名のもとに生きて

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ロベスピエールの真理

2023-05-09 16:38:00 | 人物

マクシミリアン=マリ=イジドール・ド・ロベスピエール(1758〜1794)
『自由よ、汝の名においていかに多くの罪が犯されたことか!』
(ロベスピエールらにより処刑されたロラン夫人の最後の言葉)


1 生まれと風貌、秘密

18世紀末、社会構造の不均衡、財政難で大いに傾いていたフランス。そこに啓蒙主義社会を実現した革命家の代表的な人物、ロベスピエールとはどんな人だったのか。

ここであくまで「代表的な」としたのは彼一人が革命を先導したのではなく、当時の多くの政治家の一人にすぎないからだ。彼は特殊な存在だったのではなく、この時代に直面し、なすべきことを成し遂げようとした者の一人であり、結果、知られた通りの革命家として名を成すことになる。

実際、ロベスピエールが権限を握っていた期間は晩年の1年ほどでしかない。普段のロベスピエールはどんな様子の人なのか。

低身長、痩せ型、眼鏡を掛けている。質素だが整った身形。議場の演壇に上がる。なまりが少し、声量も身振りも大きくなく、原稿を用意して読む。姿に雄弁さはないが、その内容に圧倒される

同じように小柄で映えない風貌ながら、美声、身振り、天才的な弁術で聴衆を熱狂させた、後の世のゲッベルスとはまた違うようだ。しかし、ゆったりとした話しぶりはジャーナリストの記録しやすさを計ったものであり、それゆえにロベスピエールの演説は議会内よりも、外の民衆に向けたものだとされる。周到である。

生まれについて。兄弟姉妹4人のうちの最年長、父は地方の弁護士で上層ブルジョワ、母は商家育ちの中層ブルジョワである。子供の頃は内向的で、飼い鳥の絵を描いて過ごすことを好んだ。母は5人目の子の出産で亡くなり、父もそのショックから失踪したため、兄弟姉妹は別れて暮らした。親戚に大事に育てられ、また勤勉かつ優秀な彼は奨学金を得てパリで学び、卒業後は故郷に戻り弁護士として活躍した。エリート教育を受けた実力者ではあるが、あのような時代ゆえにコネがない分苦労はあった。生活ぶりは質素、少食、物静かだが愛想は良かった。とにかく勤勉、そして生涯独身だった。

パリで学び故郷に戻った若き法曹家ロベスピエール。彼には故郷において一つの負い目がある。両親が結婚した時、母はすでに懐妊5カ月だった。当時では明らかにタブーであり、地方ならば当然知れ渡る。それは生まれた当人にも払拭できない脛のキズであった。法曹家として自立後、ロベスピエールは婚外嫡出子や私生児、あらゆる弱い立場の人を擁護する。すすんで自ら話を聞きにいく。それにより貴族や既得権者には恨まれることになり、彼の地方エリート社交場での立場を危うくしつつあった。

2 革命家ロベスピエール

フランス革命は遠い時代のことのようだが、当時の啓蒙思想のモラルは十分に高かったと感じる。人口の2%、国土の20%を領有する特権階級(貴族、僧侶)は免税され、その他の国民が税負担のほか領地の地代も納めさせられていた。その状況からの立ち上がりである。アメリカ独立戦争の影響も受け、フランスは三部会を足掛かりに人権宣言、憲法、革命へと乗り出した。三部会では各地から選出された平民の有知識層の議員が議会で議論を進める。若く無名だったロベスピエールはその優れた演説でたちまち名を知られるようになった。初期の彼の主張は明解で繊細さも感じる。例を上げると、

「貧しい人が選挙に参加できるように、選挙集会に参加する時間と仕事に補償」「俳優、プロテスタント、ユダヤ教徒に市民権要求」「植民地の有色人にも政治的権利」「海軍の将校と水兵の刑罰を同一に」

また、請願権の行使を能動市民に限定すべきかについて、「非能動市民にこそ保障されるべきだ。人間は弱くて不幸であればあるほど請願がますます必要となるから」

ロベスピエールの目に映る国民とは貧困な民衆であり、貧困や不平等から民衆を救い上げるために演説をし続けていた。弁護士時代から変わらぬ姿勢だ。

3『すべての罪に対する処罰は、死刑である』

元から彼は死刑反対、戦争反対であった。しかし議会がオーストリアに宣戦布告したためフランスは革命と同時進行で諸外国と戦うこととなった。議会内の対立や地方での反革命運動は過激化し、ロベスピエールの思考は変形していく。内戦を防ぎ、革命を遂行するためには、国民の無知と政治の腐敗に対策をとるべきと。人民は善良であるが無知である。徳を説き教育する。また議会が腐敗しないよう既に議員だった者は次回選出されないよう提案、しかしこれは却下され、彼も議員を継続した。議会内での立場も浮上し、公安委員というある種の権利も持つに至った。

ロベスピエールは元からバイタリティに乏しく、その上寝る間を惜しんでの執務や演説原稿準備などにより徐々に体を壊し、病気(おそらく循環器系の)にも悩まされていた。自らに対する暗殺未遂事件もあった。そのせいだろうか、考えも近視眼的になり、さまざまな陰謀に神経を尖らせ、強圧的な対処を行うようになった。それがテロールと呼ばれるものである。

彼によれば、人民は理性によって、人民の敵は恐怖によって導かれる。平時は徳による、革命時は徳と恐怖による政治が必要だと。

「徳なくして恐怖は災禍、恐怖なくして徳は無力」

恐怖は拍車がかかり、歯止めが効かなくなっていき、裁判なく即決の死刑が横行する。プレリアル22日(6月10日)の法はその行き着く先を示している。同じ派閥で活動してきた仲間も既に対象になっていた。

もっともこれらの判断はロベスピエール一人が行なっていたわけではない。意外にも彼の署名はそれほど多くはなかったらしい。また死刑が苛烈に執行されてたその頃は病により公務に出られていなかったという。しかし彼は権力を持つ人だった。批判は被らなければならない。議員達は粛清の対象になることを怖れ、誰もが口をつぐんでいた。

テルミドール8日(7月26日)、ロベスピエールが6週間の療養後久しぶりに議会に現れる。演壇で放たれたこの言葉にいよいよ恐怖震撼した者達がいた。

「公共の自由に対する陰謀が存在する。この陰謀は国民公会の只中で策動している犯罪的な同盟のせいでその力を得ている。そしてこの同盟は、保安委員会やこの委員会の事務局の中にも共犯者を持っている。公安委員会のメンバーもこの陰謀に加担している」

議会内には各派閥間での策動もあったが、反革命運動鎮圧に地方派遣されていた議員のうち極端な虐殺を指揮した廉で、ロベスピエールによってパリに呼び戻されていたフーシェ、コロー=デルボワ、バラス等は戦慄した。ロベスピエールは自分達をターゲットにしているのだ、と直感した。

4 真理

翌日、議会でロベスピエールの一派は逮捕され、一夜明けて処刑された。彼はこの成行を予期していたと思われる。領袖の一人クトンも策動を察知しパリに残って共に処刑された。もう一人のサン=ジュスト、美貌の若き革命の大天使はまだ希望を見ていたかも知れない。一月程前、ジャコバンクラブでの憔悴気味の様子に励ましの声をかけた人に対し、ロベスピエールはこう答えていた。

「犯罪に対しての真理が私の唯一の安らぎの場だ。私は信奉者も称賛も欲しない。私の支えは私の意識の中にある」

真理という言葉の使用は、彼がずっと心に刻んできたルソーへの崇敬、それをしたためてきた「献辞」の中で使われている。

「私は、真理の崇拝に捧げられた高貴な生の苦悩をすべて理解した。同胞たちの幸福を求めたのだという自らの意識が、有徳の士に与えられる報酬なのである

真理と幸福はある程度乖離している。フランスはこの先も混迷が続いた。

逮捕の際、ロベスピエールは顎に銃弾を受け、言葉を奪われた。筆記を希望したが許されなかった。「私の意識の中」の言葉はついに外に出ることはなかった。


今に映して

今日を生きる我々から比べたら計り知れない教養を持ち、果敢に革命に挑んだこの時代の知識人達に尊敬の意を表する。無知なる民衆がこのさき手にしたのは皇帝であり、再びの王であった。しかし経済的な進歩は手中にした。人間の求める真理と幸福、これはなかなか一体ではないのは片腹痛い事実と思う。ロベスピエールの真摯な考えの中から我々の時代にひとつ教えを戴く。「人民がその権力を行使せず、人民自身がその意志を表明しないところでは、しかも代表者集団が腐敗しており、ほとんど人民と同一視されている場合には、自由は失われる」


参考:『ロベスピエール』ピーター・マクフィー著、『ロベスピエール世論を支配した革命家』松浦義弘著 他