名のもとに生きて

人の一生はだれもが等しく一回かぎり。
先人の気高い精神に敬意を表して、その生涯を追う

平家物語 修羅の最期 〜重衡・六代

2016-10-24 01:06:46 | 人物
六. 散り残した命
壇ノ浦/
「見る程の事は見つ。いまは自害せん」
平清盛の四男、入道相国最愛の息子と言われた知盛。清盛の死後は、兄で平家の総大将、大臣殿宗盛とともに、崩れゆく平家の主人であった。
先帝はすでに海の下の都へ旅立ち、女君たちも源氏の手にかからぬよう次々に海に入水。
一ノ谷で父を庇って討たれた息子知章に、背を向けてまで逃げてきた知盛も、乳母子の家長とともに、鎧二両をつけて入水した。
「見る程の事は見つ」と。

清盛の弟、教盛と経盛は、碇を担いでともに沈んだ。経盛の子、経正、経俊、敦盛は皆、一ノ谷で既に討ち取られた。教盛の子、通盛、業盛はすでに一ノ谷で、強弓の次男教経すら、獅子奮迅の末この同じ海底に消えた。

亡き重盛の次男資盛、四男有盛、重盛の弟行盛の子で、重盛が息子同様に育てた行盛、若人三人は、浮かぬよう共に肩を組み沈んでいった。
行盛は歌に優れ、ちょうど忠度のように、都落ちの前に、藤原定家に歌を包んで託し、のちに新撰和歌集に遺された。

総大将宗盛は遅れた。
宗盛の子、右衛門督清宗も同様だった。
船の縁に立つもののなかなか海に降りられず、時を潰しているのを、周囲の者は見かねて、通りがけにぶつかったふうにして宗盛を落とすと、清宗は自ら続いて飛び込んだ。
父子はお互いの様子を伺い、いよいよ死ねず、敵の手に落ちる。
宗盛の乳母子は果敢にも、宗盛らを引き揚げた船に乗り移り、さんざんに戦ったが首を取られた。目の前で乳母子が首を取られるのを、父子は見ているだけだった。

「海上には、赤旗や赤標が、切り捨てられ、かなぐり捨てられて、さながら竜田川のもみじ葉が、嵐に吹き散らされたかのよう、ために汀にうち寄せる白波も、うす紅に色を変え、主のない空船が、潮にひかれ風に流されどこをさすともなく、ゆられ漂いゆく姿は哀れをつくしている」

命をかける死闘といえど、ほんの一瞬のことでしかなく、夢のように流れ去る。
流れてゆくもみじ葉も、
咲いては散る沙羅双樹の花も。



平重衡/
平氏の悲劇は壇ノ浦で終わりではない。
散り残った花は、源氏の手によって散らされる。

重衡は清盛の五男で、容姿は牡丹のように美しく、父母の寵愛を受けた。なまめかしくきよらかでありながら、冗談などもいい、女房達に怖い話をしてキャーキャー言わせたり、強盗の真似をして幼い天皇を面白がらせたりなど、さまざまに心遣いのできる人物であったという。武将としても才に恵まれていたらしい。
にもかかわらず、重衡は戦で敢闘して散ることはできなかった。一ノ谷で捕虜になってしまうのである。

重衡もまた、一ノ谷の生田の森から、乳母子の後藤盛長と主従二騎で落ちていく。大将軍と見た梶原景季と庄高家は追い、矢が重衡の馬の尻に刺さった。盛長は、主人が自分の馬に乗り換えるかと思い、馬の速度を上げ、平家の赤布ももぎり取って逃げ去った。
乳母子の非情な仕打ちに、仕方なくその場で腹を切ろうとした重衡だが、追いついた高家が制止し、馬に乗せて連れ帰った。
重衡は人質となり、平家の持ち去った三種の神器との重衡の身柄との交換を迫られたが、宗盛は応じなかった。重衡も納得だった。平家の者達は生け捕りにされた重衡を恥と思い、憎んだが、鎌倉に下された重衡は、源氏の武将達には一目おかれる存在となった。
梶原景時に伴われ、鎌倉で頼朝と対面した重衡は、

弓矢とる身の常として、敵の手にかかり命をおとすのは、恥のようであって決して恥ではありません。この上は芳恩をもって、ただすみやかに私の首をはねてください」
その後は一切物をいわない。景時はこの重衡の言葉に、「立派な大将軍だ」といって涙をながした。座につらなる人々も、みな袖を濡らした。


頼朝は重衡を狩野介宗茂に預けた。情けある狩野介は、心を尽くして重衡の世話に務めた。狩野介は千手の前を伴ってささやかな宴をひらき、重衡も琵琶をとり、見事な朗詠が一夜響いた。立聞きしていた頼朝の心にも清く響いたようであった。

重衡はかつて、清盛の頃の南都焼討の際の大将だった。奈良の寺院を焼き払うつもりはなく、暴れる僧徒を鎮めるための出兵だったが、不手際から火が伽藍に燃え移り、寺も仏像も灰塵にしてしまった。南都では重衡を憎み、鎌倉に重衡の身柄を渡すよう執拗に催促するため、重衡はとうとう引き渡されることとなった。

道中、身をやつして一人生きながらえていた妻に会うことができた。結局、木津川の河原で斬首されることとなると、大勢の見物が見はった。そこへ、元は重衡に仕えていた侍が見届けるべく現れ、重衡の望みを聞き、近くの里から仏像一体を借り、砂の上に据え、自分の狩衣の紐を外し、片端を仏の手に掛け、もう片端を重衡に握らせた。重衡は最後の念仏をし、首を差し出す。
その様は見物の心を打った。
首は、般若寺の大鳥居の前に釘付けにされた。
焼き討ちの際、ここをくぐっていったのである。

妻は骸と首を引き取りに行き、火葬してのち、生涯をかけて供養した。真夏のことゆえ、傷みの激しい亡骸を引き受けたのは気丈な心映えだと思う。
重衡には子がなく、妻も母もあれこれ苦労して祈祷なども施したが、このような運命になってみれば、
「それで宜しかったのだ。子供がありでもしたら、どんなに切なかったことであろう」と思ったようである。

壇ノ浦で宗盛が潔く海に飛び込めなかったのは、そもそも優柔不断なせいもあっただろうが、息子清宗と離れることに未練があったからだろう。
宗盛も、重衡と前後して鎌倉に下され、首を落とされた。


平宗盛/
「たとえ、蝦夷千島にても命さえあらば‥」
清宗とともに鎌倉へ送られる道中、宗盛は付き添いの義経に、命を助けてほしいと哀願する。
とうとう鎌倉で頼朝と対面したが、その態度には助けて欲しさに媚びる姿勢が痛々しく、居並ぶ武将たちは、大将軍としての覚悟のなさはおろか、一武士としての誇りすら持ち合わせぬ宗盛には、皆たいそうあきれた。
京に帰されることになり、もしや助かるのではと淡い期待をいだく父。道中で処されることを確信していた息子は、そんな父を労わりつつも、ひたすら念仏を勧めた。
最後、篠原の宿で父子は引き離され、まず父が斬られる。念仏の途中、「右衛門督もすでにか」と聞いた。死の間際にもやはり、頭の中は息子のことでいっぱいだったのだろう。
続いて、息子は、

「さて、父の御最期は、いかがでございましたか」
ときくと、聖は、
「おりっぱでございました。御安心なさりませ」
と答えた。すると右衛門督は、
「いまは憂き世におもいのこすことはない。さらば、斬れ」
と首をさしのべた。


清宗こそ最後まで、父のことを心配していたのだ。父の命よりも、父の尊厳を。きっと、幼い時分から父の欠けるところを知り、気にかけていたのかもしれない。
父知盛の盾となった知章、そしてこの清宗、ともに十六の若さにもかかわらず、それぞれのやり方で父を支えたのは、立派なことであった。

このあたりを描いた能演目には、『知章』、『碇潜』、『千手』、『通盛』、『小督』がある。



七. つまれる蕾
『平家の子孫は、男子であるかぎり、一人残らず亡き者にせよ』


六代/
「あまりかわゆくいらっしゃるので‥」

六代とは、平高清である。
平維盛の息子。六代という幼名は、平正盛から、忠盛、清盛、重盛、維盛、そしてこの高清が嫡流の六代目であることに由来する。
壇ノ浦で平家が排除された後の、幼い生残りの者達の運命を追っていく。

六代についての前に、まずは六代の父、維盛について。
父清盛よりも早くに亡くなった重盛は、権威を笠に着がちな平家一門のなかでは穏健で、法皇の信頼も厚く、源氏方によっても、若き頼朝を救い、庇護する助けとなった重盛の家系、小松方は特別視されていた。
しかし、宗盛以下の弟らとは母が異なることと、重盛自身の妻と、嫡男維盛の妻が、鹿ノ谷の陰謀で流罪となった藤原成親の縁者だったということもあり、平家のなかでは孤立しつつあった。
清盛亡き後、嫡孫の維盛ではなく、弟宗盛が権力を握ることになった。宗盛の嫡男の清宗に、昇進を先に越されるという屈辱もあった。
更に、小松家においても、資盛以下の弟とは母が異なり、維盛は長男ではあるが、女官の産んだ子であったため、十三で立嫡するまでは立場が明確でなかった。
しかし、維盛の美しさは飛び抜けており、先述の通り、青海波の舞を披露したのは十六の春、「かざしの桜にぞことならぬ」ほどで、日頃は平家を憎む者ですら、その容姿の優れたる様は賛美したという。
成年後、政治の表からは外され、大将軍として戦地に赴くことは多いものの、不運が多く、侍大将らと対立しがちで、その度に戦局は足並みが乱れ、大敗をもたらしてしまった。
富士川の戦いでは、当時まだ存命だった清盛に、なぜ骸を晒してでも戦ってこなかったかと激怒され、京に入れてもらえなかった。
また、西国へ都落ちするとき、維盛は妻子を伴うのは不憫と思い、泣く泣く京に残して行くが、別れに手間取り、やや遅れて合流したことを、宗盛や知盛は怪しんだという。維盛だけでなく、小松方は平家の集団の中では、居心地の悪い思いをしていたことだろう。
そんなことから、維盛は病がちになり、一ノ谷の前後に密かに逃亡する。妻子に会いたい思いを堪え、高野山で剃髪、熊野三山を巡礼したのち那智沖にて入水。二十七歳。

歌人・建礼門院右京大夫は、かつての維盛の青海波を瞼に浮かべて、その死を悼む。

春の花の 色によそへし おもかげの
むなしき波の したにくちぬる

驕れる人々のなかに数えられても、孤独に苦しみ、水づく生涯もあった。


さて、六代の、父維盛との別れは十歳のとき。二つ下の妹と母と、大覚寺の菖蒲谷というところに潜んでいた。頼朝は平定の後、平家の男子子孫全てを滅ぼしにかかった。しかし、肝心の嫡流六代は見つけることができず、子孫抹殺を任されていた北条時政は、鎌倉へ帰ろうとしているときに、ある女の密告で六代の居場所がつきとめられた。外から様子を伺っていると、美しい若君が子犬を追いかけて庭に飛び出してきたのを目撃する。翌日、引き渡しを求めた。十二の六代は大人びて十四、五より上にも見え、大変美しい容姿容貌。気丈に振舞おうとすれど、涙が押さえる袖からこぼれ落ちてしまう。
捕らえられ、連れていかれた六代は、すぐには斬られないでいた。子孫抹殺の命を預かっている北条時正によれば、
「あまりかわゆくいらっしゃるので、まだそのままにしてございます」
とのこと。そこへ、鎌倉殿とはかつて共に助け合った仲だという文覚上人が、助けるために弟子として保護しようかと、六代の様子を見に来た。上人はその様子、姿、人品の、この世の人とは思えぬ有様に、殺すには忍びないと感じたため、自ら鎌倉へ行き、頼朝に命乞いに行くと決心、時政には二十日の延命の猶予をもらった。
しかし、約束の二十日が過ぎても、便り一つもなかった。それでも、北条はすぐに斬る事はできず、途中で上人と会える可能性もあるからと、御輿に六代を乗せ、京を離れて東にゆっくりと進んだ。いよいよ、今日かと思ううちに、虚しく時が過ぎ、駿河国の千本松原で六代は降ろされた。足柄を越えることは、どうにも許されないと判断したためであろう。
覚悟をされた若君は、首を差しだし、声高に念仏を唱え、ふと肩にかかっていた髪を美しい手で前にかき寄せる様に、武士たちは涙を流した。
そんななかで、だれも斬る事ができず、押し付けあっているところに、馬に乗った僧があらわれ、土地の者に話を聞くと、あわや若君が斬られそうだとのこと。僧は声を張り上げ、鎌倉殿からの書状を差し出す。書状には確かに鎌倉殿の花押もあった。その場にいた者全ての涙が、喜びの涙に変わった。
文覚上人に預けられた六代は、十四で剃髪、妙覚と名乗り、修行する。頼朝は、助命を許したものの、六代が成長するにつけ、気になって仕方なく、様子を文覚にしつこく尋ねるが、文覚は意気地なしだから安心するようにと、ごまかしていた。しかし、六代が二十一の歳に鎌倉で頼朝に謁見、頼朝は一目でその聡明さ見破り、危険を感じた。
その後まもなく頼朝は亡くなり、文覚が謀反の計画で流罪になると、六代は捕らえられ処刑されてしまった。没年には二説あり1199年または1205年、享年は二十六あるいは三十一。

平家の嫡流中の嫡流でありながらも、抹殺の命令ののち、15〜20年も保護され続けた六代は、不幸中の幸いというべきなのか、人に、彼を死なせたくないと思わせ、守りたくさせる魅力に恵まれていたのだろう。「助けてほしい」などと一言も言わなくても。それは、容姿の魅力だけでなく、その人の備える清らかな心が、誰彼の心にも打ち響いたからではなかったか。
若君として、僧として、そのような素養がまさに、より良く彼を生かしていたのだろう。不思議にも、世には稀にそういう人が居るものなのだ。

六代の死によって、平家の男子の子孫は絶えた。


なお、六代の他の幼き子孫の運命を振り返ると、
宗盛の次男義宗、幼名副将は、宗盛が鎌倉へ送られる前に、ひととき父と面会したあと、河原に連れて行かれ斬首された。八歳だった。

重盛の六男、忠房は、屋島の戦いのあとに陣を抜け出した。兄の維盛と一緒だったのかもしれない。紀伊の湯浅氏に保護され、のちに湯浅宗重、藤原景清ほか平家残党と三ヶ月の篭城。ところが、頼朝より、「重盛には旧恩があり、その息子は助命する」とあり、鎌倉へ出頭。しかし頼朝が助命するなどとは嘘にすぎず、京に帰る途上で殺された。1186年1月のこと、年齢は不明。

重盛の七男、宗実も同様に、頼朝により、助命するから出頭するように要請があった。宗実は、重源の弟子に志願し、東大寺に身を潜めていたのだったが、鎌倉へ行っても助命されるはずはないと思い、然れども寺に残れば迷惑がかかると考え、奈良を発つ。しかし、それは死を覚悟の旅のこと、旅立ちから飲食を断ち、足柄を越えた関本あたりの宿で衰弱死した。1185年、十八歳。

知盛の末子、知忠は、都落ちのときにはまだ三歳。都落ちには同行せず、紀伊為教が引き取り、匿っていた。しばらくして、九条河原法性寺の一の橋のほとりの邸に隠れ住むようになった。清盛がかつて、いざという時の城郭になるように、二重の堀を備え、四方は竹で囲んだつくりになっている。ここに平家の者が潜んでいるとのうわさに、鎌倉方が攻め入った。
応戦しているうちに知忠は傷を負い、自殺。
しかし、首実検では知忠の顔を知る者はなかったため、壇ノ浦で生き残っていた母、治部卿の局が呼び出された。三つの時に別れて以来、生死も行方も不明だった我が子との、惨い形の再会。

「ただ面影にどこやら、故人の中納言を偲ばせるところがございますので、やはりこれが知忠であろうと思われます」

1196年10月、知忠は十六だった。





革命、平定、クーデターは何かをもたらすけれど、それはよいものばかりではない。そして、必ず失われるものはある。歴史はそうやって、看板を塗り替えてきた。
その渦中の者達の壮絶な生死のなかに、人としての心がつぶさに映ってみえる。
平曲として、能の修羅物として、現代にも受け継がれているのは、彼らの悲しみが、どういうわけか今を生きるわたしたちにも、心に沁みるから、
崩れていく状況のなかでも精一杯に生きる姿が、心を打つからである。



この文を書いていた間に、鳥取の地震があった。平家物語にもあるが、壇ノ浦の戦いのあった同年の1185年7月9日正午、大地震が起こり、多くの寺社の倒壊することになったのも平家の祟りなのではないかと怖れられた。
被害は近畿だけでなく、遠国にも及んでいたとのこと。土に埋まる人々のこと、また、津波も記録に窺える。南海トラフ地震であった可能性もあるらしい。
物語には、
「四大元素中の三種、水と火と風とは、常に災害をひきおこすけれども、大地にかぎって、異変をなすことはないのに、これは何とした事であろう‥」
とあるが、今の私達にしてみれば、大地は不動のものではないことは、近年は特に身につまされて承知している。
過去の時代の人々と違い、天災はいっときの大地の暴れだけでは済まない、ということにも私達は肝を冷やしている。
稼働している原子力発電、放射性廃棄物が、むき出しになってしまったら‥
その恐怖も受け入れなければならない。
いや、それは大地に、私達が終わりをもたらすことに他ならない、贖うことのできない重い罪を数万年も負う絶望である。


平家物語 修羅の最期 〜実盛・教経

2016-10-16 21:52:05 | 人物
五. 名乗り
さて、一ノ谷では、平家の名のある人物が討たれている。平忠度だ。

平忠度/
「私は味方の者だ」
紺地の直垂、黒糸縅、黒馬に乗った忠度は、源氏方の岡辺忠純に名を尋ねられるとそう応じた。
落ち着き払った様子、しかし岡辺は兜の内に黒く染めた歯を見とめ、平家の公達だと確信し、組みついた。
「憎い奴であるわい。味方だというのだから、そうしておけばよいではないか」
忠度は岡辺を馬上から刀で刺すが朝傷、そこでさらに首をとろうとする忠度の腕を、岡辺の小物が追いつき、斬り落とした。
もはやこれまでと思ったか、
「念仏を十遍唱える間、のいておれ」
忠度は岡辺を片手でつかんで投げとばし、念仏十遍、念じ終わるより早く、岡辺は忠度の首を落とした。
ふと箙を見ると文が結び付けられている。
そこには、

旅宿花

行きくれて木の下陰を宿とせば
花や今宵のあるじならまし

忠度

今討った相手が、歌人として名の聞こえた忠度卿であったと知る。
忠度を討ち取ったという岡辺の大音声を耳にした者は、敵も味方も、文武に優れた尊い人物の死を嘆いたという。
敦盛が腰に差していた笛、忠度がしたため箙に結んだ自作の一首。戦場にアイデンティティを取り戻すよすがを身元に、やはり悲しく散り果てて行く。海に逃げることはかなえられず、海辺に屍をさらした。

名乗り。
敦盛も忠度も、討ち取られるときに名を名乗らず、無抵抗のまま斬らせた。
前に書いている今井兼平は、死闘に斬り込む前に名乗りを上げている。熊谷直実も名乗っているが、この場合は50パーセントの勝利に賭ける斬り込みであって、兼平のように、生還の見込みのない死闘とは違う。

忠度は四十一歳で名乗らずに死ぬ。彼は自身の存在を歌に乗せていた。

一方、今井のように死闘に斬り込みながらも、敢えて名乗らずにいた者もある。


斉藤実盛/
篠原の戦いに戻る。
木曾に惨敗し、総崩れになった平氏軍。敗走する軍のしんがりとして戦い防いでいた中に居たのが、平実盛である。
木曾方の手塚光盛が進み、声をかけた。

「殊勝なり。いかなるお方なれば、味方の勢はみな落ち行きたるに、ただ一騎踏みとどまって戦わるるとは、さてもゆかしいお心ばえと見えたり。いかなる人にて渡らせたもうぞ。名乗らせたまえ」
「そういうわどのはたれぞ、なんと申さるる」
「信濃の国の住人手塚太郎金刺光盛」
「さては、たがいによき敵なり。ただし、わどのを見下げるのではないが、ぞんずる旨あって、名は名のらぬ。寄れ、組もう、手塚」


割って入った手塚の部下を討ち取ったものの、その間に脇へまわった手塚に組み伏せられた実盛。
義仲は差し出された首を見て、それが実盛だと気づく。しかし、実盛ならば、その昔、義仲が幼い頃、父が討たれたとき義仲を信濃の国へ送り、命を救った恩人であり、当時既に白髪の初老であったが、実検の首は髪が黒い。そこで、実盛と付き合いのあった樋口を呼んだ。樋口は涙ながらに、実盛であるとし、そのわけを話す。

「斉藤別当(実盛)がつねづねの話に、『六十すぎて戦場へ向かう時は、鬢や髪を黒く染めて、若がえろうと思っている。白髪頭を振りたてて若殿ばらと先がけを争うのも、おとなげなし、また、老武者と人に侮られるのも、口惜しい』という理由からでありましたが、はたして染めてまいりました」

首を洗ってみれば、確かに白髪だった。
戦となれば致し方ないことではあるが、義仲は恩人を死なせてしまったことを悲しみ、ひどく泣いたという。

もしも斉藤別当と名乗れば、木曾方には敵でも、義仲にとっては恩人、それを聞いて討ち取ったとなればその者はどうなるかわからない。それはともかく、年齢も知れることになる。
実盛はそれで名乗りをしなかった。
十六の敦盛。七十の実盛。
『実盛』も能の代表的な演目として継承されている。

この名乗りの慣習は悪用され、剛の者と名の聞こえた平盛俊は、まさに首を取ろうとする敵にせめて名乗らせてもらいたいと頼まれ、時間を稼ぐとともに命乞いまでした敵を許し、言葉を交わしている間に斬られた。名を明かしておいて、このように許しがたいことをする者の卑属さ。スポーツではない、いくさはいくさでしかない。


持論をここでくだくだ述べるとすれば、私はこの「名乗り」というものは、至極神聖なものと思っている。ブログタイトルも「名のもとに生きて」としている。人の命とその名は1対1で結びついており、命が終わってもその結びつきは切れない。肉体は失われても、最後に唯ひとつ残るものはその名のみである。
その名が、いよいよ死に向かって落ちていく、その人自らによって名乗られる。
生まれて、名が与えられ、常に自分の耳まわりに聞こえ、ともに存在してきた「その名」と、「その人」との別れとなるかならないか、名と命の愛着が最高に高まる、名乗り。

過去記事では、ケーテ・コルヴィッツの息子ペーターは従軍して識別番号になり、オスカー・ワイルドも勾留されて、自分は番号と影になってしまったと落胆する。名を失うことの疎外感。
名は誇り。ただ一つの自分の鍵。
命を自ら絶とうとする人がいるなら、ひととき、ぜひ自分の声で自分の名を呼んでほしい。自分で自分の命を抱きしめることだって大切だ。生きて、ぜひ我が身我が名を大切にしてほしい。


六. 義経、教経
平氏軍の大将軍のなかで最も勇ましいのは能登守教経。能登殿。京一番の強弓の者。誰もが避けたがる難所の防衛でも進み出でて任された。教経は、清盛の弟教盛の次男。大臣殿宗盛の従兄弟である。物語読者には教経ファンも多かろう。
もしも教経が宗盛のポジションにあったならば、というIFは、もしも小松殿(平重盛)が清盛より先に死んでいなければ、というIFと同様、深い興味がわく。


平家は一ノ谷の戦いから屋島、長門で立て直し、海峡での海戦に最期を賭けた壇ノ浦。
教経はここに沈む。

一方の源氏方のかしらは義経。
遡って屋島の戦いで、義経と教経が向き合う場面があった。

「船戦は、こうするものぞ」
とばかり能登守が、鎧直垂を身につけず、唐巻染の小袖に、唐綾縅の鎧を着て、怒物づくりの太刀をはき、二十四本差した鷹うすびょうの矢を負い、滋籐の弓を持って現われた。京いちばんの強弓であったから、その矢おもてに立って、射抜かれぬ者はひとりもなかった。なにとぞして源氏の大将軍、源九郎義経を、ただ一矢で射落とそうとねらったが、源氏のほうでもそれと知って、奥州の佐藤嗣信、四郎忠信、伊勢三郎義盛、源八広綱、江田源三、熊井太郎、武蔵坊弁慶などという一騎当千のつわものどもが、馬首を一面に立て並べて、大将軍の矢おもてに立ちふさがったので、なんともねらいうちにしようがない。いたしかたなく、
「矢おもての雑人ばら、そこをのけい」
と叫んで、つがえては引き、つがえては引き、さんざんに射ったので、鎧武者十数騎ほどがやにわに射落とされた。なかでも真っ先に進んだ奥州の佐藤三郎嗣信は、左肩から右の脇へかけてぷっつり射抜かれ、馬上にたまらずまっさかさまにどうと落ちた。能登どのの童に、菊王丸という大力の剛の者がいて、三郎の首をとろうと、走り寄ってきたのを、弟の佐藤四郎が兄の首を取らせまいとして弓をしぼり、ひょうと放った。菊王は腹巻の引き合わせを背中にかけて射抜かれ、四つんばいになって倒れ伏した。能登守はこれを見ると、船から飛んでおり左手に弓を持ちながら、右の手で菊王丸をつかみ、船へどうと投げ入れたので、敵に首はとられなかったが、深傷であったため、そのまま息たえた。菊王丸はもと越前の三位通盛卿の童であったが、三位が討たれてより、弟の能登守に仕えていたのである。生年十八歳ということであった。能登どのは童を討たれて気落ちしたのか、それなり退いてしまった。判官(義経)は佐藤三郎嗣信を、陣の後ろへかつぎ込ませ、馬からおりてその手をとり、
「三郎兵衛、いかに」
ときけば、
「今はこれまでとぞんじまする」
「思い残すことはないか」
「なんの思い残しがございましょう。ただ君の世にあらわれいでたもうを見ずして、死ぬことばかりが残念でございます。さもなければ弓取る身の敵矢に当たって死ぬるは覚悟の前、ことにも『源平の合戦に、奥州の佐藤三郎嗣信と申す者が、讃岐の国屋島の磯べで、主君の御命にかわって射たれた』と、末代までの物語にされることは、今生の面目、冥土の思い出、これに越す誉れはございませぬ」



義経はだれか僧を呼び寄せ、死んだ嗣信を託し、一日経を書いて弔うよう、自分の愛馬を僧に差し出した。

義経も教経も、このときは部下を失うことになり、消沈して対決することをしなかった。自分と敵の間で、負傷し命を落とす身近な者たちのあわれな立場は苦い涙を落とさせる。あのときの妹尾のように、「先が暗くて見えない」という有り様かもしれない。


さて、壇ノ浦の戦い。
午前は平家軍が押していたが、午後には海峡の潮が変わり、源氏方が優勢になった。もはやこれまでと、先帝も波間に消え、平家の者たちは男も女も戦いから外れて、海に次々に沈み、姿を消していく。
能登殿はこの日を最後と覚悟の上か、源氏の者をさんざんに射殺し、矢が尽きれば、大太刀と大長刀を両手になぎ切っていく。
その後、大将軍に組もうと数々の源氏方の船を、義経を探して回る。顔を知らないため、それらしき者に次々に襲いかかる。その様子をうかがっていた義経は、気づかれないように身を交わしていた。
しかし偶然か、とうとう義経の船に教経が現れ、義経に飛びかかった。
身軽な義経は、味方の船にひらりと飛び移り、間一髪、八艘跳びで逃げ果せた。追うことはかなわぬと思った教経は、両刀を海に捨て、兜も鎧の袖も草摺りも脱ぎ、大手を広げ、

「源氏方にわれと思わん者あらば、寄って教経と組んでとれや。鎌倉へ下って、兵衛佐に、一言もの申すことあり。いざ寄れや寄れ」

なかなか寄っていける者はいない。そこへ、土佐の住人安芸太郎実光とその弟、郎党の三人、剛力の者が船を寄せて進み出た。
三人同時にかかっていったところ、教経は、真っ先に向かってきた郎党を海に蹴落とし、安芸の兄弟を両脇にかいこみ、

「いざ、おのれら、わが死出の旅路の供をせよ」

瞬く間に海におどりこみ、消えた。
能登殿は二十六歳であった。
ただでは死なぬ、こんな剛毅な者も平家にいた。
教経が涙を流す場面など、おそらく、物語には一つもなかったと思う。
はかなさとは無縁だからだろうか、義経の能はいくつもあるが、教経のものはない。

壇ノ浦で、義経は、戦に勝つべく、教経から逃げ、敵の船の梶取を射るよう命じるなど、作法に反する手をも使い、ようやく平家との戦いを終わらせることができた。
しかし、梶原との内部対立は深刻化、義経の不運もすでに始まっていた。






長くなりすぎてしまったので、ここで切ってもう一回平家物語を書きます(小声)( ̄▽ ̄;)

平家物語 修羅の最期 〜妹尾・十六

2016-10-14 21:04:48 | 人物
三. 父子兄弟
話は戻り、木曾義仲が水島の戦いに敗れた頃。
音に聞こゆる剛の者、平家方の妹尾兼康は倉光次郎成澄に生け捕りにされ、斬られるところを木曾殿が、あたら男を失うべきではない、と成澄の弟・三郎成氏に預けた。気立ての良い妹尾は倉光にもねんごろにもてなされたものの、いつか必ず平家方に帰ろうと密かに時を待っていた。
かりそめに木曾殿に忠誠を誓い、故郷は良馬の飼育によいから案内したいと持ちかけた。
倉光や郎党を引き連れ、宿で酒に酔わせ、残らず刺し殺した。
周囲に声をかけ、手勢を集め、城郭をこしらえ、木曾の軍勢を待つ。

「にっくき妹尾め、斬って捨べきであったのに、ゆだんしてはかられたのは残念」
と義仲は、後悔した。
「きゃつの面魂はただ者とは思われませんでした。それゆえそれがしが、千たびも斬ろうとあれほど申せしに」
今井四郎(兼平)がそう言うと、義仲は、
「何ほどのことやあらん。追いかけて、討て」
と言った。


今井が三千騎を率いて、妹尾と向き合った。

籠城する妹尾と攻城する今井。
妹尾は城郭を破られ、落ちていく。
たばかられた倉光三郎の兄、倉光二郎と組んでその首も落とし、落ちて行こうとするが、妹尾の嫡子小太郎宗康、二十歳は太っていて走って来れない。妹尾は見捨ててしばらく行くが、馬を止めて言った。

「日ごろは千万の敵に会っていくさをしても、四方に一片の雲もなく、晴々とした気もちでおったが、今日は小太郎を捨てて行くためか、いっこうに先が暗くて、見えぬ。たとえこんどのいくさに命ながらえてふたたび平家の味方へまいったとしても、『兼康は、六十に余る齢をして、あといくつまで生きようと思って、一人しかない子を捨てて逃げてきたのか』などと同輩どもに言われるのが残念だ」
「さればこそ御一所でいかようにもならせたまえと、申し上げたではございませぬか。お引き返しなされませ」と郎党が言うので、兼康は引き返した。案のじょう、小太郎宗康は、歩けないほど足がはれて突っ伏していた。妹尾太郎は急いで馬から飛んでおり、小太郎の手をとって、
「お汝といっしょに討ち死にしようと思って、ここまで引き返してきた」
と言うと、小太郎は涙をはらはらと流して、
「たといわたくしこそ未熟のため、ここにて自害いたすとも、わたくしのために父上の御命まで失い参らすことは、五逆の罪にも当たりましょう。ただ疾う疾うお逃げのびくだされ」
と言ったが、
「いやいや、もはや思いきめた上は」


そこに、今井を先頭に五十騎が追いかけてきた。
妹尾は矢をさんざんに射、太刀を抜いて、まず小太郎の首を打ち落とすと、敵の中に入って多くを討ち取り、ついに討ち死にした。郎党も死力を尽くして戦い、果てた。
さらされた主従三人の首級を見た木曾殿は、
「げに、惜しかった剛の者よ」
と、妹尾の死を悼んだという。

忠と孝のはざまで、人の心はどう動くのか。
妹尾の場合は子に対しての情に動いたのだから、いわゆる孝とはちがうものかもしれないが、抽象的なモラルである忠と、側近くはっきりと形をなす孝とのはざまで、孝のほうへ下りてきた妹尾は、剛の者の兜を脱ぐかたちになった。
もしも忠を選び、剛の者として生きながらえたとしても、ここで物語として伝承されて残るほどにはならなかったかもしれない。多くの聞き手の心に響くのは、子を見捨てなかった父の姿だからだ。
わが子の首を自らの手で落とす。
その凄まじい覚悟には心をえぐられる。
鬼神の仕業ではない。立派な父の業と思う。

平家物語にはこのあとの戦いでも、梶原父子、河原兄弟、熊谷父子など、親子兄弟でかばい合う場面がいくつも描かれている。

ただし、悲しいことに美談となりえないことも起きた。
一ノ谷で敗れた平家は、舟に飛び乗り、沖に逃げていく。そんななかで悲劇はいくつも起きた。



四. "十六"
平知章/
平氏の重鎮たる平知盛。清盛の三男で、当時のナンバー2だ。一ノ谷の要衝・生田の森の大将軍だったが、子息の知章と侍の監物頼賢とともになぎさの方へ落ちて行った。
そこへ、源氏方の追っ手が迫ってきた。
追っ手の者が知盛に組みつこうと馬を寄せると、息子知章は父を討たすまいとして、中に割って入り組みつき、落ちて、取って押さえて、首をとった。そこへ、源氏方の童がきて、知章の首を取る。今度は監物が、馬から折り重なって童を討ち取った。監物はその場で矢を射、太刀をふり、一人さんざんに戦い、膝を射られて座ったままで討ち死にした。
知盛はこの間に逃げ果せ、兄宗盛の船にたどり着いた。

知盛は、宗盛の前に行って、

「武蔵守(知章)に先立たれ、監物太郎を討たれて、今は、心細くなりました。そもそも、子が親を討たすまいと敵に組むのを見ながら、子の討たれるのを助けもせずに、これまでのがれてまいる父が、どこにありましょう。あわれ、他人のことなら、いかばかり歯がゆいかしれませぬのに、さぞかし卑怯みれんな父と思われるであろうと、それがはずかしゅうござります」
た、鎧の袖を顔に押しあて、さめざめと泣く。大臣殿(宗盛)はこれを慰めて、
「武蔵守が、父の命に替わられたことはまことに殊勝ではないか。腕もきき心も剛気で、よい大将軍であったがこの清宗と同年で、たしか今年は十六歳のはず」
と言いながら、御子の衛門督清宗卿のいるほうを見て涙ぐんだ。その席に列していた平家の侍たちは、情けを解する者も解さぬ者も等しく鎧の袖をぬらした。





この日、波打ち際でもう一人、命を落とした十六歳がいた。平敦盛。若いが、宗盛、知盛の従弟にあたる。

平敦盛/
意気はずませ、齢十六の息子小次郎直家とこのたびの戦に挑んだ熊谷次郎直実。

「去年の冬鎌倉を立ちしよりこのかた、命をば兵衛佐殿にたてまつり、しかばねを一ノ谷の汀にさらさんと覚悟をきめた直実、去んぬる室山、水島両度の合戦に打ち勝って、功名した覚えのものども、直実親子に、出合えや、組めや」


しかし、小次郎が肘を射られ負傷、直実は一人、渚の方へ落ちて行く平家の公達を見つけて組み、手柄を立てたいと馬を走らせていた。
そこに、沖の船に向かって浅瀬を進んでいく一騎が目に入った。
「返させたまえ、返させたまえ」
武者は引き返し、たちまち熊谷はそれを波打ち際で組み落とし、首を搔こうと兜を押し上げてみると、それは、わが子小次郎と同年配の、十六、七の美少年だった。

そも、いかなるお人にてわたらせたもうぞ。名のらせたまえ。助けまいらせん」
と言えば、
「まず、そういう和殿はだれぞ」
と問い返した。
「物の数にてはそうらわねども、武蔵の国の住人熊谷次郎直実ともうしそうろう」
「さては、なんじのためにはよき敵ぞや。名のらずとも、首をとって人に問えかし。人も見知らん」
「さてこそ、よき公達。この人ひとり討てばとて、負けるいくさに勝つべきはずもなし、また助けたとて、勝ついくさに負けることはよもあるまじ。けさ一ノ谷にてわが子の小次郎が、薄傷を負うてさえ心を痛めるのに、この若殿の父は、子が討たれたと聞いたら、どのように嘆き悲しむか。よしよし助けまいらせん」

しかし、振り返るとうしろに近づいてくるのは源氏方のライバル、土肥、梶原の五十騎ほどだった。

「あれをごろうじそうらえ。いかにしても助け参らせんとはぞんずれど、雲霞のごとき、味方の軍兵、よもお逃し申すまじ。あわれ、同じことなら、直実が手にかけて後世の供養をつかまつらん」と言うと、
「何を申すにもおよばぬ。とく首を刎ねよ」
熊谷はあまりのいとおしさに、どこへ刀のあてようもなく、目はくらみ気は遠くなって、しばし茫然としていたが、いつまでもためらっていられる場合ではないので、泣く泣く首をかき斬った。
「さてさて、弓矢取る身ほど、なさけないものはない。武芸の家に生まれなかったら、こんなつらい思いをしないですむのに。無情にも討ちまいらせたものよ」と、袖を顔におしあててさめざめと泣いていた。やがて、首を包もうとして、鎧直垂を解いて見ると、錦の袋に入れた笛が腰にさしてあった。
「さては、この夜明けに、城の中で管弦の音がしていたのは、この人たちであったのか。東国勢何万騎のうち、軍陣に笛を持ってきている風雅者はあるまい。公達のあわれさよ」


熊谷はあとで敦盛と知り、のちに出家して終生敦盛を供養したという。

血気はやる武将、熊谷は、手に入れた獲物に思いがけずわが子を見てしまった。そして、たった一瞬で、父の情にすり替わってしまった。そうとなれば、どうやってその首に刃をあてられよう。弓矢取る身の修羅道を思い知るのである。
そして、遺品の小さな笛が更に、失われたものの尊さ、美しさ、かけがえのなさをいやというほど知らしむるのである。その笛をとる、我が手の罪の重さ。
修羅の道には、敵とのこんな出会い方もあった。
運命が裏返る瞬間。

一方で、敦盛にとっては、この最期の刹那はどんなものであったのだろう。動揺し、ためらいながらわが命を奪う者。ただ死を待つ数秒、心は何を見ようとしたか。波打ち際には波の音、そしてさまざまな修羅の声が近く遠くに聞こえていた、それだけだったろうか。



十六という能面がある。
『敦盛』のために主に用いられるもので、女性の面、小面のように妖艶で、死の世界にはまるで無縁と思えるような輝く若さとあどけなさの面である。
喪われたのが若く美しい少年であったことが、修羅道の悲劇を深めた。二度と耳にすることのできない笛の音に思いはせても、悲しい。


一ノ谷の戦いでは、十六の敦盛、知章とともに、わずか十四の師盛も命を落とした。
師盛は重盛の七男のうちの五男。維盛、清経の弟。すでに船に逃れていたところ、他に逃れてきた武者が馬から船にドスンと飛び乗ったために船が転覆、海上に放り出された師盛は、源氏方の船に搔きよせられ、斬られた。年の若さからすれば、敵のなかに、熊谷のようにためらう者はいなかったのか。不幸な最期であった。

アツモリソウ、クマガイソウという草木もある。
花弁が赤いものと白いもの。いくさのときに付ける母衣(ほろ)に似たラン科の花。
あの苦しみの出会いと死別の時は昇華して、静かに今も存在している。








あともう一回、平家物語を書きます

平家物語 修羅の最期 〜木曽・忠度

2016-10-14 00:09:42 | 人物
「見るべき程の事は見つ。いまは自害せん」
浅い夢のあと、
弓取る者たちの壮絶な終焉



『平家物語』は軍記物語であり、必ずしも史実を正確に写したものではない。それでも、平家の栄華から破滅への道筋がドラマティックに語られ、肌で感じるほどに描かれている。それには、美しい風景描写と、人物の心の気色が、随所に描かれていることが奏功している。
いわゆる歴史小説は、細かく描かれすぎて空想が独走していることも多々あり、時に読者に消化不良や拒絶を起こさせることがある。しかし『平家物語』の展開には、虚飾する間もないほどの急転のためか、一本の映画のように身を通貫してゆく。

諸行無常、盛者必衰。
それはわずか5年足らずで散った、平家20年の栄華の終焉。
そこには、平家一門の苦悩だけではなく、物語に終わりを付ける役目の源氏の苦悩も読みとることができる。
ここでは、物語の焼き直しではなく、治承・寿永の乱(1180〜1185)の戦地で繰り広げられた修羅達の、それぞれの生き様、死に様からの感慨をお伝えしたい。

まずはいきなりだが、源氏方の木曽義仲から始めたい。


1.「ただただそなたと一ところで死なんがため」
木曽義仲(源義仲)は、平氏を都から追い落とす手柄をあげたものの、田舎育ちの武骨な振舞いのために、後白河法皇や都の庶民からも信用を得られず、頼朝の命により義経と範頼に討伐されるに至った。敗れてわずかに残った者達と、北国に逃れる途中、粟津の戦いで滅ぼされる。

義仲は、麾下の今井兼平が気にかかり、敗走の途中で引き返した。今井の方も主君を気にかけ引き返す途中、大津の打出の浜で行き会った。

『平家物語』(現代語訳 中山義秀著)より引用する。(緑字)

‥主従は駒を早めて近寄った。木曾殿は今井の手をとって、
「いかに兼平、義仲は、六条河原で危うく討ち死にするところであったが、そなたの行くえのおぼつかなさに、あまたの敵にうしろを見せて、これまでのがれて参ったぞ」
今井四郎も、
「かたじけなき御言葉、兼平も勢田で討ち死につかまつるべきところを、御行くえのおぼつかなさに、これまでのがれて参りました」


義仲は、ここで周囲の残兵を集め、甲斐源氏の軍勢に最後のひといくさを挑む。
六千騎に対し三百騎。いよいよ主従5騎となり、巴御前を解放、
あとは、義仲と今井の二騎ばかりとなった


「日ごろはなんとも思わぬ鎧が、今日はいたく重いように感じられる」
木曾殿の述懐を聞いて、今井が、
「いや、おからだもまだお疲れになってはおられませぬし、御馬も弱ってはおりませぬ。一領の鎧が、なんでにわかに、重くなるわけがござりましょう。それは、味方に続く勢がなきがゆえの臆病心。兼平一人をば、余の武者千騎とおぼしめして、私がしばらく防ぎ矢つかまつっておる間に、かなたに見ゆる粟津の松原の中で、静かに御自害なされませや」
そうして馬を進めてゆくうちに、またもや新手の武者50騎ほどがあらわれた。
「兼平はこの敵をしばらく防ぎまいらそう。君はあの松原へ入らせたまえ」
今井が重ねてそう言うと、木曾殿は、
「六条河原で死ぬところを、多くの敵に後ろを見せて、これまで逃げてまいったは、ただただそなたと一ところで死なんがためであった。とてものことに、離れ離れに討たれるよりは、一つ所で討ち死にしようではないか」と、馬の鼻をならべて敵中へ駆け入ろうとすると、四郎は馬から飛びおり、主君の馬の口にとりつき、涙をはらはらと流して、
「武士たるものは、日ごろ、いかに功名をなすとも、最期に不覚をいたさば、後世まで名にきずがのこります。やつばらに言いがいもなく討たれては、さしも日本国に御名をとどろかせた、木曾どののお身が惜しまれる。ただ曲げて、あの松の中へおはいりください」
木曾どのも、もっともとうなづき、「さらば」とばかりただ一騎粟津の松原へ駆けて行った。
今井四郎は取って返すと、五十騎ほどの敵中に駆け入り、
「遠からん者は音にも聞け、近からん人は目にもみたまえ、木曾どのの乳母子の、今井の四郎兼平とて、生年三十三歳にまかりなる。さる者ありとは、鎌倉どのもごぞんじならん。兼平を討って、兵衛佐殿の御見参に入れよや」


今井が一騎で死闘する頃、義仲は松原を目指したが、深田に馬がはまり、動けなくなった。ふと、今井が気になり後ろを振り向いたところを敵の矢が顔を射て、屈んだところ首をかき切られた。
首を大刀に高々と差し上げ、木曾を討ち取った、との大音声を耳にした今井。

「今は、たれをかばって戦おうぞ。これ見たまえ、東国の殿原、日本一の剛の者が自害の手本よ」
と叫んで、太刀の切っ先を口にふくみ、馬からまっさかさまに飛び落ちて死んだ。


長い引用をしたが、この巻の9「木曾の最期」は私にとって壇ノ浦よりも深く感動する場面だ。
策士の源行家に出し抜かれ、都を追われるばかりか追討された義仲は、今井始め、今井の兄・樋口、根井、楯ら木曾四天王を従え、支えられながら、武士としての最期を全うできたのは、人物として愛される側面を持ち合わせていたからだろう。
乳母子の今井は三つ歳上、「鎧が重く感じる」と率直に弱音を口にした主君義仲を、叱咤激励あるいは宥めて、自分の身一つを盾に、そして自分の名をも盾にして、最期の時をかせぐのに命をかけた。そこには、主従という関係ばかりでなく、兄弟のような信情もある。「一つところで」、という願いにかなっているか、背中合わせで隔たってはいたが、ほぼ時を同じくして死んだのであった。
1184年1月21日。

今井の兄・樋口兼光はこの日、別のところで戦っていたが、主君と弟の死を聞き、見知った敵に降人として迎えられたものの、法皇が許さず、義経や範頼の必死の助命も叶わぬまま、24日に木曾方の首の引き回しのあと、25日に首を斬られた。

このあたりを題材にした能の演目には、『木曽』『兼平』『巴』がある。


2. 弓と芸
さて、義仲によって都を追われた平家の公達は、弓矢取る者でもあったが、成り上がりとはいえ、都の行政を司ってきた人々である。風雅な振舞いは、北国の木曾殿にも、関東の九郎判官義経にも、取って代わられるものではなかった。
芸に秀でる者も多かった。平家繁栄の道をつけた忠盛は清盛の父だが、歌人としても知られていた。清盛の弟・忠度は歌人、清盛の弟・経盛の子、経正は琵琶、同じく敦盛は笛、清盛の嫡男・重盛の子、清経も笛の名手であった。
また、重盛の嫡男・維盛などは、「今昔見る中にためしなき」「容顔美麗」な美貌の貴公子で、維盛の舞う青海波は、見る人を「ただならず、心にくくなつかし」くさせたといわれている。

都を西に落ちて行くなかで、経正は愛用の名器・青山を、かつて自分が稚児として仕えていた仁和寺に預けることとした。もしや自分の命も、というなかで、名器を西国の塵のなかに埋めてしまうことのないようにと考えたのだった。
一族の中では俊才として知られる経正は歌人でもあり、僧と歌を交わしたあと、都落ちの群れに消えていく。
経正はおよそ半年後、一ノ谷の戦いで亡くなった。


忠度もまた、都落ちに先立って藤原俊成を訪ねる。勅撰集の編集が動乱で滞っていたが、世が落ち着いて再び編まれることになるならば、忠度自作の歌を一首でも選んでいただけるならば、と、百首を巻物にしたため、俊成に差し出した。
巻物を俊成が大切に預かると、
「西海の浪の底に沈まば沈め、山野に屍をさらすならばさらせ、この上をもう浮世に思い残すことはありません」

前途ほど遠し、
思いを雁山の夕べの雲に馳す

姿を遠く見送る者たちに、忠度の高らかな声が響いた。
のちに、その巻物の中から一首、『故郷の花』が読み人知らずとして勅撰集にのる。朝敵のため、名前をのせることは叶わなかった。

さざなみや志賀の都はあれにしを
昔ながらの山桜かな

忠度も一ノ谷で討たれた。


清経は討ち死ではない。
都落ちした上、太宰府の緒方氏にまでも背かれ、次第に悲観的になっていった。「もともと何ごとによらず深く考えつめる性質の人」とある。

「ある月の夜、舷に出て、横笛の音取りをしたり、朗詠したりして、遊び過ごしたあとで、静かに経をよみ念仏して、海に身を投げた」

弓矢取る者の行く末の悲惨を予見し、「網にかかった魚も同然、ながらえ果つべき身でもない」と悟り、運命を待たずに消え去るのを選んだ。

これらは、能では『経正』『俊成忠度』『忠度』『敦盛』『清経』に描き出されている。
かの有名な「人間五十年‥」は、幸若舞『敦盛』である。






平家物語についてはこのあと2回、続けます。