名のもとに生きて

人の一生はだれもが等しく一回かぎり。
先人の気高い精神に敬意を表して、その生涯を追う

英雄或いは反逆王 レオポルド3世

2016-06-29 19:50:04 | 人物
大戦中、国を離れず国民を支えた王が
「反逆者」と呼ばれた不運
ベルギー国王 レオポルド3世



Léopold Philippe Charles Albert Meinrad
Hubertus Marie Miguel
1901〜1983


ドイツとソ連が戦争になれば、必ず巻き込まれるのがポーランドの運命ならば、ドイツとフランスの間では、ベルギーが巻き込まれるのはもう一つの運命だ。
果敢に戦った18日間、そして降伏、占領。
国民とともに在り続けた王は、ベルギー亡命政府や周辺国政府に非難され、反逆罪を問われた。
最愛の王妃を事故死させた悲しみと孤独の中で、孤軍奮闘し続けた国王の不運を嘆く。


出生、幼少期
1901年、当時のベルギー王太子アルベール(アルベール1世)の第1子長男として誕生。
母はエリザベート・ド・バヴィエール、父方の伯母はオーストリア皇后エリーザベト。
弟シャルルと、妹マリー=ジョゼがいる。


アルベールとエリザベート 婚約の頃

1909年にアルベール1世即位 レオポルドは王太子に

王妃は元バイエルン公女。芸術の才能に秀でており、特にバイオリンは大変な腕前だったといわれている

レオポルド

レオポルド

レオポルド

笑顔の子供達
マリー=ジョゼ(中央)は、のちにイタリア最後の国王ウンベルト2世王妃となる。マリー=ジョゼは第二次大戦中は、枢軸国イタリアにあって、連合国とのつながりを保ち、パルチザンに援助する重要なポストを担っていたという。


西洋の物語に描かれる美しい王子そのものと言える、本物の美しい王子、レオポルド。
宝石のような瞳。
往時のエピソードなどは私は知らないが、写真からは物静かで繊細な、おとなしい少年という印象を受ける。


学校、第一次大戦時
1913年9月からはイギリスのイートンカレッジに通う。そこではイギリスのヘンリー王子と学寮も一緒だった。
ヘンリー王子はレオポルドの一つ年上であり、英王ジョージ5世の5人の王子の中では3番目、兄の、のちのジョージ6世と同様に病弱で、兄以上に強い吃音もあり、非常に内向的であった。

イギリス王子ヘンリーとベルギー王太子レオポルド イートンカレッジにて

しかし、第一次大戦勃発後、1915年には、ベルギー軍を指揮する父国王アルベール1世に倣い、レオポルドはわずか14歳でありながら、第12ベルギー連隊兵士、すなわち全くの一兵卒の身分で従軍した。
自ら戦場で指揮し、兵士に勇気を授ける勇敢な国王アルベールは、たとえ王太子である自分の息子をさえも戦場から遠ざけず、送り出した。その覚悟は恐れ多い。例えば、英王室では、平時は王子らに主に海軍で訓練を積ませても、戦時には王太子だけは軍から下がらせていた。レオポルドの学友ヘンリー王子は、第一次大戦中は学生生活を続けており、従軍はしなかった。
レオポルドのこの経験は、国王となって迎えた第二次大戦での戦いに、父のように勇敢に立ち向かう土台となったと思われる。

ベルギー軍の兵士として従軍
顔にはあどけなさが残る


妹マリー=ジョゼと


結婚、即位
第一次大戦ではドイツ軍の猛攻を浴び、ベルギーは軍も国土も大損害を受けるものの、国王の毅然たる指揮により、度重なる連合国からの参加要請もはね退け、武装中立国として存分に戦った。
戦後は、もともと持ち合わせていた高い技術力と産業基盤を回復させ、復興も早かった。

アルベール1世国王、レオポルド王太子、シャルル王子

この時期、成人したレオポルドは王太子としての経験を積む一方、結婚して幸せな家庭を築く。
王太子妃となるのはスウェーデン王女アストリッド・ド・スェード。1905年生まれ。
スウェーデン王オスカル2世の第3王子カールの三女である。かつてマリア・パヴロヴナが嫁いだ相手、ヴィルヘルム王子は従兄。
アストリッドはベルギー王妃に、アストリッドのすぐ上の姉マッタはオラヴ5世に嫁ぎ、ノルウェー王妃となった。



20歳で結婚したアストリッド王女

王族どうしの政略結婚ではありながら、お互いに強く惹きつけられての幸せな結婚。
アストリッドは美しく、明るく、分け隔てない優しさにより、国民にも深く愛された。

1926年に結婚、1927年、のちにルクセンブルグ大公妃となる長女ジョゼフィーヌ=シャルロットが生まれ、1930年には待望の王子ボードゥアンが誕生した。
家庭的なアストリッドは、王宮近くに小さな居を構え、自ら料理したり、普通の市民のように子供を連れて街を歩いたりし、上流階級の一部には「儀礼が身についていない」と批判するものもいたが、総じて国民には慕われていた。

アストリッド 少女のころ

姉マッタ(右)は のちにノルウェー王妃に









ところが、1934年、国王アルベール1世は趣味の登山に一人で出かけて遭難死した。登山のエキスパートであった王が遭難したことで、その死は不自然視され、様々な憶測と仮説が流れた。しかし、山ではどんな事故が起こるかは予測はできず、エキスパートであろうと対処しえない場合もあるだろう。むしろ国王がたった一人で出かけたことに驚く。1934年2月17日の死、58歳だった。

アルベール1世は当時においても最も人気の高かった国王であり、現在でもなお、ベルギーで最も尊敬されている国王である。
国民の深い悲しみのなかで、レオポルドはレオポルド3世として即位した。程なくして生まれた第二王子は、先代王にあやかってアルベールと名付けられた。

レオポルドとアルベール1世
ドイツがフランス攻撃のために、中立国ベルギーを通過したとき、「ベルギーは道ではない。国だ」と言い、通過を許さなかった。また、フランスが国境を侵すことも許さなかった。こうした国王の強さは国民の誇りとなった



王妃の死
国王の死から1年半ののちに、アストリッド王妃が不慮の事故で亡くなる。
新国王一家は、1歳に満たない幼いアルベール王子を除いてスイスの別荘を訪れていた。先に子供達を養育係とともに帰し、翌日のこの日、国王夫妻も帰国することになっており、その前に山を見てから帰ろうと、ルツェルン湖岸の道を車で走っていた。このとき、運転していたのはレオポルド、後部座席にお抱え運転手、王妃は地図を見ていた。風が強かった。
王妃が地図上の何かを王に示したとき、車は道を外し、制御を失って急な斜面を降り出した。
木に当たって衝撃を受け、王妃はドアを開けて脱出しようとした際、別の木の幹に体を激しく打ちつけたため、程なくして亡くなった。
暴走した車は湖に落ちて停止した。
レオポルドは車外に脱出して軽傷だった。





1935年8月29日、午前9時30分。
一瞬の出来事だ。運命はこんなふうに一瞬でコインを裏返すことがある。
この日、大雨だったら、濃霧だったら、山を見に行かずに帰ったことだろう。子どもが熱を出したりすれば、行かずに帰っていただろう。
王妃は29歳。結婚して9年、その間に3人の王女王子をなし、王太子妃の公務をなし、王妃となってまだ1年半だった。
国民に愛されていたアストリッドの死は、大きな悲しみとなった。
葬列のレオポルドはどのような心境だっただろうか。国王として、夫として、事故を引き起こした者として、どうやって立っていたのだろう。
自分を支えてくれるはずの、その王妃がいない。
先を歩いて導いてくれるはずの父の姿もない。

国王(中央)は包帯が生々しい




ベルギーの戦い
この頃、ドイツのヒトラーの動きを警戒していたヨーロッパ全土。とうとう独裁者は動き出した。予想以上に性急な攻撃だった。ヒトラーの猛烈な電撃戦を、レオポルドはベルギー国王として、またベルギー軍最高司令官として迎え撃つ。

二人の息子ボードゥアンとアルベール

1940年5月10日、オランダとベルギーが同時に侵攻された。両国とも中立国でありながら侵攻される。オランダはほとんど備えをしていなかったが、ベルギーは1930年代からレオポルドの下に防衛の準備を固めていた。当時、ヨーロッパで最も万全な備えができていたのはベルギーだった。
しかし、ドイツの攻撃はそれを凌いだ。そもそもの航空兵力の差から、制空権をあっという間にドイツに押さえられたこと、そうなれば国土が低地であるのが弱点となり、空爆を避けることも困難なことが大きな災いになった。また、ベルギーを盾にしたいフランスとイギリスは、連合への参加をベルギー軍に迫り、ベルギーの国土を戦場にしておいて退却していった。

「何が起ころうと、我が軍と同じ運命を共にしなければならない」

レオポルドは第一次大戦時の父のように、戦場に張り付き、激励の声明によっても兵を労った。
軍の存命が危なくなってきた頃、チャーチルが視察にやってきて、ベルギー軍の戦線崩壊の危機の状態に憤り、ベルギー軍にとって壊滅的になる戦略プランを押し付けて行った。ダンケルクでイギリス軍を退却させるために、フランス軍とベルギー軍を犠牲にするものだった。
翌日、レオポルドはイギリス国王ジョージ6世に電報を打つ。

「我が陸軍が包囲されれば、終わりになるだろう」
5月27日、国内の被害状況からさらなる抵抗は不可能と考え、レオポルドはドイツに休戦要請。
5月28日、無条件降伏する。


反逆罪を問う
5月16日には既にフランスに亡命していたベルギー政府、フランス政府、イギリス首相チャーチルは、この降伏を激しく非難した。
ベルギー亡命政府は、国王が政府の要請に従わずに亡命しないで残ったこと、その時点で既に政府に反逆した国王は国王として認められず、その者が交わした降伏は正当な政府の判断ではないと主張し、戦いの継続を求めた。
しかし、最高司令官はレオポルドであり、レオポルドは捕虜となったため軍は動かせず、既に状況はドイツが握っていた。亡命政府は、正当性を遠くで喚いているだけの無力な集まりでしかなかった。
フランスの首相レノーは、レオポルドの反逆罪を訴えたが、それはレオポルドをスケープゴートに仕立てる工作のようであった。反逆罪の理由は、ベルギー軍の崩壊が英仏の連合軍に対し及ぼす影響を事前に警告しなかったから、とのこと。
どうやらこちらがヤギの脳ミソをお持ちのよう。

「(歴史上)戦いながら没落した国家は甦ったが、従順に降伏した国家は二度と立ち直れない」
などと批判したチャーチルは、のちの自著のなかでもレオポルドをさんざんにこき下ろした。

彼らの非難は、レオポルドの降伏は、ドイツとの共同政府を構成するためだった、という疑いの上に立っていた。その時点でも、現在に至っても、レオポルドとドイツの間にそのような内通があったという証拠は一切ない。
戦況に怯え、頭に血が上った者たちの老害に聞こえる。

囚われの英雄か
降伏後、母エリザベートと共に戦争捕虜となったレオポルドは王宮に軟禁された。
この頃、イギリスからヘンリー王子がレオポルドを心配して訪ねてきた。レオポルドがひどく落胆していた様子を、帰国後、兄国王に話したという。
軟禁中、レオポルドはヒトラーとの会談をたびたび要請し、ようやく1940年11月に機会を得た。
ゆくゆくはベルギーの独立を認めるよう懇願したのだが、ヒトラーは承諾しなかった。
王宮の外では、囚われの国民達が同じく囚われの国王に心を寄せていた。王は英雄なのか、或いは政府を追い出したまま独裁者になろうとしているのか?
ところが、国王への信頼を失墜させる残念なことが発覚した。1941年、レオポルドは極秘再婚した。相手は平民で元農業大臣の娘リリアン・バエル。当時24歳で、レオポルドより15歳下だ。
国民がこの結婚を嫌悪したのはわかる。
国のこの状況下で、既に世継ぎもいる国王が、惜しまれて亡くなったアストリッド王妃を脇に追いやるかのように、若い平民女性と恋に落ちる。明らかに醜聞であり、祝福できないだろう。しかもこれを祝福してヒトラーが花を贈ったとなれば、国民の感情は最悪のものとなる。
のちに正式に結婚して、リリアンに爵位は授けられたが、王妃の地位は与えられなかったし、リリアンによって生まれた子供達に王位継承権は与えられなかった。
レオポルドはなぜ再婚したのか。
リリアンを推したのはレオポルドの母だったという。それは良いとして、わざわざこの時期に、中途半端に結婚したのは、リリアンが早く子どもを欲しがったから、だそうだ。結局、1942年に男子、1951年と1956年に女子が生まれた。1954年と1955年には娘のジョセフィーヌ=シャルロットに、レオポルドの孫にあたる子達が生まれていた。こういうややこしい話は封をしたくなる。相手にももう少し、良識と配慮があれば良かった。

リリアン・バエル

レオポルドは退位後、アマチュアの社会人類学者として世界をまわった


Royal Question
1942年、ドイツの敗色が濃くなってくると、亡命政府との対決にレオポルドも備え始めた。1944年からは、レオポルドはヒムラーに拉致され、ドイツに連行されたが、亡命政府が戻った時に発表する公式声明を用意して置いていった。

Military honor, the dignity of the Crown and
the good of country forbade me from
following the government out of Belgium.


レオポルドはザクセンの城砦にて幽閉ののち、ザルツブルグ近郊に移され、1945年5月、アメリカ陸軍によって解放されたが、先に帰国していた政府が帰国を認めず、政府は弟シャルルを摂政に立て、戦時下及び戦後のレオポルド反逆の罪に関する査問委員会を開いた。委員会では、レオポルドに反逆罪は問わないと結論したが、政府はさらに、レオポルドを国王として認めるかを国民投票にかけた。国民投票の結果、レオポルドの国王復帰支持は57%だった。旧来のカトリック教徒らは支持派、新しく台頭した社会主義者らは反支持派、また、かねてからベルギー国内の抱えていた使用言語による対立構造を掘り返し、フランデレンとワロンの対立がそのまま支持対反支持となり、国民を二分する契機となってしまった。
1951年、結果を受けてレオポルドは国王としてベルギーに帰れることになったものの、二分した国内は内戦の危機に陥っていた。レオポルドは再びの決意、これ以上国内を荒廃させないために、自ら退位し、20歳の息子ボードゥアンに譲位した。

ボードゥアン(左)とアルベール

ボードゥアン1世

第二次大戦期という、あまりにも困難な時代の国王として、レオポルドの振舞いは評価が分かれるようだ。もう少し要領よく政府をなだめる術を持っていたら、とも思うのだが、何如、若く理想が高かった。
長い引用になるが、歴史学者ヘールト・マックはレオポルドをこう見た。

‥(オランダ降伏の)二週間後、ベルギー国王レオポルド三世が降伏した。百五十万人のベルギー人がフランスに逃亡した。国王の決断によって北フランスの防衛に穴が開き、リール周辺のフランス第一軍は持ちこたえることができなくなった。
同時に、国王と大臣たちの間に戦後まで続く深い対立が生まれた。ベルギー政府にとって中立は政治的に自明なことであった。ヨーロッパの権力関係によって定められる賢明なる日和見主義だった。だが、いまや人々は死も厭わず戦おうとしていた。レオポルド国王にとっては中立は神聖な原理で、彼の頭には一つの考えしかなかった。これ以上、道一本破壊されたくなかったし、人一人殺されたくはなかった。イギリスに亡命した戦闘的なオランダの女王ヴィルヘルミナとは逆に、彼はこれ以上ヨーロッパ戦争を続けることに何の意味も見出していなかった。「フランスは戦いを放棄するだろう。数日中のことかもしれない。イギリスは植民地と海上で戦いを続行するだろう。わたしは最も困難な道を選ぶ」。五月二十八日以降、ベルギー国王は自分をヒトラーの戦争捕虜と見なしていた。


「ヨーロッパの100年」より


亡命政府と王
この状況下、ヨーロッパの他国の国王達はどう動いていたのか、ざっと見る。

デンマーク
オランダ、ベルギーよりひと月早く、4月9日にドイツ軍が侵攻したが、侵攻の2時間後には国王が降伏した。同じゲルマン人だとして、ナチスはデンマーク国王と政府が国内に留まることを認めた。
既に老齢だったクリスチャン10世は、護衛を一人もつけず毎日騎乗して市内を巡り、国民を励ましていた。

ノルウェー
対照的に、デンマーク王の弟ホーコン7世は、政府とともに即日首都を後にし、追ってロンドンへ亡命。国外から国内の抵抗運動を激励した。戦争終結後の帰国は、国民にたいへん歓迎された。

オランダ
引用文にある通り、女王も政府もロンドンへ亡命して、国民をとおくから叱咤激励した。

スウェーデン
中立国としての立場を維持し通した。表向きは、他国への援助を一切拒否。ただし、裏では反ナチスに動いており、外交官ワレンバーグがユダヤ人保護に貢献した。

イギリス
イギリスは地勢上、政府も国王も亡命する必要がない。ベルギーのように国王と政府が分裂する要素がない。チャーチル首相が、離れたところからヨーロッパ各国を操る様は、さながら亡命政府代表のようだ。


政府は機能しなければならないものであるから、百歩譲って、緊急時は国外から指揮する方法に頼る場合もあるだろう。
国王はどうするべきか。国民と国土を統べる者でありながら、国を離れるのはいかがなものか。
前線から遠い他国から、国民に、死ぬまで戦えなどと激励することは、どの立場から可能なのか。


レオポルドは自ら囚われ、敗れた国王として交渉に賭けた。「最も困難な道」を孤独に歩んで、人生の道が途絶えるところで、レオポルドはアストリッドの隣に、永久に休むことにした。











キェルツェポグロム 憎悪と怜悧な撲滅

2016-06-14 23:18:02 | 出来事
なぜアウシュビッツ後に?
なぜアウシュビッツ後のポーランドで?
生き残ったユダヤ人を襲う残忍な人間性


絶滅収容所への引込線

おもな参考文献
FEAR Anti-semitism in Poland after Auschwitz,An Essay in Historical Interpretation
/Jan Gross 2006
「アウシュビッツ後の反ユダヤ主義 ポーランドにおける虐殺事件を糺明する」
染谷徹 訳



第二次大戦が終わった翌年、ナチスにより9割が「始末」されたユダヤ人、その生き残りをポーランド市民が襲った。共にナチスに虐げられ、そのうちのより一層過酷に虐げられた、元は隣人だったユダヤ人に対し、残虐極まる殺戮が起きた。
なぜこの時期に、なぜこの国で起きたのか。
人間性の根底の救いようのない闇を認識しておかねばならない。


反ユダヤ主義の歴史
ユダヤ人に対する迫害や虐殺は、ナチスによる所謂ホロコーストに限らず、千年以上にわたって繰り返されてきた。国家政策として大規模に展開したものがホロコーストであるが、あらゆる地域で自然発生的に、あるいは時の国家権力の誘導によって小規模に連動したものを、一般にポグロムと呼ぶ。
歴史的に国家を持たなかったユダヤ人であるが、その存在するところには必ず迫害が横行した。
その原因の根底には宗教が関係している。
一つには、キリスト教においてユダヤ人はイエスを殺したとみなされていること。さらに、キリスト教では認められていない「金貸し業」をユダヤ人が担っていたため、恨みや妬みの対象になりやすかったこと、などがある。
このようなトラブルを収めるために、13世紀、ポーランド公はユダヤ人の権力や安全を保障する「カリシュの法」を制定したため、ポーランドを中心とする東欧地域にたくさんのユダヤ人が居住するようになっていた。
しかしこれは国家の権力者の定めた法令であり、庶民にとっては不服もあったことだろう。一揆や乱が起こるに乗じて、ユダヤ人が虐殺されることはしばしばあった。
ポーランド分割後は庇護を失い、ロシアにおいては皇帝によっても迫害された。

ウクライナ リヴィウ 囲まれたユダヤ人の少女

ウクライナ リヴィウ 集められたユダヤ人
悲しみにはりさけそうな表情



東欧でのポグロム暴発
1941年、独ソ不可侵条約を破り、ナチスドイツが東欧に侵入し始める。そのとき、東欧各国ではゲシュタポの到着を待たず、ユダヤ人を虐殺した。
際立った動きは以下の通り。

ウクライナ
「我々にユダヤ人始末の権限を与えよ」
ウクライナ人は、それまでにポーランド人やユダヤ人の陰となって生きてきた。ナチスには「劣等人種」と蔑まれ、大量虐殺もされた。にもかかわらず、ナチスの将兵に進んで協力し、ユダヤ人を見つけ次第、殺害する。その迅速性ゆえに、ウクライナには収容所を作る必要がなかった。

ウクライナ リヴィウ 女性は囲まれ、服を脱がされ、ときには衆人環視の中で強姦される ドイツ兵やソ連兵にではなく、それまでの隣人たちに

棍棒を持った子供らに追い回されるユダヤの女性
この残酷な虐待に子供まで加担している


ウクライナ リヴィウ 住民によるポグロムの間、見物するドイツ兵


リトアニア
ドイツが攻めこむ前から既に、独自にポグロムを行う。その徹底ぶりにより、ユダヤ人生存者は1割となった。一夜にして男女子供は殺され、四肢はばらばらに転がる。むしろ、リトアニア人によるユダヤ人攻撃が落ち着くのは、ドイツ人が占領するようになってからだという。
「私たちを隣人から守るためにナチが出てくるなんて、変なことになったものだ」
なお、杉浦千畝の計らいで国外脱出できたものは多くはアメリカ、一部は神戸に身を寄せた。

リトアニア カウナスの虐殺
狩りの手柄の記念撮影か 地面は血の海



ルーマニア
エスカレートした民衆による殺害は、想像を絶するほどの残酷さだった。集められたユダヤ人は家畜の場に連れて行かれ、家畜同様のやり方で殺され、そして家畜同様のやり方で「吊るされた」。或いは、吊るしておいて、生きたまま皮膚を剥いだ。5つにもならない幼女の死体も逆さに吊られていた。その残虐ぶりにはナチスでさえも耐えられなかったらしい。

ルーマニア ヤッシーの虐殺で犠牲になった子供の写真


ハンガリー
ゲシュタポ以上に厳しい憲兵の摘発により集められたユダヤ人は、ブタペストからオーストリア国境まで「死の行進」を強いられた。不眠不休、飲食禁止のこの行進を、スウェーデンの外交官ラウル・ワレンバーグはトラックで追いかけ、食料や衣服を与え、一部はトラックで連れ戻した。
ワレンバーグは保護証書を大量発行してユダヤ人を保護し、ほかにセーフハウスも設けた。
ワレンバーグはその後、ソ連との話し合いに呼ばれたのち、行方不明となった。その消息は現在でも明らかになっていない。

ラウル・ワレンバーグ 1947に消息不明


ポーランド
この時期の、一般市民によるポグロムとして有名なイェドバブネ事件の他、30件以上の虐殺が起きた。数百人が瞬く間に殺害されたイェドバブネ事件は、最近に至るまで、ナチスの誘導で起きた事件として目されてきた。しかし後代、上記の本の著者グロスの前著にて、ナチス関与が否定されたことにより、それまでのポーランド社会の被害者意識は豆鉄砲を食らうことになった。

このように、東欧では一斉に、民衆によるポグロムが暴発した。ここにあげていないスロヴァキアやオーストリアでも事態は同様であった。

イェドバブネの小屋の焼跡から見つかった鍵
広場に集められた後、すぐに家に帰れると思っていたらしい



アウシュビッツ以前のポーランドのポグロム
イェドバブネ事件

1941年7月10日、ゲットーから連行されたユダヤ人あるいはたまたまその地を訪れていたユダヤ人が広場に集められ、危害暴行を加えられる。そのうちの40~50人が連れ出され、レーニン像破壊とともに殺害され、像の残骸もろとも埋められた。
その1~2時間後、広場の残りのユダヤ人(女性や子供多数)がユダヤ人墓地前の小屋に閉じ込められ、外から火を点けられ、焼死。およそ40人の非ユダヤ系ポーランド人が主謀した。

この時点で、ポーランドは他の東欧諸国同様、まだアウシュビッツなどの絶滅収容所を経ていない。建設はこの後だからである。


絶滅収容所とポーランド
ポーランドは、絶滅収容所を知っている。
それはポーランドにあったからだ。
知らないはずはなかったが、収容所が解体された後、周辺住民はそれを見せられ、「知らなかった」と一様に答えた。
事実上、知っていたに違いない、しかし無関心だった。それは他者の問題であって、自分は「それ」ではないという優越に浴していた。

黒い灰を落とす‥
「春、陽光、4月の雲、そして黒々と執拗に舞い降りてくる黒い雪片、黒い煤の片。
「ゲットーからよ」。
そう言って、母は窓の下枠から黒い雪を払い落とす。私の顔からも、目からも黒い雪を払い落とす‥
「何も心配することはない。ゲットーの中のことだから」‥」

ワルシャワに住んでいたハリナ・ポルトノフスカが60年後に回想している。

「‥黒い雪が降ってきたとき私はいったい何を感じていたのだろうか。何も感じなかったのだ。いや、本当に何も感じなかったのだろうか」

絶滅収容所近辺の村にも黒い雪が降っただろう。
白い雪は黒いものを消してくれない。払い落とさねばならない。その目からも。
彼らは知っていたはずだ。
フランス人やドイツ人はむしろ、目の前で連れて行かれたユダヤ人の行く末は知らなかったから、絶滅収容所の実態を知ったときには驚愕した。収容所の所在地のポーランド人は、自らが協力して連行させたユダヤ人の運命を知っていたはずである。元隣人の残酷な結末を、戦時中から知っていたはずである。
これが、なぜ絶滅収容所のあったポーランドにおいてポグロムが再発したのかの疑問である。

絶滅収容所 煙突が見える

アウシュビッツ以後のポーランドのポグロム
戦争が終結して、絶滅収容所の惨劇を知った世界は、ユダヤ人へ同情を寄せた。戦争していたどの国でも悲惨な戦禍で苦しんでいたにもかかわらず、ユダヤ人の受けた残酷な苦しみをとりわけ憐れんだ。
ところが、ポーランドの隣人はそうではなかった。ポグロムが各地で起こったのである。

終戦後、ユダヤ人が自分のいた地に帰ってくる。
国内のどこかで避難していた人や絶滅収容所で生き残れた人8万6千人、ソ連から解放された人13万6千人。かつての隣人が冷やかに迎える。そして、ここにいては危険だからすぐに何処かへ行くように、と。そしてこう付け加える。

「あなたの財産を私に渡しなさい。
さもなければ、あなたを傷つける連中が何もかも取ってしまうんだから」

亡くなったユダヤ人の財産は、ポーランド人が受け継いで良いことになっていた。ところが、絶滅させられたと思っていたユダヤ人が帰ってきた。自分の取り分として手に入るはずだった財産が手に入らなくなる。他の人はまんまと手にしているのに!
そうした妬みが膨らんで、地方で小規模なポグロムが起き始めた。都市部は比較的安全だったため、ユダヤ人は都市部に身を寄せた。
しかし、次には都市部においてもポグロムが起きるようになった。「妬み」だけが原因ではなかったことが次第に明らかになっていく。
1945年8月クラクフポグロム、1946年7月キェルツェポグロム。
当時、都市部ではドイツ人追放やウクライナ民族主義者弾圧、共産党をめぐる抗争もあり、非常に不安定でもあった。しかし、戦後の混乱に付き物のこれらの事件とは一線を画して、ポグロムが起きている。単にその目的は、殺害、略奪だった。


キェルツェポグロム
少年の嘘が虐殺を引き起こす

8歳の少年ヘンリク・ブワシチクはサクランボが食べたくて、以前住んでいた土地の友人のところへ親にだまってヒッチハイクで出かけた。親は捜索願を出した。2日後の晩、ヘンリクはたくさんのサクランボを抱えて帰宅。酔っ払っていた父親に、「ユダヤ人に誘拐されていた」と嘘をついた。
翌朝、父と隣人とともに警察に報告に向かう途中、通りにあったユダヤ人会館を指差し、「ここの地下室に監禁されていた」「入り口にいた緑色の帽子のユダヤ人に連れ込まれた」「他にもつかまっているポーランド人の子供がいた」と作り話をする。プランティ通り7番地ユダヤ人会館、当時、この会館には180人のユダヤ人が居住していた。

事件のあったユダヤ人会館 川のそばのため、地下水が多く、地下室はなかった

民警が事をあらためるために来ると、人々が集まってきて、話は次第に膨張し、「ポーランド人の子供が殺された」と広がっていった。
しかし、この建物には地下室はなく、中を調べた者により、少年が嘘をついたことが明らかになったのだった。本来、これで収束するはずの事態は、もはや収束できなくなっていた。民衆が建物前を取り囲み、建物に乱入しようとする。その場にいた民警も、公安警察も、エキサイトする民衆を制止できない。軍隊も危険を察知し、遠巻きに見守るだけだった。
状況に流された兵士が動いたのを見て、民衆が建物になだれ込み、広場に引きずり出されたユダヤ人は、棒や石で撲殺されるか銃殺された。病院に運ばれた遺体のほとんどは身ぐるみ略奪されて裸だった。結果42人が殺され、80人以上が負傷して病院に運ばれた。病院に運ばれた者には、看護師による虐待が待っていた。
暴徒は駅に入ってくる列車も襲い、年端もゆかぬボーイスカウトの少年がユダヤ人をピックアップして車外に出し、暴徒はここでも撲殺した。
停車中のコンパートメントから、1人の男性が、自分とそれほど年の違わぬ少年に連れて行かれるのを見た10歳の少年。のちに思い出して驚くのは、同じコンパートメントにいた誰一人として、このことに全く無反応であったということ。「黒い灰」を目から払う、それと同じ反応と言えるだろう。

キェルツェポグロムの犠牲者の墓地


「過去に自分が傷つけた相手を憎むのは、まさしく人間の常である」
これはタキトゥスが当時すでに言い古された箴言として紹介した言葉である。
隣人に棍棒を振るった人々。ユダヤ人が報復で彼らに危害を加える怖れがあったからではなく、ポーランド民衆は別の恐怖心を抱いていた。ユダヤ人の存在が、自分の道徳を崩壊させるのをまざまざと思い知らせることに恐怖を覚えていた。自分がまっとうに存在するためには、彼らを排除したい。そうすることで過去を葬りたい。
「加害者には過去に自分が傷つけた被害者を激しく憎悪する性向がある」
戦後のポーランドのポグロムは、決して群衆心理(※)に流された暴発事件ではない。そこには自分の存在のために相手にとどめを刺そうとする怜悧な計画があった。
殺害は日常生活の延長線上で行われている。
調書によれば、「家族でピクニックから帰ってきた後、‥」「仕事から戻って来てから、‥」「プールから帰ってきた後に、‥」殺害に出かけている。友人と何気ない会話をしながら、ユダヤ人に石を投げている。森に連れて行って殺そうとしている相手の交渉に言葉を返している。近所付き合いのあったユダヤ人を撲殺する間、殴られながら愛称で呼びかけ、話しかけている。まるで、学校の裏のリンチのようだ。
「挑発はあったのか」「煽動者がいたか」が争点になる。それがあれば、起きた結果はその者のせいにできる。同じような、隣人による虐殺として、ルワンダのジェノサイドがあるが、あの発端には煽動的なラジオ放送があった。戦後のポーランドのポグロムは、煽動も挑発もなく、心に根付いていた積年のわだかまりに自然発火したものだと言える。
上部機関からの命令に強いられたわけでもない。参加するかしないかは個人の判断だった。ということは、それを止められるのは自らの意志だけだったことになる。暴動を阻止しようとした勇気あるポーランド人にも危害は加えられている。自分を否定する者の存在を許せない。自分が崩壊しないために相手を打ち砕く。人間の心の、暗く冷たい底なし沼に浸される幻覚‥。

(※)「集団(群衆)心理」に見られる性質
⑴過度の情動 ⑵衝動性 ⑶暴力性 ⑷移り気性 ⑸一貫性の欠如 ⑹優柔不断 ⑺極端な行為 ⑻粗野な情動の表出 ⑼高度の被暗示性 ⑽不注意性 (11)性急な判断 (12)単純かつ不完全な推理 (13)自我意識、自己批判、自己抑制の喪失 (14)自尊心と責任感の欠如による付和雷同性
グレーは私がこの事件においては該当しないと考えるもの。つまり、集団の流れによって起こったと考えにくい。


事件との距離 カトリック司祭と知識階級
ポーランドには階級意識が周囲の国々よりも顕著であった。インテリゲンチャ(知識階級)は常に、祖国と名誉のために戦う誇り高き階層であり、第二次大戦で、ポーランドは売国的なファシスト政権は登場せず、独ソから挟み撃ちにされながらも英雄的に戦った。そして悲劇的な犠牲者であり、祖国の被害の語り手になった。
ただし、知識階級の人々の描く祖国には、庶民は描かれていなかった。度々起こるポグロムは、下層階級間の「下々のできごと」として捉えた。
戦後のポグロムに直面しても、当事者ではない知識階級は再び「語り手」だった。

カトリックの司祭たちは、キェルツェポグロムの最中、民衆を説得しようと近くまで来ていた。しかし、近寄るのは危険だと民警に制止され、仕方なく安全なところで待っているうち、早々に事件が収束したので引き揚げた、と報告している。これは本当に「仕方なかった」か。
そして、司祭の尽力で解決したかのような共同声明。ところが、たった一人、そのようなまやかしの声明を述べず、真実を教会で伝えた司祭がいた。ユダヤ人によるポーランド人の儀式殺人の否定、ユダヤ人殺害の事実。ポグロムでは度々、ユダヤ人が儀式のためにポーランド人の子供を襲うとして、儀式殺人の罪を着せて虐殺することがあった。キェルツェの事件では、警察の発表でも教会の発表でも、「人は死んでいない」とされていた。ユダヤ人40人以上が亡くなっているのだが、彼らを人として数えないからである。真実を伝えた司祭は罰せられた。さらに、上位の司教は嘘の上塗りもする。私(司教)の聞いた話では、ユダヤ人に虐待されたと証言してキェルツェポグロムのきっかけを作った子供は実際にユダヤ人に虐待されており、その子供の腕から血を抜いた証拠もあると、英国大使に話し、大使を唖然とさせている。
自明のことだが教会関係者こそ、紛う方なき反ユダヤ主義者である。宗教上、想定しうるものであるのに「寛容」の仮面が取り繕う。

キェルツェポグロム犠牲者の葬儀


擬似的種形成
チンパンジーの生態を研究したジェーン・グドールが、霊長類に起こりうる「擬似的種形成」を報告している。あるチンパンジーの集団で、それまで一緒に育ち、親しく暮らしたメンバーが、グループごと群れから分裂するとき、かつての仲間からは非常に激しく攻撃される。ともに毛づくろいもした元仲間が容赦なく攻撃する様は、それを別のサルに対して仕掛ける襲撃とは異なり、チンパンジーが大型の動物を殺し、解体して餌にするときのような、脚を捻りあげる動作や地面に叩きつける動作まで見られた。大型の動物に対峙するときは、半端でない殺意をもって挑むはずだ。
人の世界でも、最も激しく残酷になるのが「内戦」である。それは、文化的な対立である場合より、一層残酷極まるのは民族対立の場合である。

「5年前には、私は誰がクロアチア人か、セルビア人か、それともムスリムかなど、考えたこともなかった。気にかける必要もないことだった。友人が何という人種なのかさえ知らなかった。恐ろしいのは、いや、それ以上に魂消るのは、人種意識というものがなんと早く広がるかということだ」

ボスニアの三つ巴の戦いは不可解なほど残酷だった。とにかく多くを殺す、絶滅させる、数で勝負の大量殺戮だった。
いままで互いに「友人」だったのが、ある日「クロアチア人」になり「セルビア人」になる。もはや友人ではなくなるどころか、暗殺者になる。


ポーランドの現在
図らずも、ヒトラーが果たせなかった「ユダヤ人なき国家」に、その上、ほぼ単一民族国家になったのはポーランドだった。ユダヤ人は戦後のポグロムを怖れて国外へ、多くはイスラエルやアメリカへと脱出したからだ。
その後、ポーランドでは歴史認識をまとめるための国民記憶院を設けた。その流れの中で、2001年、ヤン・T・グロスが著書『隣人たち』により、イェドバブネ事件にドイツ兵は関与しておらず、非ユダヤ系ポーランド人が主犯だったことを明らかにした。それまで自国の被害者としての立場に落ち着いていたポーランド人達には、受け容れがたい事実だった。国民記憶院はグロスの説をやみくもに否定することをせず、説を検証した結果、大筋で説が正しかったと証明し、国民もそれを受け容れた。加害者でもあったことを、国家も国民も正面から認めたのだ。
これがどのくらい国民に定着しているかの物差しとして、教科書での取り上げ方がある。キェルツェポグロムに関しては、「キェルツェのユダヤ系住民虐殺」という項で6ページが割かれ、そのなかでは煽動説を否定と、国外脱出したユダヤ人亡命を加速させる要因となったと記されている。

歴史を正しく認識することは重要だ。
時に加害者ともなったことを認めねばならない。認めた上で何をするべきかも誤ってはいけない。ポーランド政府は国内国外問わず全てのユダヤ人に謝罪の意を表した。この方針に強く反対する動きは見られなかったようである。

翻って、イスラエルに定住したユダヤ人は、ガザをゲットーにしている。被害者だった者達が、別の地で加害者となっている。
最も長く迫害の歴史を経てきたユダヤ人が、解放された途端、迫害をする側になった。
被害者意識がそれほどまでに強かったのか。
我が身のいたみ以外、他者のいたみなどを想像してみることはなかったからなのか。
その限定された土地に固執するあまりに、人間性を失うその人たちが、アウシュビッツを経てきたユダヤ人なのだとは、信じたくない事実である。

平等な共存を保障しない限り、パレスチナはいつまでも抵抗を続けるだろう。ユダヤの歴史の中で、先に述べたカリシュの法をポーランドから授けられた時、先祖のユダヤ人たちは歓喜した。
法を尊ぶ宗教ならばこそ、カリシュを超える、平和の法を示してほしい。


ビルケナウ絶滅収容所







理想と憧れのロープシャ宮殿

2016-06-09 00:07:43 | ブレイク
古く質素で気品漂う
ロマノフ家のロープシャ宮殿
過去と現在

Ropsha palace

私の個人的な趣味の話になりますが、上の1枚の写真を見たとき、すっかりこの空間の虜になってしまいました。もちろん、ここにいる人物、皇后アレクサンドラとその息子、まだ幼いアレクセイ皇太子、そしてアレクセイの世話係の水兵デレベンコ、この3人の醸し出す穏やかな一コマは、その後の彼らの非業な運命をおよそ想起させ得ない、美しさ或いは素朴な幸福を溢れさせています。その様子を映し出すのに完璧に呼応した見事な背景となる、高貴な館とそれに続く庭の品格は、豪華さを見せつける書割りのような、他のロマノフ家の宮殿と異なり、なんとも言えぬ落ち着きを感じさせてくれます。
この宮殿は現存しますが、すっかり廃墟と化しています。世界遺産の候補として、サンクトペテルブルク及びその近郊の歴史的建造物群の一つに入っている?ようですが、荒れるままにされていました。ようやく修復の予算がついたとかつかないとか。元の姿に戻れるのはいつになることか、まだまだ遠い未来の話かもしれません。



復元模型図

1.ピョートルによる教会堂 2.ピョートルによる木造宮殿 3.18世紀建立の施設 4.オベリスク(塔)5.18世紀の(製紙)工場 6.製粉小屋 7.18世紀の釣り池 8.lower park 9.upper park 10.戦車の記念碑 11.ロープシャの記念碑 12.18世紀の温室 13.売店 14.乗降場



庭に面した東側外観





ロープシャは、サンクトペテルブルクから南西へ49㎞、ペテルゴーフからは南へ20㎞に位置しています。
15世紀のノヴゴロド公国時代、Khrapshaの表記で記録があるそうです。
スウェーデンからこの地を奪還したピョートル大帝は、美しい泉に恵まれたこの地に木造の宮殿と教会を建て、夏の離宮として利用しましたが、のちにStrelnaに豪壮な宮殿を築いてからは、この地を訪れることはなくなり、宮殿は家臣の所蔵するものとなりました。

ピョートル時代建設の教会堂

近隣の池

オベリスク

cascade towel(小滝)

1910年 cascade towel

持ち主により修復改修がなされ、維持されてきた宮殿は、18世紀、女帝エリザヴェータの所有するものとなりました。女帝はBartolomeo Rastrelliに新しい宮殿のプランを依頼したが、着工はなりませんでした。
1762年、クーデターで退位させられたピョートル3世はここ、ロープシャに幽閉されたのち、殺害されました。このクーデターにより、女帝として君臨したエカテリーナは、ロープシャを愛人に譲渡しましたが、不吉な館であるとして、さらにアルメニア系の宝石商に売られます。

エカテリーナの死後を継いだパーヴェルはロープシャを買い戻し、Georg von Veldten設計のネオクラシック様式の宮殿と、それに続く英国式庭園を新設し、宮殿の改名も考え、お披露目のイベントを計画していましたが、1801年、またしてもクーデターによりパーヴェルは暗殺されました。
その後、この宮殿は代々の皇帝に受け継がれましたが、あまり利用されることはありませんでした。ただし、最後の皇帝ニコライ2世は、周囲の森での狩りと、鯉や鱒がたくさん棲む大きな池での釣りが楽しめるこの宮殿を比較的よく利用したようです。

来訪した皇族の方々と思われますが不鮮明なのでどなたかの判別がつきません

右から3人目 ニコライ2世

皇后と皇女 左からマリア、アナスタシア、皇后、オルガ

南側アルコーブに立つマリア、手前に皇后

アナスタシアと皇后、奥にニコライ

オルガ アルコーブにはソファが置かれている

ロープシャの池で楽しむニコライと子供達 左からマリア、アレクセイ、ニコライ


ニコライ2世の妹クセニア大公女は、父の従弟のアレクサンドル・ミハイロヴィチと結婚した際、この宮殿で新婚の日々を過ごしました。

クセニアと夫アレクサンドル・ミハイロヴィチ

ロープシャ宮殿内部のイメージ

革命をへて、ロシアからロマノフ家が消え、宮殿も戦乱に巻き込まれていきました。
主戦場になったレニングラード攻防の重要地点として、ロープシャはドイツ軍の砲撃隊の基地に使われ、ヒトラーの駐留地ともされていたと言われています。



しかし、独露の熾烈な攻防の爪痕は深く、宮殿の内部は無残に破壊され、その後の長い年月の間にも、徐々に崩れていきました。
崩壊は内部だけではなくなり、外観も崩れてゆき、とうとう昨年にはシンボルの列柱も崩折れてしまいました。

2012年 東側正面

2012年 西側





木部の天井も床も落ちて太陽の差し込む内部には草木が生えてゆく



ドア枠のアーチが奇跡的に往時の美しさを保っている

2015年 ファサードの要の列柱が崩れる


100年前、全ての窓に美しくカーテンが掛けられ、ロシアの皇室関係者を迎えたのを最後に、宮殿としての時間は止められ、戦争になぶられ、緩やかに死にゆく建築物。
修復が完成して甦った姿を見るもよし、森の中に静かに姿を消すにまかせるもよし、過去の時の流れはただ、池面に浮かぶ泡沫のように、しばし漂い、やがて見えなくなるでしょう。
絢爛豪華なペテルゴーフの宮殿の大噴水は、ロマノフ家の栄華の側面を、きらきらと象徴している一方で‥。


ニコライ2世ファミリーの写真アルバムより ロープシャ宮殿のページ