名のもとに生きて

人の一生はだれもが等しく一回かぎり。
先人の気高い精神に敬意を表して、その生涯を追う

"冷酷の化身" ラインハルト・ハイドリヒ

2017-02-08 13:24:39 | 人物
ナチスで最も危険な男
SSナンバー2 ラインハルト・ハイドリヒ
冷酷を極めた手腕



Reinhard Tristan Eugen Heydrich
1904〜1942

ナチス党員 政治家
最終階級/
国家保安警察(RSHA:Reichssicherheitshauptamt der SS)及び親衛隊情報部(SD:Sicherheitdienst)長官
ベーメン・メーレン保護領 副総督



1942.5.27 ハイドリヒ暗殺
英タイムズ紙はこの日、"第三帝国で最も危険な男"が暗殺団に襲撃されたことを報じた。国内に身を寄せるチェコ亡命政府に働きかけ、英国がパラシュート潜入させたチェコ暗殺団が実行。この襲撃で受けた傷が元で6月4日にナチス高官ハイドリヒは死亡。
ナチスメンバーのあいだでもその残虐、冷酷、非道によって恐れられ、"暗殺者ハイドリヒ"と陰口された男。
その冷酷さで、大胆な政治工作や暴虐を次々と実効させ、ナチスを益々貪欲に突き進ませた。
良心の呵責は皆無。恐るべき辣腕が、党内粛清も海外政治工作もユダヤ人撲滅も難なく、完膚なきまでに遂行する。
目的>手段か、手段>目的か。
この「いかにも」なナチス党員ハイドリヒと、最も「らしくない」ナチス党員シュペーアの類似性を検証することは、現代未来を考察するにつけ重要だと考える。
ハイドリヒ暗殺の様子については後述する。


1. 出生から入党まで

ラインハルト・トリスタン・オイゲン(中央)
姉マリア、弟ハインツ・ジークフリートと


1904年、オペラ歌手で作曲家の父と、ドレスデン宮廷音楽研究顧問官を父に持つ母の、第二子長男として生まれる。住所はProvinz Sachsen Marienstraße 21。母は熱心なカトリック信者で、夫を改宗させ、3人の子供達にもカトリック信者としてのモラルを厳格に躾けた。父は自ら創設した音楽学校で、ラインハルトにも音楽教育を授けた。歌は苦手だったがバイオリンとピアノには才能を発揮した。
1914年、カトリック系のギムナジウムに進学。このころから既に民族主義的思想を固める。
1919年のドイツ革命により家族は経済的に困窮。15歳のラインハルトはドイツ義勇軍に参加。反ユダヤ主義的傾向をますます強める。非アーリア系のフランス人やスラブ人にも憎悪した。
1921年、18歳でアビトゥーア修了。ドイツ海軍入隊。海軍大尉ヴィルヘルム・カナリスのちのドイツ国防軍情報部部長(軍事諜報機関)と親交、しばしば自宅に呼ばれ、バイオリン演奏を披露した。余談だが、カナリスは独身時代、あのマタ・ハリの恋人であったらしい。のちにカナリスは親衛隊情報部長官となったハイドリヒと対立する。

ラインハルトは海軍士官学校を経て通信将校となる。
英語、フランス語、ロシア語を士官学校で習得。金髪、碧眼、長身(191センチ)のまさに北方系の外見と、周囲にうちとけない孤高の雰囲気から、「金髪のジークフリート」とあだ名された。
ラインハルトの父方の母の再婚相手がSüssというユダヤ風の名前を持っていたことで、父の名に追記されることがあったために、ハイドリヒはユダヤ人かと囁かれており、「金髪のモーセ」などと皮肉られることもあった。陰口が発覚すればハイドリヒは激怒し、徹底的に相手を追い詰める。その容赦ない報復に周囲は戦慄し、あだ名は「金髪の野獣」となった。




海軍軍人の頃

1930年、赴任地のキールで知り合ったリナ・フォン・オステンと婚約。ところが、ハイドリヒがある軍属の娘に一方的な婚約状を送り付けたことでその娘が心に傷を負ったとして訴えられた。不幸にもその軍属は海軍総司令官エーリヒ・レーダーの姻戚だった。名誉裁判では「品位なき態度ゆえに無条件解職」、1931年海軍不名誉除隊となった。リナとは間もなく結婚しているが、なぜこのようないざこざが起きたのかは不思議だ。


2. ナチ入党と親衛隊の仕事



除隊後、自らの代父の息子、親衛隊上級大佐フリードリヒ・カール・フォン・エーベルシュタインの推薦によりナチスに入党。当時、親衛隊内部に情報部を設立しようと考えていたハインリヒ・ヒムラーの面接を受けた。その試験での優れた出来栄えと、北方系のルックスがヒムラーの気に入り、即日、情報部立ち上げを任されることになった。
実際、この仕事はハイドリヒには適任だった。
親衛隊IC課での彼の仕事は、諜報の対象となるドイツ共産党、ドイツ社会民主党、中央党、ドイツ国家人民党、宗教団体、突撃隊過激派などについて、必要十分な項目の検索カードを作成した上、要件に合わせて素早く適切に要項を網羅して情報をまとめる、その上、簡潔にして非の打ち所の全くない報告書はまさに報告書の名作であって、誰彼をもうならせるきわめて優れたものであった。
ヒムラーは優秀な片腕を得たが、同時に背後の刃のような存在に肝を冷やされることにもなった。
「ハイドリヒの意見具申によって、ヒムラーが完全に打ちのめされたようにみえることがしばしばあった」と側近はのちに話している。

ハイドリヒは音楽に優れていたばかりでなく、スポーツも万能であった。
1928年アムステルダム五輪の、フェンシングと近代五輪競技(射撃、フェンシング、水泳、馬術、ランニングの複合)の代表選手。スキー、飛行機操縦も



3. 長いナイフの夜事件
やがて1933年、ナチ党が政権をとると、国家の敵を撲滅する最重要手段としての警察組織を編む必要から、親衛隊の重要性が増した。一方で、首相ヒトラーの思惑とその存り方が逸れていった突撃隊は迷走し始めた。
そこで、ハイドリヒがその手腕を存分に発揮し、周囲に「暗殺者ハイドリヒ」の異名を与えられることになる「長いナイフの夜事件」が起きる。

事件の経緯についてはここには書かないが、突撃隊トップのエルンスト・レームの粛清が事件の目的であった。党の方針に反して公然と同性愛に耽り、ヒトラーの面目を潰す。それでも旧友レームを粛清する決意が出来ずにいるヒトラーだった。ヒムラーやハイドリヒにとっては、レームを失脚させれば親衛隊が突撃隊より優位に立てるチャンスになる。しかしやはり、ヒムラーも世話になってきたレームに手を下すことに悩んだ。
ハイドリヒは違った。ハイドリヒにとっては、レームはヒトラーとともに自分の長男クラウスの代父なのであったが、全く躊躇はなかった。ハイドリヒ主導でレームの謀反を捏造し、ヒムラーがヒトラーに示す。ヒトラーは自ら警護隊を率いてレームを捕らえにミュンヘンへ。ハイドリヒ、ヒムラー、副首相ヘルマン・ゲーリングはベルリンに残り、突撃隊員以外の反体制分子の抹殺に走る。この粛清リストはハイドリヒが作成したが、まんまとGestapo前局長もリストにねじ込んでいた。たまたまこれを見つけたゲーリングが急遽リストから削除している。
事件後、親衛隊は突撃隊から独立。ハイドリヒは功績により昇進。吹き荒れた粛清の恐るべき完璧さ、迅速さにナチスへの畏怖が国民の心に影を落とす。そして計画、工作、実行したハイドリヒの怜悧な辣腕ぶりに、党内では「暗殺者ハイドリヒ」として恐れられることとなった。







4. ブロンベルク-フリッチュ事件
当初、バイエルンだけでしか力を持たなかった親衛隊も広く権限を持つようようになり、1936年にはGestapoと統合され、ハイドリヒは保安警察長官となった。
当時、戦争に突き進もうと考えていたヒトラーやゲーリングにとって、英仏の中立が確保されなければ戦争は不可能と主張して対立していた国防相ブロンベルクと陸軍総司令官フリッチュは、邪魔な存在だった。
この時も工作したのはハイドリヒであったが、ここでは女性問題のゴシップを捏造して失脚させた。品性を欠くえげつない手段も厭わない。ナチの高邁な思想に溺れる他の高級幹部達ならばこんな方法はとらなかったかもしれない。
ハイドリヒは反知性主義の側面を持っていたと言われている。即物主義(sachlich keit)もうかがわせる。
この後、ドイツはオーストリアを併合した。


5. 水晶の夜事件
1938年10月28日、水晶の夜事件が起きた。美しい名前だが、いわゆるポグロムである。発端はこうだ。ドイツは国内のユダヤ系ポーランド人1万7千人に追放命令。ポーランド政府は受け入れ拒否し、国境封鎖。この件に巻き込まれた人物が、パリに居る17歳の息子に窮状を伝えたところ、激怒した息子はパリのドイツ大使館員を殺害。この事件への報復をゲッベルスやシュトライヒャーが扇動し、各地でユダヤ人経営の商店の打ちこわしやシナゴークへの放火などの暴動が起こった。親衛隊やヒトラーユーゲントが先導した。
この件に関してハイドリヒは黒幕だったのではないかとする説もあるが、それは異なるようである。ハイドリヒは、保安警察長官としての立場から、予め暴動の取り締まりの範囲を告知していた。つまりこの程度の乱暴狼藉は看過するとの取り決めをして、あとは静観というスタンスだったようで、主導はしていない。
こうした目に見える形での「乱暴狼藉の反ユダヤ主義」は、ゲッベルスやシュトライヒャーのやり方であって、ハイドリヒはもっと硬質で怜悧で巧妙な手法を取ろうとしていた。SDらしいアプローチ、「理性の反ユダヤ主義」と呼べるもの。
暴力、虐待、財産侵害などの個別行動ではなく、党と新聞による住民の啓蒙を強化すること。
感情を封じ、合理性と即物性で「整理」する方法であり、以後起きる絶滅作戦はハイドリヒのこの規範で粛々と進められることになる。
ちなみに1938年の段階でハイドリヒは、ダビデの星の着用をユダヤ人に義務付ける提案をヒトラーにしたがこの時点では却下された。1941年9月からはこれが義務化されたが、ハイドリヒの「整理」の方針が及んだ制度といえる。


6. 「反ユダヤ主義とは政治問題ではなく医学上の問題だ」

「総統はユダヤ人の物理的抹殺を命じられる」
ハイドリヒは集会でこのように述べる。
1939年、ゲーリングの命令を受けてハイドリヒはユダヤ人移住中央本部本部長に就任する。ハイドリヒは前年から併合されたオーストリアICPC総裁にもなっていたため、本部はウィーンに置かれた。実務はアドルフ・アイヒマンが担当した。
この年8月、ポーランド侵攻の口実のための工作としてグライヴィッツ事件をハイドリヒ主導で起こしている。ポーランドのラジオ局をポーランド人を装って襲撃。局を乗っ取ったポーランド人が放送でドイツへのストライキを扇動したという演出で、収容所から引っ張ってきた者を射殺して証拠物体として置いてきた。
この件以外にも、すでに21件の事件を仕掛けており、まとめてヒムラー作戦と呼称している。
さらにこの年の11月、オランダ侵攻の口実のために仕掛けられたフェンロー事件も起こしている。
ビアホール爆破テロに関わったという設定のイギリス工作員2名が、オランダのフェンローで匿われていた、という工作。
話がそれるが、この事件を実行した部下のヴァルター・シェレンベルクについて、浮気の多いハイドリヒに辟易していた妻リナは、シェレンベルクと良い仲になった。それを知ったハイドリヒは、シェレンベルクの口から罪を認めさせようと、ある時バーに誘い出し、毒を飲ませ、解毒剤と引換に白状するよう迫ったという。しかし結局これでリナと関係修復ができたそうだ。シェレンベルクは占領下のパリではココ・シャネルとも関係していたという。

それた話を戻すと、ユダヤ人の「最終的解決」を目指すことは、1942年のヴァンゼー会議により、正式にナチス政権の施策として決定するところとなった。
会では、
「全てのユダヤ人(1100万人)の絶滅は人類の大再編成に他ならない」と。

最終的解決の流れは簡単に言うとこうだ。
東部で労働部隊に組み込む→鉄道建設→自然淘汰→生き残る者は抵抗力が強い→「相応の対応」を必要とする

「相応の対応」は言わずもがなであろう。それ即ち「最終的解決」という訳だ。


こうした方針に基づいて決定された三大絶滅収容所開設計画は、ハイドリヒの名を冠してラインハルト作戦と呼ばれることになった。
ただし1940年頃まで、ナチスではヨーロッパのユダヤ人をパレスチナやマダガスカルへ移送する計画を中心に考えていたので、ポーランドへ追いやる方策も休止する予定だった。ハイドリヒもこの方針を積極的に推し進めるつもりであったが、イギリスとの戦況が芳しくなくなり、断念せざるを得なくなったという経緯がある。


7. ベーメン・メーレン保護領副総督
チェコスロヴァキア解体によって、モラヴィアとボヘミアはベーメン・メーレン保護領としてドイツに統治された。しかし、総督の宥和的な統治によって、軍需産業効率が低下し、ストライキも抵抗運動も放置されていた。この状況をけしからんとして、ヒトラーはハイドリヒを副総督に就任させた。副総督であるが、実質的には主導権を握る。1941年9月23日、ハイドリヒ到着と同時に戒厳令。

まずこれは、ハイドリヒ副総督就任時の秘密会議演説で、20年後に公開されたものだ。

「チェコの島をドイツ化することが問題でなく、全住民を民族的人種的に探査することを欲する」

その目的として語られたことをまとめるとこうだ。
「悪い人種で悪い志向」の連中
→東方へ追放
「悪い人種で良い志向」の連中
→ライヒまたは今後特定される地域への投入、かつ断種
「良い人種で悪い志向」の連中
→もっとも危険。
彼らは「良い人種の指導層」であるから一部を残して「最終的に壁に立たせる」(根絶)

このようにハイドリヒの中で当初から明確に方針が決まっていたので、行動も素早く迷いもなかった。
ところでハイドリヒはこういう場合分けが得意だ。分析的な思考力に優れているからこそ、粗漏のない計画を立て、読む者を誘導する報告書が書くことができるのだろう。
ユダヤ人の混血の処遇に関しても、実に事細かな分類とそれぞれに与えられる権利などが理由も明確にしてさだめたものがあり、舌を巻く。



副総督就任から数週間のうちに、即決裁判所で死刑判決400〜500、拘束4000〜5000。死刑判決はほとんどが指導層の者が対象で、ナチスの法的手続きさえも無視して即銃殺命令が下った。加えて公開処刑。12月15日には、プラハ聖堂前での公開処刑にヒムラーが初めて立ち会ったが、残酷さのあまりかヒムラーは気を失いかけた。この大々的な取締りにより、抵抗運動は影を潜めた。ハイドリヒはチェコに大いにムチを振るったが、アメもばら撒く。労働者層は産業に従事させるべき存在であり、保護する必要がある。労働者向けの雇用保険制度を設け、富裕者のためのリゾートを接収し、労働者の保養地に開放した。これは、チェコスロヴァキアの当時の待遇より格段に良かった。
ハイドリヒの主張はこうだ。
「戦争が続く限り、なんといってもこの地域には静寂が必要だ。チェコ人労働者がこの地の労働力を最大限に動員してドイツ軍の戦績に奉仕するためだ。そのためには、チェコ人労働者にエサを与えてやらねばならない。連中がちゃんと働けるように」

ドイツの敵国イギリスと、そこへ身を寄せているチェコ亡命政府にとってこの状況は危険だった。チェコは抵抗運動も衰え、亡命政府の復帰が遠のくばかりか、チェコの周辺国も同様におさまってしまう心配も出てきた。
ハイドリヒはここではただ保安警察長官というだけではなく、統治者としての力量も発揮しようとしていた。
チェコ市民に威圧的に見られないように、宮殿を住まいにせず、郊外の質素な家に家族と住んだ。家族との暮らしぶりも市民に知れるようにオープンにしていた。自宅から政府機関に向かう道は、護衛車も付けず、自分用のメルセデスをオープンカーに仕立てて、乗っている人物が誰であるのか敢えてわかるようにすること、市民に対して警戒していないというアピールに努めた。これにはヒトラーもヒムラーも驚き、護衛の必要を説き、せめてオープンカーは止めるよう注意したがハイドリヒは従わなかった。そこが、暗殺部隊の狙い所となってしまった。





8. アンスラポイド作戦、ハイドリヒの死



1942年5月27日、暗殺団は結果としてハイドリヒを抹殺するというミッションは達成したわけだが、それは偶発的だったと言える。銃撃は失敗し、投げた手榴弾はメルセデスの一部を壊しただけだったが、飛び散った破片がハイドリヒの身体に食い込んだ。その破片によって感染症をおこし、敗血症に至って死んだ。6月4日。
おそらくシートのクッション材の馬の毛の繊維から感染を起こしたのではないか、あるいは手榴弾にイギリスで仕込まれた毒物によるのではないか、とも。
ハイドリヒの国葬で、ヒトラーは「鋼鉄の心臓を持つ男」と讃えた。10歳にもならないハイドリヒの二人の息子達はヒムラーの両隣にいた。父親譲りの明るいブロンド、そしてまだあどけない顔。
ジャーナリストのラルフ・ジョルダーノはハイドリヒを、「冷酷の化身。国家のあらゆる敵に対する最も手ごわい対抗者」と評した。その息子達にはどんな未来があるのだろう。ただし、長男クラウスは1943年、10歳にして交通事故で亡くなった。ハイドリヒにはその下に二人の娘がいるが、次女はハイドリヒの死後に生まれている。

ハイドリヒの国葬








9. 報復
ナチス高官暗殺への報復は凄まじかった。
ハイドリヒが襲われてから死亡するまでの間でもすでに157人が射殺された。死後、後任に就いたクルト・ダリューゲは暗殺部隊を匿ったらしいという定かでない理由により、リディツェ村とレジャーキ村の絶滅を速やかに行った。そのくせ暗殺者達の消息をつかめずにいたが、賞金目当ての密告
によってようやく潜伏先の聖カール・ボロモイス教会をつきとめ、SS将校19名下士官740名で包囲の上殺害した。
一連の報復により、チェコ人3188人拘束、1357人に死刑判決が下った。英政府もチェコ亡命政府もこのリスクに恐怖し、以後はナチス高官を狙う作戦は控えるようになった。


10. 人物
音楽家の家庭に生まれ、自らも楽器を奏で、フェンシングや乗馬はオリンピック出場レベル。
背が高く見事なブロンド、所作にはどこか女性的な優美さもある。ただ、アンバランスに腰回りが太いのと、早口で甲高い声が多くを損なっている。その人間性を周囲に語らせればこうなる。

見事なまでの獣。
高圧的、邪悪、冷酷、残酷。
女性的でそれが一層悪党らしい。
神経質な、断続的な話し方。
野心的。
氷のように冷たい知性。
雌豚。
指は長く蜘蛛のように不気味。

しかし仕事は完璧で、ハイドリヒはまさにヒトラーの求めていた人物だったと言われている。そのため、もし存命していればヒトラーの後釜はハイドリヒだっただろうとも言われる一方、生前、数少ない友人にはヒトラーを老いぼれと呼んで物騒な事も口にしていたようだ。そういう面もにじみ出ていたのか、生きていれば7月20日事件では暗殺者側に名を連ねていたに違いないなどとも言われる。ハイドリヒにかかれば、ヒトラー暗殺は100%成功したにちがいない。惜しい幻想だ。(しかし、ハイドリヒが存命だったら1942年から1944年をどう生きただろう?)

身震いさせるほど完璧な報告書や計画書を書いていたハイドリヒだが、妻リナに宛てた手紙は素朴で純真で、驚いてはいけないのだが驚く。



ハイドリヒは推理小説が好きで、仕事の合間にこっそり出して読むことがあった。その延長か、ハイドリヒの名案(迷案)で、諜報のための盗聴器をどっさり仕込んだ売春宿を経営するというものがあった。その名は『サロン・キティ』。もう一度言うと、『サロン‥・キティ』‥。なんだかとっても恥ずかしいネーミングだ。もちろんハイドリヒ自身も頻繁に客になる。そのときは盗聴器はオフ。ドイツ、イタリアの外相もよく通った。しかし諜報活動としては無益な場だったらしい。
ハイドリヒの反省、
「成果がなくて驚いた。秘密はベッドでもたらされるという話は幻想なのだろう」
無駄も隙もないナチス最高の高官なのだから、これは売春宿で遊ぶために失敗承知でわざと仕組んだものなのか、そうでないとすれば本当に推理小説の読みすぎか、何か、??と感じる。

もう一つは飛行機好き。空軍を訪れて頼み倒し、戦闘機を操縦させてもらう。これが昂じて、休暇中は実際の戦闘にも参加し、なかなかの手柄をあげることもあったが、ある時不時着し助けてもらうはめにあった。事故後、責任ある職務にある幹部が戦闘に加わるなど以ての外、とヒトラーの大目玉を喰らい、その後は一切戦闘機操縦は禁止された。
まるで不良少年のようだ。




11. ハイドリヒの弟、ユダヤ人を救う
1つ歳下の弟ハインツ・ジークフリート・ハイドリヒも親衛隊に所属しており、兵士向けの新聞のジャーナリストをしていた。兄ラインハルトとは子供の頃からフェンシングの練習でともに汗を流した。
兄の死後、ゲシュタポの金庫にあった兄のファイルを手にし、自宅に持ち帰った。おそらくユダヤ人虐殺ほか数々の衝撃的な施策が兄の手によるものだったことを知ったのだろう。朝までかけてファイルを燃やしていたという。その様子は心を失くし、石のようだったと妻。しかしそれ以降口は閉ざし、彼は自分の発行する新聞の他に偽造身分証を印刷し、それを使ってユダヤ人がスウェーデンへ行けるようにした。実際にこれは利用されて、ユダヤ人をかなり多く救うことができた。
しかしあるとき、州政府の審査が新聞編集部に入ることになり、偽造が露見したと思ったハインツは家族に被害が及ばないように自殺をはかった。実際はこのとき偽造身分証のことは露見しておらず、発行部数に関する調査程度の審査だったのだ。ハインツはThe list of Germans who resisted Natizumに数えられている。



海軍時代のハイドリヒにトラブルがなく、そのまま海軍でキャリアを積んで行ったならば、どんな生涯を送っただろうか。戦闘で死ぬことはあったとしても、暗殺はされなかっただろう。
印象として、彼は特に思想を持つことなく、与えられたミッションを「完璧に」やり遂げることに夢中だっただけなのではと疑問に思う。他の幹部らとちがって彼だけはヒトラーの人物や思想に心酔していなかったのだそうだ。逆に、ヒトラーの方がハイドリヒの人物に理想を見ていた。これはアルベルト・シュペーアについても正反対でありながら同じ傾向であるように感じられる。
ハイドリヒの行動能力は、その向かう先を見据えていたのかどうか。もっとも虐殺の誘導は鬼畜のわざであり、その先にどんな高邁な思想があったとしても許されない。