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ロシア大公家系の末路/アレクサンドロヴィチ家

2016-07-27 18:57:21 | 人物
アレクサンドル2世からニコライ2世へ
アレクサンドロヴィチ家系の4代17名の大公


アレクサンドル2世治世当時の大公たち

前記事にて取り上げたニコライ1世の子女は以下の大公4名である。

❶アレクサンドル2世 1818-1881
②マリア 1819-1876
③オルガ 1822-1892
④アレクサンドラ 1825-1844
❺コンスタンチン 1827-1892
❻ニコライ 1831-1891
❼ミハイル 1832-1909

今回からは、この4名の大公の分家ごとに、ロシア革命でのロマノフ王朝消滅までの大公について、今回は長男アレクサンドルに連なるアレクサンドロヴィチ家系を書く。

このアレクサンドロヴィチ家系から、帝政の最後まで三代(ミハイルを数えると四代)の皇帝が輩出された。



《アレクサンドロヴィチ家系》

第Ⅰ世代
アレクサンドル・ニコラエヴィチ

第Ⅱ世代
ニコライ・アレクサンドロヴィチ
アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ
ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ
アレクセイ・アレクサンドロヴィチ
セルゲイ・アレクサンドロヴィチ
パーヴェル・アレクサンドロヴィチ
ゲオルギー・アレクサンドロヴィチ
ボリス・アレクサンドロヴィチ


第Ⅲ世代
ニコライ・アレクサンドロヴィチ
アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ
ゲオルギー・アレクサンドロヴィチ
ミハイル・アレクサンドロヴィチ
アレクサンドル・ウラジミロヴィチ
キリル・ウラジミロヴィチ
ボリス・ウラジミロヴィチ
アンドレイ・ウラジミロヴィチ
アレクセイ・アレクシエーヴィチ
ドミトリー・パヴロヴィチ
ウラジーミル・パヴロヴィチ

第Ⅳ世代
アレクセイ・ニコラエヴィチ
ゲオルギー・ミハイロヴィチ

⬆︎グレーは貴賎結婚などにより大公の称号を与えられなかった皇族




〜第Ⅰ世代〜
アレクサンドル2世
1818〜1881



ニコライ1世の第一子長男として生まれたアレクサンドルは、父が1925年に即位して以来、次期皇帝として帝王教育を授けられ、様々な分野の学問やドイツ語、フランス語、英語、ポーランド語などを習得した。





1841年、ヘッセン大公家マリーと結婚。
1855年、アレクサンドル2世として即位。前皇帝のときから窮状にあったクリミア戦争は敗北。前近代的なロシアを上からの改革によって西欧化し、改造をすすめる一方、専制君主制は強化した。
改革として、農奴解放令、司法権の行政権からの独立、無償の基礎教育、女子教育、全身分の男子からの徴兵があり、工業の発展には効果があったが、反面、農業は後退した。
ポーランド、ウクライナ、ベラルーシでの民族運動を弾圧し、多くをシベリア流刑に送った。
また、庶民は教育を受けたことで啓蒙に目覚め、それが抵抗運動、やがて革命を導くことにもなった。暗い革命の胎動とともにアレクサンドル自身も暗殺される。

アレクサンドルには皇后マリア・アレクサンドロヴナとの間に6男2女。1880年、長く患っていた皇后の死後すぐに、29歳年下の愛妾エカテリーナ・ドルゴルーコヴァと結婚。既に、皇帝の子である2男2女がいた。


①アレクサンドラ 1842〜1849
❷ニコライ 1843〜1865
❸アレクサンドル3世 1845〜1894
❹ウラジーミル 1847〜1909
❺アレクセイ 1850〜1908
⑥マリア 1853〜1920
❼セルゲイ 1857〜1905
❽パーヴェル 1860〜1919

❶ゲオルギー 1872〜1913
②オリガ 1873〜1925
❸ボリス 1876
④エカテリーナ 1878〜1959


第一子アレクサンドラと末子エカテリーナとの歳の差は36。エカテリーナはアレクサンドルが60歳のときに生まれている。この時点までに孫は外孫も入れると12名が生まれていた。
当然、ドルゴルーコヴァとの結婚は皇族から苦々しく思われ、私生児たちの皇位継承権獲得を阻む動きもあり、結局、継承権も大公の称号も愛妾の子には与えられず、愛妾も皇后にはなれなかった。ドルゴルーコヴァが皇帝を「サーシャ」と愛称で呼び、皇帝もまるで10代の青年のようだったというから、家族はそうとう見るに耐えなかっただろう。
皇帝崩御後、即位したアレクサンドル3世によってドルゴルーコヴァと子供達は、持参金をあてがわれて、宮殿どころかロシアからも出された。


マリア・アレクサンドロヴナの子供達
夭折したアレクサンドラと末子パーヴェルを除く


ドルゴルーコヴァ(ユーリエフスカヤ公女)と子供達 夭折したボリスと末子エカテリーナを除く)

アレクサンドル2世、皇后マリア、ウラジーミル、アレクセイ、アレクサンドル皇太子、マリア皇太子妃、マリア、パーヴェル、セルゲイ


〜第Ⅱ世代〜
6名の大公がいる。


ニコライ・アレクサンドロヴィチ
1843〜1865





1855年、父の即位により11歳でツェサレーヴィチ(皇太子 Цесаревич)になる。
父母は特別に心を注いでニコライを育てた。デンマーク王女ダウマーと婚約後、南仏旅行中に髄膜炎になったが、誤診により病状を軽く見て旅を継続して悪化、途上で急死した。ダウマーと弟アレクサンドルとの結婚を望むと遺言した。


アレクサンドル3世
1845〜1894





軍人としての経歴を積んでいこうとしていたところで、兄の急死によりツェサレーヴィチとなった。内気で社交性に欠けるところは妃が補った。
父アレクサンドル2世暗殺により即位したあとは、内政を厳しくし、容赦ない弾圧も行った。
ストレスによる過度の飲酒喫煙で腎臓を悪くして病没。


ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ
1847〜1909

左 アレクサンドル 右 ウラジーミル



メクレンベルク=シュベリーンから迎えたマリーを妃に迎えたが、マリーは結婚に際して正教への改宗を拒否したため、生まれた子供に皇位継承権はなかった。のちに、甥ニコライ2世の子に病弱な男子1人しかいなかったことと、ミハイルが貴賎結婚で皇位継承権を剥奪されたことにより、我が子に皇位継承の可能性が見えてきたため、晩年になってから正教へ改宗した。
ニコライ2世妃アレクサンドラに対抗するかのごとく、ロマノフ家の社交界を我が物としていた。


ウラジーミルと妹マリア
ウラジーミルの息子キリルとマリア(ザクソン=コーブルク=ゴータ公アルフレート妃)の娘ヴィクトリア・メリタ(再婚)が結婚してできた子孫が現在まで代々、皇帝を自称し続けているが、正統性に問題がある



アレクセイ・アレクサンドロヴィチ
1850〜1908





左上から アレクサンドル3世 セルゲイ マリア皇后 アレクセイ エリザベータ
左下から ニコライ ゲオルギー パーヴェル


海軍で経歴を積む。
兄の即位後、叔父コンスタンチン・ニコラエヴィチに代わって海軍最高責任者となる。その後、日本海海戦での敗北の責任を取らされ、解任された。
詩人の娘で年上の平民女性との貴賎結婚(正式に確認されていない)により、皇位継承権を失う。
アレクセイの息子アレクセイ・アレクシエーヴィチ(1871〜1931)は皇帝の孫だが、貴賎結婚のため大公の称号は授けられない。
兄ウラジーミル同様、外遊が派手で評判が悪かったが、アレクセイは甥ニコライには慕われていた。


セルゲイ・アレクサンドロヴィチ
1857〜1905






姉マリアを挟んで、上の兄たちとは7〜14歳離れている。3歳下の弟パーヴェルとはとても親しく過ごした。
語学、芸術に精通し、信仰心も篤かった。
非常に厳格な人格であり、モスクワ総督を務めた間も、市民活動に対し厳しく弾圧を加えた。
1905年、爆弾テロにより暗殺された。
エリザベータ妃との間に子はなかった。
同性愛者だったと言われているが確証はないもよう。


パーヴェル・アレクサンドロヴィチ
1860〜1919



母マリア・アレクサンドロヴナは肺を患い、療養先には下の2人の息子を連れて行くことが多かった
母の実家のヘッセン大公家で、遠戚のエリザベータと面識があり、のちに兄セルゲイが結婚した




アレクサンドル2世とマリア・アレクサンドロヴナとの末子。騎兵隊長。
ギリシャ王女アレクサンドラ・ゲオルギエヴナと結婚したが、アレクサンドラは2人目を妊娠中に川で事故に遭い、早産して他界。兄セルゲイの宮殿に滞在中のことであった。未熟児はセルゲイによって育てられた。
一方、パーヴェルは平民の既婚女性の離婚を待って結婚を希望したが、この貴賎結婚が波紋を呼び、ニコライ2世は叔父パーヴェルに様々な権利放棄と国外追放を迫った。パーヴェルは新しく生まれた幼児を連れて、新家族でパリに暮らす。アレクサンドラの遺児マリアとドミトリはセルゲイが養父となった。
第一次大戦開戦時に帰国と権利を認められ、再び従軍。
温厚なジェントルマンであるパーヴェルは、他のロマノフ皇族のように皇后アレクサンドラに冷たく当たる事なく、最後まで親和的な態度だった。
しかしパーヴェルの息子ドミトリ大公によって皇后が心酔するラスプーチンが殺害されたことは、ささやかな亀裂を生じさせただろうか。
革命が迫ると、皇帝に議会に対し譲歩するよう説いたが受け容れられなかった。
革命後は、病の床についていたパーヴェルは当初は自宅療養を許されていたが、1919年1月28日、既に捕らえられて監獄から連れてこられた他のロマノフ皇族3人とともにペトロハバロフスク要塞で銃殺された。重病であったパーヴェルは、厳寒の中、担架で運ばれてきてそのまま撃たれた。
パーヴェルには再婚相手とのあいだに1男2女があったが、貴賎結婚のため、子供は大公ではなかった。
その長男ウラジーミル・パヴロヴィチ・パーリイ公(1897〜1918)は、すでに前年7月に、他の皇族とともに処刑されていた。

21歳で処刑されたウラジーミル・パヴロヴィチ・パーレイ公(別記事あり)


〜第Ⅲ世代〜
9名の大公がいる。

アレクサンドル3世の子女《アレクサンドロヴィチ》は以下。

❶ニコライ2世 1868〜1918
❷アレクサンドル 1869〜1870
❸ゲオルギー 1871〜1899
④クセニア 1875〜1960
❺ミハイル 1878〜1918
⑥オリガ 1882〜1960

ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ《ウラディミロヴィチ》の子女は以下。

❶アレクサンドル 1875〜1877
❷キリル 1876〜1938
❸ボリス 1877〜1943
❹アンドレイ 1879〜1956
⑤エレナ 1882〜1957

パーヴェル・アレクサンドロヴィチ《パヴロヴィチ》の子女は以下。

①マリア 1890〜1958
❷ドミトリ 1891〜1941


《アレクサンドロヴィチ》

《ウラディミロヴィチ》

《パヴロヴィチ》ロシアに残ることを許された子供達

大公の称号を剥奪され国外追放となっているため、この時点では大公ではないが、参考のため↓
《パヴロヴィチ》パーヴェルの新家族
後妻の連れ子3人(後方)と、パーヴェル、妻、妻の母、娘イリナ、息子ウラジーミル
大公はパーヴェルのみ



《アレクサンドロヴィチ家》

ニコライ2世
1868〜1918





皇太子アレクサンドルの第一子として生まれ、13歳からツェサレーヴィチとなる。ニコライの名は、亡くなった伯父から取ったと言われる。
アレクサンドル2世によって近代化と改革へ針路を切ったロシアは、ニコライの時代には民の衝動に火が着き、暴走。大戦時の厭戦の空気が暴走を加速させ、皇帝は権威を取り上げられ、やがて家族諸共に処刑された。(別記事あり)


アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ
1869〜1870 夭折

ゲオルギー・アレクサンドロヴィチ
1871〜1899





兄ニコライと共に育てられた。性格は対照的で、兄より活発でユーモアがあり魅力があった。
海軍に入隊する直前に結核にかかり、以後、カフカスの地で1人、療養していた。
自転車で1人で外出中にひどい喀血をし、皇太子とは知らない通りがかりの農婦の介抱を受けながら亡くなった。ゲオルギーは母マリア・フョードロヴナのお気に入りだった。


ミハイル・アレクサンドロヴィチ
1878〜1918





別記事あり

兄達とは歳が離れているため、妹オリガと過ごすことが多かった。大らかで権力に欲が無く、リベラルであった。
当初、従妹のベアトリス(マリア・パヴロヴナの娘でヴィクトリア・メリタの妹)との結婚を望んだが、正教の規定に違反する従妹どうしの結婚をニコライ2世は許可しなかった。すると次は、妹オリガの女官の平民との結婚を希望するが、許される訳はなく、その次はとうとう平民の、離婚歴まである女性と極秘結婚をした。
革命時、ミハイルは臨時政府との調整に叔父パーヴェルと共に尽力したにもかかわらず、帝政を守ることはできなかった上、ロマノフ家のなかで一番最初にただ1人で処刑された。


《ウラディミロヴィチ家》

アレクサンドル・ウラディミロヴィチ
1875〜1877 夭折

キリル・ウラディミロヴィチ
1876〜1938





海軍で経歴を積む。
キリルの結婚には様々な問題があった。相手は従妹で幼なじみだったヴィクトリア・メリタであるが、まず、ロシア正教ではいとこどうしの結婚は原則として認められず、皇帝の許可が必要ということ、ヴィクトリア・メリタは再婚であるが、再婚が認められるのは元の配偶者と死別した場合に限るということ。さらに、彼女の元配偶者はアレクサンドラ皇后の兄のヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒであったため、皇帝や皇后が許すはずはなかったし、父母も結婚には反対したが、結婚を押し通し、称号、年金、役職を失い、国外追放となった。
しかし、父ウラジーミル死去後に許されて、アレクセイ皇太子、ミハイルに次いで皇位継承権第3位となった。
革命後、ニコライ、アレクセイ、ミハイルの処刑が確認されると、キリルは亡命先で皇位請求者として名乗りを上げ、やがて皇帝を自称した。
ただし、キリルが生まれた段階では母マリア・パヴロヴナは正教に改宗していなかったため皇位継承権を持たないということ、2月革命が起きるとすぐに赤いリボンを着けて臨時政府支持を表明したこと、これらにより、生き残ったロマノフの他の人々によって、その帝位請求は拒否された。
キリルはそれでも皇帝を自称、子らにも大公の称号を使わせた。
キリルの死後は、息子ウラジーミルが筆頭皇位請求者を自称した。ウラジーミルは革命後にロシア国外で生まれており、これもまた正統性がない。ウラジーミルの結婚相手は、ロシア皇族でも他国の王族でもなかったため、家内法によれば貴賎結婚にあたり、そうなればその子に皇位継承権はない上、男子がなかったため、ウラジーミル自身が勝手に、次代皇位請求者を自分の娘マリアに指定。
ウラジーミルの死後はマリアの即位と同時に、この勝手な規定を無視してニコラエヴィチ家からも皇位請求者が立った。
これがさらに、ロマノフ家の禍根を深くした。


ボリス・ウラディミロヴィチ
1877〜1943





母に溺愛され、放蕩暮らしの借金の肩代わりを母にさせ、プレイボーイで、愛人は数知れず。ルーマニア王妃マリーとも関係していた。貴賎結婚でできた男子ボリス(1902〜1984)あり。
革命後はカフカスで、母、アンドレイとそれぞれの愛人とともに逃避暮らしをしていたが、1918年夏、アンドレイとボリスは処刑されようとしていた。しかし、顔見知りの処刑者に釈放され、国外に逃げて命拾いした。


アンドレイ・ウラディミロヴィチ
1879〜1956





叔父にあたるセルゲイ・ミハイロヴィチとマチルダ・クシェシンスカヤとの三角関係で有名。マチルダは若い頃のニコライ2世の愛人でもあり、ロマノフ家の一員になりたいという願望があった。
マチルダの一人息子ウラジーミルは、セルゲイの子かアンドレイの子か判然としないが、セルゲイが母子を養育し、後にセルゲイが処刑され、母マリア・パヴロヴナも亡くなると、マチルダはアンドレイと結婚した。後になってマチルダは、ウラジーミルはアンドレイの子だったと言っている。
晩年、アンナ・アンダーソンをアナスタシア皇女であると信じて、熱心に支援していた一人である。マチルダも、アンナに会い、眼の色が元恋人ニコライを彷彿とさせると言っていた。
別記事あり


《パヴロヴィチ家》

ドミトリ・パヴロヴィチ
1891〜1941



別記事あり

ドミトリは革命時には他国の戦線に派遣されていたため、逮捕を免れた。
裕福なアメリカ女性と結婚し、男子パーヴェル(1924〜2004)が生まれる。離婚後は姉を頼った。
ドミトリもパーヴェルも、ロマノフの遺産相続や皇位継承には関心がなく、権利を放棄している。



〜第Ⅳ世代〜
大公は1名のみ。
家内法により、ウラディミロヴィチ家やパヴロヴィチ家は、この世代では大公とはならない。
アレクサンドロヴィチ家においては、ゲオルギーは未婚で早逝、ミハイルは貴賎結婚のため、子は大公の称号を得られない。

ニコライ2世の子女は以下。

①オリガ 1895〜1918
②タチアナ 1897〜1918
③マリア 1899〜1918
④アナスタシア 1901〜1918
❺アレクセイ 1904〜1918

《ニコラエヴィチ》


アレクセイ・ニコラエヴィチ
1904〜1918





誕生した時からツェサレーヴィチ。
待望の皇位継承者として生まれたにもかかわらず、母系から遺伝する血友病によって、何度も生死の境に立った。病により、成人するまで生きるのは困難とみなされていたが、結局、元皇帝の家族あるいは元皇位継承者として13歳で銃殺された。
家族とは別の場所に埋められたため、長らく遺体の所在が不明だったが、数年前にようやくDNA鑑定で決着した。