の立場から提示する物として、理性を欠いた懲罰的に過ぎる内容だった。にもかかわらずルーズヴェルト大統領は同意、さらにはチャーチルも最終的に同意した。とち狂った連合国ツートップに、さすがにワシントンもロンドンも猛反発した。
メディアはもちろん、ハル国務長官やスティムソン陸軍長官、イーデン外相、クレイ将軍らはそれぞれ厳しく抗議した。

このときまだ、英米国内には統制されていないまっとうなメディアが存在し、かつトップに対して意見具申できる者が居り、渋々でも聞き入れる耳を持つトップでもあったことは貴重であった。
結果、この柔軟性が世界の硬直をかろうじて救った。



2. モーゲンソープラン
非常に稀有なケースとして財務長官であるモーゲンソーが英米ケベック会談へ出席。
本来、もし内閣から同伴するとするならば国務長官あたりになるところ、異例だった。
1944年9月。
提示された内容は、

ドイツの非武装化
ドイツ国防軍から武器を取り上げる
軍事力の基礎産業の破壊

ドイツ分割による弱体化
ドイツとオーストリアは分離させる
南北に分割、一部仏ソに割譲

産業解体
工業の中心ルール地方は国際管理地域とする上、全工場は6ヶ月以内に完全解体移送または破壊
技能者は転出分散させる

原状回復と賠償
ドイツ国内の産業資源と領土は賠償に充当させ、戦勝国または国際機関が管理する
国外での強制労働
国外資産は全て没収

非ナチ化軍事裁判
ナチス党員、支持者、軍国主義者、戦犯の逮捕及び銃殺

更にこれがモーゲンソーの言である。
「ドイツ人がどのようになろうと、私には知ったことではない。私は鉱山と工場のすべてを破壊するだろう。まずそれらが破壊されることに私は賛成である。住民についてはそれが終わってから考えても十分である」

ベルリン

英米ソ首脳は、戦後のドイツ人に自転車を作ることを許せば戦闘機を作る、金属製の家具を作るのを許せば戦車を作る、と危機感を募らせていたそうだが、まさかこれを真顔で話していたのだろうか。
このプランの内容はナチス宣伝相ゲッベルスにも掴まれ、ドイツ兵の士気を高めるのに大いに利用された。
「連合国はドイツを巨大なじゃがいも畑にするつもりらしい」
こんなプランを公にして、ゲッベルスの思うツボだ、と連合国将軍らは地団駄を踏んだ。

モーゲンソーは戦後ドイツの生活水準を1932年の大恐慌並みに落とすのを目標にしたようだが、何の根拠もないこの懲罰的な設定は猛反発を食らう。
ドイツの経済力を意図的に低く抑え込むことは、ヨーロッパ復興の妨げにしかならず、占領軍経費の増大のリスク、ドイツの共産主義化のおそれも生む。
たとえば、工業に従事させず本当に全ての国土を農業利用にさせれば、ドイツ人の6割しか養うことができない。占領国がそれを補う羽目になる。ましてや、ドイツが復興しなければヨーロッパ全体も共倒れになるのは必至だった。

ハル国務長官は、
「常軌を逸している。もしドイツ人が農業以外に何もしないとすれば、60%しか食っていけない。残りの40%は死ぬしかない」

スティムソン陸軍長官は、
「ドイツを治療することは癌の手術に似ている。悪性の組織は切り取る。しかし重要な器官は残さなければならない」
「まるでローマのカルタゴに対するような、こうした態度に恐怖しない人に会ったことがない。復讐心が暴走しており、次の世代にまた戦争が起こる種をまくだろう」


イーデン英国外相は、
「諸国民に対して自決権を保障した大西洋憲章に反する」

犯罪人を断罪する、ドイツ人から武器を奪い参謀本部を解体する、ナチスによって教育を受けた世代が交代するまで政府の行動を監督する、などの点ではスティムソン陸軍長官も賛成していたのだが、しかし、国を平和に再建し、最終的には国際社会に復帰させるという手段をドイツ人から奪うことは許されない、という考えだった。

かつて第一次世界大戦終結時のベルサイユ条約では、ドイツに対してあまりにも理不尽な、多額の賠償を負わせた。講和会議を仕切ったクレマンソー首相は「ドイツ人2000万人、多すぎる」と豪語するなど、対独強硬姿勢をあからさまに示したが、この極端な負債がドイツにファシズムを生んだということは既に誰の頭にもあった。そのうえでの、このモーゲンソープランである。

モーゲンソープラン以上に背筋が凍る提案もあった。ユダヤ人であるカウフマン博士は、戦争終結後には、18歳から60歳のドイツ人男性と、45歳以下のドイツ人女性を性的に不能にする処置をとることを求めるとしたパンフレットを配布した。
これはもう人権侵害どころか、全くナチスの民族絶滅の発想と同じだ。ところがルーズヴェルトはこれも採用しようと本気で考えていたようだ。
「我々はドイツ人に対して厳しく接しなければならない。これはドイツ民族に対してそうあるべきであり、ナチスだけではない。我々はドイツ人を去勢するか、簡単に子供を産まないような措置をとる必要がある」
これもルーズヴェルトの言である。


その後、大統領選出馬を考慮して、反対の多かったモーゲンソープランは表面的には引っ込められた。それでもルーズヴェルトの思いは根本的には変えられていないことか端々に窺える、こんな言葉もあった。1944年10月。
「ドイツは悲劇的な国民である。ドイツには軍事力のかけらも残しておくことが許されていない。潜在的に軍事力となる可能性のあるものでさえ許されない。しかしドイツ民族は奴隷化されるべきではない。結局、ドイツ民族は平和を愛し、法令を順守する国民として国際社会に復帰する路に戻るまでには多大な困難を経験するに違いない。軍事の削減とともに頭脳の削減も同時に進行しなければならない。完全にメンタルな改造が必要である。そしてそれが達成されるには40年を必要とするかもしれない」

ルーズヴェルトが死去すると、トルーマン大統領は財務省提案(モーゲンソープラン)を撤回した。
ポツダム会談前に、モーゲンソーは辞表を提出。
しかしこのトルーマンの考えにも、実施される計画の若干の改善の裏でドイツの頭を押さえておこうとする意図が少なからず表れている。

「ドイツは解放を目的として占領されない。戦争に敗れた敵国として占領される。その目的はドイツを抑圧することではなく、一定の重要な連合国の意図を実現するためのドイツ占領である。占領と行政を実施する場合には、連合国は公平かつ厳格、かつ孤高でなければならない。ドイツの行政官や住民と親交を結ぶことは厳しく禁止される」

親交を禁止、というのはなかなか差別的だ。戦勝国だからなのか、ありありと"上から目線"でもある。
結局、ドイツ占領基本指令として、

生活水準を大幅に低下させる
ガソリンや合成ゴムの製造の禁止
商船隊の組織や民間航空機の禁止
経済の制限(工業はおよそ25%まで)

などの厳しいものになり、モーゲンソープランの不寛容さがそのままに残っているものとなった。

連合国管理理事会米国常駐代表クレイ将軍は、その内容の馬鹿馬鹿しさをこう語った。
「これは経済に無知な人間の仕事である。ヨーロッパでもっとも訓練された労働者に対して、大陸のためにできるだけのものを生産することを禁止することはまったく意味がない。大陸は実際それを必要としている」


ベルリン

3. ドイツその後の戦後
ソ連との溝が次第に深くなっていったこともあって、西側としてはドイツを取り込み、ソ連を悪玉としてまつり上げようと、ドイツに対する経済政策に改善を施した。それが国務長官バーンズによる、1946年の「希望の演説」(ドイツ政策の見直し)だった。これはむしろ政治的な理由が強く、ポーランドにとっては憤激の内容だった。

ドイツでは、ハイパーインフレを乗り越え、のちに欧州最強の通貨となるマルクが生まれた。復興は近隣の戦勝国よりも早かった。工場が解体されたことで古い設備を一層でき、最新の設備をスムーズに導入できたことはむしろラッキーだった。
泥棒のようにドイツの工場機械を解体して持ち帰ったソ連やフランスでは、結局それを活かすことができず、どれもが錆びて野晒しのままになっていた。

「希望の演説」のジェームズ・バーンズ国務長官について少し。
バーンズは日本にとっては全くありがたくない人物だった。トルーマン大統領下の国務長官で対日強硬派、その以前、ルーズヴェルト大統領下ではマンハッタン計画を推進した。当然、原爆使用推進であり、日本に投下することで早期に終戦を、というのではなく、ソ連への示威行動として積極的に投下をトルーマンに強くすすめた。
また、知日派のジョセフ・グルー外交官、ヘンリー・スティムソン陸軍長官、ジェームズ・フォレスタル海軍長官による三人委員会によって、天皇制を残して間接民主制を選択させることで原爆を使用せずに日本との早期の講話を目指す動きがあったのだが、バーンズ国務長官によって捻り潰されている。
その後バーンズは、原爆を東側外交の切り札として軽率に使用しようとする傾向があったことから、危険視したトルーマン大統領によって1947年に罷免された。

沖縄戦での神風攻撃

零戦


4. 戦後の難しさ
終わらせることの難しさ、さらに難しいのは終わった後の戦後処理であることがわかった。
戦勝国のフリーハンドなるもののいかに高慢であやしいことか。
東京裁判、ニュルンベルク裁判も、その裁判のあり方自体に公正さが欠けているし、内容も不確かでただひたすら性急な裁判だった。それでも茶番だとは言えない。
歴史は少し後になってから眺めないとわかりにくい面もある。一方で現在進行中の歴史が自分の周りで常に動いている。時計が秒を刻むあの音。わたしの耳に届けられ続けるこの音を、ルーズヴェルトもチャーチルも、戦場の戦闘員も、エノラゲイのパイロットも聴いていた。その延長の時計の音である。






B29
投下するこの爆弾の数に驚く
落下していくこの下には多くの人が居やしないか
地上に落ちるまでの数秒が
その人の命のカウントダウンになってしまう運命の人が、いったい何人?
今から命を殺しにいく爆弾の影
人智を超えた神の手によるものとしか
むしろ考えられないくらいだ