名のもとに生きて

人の一生はだれもが等しく一回かぎり。
先人の気高い精神に敬意を表して、その生涯を追う

20世紀前半の英王室(1)ジョージ5世

2015-10-28 11:16:42 | 人物
第一次大戦と周辺の大国の崩壊に直面
君主制を現代に繋いだ
英国王ジョージ5世



George Frederick Ernest Albert
1865~1936 (在位1910~1936)


20世紀前半の英王室
1901年1月、63年7ヶ月に及ぶヴィクトリア(在位1837~1901)の治世は新世紀を迎えるとともに消えた。1937年に即位したヴィクトリアは、ヨーロッパ諸国の王室の婚姻をほぼ自らアレンジし、英王室との関係をバランスよく形成した。
一方で、不幸にも血友病という禍を国外の王室にもたらした(参考記事『王室の血友病 全体像』)。
その20世紀、ヴィクトリア亡き後残されたヨーロッパ大陸の王室の子孫たちは民衆の力に押されて権威を剥奪される憂き目にあった。多くは君主制から共和制へ変転した。その嵐を乗り越えた英王室は、現在も存続する。

ヴィクトリア女王崩御から現女王エリザベス2世即位までのおよそ50年間は4人の国王が治めた。

在位期間
1901~1910 エドワード7世
1910~1936 ジョージ5世
1936~1936 エドワード8世
1936~1952 ジョージ6世

この4人の国王の生涯を追う。ただし時代順でなく、ジョージ5世から始めたい。

国王4世代
ヴィクトリア、エドワード7世、ジョージ5世、エドワード8世


国王4世代
左から ジョージ5世、エドワード8世、ジョージ6世、エドワード7世


幼時~海軍時代



1865年、ジョージは生まれる。
父は当時皇太子のエドワード7世、母はアレクサンドラ・オブ・デンマーク。第2子、次男として生まれた。
出生当時、ジョージは王位継承権第3位。1位は父、2位は兄アルバート・ヴィクター・クラレンス公、3位にヨーク公ジョージ。兄弟姉妹は、

アルバート・ヴィクター 1864~1892
ジョージ 5世 1865~1936
ファイフ公爵夫人ルイーズ 1867~1931
ヴィクトリア・アレクサンドラ 1868~1935
ノルウェー王妃モード 1869~1938
アレクサンダー・ジョン 1871夭折





兄アルバートとともに家庭教師につき学業を始めたが、出来は芳しくなかった。12歳から父の勧めで海軍兵学校へ。航海で世界各地を巡り、1881年の訪日の折には横浜で有名な彫師に、腕に龍の刺青を入れさせた。
帰国後、兄はケンブリッジ大学トリニティカレッジへ進学、ジョージはそのまま海軍に入隊した。
海軍には叔父エディンバラ公アルフレートがいた。ジョージはエディンバラ公の長女マリアと相思相愛となり結婚を望んだ。両者の父同志は兄弟でもあり、結婚に賛成したが、ふたりの母が許さなかった。エディンバラ公は亡き父アルバート(ヴィクトリア女王の夫)からザクセン=コーブルク=ゴーダ家を継いだため、ドイツに籍を持つに至っていた。ドイツ、オーストリアに敗戦したデンマーク出身の王太子妃アレクサンドラはドイツを嫌っていた。また、マリーの母マリア・アレクサンドロヴナはロシア皇帝アレクサンドル2世の娘であり、莫大な支度金とともに鳴り物入りで嫁いだものの、英王室を見下し、『皇女』の称号を使い続けることに固執した。そうした態度が王室内で更に確執を生んだ。そのためマリアは英王室に娘を嫁がせることは認めなかった。ジョージとマリーの結婚は立ち消えとなった。マリーはのちにルーマニア王フェルディナント1世妃となっている。
兄アルバート・ヴィクターと

マリー・オブ・エディンバラ
夫フェルディナント王を心底嫌い、子の多くは愛人との間に産まれたと言われているが、王妃としては奮闘して国に尽くした


若い頃のジョージ



ヨーク公時代
1891年、兄アルバートが急死した。
兄はインフルエンザから肺炎を悪化させ亡くなった。ジョージはすぐに海軍を退役し、英国に帰った。兄は死の数週間前に、ヴィクトリア女王の勧めるヴィクトリア・メアリーと婚約したばかりであった。

アルバート・ヴィクター



ヴィクトリア・メアリーはドイツ出身のフランツ・フォン・テックとヴィクトリア女王の従姉妹メアリー・アデレード・オブ・ケンブリッジの娘である。母メアリー・アデレードは子供の頃から大食で大変太っており、Fat Maryの異名を持った。30歳でもまだ独身であったため、ヴィクトリア女王に相手を探してもらい、親の貴賎結婚で王位継承権を持たないテック公と結婚した。3男1女を得たが、収入の少ない生活でありながら夫妻は派手好きで浪費癖があり、借金取りから逃げて各国を転々としていた。1885年の帰国後は女王の好意でケンジントン宮殿の一角に住まわせてもらっていた。その娘に白羽の矢が立ったのは、ヴィクトリア・メアリーの強靭な性格を、女王が次代の英王室に必要と認めたからである。

アルバート・ヴィクターの婚約者 後のジョージ5世王妃ヴィクトリア・メアリー

ヴィクトリア・メアリーの家族
後方の母メアリー・アデレードの隣はアレグザンダー・オブ・テック(参考記事『王室の血友病 全体像』)


国内でヴィクトリア・メアリーに同情が集まったことと、彼女を英王室に迎えることを待望する女王による強い推しもあって、ジョージは兄の婚約者を受け継ぐことを決め、メアリーもそれを受け、両者は1893年に結婚した。
海軍を退役し、時間を持て余したジョージは、1901年までのヨーク公としての時期をサンドリンガムハウス宮殿で、切手収集や狩猟をして過ごした。5男1女を得た。

エドワード8世 1894~1972
ジョージ6世 1895~1952
メアリー(ヘンリー・ラッセルズ伯)
1897~1965
ヘンリー グロスター公 1900~1974
ジョージ ケント公 1902~1942
ジョン 1905~1919

最も後代まで生きたのはグロスター公、最も長命だったのはエドワード8世だった。しかし、早逝したジョンはともかくとしてエドワードは子孫を残していない。



左から メアリー、アルバート(ジョージ6世)、ヘンリー、デイヴィッド(エドワード8世)


四男ジョージが加わる
ジョージは1902年、ヴィクトリア女王が世を去ってから生まれている


五男ジョンが加わる

兄弟揃いの写真
デイヴィッドとジョンは11歳差



国王ジョージ5世(中央)と成人した子息子女たち
4王子 左から デイヴィッド、ヘンリー、アルバート、ジョージ
ジョンは1919年に13歳で他界
自閉症、癲癇の持病があり、家族と離れての療養先で亡くなった



王太子時代
1901年に父がエドワード7世として即位して、ジョージは王太子として公務する。エドワード7世は自分の王太子時代、母女王に信頼がなく、政務から遠ざけられていた。国事に関してわざと自分に知らされないことも多く、政府高官が気遣って裏で情報を流してくれることもあった。
そのこともあって、エドワード7世は王太子のジョージには国事に積極的に参加させた。ジョージは王太子妃メアリーを伴ってオーストリア、カナダ、ニュージーランド、南アフリカなどを歴訪した。エドワード7世に信頼されているメアリーも国事に協力、助言した。その一方で、家庭の育児は他人に任さざるを得ず、母性に飢えた王子は将来に禍根をきざす。
品行不良で母女王にうらまれ、王時代も常に愛人問題が絶えなかったエドワード7世であったが、20世紀初めの混沌へ向かうヨーロッパ外交を見事に治めた立派な国王であった。しかしその在位期間は、60歳で即位してからたった9年。長命の母女王の陰となり、国王としての在任においては短命であった。

国王エドワード7世と王太子ジョージ
ジョージはX脚に苦しんでいた
二男アルバートもX脚であり、泣いてもギプスを付けさせた


国王時代

イギリス国王としての来歴を説く前に、閑話としてロシア皇帝との関係を書く。





ニッキーの愛称で親しまれたロシア皇帝ニコライ2世はジョージの3歳年下、1868年生まれ。ジョージの母アレクサンドラとニコライの母マリアは姉妹である。デンマーク美人姉妹王女は瓜二つであったため、従兄弟関係のジョージとニコライも共に母親似で、双子のようにそっくりだった。国賓の集まる席ではしょっちゅう互いに間違われた。

ニコライとジョージ、互いの嫡男と
さすがに息子たちまでそっくりというわけにはいかないようだ


ニコライの長女オリガ(エドワード国王右後方)の嫁ぎ先候補にデイヴィッド(左端)も上がっていたが、お見合いが実現したのは先のマリー・オブ・エディンバラの息子ルーマニア王太子カロルのみ

1917年3月、ジョージ5世在位のときロシア革命が起きている。皇帝は退位させられ、ロシア臨時政府により国外追放が検討されていた。亡命先として皇帝一家が望んだのはイギリスであり、臨時政府も英国政府や大使館を通じて交渉を進めていた。ジョージ5世にとっては皇帝ニコライも皇后アレクサンドラもいとこである。しかし、英国内では専制君主であったロシア皇帝を自国に招き入れることを良く思わず、またボリシェビキに攻撃される畏れもあり、国民感情を考えると、例え血縁関係のある亡命希望者であっても迎え入れれば、自分の立ち場が、更にはイギリスの立憲君主制が危ぶまれると考え、政府間の調整が手間取っているうちに受け入れない方針にした。すっかりイギリスに行けるつもりでいた皇女達は落胆した。そのうえ、次に幽閉先に希望したクリミアのリバディア宮殿へも政府の事情で行かれなくなった。次第にボリシェビキの押さえが効かなくなった政府は皇帝一家をシベリアに幽閉し、さらに十月革命でボリシェビキが臨時政府を覆してからは、元皇帝を裁判にかけるべく、モスクワに出頭させようとし、その過程でウラルの過激派に身柄を取り込まれて、裁判もなく、しかも家族や従者もろともに処刑されるに至った。イギリスが亡命を拒んだために最悪の運命に傾いたこの経緯はロマノフ家の生き残りに後々まで恨まれることになった。
ジョージ5世は父エドワード7世とともに元皇太子アレクセイの洗礼時に代父となっている。エドワード7世は皇后アレクサンドラの代父でもあった。当時、先代王は他界しているが、ジョージはアレクセイの代父であればこそ、元皇帝皇后はともかく、子女達は助け得たのではないかと考える。元"皇太子"の助命はその位を考えれば難しかったかもしれないが、13歳という年齢を考慮すれば国民の理解は十分得られたのではないだろうか。皇位継承権第3位でミハイル退位後に亡命先で皇位請求者として名乗りを上げていたキリル・ウラディミロヴィチが放置され、暗殺されなかったことも考えれば、ボリシェビキによる報復が及ぶことはなかっただろうと思われる。尤も、後になって考えれば、のことなのでジョージ国王の慎重さは必要にして十分な判断だったといえるかもしれない。

英王室一家

ロシア皇室一家



その後1919年、ジョージの叔母にあたるロシアの元皇太后マリアとロマノフの親族らに対しては、避難していたクリミアに英軍艦を派遣して亡命を助けた。

クリミアから英軍艦で救助されたロマノフ家の人々
主にマリア皇太后、娘クセニアの家族、クセニアの娘イリナの夫ユスポフらアレクサンドロヴィチの系統
ウラディミロヴィチの系統は革命初期に陸路で亡命


1922年、ギリシャでクーデターが起こり、従兄弟のギリシャ王子アンドレオス(ジョージの母の弟の子)が死刑宣告を受けた際にも、軽巡洋艦を派遣して家族らとともにフランスへ亡命させた。このとき助けられたアンドレオスの末子フィリッポスは、現女王エリザベス2世の夫である。

1922年の亡命時、フィリッポスはまだこんなに幼かった

さて、国王時代のジョージ5世は、大戦を機に世界が君主制を投げ出した時期にあって、イギリスの立憲君主制を揺るぎないものにするべく、その位置づけを明確にし、改変もした。
1917年12月、戦時の反独感情を考慮してアルバート公由来のドイツ家系を名に残すザクセン=コーブルク=ゴーダという家名を、居城の名であるウィンザー家に改めた。同時に、王室家系でドイツの称号を持つ者はそれを放棄し、英国風の名を名乗るようにさせ、従った者には新たに爵位を授けている。例として、バッテンベルク(バッテンバーグ)→マウントバッテン、+ミルフォード=ヘイヴン公爵位など。
一方で、イギリスの称号を持ちながらドイツの称号を放棄しない者からは、イギリスの称号を剥奪した。嫡男を失った叔父アルフレートの死後、ドイツのものであるザクセン=コーブルク=ゴーダの称号はオールバニ公チャールズ・エドワード(最初の血友病罹患者オールバニ公レオポルトの息子)に受け継がれたが、ドイツ軍の将校でもあったチャールズからは、ジョージ国王はイギリス称号を剥奪している。チャールズの姉アリスはドイツ系のテック公アレグザンダーと結婚しており、アレグザンダーはジョージ国王の妃メアリーの弟でもあるため、母方のケンブリッジを名乗った。アレグザンダーにはアスローン伯位が授けられた。(参考記事『王室の血友病 全体像』)つまりチャールズとアリスの兄妹はそれぞれ敵国に別れる運命となった。
王の賢妻メアリーもドイツ称号を棄て、イギリスに尽くす姿勢を示し、軍人や負傷者への面会などを積極的に行い、国民に支持を得ていた。

大戦終結後、ジョージ国王は立憲君主国家としてのスタンダードを固めるために、政府、国民に王室の在り方を明らかにしていった。
アイルランド独立戦争ではアイルランド独立法案を承認し、世界恐慌で挙国一致内閣発足時には王室費削減を行なった。
1926年にはバルフォア宣言により自治領の地位を、1931年にはウェストミンスター憲章により国王の地位を明確に示した。また、1935年の即位25周年の折には国民に向けて、自分は「ごく平凡な1人の人間にすぎない」と話し、国民の心を掴んだ。

雑感。自ら平凡な1人であると言えるのは立憲君主国の王だからだろうと思った。
専制君主国として滅びたロシアの皇位にあれば決して言えない言葉である。皇帝は神格化された存在に位置付けられるからだ。しかしニコライ皇帝こそ純粋に平凡な人間であった。誰もがその平凡さに寧ろ惹きつけられたほど。ただしニコライ本人は幼時からの教育により、皇帝として神格化された存在であり続けようとしていた。退位後は心が解放され自適に暮らしたが、専制政こそ統治に最も優れた体制だと信じ続けた。


継承問題
晩年のジョージにとって頭が痛かったのは、長男のデイヴィッドの不品行である。既に40歳を超えているデイヴィッドであるが、王室では認められない、離婚歴のあるアメリカ人の人妻との結婚を望んでいた。詳しくはあらためて記事にしたい。
ジョージは、このことばかりでなくデイヴィッドは国王の資質に欠けると考え、できれば次男のアルバートに国王になって欲しいと思っていた。アルバートには男子が生まれていなかったが、アルバートのあとは長女のエリザベスに王を継がせるのがよいと考えていた。そしてデイヴィッドには、結婚も跡継ぎをもうけることも望まない、と言うほど嫌悪を抱いていた。また、自分が死ねば一年以内にデイヴィッドは破滅するだろう、とも。
ジョージが体調不良だった1928年から2年間、デイヴィッドが国王代理を務めたが、そこで様々な失態があったのだろう。
デイヴィッドをめぐるこうした強い嫌悪がジョージのストレスとなり、喫煙も増え、肺気腫、気管支炎、胸膜炎を起こし、1936年に70歳で薨去した。

ジョージの死後、事はジョージの思惑通りになった。自然の成り行きのようでもあったが、ジョージの妃メアリーがしっかり手綱を取って事を運んだともいえる。
以降のことは、次回の記事に上げる。









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マクダ・ゲッベルスと7人の子供達

2015-10-20 21:32:30 | 人物
ドイツ第三帝国崩壊とともに
6人の幼い子供達を毒殺し自殺した
ナチス最高幹部ゲッベルスの妻




国家社会主義ドイツ労働党員、ドイツ第三帝国の宣伝相としてナチスのプロパガンダを牽引したヨセフ・ゲッベルス(1897~1945)。
幼少時の小児麻痺によって発育に問題があったゲッベルスは、小柄で足を引き摺り歩く、見栄えのしない風貌であったが、人を扇動する鋭い弁舌と美声、機転の利く工作により、党の絶頂をヒトラーとともに築いたナチス最高幹部の1人であった。その妻マクダはゲルマン系の金髪の美女、そしてたくさんの子供を産み育てる、プロパガンダ通りの、模範的な女性像を誇っていた。

子供の頃のゲッベルス 右

ゲッベルスとマクダ

ゲッベルス夫妻と夫妻の6人の子供と妻の前夫の子ハラルト


マクダの生涯を簡単に追う。

Johanna Maria Magdalena Goebbels
1901~1945

1901年、当時家政婦をしていた母はマクダを出産後に主オスカー・リッチェルと結婚。1905年に離婚。
1906年に母は裕福なユダヤ人男性と結婚、ブリュッセルに住み、マクダを修道院の寄宿学校に入れた。第一次大戦が始まると迫害を怖れてベルリンへ戻る。貧困の中、1914年に離婚。
一方、マクダは実父リッチェルの資金で大学へ進学する。ユダヤ人の友人の兄に恋し、マクダもシオニズムに心酔していた。
1920年、38歳のドイツ人実業家ギュンター・クアントと列車で出会い、翌年結婚する。ギュンターは前年に妻を亡くし、2人の息子がいた。
1921年11月にハラルトが誕生。
子育ての大変さと夫が家庭を空けることに不満が募り、夫婦仲は疎遠になる一方、マクダは5歳年下の継子ヘルムートに惹かれていく。しかしそのヘルムートは1927年に盲腸炎で急死した。
1928年、マクダは若い学生との不貞が夫に知れてしまい家を出されるが、夫の引出しから盗んだ、信用を損なう内容の極秘の手紙を用いて脅迫し、多額の住居費や治療費、月々50000マルクもの生活費を獲得し、1929年に正式に離婚した。当時の一般的な月収は150マルクだった。

若い頃のマクダ


1930年、暇を持て余した裕福な美女は友人に誘われるままにナチスの会合に出席し、ゲッベルスの演説を聴く。政治的な関心は低かったが、ナチスの本部での活動を希望し、ゲッベルスの補佐官の秘書に、のちに語学力が買われてゲッベルスの個人秘書になった。
1931年、ヒトラーが立会人となって2人は結婚した。



結婚式 ハラルトも連れ添っている


夫妻にはほぼ1年半おきに、6人の子供が生まれた。

ヘルガ 1932年生
ヒルデ 1934年生
ヘルムート 1935年生 boy!
ヘッダ 1937年生
ホルデ 1938年生
ハイデ 1940年生


ヘルガ

ヒルデ

ヘルムート

ヘッダ

ホルデ

ハイデ

前夫の子ハラルトも養子となり、総勢7名の子。
ハラルトは最初のうちは実父の下にいて定期的にゲッベルスのところへ来ていたが、間もなく母の家で共に暮らすようになった。のちに、ハラルトはドイツ軍のルフトヴァッフェに所属し大戦突入後は戦線に出るようになった。

マクダの前夫の子ハラルトとゲッベルス
ゲッベルスは養子にも分け隔てなく愛情を注いだ


ハラルトは長女ヘルガの11歳年上、末妹ハイデの19歳年上
ハラルトと母も19歳違い







ハラルトも含めて全員名前がHから始まるのは偶然?
ヒトラーのHとは関係ないもよう


やはり男の子の誕生は嬉しかったようでゲッベルスは日記にはち切れんばかりの喜びを記している。一方マクダは最初の妊娠の時から愛しい亡き継子の名"ヘルムート"を名付ける望みを叶えた
以下、ヘルムート誕生の日のゲッベルスの日記より

A joy with no end.
I rush with 100km/h to the clinic.
My hands are shaking with joy.
‥‥That sweet creature.
Sweet sweet. And there is the baby,
a real Goebbels face!
I am overjoyed !
I could smash everything with joy!
A SON! A SON!



総統ヒトラーには妻子はいなかったため、ナチスの理想の母マクダがナチスのファーストレディとして活躍した。マクダは常に多忙で、実際に子育てしたのは数人の子守や家庭教師だった。しかし、ニュース映画に模範的な家族として出演するときは、良き母良き父でなければならなかった。
実際は夫婦仲も綱渡りだった。特にゲッベルスは宣伝相の仕事柄もあって様々な女優と交際した。なかでもチェコの女優リダ・バアロヴァとは真剣な恋愛の末、マクダと離婚して宣伝相を辞め、リダと結婚して日本で外交官を務めたいとヒトラーに相談した。もちろん、ヒトラーには否定され、リダとは別れさせられた。

リダ

模範的な母マクダは多忙であまり家にいなかった














戦争が始まると、"模範的な"家庭の母マクダと子供達は野戦病院の慰問に出かける。しかし幼い子供達にとっては野戦病院などはひたすら恐怖する場所でしかなく、また特別気丈というわけでもないマクダにとっても苦痛でしかなかったが、ニュース映画撮影のためにマクダは酒で紛らしながら敢行した。
ドイツは次第に敗色が濃くなり、英空軍による都市部の空襲が始まると、マクダと子供達は疎開した。
息子ハラルトは従軍していたが、イタリアで捕虜になり、終戦時は北アフリカに収容されていた。

"ベルリンにソ連兵が来たらその時が終わり"。
マクダはそう思っていた。

1945年4月20日、ソヴェート赤軍がベルリンに到達、『ベルリンの戦い』が始まる。
22日、マクダは6人の子供を伴って、総統地下壕に避難してきた。子供達は着弾の音に怯えながらもお互いに励ましあって耐えていた。マクダは子供達に明るい歌を歌わせる。そうしておきながら、マクダは次第にふさいでいった。ゲッベルスはひたすら自分の書類や日記の整理をするだけだった。
地下壕の人々はみな同様に陰鬱だった。
病気により最早判断力もなく国の指揮などとうに取ることができなくなっているヒトラーもそうだった。唯一最後まで人間性を保っていたのはヒトラーの愛人エヴァ・ブラウンであったとのちにシュペーアが語っている。彼女だけが、落ち着いていて終末を受け止める覚悟ができていたと。シュペーアはまた、マクダに対し、子供達をもっと安全な所に避難させるために協力を申し出たが、母は聞き入れなかった。

エヴァ・ブラウン

29日、ゲッベルス立会いのもと、ヒトラーはエヴァと結婚し、その後間もなく2人で自殺する。
ヒトラーの遺言により首相に任命されたゲッベルスは、ソ連に条件付き降伏を願い出たが拒否され、無条件降伏を押し付けてきたので交渉中止。ゲッベルスは地下壕で家族と自決することにした。

5月1日、医師の助けを借りながら、マクダは子供達にモルヒネ入りのココアを飲ませて眠らせ、青酸カリを投与して殺した。それが夜9時前。
そしてゲッベルスとマクダは戸外に行き、服毒あるいは銃殺により心中、遺体には隊員にガソリンをかけさせ焼失させた。
しかし焼失は不完全なまま遺体もその場に放置され、夫妻の焼死体は翌日、ソ連兵に発見された。
地下壕にはそれぞれのベッドに眠るように横たわる子供達の遺体があった。皆寝巻き姿で、女の子はリボンを付けていた。
長女の遺体にのみ、いくつかの内出血のあとがあったという。毒殺に気付き、抵抗した可能性がある。
遺体は戸外に運び出され、夫妻の黒焦げの遺体と並べられ、ソ連兵は写真を撮り、世界に流し、勝利を顕示した。


眠るように安らかな死顔の子供たち


手前の焼死体はマクダ(左)とゲッベルス
周囲はソ連兵


遺体はマグデブルクに極秘で埋められたが、発覚してネオナチの聖地になることを怖れて、1970年に掘り起こし、近くを流れるエルベ川に遺灰を流したらしい。

埋められていたとおもわれる場所



戦争とは関係のない幼い6つの命がなぜ、断ち切られねばならなかったのか?
シュペーアに託す以外にも、命を救うたくさんの機会があったはずだろう。
いのちは救えなかったのではなく、奪われたのである。その父と母に。
ただし私が今それを批判することは難しい。
戦時を生きた経験がないからである。
しかし今の平時の遠い世界から申すのならば、いかに親といえども子供の命を本人の意思に拠らず取り上げていいような権限はないと思っている。

あの時代に、ああした状況下で、マクダが何を考え、あの結果に至ったか。
マクダが最後にハラルトに宛てて書いた遺書に、その決断が明らかにされている。

以下、その手紙である。
捕虜として拘禁中のハラルトへ宛てている。



愛する息子よ!官邸の地下壕に来て6日、お前のパパ、6人の弟妹たち、そして私は今、国家社会主義者として唯一受容できる名誉ある終焉を迎えようとしています。
お前も知っているように、パパは私たちがここに残ることに反対だったし、この前の日曜日(4/22)には総統までもが私たちを逃したいと言ってくださったのです。
同じ血の流れるお前ならわかるでしょう。私にはもう迷いはありません。私たちが抱いた理想は崩れ去りましたが、実現していたらこの世はどんなに壮麗で甘美なものだったでしょうか。
総統と国家社会主義が消えた後の世界など、もう生きる価値のないものですから、子供たちをここに連れてきたのです。
これからの世の中など、この良い子達はもったいないですもの。私がこの子達を救済することについて、慈悲深い神はきっと理解してくださるはず。
子供たちは立派ですよ。文句も言わず、泣くこともありません。爆弾で地下壕が揺れると、上の子が下の子達をかばってくれるのです。子供たちがいるだけで、神の恩恵が感じられ、総統でさえ時折微笑みを浮かべるほどです。
最後の、そして最も辛いその時にも強くいられますように。私たちは今、唯一残されたゴールに向かっています。それは死んでも変わらない総統への忠誠です。
ハラルト、私の息子よ、私が人生で学んでことをお前に残してやりたい。誠実でいなさい!自分自身に、他人に、そして祖国に‥。
私たちを誇りに思って、そして私たちのことを忘れないで欲しい。


Wikipediaより



ハラルトは戦後に解放されたのち、ドイツに戻り、腹違いの兄ヘルベルトとともにグループ企業を運営する。医薬品、自動車なども含めた一大コンツェルンとなる。しかし、ハラルトはプライベートでの飛行機事故でわずか45歳で亡くなった。5人の娘がいた。
初めて飛行機に乗ったものなのか、幼いハラルトが嬉しそうに飛行機に乗降している写真があり、のちの運命を皮肉に思う。同乗しているのは母マクダ、妹、ゲッベルスの妹






この文の中で、理想・救済・名誉、慈悲・恩恵・誠実という言葉が尊ばれている。
私すなわちマクダの上位に、総統・神がいる。
彼女の心は上位のものに支配されてしまっているように思う。

理想を描きそれを実現することにしばられない。理想に至る道は一つだけではなく、いろいろなルートを見つけておきたい。
他者の選ぶ道を否定しない。
修正しながら、中道を選んでいく。
20世紀はすべてに性急過ぎた、そして消耗、疲弊していった。
急流がたくさんの人を呑み込んで押し流していく。そこに、つかまれる何かがあれば、その人は岸にあるいは岩に上がり、流れる河を見るだろう。











画像お借りしました

皇女アナスタシアを騙る アンナ・アンダーソン

2015-10-12 10:58:14 | 出来事
ロシア皇帝一家殺害の生き残り?
皇女アナスタシアの詐称者アンダーソンと
皇室関係者の係争


Anna Anderson/Anastasia Monahan
Anna Tchaikovsky
Franziska Schauzkowska
1896~1984


最も有名なアナスタシア詐称者 アンナ・アンダーソン

1917年10月、ボリシェビキは臨時政府を倒すと、かねてから実行の機会をうかがっていたニコライ2世元皇帝一家及びロマノフ家のロシア在住者を処刑する計画に着手し始める。
レーニンは1918年6月~7月の処刑実行後、皇帝の銃殺のみ公表し、ミハイル大公や他のロマノフ血縁者は逃亡、皇帝の子女及び皇后は安全な場所に避難させていると虚偽の発表をした。
その後、ドイツが捕虜交換を希望し皇后らの安否確認を求めるが、突然応じなくなり、交渉は立ち消えとなっている。皇后、皇女、皇太子は戦後も不明のまま、怪しい目撃証言なども聞かれたが、レーニンの(虚偽)発表を信じる限りどこかに生存している可能性も残されていた。
一方、暗殺の数日後に白衛軍に制圧されたエカテリンブルグで、イパチェフハウスやガニナ・ヤマと呼ばれる坑道の縦穴(最初の埋葬場所)を調査した法務調査官ニコライ・ソコロフは、一家全員が殺害されていると推測する他なしと結論し、証拠物品として焚き火跡の骨や灰、ハウスの遺留物をトランクに詰め、皇太后に差し出そうとしたが、生存を信じ続けるマリア皇太后は頑として受取を拒否した。ソコロフはフランスに移った後、1929年に『ロシア皇帝一家暗殺に関する司法調査』と題する本を執筆し、刊行した。

焚き火跡でのソコロフ
実際はこの下に皇女一人と皇太子が埋められていたにもかかわらずソコロフは考え及ばず地下に手をつけなかった。しかしここで埋められたままだったことで遺体を今に残すことができたともいえる。でなければソ連時代に遺骨は意図的に消失されていただろう。


その一方で、あらゆる場所で数十名の偽アレクセイや偽アナスタシアらが名乗りを上げた。ほとんどは簡単に見破られる詐称者ばかりであったが、ロマノフの親族を震撼させ、生涯、詐称を証明できなかったのがアンナ・アンダーソンであった。

舞台はベルリンから始まる。

1920年、ベルリンのラントヴェア運河に身を投げた女性が救助され入院していたが、彼女は自分の身上を一切語らなかった。体や頭には、身投げによるものではない無数の傷があった。ロシア訛り風のドイツ語を話した。
1922年のある日、彼女は他の入院患者に、皇帝一家の写真のタチアナを指し、自分に似ていないかと聞き、自分はロシア皇女であると打ち明けた。彼女は過去の経緯をこう騙っている。


殺害の後、自分はまだ息があった。それに気づいたポーランド出身の警備兵アレクサンダー・チャイコフスキーが家に連れ帰り、すぐに家族とともにルーマニアのブカレストに逃亡した。その過程で意識不明のうちに犯され、妊娠し、男子を出産。現地のカトリック教会にて結婚。間もなく、チャイコフスキーは路上の喧嘩で死亡。子を家族の者に預け、ドイツのイレーネ王女(アレクサンドラ皇后の姉)に援助を願い出るべく、ベルリンへ向かったが、なぜか門番も居らず、王女に会えず失望し、運河に身を投げる‥。


(ルーマニアに居ながらなぜ顔見知りのルーマニア王妃マリアを頼らず、遥か遠いベルリンを目指したか?
マリア王妃ならばイレーネ叔母より寛容に今の状況の自分を受け入れる度量のあることを、アナスタシアならばわかっていたはず。
と、皇女オリガ・アレクサンドロヴナは分析している。)


彼女はしばらく、自分をチャイコフスキー夫人と名乗るようになる。実際のところ、イパチェフハウスの警備兵の名簿にアレクサンダー・チャイコフスキーなる名はなく、ルーマニアの教会で挙式した者のリストにも名はなく、ブカレストの傷害事件の記録にも名はなかった。


前列左から イレーネ、アレクサンドラ、エリザベータ
後列左から エルンスト、ヴィクトリア


この話が次第に周囲に知れ、皇室関係者が真偽を見極めるため面会に訪れるようになる。
以下、経時的に各皇室関係者の見解を中心に追う。

1922年
Captain Nicholas von Schwabe
→タチアナと認める

Zinaida Torstoy(皇后の友人)
→タチアナではない

Sophie Baxhoeveden伯爵夫人(皇后の従者)
→タチアナではない


Baxhoeveden伯爵夫人(右)と皇后の従者であり親友であるAnna Vurvova

面会中チャイコフスキー夫人は苛立ち、毛布で顔を半分隠していたが、一瞥した伯爵夫人に「タチアナ皇女はこんなに小柄じゃない」と否定された。
そのためか、後日になって、自分は自分がタチアナとは言っていない、アナスタシアだと言い出した。それを確かめるために面会に来たのはイレーネ、セシリアである。

Irene of Hesse by Rhine
(アナスタシアの伯母)
チャイコフスキー夫人は興奮して逃げ惑い、精神膠着状態で質問には何も答えなかった。イレーネは、似てないと感じた。
→アナスタシアではない


1925年
Cecilie of Prussia(元ドイツ皇太子妃)
膠着状態で会話不成立。
皇帝や皇太后に似ているが皇后に似ていない。
→アナスタシアではない
ただしのちに考え直し皇后にも似ていたとして1952年アナスタシアと認め、先生供述書にサインするが、息子ルイス・フェルディナント夫妻は強く反対した。

セシリア皇太子妃

Sigismund of Hesse by Rhine(イレーネの二男/皇女の従兄)
コスタ・リカ在住
アナスタシア本人でなければ答えられないと思われる18の質問状を送付
その回答により本人と断定可能
→アナスタシアと認める


ジギスムント



皇帝一家の従者で、側近く仕えていた者たちも面会に訪れた。オルガ・アレクサンドロヴナに依頼され、スイスから面会に訪れたのは、皇太子や皇女の仏語教師であり、また皇太子の教育係も兼ねていたPierre Gilliardとその妻で皇女付きの看護師だったAlexandra Tegrevaだった。


Pierre Gilliard(皇帝子女の家庭教師)
Alexandra Tegreva(皇女らの侍女)

二人が訪れた時、チャイコフスキー夫人は病で瀕死状態であり、会話はもちろん不可能だった。テグレヴァは、外反母趾だったアナスタシアと同じ足の形であることを確認した。あまりに病状が悪いため、手術の済んだ3ヶ月後に再び訪れ、ジリャールが会話を求めたが、彼女は憤激して会話にならなかった。ジリャールはアナスタシアと認めるに至らず、妻も同意見に。
→アナスタシアではない


テグレヴァとアレクセイ 後方にジリャール

ジリャールとアレクセイ
ジリャールは皇女や皇太子と一緒に収まっている写真は数多い。皇帝一家に流刑地まで付き添ったが、エカテリンブルグではチェカに付き添いを認められなかった。氏名から外国籍の者として処刑を免れている。テグレヴァはその点、危険な立場であったがジリャールと親密だったことが考慮され、事なきを得た。


その午後、訪れたのはオリガである。


GD Olga Alexandrovna
(ニコライの妹/皇女の叔母)
皇太后マリアはニコライや家族の生存に望みを捨てていなかったため、生き残りの者としてのアナスタシアに会うつもりはなく、身辺の者達にも会うのを禁じた。その禁をおかして、皇太后の二女であるオルガは一縷の望みを抱いてチャイコフスキー夫人に会いに来る。かつて心優しいオルガ叔母は、皇后の意向で宮殿に閉じこもりがちな皇女たちを街に連れ出し、外の空気に触れさせてあげていた。気取らず皇族らしくないオルガは、農民らに気軽に陽気に話しかける術も心得ていたと、マリア・パヴロヴナも著書に記している。

面会を経て、アナスタシアではないと確信しながらも、チャイコフスキー夫人に強く同情し、度々会いに行ったり、手紙を送り、贈り物もした。
→アナスタシアではない


アナスタシアとオリガ皇女

剽軽者のアナスタシアとオリガは通じるところがある

オリガ・アレクサンドロヴナは最初の不幸な結婚の後、平民と再婚し男子2人、TikhonとGuriを得た。皇帝一家のミトコンドリアDNA鑑定への協力を当初ティクホンに願い出たところ(当時グリはすでに他界)協力を再三拒否。自分がロマノフの血を引いていないことを確かめる魂胆だろう、と疑ってきたので交渉を断念した経緯がある。


Glev Botkin(皇室関係者/遊び相手)
Tatiana melnik(同上)
皇女らをよく知る者として、幼い頃遊び相手になっていた皇帝付き医師ボトキンの息子Gleb Botkinと娘Tatiana Botkinaがいる。グレブは子供の頃から絵が上手く、皇女や皇太子にボトキン医師を通して絵をせがまれた。ユーモラスな動物の線画が皆に大好評だった。ボトキン医師はイパチェフハウスで皇帝一家と運命をともにした。タチアナとグレブはトボリスクまで同行したが、エカテリンブルグへの同行は許されず、皇帝皇后マリアとともに発つ父とはそれが永遠の別れになった。父の暗殺を知った彼らは日本を経て、最終的にアメリカに亡命した。
二人はヨーロッパ滞在中のチャイコフスキー夫人を訪ね、アナスタシアであると確信している。グレブが訪ねるとき、チャイコフスキー夫人はグレブが面白い動物のイラストを持ってきているか?と期待していたと知り、すっかり信じた。タチアナは、夫人は事件のショックによりロシア語への恐怖、時間感覚、会話能力を失っているだけだと理解した。
→アナスタシアと認める


ボトキン医師とタチアナ、グレブ

グレブ・ボトキン

グレブは後年、著作家兼挿絵画家として活躍


1927年
Ernst Ludwig of Hesse by Rhine
チャイコフスキー夫人の最大の敵は、元ヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒ(暗殺された皇后アレクサンドラとエリザヴェータ大公女の実兄)だった。
いまいましい詐称者の化けの皮を剥ぐべく、賛同したジリャールに働きかけてチャイコフスキー夫人を非難する記録を発表させ、さらに莫大な資金を投入して私立探偵を雇い、アナスタシアではないことを確実に実証するために、チャイコフスキー夫人の正体を調べ出し、公表した。
→アナスタシアではない

エルンスト・ルートヴィヒ大公"エルニー伯父さん"とオリガ、アレクセイ
クリミアのリバディア宮殿にて


アンナ・チャイコフスキーの正体は、ポーランド出身の工場労働者フランチスカ・シャンツコフスカであるとあばき、新聞に発表させた。のちのDNA鑑定でこのスクープが正しかった事は証明されたが、そのときにはエルンストもアンナも既に他界している。

フランチスカは第一次大戦中の1916年、武器工場で働いていたが誤って手榴弾を床に落とし、同僚1人を死亡させ、自身も重傷を負った。1920年に病院から姿を消し、行方不明になっていた。
フランチスカの兄フェリクスが面会し、即座にフランチスカ本人であることを認めたにもかかわらず、夫人と会話した後になって取り消した。

アンナ・アンダーソン(チャイコフスキー夫人)
写真の前歯は入れ歯で、普段は合わないので外し、人と会うときだけ着ける
そのためか人と会うときは扇子などで口元を隠していた


Felix Yusupov
(皇室と親交深い有力貴族)
ユスーポフは辛辣なコメントを残している。

"I claim categorically that she is not Anastasia Nicolaievna, but just an adventuress, a sick hysteric and a frightful playactress. I simply cannot understand how anyone can be in doubt of this. If you had seen her, I am convinced that you would recoil in horror at the thought that this frightful creature could be a daughter of our Tsar."

→アナスタシアではない


ユスーポフと妻イリナ(クセニアの娘、ニコライの姪)
彼らの孫娘イリナ・シェレメーティエフがニコライのミトコンドリアDNA検査に協力してくれたおかげで身元の解明に至った


1928年
ヨーロッパで立場を不利にしつつあるチャイコフスキー夫人を案じて、ボトキンはアメリカに渡るように勧める。
更にボトキンは行動を起こす。
当時、皇帝の隠し財産がイングランド銀行に眠っているという噂が流布した。生前の皇后や皇帝の言葉から、それらはいざという時の娘たちの嫁入り資金なのでは、と思われていた。
ボトキンは「アナスタシアのため」、チャイコフスキー夫人の委任状を手に法律家をイギリスへ、相続の権利を主張するために派遣した。

Andrei Vladimirovich
(ニコライの従兄弟)
チャイコフスキー夫人はアメリカへ向かう途中のパリで皇位請求者キリル・ウラディミロヴィチの弟アンドレイと会い、アンドレイは熱烈な支援者となった。
→アナスタシアと認める


アンドレイ・ウラディミロヴィチは、かつて結婚前のニコライの愛人であったバレリーナ、マチルダ・クシェシンスカヤを叔父セルゲイと争い、結婚を勝ち取り、どちらの子がわからない息子を認知した。
チャイコフスキー夫人と対面したマチルダは、アナスタシアとは面識はないが夫人の眼にニコライの眼差しを覚え、彼女はアナスタシアに違いないと思った


Xenia Leed(元ロシア皇族)
アメリカに渡ったチャイコフスキー夫人はボトキンの口添えでアナスタシア支援を申し出た、もとロシア皇族でアメリカの富豪と結婚したクセニア・リードの下で暮らす。しかしチャイコフスキー夫人はいろいろなことで面倒事を起こし、クセニアと揉めることとなった。
→アナスタシアと認める


クセニア・リード

ニューヨークでのチャイコフスキー夫人は、作曲家兼演奏家のセルゲイ・ラフマニノフによって、NY Grand City Hotelのスイートルームを提供された。このとき、面倒な取材を受けないようにするためにAndersonの偽名を使う事を勧められ、以後彼女はチャイコフスキーの名を使わず、Anna Andersonを名乗るようになった。アンダーソンは一時期、ニューヨーク社交界でもてはやされたが、次第にその奇行が目立ち始め、精神病院に強制入院させられた。退院後再びドイツへ戻った。


1928年10月、アナスタシアには最後まで背を向けたまま、皇太后マリアが亡くなった。
その直後、ロマノフ家12家と元ヘッセン大公家のエルンスト、イリナ、ヴィクトリアらの署名による『ロマノフ家の宣言』が発表された。その内容は、空に浮いていた皇帝一家の安否について、『全員が暗殺されたことを認める』というものだった。
宣言者は、
クセニア・アレクサンドロヴナ大公女
オリガ・アレクサンドロヴナ大公女
アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公(クセニアの夫)
アンドレイ公
フョードル公
ニキータ公
ドミトリ公
ロスチラフ公
ヴァシーリー公(以上クセニアの男子6名)
他、従兄弟2名

クセニアの家族 イリナとその下に6人の男子


1917年当時クリミアに逃れて助かったロマノフの者たち

つまりこれは、頑なに暗殺を認めないままにしていたマリア皇太后の意向に180度相反する内容の宣言であり、皇太后の死後24時間と経たぬうちに宣言されたのだった。この宣言は、皇太后の遺産のアナスタシア詐称者への相続をシャットアウトするものになる。ボトキンは憤慨し、抗議文をクセニア宛に送った。宣言は貪欲で破廉恥、醜い陰謀、アナスタシア皇女に対する迫害であり、皇帝一家を暗殺した犯罪者以上に理解に苦しむ、と、その筆は辛辣を極めた。
他方で、ボトキンが調査に送り出した法律家は私財まで投じて隠し財産を探し求めたが、手掛りを得られぬまま果てた。
銀行は決して預金の額はおろか、預金の有無も公表しない。しかし、のちに元イングランド銀行重役が在職中にそのような預金について、存在したとは思われないとの談があり、どうやらイングランド銀行にあった資金は第一次大戦中に引き出され、病院や病院列車の建設に費消されたもようだという。

若き日のマリア・フョードロヴナ ニコライを背負っている
青年は弟ヴァルデマール(デンマーク王子)
王子はマリアが禁じているにも関わらずアンダーソンを支援した
のちにアナスタシアであると立証された場合に王室がその無慈悲を非難されないために行ったという



皇帝関係者でアンナ・アンダーソンに最後に面会したのは、皇后の友人Lili Dehnと皇女皇太子の英語家庭教師Chales Sydney Gibbsであった。

Lili Dehn
→アナスタシアと認める


Chales Sydney Gibbs
「彼女がアナスタシアだというなら、私は中国人だよ」と友人に話したという。
→アナスタシアではない


リリ・デーン
ラスプーチン、アンナ・ヴュルヴォワと


アレクセイの教師陣 右から2人目がギッブス

ギッブスとアナスタシア
皇帝一家と親密だったギッブスは、一家の死に強く打ちひしがれ、帰国後ロンドンで剃髪して正教に改宗、生涯を祈りに捧げた。



1938年
シャンツコフスカの身内の姉2人兄2人との面会。これはナチスにより仕組まれた面会であった。自称アナスタシアが偽りであることが判明すれば彼女は逮捕されることになる。姉の1人は認めようとしたが他の兄弟達に止められた。彼女には彼女の今の生き方があるということを受けとめ、「確認できなかった」ということで締めくくられた。
これ以降、アナスタシアかどうかを確かめる面接は公式には行われなかった。
このあと、ヨーロッパは第二次世界大戦に突入する。アンダーソンは支援者の庇護を受けながらドイツ内を転々として生き延びた。



話は時を少し戻る。
1932年
アンダーソンはヘッセンの親族間の小規模な不動産相続に際して、自分の権利を主張し、訴訟を起こした。これは先のロマノフ家の宣言に対する報復だろうか。裁判は第二次世界大戦を挟み、1970年に結審した。反証したのはもちろんエルンストのいる元ヘッセン大公家からだが、途中でエルンストは亡くなり、息子のルートヴィヒが後を継いだ。この訴訟に金銭的援助をしたのがイギリスのマウントバッテン卿であった。
ルイス・マウントバッテンはアレクサンドラやエルンストの甥にあたり、さらに英国女王の又従兄、王配フィリップの叔父でもあり、第二次世界大戦で活躍したイギリス海軍元帥、元インド総督である。ロシアの皇女たちは彼の幼き日の遊び相手であったし、アナスタシアの姉マリアは彼にとって特別な存在であり続けた。マウントバッテンは亡くなった妻の莫大な遺産を惜しみなく裁判費用に注ぎ込んだ。
マウントバッテンはアンダーソンに面会したことはついぞなかったが、あんな不埒な狂人まがいの人物が自分の従姉妹であるなど、到底受け容れられなかった。
ルイス・マウントバッテン

しかしながら裁判はアンダーソンに有利な証言が次々に展開された。そのほとんどが、筆跡学者、人類学者、犯罪学者らによる医学的、科学的なものであった。

同一人物か一卵性双生児にしかありえない一致だという

結果、裁判はアンダーソンがアナスタシアであることを立証できなかったという判断で終わった。つまり、アナスタシアではないという立証もできなかった。
そののち、アンダーソンはヨーロッパでは次第に話題に上らなくなっていった。

アメリカに戻ったアンダーソンはどんどん奇矯な人になっていった。ビザのために、ボトキンの知人でアンダーソンより20歳年下の裕福な支援者マナハンと結婚する。マナハンは、自分はロシア皇帝の義理の息子だとはしゃいだ。彼らは非常に沢山の犬猫を飼い、死んだ猫は暖炉で火葬し、周囲の住人から悪臭の苦情を受けていた。





1984年2月、アナスタシア・マナハンは肺炎で亡くなったが、とうとうその正体は明かされないままだった。
1920年に運河で救われてからその死まで、アンダーソンは1度も自ら働くことなく、全てその時々に誰かに支援を受けて暮らしていた。死後その遺体は、一時身を寄せていたことのあるドイツのSeeon城内に埋葬された。


すべての決着は、1989年に最初に発見された皇帝一家の遺骸からのDNA鑑定により、アンナ・アンダーソンが皇帝一家の型と一致しない、かつ、現存するシャンツコフスカの子孫とミトコンドリアDNA型が一致することが先に判明し、二つ目の墓の発見で、残る1人の皇女(マリアかアナスタシアかの確定はできていない)も発見されたことにより、皇帝一家で1918年以降を生き延びた者は誰もいなかったことが判明した。

アンダーソン存命中から、アナスタシアをロマンチックに取り上げた映画が幾つも制作されていたが、それらの作品は単に空想の世界の夢物語であり続ける方が望ましいものと思う。





Grand Duchess Anastasia Nikolaevna Romanova
1901~1918






















変顔が面白いアナスタシア!
つられてマリアやアレクセイもおかしな顔に‥

上の手紙はアナスタシアからルイス・マウントバッテンへ宛てたもの。アナスタシアは英語が苦手で、ドイツ語風に発音し、文法はマスターできてなかった。母への手紙にも表記ミスが目立った。他方、アンダーソンの英語は完璧だったという。アンダーソンはロシア語をしゃべらなかったが、聞いて理解することはできていたといわれている。フランス語で応じることもできたらしい。




革命下を生きた マリア・パヴロヴナ・ロマノヴァ

2015-10-05 23:13:46 | 読書
革命前後を生きたロシア大公女
ドミトリ・パヴロヴィチの姉マリア
Maria Pavlovna Romanova 1890~1958




最後のロシア皇帝ニコライ2世の従妹マリア・パヴロヴナは、以前の記事に上げたドミトリ・パヴロヴィチの姉であり、ウラディミル・パーレイの異母姉です。
ロシア革命時に亡命して生き延び、1930年に「Education of a Princess」を、1932年に「A Princess in Exile」を上梓しました。そのうちの前者の日本語訳「最後のロシア大公女」(平岡緑訳)を抜粋しながら、マリアの生涯を辿ります。


「1890年にこの世に生を受けて以来、私は激動の時代を生き抜いてきた。私の最も旧い記憶に残る日々は、今こうして執筆しているニューヨーク市内のアパートメントの周囲に輝くばかりに林立する摩天楼、そしてその下に流れる膨大な交通量の織りなす世界からは、まったく想像もつかないほどかけ離れた異質のものであった。今にして思えば、あの頃私が住んでいたのはいわば中世にも似た世界だった。‥」
(序 半生記より)


1890年、当時皇帝アレクサンドル3世の弟パーヴェル大公の長女として生まれたマリアは、のちの皇帝ニコライ2世の父方の従妹であるとともに、現在のエジンバラ公フィリップ王子の母方の従姉でもあります。
1891年、妊娠7カ月のマリアの母アレクサンドラ(ギリシャ国王ゲオルギオス1世の二女)は事故から妊娠中毒症を起こし、6日間意識不明ののち早産しそのまま他界しました。
そのとき生まれた弟ドミトリはもちろん、マリアも母の記憶はなく、日に2度、父に会える他は「赤の他人に育てられてきた」と回顧しています。





弟ドミトリ

大好きな優しい父と過ごすクリスマスの、微笑ましいエピソードがあります。

「父宛の贈り物が溢れんばかりに満載されたテーブルには、想像を絶するほど珍無類な、しかし愛情のこもった品々が並んでいた。弟と私は何カ月となく針仕事に没頭しては恐ろしく悪趣味のクッション、紙挟み、ペン拭い、本の表紙掛けを縫い上げた。私達が少し年長になり、父が裁縫はもうやめてくれと懇願するようになってからは、クリスマスに備えて貯金を始め、その日が近づいてくると、勇んで店に出かけていっては非実用的なくだらない物をしこたま買いこんできた。がらくた類は、子供達からの贈物という感傷のレッテルが貼られるお蔭で屑篭行きこそ免れたが、年々衣装箪笥の暗がりでぞっとするほど無駄に増え続ける運命にあった。‥」

マリアの語り口はこのように忌憚ないストレートな調子であり、歯に衣着せぬ物言いが散りばめられています。生後数カ月の皇女オリガを、「胴体が小さい割に頭でっかちの、ひどく醜い赤子」と書いています。

伯父セルゲイ、伯母エリザヴェータ、父パーヴェルと

伯父セルゲイと

イリンスコエ

マリアとドミトリは夏の間、イリンスコエの伯父セルゲイ夫妻の下で過ごすのが常でした。イリンスコエでは近隣の知人宅にお茶に呼ばれることがあり、ユスーポフ家には度々招かれ、少し年上のニコライとフェリクスらとともに過ごしていました。

子供のいない伯父は二人に愛情を傾けてくれましたが、伯母エラ(アレクサンドラ皇后の実姉エリザヴェータ)は姉弟に無関心であり、冷酷であり、その言葉に傷つけられることが度々あったようです。しかし、当時ヨーロッパで最も美しいプリンセスと言われていたエラの美しさは、マリアも驚嘆しつつ認めています。夫妻はともに自尊心が強く、内気で冷淡、柔軟性に欠ける一方、特にセルゲイは独占欲が強く、姉弟はなじめなかったようです。のちに、父パーヴェルが貴賎結婚で国外追放になり、皇帝はセルゲイ夫妻を姉弟の後見人としたため、父を非難し愛情を押しつける伯父に、マリアたちは縮み上がる思いをしたそうです。
9月下旬にはツァールスコエに滞在、皇女オリガやタチアナの遊び相手として子供部屋に通され、数え切れないほどのおもちゃで存分に楽しみましたが、訪れるたびにマリアは、皇帝夫妻と皇女たちの素朴な家族愛に触れ、傍目に羨ましく感じました。

「何故ならそこでは、飾り気のない平和な静けさに満ちた家庭そのものの雰囲気を味わうことができたから。」

そのあと姉弟は伯父伯母のモスクワの住まいに移って行きました。


前列中央にドミトリ、後方中央にマリア、その左にエリザヴェータ

ドミトリとセルゲイ

左ドミトリ


1905年、社会に不穏な気配がたちこめ始めた頃、セルゲイが爆殺されました。葬儀出席のために一時帰国を許された父パーヴェルと久しぶりの再会をしました。父は姉弟を引き取りたいと願い出ましたが、伯母は伯父の遺志に則りたいとして父の申し出を断りました。その後まもなく、伯母エラはプロシアに嫁いだ妹イレーネを仲介して、17歳のマリアにスウェーデンのヴィルヘルム王子との結婚を勧めてきました。

Prince Wilhelm of Sweden
Duke of Södermanland
マリアとの結婚は1908~1914年
その後結婚はしなかったが平民の愛人と暮らしていた



マリアは状況に流されるままに婚約しました。結婚に向けて準備を進めていく中で、まだ大人に成りきれないマリアには不安がときどきに湧いてきます。

「かなり自由な教育を受けたはずの王子も、自主性に欠けるという点では私と似たりよったりだった。私の周囲と瓜二つの周囲が、彼の生き方を考慮して諸事万端に決定を下していた。こんな二人が結婚したら先々どうなるのだろう?共に手にする独立と自由に二人してどう対処したらよいのだろう。この若々しい、見るからに自信に溢れた男性が、私との家庭を作ることに人生の幸せを見出す心づもりでいるのには、つくづく良心の呵責を感じた。私は彼に向かってまるで空っぽの心を差し出しているうえ、自らの自由を獲得するために、ある意味では利用しようとさえしているのだから。」

マリアにとっては、結婚への不安よりも最愛の弟ドミトリと離れねばならないことへの不安の方が大きかったようです。

1908年の結婚後、スウェーデンでは王宮でも国民にも温かく迎え入れられ、充実していたマリアでしたが、海軍の任務でほとんど家をあける王子にないがしろにされていると誤解し、次第に仲がこじれていきました。







スウェーデンの民族衣装

Lennart王子



二人の間に王子レナートが誕生しましたが、タイ国王の戴冠式にスウェーデン国王代理としてヴィルヘルム王子と参列するため、子供を置いて長期旅行へ。関係は修復できず、体調を崩してナポリの保養地で療養していましたが思い余ってパリの父のところへ身を寄せ、結婚解消を申し立てました。離婚成立後、マリアはロシアへ帰り、ドミトリのそばに住まいます。
1912年、エラが修道院を設立してから院内に住まうことになったため、ドミトリは皇帝一家とともに暮らしていましたが、自由を求めてその頃にはセルゲイの遺産であるイリンスコエに移っていました。
1914年、第一次大戦が始まるとドミトリも出征し、前線へ派遣されました。





弟が従軍したのならば自分もと、マリアは看護婦になり戦場の病院で看護に携わり、経営もし、様々な困難に直面しても真摯に立ち向かいながら、自らの力量を次第に高めていきます。マリアは戦時下にありながら自分に「目覚め」がおとずれたことを幸福に感じていました。



皇族の立場を離れて、様々な階層の人々と生きるうちに、ロシアの置かれている状況、その病を知るに至り、マリアの中でますますロシアへの愛が深まっていきました。
そんな中で、ドミトリとユスーポフ公らによるラスプーチン暗殺事件が起こったのです。

マリアは弟からこの件で自分に相談がなかったことを、弟に自分が切り離されてしまったように感じて、驚くとともに悲しみました。ドミトリは姉には相談せず、伯母エラには、皇后の心理状態を図るために相談していました。
ラスプーチンの皇帝皇后への束縛ぶりはロマノフの親族たちはそれまでにも面会を重ね、説得を重ねていました。パーヴェルは皇帝の最後の叔父としての立場から、ドミトリも息子同様の寵愛を受けていた立場から、皇帝に意見具申してきたものの聞き入れられることはありませんでした。

逮捕後に自宅軟禁されたドミトリとユスーポフ公の様子が、この著作のなかで詳細に書かれています。
この一件に関するマリアの見解が記されています。

「頑愚なうえ、自分だけの殻に閉じこもってしまい世間の動静にまったく無知な皇后の差しがねによって、信頼に足る人物は全員宮廷から締め出されていた。その中で、不実と虚偽に取り巻かれた両陛下は、一般に蔓延している非難の声も聞こえないありさまだった。
国会が反抗的態度を明らさまにする一方で、議員たちは宮廷内の腐敗した秩序を言いたい放題あげつらう弁説に熱中していた。‥しかし、すべては決断を伴わない果てしない饒舌の域を出ず、一人としてその実現に手を貸そうとする者はいなかった。人々は小人物の集団になり下がっていた。‥弟はラスプーチン事件について終始沈黙を守っていたが、こうして私に話す言葉の端々から、彼の殺害に参画した心情が窺われた。彼は、怪物に心臓を一突きにされて悶えているロシアを、その元凶から解放しようとしただけでなく、国内諸般の事情に活を入れ、無気力で無定見で低級な舌戦にとどめを刺し、ひと思いに模範的行為に打って出ることで、人々の奮起を促したつもりだった。」


ドミトリはペルシアに送られる前に父と電話で一言だけ話す。これが親子の最後の会話になりました。

やがて1917年2月、皇帝は退位、臨時政府が立ち上がるも、脆弱な体制は綻び、あっという間にボリシェビキに呑み込まれ、10月革命を迎えました。マリアはツァールスコエの父の下で暮らし、異母弟ウラディミルの友人プチャーチンと結婚しました。生活はどんどん制約されて苦しくなりましたが、マリアは恋愛結婚に充足していました。やがて息子ロマンが生まれ、1918年7月18日に洗礼式をしました。奇しくもその日は、遠いシベリアの地で伯母エラやウラディミルが殺害された日でした。ウラディミルは前年3月に流刑になっています。
マリアは1919年にルーマニアへの亡命を遂げてから、父パーヴェルの処刑、伯母と異母弟の処刑、息子ロマンの病死を知ることになります。


ボリシェビキによる政権はいよいよロマノフを圧迫にかかり、父パーヴェルが連行されます。妻オリガ・パーレイが奔走し、父は戻ることが出来ましたが、マリアに及ぶ危険を避けるため、マリアと夫は我が子を夫の父母に預け、ドイツが実質占領しているウクライナに逃亡します。スウェーデン公使館発行の身分証明書を石鹸の中に隠し、身分を偽っての逃亡を数々の危機を乗り越えて奇跡のごとく成し遂げました。
その後、ドイツは帝政崩壊しウクライナにもボリシェビキが迫ることが予測され、マリアは夫とその弟と、従姉妹のルーマニア王妃の導きでルーマニアへの逃亡を目指します。スペイン風邪で発熱しながらも、王妃によって派遣された大佐に導かれ、ロシア人士官にガードされた列車に乗り込み、ベッサラビア国境へ向かいました。

「その日、汽車がベッサラビアとの国境がそこから始まるベンデレイに差しかかる頃、日はとっぷりと暮れた。何本かの空瓶に立てた蝋燭が客車内をほの暗く照らしていた。私は発熱と悪寒で、頰が焼け付くようだった。ベンデレイに到着する直前、私は警護についてくれた志願兵達に礼と別れを述べ、彼らを通してロシアに別離を告げようと思った。重い冬支度、毛皮の帽子、ライフル銃が弾丸ベルトにぶつかる音。やってきた男達は客車をいっぱいにした。彼らから、ロシアの秋の野の匂い、燃え盛る薪から上る煙の匂い、革長靴の匂い、弾薬の匂い、軍服の匂いが立ちのぼってきた。蝋燭だけの点る狭い車内で、彼らの輪郭だけがはっきりと認められた。
私は感極まって言葉が出てこなかった。見知らぬ、今まで会ったこともなかったこの男達が、急に身内よりも身近に感じられた。彼らは心情として私が後に残していくものの一部であり、同時にそのすべてを具現していた。
彼らの顔を永遠に記憶に焼きつけようと、私はテーブルの下から蝋燭を取り上げ、一人一人の顔を順番に照らしていった。
刈り込んだ髪に濃い口髭を蓄え、日焼けした顔が一瞬ごとに、一筋の細い黄色い光の中に浮かび上がった。私を永遠に彼らの心の中に留めておくためにも、その場にふさわしいことを言いたかったが、辛い、救われようのない涙が頰をとめどなく濡らすばかりで、言葉にならなかった。
こうして、私はロシアに永遠の別れを告げた。」



マリアは以降ロシア(ソ連)に戻ることは生涯ありませんでした。ロシアという大地との空間的別れであり、失われゆくロシアという国との時間的別れでもあり、自分の存在と祖先の喪失でもあり、残してきたもの全てが失われていく、それをどうすることもできない無力感‥。
それが、ただはらはらと流れ落ちる涙。
落剥してゆく感情のかたち、かもしれません。


この本はここで終わりです。亡命後のことは1932年出版の作品に書かれているのでしょう。日本語訳のものがあるのかどうか?

マリアは1932年以降、26年間生きました。亡命後のマリアの足跡を簡単に記します。




1918年ルーマニアへ
のち、パリへ
1919年息子ロマンの死
ロンドンで弟と再会、弟と夫は合わない
1920年夫と二人でパリへ
義母オルガ・パーレイや異母妹と暮らす
ドミトリもパリへ
1921年レナートにドミトリとともに会う
パリにレースを扱う店Kitmirを出店
弟の招きでココ・シャネルと取引
1923年プチャーチンと離婚、その後も経済的援助を続ける
有名なファッションデザイナーJean Patouと恋愛
1928年店を売ってロンドンへ
香水の店を出すがふるわなかった
1929年アメリカへ
ニューヨークのデパート店員
出版本が成功し大学でレクチャー
仏語、露語、西語に翻訳される
1937年ドイツのマイナウへ息子レナートを訪ねる
この年、アメリカがソ連と同じ連合で大戦に参加することに失望し、アルゼンチンへ
1942年結核療養中のドミトリがスイスのダボスで死去
1947年息子レナートがマリアを訪ねる
1949年ドイツのマイナウへ
レナートの邸宅に同居
1958年肺炎により死去、68歳
マイナウの墓所で弟ドミトリの隣に埋葬された


レナート


元夫ヴィルヘルムと息子レナート

弟ドミトリと








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