名のもとに生きて

人の一生はだれもが等しく一回かぎり。
先人の気高い精神に敬意を表して、その生涯を追う

最も華麗なロシア貴族 ジナイダ・ユスーポヴァ

2016-03-31 08:23:58 | 人物
ロシア貴族でもっとも裕福な
女性相続人ジナイダ・ユスーポヴァの
栄華と革命


Zinaida Nikolaevna Yusupova
1861~1939



ジナイダ・ユスーポヴァ
ロマノフ家よりも裕福だったと言われる貴族、ユスーポフ家。19世紀末、その男系子孫の先端に存在したのは若き美しき女性相続人、ジナイダ・ユスーポヴァだった。
ユスーポフ家は16世紀からモスクワ大公に仕える一族の末裔であり、シベリア開発によって莫大な資産を築いた公爵家である。

当時のロシアで最も恵まれたその家系に生まれ育ち、その上大変美しく社交的なジナイダは当然、他の貴族や、王家からも注目を集めていた。
ユスーポフ家の財産を継ぐのはジナイダと夫の嫡男に限る、また、公爵位とユスーポフの名を名乗れるのもその長男だけとなり、夫や他の子らは夫の姓と伯爵位を継ぐきまりとなっていた。

1881年、ジナイダは20歳で結婚。
相手は5歳上のフェリクス・フェリクソヴィチ・スマローコフ=エリストン伯爵(1856~1928)。
フェリクス自身の出自も、父がモスクワ貴族スマローコフ家とスウェーデン貴族エリストン家の両家を継ぐ相続人であったが、ジナイダと結婚することで新たにユスーポフ家をも継ぐことになった。この結婚で夫婦は3つの貴族の資産を継いだことになるが、そのうちの一つは、かのユスーポフ家であり、そもそも莫大であった財産がさらに増大した。

ジナイダの幼い頃からの写真を見てみれば、常に自身にあふれたその美しさに目をみはるだろう。
芸術家のパトロンであり、自らも芸術に関心を抱いていた父ニコライの影響だろうか、ジナイダも美術に関心が高く、宝飾品も好んだが、オーストリア皇后エリーザベトのように自分の美しさに執着するようなことはなかったようだ。


















夫フェリクス・フェリクソヴィチ








ユスーポフ家の資産
当時のユスーポフ家は、ロシア内に37の所領地を持ち、その広さは10万エーカー。16の宮殿を所有し、そのうちサンクトペテルブルクに4つ、モスクワに3つの宮殿があった。
石炭、鉄鉱石、砂糖工場、レンガ、製粉、油田(カスピ海)、織物、毛皮など、ロシアの大地の恩恵に根ざした数々の事業を行っていた。
ユスーポフ家の宮殿は、規模はロマノフ家より小さくても、内部の豪華さには優れており、ロマノフの冬宮殿のようにヨーロッパに追いつこうと背伸びして建設したような、張りぼて風の宮殿ではなく、ロシアの伝統を大切にして建築された、重厚な表現がなされている。ただし、富を顕示している点では共通していて、部屋ごとに多種多様な様式が肩を並べ、消化不良に悩まされそうではある。

モスクワの宮殿内部

モスクワの宮殿外観

モスクワ郊外アルカンゲルスコエの宮殿

サンクトペテルブルク、モイカパレスの中庭
ラスプーチンが暗殺された場所


ツァールスコエのダーチャ(別荘)


ジナイダと二人の息子
1883年にニコライ、1887年にフェリクスが生まれた。父親によく似ていて精悍な顔貌の長男ニコライ、それに比して次男フェリクスは、名前は父と同じだが、女の子のようなソフトな顔立ちである。母はフェリクスのルックスをとても気に入り、小さいうちは女の子の服を着せて楽しがっていたと言われる。ただし、フェリクスはなかなかのやんちゃ者であり、コンスタンティン大公の子に手を挙げて、以降出入り禁止にされたようである。

長男ニコライ

長男ニコライ

次男フェリクス








ロマノフ家では子供達の教育にあたっては、なるべく「普通」の感覚を身につけるべく、質素な生活と厳しい躾けを授けていた。寝具は簡易ベッド、兄弟で狭い部屋を共有、毎朝水風呂、子供達だけで食べるささやかな朝食、それが子供の日常だった。他の貴族の家庭でもほとんどはそれに倣った。
しかし、ジナイダは息子たちに「貴族」の生活をさせた。息子の思うままにさせたので、躾けも教育もなかったし、どんな無鉄砲なことをしても誰も咎めなかった。さすがに父ニコライは息子に注意を与えたが、父は忙しくてあまり家には居なかった。「恐るべき子供たち」は思うままに屈折した生活に耽るようになる。

フェリクスとジナイダ



ニコライは外界に飛び出し、派手に遊び、金を撒き散らして夜も帰らない。フェリクスは12歳頃には、家では母のガウンを着たり、女装も楽しんでいた。そのうち兄は弟を面白がって夜の街へ連れ出す。フェリクスは、兄とそのガールフレンドの遊びごごろにもてあそばれ、12歳にしていわゆる初体験をしたそうである。兄弟は夜な夜なレストランやカフェに現れ、年齢に似合わぬ世界に溺れていた。

手に入らないものは何もない。
ずっとそんな世界で生きてきたニコライの、手に入らないものがあった。
人妻との不倫、それだけならまだよかったのかもしれないが、彼はその女性を手に入れようとしたため、怒った夫がニコライに決闘を申し込んだ。
2発目の対決でニコライは致命傷を負い、ユスーポフ家の後継者はあっけなく死んだ。
1908年6月22日のことである。

ニコライ



決闘した相手

マリナ・フォン・ハイデン
この女性を争って決闘となった



当然、ジナイダはこのスキャンダルと息子の死に痛手を受け、悲しみに暮れた。しかしまだ次男のフェリクスがいたことが、ユスーポフ家が転覆するような事態にはならなかった。フェリクスは相続人になり、ユスーポフ公を名乗る権利も得た。

1909年から1913年、フェリクスはイギリスのオクスフォード大学へ留学。ここでも彼はユスーポフ家の御曹司らしかった。お供に、ロシア人料理人、フランス人運転手、イギリス人従者、家政婦を連れ、広大な邸宅に暮らし、三頭の馬を所有し、オウムとブルドッグもペットとして持ち込む。学問よりもパーティーに励み、ドラッグにも耽った。


フェリクスと大公女イリナの結婚

ある日、フェリクスは公園で出会った女性に一目惚れ。その後、アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ(通称サンドロ)公に通りがかりにお茶に呼ばれ、行ってみるとそこには公園で会った女性が居たのだった。それは皇帝の唯一の姪で、皇帝の妹クセニアとサンドロの一人娘であるイリナ大公女だった。

イリナと母クセニア大公女

イリナ・アレクサンドロヴナ

イリナとフェリクスは結婚を望み、周囲は驚いたが、当時は親交があった皇后とジナイダは二人とも歓迎し、婚約は受け入れられた。
しかし、イリナと同令で、幼い頃から従姉妹として親しんできた皇帝の長女オリガはフェリクスに対しよからぬ印象を持っていたため、この婚約を喜ばず、父である皇帝に手紙の中でそれを吐露している。
この結婚でフェリクスがロマノフ家に繋がったことで、のちのラスプーチン殺害においてドミートリ大公の関与と並び、ロマノフ家の内部からの亀裂という印象を助長することとなったのは否めない。ラスプーチンが民の手によってではなく、身内によって排除されたことが、革命家に付け入るきっかけを与え、民衆にラスプーチンを糾弾する機会を奪ったことは、ロマノフ家に逆に不利をもたらす勇み足になったといえる。

ジナイダの膝にはたった一人の孫娘となるイリナ(母と同じ名)


ジナイダ、革命を経て
次男のフェリクスが幸福な結婚を果たし、ユスーポフ家は安泰ではあったが、時代の空気は革命を匂わせていた。
小さな戦争に勝利して国内を活性化させようと臨んだ日露戦争での予想外の敗北と、第一次世界大戦の泥沼により傾きかけたロシアは、その責任を皇帝に問い、帝政を壊すことで解決を目指そうとしていた。特に、出身が敵国ドイツであったことから皇后へ非難が集中し、民衆も宮廷人もこぞって非難した。
ジナイダもそうだった。ジナイダは当初、非社交的な皇后とも親しくし、皇后の姉エリザベータ(エラ)とは特に親しかった。

エリザベータ・フョードロヴナ大公女

エラとジナイダはロマノフの行く末を思うにつけ、皇后の振舞いに問題があると考え、エラは姉として皇后に忠告を与えようとしたが皇后のプライドが一切弾き返した。エラとジナイダによる皇后批判は当然、フェリクスも共有した。
そもそも政治に関心がなく、ロマノフ家にゆかりも感じないフェリクスがラスプーチン殺害に政治的な意図をもって臨んだという後代の説は、実際とずれているのではないかとも言われている。
おそらくは、母を通じてのエラの意向と、陰の主謀者と言われるドミートリ大公の影響だったのではないか。
事は革命を早めた感がある。孤立した皇后は一層頑になり、議会も内閣も機能しなくさせた。ボリシェヴィキはそこに根を下ろし、台頭した。

フェリクスは皇帝により、都市部から排除され、遠い領地に蟄居を命じられた。ジナイダも革命を恐れ、フェリクスとともにクリミアのユスーポフ家の宮殿に逃れた。

クリミアのユスーポフ家宮殿

皇帝退位後、首都に戻ったフェリクスらは危険を感じ、ユスーポフ家の財産のうちでとりわけ失いたくないものをわずかに持ち出し、再び首都を後にした。事が収まってから再び宮殿に戻れる可能性を考え、持ちきれない宝飾品や芸術品は壁の内部に隠したが、革命後宮殿は荒らされ、壁の中の財産は全てボリシェヴィキに押収された。
持ち出せたのは、レンブラントの作品数点と、世界に名だたる宝飾品など。
イギリスの働きにより、ヤルタからマルタ島、イタリア、ロンドン、そしてパリへと国外逃亡。フェリクスはパリに暮らし、ジナイダと夫フェリクスはローマに暮らした。1928年に夫が亡くなると、ジナイダはパリに移住した。








フェリクスとジナイダ



ジナイダは1939年に亡くなった。
ユスーポフ家は息子フェリクスの後は男子が絶え、フェリクスが最後の当主のまま途絶えた。
フェリクスはことごとく事業に失敗したが、執筆した回顧録のヒットと、ラスプーチンの映画の製作者に名誉毀損を訴えた裁判の、勝利で得た賠償金により、裕福な生活を全うし、1967年に80歳で亡くなった。


秘匿されたジナイダの妹、タチアナあまり、知られていないが、ジナイダには妹タチアナ(と、早世した弟ボリス?)がいた。タチアナと思われる肖像画や、ジナイダとともに写った写真も存在するが、その生没年もはっきり記されたものがない。おそらくは、ジナイダの7歳下で1868年生まれ、1888年20歳で他界した。墓地はモスクワ郊外西のアルカンゲルスコエのユスーポフ家の宮殿近くの寺院に存在する。

タチアナの墓碑に刻まれた生没年

フェリクスの叔母にあたるこの人のことを、回顧録では触れていないらしい。定かではない話だが、その謎の死についてはこう語られている。

タチアナの日記の、死の前の最後の数週間のページが破り取られている。
公には腸チフスで亡くなったと言われているが、身近な人によれば溺死だった(川で?)、あるいは殺害されたとも言われている。
後年、ボリシェヴィキが略奪目的で墓をあばいたところ、棺の中に小さい子供の遺骸もあったとのこと。
タチアナは晩年、首都郊外に住むPaul(ロシアではパーヴェル)という見目良い男性に焦がれていたと言われる。(パーヴェル・アレクサンドロヴィチではないかとの説も。パーヴェル大公は1889年にギリシャ大公女と結婚しているが)

タチアナ肖像







ジナイダはクリミアの宮殿の自室に、妹の肖像画を置いていたようだ。タチアナの死はなぜ、こうも語られず、封じられたのだろうか。
上記から邪推するなら、身分の高いパーヴェル大公と実らぬ恋をし、不義の子を抱いて川に身投げをしたが、ロマノフ家のスキャンダルが暴露しないよう、日記は破られ、死因も隠蔽された、ということだろうか。当時の皇帝はアレクサンドル3世であり、パーヴェルは弟である。
あまりにも不確かなのでこれ以上の推察は憚られる。



晩年、ジナイダはよく教会で長時間祈っていたという。もちろん、息子ニコライや夫を悼み、親友エラを悼んでのこととも考えられるが、若くして亡くなったタチアナに、どのような祈りで向き合っただろうか。


母ジナイダを息子フェリクスはこう偲ぶ。

My Mother was lovely. She was slim and had
wonderful poise;
She had very black hair, a soft olive
complexion and deep blue eyes as bright as
stars.
She was clever, cultured and artistic, and
above all she had an exquisitely kind heart.


一方、こんな描写もある。

Her now gray hair, beautiful waved,
fascinating me. It gave her stark face a
young appearance with the clear chiseled
features of Botticelli.
and I remember accompanying Maman
to one of the Princess's days
in her sumptuous rooms at the Moika.
Despite all her grace and charm this
beautiful woman seemed as cold as ice.

これはニコライが決闘で争った女性、マリナ・フォン・ハイデンによるものである。



氷のように冷たい気配。

その深奥に、どうしても温まらない芯を隠していたかもしれない。
それでもジナイダの凜とした視線が美しく心魅かれるのである。









http://19-20centuries.tumblr.com/post/141940494772/lesyoussoupoff-koreiz-1880s-koreiz-was-a







続・禁断のカチン 黙殺された虐殺

2016-03-10 23:46:34 | 出来事
”われわれの自由剥奪の
理由となった行為は何か”

列強の犠牲になったポーランドの運命




1940年1月7日付、収容所内のポーランド軍大佐の集団が戦争捕虜の待遇に関する国際規範適用を訴える声明文がある。
そのなかに、一考を迫る文がある。

I われわれはソ連政府のわれわれにたいする立場を明らかにするよう要請する。とくに、

1 われわれは少なくとも戦争捕虜とみなされているのか?
そうだとすれば、すべての国が認めている戦争捕虜にかんする規定にのっとった待遇を要請する。
(a~e省略)

2 われわれが逮捕者とみなされているのならば、われわれの自由剥奪の理由となった行為がなにか、正式告訴状を提示するよう要請する。

3 われわれが収容者とみなされているのならば、ポーランド領内で拘留された事実にも照らして、われわれの自由を制限する原因となったわれわれの行動がなにかを知らせるよう要請する。

続くⅡ~Ⅵには生活面の要請が種々なされているが省略する。
ここに上げられているのは、実に素朴な疑問だけである。それだけに突き刺さるものがある。
将校たちにしてみれば、自由剥奪の理由すらわからない。彼らの先の運命が銃殺になるなんて、到底、理解しえなかっただろう。
全体主義や共産主義の道理、戦時の道理の理不尽さと、そうした状況下にさらされた時、個人がどう振る舞ったかを追ってみる。




1. フィンランド共産党指導者アルヴォ・トゥオミネン
ソ連がポーランドへ侵攻したことで、西欧共産党(以下、コミンテルン)とソ連共産党の間に立場の違いが生じた。コミンテルンは、先にナチスドイツがポーランド侵攻したことを受けて、ポーランドを援護する方針だった。
共産党としての目的をソ連の考えと擦り合せる必要を感じたコミンテルンはスターリンに引見した。そのなかで、スターリンはポーランドに対する考えを明らかにしている。

「‥ポーランドはファシスト国家であり、ウクライナ人やベロルシア人、その他を抑圧している。現在の情勢下でポーランド国家を破壊すれば、ファシスト国家がひとつ減ることになる!ポーランド敗北の結果、新領土と新住民にソヴィエト制度を拡大してなにが悪いのか?」

コミンテルンの方針はこれに即、従うことになった。
「ソ連の援助を拒絶し、他の民族を抑圧しているファシスト・ポーランドを、国際労働者階級はぜったいに擁護してはならない」
この方針に全共産党はただ一人の例外を除き、誰も抗議しなかった。
それは、同じくソ連の侵攻を受けたフィンランドの共産党指導者アルヴォ・トゥオミネンだ。
その公開状にこうある。

「‥あるときから、私はコミンテルンの方針に同意できなくなった。とくにコミンテルン指導者が従順な奴隷のように、内外の政策についてソ連指導者の決定を、なんであれ、コミンテルン創立の綱領と国際プロレタリアートの利益に反する決定でさえも、認めて服従する傾向には同意できなくなった。‥どんな巧妙な宣伝をしたところで、ソ連政府が帝国主義ドイツの好戦的・犯罪的政府と同じ帝国主義的政策を採用した事実を隠蔽できないだろう。」

ポーランドをファシストとみなすならば、ソ連も間違いなくファシストだろう。スターリンのとんでもない詭弁に盲従するだけの共産党。
しかし、この公開状を出すのには相当な勇気が必要だったと思われる。トゥオミネンは裏切り者と呼ばれた。


2. 共産党の「潜在的な敵対勢力」

NKVDについて認識しておく必要がある。
NKVDはこうした虐殺や粛清をソ連の定める法的権限内で実行している。その残虐な行為全て、国家に承認されているのである。
「共産主義者はその理論と実践から、自分たち以外のあらゆる階級やイデオロギーと相容れないことを知っており、そのように行動する。彼らは現実の反対勢力のみならず、潜在的な敵対勢力とも戦っている」
これはチトーに追放された、ユーゴスラビア元副大統領ミロヴァン・ジラスによる。
先のスターリンの引用にも、ソ連に何の行動も起こしていないポーランドに対して、それを潜在的な敵対勢力とみなして攻撃に及んでいる。いま、日本で集団的自衛権が言われているが、こういう危険をはらんでいると言えなくはないか。

ともかく、現在のロシアのFSB、その前身KGBにつながる秘密保安警察NKVDによって、その時代、「何らかの敵」とみなされれば死刑は必至。NKVDは裁判官であり死刑執行人、虐殺も粛清も手の内だった。ポーランド将校らは、彼らの尋問を受ける中で、相容れない思考や判断にぶつかった。まるでコントのような、こんな尋問のやりとりがあった。

あるとき私は3人の将校に尋問された(略)
私が画家としてパリで8年間仕事をしていたと知ると、彼らにはそれがきわめて怪しく思えたらしい。「君がパリへ発つとき、外務大臣からどんな指示をもらったのかね?」
外務大臣は私がパリへ行くことすら知らないと私は答えた。「よろしい、しからば外務次官は君に何を命じたか?」
「外務次官だってそんなことは知りませんよ。私はパリへスパイではなくて、画家として行ったのです」
「画家としてパリへ行ったのなら、パリの市街地図を作成してワルシャワの外務大臣へ送れたってことをわれわれが知らないとでも思うのかね?」
パリの市街地図なら、パリのどこの街角でも50サンチームで買えること、ポーランドの芸術家がパリに行くのはスパイとして秘密地図を作成するためではないことを説明したが、どうしてもわかってもらえなかった」

国内の粛清時代と同様の方式で尋問するナンセンス。しかしこの行き違いも、容赦なくクロにされるだろう。国際理解の壁は、現代でも注意せねばならない。



3. ベリヤの提案

「‥全員がソヴィエト権力の矯正不能の敵である事実に鑑み、ソ連NKVDは、
Ⅰ ソ連NKVDにつぎの案件の処理がゆだねられるべきと考える。
‥このすべての案件を特別手続きに従って検討し、収容者に対して最高刑、すなわち銃殺刑を適用することとする。‥」
戦争捕虜管理局長ベリヤのこの提案にスターリンらが署名して、処刑が実行された。
それにしても、「処理」という言葉の無味乾燥な響きには、「浄化」と変わらぬ残酷を感じる。

この提案者ベリヤは、のちにこのことを後悔したかもしれない。ポーランド将校が軍再編成に関してベリヤと話し合う。その中で将校が、
「では、どこから将校をみつけてくるのでしょうか?私としては部下の将校をスタロベルスクとコゼルスク収容所から呼びたいのですが」。
ベリヤはこう答える。
「その人たちは来られない。‥われわれはたいへんな誤りを犯した。たいへんな誤りを犯した」
当時、まだ将校たちの消息はわからないままだった。ベリヤのこの「誤り」ということばが何を暗示したか。それ以上のことはまだ、土の中にしまっておかなければならなかったのだ。



4. ヤコフ・ジュガシヴィリ

「1万や1万5000のポーランド人が殺されたくらいで、こんなに騒ぎ立てるとはいったいなにごとかね?ウクライナの集団農場化のときは300万人くらい死んだぞ!なぜポーランド軍将校のことを心配しなければならないのか‥あの連中は知識人で、われわれにとっては最大の危険分子だ。絶滅しなければならなかった」。
そう言ったヤコフ・ジュガシヴィリとは、スターリンの息子である。彼はドイツで捕虜となり、収容所で隔離されていた。ジュガシヴィリと親しくなったポーランドの陸軍中尉は、当時話題になっていたカチンのことを聞いてみたのだった。
そしてジュガシヴィリはこうも言った。「ドイツの残忍な策略とちがって、人道的な方法で」絶滅されたから安心しろ、と。
これはスターリンの息子ならではの考えというより、ソ連のトップたちの共通認識だったに違いない。あまりにもストレートな表現に度肝を抜かれるが‥。
しかし、のちにジュガシヴィリも報われぬ死に方をしたのだった。おそらくスターリンの息子だったために。



スターリンとその子供



5. KGB議長より同志フルシチョフへ

以下は1959年3月、KGB議長がフルシチョフへ送った手紙である。

マイクを向けられているのがフルシチョフ


極秘
同志フルシチョフへ
ソ連閣僚会議付属国家保安委員会(KGB)は1940年来、同年に銃殺された元ブルジョワ・ポーランドの代表者である、拘禁されていた捕虜、将校、憲兵、警察官、地主にかんする個人ファイルその他の資料を保管している。‥総計2万1857の個人ファイルは封印された場所に保管されている。
どのソヴィエト機関にとってみても、この個人ファイルは工作上の利益もなければ歴史上の価値もない。‥予期せぬ事態が生じて暴露されるかもしれず、‥ましてカチンの森の銃殺にかんしては、‥委員会によって確認された公式見解が存在する。‥委員会の結論は国際世論にふかく根づいている。この見方に立てば、1940年に上記作戦で銃殺された者に関するあらゆる個人ファイルは破棄するのが適切と結論される。ソ連共産党中央委員会とソ連政府が必要とする場合に備えて、銃殺の判決を下したソ連NKVDトロイカの審判記録とトロイカ判決の執行にかんする文書を保存しておくことができる。この文書は少ない数であるから特別な書類入れで保管できる。‥

“工作上の利益もなければ歴史上の価値もない”

工作上の利益。KGBの脳内地図を占めるキーワードのようである。それと秤にかけられて、処分される個人ファイル。“工作上の利益”のために書かれた、例のお門違いな尋問による調書ではあるけれど、銃殺された一人一人の最後の情報であり、その時点で生きていた証でもある。無味乾燥なその紙切れでも、遺族にはぜひ触れたい愛おしい物にちがいない。歴史上の価値はないかもしれないが‥。暴露される可能性を論じるのはよしとしても、保管場所について言うことは蛇足だ。
フィンランドの捕虜を収容する場所が不足するために、急ぎ「処理」されることになったポーランド将校たち。彼らのファイルもまた、場所の節約を優先され、「処理」された。


この、非常に冷たいことば、“工作上の利益”と同等のことばを吐いたのは、イギリスのチャーチルである。


6. チャーチルとオマレー



イギリス、フランスは自力でドイツを倒すことはできず、ソ連を巻き込む必要がどうしてもあった。実際、ドイツと主に戦って成果を上げていたのはソ連だった。人命も含め大変な物量の犠牲。ソ連でなければこんな戦い方はできなかっただろう。ドイツは強かったし、ソ連もとんでもない底力があった。イギリスとしては、勝つためにはソ連を連合国に引き留めておく必要がどうしてもあった。そのため、ソ連に関する怪しい情報は遠ざけていたかった。チャーチルは、問題になっていたカチン事件を「実際的重要性がない」「スモレンスク近くの三年経った墓を病的にうろつき回るのをつづけるべきではない」とした。
亡命ポーランド政府付イギリス大使オーウェン・オマレーが、入手した証拠からソ連の犯行であると結論される覚書を作成したが、チャーチルが封じた。オマレーは歯切れの悪い自国の指導者に目をつむることはできなかった。

「道徳的に擁護できないことはつねに政治的に実効性がない」

オマレーの正論もまた黙殺されたのだった。



7. ルーズベルト



アメリカも、真実の報告を受け、実際に捕虜として見てきた士官の報告も受けていながら、ソ連に気兼ねをして、知らぬふりをした。ルーズベルト大統領は、ソ連がそんなことをするはずがないと耳を塞いだ。「ソ連に限って‥」のような発言は非常に聞き苦しい感じがする。アメリカはドイツが降伏してもまだ日本との戦争が続いていたが、日本に勝つためにはソ連に北から攻め込んでもらわねばならず、スターリンの機嫌を損ねるわけにはいかなかったのだ。
アメリカとイギリスは連合国の勝利にソ連が欠かせないのは承知していた。ヤルタ会談ののちも、ソ連に気遣い続けた。戦後の情勢にも、ソ連を取り込んでおかねばならなかった。
カチンの森の事件は、むしろこうした列強によって封じられたのである。

ヤルタ会談

ヤルタ会談の行われた場所はニコライ2世が新築したリバディア宮殿
幽閉先に皇帝一家はこの地を希望したが、ニコライをシベリア送りにしたかったケレンスキーは許可しなかった
ヒトラーも引退後はここで暮らしたいと言っていたそうだ



8. ニュルンベルク裁判とソ連検察官ゾーリャ

1945年のニュルンベルク裁判において、カチンの森事件に関してを告発できるのは、戦勝国の地理的な取り決めにより、ソ連のみということになった。まだグレーな部分が多いこの事件を、ソ連側は果たして告発するのかどうか。しかしソ連は告発した。
裁判の中で初めてソ連の検事がドイツのポーランド侵攻を非難すると、ドイツ側の被告は嘲笑した。
被告席のゲーリングとヘスはヘッドフォンをはずした。なぜ聞かないのかとたずねられてゲーリングは、「連中(ソ連)がポーランドに言及するほど恥知らずとは思わなかった。連中はわれわれと同時にポーランドを攻撃したではないか」
シーラッハも、「連中がポーランドと言ったときには、死ぬほどおかしかった」と。




ソ連はかつてのドイツの元国際調査委員のうちの数人を脅し、報告書の内容は嘘だったと証言させた。ソ連の脅しが効かない国に在住している元委員は逆に、報告書の内容の正しさを公式に表明した。
しかし、ソ連代表団のなかにこうした偽装工作に加わることを拒否した検察官がいた。
ニコライ・ゾーリャ。
彼は、ポーランド側のカチン事件の情報に接し、その後モスクワの準備した資料を読み、上司に、ソ連の立場について自分が抱く疑問とこの立場の弱点を主年検事に知らせてほしいと話した。
数日後、ゾーリャはニュルンベルクの自室で死んでいるのが発見された。ゾーリャの死を知ったスターリンは、「奴は犬並みに埋めれば良い」と言ったそうである。
正しくあろうとした検察官はあっけなく芽を摘まれてしまった。
犬。
さて、犬はどっちだろう。


ゴルバチョフのグラスノスチによる事件の情報開示(全てではなかった)、プーチンの合同慰霊祭への出席など、事件の真相へソ連(ロシア)が向き合ったこと、哀悼を表明しても許されるようになったこと(かつては禁じられていた)は、進歩だ。ただしロシアは謝罪は拒否した。

「ロシア民主主義の発展は過去との対決能力で決まる。スターリン主義の断罪とその犯罪の国民的責任の認識は、ナチ犯罪についての国民的責任感がドイツの良心の一部になったように、ロシアの新しい世代に浸透しなければ難しいだろう」
メモリアル協会会長アルセニー・ロジンスキーの言葉である。


「過去の克服が可能だとすれば、それは本当に起きたことを語ることにある。だがこの物語は、歴史に形をつけるけれども問題を解決しないし苦悩を和らげはしない。なにも克服されないのだ。事件の意味合いが生きているかぎり。‥」
ハンナ・アーレントによるこの言葉を、悲観的だと切り捨ててはいけない。
知った、語った、その後で何をするか。
その先のドアが最も重いはずだ。

哲学者ハンナ・アーレント



カチンの森ドキュメンタリー1 1989

カチンの森ドキュメンタリー2

カチンの森ドキュメンタリー3


参考文献
「カチンの森 ポーランド指導階級の抹殺」
ザスラフスキー著

「消えた将校たち カチンの森虐殺事件」
ザヴォドニー著








ポーランドボールの紹介です。
世界各国を国旗の柄のボールとし、各国間の関係などをキャラクターで表現するネット上のマンガです。キャラクター設定に若干の取り決めがありますが、その規定を守れば自由投稿できます。ただし、発案者の承認チェックがあります。

ちなみに、日本のキャラクターは〈kawaii〉文化に関連して猫耳としっぽをつけていることが多いのと、ドイツにくっつきたがる傾向があるようです。
投稿されたポーランドのものをいくつかご覧ください。また、日本語訳付きのものもネット上にあります。英語で書かれる場合は、各国の訛り風にわざとおかしな表現になっています。











禁断のカチン 隠蔽された虐殺

2016-03-07 11:02:05 | 出来事
カチンの森
ポーランド高級将校らの虐殺は
ドイツか?ソ連か?
三たび埋め戻された各国列強の翻弄


Karol Edmund Wojtczak カチン虐殺被害者の一人

第二次大戦中。
ソ連の捕虜となっていたポーランドの高級将校や知識階級らが忽然と消えた。その数1万5千人。
数年後、占領したドイツ軍によって虐殺現場が暴かれた。発見されたのは不明者のおよそ1/3。
犯行はソ連によるものか、あるいは連合軍を撹乱するための、ドイツによる自作自演か?
事件の真相はなぜ封印されたのか?
流れを追い、事件に関わった人たちの言葉を再考してみようと思う。


1. 2つの全体主義国とポーランド

かつてドイツ、オーストリア、ロシアの三帝国に支配されていたポーランドは、第一次大戦を機とした三帝国の崩壊によって独立した。
独立から20年。ポーランドの両サイドの国は、この地を獲ようと狙っていた。左翼全体主義のソ連と右翼全体主義のドイツである。
世界が、ポーランドを挟んで対峙するこの二大国の対立に息をのんでいたが、1939年、二国は突然、独ソ不可侵条約を締結する。このとき両国外相により結ばれたモロトフ-リッベントロップ協定では、秘密裏にポーランド併合後の分割方法まで取り決めてあった。8月23日の締結後、堰を切ったようにポーランド侵攻が始まった。

1939年9月1日 ドイツがポーランドへ侵攻
9月17日 ソ連がポーランドへ侵攻
9月28日 独ソ友好国境条約
10月5日 ポーランド降伏

降伏後、ポーランドは東西にほぼ二分され、ソ連に併合された東側では、国民はシベリア北部に強制移住させられた。
宣戦布告なしに捕虜となったポーランドの将校らは、知識階級らととともに強制収容所に監禁された。
こうしたインテリゲンツィア弾圧は西のドイツ占領地側でも起こる。全体主義国家は、こうした指導階級及び知識層によって反乱、革命を起こされるのを恐れていたからだ。これは、ゲシュタポとNKVDとの数度にわたる秘密会合で確認しあい、双方が両輪を合わせるように決行した。

ドイツの行動は早い。同年、ダンツィヒ、ポメラニアでのインテリゲンツ・アクツィオンで2万3千人殺害、翌年アウサーオルデントリッヒ・ベフリードゥンクス・アクツィオン(特別鎮圧行動AB)により3万人を捕らえ内7千人殺害、さらにシュレジェンで5千人、ワルシャワ近郊パルミリの森で知識人3千5百人を虐殺する。
ナチスドイツといえば、ユダヤ人に対する民族浄化をイメージするだろう。しかし、それに先立ち、知識人に対する階級浄化を行い、それ以外に同性愛者、障害者も対象とした。

ナチス親衛隊長官ヒムラーは語る。

「ポーランド住民の指導層は効果的に無力化されるべきだ。残りの下層ポーランド人はいかなる教育も受けられない。最終的にユダヤ人とポーランド人は民族として浄化される」

と。つまり、ポーランド人という国民全体の浄化も対象にされていたのだった。
なお、知識層の虐殺は戦後、毛沢東やポル・ポトによっても行われている。独裁者は常に知識人の存在に怯えて生きるのだ。



2. 実際に起きていた事

ここからは、カチンの森事件を中心に、後年の調査や情報公開により解明した事実についてを述べる。

ポーランドの戦争捕虜は、58万7千人がドイツ軍、25万人がソ連軍の捕虜となった。うち、西ウクライナと西ベロルシア出身の兵士は解放。通常は戦争捕虜は陸軍で管理されるのだが、ソ連ではこのときNKVD(秘密警察)に引き渡される。そのうちポーランド人捕虜は15万5千人。8つの収容所に、民族、領土、出自によって分類して収監された。高級将校や知識層1万5千5百人は、3つの特別収容所に送られた。
ウクライナ、ベロルシア(現在のベラルーシ)で7千人の将校銃殺、他13万3千人が移動途中や強制労働で死んだ。
このあと、「忽然と」消えたのは3つの特別収容所へ送られた1万5千5百人である。
以下はその、本当の消息である。

捕虜となったポーランド将兵



3つの収容所へは捕虜をおおよその所属集団に分けて収監していた。

・スタロベルスク特別収容所 3811人
ハリコフNKVDが管理。主に、将軍、大佐、中佐、上級国家公務員、軍関係公務員。

・オスタシュコフ特別収容所 6236人
カリーニンNKVDが管理。主に、情報機関、防諜期間、憲兵、警察。

・コゼルスク特別収容所 4419人
スモレンスクNKVDが管理。ドイツに分割された領土出身の者。プティブル。およそ800人の医師、5人の将軍、400人の将校、教授、教師、芸術家。カチンで銃殺されたのはこの収容所の捕虜達。

将校らは従軍中で、ルーマニア国境などへ逃れようとしていたところを捕らえられたため、ほとんど皆軍装だった。勲章を付け、手入れされたブーツや革ベルトを着けていた。
収容所では一人一人に繰り返し尋問が行われた。共産党独特の「再教育」も試みられた。
しかし再教育は失敗した。ほんの20年前に戦争でソ連を負かしたポーランドの軍人らが、ドイツと組んだ汚いやり方で侵略してきたソ連の思惑通りになど、なるわけがなかった。プライド、愛国心、カトリック信仰は根強く、覆ることはなかった。

指紋、写真、調書を作成し終えたNKVDの管轄者は、彼らの運命はおそらく8~10年のシベリア送りだろうと予想していた。しかし、示された運命は「特別手続きによる処理」すなわち、
証人喚問なし、告発状なし、予備調査なし、証拠提出なし、三人審判、という特別手続きによる最高刑すなわち銃殺が、捕虜全員(特別収容所の1万5千とその他のNKVD監獄のポーランド将校1万人)に言い渡された。
これはNKVD委員長ベリヤによって提案され、スターリン以下政治局員7名の署名で決定された。
刑は捕虜の家族にも及ぶ。妻子と全ての親族がカザフスタンへ10年の追放と財産没収。こちらも特別手続きによる。

1940年4月1日、NKVD戦争捕虜管理局長は各収容所長に対し名簿引渡し命令。フィンランド戦争の捕虜を収容するための場所を早く空ける必要にも迫られていたためか、コゼルスクは、4月3日には早々、銃殺が開始された。オスタシュコフでは初回の4月4日は343人、最終の第18隊64人を以って5月22日、死刑の完了と統計が報告された。

ポーランド兵


カチン被害者の一人、元警官Jan Pacewicz
左は彼の長男




3. 処刑の模様

実は、収容所の捕虜全員が殺害されたわけではない。「利用価値のある」捕虜は予め他の収容所に移して良いとされ、コゼルスクからも448人が移送され銃殺を免れたが、移された者達は同僚の運命も我が身の幸運も当時知る由はなかった。彼らののちの証言、処刑された者の身につけていた手帳や日記、僅かな証言から明らかになった処刑の模様はこうだ。


●コゼルスク収容所→カチンの森
毎朝、モスクワから電話で名簿が読み上げられる。その日名前の上がった者は集められ、駅へ。「西へ向かう」という以外に行き先は知らないが、噂では解放されるのだと聞いている(NKVDの流した噂だが)。
ポーランド人にとって、「西」は祖国の方角だが、「西へ向かう」という言葉には死地に向かうという暗喩もあったので、喜びと不安が入り混じった。
汽車で4時間、確かに北東へ向かう。少し気になるのは、監視兵の態度が乱暴なのと、車内の環境が劣悪なことだった。車内には、先に移送された者達による走り書きが残されており、北西、グニエズドヴォ駅で降車することなどがわかる。その先の運命はもちろん車内には書かれていない。
その駅で釈放されるのだろうか?

スモレンスク郊外20キロのその駅。駅はNKVDの厳重な警戒が布かれている。ドニエプル川が見える。
捕虜は黒塗りの輸送車数台に移され、およそ3キロ先のカチンの森へ。
高さ2メートルの金網に囲まれた空き地には、3月初めに8つの穴が囚人によって掘ってあった。

処刑方法は1920年代から大粛清の時代を通じてNKVDが練り上げてきた秀逸なものだ。後頸部から斜め上に額へ抜ける、拳銃のたった1発の銃弾で止めを刺す。モスクワからスターリン直属の処刑人125人が実行する。
使われる拳銃はドイツ製ヴァルター拳銃。
故障が少なく、装填しやすく、反動が少ないので疲れにくい。弾薬もドイツ製を使用。
穴の縁に立たせ、後から頸部に直接あるいは外套の襟越しに射殺するのだが、当然、抵抗する。特に若い将兵は。
抵抗する者は予め切って用意してある縄で後手に縛る。縄は首に一絡げされていて、手を少しでも動かせば首が絞まる按配になっている。
外套をひっくり返して頭に被せ、縄で縛られている遺体、口におがくずを詰められ、フェルトで猿ぐつわされた遺体、3発頭を撃たれている遺体、銃剣で止めを刺したあとのある遺体。
抵抗の跡がうかがえる。
当然だ。理不尽な処刑に諾々とおとなしく殺される軍人がいるだろうか!
ここに、縄はロシア製、銃剣創はロシアの銃剣と検死で特定できるものだった。
深さ2~3メートルの穴には遺体を9~12層に積み重ね、土をかぶせてその上に松の苗木を植えた。
この地の発見は、ドイツ軍が侵攻して発掘した3年後だった。



●オスタシュコフ収容所→カリーニンNKVD施設処刑室
ここでは元NKVD責任者の証言により処刑のようすが明らかになった。
処刑と埋葬に30人が動員される。場所は4階建のNKVD施設の地下処刑室。
収容所から汽車に乗せ、バスで施設へ。
1人ずつ地下に連れて来られた捕虜は、「赤い隅」と呼ばれる小さな小部屋で、数名のNKVDに名前を確認されると、隣の処刑室に誘導され、たちまち後頭部に銃弾を撃ち込まれる。1人あたり1~2分。日暮れから夜明けまでに300名以上の処刑を速やかに終了し得た。
遺体は直ちに中庭に運び出され、トラックに積み、トラック5、6台がメドノエ村の埋葬地まで2往復。ブルドーザー2台が墓穴を掘り、埋め戻した。穴は23。植樹はせず。
この埋葬地が発見されたのは50年後、グラスノスチによってこの地が特定されてからだ。経年変化により、司法解剖は既に不可能。

●スタロベルスク収容所→ハリコフ市内場
ここでも埋葬地はグラスノスチ以降で明らかになった。

いずれの処刑場でも、捕虜達は最後の最期の時まで殺害されるとは思っていなかったらしい。
映画『カチン(邦題「カチンの森」)』(アンジェイ・ワイダ監督)の一部処刑場面は、証言に忠実に再現していると思われる。
黙々と、淡々と行われる処刑の冷酷さに、悲しみ以上のものを感じる。
ワイダ監督の父はカチンの犠牲者である。


映画『カチンの森』より 処刑場面(約10分)


メドノエ村の埋葬地
未明に処刑を知らされず地下室に連れてこられ、即座に銃殺、中庭、トラック、森に埋める
ロシア皇帝一家惨殺と酷似している




4. カチンの森の負った歴史

カチンの森は1920年代から既に政治犯の処刑地だった。ドイツ軍による発見の際に、別の年代の埋葬跡も同時に見つかっている。それは5~10年前のもので、ソ連製の服を着た男女20名の遺体だったことから、ここが過去にも処刑に使用されていたことがうかがえる。
言うまでもないが、カチンの虐殺は数ある虐殺事件の氷山の一角にすぎない。
ここではドイツ軍がカチンを報告して、この地が一躍世界に知れる過程を追う。



1941年6月22日、ドイツ軍がソ連へ侵攻し、独ソ戦が始まる。それまで戦争はドイツの西部の戦線で展開し、戦線は西へ押し、フランスは手中に落ち、イギリスはドーバー海峡に追い落とされた。
しかし、この東部への展開が誤算となり、ドイツは破滅するのだ。ソ連、というより「ロシア」を甘く見たヒトラーの大誤算だった。今はそれを論ずるときではないが、逆に、カチンの一件でにおいては、ソ連は事実を甘く見過ぎだようだ。ドイツに暴かれてしまった事実は、どんな工作も突き破り、真実を露見させたのである。

1941年秋、ドイツ軍はスモレンスクへ攻め込み、カチン一帯も占領した。ただし、埋葬地の発見は1943年2月である。

1941年、ドイツ侵攻を受け、連合国と協調することになったソ連は、ロンドンのポーランド亡命政府とも協力協定を結び、ソ連領内のポーランド将兵によるポーランド軍をアンデルス将軍の下にて再編成することになった。
しかし、再召集をかけても特別収容所から解放されたはずの将校らがなぜか集まらず、編成の見通しが立たない。生き残っている家族の元へも、1940年の5月の便りを最後に、誰のところでも消息がわからないままだった。
そこで、アンデルスはスターリンとモロトフを訪ね、再度の釈放要求をする。スターリンは、彼らは満州に逃亡したか、ソ連領内のどこかにいる、といい、アンデルスの眼の前で部下に釈放を確認する電話までかける演技をした。
1万5千の、ポーランドの軍服を着た将校が、どうやって逃亡し、満州まで向かうのか?
あまりにもばかばかしい嘘にポーランド側は絶望した。それでもチャプスキ大尉を中心に、独自に必死に調べまわった。
戦況は、1943年2月2日にスターリングラードの戦いでソ連が勝利し、ドイツは敗退の危機に陥った。そんな中、2月18日にカチンの森でポーランド将校ら数千人の遺体が発見されたのである。

報告を受けたゲッベルス宣伝相は、これを連合軍内を掻き乱す機会として利用することにした。
国際社会に向けて4月13日にこれを発表、虐殺はソ連によるものだと主張した。ソ連は認めるわけもなく、他の連合国も、例によってゲッベルスの悪知恵であってドイツによる自作自演だろうと、冷ややかに看過した。しかし、ドイツは周到にも、ドイツ以外の国の専門家による国際医学調査委員会を組織し、遺体発掘調査を依頼。各国の報道機関にも広く呼びかけた。ポーランド赤十字調査団も個別で組織し、調査も独自に行った。調査団の中にはポーランド地下組織のメンバーも混ぜており、ロンドンの亡命政府に逐一報告することになっていた。さらに、連合国の捕虜数名も現地に連れて行き、自由に状況を見せた。





7つの穴が発見されていて、穴には遺体が同じ向きに層になって並べられて埋まっていた様子が見て取れた。遺体のほとんどは動かした跡はなかった。死後に死体から溶け出る酸の成分と、折重なっていた重みのために、遺体同士がところどころ癒着したままになっていたことで明らかだった。銃殺時期の特定につながる遺体のポケットの遺留品は、ドイツが仕込んだものであるとソ連は非難したが、立ち会った調査委員会によれば、手付かずの遺体の様子から、そうした工作の可能性はなかったと判断した。




委員会はドイツの指示を受けずに、自由に遺体を選び、調査できた。遺体にはたくさんの遺留品が残っており、勲章、階級章、ポケットには手帳、日記、家族写真、十字架などが、遺体の身元を明かしてくれた。遺体4143体のうちの2815体、68%が遺留品によって身元確認できたのである。





この調査で一番注目されたのは、死後どのくらいの時を経過したか、であった。それによって、これがドイツによる虐殺なのか、ソ連によるものかが特定できるからである。
●銃弾はドイツ製。ただし、かつてヴェルサイユ条約で軍縮を迫られた経緯により、ドイツ製の銃弾メーカーはソ連、バルト三国、ポーランドへも輸出していたため、それらの国による仕業とすることもできる。
●検死の結果により、一部の遺体に見られる銃剣創はソ連兵の使用しているものと確かめられた。
使用されている縄がソ連製であり、結び目がロシア結びだった。
●遺体のポケットにいくつかソ連製のマッチが入っていた。

そして肝心の死後経過年数だが、

●死後3年経たないと形成されない頭蓋内の物質が、頭蓋骨の解剖により検出できたこと、

●発掘された穴には1940年にNKVDが発行したプロパガンダ新聞が見られたこと、

●遺体のポケットに発見された手紙、日記の日付が1940年4月以降の物がなかったこと、

●遺体の上の樹木は樹齢5年だったが、年輪の境が3年前に見られること、

以上から、この地に植樹されて3年は経過していることが証明できる。つまり、ドイツがこの地に来たのが1年半前であり、それ以前の殺害であった、つまりソ連がこの虐殺を行った、ということが結論になった。
「殺害は1940年春、ソ連による」ものと発表された。













この発表を受け、ポーランドがドイツとほぼ同時期に国際赤十字に査察を要求したことで、ソ連がポーランド亡命政府と断交。英米は仲裁したがこじれ、結局連合国間の足並みは乱され、ゲッベルスの思惑通りに運んだ。
それでも、戦況はソ連が優勢を続け、6月には墓穴調査を中断、遺留品や調査結果は十数個の木箱に梱包され、クラクフ法医学研究所へ送られた。
実はこの証拠物品の詰まった箱は安全に運ばれることが叶わず、隠滅を図る複数の組織につけ狙われ、大変数奇な末路となった。如何せん、戦時中であり、しかも追手はソ連なのだから。


5. ソ連公式見解

1943年9月26日、ソ連はスモレンスクを奪回。
ソ連はカチンの森の再調査を独自に行い、公式見解を発表するため、「ナチ・ドイツ侵略者によるカチンの森でのポーランド戦争捕虜将校銃殺の状況を確認し調査する特別委員会」を公式に組織して調査した。この、冗談みたいに長い委員会名が示しているごとく、調査の目的と結果は、調査以前に決定されているようなものであった。
調査はソ連の成員のみによって行われ、連合国の立会いも許されなかったが、招かれた報道関係者の眼の前で既に台上に用意されていた遺体を委員である医師が解剖して解説した。遺体のポケットの遺留品として、1941年に家族とやりとりした手紙などが、脇の台に既に置いてあった。住所の地名のスペルに間違いのある手紙だった。
こうして、1944年1月、例の長い名前の委員会はソ連の公式報告書を発表。
この報告書の中で、掘り出された遺体は925体のみ。報告書のボリュームはドイツ調査団の1/15、ポーランド調査団の1/20。物的証拠は少なく、そのほとんどが現地の聞き取り調査であり、「森の近くでドイツ兵が活動しているのを見た」「ドイツに協力させられた人から話を聞いた」などが記載されているが、話をきいている時点が3月なのに、聞いた話の内容が4月の話だったりする矛盾。
処刑は8月か9月と結論しているが、遺体は冬外套を着ていたのではなかったか。
また、ドイツの調査に参加した委員たちは墓を開けた時に昆虫の類が土中に一切見つからなかったことに気づいている。昆虫が活動する前の早春だったことの証明である。9月とするならばこの点とも矛盾する(のちに9~12月、冬と修正)。

ドイツによる調査の時に立ち会った、考古学や法医学には縁のない連合国捕虜さえも、遺体の衣服や長靴がそれほど綻んでいないことを見て、死者は捕虜になってからそれほど長くは生きていなかったのだと直感したという。ソ連の報告では、カチンの森近くで強制労働の土木工事をさせられていたポーランド捕虜たちのところへドイツが急に侵攻してきたため、捕虜を残してソ連兵は撤退、捕虜はそのままドイツ軍に拘束されたのだと報告している。ソ連兵が去ったというのに、統制のとれた元将校達が逃亡の機会をみすみす棒に振り、そのままおとなしく、もう1つの敵であるドイツ軍に雁首そろえて捕まるなんてことがあるなら、作り話にしても面白すぎる。
また、ドイツの報告書にあってソ連の報告書にはない、松の木、縄、新聞の日付に関することからも、上記のソ連の説明に不備があるのがわかる。

また、殺害リスト入りを免れて他の収容所に送られ、のちに解放された者の証言と、遺留品の記録が証明するのだが、各列車の出発日と人数や名を記した将校のメモの通り、遺体は同じ順序で一団となって折り重なっていた。ドイツ拘束後数年経ってのち、再び同じ順序で処刑されていく可能性は相当低い。
そしてスターリンが以前、亡命政府に行方を尋ねられた時に答えたこととは大きく矛盾することになる。

ソ連公式見解のストーリーはこうだ。
1942~43年の冬、ソ連に対抗するために、ドイツは挑発行動としてカチンで行った虐殺をソ連の仕業として触れ回るべく、地元民を「殴り、脅し、説き伏せて証言させた」。その一方で、この件がドイツ到着前であったように見せかけるために、死体と墓に細工をした。死体1万1000人すべて発掘、衣類から記録文書を取り除いて埋めもどした。作業をさせた500人のソ連捕虜は射殺したが、その遺体は発見されていない。(と、自国の民の射殺に言及しているがその罪を全く追及していない)
数週間後に一部を掘り起こし、世界に発表した。

殴り、脅し、説き伏せて証言させる、
墓穴を掘らせた後は射殺する‥
ソ連の常習の手口を暴露しているように思える。

こうして、捏造した証拠品も、辻褄合わせたはずの架空の話も、事実の前に全て覆された。
ソ連の工作は事実には勝てなかった。


計画も唐突であったし、やり方も雑だった。
その割に遺体はきれいに積み重ねたが、それがまたアダとなった。
ドイツの処刑は靴も服も下着も全て身ぐるみ剥いで、髪まで刈って保管し、金歯を抜き取り、完膚なきまで人間性を奪って殺す。ポーランド捕虜は徽章を身につけたまま、軍装のまま銃殺。ドイツ式に比べれば人間味が感じられるが、人物特定につながった。もっとも、国内のこの地が暴かれることになることは考えなかったからに違いない。ドイツのやり方とて、隠蔽のためというより、あまりにも物資がなく、衣服の上に、髪まで再利用しようとしたまでだ。

ともあれ、事実は証明された。
ところが、真実は隠蔽された。無視された。
彼らはまた埋められた。
そこには列強の思惑があった。

その理不尽な顛末を次回に記す。