名のもとに生きて

人の一生はだれもが等しく一回かぎり。
先人の気高い精神に敬意を表して、その生涯を追う

13歳 血友病からAIDSに ライアン・ホワイト

2015-09-29 19:44:34 | 人物
血友病治療のための血液製剤でHIV感染
AIDSのポスター・チャイルドとなった
13歳の少年 Ryan Wayne White




1989年日本での薬害エイズ事件をご記憶の方は多いでしょう。安価な非加熱の輸入血液製剤を投与された多くの血友病患者がHIV感染を起こしました。
血友病治療のために使用される高濃縮凝固因子製剤は、日本国内の献血では需要を賄いきれないため、売血が認められている米国からの輸入血液が使用されていました。1982年頃より、血友病患者のAIDS発症が世界で報告されるようになり、各国で加熱製剤への切換を進める中、日本国内では非加熱でも安全性に問題はないとして継続使用した結果、血友病患者のHIV感染者が激増。2000人が感染、内半数が17歳以下、既に400人がAIDSにより亡くなっていました。
血友病患者以外にも手術時の止血に使用されることもあり、その場合は無自覚のため感染に気づくのが遅れました。
当時、日本国内ではAIDSについての正しい知識を持つ者はほとんどなく、不治の感染症として忌避され、やがて血友病イコールAIDS、との間違ったイメージも生み、血友病患者が差別や偏見に苦しむこともありました。

そうした一連の経過は既にアメリカで進んでいたのですが、日本の製薬会社や厚生省は利益を優先するために黙殺したのでしょうか。



1989年4月8日、アメリカインディアナ州の病院でAIDS発症の果てに亡くなったライアン・ホワイトは18歳。
13歳で非加熱血液製剤によりHIV感染してから5年半、AIDSのポスター・チャイルドとして米国民にAIDSの正しい理解を求め、その理解を獲得した彼はその日、短い生涯ながらも見事な果実を結び、人生の幕を閉じました。
それは彼の印象的な笑顔からは想像し得ない、困難な苦しみの上に築き上げられたものでした。

ライアンの死のことを書きましょう。
それはもう26年も前のことになります。





1971年12月6日、インディアナ州ココモに生まれたライアンは、生後3日目、割礼での止血困難から血友病であることがわかりました。
ライアンの家族は父母と、2歳下に妹がいます。



血友病でありながらも、幼少期は健康に過ごしていたのですが、13歳のときに重度の貧血になり、治療に非加熱血液製剤が投与され、HIVに感染してしまいました。
医師には余命6ヶ月と宣告されましたが、感染初期の急性期を乗り越え、学校(middle school)に復学できることになりました。
しかしそれが大きな社会問題になってしまったのです。




医師や保健師が、通常の学校生活において他の学生に感染するおそれはないと公表しているにもかかわらず、学生や保護者達はライアンの復学を拒否。学校側は登校は許可するものの、さまざまな制約を課してきます。例えば、食器は使い捨ての物を使用すること、バスルームは分けて使うこと、体育の授業はなるべく休むことなど。復学初日は電話で聴講させられました。さまざまな抵抗で登校を阻まれましたが、法律により登校は許可、この間既に約8ヶ月経過していますが、ライアンの登校した日には生徒350人中117人が学生本人の意志または保護者の意向により自主的に欠席しました。
学校だけではありません。ライアンは新聞配達もしていたのですが、新聞紙を介して「感染る」からと、ライアンのルートの家々では配達を断ってきました。
街を歩いているときにも、

"We know you're queer."
(おまえホモなんだろ)

と罵声を投げかけられるのです。
危険に怯えながらライアンと家族は過ごしていましたが、ある日、家族が不在中のリビングルームに銃弾が撃ち込まれました。
このことにより、家族は街を出ることを決意。
学期が終わるのを待ち、同じインディアナ州のCiceroに引っ越しました。
新しいこの町のHamilton Height High SchoolではAIDSについて正しい教育を受けており、ライアンは握手で歓迎されました。










ライアンはマスコミに取り上げられる一方で、新聞取材やテレビ出演を通じて募金や教育を呼びかけます。そうした活動に共鳴した著名人らが支援を行い、さらに啓蒙運動が拡大していき、AIDSに対する誤解や偏見が徐々に取り除かれていきました。







特に熱心に支援したのは、エルトン・ジョンやマイケル・ジャクソン、レーガン大統領(当時)夫人でした。エルトン・ジョンはライアンに16500ドルを寄付し、一方マイケル・ジャクソンは赤のムスタング・コンバーチブルをプレゼント。富豪の彼等からの精一杯の心遣いに違いないのですが、10代の普通の高校生でありたいライアンには過分な贈り物であり、こうした個人宛の贈り物を本心では喜ばなかったし、セレブのパーティーに招待されることよりも、自分に残された限られた時間を静かに過ごしたいと望んでいたそうです。




1989年には、ABC放送で『Ryan White Story』が放映されました。このドラマのなかでココモの町の人々が無慈悲に描かれていたため、放送局は住民に抗議されました。

ライアンを演じたルーカス・ハース


ライアンが最後に公式の場に姿を見せたのは1990年初め、レーガン元大統領夫妻とともに出席したアフターオスカーパーティーでした。
そのときのライアンは、高校卒業パーティーのことやカレッジ入学への希望などを話していたとのことです。





その後まもなく、ハイスクールを卒業しておよそひと月後、ライアンの容態は急速に悪化。1990年3月29日、呼吸器系に感染を起こし入院しました。エルトン・ジョンは見舞いに駆けつけ、病院の電話はライアンの容態を案ずる人たちからのメッセージで鳴り通しでした。




壮絶 ここに写し出されている腕の細さ!


4月8日、エルトン・ジョンも見守る中でライアンは息を引き取りました。
4月11日のライアンの葬儀には1500人超が参列、そのなかにはエルトン・ジョン、マイケル・ジャクソン、ブッシュ大統領夫人。他たくさんの著名人が参列しました。この日、レーガン元大統領はライアンの死を悼み、ワシントンポスト紙に寄稿しました。

後方にマイケル・ジャクソン



ライアンが18年の生涯を閉じた後も、多くの人々の心に彼の長い影は投影されていました。
ライアンの母がRyan White Foundationを、エルトン・ジョンもElton John AIDS Foundationを立ち上げました。
インディアナではThe Children's Museum of Indianapolisを設立、ライアン、アンネ・フランク、ルディ・ブリッジ(初めて白人の学校に通学した黒人女性)の部屋を再現し、子供も社会に対して力を発揮できることがあると考えさせるプログラムになっているようです。



AIDSは当初、ニューヨークやサンフランシスコのホモセクシャル間の特殊な病気ととらえられていたのですが、ライアンのような少年が罹患したことで、それはもはやLBGTのようなマイノリティー(当時の感覚)の病ではなくなったと認識されるに至りました。この病のこうした経緯から、ライアンは "innocent victim"(罪なき犠牲者)と呼ばれ、性的嗜好によって罹患した患者と区別して同情を寄せられる動向もありました。しかし、当のライアン本人はそれを好ましく思いませんでした。

"I just like everyone else with AIDS, no matter how I got it".

(ぼくがAIDSにどうやってかかったかには関係なく、ほかのAIDSの人達みんなと全く一緒なんだ)




AIDSとは、Acquired Immuno-Deficiency Syndrome、後天性免疫不全症候群、HIVすなわちHuman Immunodeficiency Virus、ヒト免疫不全ウィルスにTリンパ球やマクロファージが感染し、数ヶ月から10年程の間に体内でウィルスはHIVは増殖、免疫力を食い尽くしたところで日和見感染から死に至らしめる病気で、AIDS発症により微熱、下痢、肺炎を起こし、回復する力を奪われた体はどんどん痩せて死んでいきます。特にライアンにはもともと血友病もある。

病気というのは実に無慈悲で、死へのカウントダウンの恐怖以上に、決して解放されることのない絶え間ない苦痛をも受けねばならないのです。そして最も残酷なことに、病は決して美しいままには死なせてくれない。全てをあきらめろとばかりに、尊厳を失わせるほどに、姿を変容させるのです。やせ衰えていく姿を見て、周囲の者は心を抉られるほど悲しむでしょう。もしそれが我が子ならば、親はどれほど悲しむものか。しかし、真に悲しいのはやせ衰えていく本人にちがいありません。別次元の深い深い、底無しの悲しみにちがいありません。死んでいくものにしかわからない心境があるのだと思うのです。岸をどんどん離れて行ってしまうボートにひとり乗せられるかのような?



現代においては、血友病ではあってもAIDSのように死を突きつけられることはそうそう無いと言えるでしょう。
血液製剤に頼ったばかりに、
運命を書き換えられてしまった。
その上、社会に締め出されそうになった。
こんな大きな受難。にもかかわらず、ライアンの写真の笑顔は、まるで世界一の幸せを享受したかのように、なんと冴え冴えと輝いていることか。

わからなくなるのです。
死が、特に若者の、それが。
その死で幕は閉じられるのに、それが決して終わりではない、という‥。
それは残されたものの願望に過ぎないと、
心の半分が理解しているけれど。

ある衝撃波のインパクトの強さが余韻を残す。
その一撃が永遠の余韻を残す。
もう、つかまえることのできない波動‥







Gone Too Soon / Michel Jackson


Like A Comet
Blazing 'Cross The Evening Sky
Gone Too Soon


夜空を明るく燃えながら
横切っていった彗星のように
きみは行ってしまった

Like A Rainbow
Fading In The Twinkling Of An Eye
Gone Too Soon


目瞬きしてる間に消えてしまった虹のように
きみは行ってしまった

Shiny And Sparkly
And Splendidly Bright
Here One Day
Gone One Night


光るように、煌めくように
そして壮麗に輝き
朝に現れ、夜には消えて

Like The Loss Of Sunlight
On A Cloudy Afternoon
Gone Too Soon


午後の曇り空にさす一条の日差しが
一瞬で消え去るように
あまりに早くに
きみは行ってしまった


Like A Castle
Built Upon A Sandy Beach
Gone Too Soon


砂浜に築いたお城のように
きみは消えていってしまった

Like A Perfect Flower
That Is Just Beyond Your Reach
Gone Too Soon


高山に咲く、一輪の見事な花のように
きみは手が届かなくなってしまった


Born To Amuse, To Inspire, To Delight
Here One Day
Gone One Night


楽しませ、喜ばせ
感動されるために生まれてきて
昼にはいたのに
夜にはもういない

Like A Sunset
Dying With The Rising Of The Moon
Gone Too Soon


夕日のように
月が昇れば姿を消して
きみは行ってしまった




元々は早逝したジャニス・ジョプリンらに捧げられた曲でディオンヌ・ワーウィックによって歌われたものでしたが、こちらはそれをマイケルがライアンのためにアレンジしたものです。どなたかがこの曲で作った動画をyoutubeで観て、この曲のことを調べたことで今回ライアン・ホワイトを知ったわけです。
そちらの動画も、以前の記事「悲劇のロシア皇太子アレクセイ」の記事で連携できるようにしておきます。





画像お借りしました



雑記

AIDSを題材にした作品として初めて触れたのは、デレク・ジャーマン監督「BLUE」でした。
この作品は監督自身がAIDSで亡くなる前年に発表されました。日本公開時には既に他界していました。
内容は、自身が視力を失うことで味わう無力、友人達が同じ病で亡くなってゆく喪失感が、周囲の音や音楽に重ねて語られるものです。
当時私はこれを映画館に観に行きました。
もちろん、画面がずっとブルーだということは承知していったのですが。
最初から最後まで、本当に全く、ただの青い画面でした。色は青一色でも、キラキラしたり、グラデーションになったり、オーロラみたいにゆらゆらしたり、という勝手な予想は打ち砕かれ、全く何も映っていないに等しい青でした。開始10分以内に半分くらいの人たちが退出しました。
なぜか家にこの映画のCD(DVDにあらず)があるので、昔の私はこの作品を気に入ったのかもしれません。
亡くなっていった友人たちの名を哀切に呼ぶシーン(Sceneとはいえない?)には心を揺さぶられます。自らもまた同じように消えていく不安。
AIDSはまさに真綿で絞めるような病ではないでしょうか。自分がどんどん小さな点になっていって消失する。死ぬまでに、静かで残酷な末期を味わねばならないのでしょう。
遺作となったこの映画には、どうにもできない寂寥が感じられました。

前世紀のウィリアム王子 墜落の涯

2015-09-22 00:12:26 | 人物

忘れられたもうひとりの
美しきプリンス・ウィリアム
William of Gloucester




His Royal Highness Prince William of Gloucester 1941~1972

現在、王位継承権第2位のウィリアム王子(ケンブリッジ公)は1981年生まれです。父であるウェールズ公チャールズは1948年生まれで、チャールズの母は現女王エリザベス。
一方、ウィリアム・オブ・グロスターはエリザベス女王(1926年生まれ)の従弟にあたります。
つまりチャールズはウィリアムの甥なのですが、7つ年上のウィリアムに幼い頃から憧れていたチャールズは、初めて誕生した息子に、亡きウィリアムの名を授けたのです。
43年前に30歳で早逝したウィリアム王子について記します。







15歳年上の従姉エリザベスと





ウィリアムとグロスター公夫妻、ルイス・マウントバッテン夫妻
ルイスとヘンリーは同い年




父グロスター公ヘンリーは、英国王ジョージ5世(在位1910~1936)の第3王子。ジョージ5世の次代は第1王子がエドワード8世として即位、しかし離婚歴のある女性との結婚を認められなかったため、1年足らずで王位を破棄するというハプニングがあり、そのあとは第2王子がジョージ6世として即位(1936年)。1952年からはジョージ6世の死去に伴い、その第1王女がエリザベス2世となり、現在に至っています。

ジョージ5世には5男1女があり、第4王子はケント公ジョージ(1942年、第二次大戦中空軍パイロットとして自ら操縦していた機体が墜落して死亡)、自閉症や癲癇の持病のため隠棲させられていた第5王子ジョンは12歳で病没しました。
成人した4人の王子の中で、ヘンリーは目立たず、兄弟たちと比べて容姿が劣っていることがコンプレックスだったようです。他の兄弟が皆海軍学校に進んだのに対し、ヘンリーは陸軍でキャリアを積み、最終的にオーストラリア総督を務めました。
周囲にあまり好感を持たれないヘンリーでしたが、妻アリス王女の人柄がそれを補っていたようです。

若い頃のヘンリー

後列左からジョージ6世、エドワード8世、ヘンリー
前列左からジョン、メアリー、ジョージ





グロスター公には1941年にウィリアム、1944年にリチャードが生まれ、リチャードは現グロスター公です。
ウィリアムは出生の時点では、王位継承順位第4位です。
ウィリアムは1947年にエリザベス王女とフィリップ・オブ・マウントバッテンの結婚式で、同い年の従弟マイケル・オブ・ケントとともにページボーイを務めました。



エリザベスとフィリップの結婚式



左はマイケル・オブ・ケント
マイケルの名はニコライ2世の弟のロシア大公ミハイル・アレクサンドロヴィチに由来しているとのこと。マイケルの祖母エレナはミハイルの叔父ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ大公の娘であり、ロマノフ家系であることを誇示した。孫の名をミハイルに紐付けたのもそうした狙いがある。皇后や皇太后がそれを知ったら頭から湯気を出して怒ったことだろう。
ミハイル同様、マイケルもその後、離婚歴のある女性と結婚して王位継承権を放棄した


王太后メアリー妃とウィリアム、リチャード

右下にウィリアム、その斜め後ろにチャールズ皇太子

















一般に王室の子息は軍の経歴を持つべく、海軍学校や陸軍学校に進むのですが、ウィリアムは1960年にイートンを卒業した後、ケンブリッジ大学マグダレーナカレッジに進学します。ウィリアムはふつうの学生として学生生活を送っていたため、周囲の人たちは彼が王子であることほとんど知らなかったそうです。
1963年卒業後は、スタンフォード大学で政治学、アメリカ史、ビジネスを学びました。









帰国後、ウィリアムは原因不明の発熱などで数ヶ月苦しみました。詳しい検査の結果、ポルフィリン症という血液の難病を持っていることが判明しました。
ポルフィリン症は、英王室やハノーファー家などの家系にたびたび現れる遺伝病です。王室の遺伝病といえば血友病が有名ですが、血友病がヴィクトリア女王時代から出現したのに対し、ポルフィリン症はかなり遡った時代から脈々とあらわれています。なかでもジョージ3世が罹患していたことが有名ですが、メアリー・スチュワートもポルフィリン症であり、ウィリアムの両親ともにメアリー・スチュワートの血を引いています。
治療は対症療法しかなく、重症化すると死に至ることもありますが、全ての保因者が発症するわけではありません。生後すぐ発症する場合もあれば、思春期後に発症する場合もあります。激しい腹痛と皮膚疾患、場合によって鬱や発狂に至ることがあります。日光に当たることで増悪します。
ウィリアムの場合は小康を保っているので、ひとまず日焼け止めを使って普通の生活をしていました。ポロやスポーツカードライブ、軽飛行機操縦や長期のバックパック旅行を楽しむアウトドア派のウィリアムなので、発症して暗闇で生活せねばならないとなれば耐え難かったことでしょう。













大学卒業後は王室のものとして外交に関わる仕事を始めます。1968年からは日本の英国大使館で従事しました。そこでウィリアムは運命の出会いをしました。Zsuzsi Starkloffとの出会いです。
スタルクロフは労働者階級のユダヤ系ハンガリー人で、16才で最初の結婚をしたが娘を連れて離婚、数年後再婚、アメリカ人パイロットの夫とともに日本で暮らしていました。スタルクロフ自身はレブロン化粧品の日本のモデルの仕事をしており、日本語も上手に話したといいます。
1968年、ウィリアムは当時27才、友人がパーティーを企画し、そこでスタルクロフと初めて会いました。簡単に紹介されただけでしたが、スタルクロフは手紙を書いてウィリアムのいる大使館に届けさせます。

"Dear Prince Charming. We heard a party is not a party without you, and besides I'm missing a slipper."

そこにこうサインしました。

"Cinderella" と。

そして彼はパーティーで、彼女のいるテーブルにやってきて

“May I borrow Cinderella for a dance?”


これは今でも彼女の中の最高の思い出だと、現在も存命の彼女が語っています。
6歳年上で2度の離婚歴と2人の子供の母でありながらシンデレラを気取るとは、私にはどうにも理解不能です。しかし彼らは惹かれ合い、東京近郊に家を借りて同棲を始めました。



次第にこのスキャンダルは周囲に知られることになり、当然のごとく反対されました。スタルクロフはたちまち「第2のシンプソン夫人」とあだ名されることになります。
ウォリス・シンプソンは2度の離婚歴のあるアメリカ女性で、まだ離婚していないうちから公然と国王エドワード8世の妻のように振る舞い、このことからエドワードは退位していました。スタルクロフの場合、プリンスの王位継承順位は低かったので(当時9位)その点では影響は少なかったものの、年上で子供もいて、外国人で、カトリック教徒のため異教徒の扱いになり、公には指摘されないまでもユダヤ人であることまで含め、あらゆる意味で王室に相応しくありませんでした。そんな中、ウィリアムの父ヘンリーが脳卒中で倒れ、ウィリアムは帰国しました。
数ヶ月後、スタルクロフはイギリスにやってきます。ウィリアムは意を決し、病気の父に気遣いながらも家族に彼女を紹介し、女王にも結婚の意思を表明しました。
家族も女王も表面上は温かく接したものの、結婚はいま一度よく考え直すように諭しました。
ウィリアムは塾考の末、一度、関係を“on hold”することにし、スタルクロフは娘のいるニューヨークへ行きます。
近年、スタルクロフが言うことには、その後もプリンスとはたびたび会っていて、死の直前にウィリアムから、結婚を成就できる可能性を見つけたので近いうちに会おう、という電話があったとのことです。しかしそれは、彼女の言葉以外に物的な証拠は何もないため定かではありません。
スタルクロフはその後アメリカに住み、再婚はしませんでしたが、愛人の勧めで軽飛行機のパイロット資格を取り、スクールを運営しているそうです。






ウィリアムの死は突然やってきます。
1972年8月28日。
かつて、悪天候下の16時間飛行も経験したベテランパイロットであるウィリアムは、パイロット仲間と二人組でレースに出場しました。
事故は離陸後すぐに起こりました。
高度がどんどん低下し、翼が木に接触したあと、観衆の視界から消え、その後爆発が起こりました。ウィリアムも同乗者も即死でした。

事故の原因を調査したレポートによれば、原因はいくつか考えられ、離陸時のエンジン出力不足あるいはほぼ同時に離陸した他機による妨害あるいは急激な旋回が、原因であった可能性が高いとのことです。ひとつ、専門的な分析で判明したのは、機体の落下状況からの推察によると、本来なら村の上でクラッシュしたはずのところを、彼らは最後に最大限の努力をして被害を避けた、ということです。

ウィリアムの死の報を受けて、オリンピックや各国への外交に出かけていた王室の人々はロンドンに急ぎ戻り、9月2日に葬儀が行われました。当時、病気が重かった父親ヘンリーに、母アリスは息子の死を知らせませんでしたが、父はテレビの報道でその死を知っていたのでした。
















30歳での早すぎる死。
切断された彼の未来は、どんな未来だったのでしょう。
その死から9年後、チャールズ王太子は将来の国王となるべき直系の息子の名をウィリアムとしました。
ウィリアムは、母ダイアナの離婚や事故死を乗り越え、現在33歳。
望み通りの結婚を果たし、世継ぎの愛児にも恵まれ、幸せな王子としての時を刻んでいます。
40数年前に絶たれたウィリアム王子の未来を、繋いでいる。時を超えて、顔貌のよく似た2人のウィリアム王子が手を携えて未来を歩む、あたたかな幻が見えるようです。

ケンブリッジ公ウィリアム 幼少時



ウィリアムと弟ヘンリー

ケンブリッジ公ウィリアム

ウィリアム・オブ・グロスター




haemophilia and porphyria

⬆︎王室に伝わる遺伝病の血友病とポルフィリン症をリポートしている番組です。
ビデオ前半が血友病、後半がポルフィリン症になっています。
レオポルド、アレクセイ、アルフォンソ、ジョージ3世、メアリー・スチュワート、ウィリアムが取り上げられています。





画像は感謝してお借りしました








遠い戦地で斃れて 「In Flanders Fields」

2015-09-19 23:08:13 | 読書

In Flanders fields,The poppies blow
Between the crosses, row and row,
That mark our place;
and in the sky
The larks,still bravely singing.,fly
Scarce heard amid the guns below.
We are the Dead.short days ago
We lived,felt down,saw sunset glow.
Loved,and were loved,
and now we lie in Flanders fields.
Take upon quarrel with the foe;
To you from falling hands we throw
The torch;be yours to hold it high.
If ye break faith with us who die,
We shall not sleep,
though poppies grow in Flanders fields.


John McCrae 1872~1918



フランドルの野に、
ポピーが咲いている
僕たちの居場所を示す十字架と交互に重なるように。
空には雲雀、今もまだ勇敢に歌いながら、飛ぶ。
その下に轟く銃声で、その声はほとんどかき消されていたけれど。

僕たちは死者だ。
数日前は生きていて、地に倒れ、
夕日が赤らんでいくのを見た。
愛し、そして愛された、
そして今
フランドルの野に臥している。
僕らの、地に投げ出された手から
きみへ灯火を引き継ごう。
それをきみのものにして高く掲げ続けてほしい。
きみがもし、死んだ僕たちとの約束をないがしろにするなら
眠っていられない。
たとえフランドルの野にポピーが咲き亘っているとしても。




第一次大戦西部戦線最大の激戦地のうちの一つ、イープルでの第二次イープル会戦では、西部戦線で初めてドイツ軍によって毒ガス(塩素ガス)が使用されるなど、対する連合軍は苦戦を強いられた。このとき、前線を守っていたのはカナダから派遣された兵団だった。


上の詩は、イープルの戦場にいたカナダ軍人ジョン・マクライが、戦死した親しい友人を翌日に埋葬したときの思いを記したものである。


We are the Dead.
short days ago
We lived,
felt down,
saw sunset glow.

Loved,and were loved,
and now we lie in Flanders fields.



イープルの戦場近くのフランドルには、小さく粗末なにわか拵えの十字架が並び、それらと折り重なるようにポピーの花が咲き乱れている。
ポピーの種は地に落ちても発芽せずそのまま眠り続け、何かの拍子に地が掘り起こされると芽を出し、花を咲かせるという。
まるでそれは、むなしく死んだ兵士への慰みであるかのように、十字架を覆うように咲いていたという。

死んだ友や他の兵たちの思いを記憶するために、医師であり詩人であるマクライが書き記した詩。


「愛し、愛された、そして今、、、」



彼らの胸に勲章は無く、「愛し」「愛された」思いだけを胸に抱き、地に眠る。
祖国ではない土に眠ることを、彼らが生まれた日には、誰も考えなかったことだろう。






John McCrae 1872~1918はカナダの都市ゲルフに生まれた。家族はスコットランド長老派教会支持者で軍人の父、母、兄トーマス、妹。



ジョンは人や動物に深い愛情を持ち、地元のカレッジに通い、詩作を楽しむ一方、軍へも関心を持っていた。14歳からHighland Cadet Corps、17歳からMilitary field batteryへ。
16歳でGuelph Collageを卒業し、トロント大学へ進学。しかしこの間にひどい喘息を患い、生涯この病に苦しめられた。
のち、オンタリオ農業学校で英語と数学の教師をしているとき、友人の18歳の妹に恋したが、まもなく彼女は亡くなり、ジョンは心底悲しんだ。ジョンはこのあと生涯を独身で過ごした。
1893年にトロントに戻り、学士(文学士)の学位を取得。その後、トロント医科学校へ進学し、病理学を学ぶ。1898年に医学士の学位を取得、トロント医科大学に勤めたが、彼の兄トーマスが研修医として勤務しているジョンズ・ホプキンズ大学病院に惹かれ、そこで著名な教師に師事した。



1899年10月、南アフリカでボーア戦争が起きる。
ジョンは病理学研究を中断し、カナダ砲兵隊として従軍。12月にはアフリカへ。
戦争が終わり帰国するとき、彼は複雑な思いを抱いていた。自国のための戦争は必要であると認めるのだが、病気や重傷の兵士らが惨めな扱いを受けることに心を痛めた。



このあと1914年まではジョンは軍隊から離れ、医師としてのキャリアを固め、充実した私生活を過ごす。

1901年、モントリオールに戻り、病理学をまとめた。1902年は数ヶ月間イギリスのThe Royal College of Physiciansで研修も。
1905年以降は複数の病院での勤務や講義の他、自分の研究も続けている。
また、医学に関する執筆も幅広く手がけている。『Montréal Medical Journal and American Journal of Medical Science』に記事を書く。
1909年から1912年には、兄トーマスと共に病理学の教本も手掛けた。
ジョンは尊敬される教師であり、患者や同僚に対する熱意や責任感に優れた医師でもあった。
私人としては社交的であり、休暇にはイギリスやフランスなどへ旅行へ、そして日曜日には教会へ通うなど、公私にわたって多忙であった。
個人的に詩作を続け、他にも数々の芸術系クラブに参加している。また、彼の表現は言葉だけによらず、鉛筆スケッチも嗜んだ。



1914年8月4日、イギリスがドイツに宣戦布告する。
大英帝国のメンバーであるカナダも自動的に参戦することとなる。
3週間で志願兵45000人を募り、軍を組織。
ジョンは第1旅団砲兵隊から従軍する。
友への手紙にこう書いている。

It is a terrible state of affairs, and I am going because I think every bachelor, especially if he has experience of war, ought to go. I am really rather afraid, but more afraid to stay at home with my conscience.

ひどい情勢だね。でも僕は行く。全ての独身男性、特に従軍体験のある者たちは行かねばならないだろうと思うからね。良心に苛まれながら家で過ごすよりはいい。



ジョンは愛馬Bonfireを伴って戦地へ発った。



1915年4月、ジョンはイープル近く、フランドルの塹壕にいた。
4月22日、第2次イープルの戦いにて、ドイツ軍は膠着を破るために塩素ガスを使用、正面近くにいたカナダ軍は大損害を被るが、16日間前線を死守した。ジョンは塹壕で、何百という死者や死にゆく人々のなかで、重傷者の手当てを続けた。
母への手紙によれば、


The general impression in my mind is of a nightmare. We have been in the most bitter of fights. For seventeen days and seventeen nights none of us have had our clothes off, nor our boots even, except occasionally. In all that time while I was awake, gunfire and rifle fire never ceased for sixty seconds ..... And behind it all was the constant background of the sights of the dead, the wounded, the maimed, and a terrible anxiety lest the line should give way.

僕の印象としては、まるで悪夢です。僕らは戦場の最悪の戦いの中にいる。17日間、昼も夜も、誰一人、余程のことがない限りブーツはもちろん服も着替えられないのです。起きている間じゅうずっと、砲撃や射撃の音が60秒も途切れることはありません。その後方には、死者、重傷者、後遺症のある者、そして恐ろしい不安が常に存在しています。


こうした日々の中で、ジョンは最も親しかった戦友を喪う。フランドルの野に、友の間に合わせの埋葬する。十字架と、それを包もうとするかのように咲きわたるポピーの花。
虚しく戦地に果てることになった友らの、語れない言葉を代弁するべく、彼は詩を書いた。


「In Flanders fields, ー


彼の最後から2番目の作品となった。
この詩は1915年、イギリス『Punch』誌に掲載され、たちまち広まり、多くの言語に翻訳され、戦場の悲哀を伝える最も有名な詩となった。

一方、この詩を書いてまもなく、ジョンは転属になった。フランス北部の軍施設の病院のチーフに任命されたが、寒く、湿った気候のために持病の喘息を重くしてしまった。
この病院はテントでしかなく、1560床、26エーカーもの大施設で、常に扉は開け放しだった。ここには、名だたる激戦地ソンム、第3次イープル、パッシェンデールなどから続々と重傷者が運ばれてきた。

ジョンはイープルの戦い以降、精神的にひどく消耗し、喪失感に苛まれていた。
友人によれば、フランスへ行ってからは、ジョンの、人を惹きつけるような明るい笑顔は失われてしまったという。
彼の慰みは、愛馬に乗って散策することと、Bonneauという名の犬をかまうことだった。





塹壕戦では劣悪な環境と恐怖のために精神に異常をきたす兵がたくさんいた
この人は泥に侵食されそう
生きながらポンペイを体現しているかのようだ







1917年夏、喘息の発作から気管支炎を起こし悪化、1918年に入ると重症の肺炎になった。
そして1月28日、肺炎と髄膜炎により、ジョンは亡くなった。

ジョンの葬儀は、フランドルから遠くないBoulogneで、軍による正式な形式で行われた。Bonfireが葬列を率いる。その鐙には、ジョンのブーツが後向きに掛けられていた。
その日、Wimereux Cemetary(墓地)には春風がそよぎ、彼のまさに好んでいた風景のように、広野に陽光が満ちてあふれていたという。



ジョンは戦争に対する自らのモラルのために、自分の築いてきた経歴をストップして戦場に向かった。しかし現実の戦場は、その高いモラルの足場を崩すほどの、残酷な悪夢だった。
ぎりぎりの理性と優しい心で保っていた詩人の感性がひとひら輝いて、破滅の中に消えていく美しい世界を伝えている。
しかし、この光景はほんの一場面でしかない。
戦場の悲しみを美しく讃える一断面であって、この光景の裏には膨大な数量の、残酷極まる場面がある。それは忘れてはいけない。

ジョンは敢えて残酷な景色を読者から隠そうとしたのではないことは理解できる。彼ら死者は、人生の終わる直前のときまで悪夢の中を生きていた。
死んでなお、その苦しみを噛みしめることはない。死者の手は苦しみを照らす灯りを生者に差し出し、ようやく解放されて眠れる。その受け渡しのひとときを、精一杯人間的な静謐な心で迎えることはどうしても必要だったのだと私も思うからだ。つまり、生きる者としては生き地獄を正視する義務があり、死者=犠牲者は悪夢から解放され、人間を取り戻す瞬間を得る権利を授かる。その、過酷で優しい分断を描いているのだと思う。











『我ひたすらに眠りたし』

この言葉を思い出した。太平洋戦争で日本軍のある部隊が玉砕攻撃をして、最後に部隊長らが玉砕の報告を東京に通信し、通信機を破壊して自決する。多くそうした事例がある中で、この言葉で締めくくったものがあった。
この、素朴すぎる一言、軍人の最後の言葉にしてはあまりに卒直だからこそ強く心をえぐられるものがある。



John McCrae's War - In Flanders Fields - Documentary





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皇女マリアに憧れた ルイス・マウントバッテン

2015-09-12 20:51:43 | 人物
ロシア皇女マリアに憧れていたイギリス王族
ルイス・マウントバッテン卿



Louis Mountbatten
1st Earl of Mountbatten of Burma
1900~1979



ルイス・マウントバッテンは1900年6月25日にイギリスで生まれる。父はルイス・アレグザンダー・マウントバッテン(のちに初代ミルフォードヘイヴン公爵)、母はヴィクトリア女王の孫ヴィクトリアである。


ヴィクトリア女王女系の曾孫であるルイス。
母ヴィクトリアはヘッセン家出身、ヴィクトリアの母は、ヴィクトリア女王の娘アリス。
ヴィクトリア女王から出現した血友病保因子は娘アリスに受け継がれている。
アリスには4人の娘がおり、上からヴィクトリア、イレーネ、エリザベス、アリクスであるが、このうちイレーネとアリクスは男子に血友病が出ており、エリザベスは子供はなかった。
長女ヴィクトリアにおいては、その後の女系3代にわたって16人の男子に1人も血友病は出ていない。兄のジョージとルイスは血友病を免れたが、プロイセンの従兄のヴァルデマールとロシアの従弟のアレクセイは血友病だった。

ルイスの母ヴィクトリア
マリアの母であるロシア皇后アレクサンドラはルイスの母の妹にあたる
ルイスとマリアは母方の従姉弟


皇帝一家の別荘にて
左から ルイス、タチアナ、マリア、アナスタシア


ルイスとアレクセイ

ロシア皇女のオリガ、アナスタシア、ロシア皇太子アレクセイ、ヘッセン大公世子ゲオルク=ドナトゥス、ヘッセン大公子ルートヴィヒ、ギリシャ王女マルガリタ、セオドラ、イギリス王子ルイス
後方中央に皇女マリア、後方左はアレクセイのお付きの水兵デレヴェンコ


ニコライ皇帝、叔父ヘッセン大公エルンスト(ルイスの母の弟)、従兄ヴァルデマール、従兄ジギスムント(ルイスの母の妹イレーネの子)、座っているのがルイス


王室の従兄弟姉妹たちは皆、バカンスの遊び友達であった。ヘッセン家やデンマーク王室の子供達はもちろん、ロマノフ家の皇女たちとも親しく過ごした。そうしているうちに、ルイスはロマノフ家の三女マリアに一途な恋心を抱くようになった。

マリアは1899年6月26日生まれ。ルイスよりほとんど1才の年上である。








当時のルイスのマリアへの想いが綴られている。

“I was mad about her,
and determinated to marry her.
You could not imagine anyone more
beautiful than she was.
She was far more beautiful than
her photographs.
She was absolutely lovely.
When I was 18 she was killed
at the age of 19.
All my life, I never forgot her.”




まだ10代の少年の真っ直ぐな恋心。
飽かず眺めたであろう写真よりも、本当の彼女はずっと美しいのだと力説する。
彼を夢中にさせたマリアがどのような女性であったか、から記したい。


皇女マリアはロシアのニコライ皇帝の三女である。ニコライの子女は、

長女オリガ 1895年生
二女タチアナ1897年生
三女マリア 1899年生
四女アナスタシア 1901年生
皇太子アレクセイ 1904年生

左からマリア、タチアナ、アナスタシア、オリガ、アレクセイ





オリガ
穏やか、素朴、優しい性格。思慮深い。
家事は嫌い。
適齢期を迎え、縁談も持ち上がっていた。
ルーマニア王太子カロル、イギリス王太子エドワード、、。国内でも皇帝の推すドミトリー大公のほか、コンスタンティン・コンスタンティノヴィチ大公の三男コンスタンティン公はオリガに憧れていた。

タチアナ
長身で、皇室らしい高貴な顔立ちで美女の誉れが高かった。そのゆえか取り付きにくい様相もある。母皇后と通じるところがあり、姉妹の取りまとめ役であった。器用で家事もよくこなし、病臥中のアレクセイの世話もした。
セルヴィア王は王太子アレクサンダルとの縁談を望んでいたという。

アナスタシア
姉3人と比べると器量は劣るが、強烈な個性で人々を虜にした。頭の中は悪戯のプランでいっぱい、足を掛けて転ばせたり、とんでもないことを言ったりするため、時に人を不愉快にさせることもあり、ともに遊んだことのある身内の子供達は蹴ったり引っ掻いたりする彼女を意地悪だったと追想している。
物真似上手な道化者、木登り好きなお転婆娘は、同じく悪戯者の弟アレクセイを楽しませるのが誰よりもうまかった。

マリア
穏やかで優しく、5人の真ん中として目立たない存在であったが、温かみのある美しさでは際立っていた。姉2人にいいように使われることもあり、耐えかねて激しく抗議することもあった。勉学には興味がなく、結婚や家庭を夢見る。幼い頃からロシアの兵士と結婚したいと言い、こどもがたくさん欲しいとも。
結婚に憧れる10代少女は夢見がちで、少々怠け者でもあった。


マリアは左利きだったと言われています
この写真では左手で絵を描いているようです


1910年にマリアは片思いで悩み、母に心配をかけている。オリガと破談になったカロル王太子が、のちにマリアとの結婚を望んできたが若すぎるとしてニコライが断った。
戦時中、父や弟をモギリョフへ訪ねた時、その地で出会ったデメンコフ将校に恋し、その後幾度かお茶会で会ったり、電話で話したり、シャツを縫ってプレセントしたり、父への手紙に「デメンコフ夫人より」などとふざけて書いたり、まさに恋に生きようとする愛らしい女性であった。


マリアが恋したデメンコフ

思春期に入ってからは太り始め、本人も母親も心配していた。そのためか、大人の男性も持ち上げられるほど力持ちだったので、病気のアレクセイに度々「僕を運んで」と呼ばれた。
マリアは美しい水色の大きな眼が特長で、家族に「マリアのソーサー」と呼ばれていた。
最後の幽閉先イパチェフ館においても、マリアは警護兵と親しく話した。タチアナも会話に加わることがあった。仲良くなった警護兵はマリアの誕生日にこっそりケーキを持ち込んで、隠れて二人で祝っていたところを見つかり、警護兵は追い出され、マリアは、兵士らと距離を置こうとする母やオリガにひどく叱られ、軽蔑されたというエピソードが伝わっている。


ルイスの夢中になったマリアは、どうやら別の方向へ恋心を向けていたようだ。
しかし、少年の日の憧れの気持ちはその後も彼の心の奥で灯され続けるのである。




アナスタシアとマリア お転婆なアナスタシアが悪戯して誰かを困らせるとマリアが代わりに謝っていた



マリア、オルガ、ルイスの兄ゲオルク



病院へ戦争で負傷した兵への慰問に訪れたマリアとアナスタシア

姉妹の容貌は皆それぞれで似ていないがマリアと弟アレクセイは似ている。
アレクセイ誕生のとき口さがない貴族たちは、皇太子は当時のアレクサンドラの愛人(本当に愛人であったかは疑わしい)の子だと囁いていた。しかしアレクセイがマリアとこれだけ似ていれば根拠のない噂になり下がるはずである。


アレクセイ(上)とマリア(下)が似ている

ルイスの父ルートヴィヒ・フォン・バッテンベルクは、ヘッセン=ダルムシュタット大公家から貴賎結婚により分家した伯爵家。ルートヴィヒは14才からイギリス海軍に所属し、イギリスに帰化した。ヘッセン大公家のヴィクトリアと結婚し、2男2女に恵まれた。上から、アリス(ギリシャ王子アンドレオスと結婚、エリザベス2世王配フィリップの母)、ルイーズ(スウェーデン王グスタフ6世と結婚)、ジョージ、ルイス。
一番上のアリスとルイスは15歳離れている。

父母と姉アリス、姉ルイーズ、兄ゲオルク、母の膝にルイス







姪達と

姉アリスの夫アンドレオスとその娘マルガリタと

イギリス海軍学校へ 母と




ルイスは11歳から王立海軍学校へ。第一次大戦も経験している。
イギリス王太子エドワードと親しく、よく遊び、ハワイのワイキキビーチでサーフィンもした。

1922年7月18日、ルイスは裕福な貴族の女性エドヴィナ・アシュレイと結婚する。
奇しくも、マリアの命日7月17日から4年と1日が経過していた。

Davidこと王太子エドワードと











細身でハリウッド女優のように美しいエドヴィナ
1901~1960


エドヴィナはルイスの兄ゲオルクの妻ナデジタと度々一緒に旅行に出かけ、とても仲が良かったため、同性愛を疑われていた。ナデジタは他でも同性愛を疑われていた。また、インド総督夫人時代からネルーとも親しく、訪問を重ねていた。一方、ルイスの方にも一時期愛人がいたし、同性に関心を持っていたとも言われている。



第二次大戦が始まると、ルイスは海軍将校として再び戦場へ向かう。1942年のディエップ港奇襲作戦で大損害を被るが、その後、東南アジア地域連合軍(イギリス、アメリカ、中華民国、オランダ、オーストラリア)に転属し、日本軍とビルマで戦った。

日本は欲をかいて推し進めたインパール作戦で泥沼にはまり、自滅していく。また、日本一国で多国籍軍と対峙するために、防衛線が延び、維持できなくなっていた。1945年、日本の降伏にルイスも立ち会った。
その後、1947~1948年はインド総督となり、インドーパキスタン分離独立を導いた。
数々の輝かしい功績を持ち、数知れず受勲しているが、その紹介は割愛させていただく。
敵国であった日本を嫌い、遺言で自分の葬儀に日本からの参列は認めないこととした。





マウントバッテン夫妻とネルー


ルイスは子供の頃からDickeyと呼ばれ、David(王太子エドワード)の良き友であったばかりではなく、姉アリスの一人息子フィリップの育ての叔父でもあり(フィリップは家庭の事情で祖母ヴィクトリアに引き取られてルイスとともに育てられた)、チャールズにとっては祖父にかわる存在だった。



若いエリザベスとその妹マルガレーテを初めてフィリップに会わせたのはルイスであった。
Davidには、独身を謳歌して享楽的に生きることを勧める一方、のちに若い女性としっかりとした結婚生活を持つようにとアドバイスしたが、年上人妻とばかり交際するDavidは結局、年下だが2度の離婚歴のある平民女性との結婚を望み、一年足らずで王位から降りた。
孫のように慈しんだチャールズへは、自分の孫との縁談を持ちかけていた。相手が若いため、周到な段取りの計画を、チャールズとともに進めていて、1980年にチャールズとルイスはインドでお相手と会う計画をしていた。

しかし、それは結局破談になった。
1979年8月、ルイスはIRAによって爆殺された。家族とともに。

ルイスはアイルランド、ドネゴール湾の小さな古城でいつものように娘夫婦や孫たちとバカンスを過ごす。しかし、この年、IRAの動きは過激化し、北アイルランドに近いこの地は危険であると警告されていたが、ルイスは気に留めず、警護もほとんどつけず、家族たちと自分のボートで出かけようとした。

双子の孫ニコラスとティモシーを抱く


孫たちと過ごすルイス

9.1メートルの木製ボート。そのエンジンに、ラジオコントロールの爆弾23キロが仕込まれていたのである。
ボートが岸を離れてまもなくだった。
爆音とともに砕け散ったボート。
エンジンの真上で操縦していたルイスは両脚が吹き飛ばされた。近くで漁をしていたボートに引き上げられた時はまだ生きていたが、岸に着くまでに息がなくなった。
同乗していた人のうち、14歳の孫ニコラス(長女パトリシアの8人の子のうち一番下の双子の1人)、娘の夫の母ドリーン、双子の友だちでボートの漕ぎ手として同乗していた地元の15歳の少年が巻き添えで亡くなった。



“All my life,I never forgot her.”


その言葉通り、ルイスのベッド脇のテーブルには永年ずっと、彼のその死の日にも、
皇女マリアの写真が飾られていたという。










マウントバッテンの葬儀でのフィリップ

Mountbatten Death of a Royal(動画)



マリアの死からは61年。
マリアはロシアの帝政が滅びるのとともに命を断たれた。
イギリスの王政は今も存続している。
ルイスの生きた1918年以降の61年間、最後は海軍元帥となった立派な「兵士」であり、英国貴族としても王室に影響を与える人物であった。

家族とともに銃殺され、未来を閉ざされたマリアは、その遺体も硫酸をかけられ、切断され、火に焼かれている。そして土に埋められた。

ルイスも身はちぎれ、海に飛散した。

遠い地で、遠い時間を隔て、ともに暗殺によって一瞬で散っていったマリア、ルイス。
20世紀のロミオとジュリエット、というには淡い恋にすぎるかもしれない。





love of my life/Queen



これは犠牲となったニコラスの双子ティモシーの回想です。生死に引き裂かれた双子の悲しみが語られています⬇︎
My twin brother was dead(Daily Mail)


上記記事からの抜粋と訳です。


'I was utterly devastated. Nick was my soulmate. I didn't think I'd know how to lead my life without him.'

'Nick's heart started beating next to mine, three weeks after our conception, and we'd hardly been separated in the 14 years and nine months since our birth. Not to have that last goodbye was utterly wrong.

'I could imagine his presence on the landing above and I surprised myself by calling out his name.
'Then it was as if he'd come downstairs and sat on the sofa opposite me. I started to scratch out the words I wanted to say to him: "I love you, miss you. I'd choose to come back again as a twin, if I could have you again."
'And as I wrote, the tears convulsed me. At the end I had unlocked such a bucketful of deeply-held and pinned down inner grief that I knew this was a defining moment in my life.'

For Tim it marked the end of his mourning; the final lifting of an emotional burden. He has not spoken to his twin since - although he often speaks of him - and for him this is a happy conclusion: he has regained a degree of peace and finally said his proper goodbye to Nick.


「僕はひどくショックを受けた。ニックはぼくの心友だったのだ。彼なしで僕が生きていけるだなんて思えなかった。

受胎3週後からニックの心臓はぼくのとなりで動き始めた、そして生まれてから14年と9か月後、ぼくたちは引き離されてしまった。最後に別れの言葉が言えなかったことは非常によくないことだった。


(ティムはある日、人手に渡る前のあの城を一人で訪れた)

ぼくは彼の降臨を想像できた、そして自分でも驚いたことにぼくは彼の名を叫んでいた。

するとまるで彼が階段を下りてきて、ぼくの向かいのソファに腰掛けたかのようだった。ぼくは彼に言いたかった言葉を吐き出した。

『きみを愛している、きみがいなくて寂しいんだ。もう一度きみを取り戻せるなら、また双子としてやっていこうと思ってるんだ。』

涙が滝のように流れた。最後には、深く止め置かれた心の底のあふれるほどの悲しみは解放されて、これがぼくの人生にとっての決定的な瞬間だったことがわかった」

ティムにとってそれは彼の弔いの終わりを示した。感傷的な重荷の最終的な消失になった。彼はあれ以来その時まで、双子のかたわれに語りかけることはなかったが、今は語りかけている。いい結末となった。彼はある程度平和を取り戻し、ついにニックにきちんとした「さよなら」を言えたのだ。



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"詩と銃弾" エルンスト・ユンガーの『パリ日記』

2015-09-02 22:23:38 | 読書
20世紀 2度の大戦に従軍
戦争を果敢に生きながら詩的世界に耽る
エルンスト・ユンガー





Ernst・Jünger (エルンスト・ユンガー)
1895年3月、ドイツハイデルベルク生まれ。1998年2月ドイツリートリンゲンにて102歳で死去。
第一次及び第二次大戦に従軍、戦間期から晩年まで著作活動を続けた。



青少年期

1912年 友人たちと



活動的で好奇心旺盛。
ギムナジウムを持て余していくつも転校し、ワンダーフォーゲル活動を通じて世界に興味を拡げる。冒険心が高じて、アフリカ赤道地域に行きたくなり家出、興味のおもむくまま、北アフリカのフランス外人部隊へ参加するも、父に連れ戻される。
第一次大戦が始まると、志願して出征。ソンム、ヴェルダンなどの西部最前線からルーデンドルフ大攻勢まで、名だたる激戦のなかで特攻隊隊長だった。14度負傷し、うち8度は重傷。3つもの勲章を受章する。














戦間期

1923年、軍を退き、1923年ミュンヘン大学へ。結婚し2子を得る。
文筆を通して革命的ナショナリズムの思想的指導者となる。ナチ党からの出馬依頼もあったが、距離を置き、反ナチ、非ナチの立場を通す。
1938年、ナチにより執筆活動を禁止させられた。





第二次大戦~

同年、第二次大戦で召集される。
仏語能力を買われ、パリのドイツ軍司令部での私信検閲に携わる傍ら、パリ在住のフランス人と知的交流に耽る。ピカソのアトリエを訪ねてもいる。








1944年7月、ヒトラー暗殺計画に関わったとして解任された。
なお、この年の11月、息子エルンステルがイタリア戦線カララ山中にて戦死。ユンガーには二人の息子がいたが、そのうちの長子である。
戦後から晩年は著作家として生きる。ハイデッガーとも親しく交流があった。



『パリ日記』概説

『パリ日記』は第二次大戦中でのパリでの生活と思索を綴った日記である。パリのドイツ軍司令部での生活は前線とは遠く、ユンガーは自由な時間を利用して、古書店巡り、文化人との交流、浮気相手との談話など、ドイツの将兵としてはすこぶる優雅な暮らしぶりだ。

なお、私信検閲担当ゆえに、当時起きたギ・モケらの集団銃殺(過去記事参照)において、彼ら犠牲者の残した手紙に目を通し、翻訳して残した。
また、職務上、ときに処刑立会い人になることもあり、刑死者に同情すれども淡々とこなすところは、戦場経験が豊富だからだろうか。自分に降りかかる死の恐怖などはすっかり克服しているようだし、タンク本格投入により一気に修羅場となったソンムやヴェルダン(「ヴェルダンの肉挽き機」とは、その戦場での酸鼻を極める様を表す)の戦場で友軍の兵が身のそばで次々に死体になり、朽ち果てていくなかにいたことで、周囲の死にも鈍感か、あるいは超越しているかのようだ。第一次大戦後に書かれた回想録では戦争を賛美しているようである。
この人も戦争による死という「宿命感」に陶酔しているのだろうか。

shortfilm『La Lettre』より
ギィ・モケ(ジャン=バティスト・モニエ)


『パリ日記』には、戦時中だからか、あるいは場所がパリだからか、退廃的な空気感が漂う。「死」が背中合わせの時代ゆえに死についての思索が多いが、かといって、生きることに否定的ではない。しかし、不正を見つめつつも抗うこともせず、冷めたアウトサイダーの立ち位置を維持している。ヒトラー暗殺計画に賛同しつつも、自ら手を染めなかったため、処刑を免れている。


以前の記事のウラディミル・パーリイはユンガーの2才下でロシア皇族の詩人。ケーテ・コルヴィッツの次男で画家志望だったペーターはパーリイ公と同齢で、ペーターはユンガー同様に志願して兵になった。同じ戦争に直面した同世代の青年達である。




『パリ日記』抜粋

今回はユンガーの『パリ日記』のなかから私個人が共鳴した部分を抜粋でここに紹介する。







『パリ日記』より

検証すべきは、プロパガンダがテロに移行する道。】
1941年11月2日



【未来は流動的で、過去は不動である。その全体はトランプのゲームにも似ている。捨てたカードとまだゲームができるカードの違いを見極めねばならない。】
1941年11月12日



【われわれの生は、鏡に似ていて、たとえぼんやりと曇っていようとも、そこに意味深い事物が映し出される。
いつの日にかわれわれはこうした鏡に映し出されるものの中に入って行って、やがては完成を手に入れることになる。
われわれが担うことになるその完成形は、われわれの生の中にすでに示唆されている。】
1941年11月18日



【何事も、果てしないもの、名もなきものの中に滅びて行く前に、残像の中、思い出の中でしばしばかつてあったものより美しい。】
1942年2月17日


【死が個人を分離する壁を取り壊す。死は最高の天分の瞬間になるのであろう。マタイ福音書第二十二章三十節。われわれの真のきずなは死の背後で、その時間の背後で、神秘の結び目を作る。われわれは光が消えるとき見えるようになる。】
1942年2月22日


【死への憧れは。浅緑色の浜辺の涼しさへの憧れのように、】
1942年7月4日


【思い出には逆向きの因果関係という特徴がある。作用としての世界が木のように幾千もの枝を出しているとすれば、おもいでとしての世界は叢の中に下がって行く。思い出に耽っているとき、私はしばしば、海から海草を採っているような気になる。ある一点で目に見えるようになった一束を、私はゆっくり枝分かれしたところから明るみに引き出す。】
1942年7月5日


おそらくわれわれも今日こうして過去の祈りによってだけでなく、われわれの死後に唱えられる未来の祈りによって生きているのである。】
1942年7月7日


【われわれはいつ、戦争が終わるのかなどと言った不毛なことをいつも考えていてはならない。いつかなどはわれわれには関わりのない日付なのである。そうはいっても、嵐の中でも我々に、そして他人にも喜びを与えることはできる。そのとき平和の兆しを手につかむことになる。】
1942年10月14日



【砂時計のさらさら流れる音には機械化されていない「時」、運命の「時」が織り込まれている。これらはわれわれが森のざわめきの中に、磯の砕け散る波の音に、雪片の渦巻きの中に感じる「時」である】
1943年4月11日


【イメージでではなく、概念で考える者は、言葉に対して、人間を見ず、社会というカテゴリーしか見ない人間と同じ残忍な態度をとる】
1943年5月6日


【すべてが等しく重要になるところでは、芸術は消えざるをえない。、、精神の偉大な軌道はそれゆえ芸術を超えて行く。そのように賢者の石は次第に純粋に絶対的なもの、混ざり気のないものに向かう一連の蒸留の最後にある、、この石を所有する者は精錬の術〔化学)をもはや必要としない。】
1943年5月23日
→死を目前に差し向けられたウラディミル・パーリィの手紙の記述に類似の省察があった。自ら真理をつかもうとするウラディミルのまっすぐな思考と焦燥、一方ユンガーは書いている内容と裏腹に、芸術的な表現で、姿勢は客観的である。年令、時代の差もある。


われわれの言葉は投擲であって、、、年月のかべの背後で誰がその言葉に当てられるか、われわれは知ることはできない。】
1943年6月25日



【近づいてくると感じる災いに名前を与えるべきではない。さもないと、運命に一つのモデルを与えることになり、運命がそれに従って出来事を作り出すようになる】
1943年9月13日
→日本人の「言霊」に通じると思う


【消えてなくなるなら、夢のように消えるなら、どんなに素晴らしいか、といった表情に出会う。あらゆる国の人たちが一種の熱病のように流血の順番が自分たちにやって来る瞬間を待っている。しかしまさにこのことから人は守られねばならない。】
1943年9月29日
→宿命に身を委ねる前に、神に委ねる前に、なすべきことがあるのだと。


【こうした住居が数万もそこに住んでいた人々の思い出もろとも一夜にして抹殺されたのであった。嵐で吹き飛ばされた鳥の巣のようである。、、、
そして人間は放火したくて仕方がなかった。必然的にやって来たものが何であったかは、ロシアで教会を、ドイツでユダヤ教の会堂を燃やしたとき、同じ人間を法を無視し判決もないままに強制収容所にぶち込んだとき、推測できたのである。】
→ロシアではボリシェビキによって帝政だけでなく正教会の撲滅もおこなった。亡命しなかった聖職者たちは貴族同様、問答無用で殺害された。この先に進めば打つ手はない。
1943年11月27日


【これは夢には典型的なことで、夢では母と妹と妻の顔を同時に持っている女性と会うこともある。こうした薄明かりの中でわれわれは原像の世界に足を踏み入れている。われわれはいつもは見えないものを夢の中で見るのである。】
1943年12月18日


【たくさんのドームの中で残るのは、組み合わせた手の円蓋によって作られるドームだけである。その中にのみ安全がある。】
1943年12月31日
→ケーテ・コルヴィッツの彫刻作品の手の表現。あれが手の円蓋


【砂時計の時間はもう一つ別の、人生により親密に結びついた時間なのである。時刻を刻むこともなければ、針を進めることもない。それでもここには時間がある。進んでいく時間、過ぎ去って行く時間、さらさら流れていく時間。】
1944年4月3日



【死刑の場合、一般的には心臓を狙う。しかし銃殺すべき者が気に入らないときは、頭を狙う。頭はバラバラに飛び散る。これは非人間的なやり方で、隣人の顔を奪う意志、形を崩してしまう意志である。彼はどこを狙おうとするのだろうか。おそらく人間の姿に一番近いところにいる人たち、良くできた人たち、親切で優しい人たち、品のいい人たちである】
1943年5月29日
→頭を銃撃したり硫酸をかけたりして顔を破壊すること、パリ解放後にドイツ兵と関係していた女性の髪を見せしめで丸坊主にすること、絶滅収容所で囚人番号を腕に入墨し、名前を奪うこと。そのような卑劣な刑罰を受けるに値する罪状があるというのか、そしてそれを断罪する者は誰だというのか。



【国の区別を超越するには、二つの道がある。理性の道と宗教の道である。】
1943年7月13日
→『背教者ユリアヌス』(辻邦生)にて深く追究されている。


【第一次大戦のとき、私の友人は次々と銃弾に倒されていった。これはこの第二次大戦にあっては幸運な者の特権である。そうでないものは獄中で朽ち果てて行く。自らの手であるいは獄吏の手で死ななければならない。】
1943年8月1日
→捕虜、強制労働、集団処刑など。


【大きな転機はどれも無数の個人的な別れの中で行われる。】
1943年8月13日






最後に、エルンストの息子エルンステルに関する記述を引用する。
『ヨーロッパの100年』(ヘールト・マック)より

ヴォルフ・シードラーはシュピーカーオークの寄宿学校の愉しげなクラス写真をもっている。おそらく43年から44年の冬に撮られたものだ。少年たちは海軍の軍服を着ており、エルンステル・ユンガーは誰かの首を斧で切るポーズを取っている。ヴォルフ自身はその2人の左側に立ち、他の少年たちは面白そうにそれを見ている。この写真のほとんどの少年たちは「フラックヘルファー」と呼ばれていた海軍の高射砲部隊の補助員だった。「それは軍服を着て、高射砲を撃つ手助けをするということでした。通常は授業を受け、空襲警報が鳴ると授業の中断を喜びながら大砲にかけつけました」
1944年1月、突然、2人の男がヴォルフ・シードラーとエルンステル・ユンガーの前に現れ、他の何人かの少年たちとともに海軍法廷に連行した。
「われわれは仲間うちで、戦争は負けたも同然で、親衛隊の犯罪はひどいし、ヒトラーは絞首刑にせねばならないといったことを喋っていました」。、学友の1人がその会話を何週間もゲシュタポに通告していたのだ。、、、
、、幸いなことにクラスメート全員が被告の味方だった。「それでわたしは命拾いしました。海軍軍事会議がエルンステル・ユンガーとわたしをナチスの法廷から遠ざけておいて、数ヶ月の禁固刑で済ませることができたのは奇跡のようでした」
おそらくその奇跡は、エルンステルの父親がドイツ国防軍で伝説的名声を博していたという事実と関係しているのだろう。「作家で第一次世界大戦の英雄だったエルンステルの父エルンスト・ユンガーは軍服でわれわれの独房を訪問しました。軍服姿を指摘された彼は、『この時代に勲章を栄誉とともに身につけることができるのは独房にいる息子を訪ねるときだけです』と言っていました」
結局、2人の少年は1944年の秋、いわゆる「昇天コマンド隊」の一員としてイタリア前線に送られた。ヴォルフはすぐに負傷し、それが命拾いとなった。エルンステルは戦闘初日に死亡した。彼の両親に知らされたのは何週間もたってからのことたった。父ユンガーの日記には、1945年1月11日付でこう書かれている。
「エルンステルが亡くなった。わたしの愛しい息子は昨年11月29日にすでに亡くなっていたのだ!」





考察

映画「シャトーブリアンからの手紙」で、ユンガーは主役の対極のような存在として位置しています。ユンガーの弱点を見事に表すシーンがあります。
高級ホテルのサロンで友人のオペラ歌手のフランス人女性との対話。



「観察者がいい」

「言い換えれば、のぞき魔?」

「行動を恐れはしないが、私は軍人だ。暗殺者ではない。それに、歴史を変えたいという誘惑をかんじない」(ヒトラー暗殺計画の話題があった)

「でも変えてる。ここで占領によって」

「私がしているのは、軍服の名誉を汚さないこと。周囲の不幸を忘れないこと。路上でユダヤ人の家族が逮捕されるのを見た。子供の泣き声が耐え難かった」

「軍服で救えなかったの?」


世界の状況がどんどん手に負えない方向に流れても、頭は冷めていて傍観できる。陶酔して流されながらも自分を失わない。
ユンガーの知性があれば、行動を起こせたのではないか。若い頃の行動力はどこかで封印してしまったのか。
観察者、傍観者、局外者、アウトサイダー。ヘルマン・ヘッセも小説の中でアウトサイダーとは何たるかを描いていたが。
もちろんこの時代、行動を起こすことは命を代償にとられることになる。

自分の能力に応じて求められていることを為すのは人生に課せられた義務だ、というようなことを、既出ケーテの祖父は銘としていたらしい。

ユンガーはその点惜しく思われてならない。
陶酔に耽っていることは判断停止。









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