名のもとに生きて

人の一生はだれもが等しく一回かぎり。
先人の気高い精神に敬意を表して、その生涯を追う

ニコライ2世 父と子の悲しみ

2015-06-30 01:07:33 | 人物
革命の犠牲になったロシア皇帝
皇帝としての不幸 父としての不幸





Nicholai Aleksandrovich Romanov
1868~1918








1. ニコライと家族
1868年、ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフはアレクサンドロ・アレクサンドロヴィチすなわち後世のロシア皇帝アレクサンドル3世の長子として生まれた。







ときは16代皇帝アレクサンドル2世、ニコライの祖父の治世時代。
ニコライは、父アレクサンドルにスパルタ式の厳しい教育を受けて育った。早朝に起床、冷水浴、ベッドは軍用の簡易ベッド、質素な朝食。
3歳下のゲオルギーと部屋を分け合っての生活、学習。


左から ニコライ、父アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ、クセニア、母マリア・フョードロブナ、ゲオルギー


ニコライとゲオルギー




穏やかで生真面目、子供の頃は物腰に女性のようなところもあったニコライと、活発でユーモアがあり、健康的で頭脳明晰でもあった弟ゲオルギーは、対照的な性格ながら大変仲が良かった。宮廷生活のなかでは唯一の身近な友でもあった。


ゲオルギー、ニコライ、クセニア、オリガ、母、ミハイル






もう一人の弟ミハイルはニコライから10歳も離れていたので、ゲオルギーほど心は通わなかったようだ。ミハイルはさらに天真爛漫。ニコライとゲオルギーなら、こわい父におそろしくて絶対できないようなこと、例えば上階の窓から水をかけることなどを平然とやってしまうところがあった。ふざけたポーズの写真(大人になってからのものも含む)も後世に数多く残っている。


右 ミハイル


ニコライが13歳のとき、祖父アレクサンドル2世が暗殺される。
足元を爆破されたために、両足はちぎれ、顔もひどく損傷したが、皇帝は宮殿で死にたいといい、急ぎ運ばれ、ニコライと父アレクサンドルは早馬車で駆けつける。変わり果てた祖父の傍らに立ち、ニコライは怯えていた。
アレクサンドル2世は程なく薨去、父が即位し、ニコライは13歳で皇太子となった。



父アレクサンドル3世の戴冠式でのニコライ(中央)


ギリシャ出発で世界半周旅行。日本で大津事件が起きて世界旅行は取り止めになった。ニコライは決して日本嫌いなどではなく、むしろ日本をたいへん気に入っていて、特に人々が礼儀正しく笑顔で話すことと街が清潔なことに感動していた。事件後も日本側に過度に心配をかけないよう心配りをしている。ニコライとしては日露戦争開戦にも消極的だった




皇太子ニコライは、水色の瞳で優しい眼差し、穏やかでどんな時も声を荒げることはない。
フランス語、英語は完璧(オックスフォード大学教授がネイティヴと間違えるほど)、デンマーク語、ドイツ語も堪能。敬虔な正教徒。並外れた記憶力を持つ。
歴代のロシア皇帝はおろか、当時のヨーロッパの王侯のなかでも、教養の高さ、品性ともに最も優れていたという。

しかし、ニコライの生きた時代は、どんな賢帝でも治めようがないほど、困難な時代だった。
彼は、父帝のような残酷かつ冷徹な統率力は持たなかった。巨熊と言われた父帝は身長193センチで眼光鋭く、ニコライは169センチで、風貌もおとなしい。
そんな「巨熊」と呼ばれた父帝があっけなく病気で薨去、彼は26歳で即位しニコライ2世となる。
皇帝になりたくない、なりたいと思ったことすらない、何も準備かできていないと言って泣いていたニコライ。幼いときの話ではない、すでに26歳、父が他界して、即位が決まってからの話である!

しかし、ニコライはかねてから熱望していた、ヴィクトリア女王の孫であるドイツ公女アリクスとの結婚に力を得て、革命の火種くすぶるロシアにおいて専制君主としての統治に臨んだ。
アリクスとの結婚には多くの反対があり、生前のアレクサンドル皇帝も認めていなかった。しかし、ニコライはこの件に関してだけは恐い父に抗議して、どうにか許しを取り付けた。病床のアレクサンドルに対し、結婚を認めてくれなければ皇帝を継がない、といって弱らせたのであった。


のちに妻になるアレクサンドラとの出会い。このときブローチをプレゼントしたのだが翌日返してきたので、がっかりしたニコライは近くにいた妹クセニアにあげてしまった。ニコライの意志は堅く、しばらくはバレリーナのクシェシンスカヤと交際したが結婚相手はアリクスしか考えていなかった


皇后アレクサンドラ・フョードロブナ

婚約後、アリクスは正教に改宗し、名前もロシア風にアレクサンドラとする。アレクサンドラはドイツヘッセン大公女であるが、幼い時に母を亡くし、祖母エリザベス女王に教育を受けた。
イギリス式の質素倹約の精神、信仰心厚く教養高い女性で、気位が高く、あまり笑顔を見せない新皇后。
ロシア語で話したがらず、ニコライとは英語で会話した。そんな彼女はあっという間に宮廷で嫌われ者になり、孤立していった。社交的な皇太后とも折り合いが悪かった。
あまり社交術に秀でていないニコライだが、彼の方は持ち前の品格と、魅力的な青い目、穏やかな性格で、周囲から好かれていた。
しかし、内向的なアレクサンドラに合わせるために、晩餐会なども減り、次第に宮中の人々とは疎遠になってしまった。
しかしアレクサンドラは本来はとても細やかな心配りのできる人であったようで、バルチック艦隊のロジェストヴェンスキー中将と家族のために温かい取り計らいをしたこともあり、中将に絶賛されている。

2. 皇女、皇太子の誕生
ニコライはなかなか男子に恵まれなかった。
ロシアはエカテリーナ2世以降、女帝は認めない法律があった。
生まれてくる子が4人続けて皇女ばかりで、アレクサンドラはそのたび落胆し、精神的に不安定になっていった。
想像妊娠したり、まじないを受けに行ったりして、ようやく生まれた皇太子は、重度の血友病だった。それが皇后の家系に由来するものであることは明白であった。


皇太子アレクセイ誕生

目尻を下げるニコライ 穏やかさがにじみでている




皇太子の病名は当然極秘である。
皇帝と皇后は、突発的な息子の死の恐怖に苛まれながら日々を送ることになり、皇后はますます心を閉ざしていった。また、美しかった容貌は皇太子誕生以降、急激におとろえていったとともに、体調を崩しがちになった。そしてますます周囲から人々を遠ざけ、そのことでさらに孤独を深めていった。
不安から解放されるため、祈りの部屋にこもる時間が長くなり、私室の壁はたくさんのイコンで隙間もないほどになっていった。
母として、息子をいつ何時失うか知れない恐怖。その息子はロシアの唯一の皇太子なのである。またそのゆえに、誰にも相談できず、極秘を貫かねばならない。さらに苦しいのは、その病を愛しい息子に、そしてロシアの国にもたらしたのは自分の家系なのだということ。だれに責められるまでもなく、彼女自身が深く苦しんだことには心から同情する。あまりにも重い運命の重責だ。


4人の皇女と皇太子




皇太子アレクセイはたびたび発作を起こし、数週間から数ヶ月間を病床で過ごすことはあったが、そのたびどうにか回復して、元気な少年らしい生活を楽しむこともできた。
二人の水兵を見守り役につけて、彼が転んで出血することのないよう計らった。遊び相手は主に見守り役の水兵の息子たちで、水兵の監視のもとに安全に遊ばせていた。王族間のバカンスで従兄弟たちと一緒になっても、母は活発すぎる従兄弟たちと息子が遊ぶことを嫌い、アレクセイは遊びに参加できず、ただ見ているだけだった。

ニコライは歴代皇帝の中でロマノフ朝2代「温厚帝」アレクセイを最も尊敬していたため、我が子にその名を授けたのだが、意に反して、その子アレクセイはいたずら好きで乱暴、叱られると逆上して相手を叩いたり、大声で泣きわめいたりする手に負えない子に育ってしまった。
病を抱えた子ゆえに、あるいは唯一の皇太子であるがために、母は甘やかしてしまったようだ。アレクセイは父以外の誰の言うこともきかなかった。また、たびたびの発症による中断によって学問も滞りがちになり、本人の意欲も続かなかった。かなりの怠け者であったそうだが、頭の回転は速く、理解力は優れていたとのことだった。皇帝皇后共に大変教養が高かったにもかかわらず、皇女も皇太子もきちんとした教育が授けられていなかったと言われている。英仏文学には親しんでいてもロシア文学には疎かった。皇太子は12才の時点でロシアの地理をあまり把握できておらず、ロシアの名数がきちんと言えなかったらしい。


血友病でも安心なアレクセイ専用三輪自転車


いたずらっ子アレクセイのかわいいエピソードがある。
アレクセイは食事のマナーも悪く、ある時、テーブルの下に潜って女客のスリッパを脱がせ、トロフィーのように掲げて父に見せた。父に叱られると、片手に隠していた熟れた苺をこっそりスリッパに入れて返した。
靴を履いた女客は悲鳴を上げることになってしまった…

宮殿で姉達は自転車に乗っていた。アレクセイも乗りたがったが、禁じられていた。怪我が致命的になるからである。理由はわかっていても泣きわめいて抗議したこともあった。
そこである日、こっそり自転車を拝借して宮殿の庭をよろよろと走っていた。
ある角を曲がると、ちょうど父帝が閲兵しているところに飛び出してしまった。父帝の「捕まえろ」の号令で、彼はとうとう取り押さえられた。
ニコライのΣ(゜д゜lll)な顔がありありと目に浮かぶ、かわいいエピソードだ。



8歳頃 当時は手がつけられない悪戯者だった



3.血友病
1912年夏、8歳の皇太子はポーランドの狩猟場スパラでのバカンス中に最悪の事態を迎える。
皇后と皇太子は馬車で街に出かけようとしたのだが、馬車がひどく揺れるせいで、一度軽快したはずの内出血がみるみる悪化していき、急ぎ狩猟場のコテージに戻った。コテージにはたくさんの来賓も従者も宿泊している。
呻き声を上げる子を奥に隠し、普段通りの社交生活を続けねばならない父母。
パーティの合間、皇后は隙を見つけてはアレクセイのもとへ駆けつけ、また会場へ戻り、目で皇帝に様子を伝える。パーティーでは、何事もないように笑顔で談笑した。

しかし、数日もすると、周囲も皇太子が急に姿が見えなくなったことを怪しみ、あらぬ噂も立ち始めた。フランスの新聞では、爆殺未遂とまで報道された。
皇帝は皇太子が重病であることを公表せねばならなかった。ただし病名は公にせずに。

一方で、病状はもはや手に負えないほどになり、いよいよ最期の終油の儀式と、首都への「皇太子薨去」の電報を準備することになった。そこへラスプーチンの電報が届く。

「その子は死なない」と。

絶望していた皇后が落ち着きを取り戻すと、翌朝、皇太子の出血は止まった。ラスプーチンのことば通りとなったのである。


この騒動の最中に、駆け落ちして国外逃亡していたニコライの弟のミハイルは、新聞で皇太子の危篤を知り、慌てた。アレクセイが死ねば、自分が皇太子になり、そうすればロシアに連れ戻されて婚約者と引き離されることになる。とにかく大急ぎで結婚式を挙げねばならない、ということで、ロシアからの追跡者を振り払い、まんまと結婚式を挙げたのだった。
息子の重病でまいっているところへミハイルの手前勝手な行動を知り、さすがのニコライも激怒し、ミハイルを国外追放にし、皇太子の摂政の権限も剥奪した。


さて、ここでもう一人の弟ゲオルギーはどうしたのか、それを書こう。
あの、明るくて皆を喜ばせる存在であったゲオルギー。彼は18歳で海軍に入隊する直前、結核にかかってしまい、ひとり遠い地で暮らさねばならなくなった。父帝の葬儀にも参列できず、結婚もできず、のこり9年の余生を寂しく過ごす。
ある日、ひとり自転車で散歩に出た途中に喀血して倒れ、通りすがりの農婦に介抱されながら亡くなった。農婦はそれがまさか皇太子だとは思いもせず、哀れな男性を救おうとしたのである。
1899年のこと、ニコライに男子アレクセイはまだ生まれていない。その当時、ゲオルギーは皇位継承権第一位の皇太子(ツェサレーヴィチ)であった。ロシアという大国の皇太子にして、あまりにも孤独な死であった。



ゲオルギー・アレクサンドロヴィチ大公(皇太子)
慣例では皇帝は自分の子にのみ皇太子(ツェサレヴィッチ)の称号を与えるのだが、ニコライは男子が生まれていなかったためもあり特別に弟ゲオルギーに与えた。しかしゲオルギーの死後は、もう一人の弟ミハイルには称号を与えず、アレクセイ誕生まではツェサレヴィッチ称号は空白だった

もしも、ゲオルギーがもう少し長く生きていたのなら、ラスプーチンに心酔する皇后の乱脈に皇帝が振り回されるのを阻止できたかもしれない。
次々に押し寄せる国難、戦争、革命に的確な判断と行動を下せない兄皇帝を、理性的に助けることができたかもしれない。
もちろん、持ち前の愉快な性格で宮廷や皇帝家族を明るくしてくれたかもしれない。
皇后とともにずるずると宿命論に陥ってゆくニコライに、ゲオルギーなら明るい光をもたらすことができたかもしれない。
つまりは革命は回避できたか、遅らせることができたか?

ニコライはゲオルギーの珠玉ジョークをカードに書き留めて小箱にしまってあり、のちの幽閉中、気分が塞いだ時などに時々取り出しては読んで懐かしんでいたという。








ロマノフ王朝300年記念





4. ラスプーチン
皇帝は1911年、自身の側近で優秀なストルイピンを暗殺により失い、のちに内大臣ウィッテをもラスプーチンの陰謀で失った。誰にも国政を相談できずに皇后に投げ出し、1914年の第一次大戦開戦後は、求められてもいないのに最高司令官として息子アレクセイを伴って、モギリョフの本営(スタフカ)に向かった。


ニコライとラスプーチンとの関係について。
さきのスパラでの一件以来、皇后はアレクセイのためにと、宮廷にラスプーチンを迎え、崇拝する。
ラスプーチンはその後、何度かアレクセイの危機を救う。しかし、ラスプーチンの存在は皇后にとって、アレクセイのためというより、寧ろ自分のために必要だった。ラスプーチンは巧みに彼女の望みに口裏を合わせ、取り入った。
もともと皇后は信心深いだけでなく、結婚前から神秘主義傾向があり、ラスプーチン以前にも呪詛まがいのものにすがっていた。宮廷で孤立する皇后がラスプーチンに寄りかかるほど、皇后に対する非難が増幅し、それは宮廷内にとどまらず、為政者や民衆の反感をかった。それまで民衆に慕われていた皇帝にまでも敵意が向けられるようになった。
ニコライとしては、アレクセイのことももちろんあったが、愛するロシア農民の偶像として、素朴なラスプーチンとの対話は貴重で、民衆を愛する皇帝としての彼なりのロマンを感じていた。
しかしともすると行き過ぎて、ラスプーチンの言いなりになる、あるいは共同戦線を張る皇后をたしなめることはあったが、しかし皇后に言い返されたり泣かれたりすると、たちまち自分が皇后の言いなりになるのだった。
ニコライにとっては、この時期はアレクセイの突発的な病気の恐怖以上に、恒常的に体調不良で情緒不安定な皇后のことを心配せねばならなかった。今の病名で言うなら、不安神経症とかうつ病のような病状だったようだ。
ニコライはあわれな皇后を愛するあまり、皇帝として盲目になり、国政に、愛するロシアに、ひいては自分の命に、そして自分の命をかけて守るべきはずの皇太子の命にまでもじわじわと致命傷を刻んでいった。




5. スタフカ
モギリョフのスタフカ(本営)にてアレクセイと過ごす日々は、ニコライにとって最も幸せな日々だったに違いない。
狭い部屋で息子と過ごす喜び。その成長には人一倍の切なる願いがある。ロシア唯一の皇太子を守る皇帝として、重病の子の父として。







スパラでの発病以来、アレクセイは他者を思いやることのできる優しい子になった。いたずらは相変わらずであったそうだが。

兵達は皇太子が一兵卒の格好であるのに驚いた。兵の体験話に食い入るように耳を傾け、そして宮廷風の食事を拒否し、兵士と同じ黒パンを食べようとする皇太子は、スタフカの皆の光となり、皇帝にはそれが心から嬉しかったようだ。
勲章を一つもらったときはとても誇らしく立派になった気分を味わった。その分、いたずらもエスカレートしたようである。各国駐在武官らがよく遊び相手になってくれたようだ。水かけ遊びを楽しんだらしい。無邪気に振舞う映像がいくつも残されている。社交的と言えば社交的、ただまだ人懐っこいほんの子供であった。








スタフカの夫と息子を訪ねたアレクサンドラ

しかし、戦況が苦しくなる一方で、首都では皇后が壊し続けた内閣も議会も、そしてついには帝政も、革命によって粉砕されようとしていた。アレクサンドラは敵国ドイツの出身だからと、「ドイツ女」「スパイ」などと中傷されていた。戦況の悪さが内政崩壊に拍車をかけた。


スタフカでのあたたかなエビソードがある。
1916年12月のある夜、英国の駐在武官ウィリアムズ将軍は、英国陸軍士官でフランスにいた長男が負傷して死んだという知らせを、イギリス本国から受け取った。
将軍が、かれの飾り気のない小さな部屋で悲しみに沈んでいると、ドアが静かに開いた。
それはアレクセイであったが、彼はこう言った、

『パパが、あなたは今夜淋しくお感じになっておられると思うので、行って一緒にいておあげなさい、と私に言いました』

この父子のこうした優しさが、ロシアにまだ残っていた時代はもう、すぐそこで消えてしまう。このあとの革命は全てを残酷に踏みに荒らし、血で血を洗う時代をもたらすのである。
アレクセイはこのあとクリスマスのため宮殿に戻り、2度とスタフカに姿を現すことはなかった。革命が起きたのは翌年の2月だからだ。


ロシア革命



6. 帝政崩壊
1917年3月12日、ロシア帝国政府が崩壊、過激化する首都は臨時政府によって抑えられた。
紳士的な立場を強調したい臨時政府は、暴力による退位ではなく、皇帝の自発的な退位を求めた。
ニコライ2世の退位及び新皇帝アレクセイ2世の即位を迫られ、ニコライは熟慮の末、署名をする。
しかし、署名の手続きのための数時間のうちに、医師に血友病のことを相談したニコライは、アレクセイへの譲位は取りやめることにした。
医師によれば、血友病を抱えているとしても、長く生きることもあり、即位には問題ないこと。ただ、ニコライ皇帝は退位後はアレクセイのもとを離れねばならなくなること。アレクセイが成人するまで手許において養育できると考えていたニコライは困惑した。
そうなればアレクセイは他の者たちの手に渡ることになる!
不安な病をかかえているのに!

そこで、ニコライは恩赦によって既に帰国させていたミハイルに譲位することとした。
しかし、臨時政府が望んでいたのはミハイルではない。

『幼い皇帝の即位によって、国民や軍隊から同情を集められる』
と想定して、アレクセイの即位を求めていたのだ。いかに父子であっても、皇帝が未成年者に皇帝継承権を放棄させる権利はなく、完全な違法あった。
さらにミハイルにはかつてスキャンダルもあり、アレクセイの摂政に就くことにさえも反対する者が多かった。

ミハイル大公

結局、そうこうしているうちに臨時政府は共和制を望むソヴェートを抑えることはできなくなり、新皇帝ミハイルに対し、新政府は『命の保証はできない』と告げる。ミハイルは落涙し、しばしの沈黙のあと自ら退位する。たった一日の即位、これでミハイルで始まったロマノフ朝はミハイルで終わることになった。
そして。「イパチェフ」で始まったロマノフ家はのちに「イパチェフ」で果てることになる。
あの華々しい300年祭からたったの4年、王朝はあっけなく散った。
のちにミハイルは皇帝一家殺害に先立って銃殺された。ロマノフで最初に殺害されたのがミハイルである。



この経緯を、12歳の皇太子アレクセイはどう受け止めたのか。

『・・ベビー(アレクセイを父母はこう呼んでいた)に知らせる役は、教育係のジリャール(フランス語教師)が引き受けさせられた。

『ニコライ2世とアレクサンドラ皇后』
ロバート・K・マッシーより


「ねえ、あなたのお父さまはもう皇帝であることを望んでいないのですよ」

少年はびっくりして彼を見つめた、そして何があったのか彼の顔から読み取ろうと務めた。

「パパはひどくつかれているんだね、この頃たくさんむずかしいことがあったから。あっ、そうだ!ママが言ってたよ、パパがここへ戻ろうとしたら、列車が止められたって。でもパパはまた皇帝になるんだよね、あとで?」

ジリャールは、皇帝がミハイルのために退位したが、ミハイル叔父が帝位を拒否したことを説明した。

「それなら、いったい誰が皇帝になるの?

「今は誰もいません」

アレクセイは真っ赤になって、しばらく黙っていた、だが自分のことは尋ねなかった。
それからぽつんと言った。

「それなら、もうツァーリがいないなら、いったい誰がロシアを治めるの?」

この問いかけが善良なスイス人には無邪気で子供っぽいものに聞こえた。
それも「幼子の口調で」。
彼は数百万の人々と同じように聞いた。
誰がツァーリになるのか、いつもツァーリがいた国の新しいツァーリに。

革命は専制君主を撲滅することができなかった。それは国民の血の中に生きているからだ。だから彼はまた来る。新しいツァーリが。革命のツァーリだが、やはりツァーリだ』
『皇帝ニコライ処刑』
エドワード・ラジンスキー


新しいツァーリ。
それはレーニンやスターリンであり、そして今はプーチンである。

皇太子が血友病であることは公表はされていなかったが、推測はされていた。1912年11月9日ニューヨークタイムズで「Czar's heir has bleeding disease」のタイトルで報道されている。





ニコライがアレクセイの即位を放棄したことは非常に残念に思える。血友病のことは政府はもちろん把握していなかったが、医師は、今後怪我を避けられれば長く生きることは可能、即ち即位は可能だともニコライには伝えている。
ニコライにとって、アレクセイへの譲位拒否は、自分の親としての心配を優先したからなのだ。成長するまでは自分のそばで教育したい、見守りたい。当初それが叶うと思ったらしいが、退位となれば自分が国外追放になるだろうと聞かされ、願いが叶わないことを知った。それでアレクセイは即位させないことにしたのだった。
彼は皇帝として、自分がロシアのために犠牲になるのは厭わないとしつつも、愛児を差し出すことは拒んだ。
しかし、たとえこれほどの艱難の時代であっても、皇帝は、自分が帝位を去るのであれば皇太子にあとを継がせるのは義務だ。
命が保証されなくても差し出さねばならない。
ロシアの民衆たちは皆、戦争に子供を差し出しているではないか。戦争に踏み切ったのはニコライ自身だ。
ここでアレクセイが幼帝として即位しても、いずれ過激なボリシェヴィキが台頭すれば、幼帝だろうが殺害されたかもしれない。のちに皇帝を銃殺したのもボリシェヴィキであり、娘たちも、まだ子供のアレクセイも、容赦無く処刑している。
アレクセイは当時12歳。親元を離れ、皇帝になることなどイメージもできない様子だ。
26歳で即位したとき、ニコライは泣いていた。
そしてこれまで、自身がどれほど苦しんできたか。それでも最後まで自制心を失わず、気品を失わなかったニコライ2世。
失礼な相手にも礼を欠かない節度を持ち、退位する皇帝の立場からの、素晴らしい名文の詔書をも遺した。臨時政府の代表が、自分の持参した声明文を恥ずかしく感じたという。

退位後の、民衆によるさまざまな侮蔑的な態度にも耐えて、ようやく宮殿に戻り、家族に会い、安堵したニコライは、一度、妻の前でだけ号泣し、あとは宮殿内での軟禁生活を家族とともに過ごした。
静かな人生を望んでいたニコライにはむしろ、貴重な時間であったろう。悔しい思いは心にしまい、、、。


退位後 宮殿で軟禁中
宮殿の雪かきを自ら行う
ニコライは本当によく体を動かす



7. トボリスクからエカテリンブルグへ~銃殺

このあと、臨時政府は次第にソヴェートに押され、皇帝一家にも危険が迫り、ツァールスコエセローからシベリアのトボリスクに移送される。


トボリスクのガバメントハウス





ここでもニコライは積極的に薪を切ったり、野菜を育てたり。家族の誰よりもよく働いた。

このころはアレクセイも健康であり、元気すぎるほど元気な時期を過ごした。有り余った元気で、彼はとんでもない遊びを考えた。ボートにソリをつけて、階段から外まで滑り降りるというものである。
どう考えても怪我は避けられなそうな遊びだが….。
果たして彼は怪我をする!
家中のものが、びっくりする大音響とともに。
そして、当然のように、その日から血友病の痛みにもがき苦しむことになった。



彼の病歴はなかなかすごい。
椅子の上に立ち上がって落ちて発病、
ボートに飛び乗ってオールを支える金具で股をうち発病、
乱暴にくしゃみをして鼻出血で発病、
椅子から落ちる真似をして本当に落ちて発病、
そしてこの自爆的ソリ事故、
その後ソリ事故の怪我が軽快してから父母が先行して移送されていたエカテリンブルグへ到着し、初日はしゃいでハンモックに飛び乗って膝を打ち発病。
この件、ニコライも日記に「わざと?」と書いている。
しかしとうとうこれ以降、アレクセイは歩くことができないまま銃殺のときを迎えることになった。

膝を打撲したり、関節に強い力がかかると脚が曲がったまま伸ばすことができなくなり、矯正するのに半年ほどかかる。
例のスパラの事故の4ヶ月後にロマノフ朝300年祭があったが、アレクセイはまだ回復せず歩けなかったため、護衛兵に抱かれて参列した。
周囲では、未来の皇帝の頼りない将来を案じて、ため息がもれた。
この時期の記念写真が多数あるが、アレクセイは曲がった左足を段にのせたり、椅子に座ったりの姿で撮影されている。





1918年7月17日、最期のとき、処刑の部屋に向かうときに彼を抱いて運んだのはニコライだった。
アレクセイは背がかなり伸びて、父と変わらないほど。とても痩せてしまっていたが。

幽閉先エカテリンブルグでの最後の日々は、ニコライは病気のアレクセイを移動ベッドに乗せて部屋から部屋へ動かしていたという。
そのころアレクサンドラは、自分の頭痛と闘うのが精一杯であった。
彼女はエカテリンブルグへの移動のときも、息子が病気で呻き、母の名を呼んでも答えず、夫について先に行ってしまった。皇太子ではなくなった息子の病気に、付き合う力すら無くしたのか。
徐々に、彼女にはニコライを支えることが生きがい、いや使命となり、そして最後は自分の尊厳を保つことに必死だったと思われる。



エカテリンブルグ イパチェフ館
皇帝ミハイルに始まってミハイルで終わったように、ロマノフの歴史はイパチェフ修道院での戴冠式から始まりイパチェフ館での銃殺によって終わった




8. ヨブの日に生まれて
エカテリンブルグに迫りつつある白軍に助けられることを密かに望みながらの、絶望的な監禁生活。
ニコライは5月6日、聖ヨブの日に生まれている。
ヨブは神に試されて、非常に困難な人生を送らされる、旧約聖書中の人物である。
ニコライは、自分がヨブの日に生まれたことを子供の頃は不安に思い続け、さらに皇帝になって困難に直面するほど、またアレクセイの病気に接するほど、宿命論に陥り、悲観的になりながら、全てを甘んじて引き受けようとするようになった。
しかしその判断停止が軍や国民を道連れに巻き込んでしまう。妻の妄言を、理性では認められなくても許してしまう。信心深く、忍耐強い性格ゆえに、宗教に絡め取られてしまう。

温厚帝として治めたい理想はあったが、時代がそれを許さず、血の日曜日事件、日露戦争など不幸にも悪いイメージを植え付ける事態を起こし、温厚帝ニコライは幻となった。




アレクセイは、生まれながらに皇太子であり、痛み苦しみながら生きてきて、12歳で将来をうばわれ、自由もうばわれ、13歳で銃殺に。
13歳、それはニコライが皇太子になった歳だ。
ベッドの脇で震えて見ていた祖父帝の死。
アレクセイは、その歳で、傍らに立ち自分を持たれかけさせていた父が撃ち抜かれ、母も姉達もそして自分も殺される。そして、最も残酷なことに、父も母も即死だったのに、歩けないアレクセイは椅子に身をかがめたまま、たくさんの銃弾を受けてなお死ねず、家族らの血の海の床でもがき苦しまねばならなかった。皇帝と皇后が身を削って守ってきた最愛の息子に、最期に最もむごい恐怖と苦しみを授けてしまうことになった。たった13の子がこの恐ろしい現実をどうして受け止められようか。最後のひとりになってしまって。


暗殺から数日後のニュース
ニコライは処刑されたが家族は無事だと書かれている。ソビエトの偽りの公式発表のとおりである




『1917年 アレクセイ13歳 現在の苦難の時に神が彼に健康と忍耐と心身の強さを与えたまわんことを』
1917年7月、父はアレクセイの誕生日に、日記にこう記していのだった。


たまたま見つけたものだが、聖書の「イザヤの預言」(イザヤ50 6-7)より、「打とうとする者には背中をまかせ ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。 顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。 主なる神が助けてくださるから わたしはそれを嘲りとは思わない。 わたしは顔を硬い石のようにする。 わたしは知っている わたしが辱められることはない、と。」ニコライは退位後にさまざまな屈辱的な嫌がらせを受けたが、まさにこの書に記されているとおりの態度であった。そうしたようすを見るとアレクセイは悔しがり、悲しんだ。しかし一度、司祭の告解を受けた時に、ニコライはこの苦しみを語り、家族が可哀想だと涙を流していたという。



9. 森の中で
皇帝一家の遺体が発見されたのは70年後、あろうことか道路の下に埋められていたため白軍の調査員も発見できなかった。
しかしそこにアレクセイと皇女ひとりの遺体がなく、その発見にはさらに20年待たねばならなかった。
最後の二人は、森の白樺に囲まれたところ、そこで90年間、埋められていた。

「ぼくが死んだ時は、小さなお墓を森の中に建ててよね」

スパラでの苦しみのとき、死を覚悟したアレクセイは、痛みのない比較的平静なときに静かにこう言った。
ときのツェサレーヴィチが亡くなるとなれば、森にお墓を、なんてことは望んでも不可能だったと思うが、はからずも彼の過去の望みのとおり、森に眠ることになった。









ガラクタと、犬と

ガラクタのこと。
1919年1月になって、白露政府は皇帝一家銃殺事件を徹底的に調べることにした。
先述の通り、1997年の遺体発見に至るまでには、赤の時代、第二次大戦も経て70年後になるのだが、最初に遺体を運んだと思われる廃坑周辺には、数多くの遺留物が見つかっている。
ブローチ、十字架、留め金、軍帽の破片。酸に溶け、斧や鋸の跡がある骨片。
調査に立ち会った元家庭教師ジリャールが、それぞれ誰のものなのかを報告した。
そのなかで、釘、錫箔、銅貨、小さな錠が一塊りになって発見され、調査員を困惑させていたが、ジリャールに見せると、それは皇太子のポケットにいつも入っているガラクタだと確認した。
ふつうの民衆の男の子のポケットにも入っていそうなもの。
男の子のお守りみたいなもの。
誇らしく肩章や勲章を付けた軍服のポケットに、こんなものが入っていて、時々手持ち無沙汰に握りしめたり、こっそり手のひらに出して眺めたり。
皇太子とはいえど、こんな素朴な少年が、新しい国の形を築くための犠牲となった。

今では皇帝一家全員がロシア正教における新致命者として、列聖に準じるかたちで祀られている。
それよりも、少年アレクセイも少年ニコライも、森や海に帰れれば、もっと幸せかもしれない。
もう皇帝でも皇太子でもなく。

犬のこと。
アレクセイは赤毛のスパニエル犬、ジョイを飼っていた。主人が殺害された翌日、閉ざされたドアの前で寂しそうにクンクン泣いていたのを警備兵が見つけ、「食べ物がなくて死んだらかわいそう」と、連れ帰り飼っていた。他にもアレクセイの私物をいくつか持ち帰っていたが、アレクセイと犬の写真は当時、世界中に出回っていたため、たちまち足が付いた。のちにこの犬は近くの英国大使館員が本国に連れ帰り、すでに目が弱っていた老犬は丘を駆け回って数年を生きたという。トボリスクに軟禁中、アレクセイは元家庭教師への手紙のなかで、ジョイは好き勝手に塀の外へ抜けて出て、町の犬たちと遊んで帰ってくるし、ゴミを食べてきたりするので太っています、と書いている。こまっているような、しかしそれ以上に羨ましい気持ちが優っているのではないかと思われる。

かつて、この犬とアレクセイの映像を、映画館のニュース映画で流そうという話が持ち上がり、アレクセイに聞いたところ、「犬のほうが賢そうに見えてしまうから」というので見送られたという。微笑ましい話。









悲劇のロシア皇太子 アレクセイ・ニコラエヴィチ

2015-06-27 09:04:35 | 人物

血友病に苦しみ
ロシア革命で13歳で銃殺された
ロマノフ朝ロシア帝国最後の皇太子




ロシア帝国皇太子
アレクセイ・ニコラエヴィチ・ロマノフ
1904〜1918


ロシア帝国最後の皇帝ニコライ2世(在位1894~1917)には第1子から第4子までつづけて4人の皇女が誕生し、なかなか男子に恵まれなかった。しかし1904年に第5子として待望の皇太子が誕生、それがアレクセイ・ニコラエヴィチです。




両親、姉達に愛され、大切にされたアレクセイ。英国ヴィクトリア女王が曾祖母である彼は、重症の血友病※患者であった。生後1か月半で臍からの出血が3日続いたことにより判明。この時までにヴィクトリア女王を基とし、各国の王族に少なからぬ数の血友病発症者が生まれている。




4人の姉たちと
姉たちは皆弟に優しく遊び相手になってくれた
時に乱暴な弟に手を焼きつつも




当然、皇太子のその病名は極秘だった。
親族でさえも知らなかったといわれている。
彼はその短い生涯の中で床に伏して過ごすことも多かった。

※血友病 : 母系保因者から遺伝し男子に発症する。血液凝固系の変位のため血が止まりにくい、それほど激しくない運動でも関節に重症の内出血を起こすなどの症状



病気が癒えて元気なときは、宮廷内が突然光に満ちたように明るい空気に包まれるようになる、快活で華やかな子だった。大変ないたずら好きでもあった。
カメラが普及し始めた時代なので、皇帝ファミリーのポートレートは広く出回り、現存するものも多くある。オフィシャルポートレートのほか、家族のあいだで撮影したスナップ写真も数多く、音声なしの動画のなかでは、ぴょんぴょん跳ねたり走って逃げたり、子供らしい愛くるしい姿で楽しませてくれる。













1914年から始まった第一次大戦では、皇帝が本営に出かけるときはアレクセイも父に付いて本営に滞在することもあり、見識を広める喜びや誇らしさをかみしめていたようだ。外国の駐在将校たちにも可愛がられ、ときにはかわいい悪戯もする、屈託ない盛りだった。

死の恐れもある血友病発症を心配する母皇后アレクサンドラは、唯一の息子であるアレクセイを戦地に送るのを拒んだが、いずれ国や軍を統帥する立場になる皇太子であるため、危険に目をつぶり、送り出した。一方、父皇帝は現地で息子の病気のことを知る者は自分の他にお付きの医師だけなので、はらはらして落ち着かなかった。しかし、元気いっぱいの息子の明るさと、狭い宿舎で息子と水いらずで過ごす嬉しさが勝り、父としての喜びに浸っていた。













しかし国内では長引く戦況への不安と経済的破たんからロシア革命が起きた。
既に時代にそぐわなくなった帝政は、もう崩れるしかなかった。ロシア、オーストリア、ドイツの帝政は次々に消失する。
国民の不安と不満は、当時の敵国ドイツ出身のアレクサンドラ皇后に向けられた。皇后の背後にいる怪しい人物ラスプーチンの存在も、国民の感情を逆なでした。ラスプーチンは僧の身形をしているが、僧ではない。何度か瀕死の皇太子を救ったことで、皇后にとってはなくてはならない存在となった。血友病のことは口外できないため、ラスプーチンを身近に置いている理由は理解され得ず、いかがわしい関係を疑われた。世間には醜悪な風刺画があふれた。
国内の問題から離れたい皇帝は、戦地をまわってばかりいる。その間、内政を仕切る皇后は、感情的な独断も多く、革命家が暗躍する土台を提供してしまった。

そして、1917年2月、二月革命。
皇帝は新たな勢力である臨時政府に迫られ、退位した。皇帝一家は当初は、常の住まいにしていたアレクサンダー宮殿内に、その後シベリアのトボリスクに抑留され、さらにその後、赤軍の拠点ウラルのエカテリンブルクに移送された。彼らを取り巻く状況は日増しに厳しくなっていった。


姉オリガとアレクセイ
このあとオリガは池に落とされたらしい



おどけてポーズをとるアレクセイ
おそらくトボリスク拘束中の写真
体調が悪くても警備兵が挨拶するとおどけた笑顔で敬礼したという




トポリスクからエカテリンブルクへ移送される船中で
アレクセイとオリガ
最後の写真といわれている


(追記 2015.10.14)
この移送の道中での「最後の皇位継承者とロシアの庶民との出会い」が1921年にパリにて報告されていた。

「パスハのあと航行期になると皇太子が皇女オリガ、タチアナ、アナスタシアと共に汽船"ルーシ"でトボリスクからチュメーニに到着された。ここでは埠頭に黒山のような群衆が集まっていて皇帝のお子様達をお迎えした。皇太子を見た群衆は大声で泣きだした。
『私達の貴い皇太子様、私達のお優しい皇太子様、あなた様は私共から離れてどこへいらっしゃるのですか、なぜ私達を置き去りになさるのですか?』
男も女も泣いていた。この光景は到底涙なしに見ることはできなかった。手に手に緑の草や花を持って出迎えた群衆はそれを皇子達の通路に敷き始めた‥」

パーヴェル・パガヌッツィ著
「ロシア皇帝一家暗殺の真相」より 注41


これは皇帝一家の状況を報告するべくトボリスクとエカテリンブルクに派遣されたイヴァーノフが発表したものであるが、類似したエピソードが複数伝えられているらしい。
まだボリシェビキに侵されていない地方では旧来のまま皇帝=神の世界観のなかで人々は生きていた。ロシア帝国300余年、ツァーリに加護を求める民衆の信頼と愛惜が、皇太子の細い肩に背負えぬままに、どこへ消えて行ったのだろう。
病が癒えぬうちに、追い立てられるようにウラルに送られたアレクセイ。体重は当時もう35キロしかなかった。
彼らの旅は5月20日から。しかしもう少し快復を待っていられたのなら、生き残れたかもしれない。6月には白軍がトボリスクを制圧。皇太子らがもう発っていたことを知らなかった。





1918年7月16日、深夜に一家全員と随伴者、計11名が予告なく銃殺された。
彼らは深夜に起こされ、簡単な身支度のあと、幽閉中の館の地下室に集められ、銃殺宣告されるや否や一斉に射撃された。

アレクセイは13歳、その当時はほとんど病臥の生活をしていた彼は自分の足で歩くことはできなかったため、父に抱え上げられて地下室へ。父子は軍帽軍服。
銃撃にょつて皇帝と皇后は即死でしたが、狭い部屋を逃げ惑う娘達とアレクセイはなかなか絶命しなかった。彼らは、宝石をびっしり縫い込めた下着を身につけていたので、それが防弾チョッキがわりになったからだ。革命下の混乱で皇帝家の宝石が略奪されるおそれがあるためと、今後懸念される運命の変転に備えるためにも、皇后が指示して用意させたものだった。皮肉にも、即死できずに苦しむはめになってしまったが。

アレクセイはたくさんの銃弾を浴びながらなかなか息絶えず、血の海の中で呻いていたらしい。銃殺者は弾を全て打ち込んだのにまだ動いているその生命力に恐怖を感じ、我を失ったという。最後は、頭に直に撃ち込まれてようやく「静かに」なったといわれている。

アレクセイ絶命までをもう少し詳しく。
歩けないため、父に抱えられて部屋に入ってきたアレクセイは病気らしく顔はロウの色。しかし、状況を把握しようと、兵の動きをしっかり目で追っていた。以前から、状況を素早く察知し対応しようとする能力には優れていたと言われている。
処刑が告げれられ、アレクセイを一瞬振り返ったニコライは、向き直る前に心臓を撃たれ即死。最初の一斉射撃をアレクセイは生き延びたが、迸った父の血を顔に浴びて、歩けないアレクセイは硬直してそのまま椅子に腰掛けていた。さらに撃たれて床に転げ、近くの父の遺体に手を伸ばす。呻き、なかなか絶命しないアレクセイの頭を、兵のひとりが軍靴でしたたか蹴った。銃殺の指揮者ユロフスキーは頭を蹴った兵をなじって自らがアレクセイに近寄り、右耳後ろ辺りに銃口を直接当て、2~3発撃ち絶命させた。



遺体は迅速に片付けられ、長らく所在不明だったが、コプチャキ村の地中の遺体が皇帝一家のものであることがDNA鑑定によって確認された。
しかしそこにアレクセイと一人の娘の遺体がなかった。元から噂された逃亡生存説を裏付けるかのように。(自称四女アナスタシア、自称アレクセイがたくさん名乗りを上げ、その中にはかなり信憑性のあるものもあった。アナスタシアを自称したアンナ・アンダーソンは有名で映画にもなった。彼女は生涯にわたって皇女だったと訴え続け、裁判も起こしまし、死後はロマノフの親族の墓地に入る。しかし後世のDNA鑑定で、別人だったことが判明した)

2007年、1997年に皇帝たちの見つかった穴からほど近い林の中に、二体分の切断され焼却された形跡のある遺体が埋められているのが見つかり、DNA鑑定によりアレクセイと三女マリア(アナスタシアとする説もあり」のものであることが判明した。






重い血友病で20歳まで生きられないと言われていた不運の皇太子アレクセイ。
しかしながら、大帝国ロシアの唯一の皇太子である彼に、周囲は存命をどれほど強く願っていたことか。むしろ本人が望む以上に。

幽閉先のトポリスクで、幽閉中の退屈さからか、階段での無謀なソリ降りで怪我をし、重症の血友病症状を起こし、痛みに悲鳴を上げながら、

「ママ、僕は死にたい。死ぬことなんか怖くない。ここでこうしているのが、とても怖いんだ」
と。

どんどん暗く、押し込められるようになっていく軟禁生活。子供が考えてもその先にはどうにももう死しか見えてこない。
絶望の淵で生きることの恐怖、残酷を、自分一人の心に秘めて生きることはつらかっただろう。
ロシア皇太子としての輝かしい未来を剥奪されてしまった少年。だが、その未来は彼の場合、病のためにはじめから半分奪われていたともいえる。
幼いうちから彼はそもそもその未来を、遠く叶わぬものと感じとっていた様子もうかがえる。
また、軟禁されてからは、自分は殺されるだろうと思って覚悟していたらしいが、姉たちは助けられるべきだと思い、それを願っていたという。

戦争や革命以前、アレクセイの中にあった感覚…
「自分は長く生きられない」
ある時、寝転んで雲を見ていた当時10歳のアレクセイに、長姉のオリガが何を考えているのか聞いたところ、

「そうだな、とってもたくさんのこと」
「僕はできるだけお日さまと夏の美しさを楽しむんだ。僕がいつか、自分でそれをできなくしてしまうのかどうか、誰が知ってるんだろうね」

血友病の症状は、転んで内出血を起こしたり、鼻血を出したりという些細なことで、死に直結する恐れがある。彼は何度も経験してきた。

最期、血の海で苦しみながら死へたどり着く数分の間、彼の頭に去来していたのはどんなことなのか。

13歳の少年が、消えゆく帝国の皇太子としての、その名の重みから逃れるその時、それと同時に彼の命も消えゆくその時、絶え絶えの息のなかで脳裏に浮かんだものは、どうか、「おひさまと夏の空」であって欲しい。



血の日曜日事件、日露戦争など、民衆にたくさんの血を流させた父帝ニコライ2世の、その娘や息子たちが、最期を自らの血の海で死んでゆくのは相応しい死に様だという見方もあるようだ。
それを、仕方あるまいとは思わない。
まだ13歳のこどもだったのだ。守られるべきはずの年齢でしかない。もっとも、ロシアの民衆の、もっと幼い子供たちでも飢餓で苦しんで亡くなる者も多かったが。

生きている間は受け継いだその血の病に苦しみ、民衆の血の犠牲の報復として、皇太子だったがゆえに殺害されたアレクセイ・ニコラエヴィチ。
そのすべてを理解し、受け容れることができただろうか。あとひと月で14になろうという身であった。



遺体が埋められていた場所
白樺にかこまれたこの場所で、硫酸をかけられ切断され焼却され埋められ、埋めた跡を隠すためにさらにその上で焚火をしたあとがあった
90年後に光を浴びたのは、いくつかの骨片と遺体からこぼれ落ちた数発の銃弾であった






















Gone Too Soon / tsesarevich Alexei


ロシアの良心 アンナ・ポリトコフスカヤ

2015-06-18 23:39:51 | 人物

チェチェンの真実を、書く
それが私たちの責任
"ロシアの良心"が暗殺に斃れるまで






Anna Stepanova Politkovskaya
1958~2006


「いろいろな人々が編集部に電話をかけてきたり手紙を寄こして何度も同じ質問をする。

『どうしてこんなことばかり書いているんです?
どうして私たちを怖がらせるの?
私たちに何の関係があるの?』と。

私は書かなければならないと確信している。
理由はただ一つ、私たちが生きている今、
この戦争が行われている。

そして結局私たちがその責任を負うのだから。

その時にこれまでのようなソ連式の答えで逃れることはできない。
そこにいなかったから、メンバーじゃなかったから、参加していなかったから、などと。
知っておかなければならない。
真実を知ればみんな、居直りとは無縁になれる」


「楽観的な予測を喜ぶ力のある人は、そうすればいい。そのほうが楽だから。
でもそれは、自分の孫への死刑宣告になる」

参考文献:『チェチェン やめられない戦争』




アンナ・ステパノヴァ・ポリトコフスカヤ。
ニューヨーク生まれ、モスクワ育ち。
モスクワ大学卒業後はジャーナリストとして各紙で活躍。
『ノーヴァヤ・ガゼータ』紙上で、当時ロシア国内で大きな問題となっていたチェチェン独立戦争についてをレポート。苛烈な戦線に向かい、現地の難民キャンプや病院のレポート、独立派幹部へのインタビューなどを通して、チェチェンの惨状とともにロシア社会の歪みも訴えた。





1. チェチェン独立戦争の経過


首都グロズヌイ







18世紀 ロシア帝国、カフカスへの南下
1859 コーカサス戦争によりロシアに併合
・ソ連成立後 チェチェン・イングーシ自治共和国(ソ連の一部)
1944 スターリンによる強制移住
1957 フルシチョフによる帰還許可、共和国再建
1992 チェチェン・イチケリア共和国建国宣言
1944 エリツィンによるロシア連邦軍派遣=第一次チェチェン紛争
1995 連邦軍グロズヌイ制圧およびチェチェン大統領ドゥダエフ殺害
1997 ハサヴユルト協定=5年間停戦
1999 独立派バサーエフが協定を破り、隣国ダゲスタン共和国へ侵攻=第二次チェチェン戦争、モスクワアパート連続爆破事件、プーチンによる連邦軍派兵
2000年 連邦軍グロズヌイ制圧、親ロシア派大統領擁立







この後は独立派によるゲリラ活動、テロ活動、及びロシアによる報復が続く。
2002年からほぼ毎年、独立派による大きなテロ事件が勃発。しかし2009年、ロシア政府は、独立派指導者たちの殺害完遂とともにテロ活動が沈静化したとし、紛争終結宣言。
これまでにチェチェン側は総計20万人の犠牲(人口の1/4)を出した。
一方、テロ活動はまだ続く。
列車爆破、地下鉄、空港などを狙った事件や、記憶に新しいところではボストンマラソン爆弾テロ事件がある。

ポリトコフスカヤは存命中に、チェチェンの人質テロ犯行グループとの交渉に関わったことがある。その事件について、ポリトコフスカヤの著作から2002年モスクワの劇場占拠事件を、そして2004年の最も悲惨な事件、ベスラン学校占拠事件についてを以下に書く。



2.モスクワ劇場占拠事件

2002年10月23日、モスクワの劇場ドブロフカミュージアムが公演中、テロリスト42名に占拠される。
要求は、チェチェンからの連邦軍の即時撤退。だが強硬な政府は全く応じない。
26日朝、特殊部隊が突入。無力化ガスを使用。意識不明、無抵抗の者をも含め、その場で犯行グループ全員射殺。
しかしその無力化ガスにより、人質922名のうち129名が窒息死。想定外の大きな犠牲を出した。

特殊部隊の銃撃による死者はいないと公には発表されている。
しかし、ポリトコフスカヤの著書の中でそれを否定せざるをえないような事実が報告されている。

ヤロスラフ・ファジェーエフ15歳の件。
事件後の母イリーナへのインタビューより。

当日、ヤロスラフと母、叔母、従姉は劇場へ。
特殊部隊突入の後、ヤロスラフ以外の3人はガスによる意識不明で病院へ搬送。ヤロスラフはしばらく行方不明であったが、親類が安置所で遺体を発見、頭に銃弾の貫通穴があった。
穴にはロウを詰めて隠してあった。死亡証明書には死因の記載はなし。
親類の話によれば、銃痕はライフルによるもののようであるが、犯行グループは皆ピストルしか持っていなかった。おそらく突入時の銃撃に巻き込まれてしまったのだろう。突入部隊の流れ弾に。

その時、母は怖がる息子の手をしっかり握り、守っているつもりであったのに、後頭部から貫通した銃痕は、逆に息子が母を守ったことを示していた。
母はガスにより、そのときの記憶はない。
病院で意識が戻ったとき、自分だけが裸で寝かされていたので、看護師に服を返してほしいと頼んだところ、服には血が付着していたため処分したとのことだった。
それは息子の血を浴びたということか。

イリーナは言う。
「息子が私を救ってくれたんだわ。
でも、あの、人質になっていた57時間のあいだ、私の唯一の願いはあの子を守ることだった

突入直前に、息子が母に言った最後の言葉は、
「母さん、ぼくは母さんのこと、いっぱい覚えていたい。もしものときのために…」

拘束されている間、テロリストに1人2人呼び出されて引き離される様子をみて不安に怯える叔母に、ヤロスラフは優しく声をかけていた。
「ヴィーカ叔母さん、怖がらないで。もし何かあったら僕が一緒に行くから。僕のこれまでのこと、許してね、許してね」
息子の見せた成長に母は感動した。

イリーナがヤロスラフに言いそびれたこと、
どれほど息子が素晴らしいか、それを言ってやらなかった。
息子と、もっともっとたくさん話したかったと。
数日後には息子と列車の旅に出る予定でチケットも用意していた。車中でならゆっくりたくさん話もできただろうと考えていた。
しかしそれはもう夢の中でしかかなえられなくなった。



プーチンはこの事件を通し、むしろ名声を高めた。
「われわれは犠牲を惜しまない。
惜しむだろうなどと期待するな。
たとえそれがどれほど大きな犠牲だったとしても」

プーチンは過去、チェチェンに連邦軍を派遣する際にもこう宣言していた。
「独立に向けた武装闘争に対しては徹底的に鎮圧する」「テロは先制制圧する」と。


ロシア社会はこの事件の被害者に対して冷やかだった。
ポリトコフスカヤは鋭い筆致でこう書いた。

「腐りきった社会では、人は己の安らぎ、平和、穏やかさを追求し、そのつけを他人の生命で払おうが何だろうが気にも留めない。ノルドオスト事件(劇場占拠事件のこと)の悲劇から逃れようとし、真実より国家の嘘八百を信じる」




3. ベスラン学校占拠事件






北オセチアはチェチェンの隣国であり、ほとんどがイスラム教徒であるチェチェンと異なり、正教徒が多い。
ベスランは首都近郊の富裕層の居住地であり、事件のあった第一中等学校は名門校であった。

2006年9月1日は始業式で、保護者も学校に集っていた。7歳から18歳の学生および保護者、計1181名が人質となった。犯行グループは31人。犠牲者は386名。その1/3は子供だ。

周囲を固める治安部隊との膠着状態のなか、爆発物の誤爆をきっかけに銃撃戦となった。
混乱の中、逃げる子供たちの背中に発砲、取り残された人質を人間の盾にし、建物の爆発を続け、多大な被害を出した。
なお、犯行グループの仲間のうち女2人男1人が、子供を人質に取ることに反対すると、すぐにその場で粛清された。
また、人質拘束直後に父親ら成人男性は別の場所に集められ、すぐに銃殺して窓から放り出された。





その様子を子供達が語る動画にて推察いただきたい。なお、1 of 6から6 of 6まであるが、4は削除されたかで存在しない⬇︎


Beslan Massacre1より

Beslan school Massacre 1 of 6

被害にあった子供達は復讐を心に抱き続ける。いつかチェチェン人を殺す、と。
では、チェチェンの子供達はどうなのか?
心にどんな思いを持っているのか?



4. 首都グロズヌイ






いうまでもなくチェチェンは戦場である(当時)。もちろん、罪なく犠牲になったベスランの子供達も親たちも悲運であるが、チェチェンでは空爆、銃撃、拷問は常に身近であり、死んでも葬儀は出せず、生きていても家はない。
では彼らがこういう目に遭わなければならないのはなぜか。
なるほど、テロ活動をしている独立派の者たちはチェチェン人だ。悪名高いアルカイダとも繋がっている。それらと同じ「チェチェン人」だからだろうか。
無差別テロを行う者は断じて許されるべきではない。しかし、そもそもの発端として、独立を望んだことが、軍の撤退を要求することが、なぜこれほどの暴力で弾圧されなければならないのか。

無差別テロを起こしてどれほどたくさんの犠牲を出したとしても、プーチンにはまるで効かない。先のとおり、彼の「不屈の精神」は、まわりにいくら血が流れてもびくともしない。そして双方の血はいくらでも流れ続けることになる。

ポリトコフスカヤの言葉では、
「死屍累々の上に立って、幸福なふりをするなど、誉められたことではない。なんと私たちは品性というものを失ってしまったのか、吐き気がするほどだ」


ときに、ロシア人であるポリトコフスカヤはチェチェン人から非難されることもあった。

「あなたがたロシア人は私たちを敵に仕立て上げようとしている。もうこうなってしまった以上、私たちは独立を要求するほか道はないだろう。それはわかってほしい。私たちにも土地が必要なんだ。平和に暮らせる場所がいる。どこでも良いから私たちに生きる場所をくれ。そうすれば私たちはそこへ行くから」

ベスランの子供達同様、チェチェンの子供達も復讐に燃え、お手製のライフルで戦闘ごっこをしている。
大きくなったら戦士に。そして誰に銃を向ける?
ベスランの子供は「チェチェン人に」と。



手作りのライフル
男の子はみなこういう遊びが好きなものだが、この銃口を特定のものに向けようとするとき、それは本当の悲劇になる



もう少し年長の子供達は少し精巧なものを持っている
中央の男の子は顔に痛ましい傷の痕がある



少年兵



この子にどんな覚悟があるのか
劇場占拠事件のテロリストの中にはお腹に爆弾を巻きつけた妊婦もいた
どんな未来をもかなぐり捨てて報復テロを行う
「◯◯◯か、死か」という思考を離れないかぎり報復の応酬は止まらないだろう



ポリトコフスカヤはかつてインタビューでこう言った。

「ロシアの兵士に聞いたの。何故チェチェン人を殺すのかと。
彼らは答える。
〈だってそれは彼らがチェチェン人だからさ。〉
それならチェチェンで起きた事、あれは民族の大虐殺、ホロコーストよ! 」







予告編 仏語字幕





Room 1 字幕なし 約6分






Room 2 英語字幕 約9分



フィンランドで制作された映画、『3 rooms of meranchories』は、紛争で不遇の運命を辿った子供達を追ったドキュメンタリーだ。
戦争で孤児となった、或いは極貧となった子はサンクトペテルブルクのクロンシュタットの兵学校で訓練され、終了後はチェチェンと同じような国内の紛争地やテロ制圧の任務に着かされる。
なんと皮肉なことか。
予告編のなかで子供達が劇場人質事件のビデオを見ているシーンがある。



5. アンナ・ポリトコフスカヤ暗殺

2006年10月7日。ちなみに10月7日はプーチンの誕生日だ。この日、自宅アパートのエレベーター内で、ポリトコフスカヤは射殺体で発見された。




ポリトコフスカヤは、かつてベスラン学校占拠のとき、交渉に向かう機内で飲み物に毒を混入されて重体になった。
それ以来、彼女は自分の命がいつ奪われるかと案じていた。
プーチン批判の本を国内で発行するのはリスクが高いので、海外から発行した。しかし本来は国内の人々に向けて警鐘を鳴らすための著作である。

彼女はプーチンを批判する一方で、実際に最も危険視していたのは、ロシア国民の無関心だった。

「社会はいつまでも無関心であり、チェキストは盤石の権力を持ち、私たちの不安を知り、それによって私たちはますます家畜のように扱われるというプーチン政策の責任は、私たちにもある。KGB(ソビエト連邦時代の秘密警察組織であり、プーチンは元KGB)はただ強きを尊び、弱きを潰す。全ての人々はこのことを知るべきである」


彼女の遺したこの言、

「楽観的な予測を喜ぶ力のある人は、そうすればいい。そのほうが楽だから。でもそれは、自分の孫への死刑宣告になる」


こうした脅し文句(?)のために大衆から白眼視されつつも警鐘を鳴らし続け、暗殺された。しかし彼女のこの遺言の重さを誰もが知らねばならない。

アンナ・ポリトコフスカヤ。
ロシアの失われた良心、と呼ばれていた。