名のもとに生きて

人の一生はだれもが等しく一回かぎり。
先人の気高い精神に敬意を表して、その生涯を追う

ロベスピエールの真理

2023-05-09 16:38:00 | 人物

マクシミリアン=マリ=イジドール・ド・ロベスピエール(1758〜1794)
『自由よ、汝の名においていかに多くの罪が犯されたことか!』
(ロベスピエールらにより処刑されたロラン夫人の最後の言葉)


1 生まれと風貌、秘密

18世紀末、社会構造の不均衡、財政難で大いに傾いていたフランス。そこに啓蒙主義社会を実現した革命家の代表的な人物、ロベスピエールとはどんな人だったのか。

ここであくまで「代表的な」としたのは彼一人が革命を先導したのではなく、当時の多くの政治家の一人にすぎないからだ。彼は特殊な存在だったのではなく、この時代に直面し、なすべきことを成し遂げようとした者の一人であり、結果、知られた通りの革命家として名を成すことになる。

実際、ロベスピエールが権限を握っていた期間は晩年の1年ほどでしかない。普段のロベスピエールはどんな様子の人なのか。

低身長、痩せ型、眼鏡を掛けている。質素だが整った身形。議場の演壇に上がる。なまりが少し、声量も身振りも大きくなく、原稿を用意して読む。姿に雄弁さはないが、その内容に圧倒される

同じように小柄で映えない風貌ながら、美声、身振り、天才的な弁術で聴衆を熱狂させた、後の世のゲッベルスとはまた違うようだ。しかし、ゆったりとした話しぶりはジャーナリストの記録しやすさを計ったものであり、それゆえにロベスピエールの演説は議会内よりも、外の民衆に向けたものだとされる。周到である。

生まれについて。兄弟姉妹4人のうちの最年長、父は地方の弁護士で上層ブルジョワ、母は商家育ちの中層ブルジョワである。子供の頃は内向的で、飼い鳥の絵を描いて過ごすことを好んだ。母は5人目の子の出産で亡くなり、父もそのショックから失踪したため、兄弟姉妹は別れて暮らした。親戚に大事に育てられ、また勤勉かつ優秀な彼は奨学金を得てパリで学び、卒業後は故郷に戻り弁護士として活躍した。エリート教育を受けた実力者ではあるが、あのような時代ゆえにコネがない分苦労はあった。生活ぶりは質素、少食、物静かだが愛想は良かった。とにかく勤勉、そして生涯独身だった。

パリで学び故郷に戻った若き法曹家ロベスピエール。彼には故郷において一つの負い目がある。両親が結婚した時、母はすでに懐妊5カ月だった。当時では明らかにタブーであり、地方ならば当然知れ渡る。それは生まれた当人にも払拭できない脛のキズであった。法曹家として自立後、ロベスピエールは婚外嫡出子や私生児、あらゆる弱い立場の人を擁護する。すすんで自ら話を聞きにいく。それにより貴族や既得権者には恨まれることになり、彼の地方エリート社交場での立場を危うくしつつあった。

2 革命家ロベスピエール

フランス革命は遠い時代のことのようだが、当時の啓蒙思想のモラルは十分に高かったと感じる。人口の2%、国土の20%を領有する特権階級(貴族、僧侶)は免税され、その他の国民が税負担のほか領地の地代も納めさせられていた。その状況からの立ち上がりである。アメリカ独立戦争の影響も受け、フランスは三部会を足掛かりに人権宣言、憲法、革命へと乗り出した。三部会では各地から選出された平民の有知識層の議員が議会で議論を進める。若く無名だったロベスピエールはその優れた演説でたちまち名を知られるようになった。初期の彼の主張は明解で繊細さも感じる。例を上げると、

「貧しい人が選挙に参加できるように、選挙集会に参加する時間と仕事に補償」「俳優、プロテスタント、ユダヤ教徒に市民権要求」「植民地の有色人にも政治的権利」「海軍の将校と水兵の刑罰を同一に」

また、請願権の行使を能動市民に限定すべきかについて、「非能動市民にこそ保障されるべきだ。人間は弱くて不幸であればあるほど請願がますます必要となるから」

ロベスピエールの目に映る国民とは貧困な民衆であり、貧困や不平等から民衆を救い上げるために演説をし続けていた。弁護士時代から変わらぬ姿勢だ。

3『すべての罪に対する処罰は、死刑である』

元から彼は死刑反対、戦争反対であった。しかし議会がオーストリアに宣戦布告したためフランスは革命と同時進行で諸外国と戦うこととなった。議会内の対立や地方での反革命運動は過激化し、ロベスピエールの思考は変形していく。内戦を防ぎ、革命を遂行するためには、国民の無知と政治の腐敗に対策をとるべきと。人民は善良であるが無知である。徳を説き教育する。また議会が腐敗しないよう既に議員だった者は次回選出されないよう提案、しかしこれは却下され、彼も議員を継続した。議会内での立場も浮上し、公安委員というある種の権利も持つに至った。

ロベスピエールは元からバイタリティに乏しく、その上寝る間を惜しんでの執務や演説原稿準備などにより徐々に体を壊し、病気(おそらく循環器系の)にも悩まされていた。自らに対する暗殺未遂事件もあった。そのせいだろうか、考えも近視眼的になり、さまざまな陰謀に神経を尖らせ、強圧的な対処を行うようになった。それがテロールと呼ばれるものである。

彼によれば、人民は理性によって、人民の敵は恐怖によって導かれる。平時は徳による、革命時は徳と恐怖による政治が必要だと。

「徳なくして恐怖は災禍、恐怖なくして徳は無力」

恐怖は拍車がかかり、歯止めが効かなくなっていき、裁判なく即決の死刑が横行する。プレリアル22日(6月10日)の法はその行き着く先を示している。同じ派閥で活動してきた仲間も既に対象になっていた。

もっともこれらの判断はロベスピエール一人が行なっていたわけではない。意外にも彼の署名はそれほど多くはなかったらしい。また死刑が苛烈に執行されてたその頃は病により公務に出られていなかったという。しかし彼は権力を持つ人だった。批判は被らなければならない。議員達は粛清の対象になることを怖れ、誰もが口をつぐんでいた。

テルミドール8日(7月26日)、ロベスピエールが6週間の療養後久しぶりに議会に現れる。演壇で放たれたこの言葉にいよいよ恐怖震撼した者達がいた。

「公共の自由に対する陰謀が存在する。この陰謀は国民公会の只中で策動している犯罪的な同盟のせいでその力を得ている。そしてこの同盟は、保安委員会やこの委員会の事務局の中にも共犯者を持っている。公安委員会のメンバーもこの陰謀に加担している」

議会内には各派閥間での策動もあったが、反革命運動鎮圧に地方派遣されていた議員のうち極端な虐殺を指揮した廉で、ロベスピエールによってパリに呼び戻されていたフーシェ、コロー=デルボワ、バラス等は戦慄した。ロベスピエールは自分達をターゲットにしているのだ、と直感した。

4 真理

翌日、議会でロベスピエールの一派は逮捕され、一夜明けて処刑された。彼はこの成行を予期していたと思われる。領袖の一人クトンも策動を察知しパリに残って共に処刑された。もう一人のサン=ジュスト、美貌の若き革命の大天使はまだ希望を見ていたかも知れない。一月程前、ジャコバンクラブでの憔悴気味の様子に励ましの声をかけた人に対し、ロベスピエールはこう答えていた。

「犯罪に対しての真理が私の唯一の安らぎの場だ。私は信奉者も称賛も欲しない。私の支えは私の意識の中にある」

真理という言葉の使用は、彼がずっと心に刻んできたルソーへの崇敬、それをしたためてきた「献辞」の中で使われている。

「私は、真理の崇拝に捧げられた高貴な生の苦悩をすべて理解した。同胞たちの幸福を求めたのだという自らの意識が、有徳の士に与えられる報酬なのである

真理と幸福はある程度乖離している。フランスはこの先も混迷が続いた。

逮捕の際、ロベスピエールは顎に銃弾を受け、言葉を奪われた。筆記を希望したが許されなかった。「私の意識の中」の言葉はついに外に出ることはなかった。


今に映して

今日を生きる我々から比べたら計り知れない教養を持ち、果敢に革命に挑んだこの時代の知識人達に尊敬の意を表する。無知なる民衆がこのさき手にしたのは皇帝であり、再びの王であった。しかし経済的な進歩は手中にした。人間の求める真理と幸福、これはなかなか一体ではないのは片腹痛い事実と思う。ロベスピエールの真摯な考えの中から我々の時代にひとつ教えを戴く。「人民がその権力を行使せず、人民自身がその意志を表明しないところでは、しかも代表者集団が腐敗しており、ほとんど人民と同一視されている場合には、自由は失われる」


参考:『ロベスピエール』ピーター・マクフィー著、『ロベスピエール世論を支配した革命家』松浦義弘著 他


フィリップ殿下とヨーロッパ王室

2021-05-30 22:25:00 | 人物
エジンバラ公フィリップ殿下
ヨーロッパ王室をともに生きた100年



エジンバラ公フィリップ
1921〜2021

2021年6月に100歳を迎えようとしていたエジンバラ公フィリップ殿下が4月に薨去。
100年のヨーロッパ王室の変遷を生きてきたエジンバラ公は、これまでこの場で取り上げてきた王室の方々とも幅広く縁が深い。女王の王配とはいえ、負けず劣らず高貴な出自であることを示しておきたい。



1. 血統
フィリップの血縁で特筆されるのは、母方の高祖母に英女王ヴィクトリア、父方の高祖父にロシア皇帝ニコライ1世がいること。
イギリス王室ではヴィクトリア女王の後、第二子長男のエドワード7世、その第二子次男ジョージ5世、その第一子長男エドワード8世、その弟ジョージ6世、その第一子長女エリザベスであり、エリザベス女王にとってもヴィクトリア女王は高祖母だ。フィリップは、ヴィクトリア女王の第三子次女アリス・ヘッセン大公妃、その第一子長女ヴィクトリア・バッテンベルク侯妃、その第一子長女アリス・ギリシャ王子アンドレアス妃、その第五子長男にあたる。
父方の高祖父ニコライ1世の後は、第五子次男コンスタンティン、その第二子長女オリガ・コンスタンティノブナロシア大公女・ギリシャ王ゲオルギオス1世妃、その第七子五男アンドレオスがフィリップの父だ。父ゲオルギオス1世はデンマークの王家からギリシャ王となっており、父はクリスチャン9世。兄フレゼリク8世がデンマーク王家を継いでいる。
主にこうした系譜を持つゆえに、ヨーロッパ各国の王室との繋がりが広範で、母方ではイギリスやドイツ、父方では北欧やロシアの王室と深く関係している。



ロシア皇帝ニコライ1世



英国ヴィクトリア女王



2. イギリス王室からの血友病

以前の記事に書いたとおり、ヴィクトリア女王の血縁には血友病が現れていた。フィリップの曽祖母であるヘッセン大公妃アリスは保因者だった。アリスの子女のうち、男子はその病で夭折、4人の娘のうち2人が保因者として嫁ぎ先に病をもたらした。とりわけ三女アリクス・ロシア皇后ニコライ2世妃はロシアの運命を変えることになった。次女エリザベートもロシア大公女妃であり、アリクスとともにロシア革命の犠牲となった。革命(1917)はフィリップの誕生(1921)以前のことではあるが、母アリスにとって皇帝の4人の皇女達は従姉妹であり、自分の娘達を遊ばせてもらうなど交流があった。叔母のエリザベートからは深く影響を受けている。フィリップの祖母ヴィクトリアはヘッセン大公妃アリスの長女だが、子孫に影響はなかったことから保因者でなかったとみられる。しかし、同じバッテンベルク家系に嫁いだ、ヴィクトリアの叔母すなわちヴィクトリア女王の末娘ベアトリスは病をもたらし、その娘ヴィクトリア・ユージェニーがスペイン国王に嫁いだことで不幸を広げてしまった。
なお、殺害されたロシア皇帝一家の遺体特定に際し、女系でつながる血縁者であるフィリップの遺伝子型の提供により確定に至った事実がある。該当者のうち提供を拒否した元ロシア皇族もいたが、フィリップはこころよく協力した。



ヘッセン大公妃アリス
ヴィクトリア女王の次女であり、血友病保因者
娘のうち二人に遺伝し、嫁ぎ先の男子が血友病となった



ヘッセン大公妃アリスの4人の娘
左から三女イレーネ、長女ヴィクトリア、次女エリザベート、四女アリクス
血友病はイレーネとアリクスが保因、エリザベートは子がなく不明、ヴィクトリアは受け継がなかった
また、エリザベートとアリクスはロシア革命でそれぞれ殺害された



ヴィクトリア女王の末娘ベアトリスとマウントバッテン家の子供達
男子二人が血友病に、娘はスペイン王室に嫁ぎ、血友病を王子達にもたらした



フィリップの母アリスの娘たちとロシア皇女マリアとアナスタシア





3. 母方の系譜



フィリップの両親
アリス・オブ・バッテンバーグ
ギリシャ王子アンドレオス


母アリスはドイツのバッテンベルク家の出身であるが、アリスの母ヴィクトリアを通じてヴィクトリア女王をよく訪ねていた。博識で聡明な孫娘ヴィクトリアを他国の王室に嫁がせなかったのは、なるべく呼び寄せたい女王の策であった。当時のイギリス王室の関係者で血縁がある方々は非常に多い。
フィリップは、ヴィクトリア女王からエドワード7世に続くジョージ5世の時代に生まれている。ジョージ5世は祖母の従兄弟であり、ギリシャの政変で王族に死刑が宣告された時、軍艦を差し向け、まだ生まれたばかりのフィリップを含めギリシャ王族を逃れさせたのはこの王だった。

ジョージ5世、エドワード8世、その後ジョージ6世のときにフィリップはエリザベスとの婚姻で英王室に入った。
その当時は、ヴィクトリア女王の次男で、先の「エジンバラ公」アルフレートと夫人のマリア・アレクサンドロヴナ元ロシア大公妃の娘マリア、祖母ヴィクトリアの従姉妹にあたるが、ルーマニア・フェルディナンド1世国王妃となり、その次女マリアはユーゴスラビア国王アレクサンダル1世妃に、長女エリザベタはのちのギリシャ王ゲオルギウス2世(フィリップの伯父)に嫁いだ。三女イレアナについては別記事にあるが、国王に嫁いではいない。マリア・アレクサンドロヴナの次女ヴィクトリア・メリタは、ヴィクトリア女王の勧めによりヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒ(祖母ヴィクトリアの弟)に嫁いだが、不倫を貫き、ロシア大公キリル・ウラディミロヴィチと再婚し、子孫が現在、ロシア皇位継承を唱えている。マリア・アレクサンドロヴナの望みが歪んだ形で成就した形だ。
ヴィクトリア女王の三男コノート公の美人姉妹の姉マーガレットは、スウェーデンの後の国王グスタフ6世に嫁いだが、多くの子を成した後若くして亡くなり、後妻となったのが長く独身だったバッテンベルク家の次女、母アリスの妹ルイーズだった。これにより、バッテンベルク家から、スペイン、スウェーデン、イギリスに王妃、王配を輩出したこととなった。



女王ヴィクトリア、末娘ベアトリス、孫娘ヴィクトリア、曽孫アリス


バッテンバーグ(マウントバッテン)家
アリス、ルイーズ、ジョージ、ルイス4兄弟姉妹



アリスとルイーズ
ルイーズはのちにスウェーデン王妃に


バッテンバーグ家とアリスの娘達



アンドレオスとアリスの家族写真
4姉妹とは年齢の離れているフィリップ






4. 父方の系譜

ギリシャは1863年にデンマーク王室から新たな国王を迎えることになった。すでに内定していたのはその同じ年に国王になったクリスチャン9世の次男であり、ゲオルギウス1世が17歳で即位した。父のデンマーク国王即位より7カ月早い。そのゲオルギウス1世の四男が、フィリップの父アンドレアス王子である。クリスチャン9世はヨーロッパの義父とあだ名されるが、その第一子はもちろんデンマーク国王に、第二子アレクサンドラはイギリス国王エドワード7世妃に、第三子がギリシャ国王に、第四子ダウマーがロシア皇帝アレクサンドル3世妃にとなるほか、孫カールがホーコン7世としてノルウェー国王に、曽孫マッタはホーコン7世の世継オラフ5世に嫁ぎ、マッタの妹アストリッドはベルギー国王レオポルド3世に嫁いだ。元々クリスチャン9世は王族の片隅の存在で貧しい暮らしぶりで子女の教育にも腐心していたほどだった。
ゲオルギウス1世が王妃迎えたのは、オリガ・コンスタンティノヴナ。ロシア皇帝ニコライ1世の孫娘である。8人を生み、そのうち3人はロシアの皇族と結婚した。フィリップの伯父や伯母はロシアとつながりが深いことになる。第三子アレクサンドラはパーヴェル・アレクサンドロヴィチ大公に、第五子マリアはゲオルギ・ミハイロヴィチに嫁ぎ、第四子ニコラオスはエレナ・ウラディミロヴナ大公女を迎えた。アレクサンドラは妊娠中に事故で亡くなり、そのとき生まれたのがのちにラスプーチンを殺害したドミトリ・パヴロヴィチだった。また、ニコラオスとエレナの末娘マリアは、ジョージ5世の四男ケント公ジョージに嫁いだ。フィリップの従姉妹であり、ともにギリシャ王室からイギリス王室に入ったことになる。第二子ゲオルギウス、後のゲオルギウス2世は王子時代に当時ロシア皇太子ニコライと日本に遊び、大津事件にあった。ロシア革命で皇帝ニコライ2世はもちろん、親族となったパーヴェルやゲオルギも処刑され、やがてギリシャ王族も同じような危機に遭遇したのは前述した。フィリップが生まれたのはこの頃、ヨーロッパの先行きが不安定な時だった。しかし、4人の娘達から離れた年頃の、初めての男子誕生に、すでに疎遠になっていた母アリスと父アンドレアスは光を感じたことだろう。
イギリス海軍に助けられ、パリに逃れたギリシャ王族だったが、アンドレアスは家庭を顧みず女性に溺れ、精神を病んだ母は療養で遠くへ行き、姉達も皆ドイツに嫁いで行くと、フィリップは10歳にして一人になり、マウントバッテン家の祖母に引き取られた。教養高い祖母ヴィクトリアと、叔父のジョージやルイスに暖かく迎えられた。海軍で活躍していたルイス・マウントバッテンは、フィリップに影響を与え、フィリップもイギリスに帰化してイギリス海軍でキャリアを積んで行く。それは、大戦突入となれば姉達のいる国ドイツを敵に戦うこととなった。



アンドレオス王子


アンドレオス王子、ニコラオス王子、コンスタンティノス王太子



デンマーク王家クリスチャン9世の家庭
ダウマーの婚約者としてロシア皇太子アレクサンドルが来訪している
姉アレクサンドラはイギリスに嫁ぎ写真にいない



クリスチャン9世夫妻と三姉妹
左のアレクサンドラはエドワード7世妃になる
エリザベス女王の曽祖母にあたる
つまりエリザベスの曽祖母とフィリップの祖父は姉弟


5. 100年を生きる

ヨーロッパ王室の真ん中で100年を生きたフィリップ。同じくイギリス王室に入った王配で、ヴィクトリア女王の夫君アルバートと比較すると、フィリップの権限はかなり低くされており、公務では常に女王の後ろに身を置かねばならず、与えられた立場に苦しむこともあったに違いない。時代が進むに従って、タブロイドやテレビ放送で悪く評されることもあっただろう。私はそうした詳細を知らないが、子供時代の写真からは、豪快さと繊細さが両方見て取れる。ヨーロッパの大きな骨が静かに抜かれてしまったような寂しさを感じた。












































ヴァージニア・ウルフ 『灯台へ』生と死の距離

2019-09-29 16:18:50 | 人物


ヴィクトリア時代への追憶から
新しい時代の躍動と、底流する不穏な空気へ
抱える精神不安を繊細な言葉で覆う





ヴァージニア・ウルフ
Virginia Woolf
1882〜1941


1. 『灯台へ』
ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』を読んだ。
この作品は小説とは異なる新しい形式を試みたものだとしている。しかしこれをなんと呼んだらよいか、彼女も疑問のままにしている。

13歳のとき母を亡くす。美貌の母ジュリアは、画家エドワード・バーン=ジョーンズらラファエル前派の、あるいは伯母で写真家のジュリア・マーガレット・カメロンのモデルもつとめた。作品中のラムジー夫人は思い出の中の母を象っている。1846年から1995年を生きた母は、英国ヴィクトリア時代の典型的な中流夫人の持つべき魅力をそのまま体現する女性だった。『灯台へ』はその母、文筆家の父、8人の兄弟姉妹、父母の客人に似た人物達の物語でウルフ45歳の作品である。















ヴァージニア・ウルフとヴァネッサ・ベルの母
ジュリア/写真
エドワード・バーン=ジョーンズ『受胎告知』
ジュリアがモデルと言われている作品




2. スコットランドの孤島・夏の住居
ウルフの家族の夏の住居は、コーンウォール半島のセント・アイヴズ湾を見下ろす地にあったが、作品の舞台はスコットランドのヘブリディーズ諸島スカイ島だ。
ウルフの父は一女、母は二男一女を連れての再婚だった。その後、姉ヴァネッサ、兄、ヴァージニア、弟が誕生する。作品においても同じ家族構成で、他に数人の客人と使用人が一緒に過ごしている。



セント・アイヴズでクリケットをしているヴァージニア(左)とヴァネッサ


左からヴァネッサ、ステラ、ヴァージニア
ジュリアの産んだ7人の子のうちの女性3人




———

幼い息子ジェイムスが翌日の灯台行きを楽しみにしているが、すでに風が強く、望み薄だ。夫人は、夫や客人の空気を読まない物言いや態度に、想定内ながら疲れを感じつつ、常に周囲に心を配り、世話を焼く。日々、夫人はあらゆる人から感謝されることに喜びを感じているが、一方で相手によっては自分の厚情が期待されていないことにも気づいており、迷いを抱えている。自分の美しさも十分に生かしてきたが、五十を迎えた今は虚しい。
夕刻、女主人としての心を奮い立たせて催すディナーの席では、刻々変わる心境と、彼女を囲む人々、部屋を包む空気、声、戸外の気配が溶けあって、じわりと心が満たされてくる。夜闇に包まれ、蝋燭が卓上に灯る。やがてディナーは終わる。

「…敷居に足をかけたまま、こうして見ている間にも消えていこうとする光景の中に、夫人はあと一瞬だけとどまろうとした。それから身を動かし、ミンタの腕をとって部屋を出ると、もうあの光景は変化し、違った形をとり始めた。夫人は、肩ごしにもう一度だけ振り返って、それがもはや過去のものになったことを知った。」

このあたりまでが「第1章 窓」である。窓の内側には人々のこまごまとした思惑があり、外側では海が止まず波音を立て、灯台が回る光を放つ。無機的なものが窓から心に流れ込んで、なにかを刻みつけ、なにかが腑に落ちていく。
夫人のそんな様子を客観的に注視している人物がいる。画家で結婚適齢期をやや過ぎた女性リリーだ。夫人の欠点を見抜きながらも争い難く魅了されている。夫人はリリーの、愛嬌に欠けるが意志の強さに好感を持っている。

このあと、間狂言のような「第2章 時はゆく」が入る。夫人の急死、嫁ぎ先で亡くなった娘、戦死した息子のことなどが、10年のあいだ主人の訪問のなかったこの家を手入れする掃除婦によって語られる。そして、どうやら久しぶりに主人が訪れるらしいというところで「第3章 灯台へ」に移る。



3. 距離
灯台行きがかなわないまま、ラムジー夫人はロンドンの自宅で急死。10年が経つ。その間には世界大戦があり、家庭内で亡くなった者もあり、生きている者もそれぞれに歳をとった。
久々訪れた老嬢リリーは庭に出て絵を描く。その朝、ラムジー氏と、今や青年となったジェイムズとその姉プルーは船で灯台へとむかった。船の上では、過ぎたヴィクトリア時代を体現するかの父に、新しい価値観の息子が苛立ち、そのどちらにも距離をとって生ぬるく見守る娘が、目標の灯台を共に目指している。
陸と海。
海から陸の家を、陸から海上の船を見る。
その遠さ、小ささ。
キャンバスに向かいつつ、亡くなった夫人を思い返しながら、突如リリーは夫人の存在を初めて強く近くに感じ、こみ上げるように当惑する。

「ラムジー夫人!」

「つい最近までは、夫人のことを思い出しても何の問題もなかった。幽霊であれ空気であれ無そのものであれ、要するに昼でも夜でもたやすく安心して向き合えるものーいわば夫人はそういう存在だったのだ。ところが、それが急に手をのばしてきて、今のように激しく心臓を締めつけるのだ」


熱い涙の向こうに見える青、海、靄、遠く離れてそこにはおそらくラムジー氏がいる

「距離って途方もない力があるものね。だってこれだけ遠ざかると、みんな海に呑み込まれてしまって永久に姿を消し、まるで周囲の自然の一部になってしまったような気がするもの」

洋上の汽船の煙だけが漂う。
《惜別のしるしのように》

心の距離、生と死を隔てる距離、時を隔てる距離、遠く離れればいずれも一点であるかのよう。

———

ウルフのこの作品は、構成にも読後感にも能を観るようだ。

「なぜ人生はこんなに短く不可解なのか—」

リリーの問い。「なぜ」の答えはわからないが、行き着く先は微かに見える。安堵を手に入れる。両眼に涙は溢れても…



4. ヴァージニア・ウルフについて
ヴァージニア・ウルフと言えば、記憶に上るのは貴族女性との同性愛、精神衰弱からの自殺か。子供の頃は、知識豊かな文芸批評家の父レズリー・スティーブン、美しく聡明な母ジュリア・ダックワース、異母兄、異母姉、異父姉、兄、姉、弟と、セント・アイヴスの夏の家やロンドンのハイド・パークの自宅で過ごした。明るい子供時代。知識人の父レズリー・スティーブンのもとに、ブラウニング、ラスキン、ハーディ、メレディスらが訪れる家庭だった。
13歳で母を亡くし、初めて精神衰弱になった。
家庭で父から文学や歴史の他、別でギリシャ語の教育も受けていたが、15歳からは兄や弟の学ぶケンブリッジ大学キングスカレッジに学んだ。のちに画家になる姉ヴァネッサ(ヴァネッサ・ベル)は美術学校ロイヤル・アカデミーに入った。
この頃、母代わりだった異母姉ステラが、嫁いで3ヶ月で亡くなった。

22歳のときに父が亡くなり、再び精神衰弱に陥る。兄弟姉妹はブルームズベリに転居。兄の交友関係から、経済学者ケインズ、作家ストレイチー、美術評論家クライヴ・ベル(姉ヴァネッサと結婚)や画家ロジャー・フライ、社会評論家レナード・ウルフ(ヴァージニアと結婚)らケンブリッジの仲間が集い、交流した。ブルームズベリ・グループと呼ばれる。
翌年は母の死から10年後にあたり、一家の夏の家タランド・ハウスに客人と共に滞在。その翌年は親しかった兄トビーが旅行先での病がもとで亡くなる。家族の死に直面するたび、ヴァージニアは心を病んだ。


ヴァネッサ・ベル 『室内風景』ワインを飲んでくつろぐクライヴ・ベルとダンカン・グラント
ヴァネッサはベルとの結婚を維持したまま、ダンカン・グラントやロジャー・フライとも関係を持った。長女はグラントの子だが、ベルの子として育つ。ベルやグラントも他に異性同性の愛人がいた


ルパート・ブルック 詩人
美貌で有名だったが、トラブルからグループを脱退し、その後は薄幸の人生を送り、戦場で亡くなった


ロジャー・フライ 画 ヴァージニア・ウルフ像


レナード・ウルフ 国際政治学者 社会主義者 ブルームズベリーグループ発足当時からヴァージニアとは面識あり
ヴァージニアは27歳のときストレイチーに結婚を申し込まれたがいったん承諾後即解消
30歳のときセイロンから戻ったレナードと結婚する




5. ブルームズベリ・グループ
スティーブン家の兄弟姉妹の家の集いには、もはや過去のものとなったヴィクトリア時代の厳格性を押しつける空気はなく、新時代の自由を謳歌する交流があった。
当時、まだ評価されることのなかったフランスの後期印象派絵画を賞賛し、展覧会を開いてイギリスに紹介したのはグループのフライらだった。また同性愛も含め、夫婦間を超えた自由な恋愛や交遊を認め合った(オープン・マリッジ)。グループには既成の性愛を超越する作家エドワード・フォースター、詩人ジークフリード・サスーン、同じくルパート・ブルックもいた。
当初、グループは壮大なイタズラ(偽エチオピア皇帝事件)を引き起こしたことなどにより、社会からは白眼視されていたが、第一次大戦以降にはグループの平和主義的なスタンスに人々の理解が進み、ウルフの著作やケインズの経済論なども支持を広げた。

このグループに、貴族で外交官のハロルド・ニコルソンとその妻ヴィタ・サックヴィル=ウェストが参加する。ヴィタはヴァージニアへ敬愛を飛び越えて、恋愛感情を抱いた。


ハロルドとヴィタ(中央) 当時はまだ女性カップルが街歩きするのは非難を浴び、危険を伴った



ヴィタ


ヴィタと父





6. レズビアニズム
ヴァージニアは30歳でレナード・ウルフと結婚した。たびたび精神衰弱に陥るヴァージニアを夫はいたわり、彼女が生き生きと文芸活動に打ち込めるように、印刷機を購入して二人で手ずから印刷して出版した。
ヴァージニアがヴィタ・サックヴィル=ウェストと交際するようになったのは40歳のとき。ヴィタは10歳年下。由緒ある男爵家の一人娘であり、広壮なノール城に住む。ヴィタもまた、居城の塔の一室にこもり日夜精力的に創作する文筆家である。







ヴィタ


ヴァージニアを崇拝しつつ恋愛に巻き込んでいくヴィタに、夫ハロルドは寛容だ(レナードもだが)。ハロルドも同性愛者でもある。ヴァージニアはノールの城でヴィタと過ごすようになる。
ハロルドとヴィタには子息が二人いる。その一人、ナイジェルは「わたしたちの間には母と息子の関係はなかった」と語る。彼と弟の世話をしたのはヴァージニアだったらしい。ちなみに、ヴァージニアは子はいない。
ヴィタは元より名だたるレズビアンで、28歳のとき同性の元学友と電撃的にフランスに駆け落ちしたスキャンダルで有名だった。25歳で結婚していたヴィタには当時すでに二人の子もいた。相手は、14歳の時に知り合った4つ下のヴァイオレット・ケッペル。エドワード7世の愛妾アリス・ケッペルの娘だ。二人は10代の頃も恋愛関係にあったが、あらためて関係が再燃したのである。長身で中性的な顔立ちのヴィタは、若い男性に変装し女性の恋人を伴って颯爽と街へ出る。フェリクス・ユスーポフを思わせるが、同時代人なのでパリやロンドンで鉢合わせていたかもしれない。その後、ヴィタが夫と別れる気がないことから破局した。


ヴァイオレット・ケッペル
パリに住み続けた 才能ある小説家となる



そのヴィタがバージニアと関係するようになり、ヴァージニアが五十を迎える手前まで続く。ヴィタが別の若い女性に心を移して終わった。
しかしこの間、ヴァージニアは数々の代表作を生んだ。


晩年のヴィタ






シシング・ハーストの城



同時代を生きた貴族のステファン・テナントは、オスカー・ワイルドの記事の余談で取り上げた通り、Bright young peopleと呼ばれる享楽的なグループに属していた。彼はブルームズベリー・グループのジークフリート・サスーンの愛人だったこともある。晩年は堕落していた。
ヴィタはノール城を相続できず(女子相続不可)、やがてシシング・ハーストの城に移り、荒れた城をよみがえらせ、夫と共に庭園を美しく完成させて、イギリスのガーデニングの新たな先駆者となった。1962年没。



7. 『オーランドー』世界一長い恋文
時々訪れる鬱に悩みながら、ヴァージニアは名作を生み出す。鋭い感受性により時代の流れを敏感に感じ取り、妥協のない練られた表現を試みる。出版においてもエリオットやジョイスを世に出すなど、目が高く、世に貢献していた。
45歳で『灯台へ』(1927)を出した。これは自分の半生と、父母の世代の遺産となったヴィクトリア時代との分離が描かれ、ゆるやかな流れに身をまかせる静けさがあった。
つぎの『オーランドー』(1928)はガラリと変わる。ヴァージニアのもう一つの面が現れている。ヴィタの息子によれば、作品自体が世界一長い恋文のようだと。そう、これはヴァージニアがヴィタの魅力と境遇を称えた作品すなわち恋文だ。
この作品が発表される頃、ヴァージニアは髪を短くし、自動車を買い、ヴィタとフランス旅行に出かけた。
『灯台へ』の作者とは思えないほど、語り口は大変饒舌で、コミカルな設定もある。主人公はエリザベス1世に祝福されたことにより300年余生き続けているが、見かけ年齢は36才(当時のヴィタの年齢)。ノール城の過去から現在までの住人が連綿と一つの個体に織り成されて、イギリス文学の変遷を傍にして生きる。主人公はあるとき数日の眠りから覚めたら男性から女性に体が変わっていたという、童話世界のような不可思議展開も織り交ぜられている。オスカー・ワイルドを読んでいるような気分になるが、ヴァージニアがそんな世紀末的な要素もわざと織り込んでいるのは承知できる。イギリス文学の伝記でもあるからだ。
テンポ良い饒舌な流れはヴィタの小説『エドワーディアンズ』(1930)と重なる。ヴィタのこの作品にはジョージ5世の戴冠式のちょっと面白い様子が描かれているなど、貴族のリアルな暮らしぶりが知れて興味深い。また、名前を変えてはいるが、ノール城をベースにしているので、調度、維持管理、城主と城下、晩餐会など、生きた城の運営も垣間見られるのが良い。




髪を切って話題になったウルフ


ヴァージニアはしかし独自の文学を探求し続け、さらに斬新な小説『波』(1931)を生み出す。登場人物達がそれぞれに独白(独白であって対話ではない)を重ねて綴られていく形は、演劇のようであり、実存の新鮮な切り口のようであり、目を閉じて感じる景色のようである。
冒頭の、子供の澄んだ感覚で切り取られる情景描写の連続は透明感が刺すように響く。ヴィタの息子ナイジェル・ニコルソンの回想に結びつく。

一度、蝶をつかまえていたとき、こう聞かれた。
『ねぇ、教えて。子供でいるのはどんな感じなの?』

いまでもどう答えたか覚えているよ。

『どんな感じかだって?自分でもよく知っているはずだよ、ヴァージニア。自分でも子供だったんだから。でもぼくにはヴァージニアでいるのはどんなかんじなのか、わからないよ。まだ大人になったことがないから』


ヴァージニアはどんな顔をしただろう。こんなオトナな答えを返されて。



8. 死の想念
世界が徐々に暗くなりつつある中、ヴァージニアの心も不安定になっていく。周囲の励ましに応えて執筆を続けたが、甥の戦死、さらにロンドン空襲で家も出版社も焼かれ、サセックスの週末の家で細々と暮らすうち、心は沈み、浮き上がれなくなった。最後の作品『幕間』をようやく書き上げたもののその出来栄えにも苦しんだ。

1941年3月28日、夫と姉に遺書を1通ずつ残して川に身を投じる。なれた散策の道を歩みながら、石をポケットに貯めて川へ。もう浮かび上がらないように。
どこに沈み行こうとするのか。

夫宛の遺書
「また狂気がやってくるのがはっきりわかります。
あの恐ろしい経験をまた繰り返すなんて考えられません。
今度は直らないでしょう。
声が聞こえるし、集中できません。
それで最善と思えることをしようと思います。
あなたは私にできる限りの最高の幸せを与えてくれました。
この恐ろしい病気さえなければ、私たちほど幸せな二人はなかったでしょうに。
もう戦えない。
あなたの人生を台無しにしている。
私がいなければお仕事ができるのに。
きっとお仕事をなさるでしょう。
ほら、これをちゃんと書くこともできない。
読めない。…」



『灯台へ』では冷静に生と死を測り、その隔たりは遠いようで近く、重なる2点のように見えていた。遺書からは、現実の狂気の支配から逃げたい、生の世界に身の置き所がない様子しかうかがえない。
ユーモア溢れる才人、センスの良い会話、鋭敏な感性、美しい文章表現…
時代が暗澹と変わる中で難しいバランスを保つことを、躓かせた何かが彼女を連れ去った。
しかし見えない世界と見える世界は、2枚のレイヤーを重ねたように一点になるならば、
彼女はそう遠いところにはいないだろう。



モンクス・ハウスのウルフ
田舎の週末住宅であり、ロンドンの戦災後はここに暮らした











マスード アフガンから世界を照らす心の眼

2019-02-04 21:07:51 | 人物

アフガニスタン北部"パンジシールの獅子"
ソ連やタリバンと戦った司令官マスード
聖人の横顔、世界へ届け最後の警鐘




Ahmed Shah Massoud
1953〜2001

1. 英雄マスード、アフガニスタンのゲバラと呼ばれて
弁護士になりたい。
医者になりたい。
建築家になりたい…。
そう望めて、その可能性が用意されている社会ならば良い。その道が易しくはないにしても、自分のために努力することが可能なのだから。
しかし、社会がそれを許さないほど混乱していたとしたらどうか。夢を失うだけでなく、命さえも危うくなるとしたら?
約束されたはずの自分の将来を諦めた上、銃を取って抵抗ができるだろうか。自分を守るだけでなく、人々を平和に導くことができるだろうか。
実際、能力の限界や勇気の欠如で、とてもじゃないが人を誘導して戦うことなどできないのが現実だろう。

たとえば、キューバ革命を導いたフィデル・カストロやエルネスト・チェ・ゲバラ。または「アフガニスタンのゲバラ」とあだ名されていたアフガニスタン北部同盟司令官アフマド・シャー・マスード。
マスードはその最期もゲバラと同様、暗殺だった。2001年9月9日、アメリカ同時多発テロ事件の2日前のことだ。

2001年、マスードはこの年の春、フランスでのヨーロッパ議会に招かれた際、世界を巻き込んだテロ事件が早晩起こるだろうことを警告していた。アメリカにも注意を呼びかけた。一方で、自身の横死もまもないことを感じていたという。

学生時代にアフガニスタン国家が政変によって傾いたために、学業を中止し、銃を取り兵を導く、司令官としての生涯に身を投じたマスード。知能が高く、国防相として、あるいはゲリラの司令官として、すばらしい統率力を示した。それでいて驕ることなく、常に老若男女全ての人々に優しく心を配った。敬虔なイスラム信者であり、日に五度の祈りを欠かさなかったが、それを周囲に強要しなかった。ソ連軍に追い詰められ、後にはタリバンに追い詰められ、実際、その戦績は苦渋に満ちていたが、マスードには不動の心があった。

アフガニスタン紛争勃発時、マスードはカブール大学の建築科大学生だった。ちなみに過去、カストロは弁護士、ゲバラは医師だった。マスードは生前、平和になったらもう一度大学に行って建築を学びたい、あるいは村の教師になりたいと、語っていた。死後、公式に「アフガニスタンの英雄」として称えられたが、生前のマスード自身は栄誉よりもただ素朴な平和を希求していた。

アフガニスタンの紛争の経過を振り返り、マスードの生涯を辿りたい。





2. アフガニスタン紛争
アフマド・シャーは1953年9月2日、アフガニスタン北部のパンジシール渓谷にあるジャンガラック村で、陸軍将校のドースト・ムハンマドの、7人の子のうちの3番目に生まれた。当時のアフガニスタンは、王ザヒール・シャーの統治下にあり、1964年にはジルガ(評議会)召集、憲法制定があり、自由と基本的人権を認める政府が樹立された。このとき、共産主義のアフガニスタン人民民主党(PDPA)も創設された。
1973年、軍部のクーデターにより、王は亡命。ダウドによる共和制となる。ダウドはPDPAと距離をおき、さらにイスラム弾圧も行う。
大学生だったマスードはムジャヒディン(イスラム主義を掲げる抵抗組織)の運動に参加。
1975年に、ムジャヒディンのヘクマティアルが起こした反乱が失敗し、マスードもパキスタンに逃亡する。過激主義に傾くヘクマティアルが、ムジャヒディンの長ラバ二と対立して分裂、イスラム党(ヒズビ・イスラミ)を創設。マスードはラバ二のイスラム協会(ジャミアテ・イスラミ)にとどまる。
1978年、PDPAによってダウドが暗殺され、共産政権が設立されたが、政策は不評、暴力による弾圧に対し、各地で反乱が起きる。マスードも共産政権打倒に立ち上がり、パンジシールで抵抗活動する。
1979年、共産政権支援を理由にソ連軍が侵攻。親ソ政権樹立。各地で民族グループごとに反ソ抵抗運動。
1989年、ソ連軍撤退。しかし共産政権は続行。
1991年、抵抗運動を受け、共産政権がカブールから撤退。マスードの軍がカブールに入る。
1992年、ペシャワール協定により、ムジャヒディン政権樹立。ラバ二が大統領、マスードが国防相となる。
1993年、ムジャヒディン間の対立が起こり、ヘクマティアルがカブールを攻撃。ヘクマティアルの交渉条件に応じて、マスードが国防相を辞任。
近隣国やアメリカが新興勢力タリバンを支援。タリバンによりカブールが包囲される。
1996年、マスードほか政府陣営はカブールから撤退。タリバンが入城。


タリバンについて;もともとは神学生の団体で、当初は誘拐された少女を救出するなど、慈善的で市民に迎え入れられやすい面もあった。しかし、アルカイダと密接になるに従い、原理主義傾向を強くし、厳しい戒律を民衆に押し付けるようになる。偶像崇拝禁止(バーミヤン仏像破壊など)、テレビ放送や音楽、スポーツなど娯楽は一切禁止。娯楽のかわりに公開処刑を頻繁に行う。毎日五回の礼拝を強要し、宗教警察で取り締まる。成人男性はあご髭を生やすのを義務づけられる。違反すれば、髭が一定まで伸びる間、収監される。女性の教育、勤労は禁止。女性は家族の男性の同伴なしでの外出禁止。タリバン組織は、同じパシュトゥン人の隣国パキスタンの支援と、アルカイダ経由でサウジアラビアからの支援も受け、勢力を拡大した。






1997年、北部に逃れたマスードらを中心に、反タリバン連合(アフガニスタン救国・民族イスラム統一戦線)が結成された。北部同盟と呼ばれる。
パキスタンやサウジアラビアの潤沢な支援を受けるタリバンは、支配地域を拡大。国土の80%を制圧する。
一方、国際社会はタリバン政権を認めず、北部同盟政府をアフガニスタンの代表とみなす。
2001年9月9日、ジャーナリストを装った二人の自爆攻撃で、インタビュー中のマスードが暗殺される。
翌々日の11日、アメリカ同時多発テロ事件勃発。
ウサマ・ビンラディン引き渡しに応じないタリバンに対抗して有志連合が結成される。有志連合は北部同盟を支援。11月に北部同盟がカブールを奪還する。12月、ボン合意主要四派協議により、ハーミド・カルザイ暫定政府が樹立。
タリバンは一部支配地域で活動を継続。現在、再び支配を拡大している。


紛争以前、アフガニスタンは美しく、多くの観光客が訪れる地だった。ソ連軍侵攻の11年間で、人口の10%約200万人が亡くなり、およそ600万人が難民になった。大量の地雷が残された。その後も、ヘクマティアルの攻撃で土地は荒らされ、タリバンが実権を握ったあとは恐怖によって支配された。
そのような過酷な状況にありながら、マスードはどこまでも平和をめざして努力し続けた。

『マスード 伝説のアフガン司令官の素顔』(マルセラ・グラッド著)には、マスードと関わりのあった人々からのインタビューがそのまま綴られている。書の中でマスードは、遠目から見ただけでも、そのオーラが彼だけを浮き上がらせ、目を離すことができなくなるほど、と。けれどもその振舞いは穏やかで、誰にでも優しく言葉をかけ、話を聞き、戦場の緊張をユーモアでなだめることもある、とも。さまざまなエピソードが、マスード亡き後、愛着を持ってそれぞれ語られている。もちろん、これはマスードの側近くにいた人々の話だから、中傷も批判もない。マスードを憎む者も世には当然あっただろうが、敵のソ連兵やタリバンの高官にさえも、一目置かれていたのは事実のようだ。この本で語られているマスードの横顔を、少し見つめてみたい。








3. 少年時代、パンジシール渓谷にて
先祖は王政に仕えた有力者、祖父と父は陸軍将校。中流家庭の育ち。文学と宗教に家庭教師がつけられる。家には図書室があった。祖父の影響で、アフマド・シャーは日に5度モスクで祈るような、敬虔なイスラム信者になった。
マスードは母からの影響を多く受けた。母は息子に、アフガニスタン人にとって学校教育よりも大切なこととして、馬に乗れること、銃を撃てること、人前で話すこと、モスクで適切な発言ができること、山の中を歩くこと、物の作り方や治し方を知ることなどをきわめるよう説いた。それらは祖国を守るために、やがて必要になるものばかりだった。
よくあるように、マスードもラジオなどを必ず分解する子供だった。13歳の頃、家の配線工事を自分にやらせてほしいと言い、研究しながら完成させた。
機転が利くため、絶好のタイミングで周囲を誘導することもあった。男の子たちでりんご盗りして農夫に見つかり、全員一斉に並んで逃げたが、マスードが「バラバラになって逃げるんだ」と声を上げたので、誰も捕まらないで済んだ。
いずれも、のちに山間でゲリラ活動するにあたって、有用な能力を持ち合わせていたといえる。
自身が子供でありながら、まわりの子供達にも目を配り、自宅のガレージに集めて勉強を見てやることもあった。"父よりも優しく、兄弟よりも親しい"と兵士たちに思われる、寛容な司令官になる基礎がうかがえる。




4. 若きムジャヒディンの司令官
マスードは司令官である。一般に、司令官、指揮官のなかには、前線から遠い安全な場所から命令を出すだけの人もいるそうだが、マスードは驚くほど最前線に出ていることがあるという。その姿を見れば、兵士たちの士気が上がるが、そればかりでなく、ときに緊張を緩めるためにユーモアを交えた言葉もかけていく。
分散して配置した20ほどの自軍のゲリラ部隊の動きを全て把握しており、それぞれに迅速に指示を出せる頭脳がある。作戦は幹部にすら事前に伝えない。司令官のこの頭脳がある限り、そうした方が遅滞も齟齬もなく済むだろう。
訓練を通じても、司令官の優れた采配を兵士たちは尊敬してやまないが、終わって宿舎に戻れば、もう彼は司令官ではなく、皆のルームメイトになる。食事の支度にも加わり、毛布が行き渡っているか確かめ、夜の歩哨もすすんで勤める。もちろん、皆はそれを固辞するのだが、マスードは必ずやる。しかも、一番きつい夜明け間際の時間帯をすすんでやってくれる。
あるとき、山間での長い戦いのあと、村まで降りてきた一隊は、村でなにかごちそうにありつけるだろうと期待していた。しかし、既に深夜で、村の人が差し出してくれたのは、パンと牛乳と、ざるに入った桑の実だけだった。パンと牛乳はマスードに、桑の実は兵士らにと言って。マスードは礼を言い、
「パンと牛乳は持って帰ってください。私達はみんな、桑の実を食べるから」
そして皆で車座になって桑の実を食べた。






兵士に対してだけでなく、マスードに魅かれて同行する海外のジャーナリストたちにも親しみをもって接している。日本の長倉洋海氏は現地語も堪能で、マスードと長く行動をともにしていた一人。あるとき、マスードは長倉氏に、
「豚肉ってどういう味がする?」
と聞いたそうだ。イスラム教徒は豚肉を食べてはならないのだが、マスードは好奇心とユーモアで聞いてきて、まわりを和ませていた。異なる文化を唾棄することのない公正さと素朴さがある。

兵士と過ごす時間の中に平和でゆるやかな時間もあれば、当然、紛争時のこと、砲弾の下、身を潜めている長い苦しみの時間もある。マイケル・バリー教授(※)のインタビューでは、こんな意外な場面が語られている。

——1994年から1995年の恐怖のカブールで、私はクリストフ・ド・ボンフィリやフランス人医師何人かとマスードと一緒に、彼のアジトにいたんだ。とても暗かった。電気は通じてなくて、ロケット弾が雨のように降っていた。市はタリバンに攻略されていて、食料や医薬品を市内に持ち込むためには彼らの前線を越えなければならなかった。
マスードはランプの明かりの下に大きな地図を広げて座り、いずれ彼が勝利を収める理由を、私達みんなに説明しようとしていた。我々はここ、敵はそこ、我々はこう動いて、こうして敵を捕らえ、ああして敵を打ち破る。友人よ、信じてくれ。我々が勝つということを。
私達は彼に言った。「ねえ、アーメル・サーブ(尊敬を込めた呼び名)、あなたが勝つか勝たないかは、私達がここにいる理由とは何の関係もないのです。仮にあなたが負けても、私達はあなたを支援するためにここに留まります」彼は言葉を失った。ただの一言も返せなかった——


共にいる人たちをどうにか安心させるべく、作戦を示して見せるマスードの真摯な行為。けれども実際、仲間達はマスードの捉え方とは次元の違う信頼を確固として抱いていたのである。仲間を不安にさせてはいけないと動揺していたのはマスード自身、それを超える信望が既に築かれていたことに驚き、言葉を失ったのだろう。かけがえのない仲間の思いがけない強さを、衝撃的に知ったから。

※マイケル・バリー教授 プリンストン大学教授で、当時、カブールで国際的な医療食料支援活動を行なっていた




作戦中は冷静沈着、オフでも穏やかで分け隔てなく好意的に付き合う司令官だが、嫌悪や怒りを顕すこともある。どういう場合なのか。

一行がある村に入ったとき、現地のゲストハウスに泊まることになったが、マスードや高官は部屋に案内され、他のムジャヒディンたちの部屋は行き渡らなかった。交渉していた高官と案内の老人とが口論になり、老人が殴られた。そこへマスードが来て老人の話を聞き、いきさつと、殴られたことを涙で訴えられた。
「この国の老人や子供達のために、私は自分の命を賭け、人々の命も危険に晒している。なのに、殴るだなんて。私の名においてやっていることなのか?」
マスードは高官を、老人がされたと同じように殴った。「こういうことは我慢がならない!」と。

もう一つのエピソードは、大切な一人息子アフマドが関わる。子供達に対して声を荒げたこともないマスードが、一度だけ厳しかったことがある。

会議にて、ある司令官が執務室から出てきたとき、「ねえ、お父さん、あの人はウズベク人?変な訛りがあるね」と。マスードは息子の耳をつかんで、
「彼は、私やお前と同じアフガン人だ。二度とそんな言い方をしてはならない!」
と叱った。
屈託ない歳頃の子供のこと、気づいたことをやや得意になって話したかもしれない。悪意はないはずだ。しかしそうした無意識下の区別が線引きを始めて、思わぬ壁を積んでしまう恐れがある。
また、マスードは、一つのアフガン、にこだわっていた。民族で分けると、それぞれに諸外国から圧力がかかり、やがて不調和が生まれる。世界には、大国に利用され、分断されてしまった民族問題がいくらでもあるのだから。






マスードは自分が神聖視されたり担がれたりすることを嫌う。秘書は持っても使用人は置かない。
着替えをしているとき、そばにいた人がマスードのために靴を揃えようとしたのを阻んだ。
マスードの肖像画が上手く描けたので、それを見て欲しいと来訪した人には、会いたがらなかった。
妹達が彼の写真を部屋に置いていたのにも困っていた。自分の死後に墓に写真は飾らないで欲しいと、周囲にたびたび話していたそうだ。もちろん宗教心がそうさせるのかもしれないが、特別視されるのが嫌なのだろう。

マスードの弟の友人が、家族のためにサウジアラビアに出稼ぎに行きたくて、マスードに許可を得たいと弟を介して尋ねた。聞いたマスードはその本人を呼び、
私のことを何だと思ってるんだ?
弟も友人も、こんな質問で返されたことに驚いていると、
「私は何者でもないんだよ、マスードは詩人だという人がいるが、誰か私の詩を読んだことがあるのか?私は詩人じゃない。作家でもないし医者でもない。技術者でもない。…何者でもないんだよ。私は単なる、自分の国を愛していて神を愛している人間だし、自分でもそう思っているよ」
誰かに対して、許可したり禁止したりする権限はそもそもないのだ、ということ。結局、友人はサウジには行かなかったそうだ。

マスードは身近な兵士たちを大切にし、敬ってもいる。戦闘では、残念だが多くの若い命が失われることもある。マスードは涙は流さない。けれども、亡くなった兵士の葬儀には全て参列するのだった。

もちろん、住民への心配りは、なによりも大切にした。安全か、食べ物はあるか、着るものはあるか。壊滅に至る前にカブールを撤退したのも、街を戦場にしてこれ以上荒廃させれば、そのあとに住民が生きられなくなってしまうからだった。
動物を人間の争いに巻き込むのも嫌った。
ある指揮官から、地雷撤去のために羊を放ってはどうかと提案があったが、
「動物を苦しませる必要がどこにある?地雷は人間が自分達で片付けるんだ。方法もあるし、させる人間もいるんだ」
また、戦争で人手が減り、川魚をとるのに効率がいいからと、手榴弾で一網打尽に採っていたのを見て、マスードは大変悲しんだそうだ。



マスードと一人息子アフマド 父との別れは12歳
ほかに5人の娘もいる







5. マスードという敵
マスードは敵の兵にも同じ視線を向ける。
パキスタン人タリバンの男が投獄されていたときのこと。マスードが来て、
「食事がよくなかったり、部下から虐待をうけたら、言ってくれ。君は囚人だが一人の人間だ
マスードはいつも笑顔で、赦しに満ちていた、と。同じくそこに捕らえられていた13歳の少年は、マスードによって解放された。「君はここにいるべきではない」と。少年兵を解放するときは、幾らかのお金も持たせてあげることもあった。

マスードが捕虜に手厚かったのは、ソ連でも有名だったくらいだ。それは部下たちにも徹底させている。
アフガン人を殺したソ連兵の捕虜を、アフガン兵が殴り始めた。すると、マスードが殴っていた兵士を押さえ、一発殴る。
「この男はお前と同じく、与えられた仕事をこなしただけなんだ。二度と捕虜に手を上げるな」

マスードには暗殺者が送り込まれ、たびたび、狙われる。暗殺者は時間をかけて同郷の友人を装い、顔見知りになり、マスードとの距離を縮めてから暗殺の機会を狙う。しかし、時を経て暗殺者はマスードに銃を手渡し、「私は暗殺者としてここへ来た」と告白。「いや、君は私の友人だよ」と、マスードは銃を彼に返す。
マスードにはロシア人の護衛がいる。ロシア人がカラシニコフを持ってマスードを護衛している。
マスードに尋ねると、彼は古くからの友人だよ、という。ロシア人は国に帰らず、マスードのそばを選んだ。

敵の兵士に対してだけではない。兵士を動かしている敵の将にも尊厳を与えた。
味方の36名もの指揮官を倒したヒズビ・イスラミの指揮官をようやく捕らえた時のこと。マスードの前に連れてこられた姿は、埃まみれ、裸足、破けた服、ターバンもなしだった。
「彼はグループの指揮官だ。彼に恥をかかせるな。身体を洗わせて服を着せてから戻ってこい」
「君達に彼を貶める権威はない。法廷が決めることだ」
とも。
こうした態度はヒズビ・イスラミの最高権力者ヘクマティアルに対しても守られた。ヘクマティアルは何度もマスードを裏切り、殺害しようとしたし、アフガンの町や住民に向けて砲弾を撃ち込むような人物であり、マスードの兄を殺したとも言われている、彼はまさしく敵である。それでも、眼前を潰走するのを追撃せず、逃亡の間、家を提供して保護し、国外に逃れるためのヘリコプターまで手配してやった。
「過去を理由に彼に敵意を抱く必要があるか」

マスードがカブールを制圧していた時期、敵対者や共産党員などの囚人で、死刑になった者は一人もいない。こういう場合、粛清が行われるのが世の常だ。
共産主義だろうと何だろうと、主義を理由に人を殺すことには反対だ
報復はしない。
部族社会の伝統を持つアフガニスタンにおいて、報復は正統的に認められる行為だ。マスードの考えは極めて異例なのである。








6. 戦術と生活
先にも書いたが、カブールをタリバンに明け渡して北部に撤退するのを決めたのはマスードだ。攻防を続ければ、数百以上の死傷兵が出る。民間人の犠牲も出る。犠牲を多くしてまで戦うのはやめる。
かつてソ連との戦いで、ソ連軍と休戦したとき、アメリカは不満を抱き、支援の手を引いた。アメリカは死ぬまで戦うことをアフガン兵に望んでいたからだ。しかし、アメリカが去ってもマスードは気にとめない。支援をあてにして他国に指図されるより、停戦によって立て直しの時間をかせぐことが重要だったから。
玉砕とか、最後の血の一滴とか、勇ましく囃し立てる司令官ではない。ともすれば命をかけたがる前線の兵士の手を押さえる司令官だ。住民、兵の命を損なわないために、とことん考え抜くのが彼の在り方だ。戦果より、リスクを出さないことをめざす。
その考えは敵の人間にも向けられる。マスードの作戦は、敵の殲滅をめざすものではない。相手がソ連軍でもタリバンでも、戦意を失わせるための作戦を主体にする。
アフガニスタンを統一する。戦う力だけでは成し遂げられない。敵に立ち向かう力と、もう一つ必要なのは、敵を赦す力だとマスードは考えている。
私達は、許して忘れるべきだ。許すだけじゃなくて、忘れるべきだ




マスードの心中にあるのは神を愛する心である。
事が立ち行かなくなった時、彼は一人、考え続け、神に祈る。庭を歩き回ったり、黒板にいろいろ書き出して整理したり、夜道を散歩しながら考えたり祈ったり。神にすがるばかりではない。たくさんの情報を集め、哲学や詩の世界に生きる知恵を求めるため、深夜に読書をする。そのために、日々の睡眠時間は夜が明けてからの2時間程度。戦場へのマスードの荷物にはいつも6箱の本が連れ添った。
戦いの合間に休息の時間が持てるときは、近隣の子供達と遊んだり、川で泳いだり。モスクに入るときはそっと入り、後ろの方に静かに座る。外で祈りの時間になるときは、近くにいる誰とでも、通りがかりの子供や農夫とでも一緒に祈る。

ある時の寒い夜、タリバンが迫り、指揮官たちの会議は重い空気の中だった。煮詰まって気分が沈んでいく時、マスードがふと、しりとりをしようと言った。アフガンのしりとりは、古来からの詩を題材にする高尚なしりとりである。皆も従い、熱戦となり、寒い重苦しい夜を、しばし素敵な時間を過ごす事ができた。どんな窮地にあっても凹まないために、ユーモアを引き出す機転がある。
アフガニスタンの星降る夜空の下、争いをしばし忘れて詩に興じる戦士たち。人の営みのささやかさ。明ければ星が姿を隠すように、マスードの命もまもなく終わろうとしていた。






7. 世界への警告
マスードによる1998年の米国宛書簡においては、ソ連の侵攻とそれに対する国際組織や諸外国の駆け引き、その後国際社会に放置されたアフガニスタンの現状(パキスタンの介入とタリバンによる国内の荒廃)、国際社会と民主主義国への要望などが訴えられている。
「…国際社会と民主主義は、貴重な時間をむだにするのではなく、自由と平和と安定と幸福への障害と断固戦うアフガン人を何らかの方法で支援するという、重要な役割を果たすべきです」
テロリズムはアフガニスタン国内の問題ではなくなりつつあった。そのことを世界は気づかない。渦中のアフガニスタンで戦うマスードには、今ここでテロリズムを叩かなくては、世界にそれが拡大する恐れがあると痛感せられるのである。

なぜ米国はアフガニスタンを見捨てたのか、なぜヨーロッパ諸国はアフガニスタンを見捨てたのか、なぜ我々をライバル国の手に委ねたのか。戦争が本当に終わるまで我々側に付くべきだと、なぜ理解できないのか?

2001年、パリの欧州議会に出席したマスードはなおも訴え続けた。
どんな内戦だろうと起こした国は非難される。その非難にももちろんあうが、マスードは受け入れない。
「その通り、私は自国のために戦っています。けれどもこれは私だけの戦争ではないんです。これは世界の戦争です!注意してください。彼らは危ない人間の集まりです」

タリバンの脅威、それを支えつつ世界を巻き込もうとするアルカイダ、その危険な進行を放置し続ける国際社会の無能。

マスードは暗殺された。
二日後、世界は9.11の惨劇を見る。
この実害を経てようやく、世界は腰を上げ、たちまちアフガニスタンの内戦は区切りがついた。
タリバンはマスードがいなくなり、しめた、と思っただろう。けれども腹心のアルカイダのテロ凶行で機会は失われた。
今を生きる私達はこれをどう受けとめるべきだろう。

マスードに関わるこの事態をマイケル・バリー教授は、講演でこう述べている。

凄まじい暴力にまみれた20世紀は、全体主義による三大急襲、つまり人類による前例のない3つの腐敗とともに、ようやく終わりを告げた。ナチスは、右寄りの政治が腐敗した結果だった。レーニン主義あるいは旧ソ連は、左寄りの政治が腐敗した結果だった。タリバンとアルカイダは、宗教を持ち込んだ政治が腐敗した結果だった。
また、あらゆる記録を考察しても、これら3つの腐敗すべてが遺したものは、単に、大量殺人と人類の理性に泥を塗ったことだけである。マスードは、最初の腐敗がようやく地上から姿を消した直後に生まれ、残りの2つを相手に見事な戦いを繰り広げた。ソ連という2番目の腐敗には相当な打撃を与え、その崩壊に立ち会った。アルカイダという3番目の腐敗も相当打ちのめしたが、その崩壊を目にすることなくこの世を去った。しかしマスードの犠牲は、カブールでのアルカイダ敗北を早めた。そして、憎しみで成り立っている教義の対極であり、寛大な宗教と慈悲から成る深い信仰に基づくマスードのメッセージは、世界中がこの3番目の腐敗を監視するという現在の状況を産むのに一役買った。この2つの勝利を収めたことに対し、今も生きている我々は、マスードへの恩を一生忘れてはならない


その後、21世紀は何を描き始めたか?
ISは掃討されたが、別の問題もあとに残している。タリバンも存在している。世界に蔓延しつつある反グローバリズムや右傾化。我々はもう一度、前世紀のふりだしにもどるのか。
「赦して忘れる」ことのできない人々がやがて粛清を叫び、自らが粛清される。

この状況の唯中にあって、
マスードを覚えていたい。









少年が灯りを携えてくるのを見た
どこから持ってきたのかと尋ねると
彼は灯りを消して、こう言った
「どこへ行ったか、答えられます?」


ハスラン




あとがき
マスードとよく比較されるゲバラ。向かう先と時代は少し違いましたが、共通点もあります。チェス好き、読書好き、睡眠時間が少ない、など。
戦場に本箱を持ち込むという点では、ユリアヌスもそうでした。ユリアヌスも明け方に少し眠る程度でしたし。詩や哲学を愛したというのも共通しています。
「私は何者でもない」という発言には、ディキンソンの詩を思い出しました。
国土を破壊し尽くすよりは戦いを放棄するというのは、レオポルト3世と近いです。
ディキンソンを別として、皆、戦争に直面して生きた方達。彼らの苦しみをこそ、理解しないといけないのでしょう。
それでも、マスードとゲバラがチェス対戦、なんていうのがあったら面白いな、とも…


















エミリ・ディキンソン 家の中から見つめる世界

2018-10-07 08:27:17 | 人物

I'm Nobody. Who are you?
名もなき普遍人として死ぬ、
「そのとき」を模索して生きる喜びと美
アメリカの女性詩人エミリ・ディキンソン




Emily Dickinson
1830〜1986



わたしがもう生きていなかったら
駒鳥たちがやってきた時—
やってよね、赤いネクタイの子に、
形見のパン屑を。

深い眠りにおちいって、
わたしがありがとうをいえなくっても、
わかるわね、いおうとしているんだと
御影石の唇で!



岩波文庫 「対訳ディキンソン詩集」亀井俊介編より
以下、引用文は同書から







日常のなかで、ふと、なにかを覗き込んだ瞬間や、振り返った瞬間、あるいはふいに聴こえた音や、抜けていった空気に触れた一瞬に、死の気配に頰をなでられる感覚を得ることがある。「 人生の真っ只中にいても、死の手の中にいる」と、ラヴェル(前記事)は言ったが、まさにそれだ。

死を考えてみること。
哲学、宗教、他にも様々なアプローチはあると思うが、私の場合、いずれも焦点が合わなかった。ひとえに理解力とか性質とかの点で私の感覚には馴染まなかったのだろう。
他方、詩、音楽、美術を通すと掴めるものがある。詩には死の容を直接的につかまえようとするものがあり、絵画も画面の奥にそれを追うものあり、音楽にもその気配をイメージさせるものがある。

しかし、死の容をとらえようとする試行錯誤こそは、よりよく生きようとする方策にほかならない。死を探ることで、背面にはっきりと生を映すのである。
エミリ・ディキンソンの詩には、皮膚感覚の死の体験を、ユーモアに包んでシミュレーションしたものがいくつかある。悲壮感も大げさな耽美もない。自然の一場面、日常の延長上の一点だ。
死の輪郭を、生きた指がなぞって描く戯れの詩。


ディキンソンの手による押し花帳


アメリカの女流詩人エミリ・ディキンソンはマサチューセッツ州アマーストの上流家庭に生まれ育ち、五十数年の生涯の後半ほとんどを家から出ることなく過ごした。その作品は生前には数点しか世に出ることはなく、全く無名の人として人生を終えた。ところが死後に、クローゼットに眠る数千の詩作品が妹によって発見され、編集出版された。作品は忽ち広く読まれるようになった。


1830年生まれ、1886年没。アメリカの産業革命、南北戦争の時代に生きた。アメリカ社会の変革期にあたる。社会は純粋なピューリタニズムから物質主義へと次第に移行する。その流れに乗れなかったニューイングランドは文化的に後退した。
祖父はアマーストの名士であり、アマースト大学創立に関わった。父は弁護士、議員。2歳上の兄も弁護士。こうした家庭環境が幸いし、エミリは当時の女性としてはかなり高度な教育を受けていた。
天性の明るさと機知で、彼女は学校の人気者だった。しかし、あるきっかけからホームシックに陥る。17歳で寄宿制の女学校(現在のマウントホリョーク・アマースト大学)を退学し、帰宅後は家事手伝いとして、残りのすべての人生を過ごす。のちの作品にみる彼女の高い表現能力には、しっかりと培われた、こうした教育の土台があった。

聡明で快活なディキンソンが学校を中退せざるをえなかったのは、信仰告白ができなかったことに起因したと考えられている。アメリカの社会変化に対抗する反動的な流れ(信仰復興運動)として、今一度、信仰心を確かめる目的で、すべての人々に信仰告白が要求されていた。しかし、彼女は自分の心をまっすぐに見つめれば見つめるほど、表面的な信仰告白から遠のく。既存の共同社会を守る目的のために心を偽ることはできなかった。その頑なな姿勢が、周囲との壁となって、彼女を閉じこめた。彼女は自分から閉じこもることを選んだ。ただ、そうなっても家の箱の中での彼女は、本来の彼女のままだった。教会の集まりにはだんだん行かなくなったが、神を信仰しないわけではなかった。心の中の神を尊び信仰していたが、その信仰心は、神と自分の、一対一の結びつきに支えられているのが理想なのであって、周囲の社会で当たり前になっているような、教会や牧師を仲介した神との繋がりとか、信者間のコミュニティの連帯による安穏とかは無用だったのだろう。
疑問が起こる。ただひたすら家の中に暮らすだけで、詩人たる者の備えるべき高揚感は維持し得るものなのか、と。しかし、彼女の詩は、家の中だけの生活が詩人として決して退屈なものではないと明かしてくれる。

ディキンソンは生涯の中で一度ならず、淡い恋に目覚めることもあった。いずれも父や兄の客人だった。そしていずれも最初から叶わぬものだった。しかしその陶酔も、いずれ遠からずその迷いから冷めるのも、彼女は客観的に受けとめた上で、詩人の滋養にした。自分の中にしっかりとした柱を持っていて崩れない。マストを持つ舟のごとく、ときに帆を張り、波間に遊んで、ときに帆を下げ、じっと耳をすましている。踊らされずに踊る自在さ。家の中に在りながら、心と身体全体で受けとる身の回りの世界と、その陰に潜む死の世界を、恐れることなく、強靭な好奇心で描き取る。その気丈な感受性と、チラ見せしてくれるユーモアが、ディキンソンの魅力だ。
庭、室内、気配、草花、虫、光、風、箒、想念の中の海や草原。
そして、「——」。
ディキンソンは詩のなかで——(ダッシュ)を多用する。一息つく、余韻、残響を聴く、時の経過。呼吸、声、聴覚。

一例として、

Grand go the Years—— in the Crescent——
above them—— World scoop their Arcs——
And Firmaments—— row——
Diadems—— drop—— and Doges—— surrender——
Soundless as dots—— on a Disc of Snow——


その上を——歳月は大きく流れる——三日月を描いて——世界は旋回し弧をえぐる——
そして天空は——漕ぎ進む——
王冠は——落ち——総督たちは——屈服する——
しみのように音もなく——雪の地平に——

「雪花石膏の部屋で安らかに」’Safe in their Alabaster Chambers——'より一部


この例では極端に多く使われているが、タイトル(冒頭書き出し)からわかるように、墓の中の死者を描いたもので、長い長い年月のわずかな片鱗、実世界では重い出来事すら一片の薄い事象に削られて、全てがスローモーションで音を失い消えていく様子を、ダッシュが効果的に表現している。歳月を微分するかのように。



残されたたくさんの詩と手紙によって、ディキンソンの生涯がどのようであったかを探ることはできる。ほとんど外には出なかったため、近隣の人々でさえ、庭に立つ白いドレスの女性を見ることはごく稀にしかなかった。父の客人が家を訪れても、彼女は自分の部屋にこもって、顔を出さない。それでも現代のいわゆるひきこもりと違うのは、客人がいなければ家の中では自由に動き回り、溌剌と家事をこなした。父と、そして独身の妹も同居。近隣に兄が別所帯を持って住んでいた。アメリカ大陸の遠くでは南北戦争中で、新聞などを見れば不安も感じたが、なにしろ広い国の中の遠い話だった。
比較的良い時代に生き、家族に守られて、決して不幸ではなかったと思う。それゆえに、彼女の思うところの死は、生きることの延長上にごく自然に迎えるものだったのではないか。
風になびく草や、ロウソクの火などをながめては時折、死を思ってみる。ときにユーモラスに。

I'm nobody—私はだれでもない

名のもとに生きて、などというタイトルでこのブログを書いているが、名などは未練にすぎないとディキンソンに笑われそうだ。確かに、人は名もなく死に対面するだろう。死を感じる空気が頬をなでて吹きすぎる一瞬も、人は名を失っているのだろう。

わたしは誰でもない人! あなたは誰?


エミリ・ディキンソンではないかと言われている写真(左)


ディキンソンの作品を数点抜粋、以下。


「わたしは葬式を感じた、頭の中に」1861

わたしは葬式を感じた、頭の中に、
そして会葬者があちこちと
踏み歩き—踏み歩き——とうとう
感覚が破れていくように思えた——

そしてみんなが席につくと、
お祈りが、太鼓のように——
響き——響き続けて——とうとう
わたしの精神は麻痺していくような気がした——

それから彼らが棺を持ち上げ
またもや、あの「鉛の靴」をはいて
わたしの魂をきしみながら横切るのが聞こえた、
そして天空が——鳴りはじめた、

まるで空全体が一つの鐘になり、
この世の存在が、一つの耳になったかのように、
そしてわたしと、沈黙は、よそ者の種族となって
ここで、孤立して、打ちくだかれた——

それから理性の板が、割れてしまい、
わたしは落ちた、下へ、下へと——
そして落ちるごとに、別の世界にぶつかり、
そして——それから——知ることをやめた——




「わたしは「美」のために死んだ——」1862

わたしは「美」のために死んだ——が
墓に落ちつく間もなく
「真」のために死んだ人が、横たえられた
隣の部屋に——

彼はそっと疑問をもらした、「どうして失敗したんだろう?」
「「美」のためよ」とわたしが答えた——
「いや、ぼくは——「真」のため——けれどこの二つは一つ——
「兄弟だよ、ぼくたちは」と彼はいった——

それで、ある晩会った、親類として——
わたしたちは部屋ごしに話し合った——
やがて苔が唇にせまり——
おおいつくすまで——わたしたちの名を——





「わたしは「死」のためち止まれなかったので——」1863

わたしは死のために止まれなかったので——
「死」がやさしくわたしのために止まってくれた——
馬車に乗っているのはただわたしたち——
それと「不滅の生」だけだった。

わたしたちはゆっくり進んだ——彼は急ぐことを知らないし
わたしはもう放棄していた
この世の仕事も余暇もまた、
彼の親切にこたえるために——

わたしたちは学校を過ぎた、子供たちが
休み時間で遊んでいた——輪になって——
目を見張っている穀物の畠を過ぎた——
沈んでゆく太陽を過ぎた——

いやむしろ——太陽がわたしたちを過ぎた——

露が降りて震えと冷えを引き寄せた——
わたしのガウンは、くもの糸織り——
わたしのショールは——薄絹にすぎぬので——

わたしたちは止まった
地面が盛り上がったような家の前に——
屋根はほとんど見えない——
蛇腹は——土の中——

それから——何世紀もたつ——でもしかし
あの日よりも短く感じる
馬は「永遠」に向かっているのだと
最初にわたしが思ったあの一日よりも——






「草はなすべきことがあんまりない」1862

草はなすべきことがあんまりない——
単純な緑のひろがり——
ただ蝶の卵を孵し
蜜蜂をもてなすだけ——

そしてそよ風が運んでくる
美しい調べに一日じゅう揺れ——
日光をひざに抱きかかえ
みんなにお辞儀をし——

そして一晩じゅう、真珠のような、露に糸を通し——
美しく着飾るものだから
公爵夫人も平凡すぎる
その装いの前では——

そして死ぬ時も——神聖な
匂いにつつまれて去る——

眠りについた、野生の香料——
あるいは枯れていく、甘松のように——

それから、堂々たる納屋に住み——
毎日を夢のうちに過ごすだけ、
草はなすべきことがあんまりない
わたしは乾草になれたらいいのに——






Emily Dickinson Museum HP