名のもとに生きて

人の一生はだれもが等しく一回かぎり。
先人の気高い精神に敬意を表して、その生涯を追う

英雄或いは反逆王 レオポルド3世

2016-06-29 19:50:04 | 人物
大戦中、国を離れず国民を支えた王が
「反逆者」と呼ばれた不運
ベルギー国王 レオポルド3世



Léopold Philippe Charles Albert Meinrad
Hubertus Marie Miguel
1901〜1983


ドイツとソ連が戦争になれば、必ず巻き込まれるのがポーランドの運命ならば、ドイツとフランスの間では、ベルギーが巻き込まれるのはもう一つの運命だ。
果敢に戦った18日間、そして降伏、占領。
国民とともに在り続けた王は、ベルギー亡命政府や周辺国政府に非難され、反逆罪を問われた。
最愛の王妃を事故死させた悲しみと孤独の中で、孤軍奮闘し続けた国王の不運を嘆く。


出生、幼少期
1901年、当時のベルギー王太子アルベール(アルベール1世)の第1子長男として誕生。
母はエリザベート・ド・バヴィエール、父方の伯母はオーストリア皇后エリーザベト。
弟シャルルと、妹マリー=ジョゼがいる。


アルベールとエリザベート 婚約の頃

1909年にアルベール1世即位 レオポルドは王太子に

王妃は元バイエルン公女。芸術の才能に秀でており、特にバイオリンは大変な腕前だったといわれている

レオポルド

レオポルド

レオポルド

笑顔の子供達
マリー=ジョゼ(中央)は、のちにイタリア最後の国王ウンベルト2世王妃となる。マリー=ジョゼは第二次大戦中は、枢軸国イタリアにあって、連合国とのつながりを保ち、パルチザンに援助する重要なポストを担っていたという。


西洋の物語に描かれる美しい王子そのものと言える、本物の美しい王子、レオポルド。
宝石のような瞳。
往時のエピソードなどは私は知らないが、写真からは物静かで繊細な、おとなしい少年という印象を受ける。


学校、第一次大戦時
1913年9月からはイギリスのイートンカレッジに通う。そこではイギリスのヘンリー王子と学寮も一緒だった。
ヘンリー王子はレオポルドの一つ年上であり、英王ジョージ5世の5人の王子の中では3番目、兄の、のちのジョージ6世と同様に病弱で、兄以上に強い吃音もあり、非常に内向的であった。

イギリス王子ヘンリーとベルギー王太子レオポルド イートンカレッジにて

しかし、第一次大戦勃発後、1915年には、ベルギー軍を指揮する父国王アルベール1世に倣い、レオポルドはわずか14歳でありながら、第12ベルギー連隊兵士、すなわち全くの一兵卒の身分で従軍した。
自ら戦場で指揮し、兵士に勇気を授ける勇敢な国王アルベールは、たとえ王太子である自分の息子をさえも戦場から遠ざけず、送り出した。その覚悟は恐れ多い。例えば、英王室では、平時は王子らに主に海軍で訓練を積ませても、戦時には王太子だけは軍から下がらせていた。レオポルドの学友ヘンリー王子は、第一次大戦中は学生生活を続けており、従軍はしなかった。
レオポルドのこの経験は、国王となって迎えた第二次大戦での戦いに、父のように勇敢に立ち向かう土台となったと思われる。

ベルギー軍の兵士として従軍
顔にはあどけなさが残る


妹マリー=ジョゼと


結婚、即位
第一次大戦ではドイツ軍の猛攻を浴び、ベルギーは軍も国土も大損害を受けるものの、国王の毅然たる指揮により、度重なる連合国からの参加要請もはね退け、武装中立国として存分に戦った。
戦後は、もともと持ち合わせていた高い技術力と産業基盤を回復させ、復興も早かった。

アルベール1世国王、レオポルド王太子、シャルル王子

この時期、成人したレオポルドは王太子としての経験を積む一方、結婚して幸せな家庭を築く。
王太子妃となるのはスウェーデン王女アストリッド・ド・スェード。1905年生まれ。
スウェーデン王オスカル2世の第3王子カールの三女である。かつてマリア・パヴロヴナが嫁いだ相手、ヴィルヘルム王子は従兄。
アストリッドはベルギー王妃に、アストリッドのすぐ上の姉マッタはオラヴ5世に嫁ぎ、ノルウェー王妃となった。



20歳で結婚したアストリッド王女

王族どうしの政略結婚ではありながら、お互いに強く惹きつけられての幸せな結婚。
アストリッドは美しく、明るく、分け隔てない優しさにより、国民にも深く愛された。

1926年に結婚、1927年、のちにルクセンブルグ大公妃となる長女ジョゼフィーヌ=シャルロットが生まれ、1930年には待望の王子ボードゥアンが誕生した。
家庭的なアストリッドは、王宮近くに小さな居を構え、自ら料理したり、普通の市民のように子供を連れて街を歩いたりし、上流階級の一部には「儀礼が身についていない」と批判するものもいたが、総じて国民には慕われていた。

アストリッド 少女のころ

姉マッタ(右)は のちにノルウェー王妃に









ところが、1934年、国王アルベール1世は趣味の登山に一人で出かけて遭難死した。登山のエキスパートであった王が遭難したことで、その死は不自然視され、様々な憶測と仮説が流れた。しかし、山ではどんな事故が起こるかは予測はできず、エキスパートであろうと対処しえない場合もあるだろう。むしろ国王がたった一人で出かけたことに驚く。1934年2月17日の死、58歳だった。

アルベール1世は当時においても最も人気の高かった国王であり、現在でもなお、ベルギーで最も尊敬されている国王である。
国民の深い悲しみのなかで、レオポルドはレオポルド3世として即位した。程なくして生まれた第二王子は、先代王にあやかってアルベールと名付けられた。

レオポルドとアルベール1世
ドイツがフランス攻撃のために、中立国ベルギーを通過したとき、「ベルギーは道ではない。国だ」と言い、通過を許さなかった。また、フランスが国境を侵すことも許さなかった。こうした国王の強さは国民の誇りとなった



王妃の死
国王の死から1年半ののちに、アストリッド王妃が不慮の事故で亡くなる。
新国王一家は、1歳に満たない幼いアルベール王子を除いてスイスの別荘を訪れていた。先に子供達を養育係とともに帰し、翌日のこの日、国王夫妻も帰国することになっており、その前に山を見てから帰ろうと、ルツェルン湖岸の道を車で走っていた。このとき、運転していたのはレオポルド、後部座席にお抱え運転手、王妃は地図を見ていた。風が強かった。
王妃が地図上の何かを王に示したとき、車は道を外し、制御を失って急な斜面を降り出した。
木に当たって衝撃を受け、王妃はドアを開けて脱出しようとした際、別の木の幹に体を激しく打ちつけたため、程なくして亡くなった。
暴走した車は湖に落ちて停止した。
レオポルドは車外に脱出して軽傷だった。





1935年8月29日、午前9時30分。
一瞬の出来事だ。運命はこんなふうに一瞬でコインを裏返すことがある。
この日、大雨だったら、濃霧だったら、山を見に行かずに帰ったことだろう。子どもが熱を出したりすれば、行かずに帰っていただろう。
王妃は29歳。結婚して9年、その間に3人の王女王子をなし、王太子妃の公務をなし、王妃となってまだ1年半だった。
国民に愛されていたアストリッドの死は、大きな悲しみとなった。
葬列のレオポルドはどのような心境だっただろうか。国王として、夫として、事故を引き起こした者として、どうやって立っていたのだろう。
自分を支えてくれるはずの、その王妃がいない。
先を歩いて導いてくれるはずの父の姿もない。

国王(中央)は包帯が生々しい




ベルギーの戦い
この頃、ドイツのヒトラーの動きを警戒していたヨーロッパ全土。とうとう独裁者は動き出した。予想以上に性急な攻撃だった。ヒトラーの猛烈な電撃戦を、レオポルドはベルギー国王として、またベルギー軍最高司令官として迎え撃つ。

二人の息子ボードゥアンとアルベール

1940年5月10日、オランダとベルギーが同時に侵攻された。両国とも中立国でありながら侵攻される。オランダはほとんど備えをしていなかったが、ベルギーは1930年代からレオポルドの下に防衛の準備を固めていた。当時、ヨーロッパで最も万全な備えができていたのはベルギーだった。
しかし、ドイツの攻撃はそれを凌いだ。そもそもの航空兵力の差から、制空権をあっという間にドイツに押さえられたこと、そうなれば国土が低地であるのが弱点となり、空爆を避けることも困難なことが大きな災いになった。また、ベルギーを盾にしたいフランスとイギリスは、連合への参加をベルギー軍に迫り、ベルギーの国土を戦場にしておいて退却していった。

「何が起ころうと、我が軍と同じ運命を共にしなければならない」

レオポルドは第一次大戦時の父のように、戦場に張り付き、激励の声明によっても兵を労った。
軍の存命が危なくなってきた頃、チャーチルが視察にやってきて、ベルギー軍の戦線崩壊の危機の状態に憤り、ベルギー軍にとって壊滅的になる戦略プランを押し付けて行った。ダンケルクでイギリス軍を退却させるために、フランス軍とベルギー軍を犠牲にするものだった。
翌日、レオポルドはイギリス国王ジョージ6世に電報を打つ。

「我が陸軍が包囲されれば、終わりになるだろう」
5月27日、国内の被害状況からさらなる抵抗は不可能と考え、レオポルドはドイツに休戦要請。
5月28日、無条件降伏する。


反逆罪を問う
5月16日には既にフランスに亡命していたベルギー政府、フランス政府、イギリス首相チャーチルは、この降伏を激しく非難した。
ベルギー亡命政府は、国王が政府の要請に従わずに亡命しないで残ったこと、その時点で既に政府に反逆した国王は国王として認められず、その者が交わした降伏は正当な政府の判断ではないと主張し、戦いの継続を求めた。
しかし、最高司令官はレオポルドであり、レオポルドは捕虜となったため軍は動かせず、既に状況はドイツが握っていた。亡命政府は、正当性を遠くで喚いているだけの無力な集まりでしかなかった。
フランスの首相レノーは、レオポルドの反逆罪を訴えたが、それはレオポルドをスケープゴートに仕立てる工作のようであった。反逆罪の理由は、ベルギー軍の崩壊が英仏の連合軍に対し及ぼす影響を事前に警告しなかったから、とのこと。
どうやらこちらがヤギの脳ミソをお持ちのよう。

「(歴史上)戦いながら没落した国家は甦ったが、従順に降伏した国家は二度と立ち直れない」
などと批判したチャーチルは、のちの自著のなかでもレオポルドをさんざんにこき下ろした。

彼らの非難は、レオポルドの降伏は、ドイツとの共同政府を構成するためだった、という疑いの上に立っていた。その時点でも、現在に至っても、レオポルドとドイツの間にそのような内通があったという証拠は一切ない。
戦況に怯え、頭に血が上った者たちの老害に聞こえる。

囚われの英雄か
降伏後、母エリザベートと共に戦争捕虜となったレオポルドは王宮に軟禁された。
この頃、イギリスからヘンリー王子がレオポルドを心配して訪ねてきた。レオポルドがひどく落胆していた様子を、帰国後、兄国王に話したという。
軟禁中、レオポルドはヒトラーとの会談をたびたび要請し、ようやく1940年11月に機会を得た。
ゆくゆくはベルギーの独立を認めるよう懇願したのだが、ヒトラーは承諾しなかった。
王宮の外では、囚われの国民達が同じく囚われの国王に心を寄せていた。王は英雄なのか、或いは政府を追い出したまま独裁者になろうとしているのか?
ところが、国王への信頼を失墜させる残念なことが発覚した。1941年、レオポルドは極秘再婚した。相手は平民で元農業大臣の娘リリアン・バエル。当時24歳で、レオポルドより15歳下だ。
国民がこの結婚を嫌悪したのはわかる。
国のこの状況下で、既に世継ぎもいる国王が、惜しまれて亡くなったアストリッド王妃を脇に追いやるかのように、若い平民女性と恋に落ちる。明らかに醜聞であり、祝福できないだろう。しかもこれを祝福してヒトラーが花を贈ったとなれば、国民の感情は最悪のものとなる。
のちに正式に結婚して、リリアンに爵位は授けられたが、王妃の地位は与えられなかったし、リリアンによって生まれた子供達に王位継承権は与えられなかった。
レオポルドはなぜ再婚したのか。
リリアンを推したのはレオポルドの母だったという。それは良いとして、わざわざこの時期に、中途半端に結婚したのは、リリアンが早く子どもを欲しがったから、だそうだ。結局、1942年に男子、1951年と1956年に女子が生まれた。1954年と1955年には娘のジョセフィーヌ=シャルロットに、レオポルドの孫にあたる子達が生まれていた。こういうややこしい話は封をしたくなる。相手にももう少し、良識と配慮があれば良かった。

リリアン・バエル

レオポルドは退位後、アマチュアの社会人類学者として世界をまわった


Royal Question
1942年、ドイツの敗色が濃くなってくると、亡命政府との対決にレオポルドも備え始めた。1944年からは、レオポルドはヒムラーに拉致され、ドイツに連行されたが、亡命政府が戻った時に発表する公式声明を用意して置いていった。

Military honor, the dignity of the Crown and
the good of country forbade me from
following the government out of Belgium.


レオポルドはザクセンの城砦にて幽閉ののち、ザルツブルグ近郊に移され、1945年5月、アメリカ陸軍によって解放されたが、先に帰国していた政府が帰国を認めず、政府は弟シャルルを摂政に立て、戦時下及び戦後のレオポルド反逆の罪に関する査問委員会を開いた。委員会では、レオポルドに反逆罪は問わないと結論したが、政府はさらに、レオポルドを国王として認めるかを国民投票にかけた。国民投票の結果、レオポルドの国王復帰支持は57%だった。旧来のカトリック教徒らは支持派、新しく台頭した社会主義者らは反支持派、また、かねてからベルギー国内の抱えていた使用言語による対立構造を掘り返し、フランデレンとワロンの対立がそのまま支持対反支持となり、国民を二分する契機となってしまった。
1951年、結果を受けてレオポルドは国王としてベルギーに帰れることになったものの、二分した国内は内戦の危機に陥っていた。レオポルドは再びの決意、これ以上国内を荒廃させないために、自ら退位し、20歳の息子ボードゥアンに譲位した。

ボードゥアン(左)とアルベール

ボードゥアン1世

第二次大戦期という、あまりにも困難な時代の国王として、レオポルドの振舞いは評価が分かれるようだ。もう少し要領よく政府をなだめる術を持っていたら、とも思うのだが、何如、若く理想が高かった。
長い引用になるが、歴史学者ヘールト・マックはレオポルドをこう見た。

‥(オランダ降伏の)二週間後、ベルギー国王レオポルド三世が降伏した。百五十万人のベルギー人がフランスに逃亡した。国王の決断によって北フランスの防衛に穴が開き、リール周辺のフランス第一軍は持ちこたえることができなくなった。
同時に、国王と大臣たちの間に戦後まで続く深い対立が生まれた。ベルギー政府にとって中立は政治的に自明なことであった。ヨーロッパの権力関係によって定められる賢明なる日和見主義だった。だが、いまや人々は死も厭わず戦おうとしていた。レオポルド国王にとっては中立は神聖な原理で、彼の頭には一つの考えしかなかった。これ以上、道一本破壊されたくなかったし、人一人殺されたくはなかった。イギリスに亡命した戦闘的なオランダの女王ヴィルヘルミナとは逆に、彼はこれ以上ヨーロッパ戦争を続けることに何の意味も見出していなかった。「フランスは戦いを放棄するだろう。数日中のことかもしれない。イギリスは植民地と海上で戦いを続行するだろう。わたしは最も困難な道を選ぶ」。五月二十八日以降、ベルギー国王は自分をヒトラーの戦争捕虜と見なしていた。


「ヨーロッパの100年」より


亡命政府と王
この状況下、ヨーロッパの他国の国王達はどう動いていたのか、ざっと見る。

デンマーク
オランダ、ベルギーよりひと月早く、4月9日にドイツ軍が侵攻したが、侵攻の2時間後には国王が降伏した。同じゲルマン人だとして、ナチスはデンマーク国王と政府が国内に留まることを認めた。
既に老齢だったクリスチャン10世は、護衛を一人もつけず毎日騎乗して市内を巡り、国民を励ましていた。

ノルウェー
対照的に、デンマーク王の弟ホーコン7世は、政府とともに即日首都を後にし、追ってロンドンへ亡命。国外から国内の抵抗運動を激励した。戦争終結後の帰国は、国民にたいへん歓迎された。

オランダ
引用文にある通り、女王も政府もロンドンへ亡命して、国民をとおくから叱咤激励した。

スウェーデン
中立国としての立場を維持し通した。表向きは、他国への援助を一切拒否。ただし、裏では反ナチスに動いており、外交官ワレンバーグがユダヤ人保護に貢献した。

イギリス
イギリスは地勢上、政府も国王も亡命する必要がない。ベルギーのように国王と政府が分裂する要素がない。チャーチル首相が、離れたところからヨーロッパ各国を操る様は、さながら亡命政府代表のようだ。


政府は機能しなければならないものであるから、百歩譲って、緊急時は国外から指揮する方法に頼る場合もあるだろう。
国王はどうするべきか。国民と国土を統べる者でありながら、国を離れるのはいかがなものか。
前線から遠い他国から、国民に、死ぬまで戦えなどと激励することは、どの立場から可能なのか。


レオポルドは自ら囚われ、敗れた国王として交渉に賭けた。「最も困難な道」を孤独に歩んで、人生の道が途絶えるところで、レオポルドはアストリッドの隣に、永久に休むことにした。











8 コメント

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対照的な2人 (あんず)
2016-06-30 00:36:00
国王その人より配偶者の方に私は関心を持ってしまうので、記事の主旨とはかけ離れてしまいます、すみません。

アストリッド王妃も、リリアンことレティ妃もロイヤル好きにはたまらなく興味深い人物ですね。

リリアンにはなんとなく、ソーシャル・クライマーのイメージを持ってしまいます。子供ももちろん欲しかったのでしょうが、やはり愛人でいるよりは、妻となって自分の立場を確固なものとしておきたかったのでは?

スウェーデンのベルティル王子の妻リリアンとレティ妃を、ついつい比較してしまいます。なんて対照的な2人だろう、って。

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Re:対照的な2人 (geradeaus170718)
2016-06-30 08:26:37
読んでいただきありがとうございました
あんずさんは詳しいですね。
私は女性にあまり目を向けてこなかったので、知らなかったです。
ミハイル、パーヴェル、エドワード8世、他にもたくさん、結婚相手で身を持ち崩していて驚いたものです。一方で、一生日陰で添い遂げる女性もいて、ホッとします。
もう一人のリリアン、そして王子、
ともに立派ですね!

人生も歴史も狂わせてしまうのが女性問題だったりすると、、、
なんだかげんなりしますね〜

明日からもう7月。
いよいよ夏になりますね。
返信する
Unknown (ユキ)
2016-06-30 22:26:08
このブログ“名のもとに生きて”大好きです! 最近知ってハマりました。話が面白いし、写真が多いので、人物とストーリーが結び付いて理解しやすいです。
私は、特にロマノフ王家に興味があったので、情報が多いこのブログは助かりました。写真も初めて見る物ばかりです。もっと教えてほしいです!

負担にならない範囲で、これからも色々な人物の紹介をお願いいたします!
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Re:Unknown (geradeaus170718)
2016-07-01 00:08:16
ユキ様
コメントをいただき
ありがとうございます!
どんな方が読んで下さっているのか、
こうして知ることができるので、とても励みになります。
19世紀から20世紀の人や出来事を、ポツポツ調べながら書いていくつもりでいます。
ユキさんにまた興味を持っていただけるものが書けたらいいな(^o^)/
またご意見などお聞かせ願いたいです。
よろしくお願いいたします
返信する
Unknown (あんず)
2016-07-01 00:09:25
ほんと、ミハイルもパーヴェルもエドワード8世も結婚でやらかしてますね。プリンスなんて、しょせん究極のぼんぼん。美貌と頭脳を兼ね備えた、上昇志向の強い女性の手にかかれば簡単に篭絡されてしまうのでしょう。

レオポルド3世の公的な面の功罪については、あれこれ言えるほどの知識が私にはないので脇に置いておくとして。

しかし、私的な面については「もう少ししっかりしてよ」と言いたくなります。再婚の時期にしてもそうだし、物質的な面についても。

なんでもリリアンは、王室ゆかりの宝石を夫の死後、売り飛ばしてしまったそうじゃありませんか。

例えばこれ。

http://www.cartier.jp/ja/メゾン/語り継がれる伝統/カルティエ-コレクション/1/2.html

母后エリーザベトからレオポルド3世が相続し、リリアンにプレゼントしたティアラだそうで。

リリアンの私的な所有物となっていたのかもしれませんが、かつては王太后所有の、しかも逸品ですよ。本来ならアストリッド王妃のものとなって、ベルギー王室に受け継がれていたでしょうに。それを好き勝手に売ってしまうとは!

レオポルドがもう少し思慮深かったら、こんな事態は防げたような気がします。

長々とすみません。

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Re:Unknown (geradeaus170718)
2016-07-01 00:54:18
あんず様
後妻のリリアンのことについてはあまり興味を持てなかったのでよく知らなかったのですが、あのティアラを?
ひどいですね!!
アストリッド妃が死ななかったら、彼が「残念なひと」にならないで済んだのに、、。
彼らのように結婚で身を潰した人たちよりも、私はエドワード7世の方がまだいくらか良いのではとさえ思います。
お母さん(エリザベス女王)がビシッと締めていたからだと思います。
母強し、母怖し‥

なかなか表では書けないことを、この欄で吐き出せて、なんだかすっきりしました
エキサイティング〜?
ありがとうございます。
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Unknown (あき)
2016-11-30 13:49:56
過去記事にコメント失礼します。
とても興味深い内容でした。
レオポルド三世は1年で尊敬する父と最愛の妻を失い、その結果孤独となってしまう、それは私たちの想像を超えるものであったと思いました。

記事に記載されている「ヨーロッパの100年」とはどちらの本かお教え願います。
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Re:Unknown (geradeaus170718)
2016-11-30 15:48:01
ヘールト・マック著
長山さき訳
「ヨーロッパの100年」2009年
徳間書店

In Europa
2004 by Geert Mak

レオポルドのことは上巻の377ページに書かれています。

著書についてはamazonで詳しく紹介されていますので、ご参考ください。
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