血友病治療のための血液製剤でHIV感染
AIDSのポスター・チャイルドとなった
13歳の少年 Ryan Wayne White
1989年日本での薬害エイズ事件をご記憶の方は多いでしょう。安価な非加熱の輸入血液製剤を投与された多くの血友病患者がHIV感染を起こしました。
血友病治療のために使用される高濃縮凝固因子製剤は、日本国内の献血では需要を賄いきれないため、売血が認められている米国からの輸入血液が使用されていました。1982年頃より、血友病患者のAIDS発症が世界で報告されるようになり、各国で加熱製剤への切換を進める中、日本国内では非加熱でも安全性に問題はないとして継続使用した結果、血友病患者のHIV感染者が激増。2000人が感染、内半数が17歳以下、既に400人がAIDSにより亡くなっていました。
血友病患者以外にも手術時の止血に使用されることもあり、その場合は無自覚のため感染に気づくのが遅れました。
当時、日本国内ではAIDSについての正しい知識を持つ者はほとんどなく、不治の感染症として忌避され、やがて血友病イコールAIDS、との間違ったイメージも生み、血友病患者が差別や偏見に苦しむこともありました。
そうした一連の経過は既にアメリカで進んでいたのですが、日本の製薬会社や厚生省は利益を優先するために黙殺したのでしょうか。
1989年4月8日、アメリカインディアナ州の病院でAIDS発症の果てに亡くなったライアン・ホワイトは18歳。
13歳で非加熱血液製剤によりHIV感染してから5年半、AIDSのポスター・チャイルドとして米国民にAIDSの正しい理解を求め、その理解を獲得した彼はその日、短い生涯ながらも見事な果実を結び、人生の幕を閉じました。
それは彼の印象的な笑顔からは想像し得ない、困難な苦しみの上に築き上げられたものでした。
ライアンの死のことを書きましょう。
それはもう26年も前のことになります。
1971年12月6日、インディアナ州ココモに生まれたライアンは、生後3日目、割礼での止血困難から血友病であることがわかりました。
ライアンの家族は父母と、2歳下に妹がいます。
血友病でありながらも、幼少期は健康に過ごしていたのですが、13歳のときに重度の貧血になり、治療に非加熱血液製剤が投与され、HIVに感染してしまいました。
医師には余命6ヶ月と宣告されましたが、感染初期の急性期を乗り越え、学校(middle school)に復学できることになりました。
しかしそれが大きな社会問題になってしまったのです。
医師や保健師が、通常の学校生活において他の学生に感染するおそれはないと公表しているにもかかわらず、学生や保護者達はライアンの復学を拒否。学校側は登校は許可するものの、さまざまな制約を課してきます。例えば、食器は使い捨ての物を使用すること、バスルームは分けて使うこと、体育の授業はなるべく休むことなど。復学初日は電話で聴講させられました。さまざまな抵抗で登校を阻まれましたが、法律により登校は許可、この間既に約8ヶ月経過していますが、ライアンの登校した日には生徒350人中117人が学生本人の意志または保護者の意向により自主的に欠席しました。
学校だけではありません。ライアンは新聞配達もしていたのですが、新聞紙を介して「感染る」からと、ライアンのルートの家々では配達を断ってきました。
街を歩いているときにも、
"We know you're queer."
(おまえホモなんだろ)
と罵声を投げかけられるのです。
危険に怯えながらライアンと家族は過ごしていましたが、ある日、家族が不在中のリビングルームに銃弾が撃ち込まれました。
このことにより、家族は街を出ることを決意。
学期が終わるのを待ち、同じインディアナ州のCiceroに引っ越しました。
新しいこの町のHamilton Height High SchoolではAIDSについて正しい教育を受けており、ライアンは握手で歓迎されました。
ライアンはマスコミに取り上げられる一方で、新聞取材やテレビ出演を通じて募金や教育を呼びかけます。そうした活動に共鳴した著名人らが支援を行い、さらに啓蒙運動が拡大していき、AIDSに対する誤解や偏見が徐々に取り除かれていきました。
特に熱心に支援したのは、エルトン・ジョンやマイケル・ジャクソン、レーガン大統領(当時)夫人でした。エルトン・ジョンはライアンに16500ドルを寄付し、一方マイケル・ジャクソンは赤のムスタング・コンバーチブルをプレゼント。富豪の彼等からの精一杯の心遣いに違いないのですが、10代の普通の高校生でありたいライアンには過分な贈り物であり、こうした個人宛の贈り物を本心では喜ばなかったし、セレブのパーティーに招待されることよりも、自分に残された限られた時間を静かに過ごしたいと望んでいたそうです。
1989年には、ABC放送で『Ryan White Story』が放映されました。このドラマのなかでココモの町の人々が無慈悲に描かれていたため、放送局は住民に抗議されました。
ライアンを演じたルーカス・ハース
ライアンが最後に公式の場に姿を見せたのは1990年初め、レーガン元大統領夫妻とともに出席したアフターオスカーパーティーでした。
そのときのライアンは、高校卒業パーティーのことやカレッジ入学への希望などを話していたとのことです。
その後まもなく、ハイスクールを卒業しておよそひと月後、ライアンの容態は急速に悪化。1990年3月29日、呼吸器系に感染を起こし入院しました。エルトン・ジョンは見舞いに駆けつけ、病院の電話はライアンの容態を案ずる人たちからのメッセージで鳴り通しでした。
壮絶 ここに写し出されている腕の細さ!
4月8日、エルトン・ジョンも見守る中でライアンは息を引き取りました。
4月11日のライアンの葬儀には1500人超が参列、そのなかにはエルトン・ジョン、マイケル・ジャクソン、ブッシュ大統領夫人。他たくさんの著名人が参列しました。この日、レーガン元大統領はライアンの死を悼み、ワシントンポスト紙に寄稿しました。
後方にマイケル・ジャクソン
ライアンが18年の生涯を閉じた後も、多くの人々の心に彼の長い影は投影されていました。
ライアンの母がRyan White Foundationを、エルトン・ジョンもElton John AIDS Foundationを立ち上げました。
インディアナではThe Children's Museum of Indianapolisを設立、ライアン、アンネ・フランク、ルディ・ブリッジ(初めて白人の学校に通学した黒人女性)の部屋を再現し、子供も社会に対して力を発揮できることがあると考えさせるプログラムになっているようです。
AIDSは当初、ニューヨークやサンフランシスコのホモセクシャル間の特殊な病気ととらえられていたのですが、ライアンのような少年が罹患したことで、それはもはやLBGTのようなマイノリティー(当時の感覚)の病ではなくなったと認識されるに至りました。この病のこうした経緯から、ライアンは "innocent victim"(罪なき犠牲者)と呼ばれ、性的嗜好によって罹患した患者と区別して同情を寄せられる動向もありました。しかし、当のライアン本人はそれを好ましく思いませんでした。
"I just like everyone else with AIDS, no matter how I got it".
(ぼくがAIDSにどうやってかかったかには関係なく、ほかのAIDSの人達みんなと全く一緒なんだ)
AIDSとは、Acquired Immuno-Deficiency Syndrome、後天性免疫不全症候群、HIVすなわちHuman Immunodeficiency Virus、ヒト免疫不全ウィルスにTリンパ球やマクロファージが感染し、数ヶ月から10年程の間に体内でウィルスはHIVは増殖、免疫力を食い尽くしたところで日和見感染から死に至らしめる病気で、AIDS発症により微熱、下痢、肺炎を起こし、回復する力を奪われた体はどんどん痩せて死んでいきます。特にライアンにはもともと血友病もある。
病気というのは実に無慈悲で、死へのカウントダウンの恐怖以上に、決して解放されることのない絶え間ない苦痛をも受けねばならないのです。そして最も残酷なことに、病は決して美しいままには死なせてくれない。全てをあきらめろとばかりに、尊厳を失わせるほどに、姿を変容させるのです。やせ衰えていく姿を見て、周囲の者は心を抉られるほど悲しむでしょう。もしそれが我が子ならば、親はどれほど悲しむものか。しかし、真に悲しいのはやせ衰えていく本人にちがいありません。別次元の深い深い、底無しの悲しみにちがいありません。死んでいくものにしかわからない心境があるのだと思うのです。岸をどんどん離れて行ってしまうボートにひとり乗せられるかのような?
現代においては、血友病ではあってもAIDSのように死を突きつけられることはそうそう無いと言えるでしょう。
血液製剤に頼ったばかりに、
運命を書き換えられてしまった。
その上、社会に締め出されそうになった。
こんな大きな受難。にもかかわらず、ライアンの写真の笑顔は、まるで世界一の幸せを享受したかのように、なんと冴え冴えと輝いていることか。
わからなくなるのです。
死が、特に若者の、それが。
その死で幕は閉じられるのに、それが決して終わりではない、という‥。
それは残されたものの願望に過ぎないと、
心の半分が理解しているけれど。
ある衝撃波のインパクトの強さが余韻を残す。
その一撃が永遠の余韻を残す。
もう、つかまえることのできない波動‥
Gone Too Soon / Michel Jackson
Like A Comet
Blazing 'Cross The Evening Sky
Gone Too Soon
夜空を明るく燃えながら
横切っていった彗星のように
きみは行ってしまった
Like A Rainbow
Fading In The Twinkling Of An Eye
Gone Too Soon
目瞬きしてる間に消えてしまった虹のように
きみは行ってしまった
Shiny And Sparkly
And Splendidly Bright
Here One Day
Gone One Night
光るように、煌めくように
そして壮麗に輝き
朝に現れ、夜には消えて
Like The Loss Of Sunlight
On A Cloudy Afternoon
Gone Too Soon
午後の曇り空にさす一条の日差しが
一瞬で消え去るように
あまりに早くに
きみは行ってしまった
Like A Castle
Built Upon A Sandy Beach
Gone Too Soon
砂浜に築いたお城のように
きみは消えていってしまった
Like A Perfect Flower
That Is Just Beyond Your Reach
Gone Too Soon
高山に咲く、一輪の見事な花のように
きみは手が届かなくなってしまった
Born To Amuse, To Inspire, To Delight
Here One Day
Gone One Night
楽しませ、喜ばせ
感動されるために生まれてきて
昼にはいたのに
夜にはもういない
Like A Sunset
Dying With The Rising Of The Moon
Gone Too Soon
夕日のように
月が昇れば姿を消して
きみは行ってしまった
元々は早逝したジャニス・ジョプリンらに捧げられた曲でディオンヌ・ワーウィックによって歌われたものでしたが、こちらはそれをマイケルがライアンのためにアレンジしたものです。どなたかがこの曲で作った動画をyoutubeで観て、この曲のことを調べたことで今回ライアン・ホワイトを知ったわけです。
そちらの動画も、以前の記事「悲劇のロシア皇太子アレクセイ」の記事で連携できるようにしておきます。
画像お借りしました
雑記
AIDSを題材にした作品として初めて触れたのは、デレク・ジャーマン監督「BLUE」でした。
この作品は監督自身がAIDSで亡くなる前年に発表されました。日本公開時には既に他界していました。
内容は、自身が視力を失うことで味わう無力、友人達が同じ病で亡くなってゆく喪失感が、周囲の音や音楽に重ねて語られるものです。
当時私はこれを映画館に観に行きました。
もちろん、画面がずっとブルーだということは承知していったのですが。
最初から最後まで、本当に全く、ただの青い画面でした。色は青一色でも、キラキラしたり、グラデーションになったり、オーロラみたいにゆらゆらしたり、という勝手な予想は打ち砕かれ、全く何も映っていないに等しい青でした。開始10分以内に半分くらいの人たちが退出しました。
なぜか家にこの映画のCD(DVDにあらず)があるので、昔の私はこの作品を気に入ったのかもしれません。
亡くなっていった友人たちの名を哀切に呼ぶシーン(Sceneとはいえない?)には心を揺さぶられます。自らもまた同じように消えていく不安。
AIDSはまさに真綿で絞めるような病ではないでしょうか。自分がどんどん小さな点になっていって消失する。死ぬまでに、静かで残酷な末期を味わねばならないのでしょう。
遺作となったこの映画には、どうにもできない寂寥が感じられました。
AIDSのポスター・チャイルドとなった
13歳の少年 Ryan Wayne White
1989年日本での薬害エイズ事件をご記憶の方は多いでしょう。安価な非加熱の輸入血液製剤を投与された多くの血友病患者がHIV感染を起こしました。
血友病治療のために使用される高濃縮凝固因子製剤は、日本国内の献血では需要を賄いきれないため、売血が認められている米国からの輸入血液が使用されていました。1982年頃より、血友病患者のAIDS発症が世界で報告されるようになり、各国で加熱製剤への切換を進める中、日本国内では非加熱でも安全性に問題はないとして継続使用した結果、血友病患者のHIV感染者が激増。2000人が感染、内半数が17歳以下、既に400人がAIDSにより亡くなっていました。
血友病患者以外にも手術時の止血に使用されることもあり、その場合は無自覚のため感染に気づくのが遅れました。
当時、日本国内ではAIDSについての正しい知識を持つ者はほとんどなく、不治の感染症として忌避され、やがて血友病イコールAIDS、との間違ったイメージも生み、血友病患者が差別や偏見に苦しむこともありました。
そうした一連の経過は既にアメリカで進んでいたのですが、日本の製薬会社や厚生省は利益を優先するために黙殺したのでしょうか。
1989年4月8日、アメリカインディアナ州の病院でAIDS発症の果てに亡くなったライアン・ホワイトは18歳。
13歳で非加熱血液製剤によりHIV感染してから5年半、AIDSのポスター・チャイルドとして米国民にAIDSの正しい理解を求め、その理解を獲得した彼はその日、短い生涯ながらも見事な果実を結び、人生の幕を閉じました。
それは彼の印象的な笑顔からは想像し得ない、困難な苦しみの上に築き上げられたものでした。
ライアンの死のことを書きましょう。
それはもう26年も前のことになります。
1971年12月6日、インディアナ州ココモに生まれたライアンは、生後3日目、割礼での止血困難から血友病であることがわかりました。
ライアンの家族は父母と、2歳下に妹がいます。
血友病でありながらも、幼少期は健康に過ごしていたのですが、13歳のときに重度の貧血になり、治療に非加熱血液製剤が投与され、HIVに感染してしまいました。
医師には余命6ヶ月と宣告されましたが、感染初期の急性期を乗り越え、学校(middle school)に復学できることになりました。
しかしそれが大きな社会問題になってしまったのです。
医師や保健師が、通常の学校生活において他の学生に感染するおそれはないと公表しているにもかかわらず、学生や保護者達はライアンの復学を拒否。学校側は登校は許可するものの、さまざまな制約を課してきます。例えば、食器は使い捨ての物を使用すること、バスルームは分けて使うこと、体育の授業はなるべく休むことなど。復学初日は電話で聴講させられました。さまざまな抵抗で登校を阻まれましたが、法律により登校は許可、この間既に約8ヶ月経過していますが、ライアンの登校した日には生徒350人中117人が学生本人の意志または保護者の意向により自主的に欠席しました。
学校だけではありません。ライアンは新聞配達もしていたのですが、新聞紙を介して「感染る」からと、ライアンのルートの家々では配達を断ってきました。
街を歩いているときにも、
"We know you're queer."
(おまえホモなんだろ)
と罵声を投げかけられるのです。
危険に怯えながらライアンと家族は過ごしていましたが、ある日、家族が不在中のリビングルームに銃弾が撃ち込まれました。
このことにより、家族は街を出ることを決意。
学期が終わるのを待ち、同じインディアナ州のCiceroに引っ越しました。
新しいこの町のHamilton Height High SchoolではAIDSについて正しい教育を受けており、ライアンは握手で歓迎されました。
ライアンはマスコミに取り上げられる一方で、新聞取材やテレビ出演を通じて募金や教育を呼びかけます。そうした活動に共鳴した著名人らが支援を行い、さらに啓蒙運動が拡大していき、AIDSに対する誤解や偏見が徐々に取り除かれていきました。
特に熱心に支援したのは、エルトン・ジョンやマイケル・ジャクソン、レーガン大統領(当時)夫人でした。エルトン・ジョンはライアンに16500ドルを寄付し、一方マイケル・ジャクソンは赤のムスタング・コンバーチブルをプレゼント。富豪の彼等からの精一杯の心遣いに違いないのですが、10代の普通の高校生でありたいライアンには過分な贈り物であり、こうした個人宛の贈り物を本心では喜ばなかったし、セレブのパーティーに招待されることよりも、自分に残された限られた時間を静かに過ごしたいと望んでいたそうです。
1989年には、ABC放送で『Ryan White Story』が放映されました。このドラマのなかでココモの町の人々が無慈悲に描かれていたため、放送局は住民に抗議されました。
ライアンを演じたルーカス・ハース
ライアンが最後に公式の場に姿を見せたのは1990年初め、レーガン元大統領夫妻とともに出席したアフターオスカーパーティーでした。
そのときのライアンは、高校卒業パーティーのことやカレッジ入学への希望などを話していたとのことです。
その後まもなく、ハイスクールを卒業しておよそひと月後、ライアンの容態は急速に悪化。1990年3月29日、呼吸器系に感染を起こし入院しました。エルトン・ジョンは見舞いに駆けつけ、病院の電話はライアンの容態を案ずる人たちからのメッセージで鳴り通しでした。
壮絶 ここに写し出されている腕の細さ!
4月8日、エルトン・ジョンも見守る中でライアンは息を引き取りました。
4月11日のライアンの葬儀には1500人超が参列、そのなかにはエルトン・ジョン、マイケル・ジャクソン、ブッシュ大統領夫人。他たくさんの著名人が参列しました。この日、レーガン元大統領はライアンの死を悼み、ワシントンポスト紙に寄稿しました。
後方にマイケル・ジャクソン
ライアンが18年の生涯を閉じた後も、多くの人々の心に彼の長い影は投影されていました。
ライアンの母がRyan White Foundationを、エルトン・ジョンもElton John AIDS Foundationを立ち上げました。
インディアナではThe Children's Museum of Indianapolisを設立、ライアン、アンネ・フランク、ルディ・ブリッジ(初めて白人の学校に通学した黒人女性)の部屋を再現し、子供も社会に対して力を発揮できることがあると考えさせるプログラムになっているようです。
AIDSは当初、ニューヨークやサンフランシスコのホモセクシャル間の特殊な病気ととらえられていたのですが、ライアンのような少年が罹患したことで、それはもはやLBGTのようなマイノリティー(当時の感覚)の病ではなくなったと認識されるに至りました。この病のこうした経緯から、ライアンは "innocent victim"(罪なき犠牲者)と呼ばれ、性的嗜好によって罹患した患者と区別して同情を寄せられる動向もありました。しかし、当のライアン本人はそれを好ましく思いませんでした。
"I just like everyone else with AIDS, no matter how I got it".
(ぼくがAIDSにどうやってかかったかには関係なく、ほかのAIDSの人達みんなと全く一緒なんだ)
AIDSとは、Acquired Immuno-Deficiency Syndrome、後天性免疫不全症候群、HIVすなわちHuman Immunodeficiency Virus、ヒト免疫不全ウィルスにTリンパ球やマクロファージが感染し、数ヶ月から10年程の間に体内でウィルスはHIVは増殖、免疫力を食い尽くしたところで日和見感染から死に至らしめる病気で、AIDS発症により微熱、下痢、肺炎を起こし、回復する力を奪われた体はどんどん痩せて死んでいきます。特にライアンにはもともと血友病もある。
病気というのは実に無慈悲で、死へのカウントダウンの恐怖以上に、決して解放されることのない絶え間ない苦痛をも受けねばならないのです。そして最も残酷なことに、病は決して美しいままには死なせてくれない。全てをあきらめろとばかりに、尊厳を失わせるほどに、姿を変容させるのです。やせ衰えていく姿を見て、周囲の者は心を抉られるほど悲しむでしょう。もしそれが我が子ならば、親はどれほど悲しむものか。しかし、真に悲しいのはやせ衰えていく本人にちがいありません。別次元の深い深い、底無しの悲しみにちがいありません。死んでいくものにしかわからない心境があるのだと思うのです。岸をどんどん離れて行ってしまうボートにひとり乗せられるかのような?
現代においては、血友病ではあってもAIDSのように死を突きつけられることはそうそう無いと言えるでしょう。
血液製剤に頼ったばかりに、
運命を書き換えられてしまった。
その上、社会に締め出されそうになった。
こんな大きな受難。にもかかわらず、ライアンの写真の笑顔は、まるで世界一の幸せを享受したかのように、なんと冴え冴えと輝いていることか。
わからなくなるのです。
死が、特に若者の、それが。
その死で幕は閉じられるのに、それが決して終わりではない、という‥。
それは残されたものの願望に過ぎないと、
心の半分が理解しているけれど。
ある衝撃波のインパクトの強さが余韻を残す。
その一撃が永遠の余韻を残す。
もう、つかまえることのできない波動‥
Gone Too Soon / Michel Jackson
Like A Comet
Blazing 'Cross The Evening Sky
Gone Too Soon
夜空を明るく燃えながら
横切っていった彗星のように
きみは行ってしまった
Like A Rainbow
Fading In The Twinkling Of An Eye
Gone Too Soon
目瞬きしてる間に消えてしまった虹のように
きみは行ってしまった
Shiny And Sparkly
And Splendidly Bright
Here One Day
Gone One Night
光るように、煌めくように
そして壮麗に輝き
朝に現れ、夜には消えて
Like The Loss Of Sunlight
On A Cloudy Afternoon
Gone Too Soon
午後の曇り空にさす一条の日差しが
一瞬で消え去るように
あまりに早くに
きみは行ってしまった
Like A Castle
Built Upon A Sandy Beach
Gone Too Soon
砂浜に築いたお城のように
きみは消えていってしまった
Like A Perfect Flower
That Is Just Beyond Your Reach
Gone Too Soon
高山に咲く、一輪の見事な花のように
きみは手が届かなくなってしまった
Born To Amuse, To Inspire, To Delight
Here One Day
Gone One Night
楽しませ、喜ばせ
感動されるために生まれてきて
昼にはいたのに
夜にはもういない
Like A Sunset
Dying With The Rising Of The Moon
Gone Too Soon
夕日のように
月が昇れば姿を消して
きみは行ってしまった
元々は早逝したジャニス・ジョプリンらに捧げられた曲でディオンヌ・ワーウィックによって歌われたものでしたが、こちらはそれをマイケルがライアンのためにアレンジしたものです。どなたかがこの曲で作った動画をyoutubeで観て、この曲のことを調べたことで今回ライアン・ホワイトを知ったわけです。
そちらの動画も、以前の記事「悲劇のロシア皇太子アレクセイ」の記事で連携できるようにしておきます。
画像お借りしました
雑記
AIDSを題材にした作品として初めて触れたのは、デレク・ジャーマン監督「BLUE」でした。
この作品は監督自身がAIDSで亡くなる前年に発表されました。日本公開時には既に他界していました。
内容は、自身が視力を失うことで味わう無力、友人達が同じ病で亡くなってゆく喪失感が、周囲の音や音楽に重ねて語られるものです。
当時私はこれを映画館に観に行きました。
もちろん、画面がずっとブルーだということは承知していったのですが。
最初から最後まで、本当に全く、ただの青い画面でした。色は青一色でも、キラキラしたり、グラデーションになったり、オーロラみたいにゆらゆらしたり、という勝手な予想は打ち砕かれ、全く何も映っていないに等しい青でした。開始10分以内に半分くらいの人たちが退出しました。
なぜか家にこの映画のCD(DVDにあらず)があるので、昔の私はこの作品を気に入ったのかもしれません。
亡くなっていった友人たちの名を哀切に呼ぶシーン(Sceneとはいえない?)には心を揺さぶられます。自らもまた同じように消えていく不安。
AIDSはまさに真綿で絞めるような病ではないでしょうか。自分がどんどん小さな点になっていって消失する。死ぬまでに、静かで残酷な末期を味わねばならないのでしょう。
遺作となったこの映画には、どうにもできない寂寥が感じられました。