名のもとに生きて

人の一生はだれもが等しく一回かぎり。
先人の気高い精神に敬意を表して、その生涯を追う

17才でナチス裁判により死刑 ヘルムート・ヒューベナー

2015-08-26 21:35:22 | 人物
ナチス人民法廷で
最年少17才での死刑判決を受けた
ヘルムート・ヒューベナー




Helmuth Günther Hübener
(* 8. Januar 1925 in Hamburg; † 27. Oktober 1942 in Berlin-Plötzensee)
国家社会主義ドイツ労働党にたいする政治犯として人民法廷で死刑となった最年少の者。

ヘルムート・ギュンター・ヒューベナーは、ドイツ、ハンブルグに生まれ、敬虔なクリスチャンの家庭に育つ。
小さいころから教会活動に参加し、ボーイスカウト団体でも活動していた。
1935年、ナチスによりスカウト活動が全国的に禁じられ、ヒトラーユーゲントへの加入が義務化された。 そのため、ヘルムートもヒトラーユーゲントの会合に参加していたが、ユダヤ人に対する「水晶の夜」のような迫害行為にヒトラーユーゲントが加担することに、強い抵抗を感じるようになった。





1941年、ヘルムートはmiddle schoolを卒業後、the Hamburg Social Authority (Sozialbehörde)で見習いとして働く。
当時、陸軍に従軍していた兄ゲルトルートが一時帰宅。その時、壊れたフランス製の短波ラジオを持ち帰った。兄が軍に戻った後、ヘルムートはそのラジオをクロゼットの中に見つけ、敵側の報道に耳を傾けるようになる。当然これは禁止されていた行為である。

ドイツでは当時、ラジオは3局しかなく、全て内容はナチスのプロパガンダだった。ヘルムートはこっそり聴く英BBC放送により、ヒトラーやゲッベルスの発言がいかに真実から乖離しているか、戦場の状況がいかに捻じ曲げて報じられているかを知った。そしてこの戦争の無益なこと、大敗の近いことを、職場や教会の友人とともにタイプライターとカーボン紙を使ってリーフレットを作り、これを掲示あるいは投函配布した。活動開始から8ヶ月、およそ60種のリーフレットを作成した。ヘルムートはこれらをさらにフランス語に翻訳しようと計画していた。


ルドルフ、ヘルムート、カールは教会の仲間であり、ともに抵抗活動をした仲間


しかしその1942年2月、職場の事務員の密告により、ヘルムートはゲシュタポに拘束される。自宅のタイプライターと短波ラジオが押収された。
当初より、ヘルムートと仲間の間では、万が一誰か一人が拘束された場合は、他の者を逃がすために一人で罪を着るという取り決めがあった。
拘束後、ヘルムートは激しい拷問を受けるなかで同志二人の名前を吐いてしまったが、最後まで自分一人で罪を被った。
同志にはそれぞれ5年と10年の労役が言い渡された。未成年であるため、少年法が適用されたと考えられる。
しかし、ヘルムートは違った。

1942年8月11日、人民法廷(※1)で、ヘルムートは「反逆罪による死刑および市民権の永久剥奪」を宣告された。

何か言いたいことはあるかと裁判官に聞かれ、ヘルムートはこう答えた。


「罪を犯していないが、僕は死なねばならない。
今回は僕の番だが、次はお前の番だ」






ゲシュタポによって撮影された写真


17歳(犯行当時16歳)の彼が、なぜこれほどの極刑になったか。

彼の持つ知識は、一般的にも政治的にも非常に高く、また法廷での振舞いや発言にしても少年のそれではなかった。
未成年の裁判はナチスにとっても非常にまれなものであり、ヘルムートが多少でも妥協すれば減刑する可能性も残していた。何しろ、密告を受けて逮捕する時、まさかこんな少年が首謀者であるとは、誰もが信じられなかったらしい。
しかし、法廷では、「ドイツ国民の戦争への努力に対しての彼の行動」が、「極めて有害」であるとみなされ、少年法適用は一切せず、死刑が適当だとされたのだった。
さらに市民権が剥奪された、ということは、以後死刑執行までの期間、独房でベッドも毛布も与えられないのである。処刑の執行日も知らされない。もちろん、それだけの待遇では済まされなかったろうことは察せられる。

本人が知り得たかはわからないが、逮捕の10日後、彼が所属し、熱心に信仰していた教会からヘルムートは破門されている。教会側はゲシュタポに促されてのことのようだが、もしそれを知ったとしたら、彼にとっては相当辛いことだったに違いない。

判決からおよそ2ヶ月後、1942年10月27日、13時5分に執行を告げられ、同日20時13分にベルリンのプレッツェンゼーにて斬首刑に処せられた。



刑の執行を報告している人民法廷の告知


友人によれば、彼は普段からあまり動じないほうであったという。
逮捕後の全くぶれない態度、それ以前に抵抗活動を秘密裏に推し進めていた勇気と志に驚く。

大きなダークブルーの瞳を向けて、彼は訴えてきた。
誇り高く強い人。
しかし、判決が下った後に友を前にし、目を涙で溢れんばかりにし、

「君の良き人生を願っている、そして良きドイツを」

そう言って彼は泣いたのだという。

悔恨の涙?

死んでいくのに何の未練もないなんて、それは絶対ないだろう。
前途あるべき少年が、なんの科もないのに貶められ、挙句、死を宣告される。法廷での毅然とした言動の裏には、17歳の無念が当然あるはずだ。

孤高の姿勢を貫き通すその強さはどこから来るのか。
孤独な闘いに崩れ落ちそうになることはなかったか。
人が死ぬとき、誰もがその瞬間は孤独だ。しかしヘルムートの場合は、その死の宣告のときからずっと、孤独だったのだ。



信念。信仰。
命はおそらく、生き永らえることのみを目的とはしていない。なにを為すか、命の価値は長さより、その内容にあるかもしれない。
ヘルムートの場合、信仰よりは信念に生き、ゆらぐ間もなく死をむかえた。
彼はただ一人、前を向き、振り返らずひたすら進み、彼方に消えてしまった。


1942年、ナチス独裁政権下における、17才のある一つの死。
このあとドイツ第三帝国は止めることのできない破滅に向かってゆく。



最後の日に、ヘルムートは3通の手紙を書くことを許されている。一つは母へ、もう一つは祖父母へ、もう一つは教会の家族へ宛てたもの。この3つ目の手紙が現在唯一、残されている。
それは、死に向きあい、曇りのない強い意志を感じさせるものである。


「あなたがこの手紙を読むとき、私はもういません。私は今日の夕刻、命の終わりを迎えるのです。もうこれ以上はどうにも生きることはできないのです。神は存在し、この件に確かな審判を下されるでしょう。私はいつか、より良き世界であなたに会えることを期待しています。」





ヘルムートらが発行したパンフレットより(抜粋)

"German boys! Do you know the country without freedom, the country of terror and tyranny? Yes, you know it well, but are afraid to talk about it. They have intimidated you to such an extent that you don't dare talk for fear of reprisals. Yes you are right; it is Germany — Hitler Germany! Through their unscrupulous terror tactics against young and old, men and women, they have succeeded in making you spineless puppets to do their bidding." — from one of Helmuth Hübener's many pamphlets, subsequently also published in When Truth Was Treason: German Youth against Hitler, Editors Blair R. Holmes and Alan F. Keele.



2002年ドキュメンタリー番組
「truth & comviction」



(※1)Volksgerichtschof;アドルフ・ヒトラーは、1934年4月24日に「刑法及び刑事訴訟法改正のための法律」を制定して、その法律の中の第三章に「人民法廷」を規定した。第三章の一条は「反逆及び売国行為の罪に対する判決のために人民法廷を設置する」と定め、第五条には「人民法廷の判決に対しては、如何なる法的手段による対抗も許さない」と定められている。




所感。
ヘルムートは自国の危機、その矛盾に対して立ち上がりました。同じ頃、ソビエトでも同世代の多くの若者がパルチザンとして祖国に尽くしていました。現代でも紛争によって、愛国心や家族を奪われた報復、あるいは貧困の代償として幼い子供がその純真さに付け込まれ、少年兵として利用されています。
若者は、その若さゆえにどこまでも突き進んでしまうことで、死に飛び込んでしまいます。
大人が道を誤ることで、若者をこうしたリスクに晒してしまうことはあってはならないでしょう。

ただ、ときにその若さによる曇りのない視点と洞察が、真実をまっすぐに掴んでくることがあります。その力は圧倒的で、核心に迫る。
その力が大きな流れをなして動こうとするとき、私たちも陰に日向にうまく動くことが必要となるでしょう。その命と力を守りたい。



Kahl/Rudolf 1985








10 WW2 Heroes 4/10 helmut hübener






ナチスの報復で処刑された17才 ギィ・モケ

2015-08-25 00:08:45 | 人物
Je vais mourir ! 僕は死にます!
ナチスの報復で集団銃殺された17才の青年
ギィ・モケ 最後の手紙




Guy Môquet (April 26, 1924 - 22 October 1941 (aged 17))

パリ生まれ。1940年当時はリセ(高校)に通い、共産党員の父の影響もあり、共産主義活動をしていた。
1940年から1944年までの間、フランスはドイツの占領下にあった。ギィはパリの映画館で、ドイツ占領に反対するビラを撒いていたところを逮捕され、ナント近郊のシャトーブリアンの収容所に拘留された。彼はビラを作成したわけではなく、活動の手伝いのつもりで配布していただけであった。





翌年1941年10月20日、ナントのドイツ軍司令官が、3人のフランス人共産党員によって暗殺されたことを受けて、ナチスは即刻、ドイツ将校1人殺害の報復としてフランス人政治犯50人の処刑を求めた。
「さもなくば無辜の市民50人を処刑する」と。

急ぎ、3カ所の収容所の政治犯からリストが作成され、シャトーブリアンの収容所からは27名がリストアップされた。
そして、司令官暗殺から2日後の10月22日、各刑場にて銃殺が執行された。
シャトーブリアンのリストに入っていたギィは、処刑対象者のうち最年少の17才だった。

処刑の宣告後、わずか1時間ほどの時間を与えられた。字の書ける者はこの時間を使って、遺書を書いた。ギィも家族にあてて最後の手紙を書いた。



17歳の少年がナチスドイツ占領下の犠牲になったこと、その最後の手紙が残されていたことで、戦後、ギィは抵抗運動の英雄とみなされ、現在ではパリの地下鉄の駅名にもなっている。

ギィを取り上げた映画作品もある。
2007年にジャンバティスト・モニエがギィを演じるショートフィルム、「La Lettre」。さらに2011年の、フォルカー・シュレンドルフ監督による仏独共作映画、「La mer à l'aube」/「Das Meer am Morgen」が製作され、2014年には日本でも「シャトーブリアンからの手紙」として公開された。

映画「シャトーブリアンからの手紙」より



主演レオ-ポール・サルマン この作品がデビュー作


パリ駐留ドイツ軍のシュテルプナーゲル、シュパイデル、ユンガー
国防軍はナチスの非情なやり方に不満を抱く
シュテルプナーゲルは文筆家でもあるユンガーにこの件を記述して残すように言う
ユンガーが手紙を翻訳して後世に残す



エルンスト・ユンガー その定まらない立ち位置ももう一つのストーリー





シュレンドルフ監督

予告編



青山の小さな劇場で上映されたこの映画を観に行きました。
以下、所感です。

ナチスの命令によるこの一件において、独仏のいろいろな立場の人たちがそれぞれどう反応し、どう動いたのかが入念に描写されています。
リストを作るよう指示された副知事は、最初は抵抗し抗議するが、結局、流されるように、処刑者リストを書いてしまう。
ドイツ国防軍とナチスとの方向性の違いと力関係は、シュテルプナーゲルらの会話から聞こえてくる。
あるドイツ兵は、処刑の銃殺を命令されたが人を殺す恐怖のあまり撃てず、処刑場のかたわらでうずくまり、震えが止まらない。
処刑を宣告された人達が、わずかな時間のあいだにその運命をどう受け止めていったか。
ナチスに平然と協力するフランス人や、処刑阻止を望むドイツ将校ら、この一件を巡って、暗殺者やシャルル・ド・ゴールも含めだれがどう考えどう動いたか、多くの立場のひとの心の動きを追っています。
そのなかで、ギィは英雄として誇張されることはなく、若さゆえか状況が飲み込めないままに銃殺されています。
映画の処刑場面では、実に淡々と手際よく処刑が進行します。それまでのストーリーの進行の緩さが、急にせわしいほどになる。
実際はこんなものなのか。
単純な流れ作業で死があっさりと片付けられてしまうものなのだと。




1人の命に対して50人の命を要求する

50名が処刑されながら、唯一ギィだけが、若いということで英雄視されている。それは「ギィ」だったからではなく、「17歳の」少年だったから。

ギィ自身においても、一緒に処刑された者のうちの不特定の1人として勇気を持って死んだ。
ギィが残した走り書きに、「27人で立派に死んでいく」とあるのが、同志のうちの不特定の1人であろうとする意思の表明となっている。

しかし、本来、不特定の個人にはなり得ない。一人一人違う名の、それぞれ違う人生を生きた人間である。不特定の1人として潔く刑場に向かっても、銃口を向けられたそのとき、自分を、もう一度振り返る。最後、もうそこまで終わりの時が迫っている時に。


映画の中で、ギィは処刑直前に早口でつぶやく。

「17歳と半年、あまりにも短い人生。皆と別れるけど後悔しない」

自分は誰だったのか。
自分の中で、「ギィ・モケ」とは誰だったのか。その「ギィ・モケ」の死を目前にして、
もう本当に終わってしまう自分に向けて、最後の一投で、自分自身に優しい言葉をかける。

「・・けど、後悔しない」と

名もなきものとして生涯を終えようとしても、自分の名を忘れていないかぎり、どこかでその名と対峙する。


名前がある、思い出がある、それらから断ち切られようという時に、「後悔しない」と思えるかどうか、時々に問いながら生きたい。




以下は最後の手紙の英訳です。
dieの文字がなければ、家族の安否をやりとりするごく普通の手紙であるかのようです。

Guy Moquet
« My darling Mummy, my adored brother, my much loved Daddy, I am going to die! What I ask of you, especially you Mummy, is to be brave. I am, and I want to be, as brave as all those who have gone before me. Of course, I would have preferred to live. But what I wish with all my heart is that my death serves a purpose. I didn’t have time to embrace Jean. I embraced my two brothers Roger and Rino (1). As for my real brother, I cannot embrace him, alas! I hope all my clothes will be sent back to you. They might be of use to Serge, I trust he will be proud to wear them one day. To you, my Daddy to whom I have given many worries, as well as to my Mummy, I say goodbye for the last time. Know that I did my best to follow the path that you laid out for me. A last adieu to all my friends, to my brother whom I love very much. May he study hard to become a man later on. Seventeen and a half years, my life has been short, I have no regrets, if only that of leaving you all. I am going to die with Tintin, Michels. Mummy, what I ask you, what I want you to promise me, is to be brave and to overcome your sorrow. I cannot put any more. I am leaving you all, Mummy, Serge, Daddy, I embrace you with all my child’s heart. Be brave! Your Guy who loves you. »





ジャンバティスト・モニエ主演のショートフィルムも以下に紹介します。






主演ジャンバティスト・モニエ
2004年映画「コーラス」でデビュー(写真)
劇中の歌声は彼自身のもの
現在もモデル、俳優、歌手として活躍



La Lettre





「種を粉にひいてはならない」ケーテ・コルヴィッツ

2015-08-22 14:16:10 | 人物
2度の大戦を生き
息子孫2人のペーターを喪った
彫刻家 ケーテ・コルヴィッツ


ケーテ・コルヴィッツ自画像


⑴Wo ist er? Friert er? Hungert er? Ist er in Gefahr?

ケーテ・コルヴィッツは1867年、ケーニヒスベルクに生まれた。ベルリンで二度の大戦を経験し、1945年4月22日、5月7日のドイツ降伏目前に78歳で亡くなった。
二人の息子を持つ母であり、著名な版画家、彫刻家でもあった。


Käte kollwitz

突然だが、ケーテの見た夢の話から始めよう。



……ペーター・コルヴィッツもその週、同じ前線(ベルギーのイーペル。ヒトラーもこの前線に出ていた)のロッヘフェルト・エーセンで亡くなった。ケーテ・コルヴィッツはこう書いた。
「夢を見た。
わたしたちが多くの人たちといっしょに大きなホールにいる夢。誰かが叫んだ。『ペーターはどこだ?』。彼が自分でそう叫んでいたのだ。
横から見た彼の暗い姿がなにか明るいものの中に見えた。わたしは彼のところへ行って抱きしめた。でも、彼を見る勇気はなかった。やっぱり彼ではないのではないかと怖かったのだ。足を見たら彼の足だった。腕も手も全部彼のものだった。
でも、わたしにはわかっていた。顔を見たら、彼が死んでしまったとまた自分が思い出すことを」

「ヨーロッパの100年」ヘールト・マックより



ペーターとは彼女の次男である。
ペーターは、1914年8月のドイツ参戦とともに自ら志願して従軍した。ギムナジウムを中退し、画家になるための勉強を始めたところだった。



わたしがはじめてケーテ・コルヴィッツを知ったのは、この記述からだった。
不思議な夢のようだが、肉親を亡くしたことのある人ならば、一度はこうした夢を見た憶えがあるのではないか。



このときにいたるまでのケーテの半生をたどる。
ケーテは17歳からベルリンやミュンヘンの美術学校で修業する。
24歳で医師カールと結婚、ベルリンに住み、二人の息子ハンス、ペーターがうまれる。

彼女は、母と子の姿、死を見つめることを作品の主題に据える。
1904年、「死んだ我が子を抱く女」を制作する。このときケーテは、鏡の前で7才のペーターを抱きながらスケッチをした。描いていて苦しくなり、思わずうめき声を上げると、ペーターがあどけない声で、慰め顏で、「心配しないでよ、母さん、きっと立派なものができるよ」とやさしく声をかけたという。
同様のテーマの「ピエタ」も描かれた。


死んだ我が子を抱く女



ピエタ




1910年のケーテの日記ではこうつづられている。

1910年4月
わたしの生涯のうちで、この時期がわたしには非常に好ましく思われる。
大きな、身を切られるような苦しみに、まだわたしはぶつかったことはない。
わたしの愛する息子たちは、一人前になるだろう。すでにわたしにはあの子たちが一本立ちをする時が見えている…


眠る息子ペーターのスケッチ



しかし彼女の展望は1914年に崩された。
大戦の勃発。息子の志願。
ペーターの戦死。
ペーターの死は部隊にとって最初の犠牲、あろうことか18歳の、最年少兵の戦死であった。

母の葛藤はペーターの志願を許したその日から始まった。日記を軸に、長い引用をしよう。


1914年8月10日
「祖国はお前をまだ必要としていない。必要ならば、もうとっくにお前を召集している」とカールは言った。ペーターは小さな声だがきっぱりと言った。「祖国は僕の年齢の者をまだ必要とはしていない。だが僕は必要とされている。」かれは、いくども弁護してほしいと哀願する視線を無言でわたしに向ける。ついに彼は言う。「かあさん、あなたは僕を抱きしめて言いました『わたしが臆病だとおもわないで。私たちは覚悟ができているわ』と。」わたしは立ち上がった。ペーターがついてくる。私たちはドアのそばに立ち、抱き合ってキスを交わした。わたしはペーターのために許可してくれるようカールに頼んだ。…このたった一時間。かれがわたしに無理強いし、わたしたちがカールに無理強いしたこの犠牲


ペーターは8月19日早朝、兵舎へと出発した。二日後、ケーテはペーターのところへ面会しに行くが、ペーターは別の街へ移るところだった。彼女は志願兵の行進の中にペーターを見つけようと必死で探したが無駄であった。

その後、ペーターは軽い病気でいったん帰宅するも、9月末にまた部隊にもどる。


10月5日
ペーターに別れの手紙。まるて、もう一度、子どもが臍の緒から切り離されるかのような気持ちだ。最初のときは、生にむかい、いまは、死に向かって


10月12日、前線に向かう直前のペーターに彼女は会いに行った。
夜、兵営に帰る道すがら、母に夜空の星を指さす。これまでしばしばそうしてきたのと同じように。「おまえ、愛する、愛する少年よ。」彼らは、恋人のように抱き合い、別れる。最後に息子は言った。
「きっとまた帰ってくる。」


日記には、
「泣く。彼の標識ナンバーは115。」


10月24日
はじめてのペーターからの便り。もう砲声が聞こえると書いてある。…かれはどこにいるのだろうか?凍えているだろうか?お腹をすかせているだろうか?危険な目にあっているのだろうか?


10月30日
「あなたのご子息が亡くなりました」


ペーターからのはじめての手紙を受け取ったときには、彼はすでにこの世にいなかった。22日から23日にかけての夜にベルギーの地で戦死していたのだった。



Wo ist er? Friert er? Hungert er? Ist er in Gefahr?


彼はどこ?
寒くないか?空腹でないか?
元気でいるのか?


ケーテのこの不安は、なにか感ずるものがあったためだろうか。
遠い戦地にいる息子を思うどんな母も、常に無意識に心に浮かぶ問いかけ、ではあるが…


ペーター・コルヴィッツ



1ヶ月後、ケーテは失意のうちに、ペーターの記念碑の制作を決意する。しかし、息子への思いからなかなか立ち上がれないでいた。

…ケーテは、幾晩も息子の夢をみる。
あるとき、ペーターは精神に異常をきたしている。あるときは、「ペーターはどこ?」という呼びかけに、「かあさん」とこたえる。
息子が帰ってくる。にもかかわらず、夢の中でもかれは死んだのだと、意識している自分がいた。
「大聖堂にいた。…おまえのベッドの後ろに、小さな若木が一本立っています。ろうそくが燃え、つぎからつぎに燃えつき、それからまた真っ暗になった。」
「わたしのペーター、わたしはあなたに変わらぬ気持ちを持ち続けよう。…わたしを助けておくれ、あなたの姿をわたしに見せて。わたしはあなたがそこにいるのがわかる、だけれども、霧を通してしか、あなたを見ることができない。わたしのそばにいて。」




翌年7月7日夜
わたしはペーターの部屋にすわっている。明日はわたしの誕生日。わたしの子供たちよ、わたしの人生の中で、あなたたちがわたしに与えてくれたものすべてに感謝します









⑵「墓場に降り、、星に上り、、」


1915年4月11日
春がきました。わが子よ。


4月14日
あなたの、"あなたたちの"記念碑作りに、あなたは、ともに取り組むのです。あなたが溶いたテンペラ絵具を、わたしはその仕事に使っています。あなたの木枠も、あなたの画材も。愛するいとしい息子よ。


8月11日
ペーターがわたしたちと話し合って、わたしたちが、かれを手渡してしまったのは、一年前のこの日だった。今日、はじめてかれの頭部にとりかかった。涙を流しながら。



戦地から長男ハンスが病気で一時帰宅した際、ケーテは喜び、一緒に散策したり、将来を話し合ったりした。

「ハンスがわたしの手をとりしっかりとつつむ。かつてペーターにしていたのと同じようにして、わたしはかれと歩いた。わたしは二人の子どもといるように感じた」


1917年11月、ロシア革命が起こり、社会主義者のケーテにとっては明るい希望を世界に見た。
しかし戦争は続く。詩人リヒャルト・デーメルは、ドイツの名誉のために銃をとれと誌上で訴える。ケーテは同誌上に直ちに反論を投稿した。

「…しかしその若いはだかの生命以外に、捧ぐべき何ものも持たなかった無数に多くの人々、これから花咲きはじめようとしていたこれらの人々が、戦場へと送られ、ぞくぞくと死んでいった。このことは不問に付せられてよいのであろうか。
ほんとうにもう沢山なぐらい死んだのだ!もうこの上だれも死んではならない!わたしはリヒャルト・デーメルが「種子を粉にひいてはならぬ」と言った偉大な人のことを思い起こしてほしいと思う。」


1918年11月、皇帝ヴィルヘルム2世は退位して亡命、臨時政府は休戦協定に調印し、世界大戦は終結した。










ケーテは子を喪った母としてだけではなく、世界の悲しみを正面から受け止めることを強く自分に課すようになる。


1917年2月
私は息子たちのかわりに死のうと望んだことがあるが、それは息子たちへの愛からであった。ペーターの望みはもっと大きかった。かれは一人の人間への愛からではなく、理想への愛のために、使命のために死んだ。
はわたしの必要なものである。ペーターの後継者として、わたしにとっては、唯一の尊いものに思われる。力、それはいわば生命である。それによって挫折することなく、訴えることなく、泣くことなく、強力に自分の仕事をすることが出来る…


1920年2月26日
世界の悲しみをみつめている一人の人間のデッサンをつくろうと思う。それはイエスにかぎったことであろうか。死が子供らをつかんでいる画にも、背後に世界の悲しみを見つめている一人の女が座っている…


表現者、芸術家としての技能を持つケーテにはがあった。戦前から貧困や虐殺を直視し、ダイナミックに表現する力が彼女にはあった。ケーテは、世界をまっすぐに見つめる者として、そして子供達の命を我が身を盾にして守る母として、作品に昇華していった。

ケーテの初期の作品より

農民戦争



戦場




⑶作品に力をそそぎ

長い年月を費やして製作したペーターの記念碑がいよいよ完成し、ペーターの埋葬されている墓地に設置されることになった。それはペーターの像ではなく、我が子を喪った父と母の悲しみと戦没者への追慕を表す二体の像となった。像のちょうど目の前のプレートの下にペーターが眠っている。様々な葛藤、模索を乗り越え、たくさんの涙の上に創り上げた、母と父の悲しみの結晶のような作品である。
現地設置工事の翌朝、小雨の中、ケーテと夫はもう一度彫像を見に行った。
ようやく像の完成を肌で感じた二人は、自分たちの姿である像の背中を撫でて、泣いた。
ペーターの古い墓を間にはさんで…










以下、ケーテの作品を紹介します。

1934年
「御手に抱かれ安らかに憩いたまえ」


「レリーフには、母親のおおきな二つの手が見えています。母は、天に召される者をマントで包んでいます。召される者は顔しか見えませんが、そのマントをもっと身近に引き寄せようとしています」
ケーテの妹リーゼの夫が亡くなったとき、その墓碑のためにリーゼが依頼したものだった。
兄コンラート夫妻、妹リーゼ夫妻、ケーテ夫妻のための共同の墓のための墓碑となる。



1936年
「ふたりの子供を抱く女」


命がけで子を守ろうとする母。
ハンスの妻オッティリーにおくられた。ハンスには長男ペーターと女の子の双子、のちに次男アルネが生まれる。孫のペーターは第2次大戦で戦死してしまう。


「ピエタ」

1937年10月22日「この日の夜にペーターは斃れた。…小さな彫刻の制作をする。それは、以前に、彫刻の習作用に、老人像をつくろうと、とりかかっていたものだ。それが、いま、なにかピエタのようなものになった。母は座り、膝の間には、死んで横たわっている息子。そこにあるのは、もはや哀しみではなく、深く沈んだ思い。」



⑷生きたい意志と老い
第2次大戦開戦。
ベルリンは空爆により壊滅的な被害を受け、ケーテの家も息子たちの家も焼失した。ケーテは戦争の悲劇と、自らの老いをどうすることもできず、悲しみのなかで亡くなった。表現者として生きてきた彼女にとって、老いは感性も表現力も衰えさせるものとなり、思うような制作できなくなったことに非常に苦しんだ。
自らを葬るイメージをスケッチしている。




ケーテはローゼッガーの詩を引いている。

夜、子供たちが、
きびしく寝床に呼ばれるように、
主はわたしを黙々と
暗い洞窟へと導き給う。
わたしの楽しみは生きること!
だが神の思召は
わたしが眠りにつくこと。



ケーテのなかでも生きたい意志は強く、最晩年はハンスにしきりに会いたがる。かつては、亡くなったペーターに会いたがっていたケーテだったが、命が終わろうとする頃になって、生きている息子ハンスに会いたがるようになる。
戦争末期のこと、息子に会う願いは叶わぬまま、ケーテは亡くなった。そのおよそ半月後にドイツは降伏した。
ケーテの葬儀は寂しいものであったが、自らの作品「御手にいだかれ安らかに憩いたまえ」のレリーフの元に埋葬された。




ケーテ・コルヴィッツは、二つの大戦を生き、この残忍な世界から目をそらさず、体制にひるむことなく、表現者として強く生きてきた。最大の悲しみはやはり、息子を戦死させてしまったことだったろう。彼を止めることができず、行かせてしまったこと。そして晩年に直面する老い。
社会主義者でもあった彼女は、(前出)ニコライ2世の穏やかな父性とは真逆で、身体を盾に子供らを護る強い母そのものであろうとした。
息子を差し出せなかった父、差し出して死なせてしまった母。宗教的な宿命論に絡め取られた皇帝、宗教心はないものの十字架の傍のマリアのごとき苦しみを身に受け、敢然と悲しみに向き合い作品に具現する彫刻家。宗教的な背景が異なるので単純比較は危険だが、あの困難な時代を、各人はそれぞれの苦難におそわれ、耐えねばならなかった。
息子の死は、足元が崩れるかのような衝撃だっただろう。ただそれは予見できていた。にもかかわらず彼を行かせてしまった自分に、いたたまれぬ後悔。
この悲しみ、ピエタのマリアと同じ悲しみに、ヨーロッパ全土の非常に多くの母たちが、襲われた時代だった。







stabatmater
Vivaldi


stabat mater
dorarosa
iuxta
crucem
lacrimosa,
dum
pendebat
Filius


御母は悲しみに暮れ

涙にむせびて御子のかかりし

十字架のもとに佇んでいた。

嘆き、憂い、

悲しめるその魂を

剣が貫いた。

おお、神のひとり子の

祝されし御母の

悲しみと傷のほどはいかばかりか。

御子が罰を受けるのを

見ていた慈愛深き御母の

悲しみと苦しみはいかばかりか。

















































今村均 責任という十字架を背負い続けて

2015-08-15 16:54:41 | 人物



戦争においては、まず人を殺すということ。
合法的に、強制的に人を殺させられるということ。

戦争においては、敵を殺すことに従事する反面、自分も殺されるおそれがあるということ。

そしてもう一つのリスクは、味方を殺すおそれがあること
戦友を、部下を、直接手を下すわけではなくても、殺めてしまうことになるおそれがあること。

では、一体、戦争では何を守るのか?
命を一方で殺めつつ、どんな命を守るのか?

第二次大戦中、日本は何も守れなかった。
いや、皮肉にも守れたのは天皇だけ。
あとは壊し、失われた。
敵によって、自らの手によって。


生きている間は辛辣だった自然 遺体となれば海が抱き、土が抱き、消してくれる 生き残った者は死者を羨ましく思うことすらあったという


戦犯として裁かれた軍部指導者にのみ、責任があるわけではない。彼らの苦悩を想像することなく安易に蔑んではならない。もちろん、彼らの中には万死に値する、心底憎むべき者もいる。そういう奴らに限って裁かれることなく、戦後をのうのうと生きた。しかし、負け戦の将として、生涯をかけて十字架を背負った人たちがいる。


前回の記事で山下奉文の言葉の中に、こうあった。

「若し私が戦犯でなかったなら皆さんからたとえ如何なる恥辱を受けませうとも自然の死が訪れて参りますまで生きて贖罪する苦難の道を歩んだでありませう…」

山下の果たせなかった苦難を、精一杯背負って生きた陸軍の将、今村均についてをここに書きたい。




開戦当初のマレー作戦(山下)、フィリピン作戦(本間)、香港作戦(酒井)に続いて行われた蘭印作戦を指揮したのが今村均であった。
今村は現地オランダ軍を抑えたあとは、現地住民へも、居留のオランダ人へも配慮し、善政を以って統治した。現地の産業や文化を尊重し、オランダ軍人には軍人のプライドを尊重して佩刀を許したため、現地では大変感謝されていたが、しかし日本の大本営はそれを良しとせず、今村は太平洋南洋の戦線、ニューブリテン島のラバウルへまわされた。

ラバウルは太平洋上の作戦展開の一大基地に位置付けられており、海軍と陸軍とで共有していた。兎角、海軍と陸軍は無用に対立するものであったが、陸軍トップ今村の温順な性格と、海軍側トップ草鹿任一の、短気だが大らかな性格で、見事な協力関係を築いたため、配下の将兵も自然と良い関係を維持し、協力、共存しえた。兵卒を守るために、地下に堅固な施設を造り、食糧自給を目指して、今村自ら率先して畑を耕した。今村は妻への手紙で、なるべくたくさんの野菜の種を送るように頼んだ。
ラバウルは米軍、豪軍によって制海権、制空権を抑えられ孤立させられたため、上陸される被害もないまま終戦を迎えた。米軍とて、ラバウルにこだわっては無駄に兵力をすり減らすことはわかっていたからだ。
今村は草鹿を伴って、降伏調印した。

今村は、部下の兵達をいち早く帰国させるべく様々に手を打つ一方で、帰国までの間は引き続き飢えさせないよう食糧自給を進め、帰国後の兵士の生活のために、帰国を待つまでの間は一般教育を施す段取りもした。
部下の戦争犯罪を裁く裁判では、各人に有利になるよう便宜を図った。同様に、草鹿も、部下の裁判では全て自分の命令のもとでのことだと証言し、罪を自ら被った。草鹿は、旧日本兵が殴られているところに割って入り、自分がめちゃめちゃに殴られたこともあった。
草鹿は裁判で無罪となったが、今村はオランダによる裁判では無罪、オーストラリアによる裁判では10年の禁固刑となった。1949年より、東京の巣鴨拘置所で服役し始めたが、かつての自分の部下たちが環境の劣悪な南方のマヌス島で服役しているのを心に病み、自分を巣鴨でではなく、マヌス島で服役させてほしいと、妻を通じてマッカーサーに願い出た。マッカーサーは今村の部下を思う心に感服し、許可を与えた。
熱風吹きさらしの、砂の上でのみじめな拘留に耐え、かつての部下を励ましながら受刑し、帰国。
帰国後は、自宅の片隅に建てた離れの謹慎部屋で過ごし、拘留中からちびた鉛筆で書きためた手記をまとめて回顧録として出版。印税は全て、帰国後の部下の生活を支えるための寄付とした。ひどい者は部下を騙り金を無心したが、今村は気づかぬふりをして応じた。




日本に限らず他国でもそうだが、敗国の帰還兵はときに市民に蔑むような目を向けられる。今村が手記を発表したのは、やんわりとだが、戦地で戦ってきた兵士たちの味わってきた苦難を知ってもらおうとしたためではないか。また、今村の回顧録の中には軍部の人間についても、同じ空気を吸っていた者の目線で書き残している。戦犯として死刑にされた将校たちの素朴な一面も記されている。それは決して擁護しようとするものでも、批判しようとするものでもなく、ごく普通の人間としての交わりであり、率直な感情なりとして記されているのみである。
軍人のイメージからは程遠い今村の、ほんわりとした日常ばかりでなく、ほかの軍人も富に人間的で、全くごく普通の人々だったのだろうと思わせられる。軍人の多くは農村出身であり、優秀でありながら家計が苦しく、学問の道に進むことのできない者が軍のエリートを目指した。
私は今村の著作は数多く読んだ。もちろん、回顧録に登場する中には警戒すべき人物もおり、恐ろしい事件もあり、策略もあり、今村自身が翻弄され我を失う目にもあったが、今村の大きな包容力が、困難を乗り越える力を生み出したようだ。余談だが、母の死をみとる話などは涙を誘った。
今村は、著作を通して、生き残った部下の生活を支え、亡くなった部下の名誉をも守った。トップの責任を重く自らに課し、実行したものだと思う。

しかし、そんな今村だが、自害しようとしたことが一度だけあった。マヌスでの拘留中、おそらく夜に、ひとり離れた場所で服毒自殺をはかったが死ねなかった。あるとき突然のことだった。
失われた死者の命を思うとき、急に耐えられなくなったのだろうか。

負け戦なしの今村は、指揮官として手腕に優れていたが、関東軍にいた頃には忍耐を強いられた戦いもあった。
恐怖、悲しみ、それはどの兵にも重くのしかかっている。しかし、それらの兵士を束ねる将には、なお重くのしかかるものがある。
決断
誤れば、自分の死以前に、配下の多くの命を奪うことになる。そんな決断が容易にできるか。
配下の命に責任がある。

しばしば、決断するのは東京の大本営の作戦部だったりする。いや、多くの場合がそうだ。実地を知らず、現地の意見具申を突っぱね、机上で作成した、単なる願望のような作戦を命令する。その密室の机上に、故郷を離れ目を潤ませた兵隊はいない。国民もいない。まるでこの国には、彼らと陛下だけが存在するとばかりに。
本営にいた者は、玉音放送のあと自害するものが多かった。生き恥を晒してでも救いたい命を持たなかったからだ。


戦場では、山下や今村ほどのトップクラスではなくても、師団長、隊長クラスでももちろん、部下を最後まで守ろうとした人は枚挙にいとまがないはずだ。
南洋の作戦の一環で生じた1943年のギルワ撤退においては、豪雨と暗夜の中、約1000名が渡河するとき、わずか2週前に配属されたばかりの指揮官小田健作少将は、渡河できない負傷兵らとともに残り自決した。
自らが死ぬことで誰かが助かるのとはこれは違うが、戦場ならではの感情があるものと思われる。


後生の者の多くは、なにも省みずなんでも言う。誰かを悪者にして、議論は終わる。それでは歴史からなにも学べない。先人の血を垂れ流しにしてそのままだ。
そうしているうちにいよいよ今度は自分が殺し、殺されないよう、少なくとも殺さないようには気をつけねばならないだろう。

子供に言い聞かせるようなことでしかないのだが、
そのときの、その人の状況を知って、

その上で自分だったらどうするの、

自分ではなくて他の人だったらどうすると思うの


というところを忘れずに考えるべきなのである。

今村均 1886~1968 宮城県仙台市出身 享年82歳










2015/12/3
先日、漫画家の水木しげる氏が93歳で亡くなりました。水木しげる氏は今村均にラバウルで会い、直接言葉をかけられたことがあったそうです。戦地にあって、その優しい印象に大変驚いたとか。水木しげる氏も長い生涯において、壮絶な戦争を眼にしていました。少なからず、作品に残して下さったことに感謝します。
どうぞ安らかに。ご冥福をお祈りします。





山下奉文 「皆さんの子供を奪った私の最後の言葉であります」

2015-08-09 16:01:13 | 人物
山下奉文が原爆について語った部分を追加引用しました 2015・8・10

◉きたるべき終戦記念日によせて

まもなく8月15日。今年は終戦から70年目を迎えます。あの戦争を振り返るにあたって気をつけていることは、当時、日本だけが苦しかったのではなく、参戦した国全てと戦場とされた国、あらゆる国の人々が苦しみをかみしめていたことを思考から落とさないようにすることです。

前世紀の大戦を振り返るにあたり、私もご多分にもれず、太平洋に展開した戦線や国内の情勢から追い始めましたが、大陸に進出していった動機、経過、結果、それが彼の地にもたらした状況と列強国に与えた影響、それらを追ううちに手元の地図はどんどん西を指し、今はヨーロッパの戦況を調べています。





日本の学徒出陣、インパール作戦での無駄死、ドイツのユーゲント隊員、スターリングラードでの両軍の凍死、たくさんの若者が命を差し出すことを余儀なくされ、そしてあまりにも無益な作戦に浪費されました。
日本にしてもドイツにしても、戦争を起こした当事国であるため、たとえ敗戦国として裁かれねばならない軍事裁判が不当であったとしても然るべき責任は負わねばなりません。自国土が戦場となったドイツと比べて、本土決戦を避けられた日本はまだ救いがあったと思います。しかしそれは、沖縄、広島、長崎の一極集中の犠牲の上に成り立ったものです。
今でも米国内では、原爆投下が戦争の終結を早める効果をもたらしたと、その有効性が評価されており、確かにそれには一理があります。しかし、その目的のために原爆という究極の暴力を使用した容赦のなさは、あまりに非人間的であり言葉を失います。戦勝国であるからとして、その暴力を使用した残虐性は不問にされています。

長崎


戦敗国、戦勝国いずれも戦争を起こしたことで、他国に現在にも禍根をのこす被害を与えたことを重く見なければなりません。戦闘が終わっても回復できない問題が70年を経ても山積しています。
私にとって最も心苦しいものの一つは、マニラ攻防戦のような、日米の戦いが別の国の国土で行われた戦いです。本来、本土決戦として受けるはずの被害を他国に肩代わりさせたようなものだからです。



◉マニラ攻防戦と山下奉文

1945年2月、前月にフィリピンに再上陸した米軍が首都マニラを手中に収めるべく、現地日本軍と激戦を交わす。フィリピンのゲリラ軍も米軍とともに戦闘に参加。この地を統括していたのは日本陸軍第14方面軍山下奉文であった。山下はマニラを無防備都市として戦地とはせず、奥の山岳地帯に陣を張り、米軍と対峙する戦略を立てていたが、大本営と海軍がマニラに拘り、都市部での激戦になった。1カ月ほどの戦闘の中、市民およそ10万人が犠牲になった。その被害は日本軍の大虐殺によるものだとして、戦後のマニラ法廷で山下が追及される。しかし、実際のところ市民の被害は米軍の空爆や艦砲射撃によるところが大きく、日本軍による虐殺も確かにあったが法廷で米軍に体良く罪を着せられたかたちとなった。山下はその責任を問われ、「私は知らなかった。だが私に責任がないとは言わない」と返した。山下は結局、この件も含めフィリピンへの被害全般の罪により絞首刑となる。

シンガポール攻略後、イギリス軍司令官パーシヴァルとの会談

開戦時にマレー作戦を指揮し、マレーの虎とあだ名された英雄山下だったが、2・26事件以降天皇は山下を蔑み、敗戦の煮え湯を呑む役回りを充てがわれ、もともと巨漢であったのがフィリピンの奥地で別人のように痩せ細っていた。
山下の裁判は早く、おそらく最も早くに処刑された軍人であったかと思う。裁判は1945年10月に開廷、同年12月7日に死刑判決、12月23日に処刑された。
山下が処刑前に教誨師に言葉を託している。それは今後の日本を生きる人々に向けての強い訓戒であり、願いである。
その冒頭は、このように始まる。


「私の不注意と天性が閑曼であった為、全軍の指揮統率を誤り何事にも代え難い御子息或は夢にも忘れ得ない御夫君を多数殺しました事は誠に申訳の無い次第であります。激しい苦悩の為心転倒せる私には衷心より御詫び申上げる言葉を見出し得ないのであります。

かって、皆さん方の最愛の将兵諸君の指揮官であった「山下奉文」は峻厳なる法の裁を受けて死刑台上に上がらんとしているものであります。アメリカ初代大統領ジョウジワシントンの誕生祝賀記念日に独房を出て刑の執行を受けるということは偶然の一致ではありますが誠に奇しき因縁と云わねばなりません。

謝罪の言葉を知らない私は今や私の死によって、私の背負された一切の罪を購う時が参ったのであります。もとより私は単なる私一個の死によってすべての罪悪が精算されるであらうというような安易な気持ちを持っているものではありません。

全人類の歴史の上に拭うべからざる数々の汚点を残した私は、私の命が断たれるという機械的な死について抹殺されることとは思わないのであります。絶えず死と直面していた私にとりましては死ということは極めて造作のない事であります。

私は大命によって降伏した時、日本武士道の精神によるなれば当然自刃すべきでありました。事実私はキャンガンで或はバギオでかってのシンガポールの敵将パーシバルの列席の下に降伏調印をした時に自刃しようと決意しました。然し其の度に私の利己主義を思い止まらせましたのは、まだ終戦を知らないかっての部下達でありました。

私が死を否定することによって桜町(キャンガン)を中心として玉砕を決意していた部下達を無益な死から解放し祖国に帰すことが出来たのであります(私が何故自決をしなかったかということは、ついている森田教誡師に質問され詳しく説明致した所であります。)

私 は武士は死すべき時に死所を得ないで恥を忍んで生きなければならないということが如何に苦しいものであるかと云う事をしみじみと体験致しました。此の事よ り■して、生きて日本を再建しなければならない皆様の方が戦犯で処刑されるものよりどれだけ苦しいかということが私にはよく分るのであります。

若し私が戦犯でなかったなら皆さんからたとえ如何なる恥辱を受けませうとも自然の死が訪れて参りますまで生きて贖罪する苦難の道を歩んだでありませう。

、、、、」



以下は上記コメントの後半にあたる、戦後をいきる人々に向けた提言であり、大きく4つのことを語る。傍線、太字は私が施しました。



◉山下奉文の遺言


私の刑の執行は刻々に迫って参りました。もう40分しかありません。この40分が如何に貴重なものであるか、死刑因以外には恐らくこの気持の解る人はないでしょう。私は森田教誡師と語ることによって、何時かは伝はるであろう時を思い、皆さんに伝えて頂くことに致します。

聞いて頂きたい・・・・

其の第一は義務の履行ということであります。
この言葉は古代から幾千の賢哲により言い古された言葉であります。そして又此の事程実践に困難を伴うことはないのであります。又此事なくしては民主主義的 共同社会は成り立たないのであります。他から制約され強制される所のものでなく自己立法的内心より湧き出づる所のものでなくてはなりません
束縛の鉄鎖から急に解放されるであろう皆さんがこの徳目を行使される時に思ひを致す時聊か危惧の念が起こって来るのであり、私は何回此言葉を部下将兵に語ったことで しょうか。峻厳なる上下服従の関係に在り抵抗干犯を許されなかった軍隊に於いてさえこの事を言はざるを得なかった程道義は著しく頽廃していたのであります。甚だ遺憾な事でありますが今度の戦争におきましては私の麾下部隊将兵が悉く自己の果たすべき義務を完全に遂行したとは云い難いのであります。他律的な ■務に於いてさえ此の通りでありますから一切■絆を脱した国民諸君の■に為すべき自律的義務の遂行にあたっては聊か難色があるのではないかと懸念されるの であります。旧軍人と同じ教育を受けた国民諸君の一部にあっては突如開顕された大いなる自由に幻惑された余り他人との関聯ある人間としての義務の履行に怠慢でありはしないかと云うことを恐れるのであります。

自由なる社会に於きましては、自らの意志により社会人として、否、教養ある世界人としての高貴なる人間の義務を遂行する道徳的判断力を養成して頂きたいのであります。此の倫理性の欠除という事が信を世界に失ひ■を萬世に残すに至った戦犯容疑者を多数出だすに至った根本的原因であると思うのであります。

此の人類共通の道義的判断力を養成し、自己の責任に於て義務を履行すると云う国民になって頂き度いのであります。

諸君は、今他の地に依存することなく自らの道を切り開いて行かなければならない運命を背負はされているのであります。何人と雖も此の責任を回避し自ら一人安易な方法を選ぶ事は許されないのであります。こゝに於いてこそ世界永遠の平和が可能になるのであります。

第二に、科学教育の振興に重点をおいて頂きた度いのであります。
現代に於ける日本科学の水準は極く一部のものを除いては世界の水準から相去る事極めて遠いものがあるということは何人も否定することの出来ない厳然たる事実であります。一度海外に出た人なら第一に気のつく事は日本人全体の非科学的生活ということであります。

合理性を持たない排他的な日本精神で真理を探究しようと企てることは、宛も水によって魚を求めんとするが如きものであります。我々は資材と科学の欠除を補ふ為に汲々としたのであります。

我々は優秀なる米軍を喰い止める為百萬金にても贖い得ない国民の肉体を肉弾としてぶっつける事によって勝利を得ようとしたのであります。必殺肉弾攻撃体当り等 の戦慄すべき凡ゆる方法が生れました。僅かに飛行機の機動性を得んが為には、防衛装置の殆どを無視して飛行士を生命の危険にさらさざるを得なかったのであ ります。
我々は資材と科学の貧困を人間の肉体を以って補わんとする前古未曾有の過失を犯したのであります。この一事を以ってしても我々職業軍人は罪萬死に価するものがあるのであります。 今の心境と、降伏当時との心境には大なる変化があるのでありますが、ニュービリヒット収容所に向ふ途中、ヤングの記者スパートマクミラン君が「日本敗戦の根本的な理由は何か」と質問された時、重要かつ根本的な理由を述べんとするに先達って今迄骨身にこたえた憤懣と■■な要求が終戦と共に他の要求に置き換えられ漸く潜在意識のなかに押込められていたものが突如意識の中に浮び上がり、思はず知らず飛び出した言葉は「サイエンス」でありました。敗因はこれのみではありませんが重大 要因の中の一つであったことは紛れもない事実であります。 若し将来不吉な事でありますが戦争が起こったと仮定するならば、恐らく日本の取った愚かしい戦争手段等は廃人の夢の昔語りと化し短時間内に戦争の終結を見る恐るべき科学兵器が使用されるであろうことが想像されるのであります。戦争の惨禍をしみじみと骨髄に■して味うた日本人は否全世界の人類は、この恐るべき戦争回避に心■を打込むに違ひありません。又このことが人間に課せられた重大な義務であります。

あの広島、長崎に投下された原子爆弾は恐怖にみちたものであり、それは長い人間虐殺の歴史に於てかって斯くも多数の人間が生命を大規模に然も一瞬の中に奪われたことはなかったのであります。獄中にあって研究の余地はありませんのでしたが、恐らくこの原子爆弾を防御し得る兵器は、この物質界に於て発見されないであろうと思うのであります。

過去に於ては、如何なる攻撃手段に対してもそれに対する防御は可能であるといわれて参りました。実際このことは未だに真実であります。過去の戦争を全く時代遅れの戦争に化し去ったこの恐るべき原子爆弾を防御し得る唯一の方法が若し有るとするならば世界の人類をして原子爆弾を落としてやろうといふような遺志を起こさせないような国家を創造する以外には、手はないのであります。敗戦の将の胸をぞくぞくと打つ悲しい思い出は我に優れた科学的教養と科学兵器が十分にあったならば、たとへ破れたりとはいへ斯くも多数の将兵を殺さずに平和の光輝く祖国へ再建の礎石として送還することが出来たであらうといふ事であります。私がこの期に臨んで申し上げる科学とは人類を破壊に導く為の科学ではなく未利用資源の開発或は生存を豊富にすることが平和的な意味に於て人類をあらゆる不幸と困窮から解放するための手段としての科学であります。

第三に申し上げたい事は・・・特に女子の教育であります・・・
伝うる所によれば日本女性は従来の封建的桎梏から開放され参政権の大いなる特典が与えられた様でありますが現代日本婦人は西欧諸国の婦人に比べると聊か遜色があるように思うのですが、これは私の長い間の交際見聞に基く経験的事実であります。

日本婦人の自由は、自ら戦い取ったものではなく占領軍の厚意ある贈与でしかないという所に危惧の念を生ずるのであります。

贈与といふものは往々にして送り主の意を尊重するの余り直ちに実用化されないで観賞化され易いのであります。

従順と貞節、これは日本婦人の最高道徳であり、日本軍人 のそれと何等変る所のものではありませんでした。この虚勢された徳を具現して自己を主張しない人を貞女と呼び忠勇なる軍人と讃美してきました。そこには何等行動の自由或は自律性を持ったものではありませんでした。皆さんは旧殻を速かに脱し、より高い教養を身に付け従来の婦徳の一部を内に含んで、然も自ら行動し得る新しい日本婦人となって頂き度いと思うのであります。平和の原動力は婦人の心の中にあります。皆さん、皆さんが新に獲得されました自由を有効適切 に発揮して下さい。 自由は誰からも犯され奪はれるものではありません。皆さんがそれを捨てようとする時にのみ消滅するのであります。皆さんは自由なる婦人として、世界の婦人と手を繋いで婦人独自の能力を発揮して下さい。もしそうでないならば与えられたすべての特権は無意味なものと化するに違いありません。

最後にもう一つ婦人に申し上げ度い事は、
皆さんは既に母であり又は羽となるべき方々であります。母としての責任の中に次代の人間教育という重大な本務の存することを切実に認識して頂き度いのであります。私は常に現代教育が学校から始まっていたという事実に対して大きな不満を覚えていたのであります。

幼児に於ける教育の最も適当なる場所は家庭であり、最も適当なる教師は母であります。真の意味の教育は皆さんによって適切な素地が培われるのであります。若し皆さんがつまらない女であるとの謗りを望まれないならば、皆さんの全精力を傾けて子女の教育に当って頂き度いのであります。然も私のいう教育は幼稚園或は小学校入学時をもって始まるのではありません。可愛い赤ちゃんに新しい生命を与える哺乳開始の時を以て始められなければならないのであります。愛児を しっかりと抱きしめ乳房を哺ませた時何者も味う事の出来ない感情は母親のみの味いうる特権であります。愛児の生命の泉としてこの母親はすべての愛情を惜しみなく与えなければなりません。単なる乳房は他の女でも与えられようし又動物でも与えられようし代用品を以ってしても代えられます。然し、母の愛に代わるものは無いのであります。

母は子供の生命を保持することを考へるだけでは十分ではないのであります。

■が大人となった時自己の生命を保持しあらゆる環境に耐え忍び、平和を好み、強調を愛し人類に寄与する強い意志を持った人間に育成しなければならないのであります。

皆さんが子供に乳房を哺ませた時の幸福の恍惚感を単なる動物的感情に止めることなく、更に知的な高貴な感情にまで高めなければなりません。母親の体内を駆け巡る愛情は乳房からこんこんと乳児の体内に移入されるでせう。

将来の教育の■分化は、母親の中に未分化の状態として溶解存在しなければなりません。
幼児に対する細心の注意は悉く教育の本源でなければなりません。功まざる母の技巧は教育的技術にまで進展するでせう。

こんな言葉が適当か、どうか、専門家でない私には分りませんが、私はこれを「乳房教育」とでも云い度いのです。

どうかこの解り切った単純にして平凡な言葉を皆さんの心の中に止めて下さいますよう。

これ が皆さんの子供を奪った私の最後の言葉であります。」






マニラ軍事法廷にて


牢獄の中で、あるいは既にフィリピン奥地の塹壕で、山下は日本の未来像を真剣に考えていたのだろう。彼のメッセージには、自分の過去への回顧も言い訳もないが、当時の日本の病的な状況を、自分への猛省もこめて怜悧に分析して、あり得るべき日本への最後の言葉を残した。浮ついた理想では全くなく、そして自分のいないであろう未来、それは決して明るくなく、前途多難で危なっかしい未来への警告を、聞こえてきそうな「身のほどもわきまえず」という言葉を敢えて脇へやり、あとに遺した言葉。
優しく諭すような表現で語りながらも、内容はとても重い。4つのうち2つが女性への提言であることは、無骨な軍人であった山下にあってはそうとう意外である。しかし死の時が刻々と迫る状況のなかでこれを語ったということは、重きを置いていた考えだったからだろう。
私の立場に強く響いてくるのはもちろん4番目の、
母は子供の生命を保持することを考えるだけでは十分ではない、
子が自らの命を自ら保つ能力、
あらゆる環境に耐える身体的、精神的力量、
健全に平和を希求すること、
協調、
自分以外の人々に寄与しようと考え、行動に起こす強い意志、
それを子供一人一人のうちに育む責任を持てと、厳しく訴える。
自分の子が狙われるとなれば、どんな親も、時に動物でさえ、親は盾となり子の前に立ち塞がるだろう。しかしそれはほとんど無力であり、意味がない。あっけなく親は倒され、次の瞬間にはもう子供らも同じく餌食になるだけだ。
そういう状況に陥らないよう世界を保つ能力を授け、継承させよということ、それを母親の使命にしている。父親にではなく、これを敢えて母親に求めた山下の考えは深い。
軍人の遺言であるということに少し躊躇しつつも、この言葉を常に手元にして、母としての私の座右の銘としてきた。

「これが皆さんの子供を奪った私の最後の言葉であります」
この言葉の重みをしっかりと受け止めて、、。






戦時にうたわれたものを幾つか引用します

開戦の時に

戦争が廊下の奥に立つてゐた
渡辺白泉


十二月八日の霜の屋根幾万
加藤秋屯


出征のときに

わが生のあらむ限りの幻や送りし旗の前を征きし子
小山ひとみ


老母は狂へるごとく吾が顔をはげしく抱くこの人中に
菅野政毅


咲きそめし百日紅のくれなゐを庭に見返り出征たむとす 
宮柊二