名のもとに生きて

人の一生はだれもが等しく一回かぎり。
先人の気高い精神に敬意を表して、その生涯を追う

20世紀前半の英王室(4)ジョージ6世

2015-12-01 22:41:25 | 人物
「押し付けられた」王冠を被りつつ
第二次大戦中の国民を支え続けた
寡黙なイギリス国王 ジョージ6世




Albert Frederick Arthur George
King George Ⅵ
1895~1952 /在位1936~1952


誕生
1895年12月14日、ヴィクトリア女王の曾孫として生まれる。王位継承権は、祖父、父、兄に次いで第4位。奇しくもその誕生日は、ヴィクトリア女王に先立って亡くなった最愛の夫のアルバート王配の命日であった。このことをあまり歓迎しなかった女王にエドワード王太子が気を遣い、息子ジョージに生まれた子の名をアルバートにしてはどうかと勧め、そのように名付けられた。女王はそれに気を良くした。

ヴィクトリア女王、エドワード、アルバート
女王が抱いているのはメアリー


エドワード、アルバート

アルバートはひとつ年上の兄エドワードとともに幼少年期を過ごす。父母の手をかけられずに育った2人は、神経質で、怯えてよく泣く子供だった。エドワードはそれでもやや外向的な明るい面もあった。アルバートは病弱で、X脚を治すために夜は矯正器具を着けねばならず、そのたび痛がって泣いた。左利きであったが、5歳の時に強制的に直させられた。吃音のために、人前で話すことを怖がった。
将来ゆくゆくは王になる兄の、陰のような目立たない存在でしかなかった。

メアリー、エドワード、アルバート



アルバート、メアリー、ヘンリー、エドワード



ジョージ5世と長男~三男


海軍、空軍へ
慣習として王家の子息は海軍でキャリアを積む。
13歳になったアルバートは、兄とともに王立オズボーン海軍兵学校へ。成績が最下等にもかかわらず、そのまま王立ダートマス海軍大学へ進む。
第一次世界大戦が始まると、すでに王太子になっていた兄のエドワードはその身分ゆえに軍を除隊し、アルバートは海軍士官として軍艦に乗艦。ユトランド沖海戦にて軍功をおさめた。
1917年に十二指腸潰瘍手術のため海軍を離れ、そのまま終戦となったが、翌年海軍航空隊に復帰し、空軍司令部参謀を務めた。
さらに翌年再び軍を離れ、ケンブリッジ大学トリニティカレッジにて1年間学び、その後は王族としての公務に就いた。





ヘンリー、エドワード、アルバート、ルイス・マウントバッテン

空軍時代

左 アルバート、右 ヘンリー
大学時代



結婚
アルバートは6人の兄弟姉妹のなかで、妹メアリーに次いで2番目に、29歳で結婚した。
慣習に従えば、王室の子息は外国の王女と結婚するのが常であったが、アルバートは自由意志で結婚したいと考えていた。
1920年、イギリスの貴族の娘エリザベス・ボーズ=ライアンに求婚したが断られ、翌年再び求婚したが再び断られた。「何も考えられない、話したくない、何をすべきなのかわからない」と、アルバートの落ち込みようはひどかった。アルバートがこれほど惹きつけられるエリザベスとはどんな女性なのか、母王妃メアリーがエリザベスを訪ねたところ、アルバートにはこういう女性が是非とも必要と納得し、メアリーからも説得したがそれも断られた。1922年の妹メアリーの結婚式後にもアルバートは求婚したがやはり断られた。しかし1923年になって受け容れられ、この年ようやく結婚した。



エリザベス 少女時代

エリザベスと兄
エリザベスは10人兄弟の9番目
幼い頃から頭脳明晰、聡明
しかし出自には謎めいた部分がある


1926年に長女エリザベス、1930年に次女マーガレットが生まれる。娘エリザベスも、父アルバートも、王位は当然エドワードが継ぎ、そのあともエドワードの子孫が継ぐものと考え、穏やかな将来を描いていたことだろう。アルバート夫妻と娘達は大変睦まじい家庭にあり、アルバートは娘達をとても可愛がっていたようである。

長女エリザベスを抱く


押し付けられた王冠

ジョージ5世葬儀
4人の息子たちが葬列の先頭に


1936年1月、父であるジョージ5世が亡くなり、王位は兄エドワードが継いだ。しかし、結婚問題により同年12月に戴冠式も迎えぬまま退位。自動的にアルバートが即位することになった。
まさか即位することになるとは考えたこともなかったアルバートは困惑した。ルイス・マウントバッテンに、自分は一介の海軍士官にすぎない、国事に関する文書などこれまで見たこともないと苦言を吐露した。母のもとを訪れて泣き崩れたと日記に書いている。母はエドワードの騒動を許さず、退位に働きかけざるを得なかったものの、病弱なアルバートを即位させる破目にもなり、エドワードを二重に許せなかったようだ。

常にエドワードの後ろにいるアルバート




この譲位に際して、宮廷内では、内向的で国王として見劣りしそうなアルバートやヘンリーよりも、四男のジョージの方がエドワードに似て華やかな魅力もあり、この時点で既に男子の世嗣ぎ(エドワード王子)も設けていたこともあって、新王にふさわしいと思われていた。しかし、最晩年にジョージ5世は自身の死後はアルバートの、そののちはエリザベスの即位を望んでいた。
1937年5月、元々エドワード8世の戴冠式が予定されていた日にアルバートがジョージ6世として戴冠した。







アルバートの即位の頃、世界は第二次大戦前夜にあり、各国は互いに打診、根回しに必死であった。
新国王と王妃はカナダ、アメリカを訪問。
カナダの地を初めて踏んだイギリス国王として大変歓迎された。アメリカでは、ルーズベルト大統領と信頼関係を築き、私邸にも招かれ、夫人たちも含め友情も結ばれた。両国の訪問は大戦への重要な足掛かりとなった。アルバートの誠実な姿勢と、王妃の穏やかで魅力ある応対が功を奏したためであった。特に、人の心を自然に和らげる王妃については、敵国のヒトラーが「ヨーロッパで一番危険な女性」と評したほどであった。誰ももう、「見劣りのする」国王夫妻とは感じなくなっていった。






戦時下
1939年、イギリス及びその連邦はナチスドイツに宣戦布告した。ロンドンはたちまち激しい空爆に曝される。国王は、危険と困難を国民と分かち合うため、バッキンガム宮殿で執務した。実際に中庭に爆弾が落ちたことがあった。それでも妻子を疎開させなかった。また、国民と同じく配給によって暮らした。
空爆を受けた場所や軍需工場への慰問のほか、外国の部隊へも慰問に出かけた。王妃もまた、ロンドンの最貧地区を頻繁に巡ったが、これがトラブルを生んだ。王妃が高価なファッションで貧民街を歩くことが反感を抱かせ、王妃に石やゴミを投げた。「国民が私に会いに来るときは一番いい服を着てくるのだから、私も国民に会いに行くときは同じようにしているだけだ」と言って押し通したようだ。これでは国民には納得しがたいだろう。平時ならともかく、ときは戦時下である。簡易な軍服を着る、或いは赤十字を担うつもりで看護服を着る、などが妥当と思うのだが。ただ、温和で素朴、決して華美な人物ではないため、ウォリス・シンプソンを「あの女」呼ばわりしたことには鼻白むものの終生スキャンダルもなく、王家の中では人気があったらしい。

ロンドンの最貧民街イーストエンド

疎開する子供達




戦時中、アルバートは首相チャーチルと毎週水曜の昼食は4時間を費やして共に過ごし、緊密な関係を築き、国民を支える両輪となった。
この戦争中に、弟のケント公ジョージが戦死している。このことも、王族ですら国民と共に戦争に向き合い、分かち合っていることを示したこととなった。

1945年、ナチスドイツ降伏によりイギリスは戦勝国となったものの、戦災による損害は非常に大きく、かつて世界に誇った覇権は崩れ去り、世界は米ソに牛耳られることになった。しかし、国力がこれほど失われても立憲君主制は失われなかった。
アルバートはエドワードが退位するとき、エドワードに宛てた書簡で、「イギリスの王座が揺らいでいる。自分はそれを元通りに強固なものにする」と表明していた。固く強い意志は、当初は兄への遺憾を示すものであったのかもしれないが。
イギリスの艦船は満身創痍だったが、辛くも操舵室も艦長も機能を保っていたのだ。
アルバートは戦後の建て直しをする国民を再び支えようとしたのだが、彼の病弱な体はもうそれを続けるのに耐えられなくなっていた。






病と死
生来、病弱な上にヘビースモーカーでもあったため肺がんと動脈硬化に。公務に耐えられず、1947年に結婚した娘で王位継承者のエリザベスとその夫フィリップに公務を代わってもらうことがほとんどだった。1948年にはチャールズ、1950年にはアンが生まれ、エリザベスの負担も相当であっただろう。弟のグロスター公ヘンリーも、兄王に代わって公務にあたった。

1952年、若干体力を回復したアルバートは、家族が制止しても構わず、王の代理としてケニア経由でオーストラリアを訪問するエリザベスとフィリップをヒースロー空港へ見送りに出かけた。これが、国王と次王の、父と娘の、最後の別れになった。父は6日後、息を引きとった。睡眠中の冠動脈血栓症による。エリザベスは即位のために急遽帰国した。



40歳での予期せぬ即位から16年。
父王ジョージ5世が即位後間もなく第一次世界大戦に直面し、国王として奮闘していたとき、アルバートは18歳で海軍士官として海戦に直面し奮闘していた。そして次の大戦では、国王ジョージ6世として世界戦争に向き合う。
気弱で、いつも怯えて泣いてばかりだった王子アルバートに、エドワードを見限った父ジョージ5世は王位継承を望んでいた。自分が経験した大戦以上に悲惨な大戦が次代に到来することまで、見越していただろうか。自らも次男であり、即位が青天の霹靂だったジョージ5世は、アルバートの担うかもしれない運命を誰よりも見抜いていたかもしれない。もちろんアルバート本人よりも。
そしてアルバートは即位のとき、父の王名を継ぐジョージ6世としたのは、堅固な王制に立て直すべく、父に倣うという意志と決意によったものだった。泣きながら仕方なく王になったにもかかわらず、知らずその胸に芽生えたモラル。父が蒔いたものだったか。
ジョージ5世と6世は、ともに大戦からイギリスを守り、王制を守った、強き王である。


葬儀前、聖マリーマグダレーナ教会に安置された柩

最晩年はジョージ5世と面差しが似ている




弟妹の紹介

ハーウッド伯爵夫人メアリー
1897~1965

長兄エドワードと最も親しく、国外追放された兄に会いに行っていた。王室の式典にエドワードやウォリスが招かれないことへの抗議として、自身も出席を拒否した。
ハーウッド伯爵ヘンリーとの間に男子二人を生んでいる。





グロスター公ヘンリー
1900~1974

アルバート以上に病弱だったヘンリーは、海軍学校へ進まず、イートンカレッジに進学した。その後も他の兄弟たちのように海軍には従軍せず、陸軍に入隊した。兄や弟に見劣りする自分のルックスにコンプレックスがあったというが、結局最も長身になっている。
アルバート同様目立たない存在であったが、ベリル・マークハムという女性飛行士との恋愛問題やアルコール中毒により王室にスキャンダルをもたらした。
結婚後は好印象のアリス夫人に助けられるところが大きかったようだ。男子二人が生まれたが、長男は飛行機事故で父母に先立ち若くして亡くなった。







イートンジャケット姿
ヘンリーは兵学校に進まずイートンに進学したので兄弟たちのように兵学校姿の写真はない






大西洋横断した初の女性飛行士ベリル・マークハム 1902~1986

妻アリス、長男ウィリアム、次男リチャード



ケント公ジョージ
1902~1942


兄ヘンリーとともに家庭教師のもとで学び、13歳で海軍学校へ進んだ。その後、海軍に入隊、のちに空軍へ転籍。
途中、体調不良により除隊し、公務を行う。
明るく社交的な性格だが、兄エドワードとともに遊びに耽り、数多くの愛人を持ち、麻薬にも手を出していたらしい。しかしその後、ギリシャ王族でロシア皇室の血も引くマリアと結婚し、男子、女子、男子を得ている。
第二次大戦においては空軍で活躍。しかし1942年8月、任務中、自分の操縦する飛行機が遭難し、ジョージは39歳で戦死した。ケント公爵家は当時まだ10代だった長男エドワードが継いだ。














妻マリア、長男エドワード、長女アレクサンドラ、次男マイケル


夭逝したジョン王子(1905~1919)については別記事をご覧下さい

ジョン王子


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