名のもとに生きて

人の一生はだれもが等しく一回かぎり。
先人の気高い精神に敬意を表して、その生涯を追う

「もうひとつのドイツ」のために ナチ抵抗者たち

2020-05-17 17:37:00 | 出来事

ヒトラー政権の暴政、歓迎する愚かな国民
「もうひとつのドイツ」のために
命をかけた市民・将校・知識人たち



1944年7月20日事件
ヒトラー暗殺計画の実行者
クラウス・フォン・シュタウフェンベルク
1907~1944



クライザウ・サークル中心人物
ヘルムート・イェームス・フォン・モルトケ
1907〜1945



ビュルガーブロイケラー暗殺単独実行者
ゲオルグ・エルザー
1907〜1945



0. 恐るべき閣議決定

ナチ政権の横暴について、人種法による迫害及び大量虐殺などはよく知られており、いま我々のうちこれを非難しない者はないだろう。もっとも、当時は広く一般に賛同されていた。独裁に法律の仮面を被せたような全権委任法についても当時ドイツ国民の大多数が肯定し歓迎していた。その断面を表しているのが以下の一件である。

レーム事件、1934年6月30日。
ミュンヘンにてヒトラーの旧知の同胞レームを筆頭に突撃隊幹部らを一斉逮捕し即刻銃殺、同時にベルリンでも数千人規模の逮捕と粛清が行われた。その事件後の閣議決定により以下のような法律が公布された。

国家緊急防衛の諸措置に関する法律;

1934630日、71及び72の反逆及び売国行為を鎮圧するために執られた諸措置は、国家緊急防衛として正当なものとする」


この一条だけの法律に、背筋が凍る。事件の凄まじさにではなく、この簡素すぎる法律に…。さらに驚愕したのは、この一件後の国民の反応だ。実はヒトラー自身、粛清の規模があまりに大きくなりすぎ、民心が離れるかと心配していたが、実際国民はいっそう熱烈に支持したのである。確かに国民はそれまでの突撃隊の行き過ぎた横暴に辟易していたが、軍人や民間人も含めた大粛清という「手段」は非難されなかった。その上、あのような法律も国民の間で問題にされることはなかった。このとき既にドイツは後戻りできないところへ来てしまっていたと思う。

多くの国民がこうして盲目になっていた頃、ドイツのこの状況をなんとか正そうと密かに活動していた人達がいた。一般市民、学生、ジャーナリスト、宗教者、軍人、知識人らが、グループであるいは全くの個人で、それぞれの形で勇気ある行動を続けた。それが見つかるまで…

ユダヤ人を保護、他国への協力要請、自由の訴え、ヒトラー暗殺計画、政権転覆後の社会形成構想などさまざまだった。いずれも活動が発覚すれば極刑(残虐な死刑)となる。

ショル兄妹らの「白バラ」は有名で、当時でも彼らの悲運の結末に同情を寄せない者はなかった。その一方、戦争末期の、国防軍将校らによる暗殺・クーデター計画の失敗は「7月20日事件」として現代でこそ有名であるが、当時は既に敗戦色濃い時期だったにもかかわらず、国民は彼らを憎むべき反逆者と断罪し、ヒトラーへのさらなる熱い忠誠を誓った。ドイツの戦況悪化はヒトラーの指揮ではなく、国防軍に責任があると。この後敗戦までの数カ月で「国民同胞」に総力戦を呼びかけ、ドイツは壊滅的な被害(倍増)に斃れることになる。焦土と化し無条件降伏したドイツの国民はなお独裁主義から目覚めず、戦後も長らく彼ら抵抗者は反逆者であり続けた。

あの一条だけの法律の恐ろしさ。一方、今の日本でも時折、閣議決定のありえない内容に噴飯することがある。

「正当なものとする」「国家緊急防衛」

過去、一度でもそんな法律が存在した事実が、今を楽観したり看過してはならない、と警告している。

ここでは数多くのドイツの抵抗活動のうち3つ、

ビュルガーブロイケラー暗殺未遂事件、7月20日事件、この事件とも関係していた〈クライザウ・サークル〉について見て行く。




1. ビュルガーブロイケラー暗殺未遂事件
「平静でいられるはずはありません」(ゲオルグ・エルザー 尋問)

1939年11月8日ミュンヘン市のビアホールでのヒトラー演説集会が19時30分から2時間の予定で開催された。党員2千人超が集い、ゲッベルス、ヒムラー、ヘス、ボルマンらも最前列で参席。当夜は濃霧で、総統のベルリンへの帰路を列車に変更する必要のため30分ほど早く演説が終わる。終了後の会場で、21時20分、演壇後方の桟敷を支える石柱裏側根元部が爆発。桟敷崩落。8人死亡。ヒトラーや側近はすでに会場を後にしていて被害なしだった。
同じ夜、スイス国境を越えようとしていた男が一人逮捕された。拷問の末、男はビアホール爆破を単独で行ったことを自白。
この事件がイギリス諜報機関の仕業と確信し、公にイギリスを非難していたヒトラーや側近たちはこの男の単独犯行を信じようとしなかった。真実が証明されたが、国民には伏せられ、この一件を後のイギリスとの交渉に利用するべく、男は収容所独房の監視下に置かれた。ほぼ忘れられた存在になっていたが、敗戦が濃厚となった1945年4月に射殺された。

注目すべきは3点。
•全く無名な一市民による単独犯行だったこと。
•設置方法も含め、殺傷力高い精巧な爆破装置だったこと。
•時期が早く、ドイツの戦況が傾く以前であったこと。

犯行者ゲオルグ・エルザーは当時36歳、失業中の家具職人。南独シュヴァーベンの田舎町育ち、国民学校を出たあと借金苦の父母の農業を助け、大工、家具職人をしながら、臨時雇用で計器製造会社や採石場でも働いた。結婚し一子あったが離婚した。
酒乱の父をなだめ、弟妹に優しく、外に友人は少なかった。この計画も誰にも相談しなかった。

計画に至った理由。労働者の苦境を改善することが目的。自由な職業選択、ヒトラーユーゲントに蝕まれない家庭の信仰に基づいた子の教育、何より労働者が戦争に駆り出されないこと。そのためには国家指導部、特にヒトラー、ゲーリング、ゲッベルスを排除しなければならないと客観的に考えたことによる。決断したのが1938年秋。ズデーテン危機の頃。奇しくも時を同じくして、国防軍反ヒトラー派〈高級将校グループ〉によるヒトラー暗殺計画があった。戦争に突入する段階でヒトラーを拘束する計画だ。結局このとき、ミュンヘン会談により開戦の危機は免れたため、国防軍による「9月陰謀」は立ち消えになる。しかしヒトラーは時をおかずチェコ、ポーランド、オランダ、ベルギー、フランスと次々に侵攻した。将校達は失意のまま戦場での戦いに注力せざるを得なくなり以後は動きを潜めた。
一方のエルザーはミュンヘン協定に安堵することなく、早晩ヒトラーは周辺国を侵攻すると確信していた。この優れた先見力と迅速な行動力が、ドイツ軍が勝利を重ね、ヒトラー政権が絶頂にあった時期の不意の一撃となったのだ。エルザーは戦争に至る前から、ドイツがいずれ戦争を引き起こしかつ負けることを予見し、躊躇なく速やかに活動したのだ。
加えて入念さ。計器製造の仕事で信管の技術を、採石場の現場で火薬の扱いを身につけ、素人のものとは思えない高度な爆破装置を作成。その設置には、下見を含め3か月にわたってビアホールの常連客となって物置に身を潜め閉店を待ち、作業音を戸外の市電の音に合わせ、石柱に穴を掘った。完璧だった。…演説時間が予定通りだったなら。
エルザーはのちの尋問でこう答えた。「自分の行動によって、戦争でさらに多くの血が流されるのを阻止するつもりだったのです」と。「8人を死なせて平気か?」との質問には「平静でいられるはずはありません」
全てを一人で考え、計画し、実行し、罪も罰も背負う強さは、いつか認められれば天国へ行けるというシンプルな願いひとつのためだった。
エルザーのこの行動が戦後のドイツで受け容れられたのは実はつい最近だというのは驚きだ。名誉欲などない彼は、後世にではなく、神に認められたいという思いだったのだろう。


2. 7月20日事件
「神聖なるドイツよ、万歳!」(クラウス・フォン・シュタウフェンベルク 銃殺直前の叫び)

今でこそ数々の映画で賞賛されているが、この一件も戦後長らく「裏切者」の仕業とされた。実行者はクラウス・フォン・シュタウフェンベルクだが、共謀者は国防軍、外交官、教育者、法律家、神学者など多数。1944年7月20日、暗殺は失敗に終わった。同時に発動する予定のクーデター(ベルリン、パリ、ウィーンで同時)も失敗し、関係者は徹底的に調べ上げられた。
国防軍上層部には貴族出身が多く、教養高く、軍人として忠誠心も高かった。ヒトラー政権に不満があっても国家を守る責任で従った。「国家と国民」への忠誠がいつのまにか「ヒトラー総統」への忠誠に置き換えられ、前線特に東部戦線での住民や捕虜に対する親衛隊の残虐さやホロコーストの実態に接し、反ヒトラー派は連絡を取り合い暗殺を計画するに至った。中央軍首席作戦参謀大佐ヘニンク・フォン・トレスコウの指揮により、1943年3月ヒトラーのスモレンスク前線視察時の搭乗機に仕掛けた爆弾は寒さのため不発で失敗。同月再び一派のゲルスドルフ(余談;この翌月カチンの森の遺体を発見した)によるベルリンでのソ連武器展示会場での自爆計画も、ヒトラーの予想外の行動により失敗。一方で東部戦線の戦況は泥沼化し、転戦のためトレスコウはシュタウフェンベルクに後を託す。
クラウス・フォン・シュタウフェンベルクはシュヴァーベンの名門伯爵家出身(奇しくもゲオルク・エルザーと同郷)、北アフリカ戦線にて負傷し片眼と片掌と手指を失ってのち、国内予備軍一般軍務局参謀長となる。所属はオルブリヒト大将の下、反ヒトラー派の温床であり、加えて国内予備軍の緊急動員(ワルキューレ作戦)を発動するセクションでもあった。ナチスの国内外での横暴を止めるためにはヒトラーを暗殺するしかないと決意し、ワルキューレ作戦を偽装してクーデターも平行させるために、数々の抵抗グループ、特に転覆後の暫定政府案や政策策定の知見がある〈ゲルデラー・サークル〉や〈クライザウ・サークル〉と協働した。軍務だけでも多忙な一方でこれらの活動も進めねばならず、精神的にも負担は大きかったが、クライザウ・サークルで知り合った18歳年長のユリウス・レーバーと意気投合し、また行動をサポートする良き部下ヴェルナー・ヘフテンにも恵まれた。
反抗グループメンバーの中には、ヒトラーに同席する機会がシュタウフェンベルクよりも多く、実行するに有利な者は他にいたが、気持ちが定まらず拒否したため、計画遂行者でありながら実行者としても遂行せねばならないシュタウフェンベルクには、相当な重責がのしかかっただろう。勿論、表向きの軍務もこなした上で、である。
反ヒトラー派の上層部の意見として、ヒムラーの同時暗殺も狙わねばならなかったがなかなかヒムラー、ヒトラー両方そろう機会はなかった。
それを待つ内、レーバーが別件で逮捕されてしまう。親友をいち早く助けたい焦りも重なる。この日と決めてヘフテンと臨み、実行に及んだ7月20日。数々の予定外が重なり、仕掛けた爆発物はヒトラーには軽症を負わせただけだった。ベルリンの司令部に戻れたもののクーデターも失敗した。シュタウフェンベルク、ヘフテン、ベルリンで動いていたクィルンハイム、オルブリヒトの4人はその深夜、中庭で銃殺された。全て7月20日の出来事である。

日付が変わってまもなく、ヒトラーによるラジオ演説があった。ドイツ国民はそれまで以上に総統を讃え、実行者は裏切者として罵られた。銃殺後に埋葬されていたシュタウフェンベルクらの遺体は、ヒムラーの指示によってただちに掘り起こされ、勲章を剥ぎ取られ、遺体を焼いて灰にして始末された。このあと、生き残った協力者にはより辛辣な運命しか待っていなかった。



ヘニンク・フォン・トレスコウ
戦地で暗殺失敗の報を受けた後、自殺
ただこの時点で事件との関与は疑われてはいなかった



左シュタウフェンベルク 右クィルンハイム



シュタウフェンベルクと子供


3. クライザウ・サークル摘発
「忠誠の義務を私はもうとっくに感じていません」(ハンス=ベルント・フォン・ヘフテン 人民法廷にて)


ヘルムート・イェームス・フォン・モルトケはかつてのドイツ帝国の英雄大モルトケ、小モルトケの末裔であり、シェレージエン地方クライザウの領主だった。国際法の専門家で人権保護に尽くした。また国防軍防諜部のカナリスの部下も務めた。元々ナチス反対の立場であり、反ヒトラー派の外務省職員や学者と通じた。
同じく法律家のペーター・ヨルク・フォン・ヴァルテンブルク伯らとともにクライザウ・サークルを形成した。メンバーは法律家、外交官、大学教授、神学者など約20人。メンバーは比較的若いが、同様の活動をする〈ゲルデラー・サークル〉(元ライプツィヒ市長のカール・ゲルデラーが中心、大企業や英米政府要人とのつながりもある)とも連携しており、終戦後(敗戦後)のドイツのありうべき体制を協議する。ペーター・ヨルクは招集され、国防軍の反ヒトラー派ともつながる。ヨルクはシュタウフェンベルクの従兄弟。
モルトケはドイツの敗戦やソ連によるベルリン進駐を早くから予見しており、敗戦を経てからのドイツの再生を考えていたため、国防軍メンバーによる暗殺計画には反対だった。ヒトラーは正式な裁判で裁かれるべき。そうでなければ暗殺者は裏切者に、ヒトラーは殉教者になってしまうから。
そのためシュタウフェンベルクらとは距離を置こうとしていたが、東部戦線やホロコーストの現実がもはや差し迫った状況にあるとし、暗殺計画に協力することとなる。主にクーデター後の政府について具体的な形を構想した。
ところが1944年1月、モルトケが逮捕された。幸いサークルの存在には気づかれずヨルクが引き継いだ。7月になり、ナチスの罠にかかったレーバーとライヒヴァインが逮捕された。拷問は過酷であったが、二人は決してメンバーの名を口にしなかった。
そして7月20日のクーデター失敗。
ナチスによる執拗な検挙で、軍人、市民、知識人ら大変な数の共謀者が判明し、ヒトラーは激昂した。「奴らを屠畜のように吊るせ!」と指示。抵抗グループは拘禁され、激しい拷問にかけられたが、誰もが耐え、仲間の名前を言わなかった。処刑されたのは9人、7人が逃れた。
抵抗者達は拷問で喉をつぶされながらも、最後の場に毅然と立つ。人民法廷で悪名高き裁判官ローラント・フライスラーとやりあうのだ。


ローラント・フライスラー
戦争末期の人民法廷で多くはこの人物によって裁かれた。 大声で被告を罵倒し発言を遮るなどおよそ裁判の体をなしていない上、判決は死刑が圧倒的に多い
1945年2月アメリカの空爆で死亡
「白バラ」メンバーも彼によって死刑にされた
別記事ヘルムート・ヒューベナーも参考に


プレッツェンゼー収容所
抵抗者の多くは死刑判決後すぐにここに移され、即日処刑された。手前に斬首台、奥に絞首台


人民法廷とは、1934年にヒトラーによって制定された刑法改定によって立ち上げられた、「反逆者及び売国行為の罪に対する判決」のための裁判所である。ゲッベルスはこれを、「判決が合法的であるか否かは問題ではない。むしろ判決の合目的性のみが重要なのである」と言った。冒頭で話題にした一条きりの法律文をしのぐ恐ろしさを感じる。「法が終わるところ、暴政が始まる」。検察庁法改正案への反対意見書に引用されていたジョン・ロックの著書からの指摘がこのときのドイツには届かなかった。


「それは告発された者ではなく告発する者の姿である」
(對馬達雄『ヒトラーに抵抗した人々』)

法廷に立つクライザウ・サークルのメンバーは日々の拷問にやつれた姿だったが、フライスラーの挑発的な問いに臆せず答える。

ヨルクの裁判で、フライスラーが叫ぶ。

「ユダヤ人問題に関し、貴殿にはユダヤ人根絶は気に食わない、国家社会主義の法概念が気に食わないということだろう」

「違います、ユダヤ人問題がすべて、国家が神に対する宗教的、倫理的義務を排除し国民に無制限に権力をふるうことと結びついている、このことが重要なのです」

理屈の通用しない裁判官に屈することなく、自分の弁護でなく、言葉の力を使って真理を突く発言である。人生の最後に訴える思いでもある。刑はその夜に執行されるのだ。
軍人らのあと翌週は外交官らが立つ。
アダム・フォン・トロット、ハンス=ベルント・フォン・ヘフテン(シュタウフェンベルクとともに銃殺されたヴェルナーの兄)もナチスの非を堂々と指摘した。シュタウフェンベルクには双子の二人の兄がいるが、モルトケともつながりの深かった長兄ベルトルトも死刑となっている。
年を越して1945年1月にはレーバー、モルトケが死刑判決を受け、数日後に執行された。
ナチス支配の苦しみの下で危険を冒しながら形づくっていったクライザウ構想とはどんな内容だったのか。7月20日事件が起きていなければドイツはどうなっていたのか。


人民法廷傍聴席


入廷するアダム・フォン・トロット



レーバーの人民法廷裁判
過去にも非常に過酷な拷問監禁に耐えた屈強な精神がシュタウフェンベルクを支えた



ペーター・ヨルク人民法廷裁判
裁判中も処刑場でも毅然とした態度だった



モルトケ 人民法廷裁判


クライザウ・サークルにおいてヒトラー暗殺に否定的だったのは、ドイツの軍事的敗北だけがドイツと世界を救う前提となる、という考えからだった。その前提の上で、再建には3つの柱がある。

•ワイマル政復興の否定
•精神的基礎にキリスト教精神を据える
•国内経済の枠をこえてヨーロッパ経済秩序を形成させることが平和をもたらす

最も民主的なワイマル政から正当な手続きで成立したのがヒトラー政権であったことは事実である。国民が独裁を歓迎したのは世界恐慌による経済不安が原因であり、それが国内経済優先、自給自足経済、他国侵略、他民族迫害を支持した。国民の頭の中にはその手段が民主的か否かを考えるだけの能力も余裕もなかったということになるだろう。侵略された各国にパルチザン活動が起きていたのにドイツ国民はその方向に全く動かなかったことをメンバーは憂いている。戦後に生き残ったメンバーのハンス・ペータースは「民主主義者なくして民主政治は存在しない」と語った。衆愚政治に陥るのみ。このため、サークルでは地方政治にのみ普通選挙を適用し、州議会や国会は間接選挙かつ議院内閣制不採用としている。
ヒトラー・ユーゲントの方針と通ずるヒトラーの言にある「キリスト教は自然の法に反するもので、自然への抵抗である」。ここに言う自然の法は弱肉強食のようなもので、隣人に目を配り手を差し伸べるキリスト教とは相入れない。ボルマンは戦後に教会解体する予定でいたらしい。ヒトラー・ユーゲント的な教育を離れ、ヨーロッパ世界に向けて憎悪と虚偽を克服するためにも西欧に共通するキリスト教精神に立ち帰る必要を訴えている。その基盤に立って償う贖罪の観念がドイツ再建に重要な礎石だとする。平和再建を進めていくためには秩序ある経済が求められる。「経済の目的は人間にある」つまり自由放任主義ではなく、失業問題や環境問題などを解決しながら維持するものでなければならない。このようにクライザウ・サークル独自の方針は、復興をヨーロッパ全体で考えるものであった。その構想に見られるヨーロッパ内の統一通貨、関税撤廃、域内分業、世界経済との関係などはEU発足を実現した現在を予見するものだった。

あの時代に、命の危険を冒して知恵を寄せ合い、自分達を反逆者とし死刑にかける不甲斐ない国民とヨーロッパの未来を真剣に考えた彼等。対照的に当時なお支持を続けた国民を見限り、ヒトラーは国内を爆破せよと命じていた。
彼らが生きて平和を手にすることがなかったことはかなしい。その苦しみに報いるよう私達は決して同じ坂道を転がることのないよう、不断の努力をせねばならないことも忘れない。



社会教育者アドルフ・ライヒヴァインが獄中から我が子たちに向けて書いた手紙がとてもあたたかい。後世の私達皆に向けたやさしい手紙とも受け取れる。およそ20年後、ゲバラが子供達に残した手紙も相通じるので並べてみる。

ライヒヴァイン;
長女レナーテへ(11歳)
「機会があったら、いつでも人には親切にしなさい。助けたり与えたりする必要のある人たちにそうすることが、人生でいちばん大事なことです。だんだん自分が強くなり、楽しいこともどんどん増えてきて、いっぱい勉強するようになると、それだけ人びとを助けることができるようになるのです。これから頑張ってね、さようなら。お父さんより。」


ゲバラ;
「この手紙を読まねばならない時、お父さんはそばにはいられないでしょう。
…立派な革命家に成長しなさい。自然を支配できる技術を身につけるように、うんと勉強しなさい。
一人一人がはなればなれでは何の値打ちもないことを覚えておきなさい。
世界のどこがで誰かが不正な目にあっているとき、いたみを感じることができるようになりなさい。これが革命家において、最も美しい性質です。
いつまでも、子供達よ、みんなに会いたいと思っている。大きなキスを送り、抱きしめよう。
お父さんより」



レニングラード封鎖 872日を生きる

2017-03-07 12:53:03 | 出来事
緩慢で残酷な、都市全体への死刑
飢餓と厳寒のレニングラード封鎖
絶望と矜持を生き抜く市民たち



戦時中のレニングラード カザン大聖堂前


レニングラード包囲戦
1941年9月8日〜1944年1月18日
1944年の秋、
自分たちが爆撃し砲撃した建物を修理・再建するために、ドイツ人捕虜がレニングラードに連れてこられた。市内はまだ半分が空だった。当時11歳のエレーナ・コージナはその奇妙で陰気な雰囲気を記憶している。
「人がとても少なかったので、広い大通りではその姿が消え失せていくように思われた。
‥この沈黙、空虚さ、動きの少なさは市の心だった。それは生と死の間のどこかで凝固しているみたいたった。
‥ドイツ人たちは私たちに目を向けないで通り過ぎた。彼らの顔は憔悴し、緊張していた。
私たちはみな黙って立っていた。叫び、呪いや侮辱の言葉は一つも出なかった。私たちは薄い、動かない壁のように立っていた。
そして背後にはわれわれの死者たちの亡霊が立っていた」


『レニングラード 封鎖
飢餓と非情の都市1941-44』
マイケル・ジョーンズ著
松本幸重訳

Leningrad : State of Siege
Michael Jones 2008




世界大戦において最も苛烈だった独ソ戦。
1941年6月にドイツは不可侵条約を破棄してソ連に侵入し、目を瞠る勢いで電撃戦を繰り広げる。ヒトラーが真っ先に狙ったのはレニングラード。かつてロシア革命が起こり、ボリシェヴィズム展開の心臓になった都市、その名にレーニンを冠した都市。敢えてそれを冒涜するがごとく、モスクワよりも優先してレニングラードを占領しようと意気込むヒトラー。

『ペテルスブルグ。
(ヒトラーは敢えて旧名で呼ぶ)
長きにわたりアジアの毒液をバルト地域に吐き出してきた悪の温床は、地表から消え去らねばならない』

戦闘の初めから市民がぐいぐい巻き込まれてしまったのは、市民を守ろうという心算の全くないソ連上層部の怠慢と傲りによるところが大きい。
1937年、ソ連で起きた赤軍大粛清によって、有能であったレニングラード司令官トゥハチェフスキーが処刑されたのには、ナチスSAのハイドリヒらの工作も絡んでいたものの、スターリン追従の似非英雄ヴォロシーロフの妬みで、いずれ必ず失脚させられただろうと言われている。粛清では、軍事のプロを忌み嫌い、時代遅れの精神論で戦おうとするヴォロシーロフによって、数多くの軍人が処刑された。まさにナチスの狙い通り、エキスパートを赤軍から排除し、無能な司令官ヴォロシーロフがレニングラード司令官となったことで、ソ連は自ずから弱体化した。

攻撃の標的とならないように目標となりそうな構築物は覆われた。こうした作業も民間人がかりだされ空腹を抱えながら作業した

大々的に掲示されたプロパガンダ


経過

レニングラードは、革命以前の帝国時代の名は現在と同じサンクトペテルブルク、帝都であった。第一次大戦以降革命以前はロシア風の呼名ペトログラード。1939年当時、レニングラードの人口はおよそ319万人。
1941年6月22日、ドイツはソ連に侵入して電撃的なバルバロッサ作戦を北方、南方、中央方面に同時展開。レニングラードへは占領および破壊を目標に北方軍集団が速攻進撃。

上層部の怠慢から防衛の準備をしていなかったレニングラードでは、この防衛戦初期に非常に多数の兵を無駄に死なせた。さらに市民(女性と子供と老人)を前線の塹壕掘りに強制的に従事させた。平服で参加した若者たちは夜冷えの中で野宿させられた。
体面が悪いとして渋るうち、疎開は遅きに失し、子供達が脱出すべく向かった先では、もうどこもドイツに制圧されてしまっていた。
引き裂かれた母子の悲鳴。
『子供たちを連れ戻して!ここで一緒に死んだほうが、どこか分からない場所で殺されるよりもましだわ』



無能ぶりを露呈したレニングラード司令官と市長の存在はドイツの進軍を大いに助ける。防衛の態勢を整えられず上へ下へすったもんだしているうち、幹線道路も鉄道も次々に遮断され、あっという間に完全に閉じ込められたレニングラード。9月8日には補給が途絶。ドイツ軍による空爆に対し、統制の乱れた空軍は追撃できない。海軍も陸軍もただひたすら混乱していた。

ドイツ軍は最初から攻防戦をするつもりはなく、「科学的な方法による破壊」(ミュンヘン栄養研究所ツィーゲルマイヤー教授)でレニングラードを制圧する考えだった。
『わが軍部隊の人命を危険にさらすまでもない。レニングラード市民はどっちみち死ぬ』
いわゆる兵糧攻めである。
そのため真っ先に狙うべきは勿論、市の備蓄の食糧倉庫である。無策の上層部は食糧をバダーエフ倉庫一ヶ所に保管したままで分散配置をしていなかったため、あっという間の一撃で失われた。


『この都市はすでに封鎖されている。われわれに残っているのは、それを爆撃、砲撃し、水源と電力源を破壊すること、その上で、生き残るのに必要な一切を住民に与えないことだ』
ヒトラーの明確な計画。

しかし、およそ900日もこの都市が持ちこたえ、復活することになるとはヒトラーでも誰でも思いもしなかっただろう。
ただし、失われた兵数(死亡)は40万人以上、失われた市民は100万人以上。傷は深い。
因みにアウシュヴィッツ絶滅収容所での犠牲者数は150万人位(あるいはそれ以下)と言われている。
アウシュヴィッツ犠牲者とレニングラード市民とではどちらが悲惨か、と考えてみる。
生理的に厳しいのは、人肉食にまで及んだレニングラードだろうか。家具の膠を削って煮こごりにして食べたり、革ベルトを煮て食べたり、人が人を襲って食らったのは、飢えがどれほど辛辣なのかを語る。
明日以降もう何も食べるものがない、パンの配給はいつ再開されるかわからない、配給の列に並ぶ体力がもうないかもしれない、という不安と絶えず闘う。他方、収容所では質はひどくても、自ら調達せずに定期的に胃に入るものがある。
レニングラードはさらに砲撃、空爆の恐怖にもさらされている。そしてこのレニングラードの地は冬期はマイナス20度を下回る。にもかかわらず燃料もない。窓ガラスは空襲で割れたまま。
しかし、名前を奪われ、尊厳を奪われたアウシュヴィッツの人々と比べれば、自宅(爆撃で失われていなければ)に住まい、地元に住まい、家族と過ごすことができるのは幸いだ。ただし、家族が飢えて衰弱して死んでいくのを傍らで見、それを葬ることもできず放置するやり切れなさが次第次第に心を蝕んでいく。逆に、あまりの飢えから平常心が失われ、家族間でも搾取しあう。
飢えが己の獣性を呼び起こし、己の人間性を壊滅させる有り様は、ホロコーストと比べていくらかでも救われているとは考えられない。むしろ間接的に仕組まれた罠にかけられるのは手の込んだ悲劇のようだ。

子供たちは飢えと不安で老人のような顔つきになってしまう



900日の封鎖の中で最も苛酷だったのは最初の冬、1941年の12月から翌年3月あたりまでだった。大きな岐路は1月末にパンの配給券が配られなかった上に、2月初めのほぼ2週間、配給がなされなかった時だった。この頃は気温マイナス30度。1日2万人の死者がでる。ここに至って、絶望して死にゆく者、獣になる者、打ち克ってより高い次元の人間性を生きる者にそれぞれ分かれたようである。
一方、この惨状を隠蔽すべく、この時期、上層部によって郵便連絡が遮断されている。なお、他地域から市に入る郵便配達員はしばしば襲われる危険があった。勿論、おいしそうに見えるからである。

初めの転機があった。
ロシアから切り離され孤島のようになっていたレニングラードへ向けて、凍ったラドガ湖上を物資運搬のトラックが走った。絶えず空襲される恐怖にさらされ、物資の重量で氷が割れて水没する恐怖にもさらされながらも、トラック輸送は敢行された。搬送を終えたトラックで、帰路に人を乗せて疎開させる、という計画だった。しかしまたしても疎開計画は遅々としてはかどらなかった。厳冬期の疎開は、消耗した人々には死のリスクもあった。惨状を秘匿するため、餓死寸前の人々を疎開させることを上層部は渋った。疎開させてもらうためには中間マージンとして、お金ではなく、パンを要求された。捗らないトラックでの疎開を待てず、禁じられていても自力で徒歩でラドガ湖を渡ろうとする人たちもいた。それにつけ込んで、ドイツ軍は缶詰に偽装した手榴弾を道沿いに置いていた。非常に気が滅入る話だ。
この運搬経路は『命の道』と名付けられ、市の希望だと宣伝されたが、しかし実際は、苦労して運ばれた食糧は上層部が握り占め、市民に配られなかったし、厳冬下の疎開も実を結ばなかった。結果、市民たちは皮肉をこめて『死の道』と呼んだ。

夜を徹して搬送が行われた。車列を狙って攻撃されることもあった

氷の穴に落ち、疎開の子供を満載したトラックごと沈むことも多かった


絶滅収容所では、裸の死体が山のように積まれていたが、その地獄絵はレニングラードの街中でも同じだった。埋葬地まで運ぶことのできない死体は厳寒の通り沿いのあちこちに積まれたままになっていて、回収が進まない。さらに水道も止まっており、排泄物もその脇で凍りついている。このまま春がやってくれば、疫病が蔓延するのは必至だ。ヒトラーは当然、疫病蔓延による壊滅も計算のうちで、内通者の状況報告で監視している。レニングラード市民も疫病は危惧してはいた。
そこへ、強圧的な上層部による命令で、女性市民に通りを清掃させることとなった。もはや誰にもそんな体力は残っていないはずだと思われていた。スコップを握るのがやっとだというのに、それを振るうことなんてできないと思っていた。命令されるまま、どうにか足元の狭いスペースを片付けることができた。すると、絶望の凍土から小さな芽が出てくるように、人々に力と希望が湧いてきたのであった。
自分たちの手でこの街を甦らせたい。
レニングラードは彼らの愛する街、これ以上失いたくない街であり、文化であったからだ。
どんなにひもじくても、図書館、映画館、バレエ、コンサート、美術館は開いていた。(バレエダンサーも吹奏楽器奏者も苦しい息で、幕間に亡くなった人もいた。それは観客も同じだった)
暖房もなく明かりもないが、通う人がいたから続いた。やがて、しばらくの間運行していなかった路面電車が復活したとき、その音に皆心を震わせた。
自分は生きた、生きている!
血がめぐるのを実感したに違いない。
春を迎えることができたこともよかった。
彼らは草を食べる。土に感謝しながら。
むしろこれが最初の転機だったと言えよう。

第二の転機はレニングラード方面軍の新司令官にゴヴォロフ中将を迎えたことだろう。精神論だけで突破させようとするだけのジューコフは、兵を惜しみなく戦場に押しやり、無駄に死なせることで陣地を守っているつもりになっていたが、もう限界だった。新司令官はあまり威勢のいい軍人ではなさそうたったが、兵を損なわないように、取るべき対策は取る堅実な司令官だった。これにより兵の士気は高まった。
一方のドイツ軍も、南方軍がセヴァストーポリを占領し、浮いた兵力をレニングラードへ回して夏の総攻撃に賭ける。それを迎えるソ連軍もゴヴォロフ司令官の下、イスクラ作戦と名打って徹底的、積極的な抗戦でドイツ軍撃滅をはかる。戦いは次第にソ連軍が優勢になり、封鎖から3度目の冬、いよいよソ連軍はプルコヴォ丘陵を基点に総攻撃にかかる。既にソ連兵はドイツ兵の2倍以上が準備されていた。
さかんな砲声が聞こえてくると、レニングラード市民は沸き立った。1944年1月18日、レニングラードの封鎖が解けた。872日を生き抜いた。
スターリンは「英雄都市」と讃えたが、市民はそれを手放しで喜ばなかった。施政者への不信はあの厳冬の飢餓の中でうず高く積もり、春が来ても夏が来ても、いつまでも心の奥に凍りついて融かすことは不可能だった。街を見回せば一目瞭然、失われたものはあまりにも大きかったのである。

プーシキン市の鉄道駅での攻防戦
モスクワ〜レニングラード間の路線が奪還され、封鎖は解除になった



封鎖を経験した市民の言葉によって編まれた、『レニングラード封鎖 飢餓と非情の都市1941-44』(マイケル・ジョーンズ著)の中では、封鎖を生き延びた人または封鎖の下の日記が発見された消息不明の人によって、直情的に日々の様子が語られている。

大きなパンの絵。9歳の子供が描いた。カットして食べるように、ナイフが傍に描いてある。この子の頭の中はパンのことでいっぱいだったのだ。
どんな時にどんな思いで生きていたのか。
あまりに切なく、ときには美しく強く、人間の底の深さを感じさせる表現に驚く。本当に悲惨の極限だったことだろう。それでも人はこんなふうに生きることができるのかということも知る。
あんな絶望的な状況の中にも希望を見つける人がいる、ということを。
以下は、印象的な部分を引用する。





前線と市内
ネフスキー大通りの近くに住んでいたユーラ(ユーリー)・リャビンキンは元気のいい15歳の少年だ。成績の良いことを誇りに思い、将来の夢は海軍にはいることだった。封鎖の日から日記をつけ始めたユーラの目に、現実と矛盾が映る。

『新聞のどの論説も叫んでいる。血の最後の一滴までレニングラードを守る!と。しかし、なぜかわが軍はまだ一度も勝っていない。武器も不足しているようだ。街頭の民警、さらには義勇軍兵士や赤軍兵士の一部までが持っているのはいつの時代だかわからないような昔の年式のライフル銃やモーゼル銃だ。ドイツ軍は戦車で押し込んでくる。それに対してこっちは戦車じゃなくて、手榴弾の束や火炎瓶で戦えと教えられている。これが実情なのだ!』

開戦初期の司令官ヴォロシーロフは実際、博物館の武器を持ち出して戦えばいいと胸を張っていたし、潜水艦で押し寄せるドイツ海軍に対抗するためのありとあらゆる『ふね』を徴発させたものの、その中にはタグボートあり、珍しいものとしてかつての皇帝専用豪華ヨットもありで、一体ドイツ兵に何を見せてくれようとしてるのだかまさに噴飯ものの混乱ぶりだった。
また、ドイツの航空隊に見せてくれたのは木製ダミーの戦車実物大模型で、こちらはマリインスキー劇場の舞台装置製作部の御製だそう。さぞ素晴らしかったのか、ドイツ空軍はだまされて数発撃ち込んできたと鼻高々。早急に都市の防衛施設を築かなければならないときに、工兵に何をやらせているのか?
続いて司令官になったジューコフがどうにか軍を動かすようになったものの、彼は兵の命を無駄に削ることに全く躊躇がなかった。『後退する兵、士官は銃殺』と命じる。
ラドガ湖上の要塞オレーシェクへ派遣される海兵部隊を指揮したニコライ・ヴァーヴィンの回想。

『しかし、わが部隊がラドガ湖上を横切って要塞にむけて派遣されたのは、何らかの理由で午後3時、白昼堂々とであった。ドイツ軍はすぐに空から発見した。そしてそのあとは大量処刑と化した。海兵退院たちには重い外套と長靴を脱ぎ捨てる時間がなかった。そして隊員たちは私の周りで溺れていった。私自身の上陸グループ200名のうち、岸にたどり着いたのはわずか14名だった』

この作戦がイかれてると思っても、誰もジューコフに意見できない。命令拒否、即解任になる。
司令部の通信士がジューコフについて語る。

『彼は大変な理論家で戦略家だった。しかし、かれが人命損失を気にかけている様子は決してなかった。彼は人命の犠牲を度外視して敵に対する攻撃を次々と命令し続けた。頻繁に現地の指揮官たちが彼に懇願してきた。ジューコフは耳を貸そうとしなかった。彼はただ、こう繰り返すのが常だった。『私は攻撃しろと言ったはずだ』』

最も悲惨だったのは、ジューコフが死守にこだわったネフスキー橋頭堡だ。

「第四海兵旅団の隊員の多くは17歳か18歳の若い士官学校生で、数ヶ月の訓練しか受けていなかった。誰ひとり生き残らなかったので、隊員たちの話は聞けない。彼らの存在が一瞬解見えるのは、ネフスキー橋頭堡から最近発掘された散乱した私物をとおしてである。血の染みが着いた党員証、浮き彫りのおるスプーン、手書きの聖像画。士官学校生の一人は友人たちから素朴なプレゼントをもらっていた。平べったい水筒である。その表面には次のような文字が乱暴に刻みこまれている
「ヴィクトル・クローヴリンへ、18歳の誕生日にあたって。1941年9月29日」。文字の下には同じ道具で刻まれたネフスキー橋頭堡の落書きがある。線で描かれているのはモスコフスカヤ・ドゥブロニカの集落、ネヴァ川に架けられた仮の舟橋、そして橋頭堡自体だ。クローヴリンがこのプレゼントをもらったその日のうちに舟橋はドイツ軍の砲火で破壊された。それから1ヶ月のうちに海兵旅団はほぼ全滅した。」


ネヴァ川にはたくさんの若い兵が沈んでいる。


同じ頃、市内に暮らすゲオルギー・クニャーゼフ(ソ連科学アカデミー文書館長)が日記に記す。

『もし愛する妻を失い、わが都市が破壊され荒廃し、私に任されている文書館が全滅させられるのを目にすることになれば、何のために私は生きていなければならないのか?だが、殺されない場合、どのようにしてこの世を去るべきか?何よりも簡単な方法は縊死ということになる。美しくない最期だが、確実だ』

自分の領域が全て奪われる場合および自分が自分でなくなる境界を越える場合、死を選ぶしかないという考え。「これは将来の話」と断りつつ、極限を予想し覚悟を決めておく。そして確実にその「将来」は来る。
市内は秋が深まり、冬が近づいてくる。それはじりじりと闇へ引きずり込まれるような経過だった。

1941年10月。
カビの生えた小麦粉、油粕、倉庫の床掃除で集めた粉、で作ったパン。1日200グラム。松の幹。
11月。
犬と猫が市内の通りから消えた。
家具からとった膠のゼリー、壁紙、革ベルトを煮て食べる。この頃から階段を上るのが困難になる。
前出のユーラの日記。
「もう日記を付けている時ではないと母は言う。けれども僕は続ける。今後、自分が読み返す機会がなくなったとしても、多分、別の誰かが読み返して、ユーラ・リャビンキンという人間がこの世に生きていたこと、どんな人間だったか知るだろう。そして僕のことを笑い種にするだろう、そうだとも…」
「自分の夢に別れを告げるのはつらい。身を切られるよりつらい」


11月。パンは1日150グラムに。
10歳の少年の日記、「猫のフライを食べた」
市場には人肉のソーセージや煮こごりが出ている。親は子を遠くに使いにやることを控えた。

18歳の画家エレーナ・マルチラは、教授に目に入ったものを描き、記録するように言われた。
画家の観察眼が、信じられない様々な場面をとらえる。
人々が防空壕で怯えている中、居合わせた老音楽家がバイオリンを弾き始めた。

『彼は本当に勇気ある人だ。そして今、私は恐怖を感じていない。私たちの周囲では爆発が起きている。そして彼は私たちを安全な場所に導くかのようにバイオリンを弾いている。恐怖はなぜか弱まった。恐怖はもう私たちの体外に出ていた。そして私たちの体内には自分の音楽が響いていた。とても強烈な一体感があった』

あるとき、同じ防空壕の中のある少年が、飛行機の音で機体の種類や発射された爆弾の種類を判断、落下距離なども言い当てる。静かな口調で。

『その少年はまるで50年かけて50歳になったようだった。少年の顔はとても老けて見えた。そしてこの老化をとおして私が感じたのは、少年が子供時代の純真さをうばわれたということだった。彼の当然の好奇心が戦争のおぞましい機械とつながっているのを耳にしてぞっとした。しかしその時、私は少年の落ち着きがほかの人たちを安心させているのを見た。私はもっと近くから彼の顔をのぞきこんだ。私がそこに見たのは神秘的な知恵だった。私は小さな子供が賢い老人のように見える場合があることを理解した』



ネフスキー大通り どちらか片側は常に砲撃リスクが高かった


餓死は日に日に日常になっていく。エレーナ・スクリャービナの日記より。

「人々は飢えて弱ってしまって、死に抵抗できなくなっている。まるで寝入るように死んでいく。周囲の人たちも半死の状態なので、彼らに全く関心を向けない。死は一歩ごとに見られる現象になった」

飢餓の恐怖が根を下ろすにつれて、レニングラードの生き残りはもはや単なる数学的方程式ではなくなった、と感じたのはレニングラードの数学教授エウゲニー・リャーピンである。
人はエネルギーが不足すれば、次の段階として体内の脂肪などの蓄えを消費して生きる。しかし、過大なストレスによってそのサイクルが機能しなくなる。方程式の不成立。

『封鎖中にしばしば、少量のエネルギーの予備がまだ体内に残っているのに、そういう人が死んだ。彼のストーブは働き続けることができたはずだ。それなのに彼は死んだ』

蓄えのエネルギーがゼロになる前に、希望がゼロになった結果だろう。これが重要な岐路だった。

「ユーラ・リャビンキン少年も自分の絶望を見せないように頑張っていた。…帰宅後、母親や妹と口論した。『私たちはみな怒りっぽくなっている。もうずっと、母から穏やかな言葉を耳にしたことがない。…原因は、飢え、そして絶えずつきまとう砲撃と爆撃の恐怖』」

あとは弱肉強食本能だろうか。
しかしそんな人間性の崖っ淵にあっても、人間性を失わない人々は必ずいるのである。
エレーナ・マルチラの回想には二つの母子の像が現れる。
楽譜の入ったケースを小脇に、大きな重い楽器(ダブルベース)を橇で引く。子どもが橇の後ろを押している。母は他の人たちに希望を与えるためのコンサートに向かっている。

「今にも壊れそうだが、それでもなお力を持ち、働きかけようとする何かの存在を感じた」「もし2人が死ぬとしたら、一緒に死ぬだろう」

もう一つは、住宅ブロックの入口前で当直に立つ女性。眠っている子を抱いて、まっすぐに、静かに、堂々と立っている。その姿には、「死ぬなら、私たちは一緒に死ぬわ」、そんな挑戦的な不動のメッセージが感じられたという。
マルチラはこれを絵に描き気づく。「私が制作したのは聖母でした」、レニングラードの聖母…

「形は見えないが非常に怖いものの接近を彼女は感じた。幼い子供たちはそれを見ることができるようだった。彼らはマルチラの肩越しに、近くの一点を見つめた。そこには視線を向けるようなものは何もなかった。しかし、子供たちの顔は恐怖でひきつった」

「封鎖下のレニングラードでは『ベッドに行くな、危険だから!』と言い習わされてきた。自分はこのまま死ぬというある種の動物的直観があったときは、眠りについてはいけなかった。マルチラもそのようなときがあった。
『もしこのまま死ぬなら、画家として、手に絵筆を持って立派に死なせて』
寒く暗い、絶望的に静かな部屋で自画像を書き続けながら、やがて仄かな明かりが差すのを見る。それは、目にすることはないだろうと思っていた朝の光。
『私は死ななかった。もう死ぬことはない。私は生き残る』


ユーラ・リャビンキン少年は生き残れなかった。
「1942年1月3日の日記。
『僕は生きることを熱望している』
3日後。
『ほぼ完全に力がなくなった…時間がだらだら過ぎて行く、長く、いつまでも!…おお、神よ、僕にいったい何がおきているのか?』
『…食べたい、食べたい…』」



有名なターニャの日記。家族が次々に亡くなっていくのを、学習ノートの切れ端に『○月○日○時、○○が死んだ』とだけ綴る。最後のページで母が亡くなり、『残ったのはターニャだけ』。その後しばらく一人で枯れかかった植木鉢を抱えて生きていたが、保護されて疎開した先で亡くなった。



路上で倒れた人に、居合わせた人が手を差し伸べるか否か。ヒトラーは諜報員にそれを観察させていた。それが都市の崩壊プロセスのバロメータになるからだろう。
レニングラードでこの時期、手を貸す人は稀になった。心情では助けたい、しかし手を貸しても助けることはできず、自分も倒れて起き上がれなくなる。もう疲れた、それもいいかもしれない。でも、家では子どもがまっている。…そんな葛藤をする人がいる一方、追い剥ぎのように、倒れた人のポケットをまさぐり、配給券を奪っていく輩もいた。

共同墓地に橇で遺体を運ぶ
通りには野垂死にの死体もあちこちにあった
棺を造る木材はなく、大きな穴に共同で埋められるだけだった。仕方ないことだったがそれは虐殺現場の死体埋蔵と大差がない。家族は無力感で深く傷ついた



「ヴェーラ・ロゴワはレニングラードのある橋を渡ったとき、前の男の人の歩みがしだいに遅くなるのを目にした。その人は橋の向こう側に着くと、雪の中に沈みはじめ、それから大の字になって倒れた。ロゴワは、その人が死にそうなことを悟った。彼女はポケットに小さな氷砂糖のかけらを持っていた。そしてちゅうちょすることなく、その見知らぬ人のそばに行き、口の中に砂糖を入れた。通行人の誰かが彼女を叱りつけた。『どうしてあんたは自分の砂糖を無駄にするのか?彼にはもうそれが無駄だということが分からないのか?』その人は実際、五分後に死んだ。しかし、ロゴワは顔を上げて、はっきり言った。
『私はこの人を見捨てられたまま死なせたくないのよ』


イーゴリ・チャイコによる。
「『死体、死体、死体。雪だまりの上や、市内の通りや横町に放置されている。毛布、カーテン、シャツに包まれて。死者の多くは頭の周りに色鮮やかな布を巻いている。これは死体を集めに市内を巡回する自動車が雪の中の死体を見落とさないようにするためだ。死体を集める作業員は自分たちの仕事を色集めと呼んでいる』
チャイコが気づいたのは、人間的感情が硬化し、鈍くなった人が多いものの、それでも中には尊厳と思いやりの貴重な火種を残す人たちもいるということだった。彼がそれをもっとも強く感じたのは、死んだ子供を遺体安置所へ運ぶ悲しみに打ちひしがれた母親たちにである。彼女たちは布でくるんだ小さな遺体をいとおしげに抱きながら、厳しい空気の中を何キロも歩いていった。」


しかし悲劇のもう一面には、自分の死んだ息子を切り取ってメンチカツを作る母親もいた。



1942年1月29日の気温はマイナス32度。
街の景観は一変していた。暖炉に焚べるために、市中の塀という塀がなくなったからだ。それでも、街路の白樺や菩提樹に手をつける者は誰もいなかった。彼らはまだレニングラードが生きていると信じていたのだろう。

木材を運んでいく男たち




市内向けのラジオ放送で、レニングラードの詩人オリガ・ベルゴーリツは苦境の市民に心の言葉をかける。

『私は砲撃の間もあなたがたに語りかけます。砲撃の光を明かりにして…。
敵ができるのはつまり、破壊し、殺すこと…でも、私には愛することができる。私の魂には数えきれない財宝がある。私は愛し、生きていく』


春がくる。
街がどんなに変わってしまっていようと、太陽の光が温かさを帯び、人々のやつれた頰を差すようになる。草を食べる。もうずいぶん野菜を食べていない。草を求めて、幼い兄妹は連れ立って、赤い布で警戒されている地雷原にも入っていく。大丈夫、すっかり痩せて枝のような彼女たちの重みでは地雷は目をさまさない。

1942年春


6月11日の夕べ。ヴェーラ・インベル。
『銀色の阻塞気球が薄いピンク色の空に昇り、空に溶け込みそうに見えた』
『砲撃が毎日ある。でも、やはり春だ』
『立ち直りが早いレニングラード人たち!』


その一方で、アンナ・リハチョワは…。
『自然がますます生き生きとし、太陽が光を強め、緑が濃くなればなるほど、私は落ち込んだ。春は凍りついた感情を目覚めさせ、残酷にも私個人の悲しみを思い出させた。わたしは愛する息子の死を強烈に感じる。それは私が昼も夜も泣けるほどの苦痛と絶望を呼び起こす』

一人一人がつらく重いものを背負い、生きる、あるいは死に…
多くのものを諦め、失い…
それは一つ一つがどれもレニングラード内で起きていたことであり…

それに対しレニングラード市当局の態度はこうである。
「レニングラード市当局は、市を襲った悲劇に情緒的にかかわろうとする一切の行為に不信感を抱いた。そのかわりに、英雄的精神という壊れやすい概念をつくり上げた。すなわち、自制的な忍耐力は称揚するが、それを生み出した絶望的な困難は否定する概念である。
人前での悲しみの表明は国家に対する犯罪と見なされた。だが、庶民の経験の核心にあったのはまさにそのような悲しみだった。」


オルガ・ベルゴーリツは、自分が読んだ封鎖中の多くの日記について、回想記にこう記した

「これらの日記の沢山のページからは勝利したレニングラードの悲劇が、焼け焦げた匂いで、氷のように冷たく漂ってくる。これらの日記には個人が毎日の心配、努力、喜び、悲しみについてまったく率直に書いている。そして大抵の場合、深く個人的なことは同時により普遍的、より一般的なのだ。歴史が突然、気取らない、生きた人間の声で語りはじめる」


最初の、11歳の少女コージナの記憶。
1944年秋の一景。

「コージナは、この瞬間に何かとても重要なことが起きていると感じた。『ある難しい内面的かだいが、沈黙していなければならないという課題が達成されつつあった。しかし、私たちはそれが何であるか分からなかった』
ドイツ人たちは歩き続けていた。コージナはスローガンをぜんぶ知っていた。『子供たちを殺した者に死を!』『暗黒のファシスト軍団、呪われた略奪団との戦いに決起せよ!』。そして彼女は戦いが依然として、だがはるか遠くで続いているのを知っていた。『爆弾がドイツの諸都市に雨あられのように降り注いでいた。今、2〜3年前の私たちと同じように寒い地下室で身をかがめているのはドイツ人だった。今、空の爆音を聞いてどういう型の飛行機がやってくるのか、何を運んでいるのかを言い当てることができるのは、ドイツの子供たちだった」
『何かが私たちの内部で置き換わった。彼ら、これらの捕虜たちは軍団ではないし、呪われた略奪団ではなかった。疲れ切った、みすぼらしい、私たち自身と同じように栄養不良の人たちだった。彼らは敵で、人殺しだったのだろうか?そのとおりだ。しかし、私たちには復讐心はなかった。私たちの背負う、言い表せない悲しみの荷物はとてつもなく重かったし、私たちの喪失はとても取り戻せるものでなかったので…ほかのものに比べようがなかったので…復讐を考えるのがばかばかしかったのである。彼らから何を取り上げることができただろう、そしてそれが私たちをどう救うというのだろうか?』

『…悲しみに沈んだ通夜のさい、時として光と自由の不思議なひらめきが起きることがある。まるで私たちが重荷を背負って立っているのでなく、ゆっくりと苦労しながらどこかの場所へ、憎しみも死も流浪も、あるいは絶望もない場所へ昇って行くかのように』

『静かな早秋、1944年の秋のレニングラードは、使用禁止の建物の吹き飛ばされた窓から彼らと私たちを凝視していた。私たちの頭上には晴れた夕空が穏やかな広がりの中で燃えていた』



レニングラードのゲニウスロキ(地霊、守護精霊)が存在するなら、何もなかったかのように、落ち葉を降らせ、雪を降らせ、また土地を覆うだろう。隠蔽したがった人たちさえも等しく。
ネヴァ川の底の若い兵、ラドガ湖の底の子供達、共同墓穴の土の下に眠る人たち…
幾年も凍りながら融けながら、"どこかの場所"へ向かうだろう。


「自分の夢をあきらめねばならないのはつらい。
身を切られるよりつらい」

前出のユーラのこの言葉が、心にトゲのように刺さっている。
若者にこんな思いをさせないのが私の願いだ。

砲撃や空爆で荒廃したレニングラード


レニングラード郊外のペテルゴフ(当時ペトロドヴォレツ)の夏の宮殿は前線となり、荒れ果てた。ロープシャ宮殿も同様であった


『ロシアの戦い』より
ラドガ湖物資輸送に関する動画












ヴァンゼー会議 75年前のベルリン

2017-01-20 21:21:56 | 出来事
1942年1月20日正午より
ベルリン湖畔の瀟洒な邸宅のダイニングにて
議題『ユダヤ人問題の最終的解決』

Endlösung der Judenfrage







ベルリンのヴァンゼー(湖)ほとりに今もある美しく白い邸宅は、別荘として建てられたものであり、75年前はナチス親衛隊が所有していた。
ここで1942年の今日(1/20)、会議があった。

主催者はSD(Sicherheitsdienst:親衛隊情報部)長官ラインハルト・ハイドリヒ。
招待者は、

ハインリヒ・ミラー
(国家保安本部秘密警察局局長)
ゲルハルト・クロップファー
(党官房法務局長)
フリードリヒ・ヴィルヘルム・クリツィンガー
(首相官房局長)
オットー・ホフマン
(親衛隊人種・移住本部)
ゲオルク・ライプブラント
(東部占領地省局長)
アルフレート・マイヤー
(東部占領地省次官)
ヴィルヘルム・シュトゥッカート
(内務省次官)
マルティン・フランツ・ユリウス・ルター
(外務省次官補)
エーリヒ・ノイマン
(4ヵ年計画省次官)
ルドルフ・ランケ
(ラトヴィア地区SD Sipo指揮官代理)
ヨーゼフ・ビューラー
(ポーランド総督府)
カール・エバーハルト・シェーンガルト
(ポーランド総督府SD Sipo指揮官)
ローランド・フライスラー
(司法省)
アドルフ・アイヒマン
(秘密警察局第Ⅳ部ユダヤ人担当課長)

上記15名、ナチスの組織の高官がそろっている。
この会議がこの日に行われたことが明らかなのは、文書が珍しく残っていたからであり、その文書の真偽についても関係者の日記や手記などから大方信頼できるとされている。

招待状、会議資料の一部だったと思われるプロトコル、会議内容に関する当事者間の手紙と、もう一つは議事録で、これにはハイドリヒのサインも記されているが、議事録については1947年にアメリカ軍が外務省で発見したものであるため、これは捏造の可能性がなくはない。(しかし、ニュルンベルク裁判では証拠資料として利用された)

この点から歴史修正主義者は、議事録等は偽物とみなし、この会議は実際には行われていない、行われたとしても議題の『最終的解決』が殺害を指すとは言及されていない、絶滅収容所は連合軍による捏造、とまで修正の筆を入れる。日本での南京大虐殺の扱いと類似している。
『最終的解決』が抹殺、『特別処置』が殺害であることは逃亡後逮捕されたアイヒマンが認めた。

しかしナチスによるユダヤ人虐殺はこの時期に始まったことではなく、前年夏から着々と実行されてきた。ではこの会議の目的は何だったのか。
ヒトラーもヒムラーもゲーリングも不在の会議ゆえ、それほど重大な決定があったというわけではない。ただ、この優雅な湖畔の広間で、戦争とも虐殺ともつながりのなさそうな空気のなかで、しめやかに話題にされたのが残虐極まる『解決』だったことに、人間の深層に潜む悪の存在をまざまざと感じる。そして、目に見える世界との乖離の残酷さ。(もしくはそれは救い?)



ナチスのユダヤ人問題を振り返ってみよう。
ヨーロッパでは20世紀初頭から〈衛生観念〉が広く浸透し、次第にそれは思想にも影響して〈純化〉が国家や民族にも求められるような動きになった。
ドイツ帝国ではそれが強く民族に向けられるようになり、社会ダーウィン主義やアーリア学説によって、「アーリア人種」中の「北方人種」を「主たる人種」と位置づけ、周辺のユダヤ人、ロマ、スラヴ人を劣等とした。もちろんここには総統であるヒトラーの意志が根底にあったのだが、主にイデオロギーを誘導したのはSS(Schutzstaffel:親衛隊)長官ハインリヒ・ヒムラーであった。
当初、党綱領においてこれらの人種に対しては国外追放を施策としていた。「処理」つまり抹殺を目指してはいなかった。計画では、1941年6月の独ソ戦展開により東方に領土を得て、そこへ「移送」することにしていた。しかしソ連との戦いに苦戦、移送の方針では維持できないことが明らかになる。


戦争の初期から、国防軍の後方に付いて敵性分子を銃殺する部隊アインザッツグルッペン(Einsatzgruppen)は存在した。冷酷で『金髪の野獣』とあだ名されたSD長官ハイドリヒの下部組織で、オーストリア併合以降、パルチザンや共産主義者の銃殺を行なった。東部方面でのみ展開。
次第に民間人も対象になり、対ポーランドでは主に知識人の殲滅後、一般市民を奴隷化する計画で、教員、貴族、叙勲者、指導者層が集合させられ、森や野原に連行され、銃殺後にその場に埋めた。
1941年7月、占領下ソ連でのアインザッツグルッペンによる大量虐殺。この頃、銃殺の対象からロマのような少数民族は除かれ、ユダヤ人を重点的に抹殺する方針に転換された。戦況が思うように行かない焦りによって、ヒトラーのユダヤ人への敵意がむき出しになったのだろう。1941年10月からはヨーロッパに残る全ユダヤ人を対象にした。
この過程で、〈純化〉のために、追放から殲滅に方法を変えている。


ヴァンゼー・プロトコルと呼ばれている会議資料
ヨーロッパ全体のユダヤ人の数をリストアップしたもの。AとBの分類は当時の勢力圏によるものか?ヨーロッパの隅々までもれなく把握、計上されている徹底ぶり。
Estland judenfrei とある。エストニアはユダヤ人ゼロ、を示す。


そうなると、アインザッツグルッペンによる銃殺ではなかなか効率が悪い。また、国防軍はアインザッツのあり方を嫌い、戦闘に差し支えるとして同行を拒んでいた。
また、SS長官ハインリヒ・ヒムラーが銃殺のもようを視察した際、ショックのためか気分を悪くして倒れそうになったことがあった。銃殺では感情的に負担が重いと考え、それまでに行われていた安楽死計画(T4 Aktion)の担当者の協力を得て、ガス室付きトラックで試験的に、ソ連兵捕虜を毒薬チクロンBで大量虐殺した。ヒムラーはガス室視察においても気分を悪くし、物陰で吐いていたらしい。No.2のハイドリヒに冷たく嘲笑されている。ヒムラーは善悪の振り幅が大きいと感じる。今後、もっとも調べてみたい人物である。

左ヒムラー 右ハイドリヒ


ヒムラー

ハイドリヒ

こうした実験を経て、強制収容所ならぬ絶滅収容所が1941年11月からポーランドに次々に建設された。ベウゼツ、ソビボル、トレブリンカ、ヘウムノ、マイダネク、アウシュヴィッツ=ビルケナウ‥
1942年に入ってからはこれらの殺人工場フル稼働。列車がせっせと運んできては、使えそうな者をいくらか残して、あとの者はわけのわからないうちにさっさと始末される。





実は、ヴァンゼーでの会議は1941年11月29日に予定されていたのだが、この頃、日本の参戦、ドイツのアメリカへの宣戦布告など、大きな動きがあったため、延期になったのだった。
すでに前年からユダヤ人虐殺は進んでいたのに、年が明けてから改めて「最終的解決」を議論するのはおかしくないか、という見方もあるが、本来は、絶滅収容所が建設されて本格的に始動する時期に予定された会議だったこと、また、集められたメンバーから考えると、関係先の機関や省との連携を確認し、横の繋がりで協力関係を築き、速やかに事を運ぶ体制作りが目的だった。ざっくり言えば、親睦会とか壮行会程度だったかもしれない。招待状によれば正午から昼食付きの90分間、ちょっとしたブレインストーミングです、というお誘いだったようだ。
ただ、ナチスの傾向として全てを声高に厳格な意味づけを行うのが常である。


ポーランド総督府長官ハンス・フランクが1941年12月16日の集会で総督府高官らに以下のように語ったことでも、会議が予定されていたことがわかる。


‥1月にこの問題について議論するための重要な会合がベルリンで行われる。私はこの会合に次官のビューラー博士を送る予定だ。国家保安本部の高官とラインハルト・ハイドリヒの元で行われる会合だ。その結果で、ユダヤ人の大量の移住が始まる。だが、これらのユダヤ人に何が起こるのか?きみたちは、彼らが東方に移住し村を作って住んでいるところを想像できるだろうか?ベルリンで我々は話した。なぜ、これらの問題全てが我々に降りかかっているのか?東方や帝国の辺境で、我々が彼らにできることは何も無い。彼らは自分たち自身を消し去るしかないのだ!・・・ここには、我々が射殺することも、毒殺することもできない350万のユダヤ人がいる。しかし、我々ができることは、1つか2つの策、それは彼らを消し去ることである。帝国では方策に関連して議論中である。・・


消し去るという目的は明らかにしても、方策は明らかにしていない。絶滅収容所の存在は、終戦までほとんどの人が知らなかった。ポーランドで軍務していた者のうち、少数が見聞きした程度の情報が耳打ちで伝わってはいたが。
ところで、このハンス・フランクは自身の中の二面性に苦しむところがあり、人間の弱さを晒しながら生きたナチス党員であった。「ぶれる」「ぶれない」とよく話題になるが、ああした時代に戦争中の国家とともに迷走し続けたトップの一人として、気丈にモラルを保ち続けることのいかに困難なことか。彼らは軒並み、IQはハイスコアだった。
フランクはニュルンベルク裁判で死刑になった。フランクはヴァンゼーの会議には出席していないが、あの会議に出ていた者で死刑になったのはアイヒマン一人。ヒトラーの後継者とみなされていたハイドリヒは暗殺されている。ローランド・フライスラーは悪名高き裁判官であり、反ナチスに対し裁判中に恫喝、判決の9割は死刑だった。空襲の瓦礫に埋まり死亡。
出席者15人中1人死刑、2人自殺、3人は暴力を受けての死、他は長く生きた。


恐ろしい虐殺の計画は、静かな日常のなかで練られた。遠くには、第一次大戦とつながっていなくもないが、穏やかそうな日常のすぐ隣、そこから残酷な萌芽が始まっていることもある。
これはドイツの場合であって、ソ連の残酷さはきっと異なる空気の中から芽生えるようにも思う。世の中が目に見えて歪み始める前に、種は撒かれている。厄介きわまりない。しかしどんなに禍々しい事件にも、胎動期は必ずあったといえる。




ドイツ語の記事だがちょうどこういうのが出ていた。施設は現在は博物館になっている。写真で様子がわかる⬇︎

75 Jahre Wannsee-Konferenz : Die Erfindung der Tötungsmaschinerie - Berlin - Tagesspiegel Mobil




ヴァンゼー博物館のホームページ⬇︎
House of the Wannsee Conference11 - Home









追記

1月27日はホロコースト犠牲者を想起する国際デーです。
194年1月27日に、アウシュビッツ収容所がソ連軍によって初めて解放されました。
人種差別が暴走するとこのような事態に陥る‥
という歴史を、世界の誰もが知っているはずです。これは絶対に繰り返してはいけない、ということもわかっているはず。

国家のトップのむき出しのヘイトが国民に共有された。これが湖に投げられた一石。
アムネスティの主張も合わせて未来も考える。
過去に手を置き、自分の心に手をあてて。

Folgenden interessanten Artikel habe ich bei Tagesspiegel gefunden

Beware hate speech, says Auschwitz Holocaust survivor

"We will fight this dangerous move with everything we’ve got. This wall would say that those from outside the United








キェルツェポグロム 憎悪と怜悧な撲滅

2016-06-14 23:18:02 | 出来事
なぜアウシュビッツ後に?
なぜアウシュビッツ後のポーランドで?
生き残ったユダヤ人を襲う残忍な人間性


絶滅収容所への引込線

おもな参考文献
FEAR Anti-semitism in Poland after Auschwitz,An Essay in Historical Interpretation
/Jan Gross 2006
「アウシュビッツ後の反ユダヤ主義 ポーランドにおける虐殺事件を糺明する」
染谷徹 訳



第二次大戦が終わった翌年、ナチスにより9割が「始末」されたユダヤ人、その生き残りをポーランド市民が襲った。共にナチスに虐げられ、そのうちのより一層過酷に虐げられた、元は隣人だったユダヤ人に対し、残虐極まる殺戮が起きた。
なぜこの時期に、なぜこの国で起きたのか。
人間性の根底の救いようのない闇を認識しておかねばならない。


反ユダヤ主義の歴史
ユダヤ人に対する迫害や虐殺は、ナチスによる所謂ホロコーストに限らず、千年以上にわたって繰り返されてきた。国家政策として大規模に展開したものがホロコーストであるが、あらゆる地域で自然発生的に、あるいは時の国家権力の誘導によって小規模に連動したものを、一般にポグロムと呼ぶ。
歴史的に国家を持たなかったユダヤ人であるが、その存在するところには必ず迫害が横行した。
その原因の根底には宗教が関係している。
一つには、キリスト教においてユダヤ人はイエスを殺したとみなされていること。さらに、キリスト教では認められていない「金貸し業」をユダヤ人が担っていたため、恨みや妬みの対象になりやすかったこと、などがある。
このようなトラブルを収めるために、13世紀、ポーランド公はユダヤ人の権力や安全を保障する「カリシュの法」を制定したため、ポーランドを中心とする東欧地域にたくさんのユダヤ人が居住するようになっていた。
しかしこれは国家の権力者の定めた法令であり、庶民にとっては不服もあったことだろう。一揆や乱が起こるに乗じて、ユダヤ人が虐殺されることはしばしばあった。
ポーランド分割後は庇護を失い、ロシアにおいては皇帝によっても迫害された。

ウクライナ リヴィウ 囲まれたユダヤ人の少女

ウクライナ リヴィウ 集められたユダヤ人
悲しみにはりさけそうな表情



東欧でのポグロム暴発
1941年、独ソ不可侵条約を破り、ナチスドイツが東欧に侵入し始める。そのとき、東欧各国ではゲシュタポの到着を待たず、ユダヤ人を虐殺した。
際立った動きは以下の通り。

ウクライナ
「我々にユダヤ人始末の権限を与えよ」
ウクライナ人は、それまでにポーランド人やユダヤ人の陰となって生きてきた。ナチスには「劣等人種」と蔑まれ、大量虐殺もされた。にもかかわらず、ナチスの将兵に進んで協力し、ユダヤ人を見つけ次第、殺害する。その迅速性ゆえに、ウクライナには収容所を作る必要がなかった。

ウクライナ リヴィウ 女性は囲まれ、服を脱がされ、ときには衆人環視の中で強姦される ドイツ兵やソ連兵にではなく、それまでの隣人たちに

棍棒を持った子供らに追い回されるユダヤの女性
この残酷な虐待に子供まで加担している


ウクライナ リヴィウ 住民によるポグロムの間、見物するドイツ兵


リトアニア
ドイツが攻めこむ前から既に、独自にポグロムを行う。その徹底ぶりにより、ユダヤ人生存者は1割となった。一夜にして男女子供は殺され、四肢はばらばらに転がる。むしろ、リトアニア人によるユダヤ人攻撃が落ち着くのは、ドイツ人が占領するようになってからだという。
「私たちを隣人から守るためにナチが出てくるなんて、変なことになったものだ」
なお、杉浦千畝の計らいで国外脱出できたものは多くはアメリカ、一部は神戸に身を寄せた。

リトアニア カウナスの虐殺
狩りの手柄の記念撮影か 地面は血の海



ルーマニア
エスカレートした民衆による殺害は、想像を絶するほどの残酷さだった。集められたユダヤ人は家畜の場に連れて行かれ、家畜同様のやり方で殺され、そして家畜同様のやり方で「吊るされた」。或いは、吊るしておいて、生きたまま皮膚を剥いだ。5つにもならない幼女の死体も逆さに吊られていた。その残虐ぶりにはナチスでさえも耐えられなかったらしい。

ルーマニア ヤッシーの虐殺で犠牲になった子供の写真


ハンガリー
ゲシュタポ以上に厳しい憲兵の摘発により集められたユダヤ人は、ブタペストからオーストリア国境まで「死の行進」を強いられた。不眠不休、飲食禁止のこの行進を、スウェーデンの外交官ラウル・ワレンバーグはトラックで追いかけ、食料や衣服を与え、一部はトラックで連れ戻した。
ワレンバーグは保護証書を大量発行してユダヤ人を保護し、ほかにセーフハウスも設けた。
ワレンバーグはその後、ソ連との話し合いに呼ばれたのち、行方不明となった。その消息は現在でも明らかになっていない。

ラウル・ワレンバーグ 1947に消息不明


ポーランド
この時期の、一般市民によるポグロムとして有名なイェドバブネ事件の他、30件以上の虐殺が起きた。数百人が瞬く間に殺害されたイェドバブネ事件は、最近に至るまで、ナチスの誘導で起きた事件として目されてきた。しかし後代、上記の本の著者グロスの前著にて、ナチス関与が否定されたことにより、それまでのポーランド社会の被害者意識は豆鉄砲を食らうことになった。

このように、東欧では一斉に、民衆によるポグロムが暴発した。ここにあげていないスロヴァキアやオーストリアでも事態は同様であった。

イェドバブネの小屋の焼跡から見つかった鍵
広場に集められた後、すぐに家に帰れると思っていたらしい



アウシュビッツ以前のポーランドのポグロム
イェドバブネ事件

1941年7月10日、ゲットーから連行されたユダヤ人あるいはたまたまその地を訪れていたユダヤ人が広場に集められ、危害暴行を加えられる。そのうちの40~50人が連れ出され、レーニン像破壊とともに殺害され、像の残骸もろとも埋められた。
その1~2時間後、広場の残りのユダヤ人(女性や子供多数)がユダヤ人墓地前の小屋に閉じ込められ、外から火を点けられ、焼死。およそ40人の非ユダヤ系ポーランド人が主謀した。

この時点で、ポーランドは他の東欧諸国同様、まだアウシュビッツなどの絶滅収容所を経ていない。建設はこの後だからである。


絶滅収容所とポーランド
ポーランドは、絶滅収容所を知っている。
それはポーランドにあったからだ。
知らないはずはなかったが、収容所が解体された後、周辺住民はそれを見せられ、「知らなかった」と一様に答えた。
事実上、知っていたに違いない、しかし無関心だった。それは他者の問題であって、自分は「それ」ではないという優越に浴していた。

黒い灰を落とす‥
「春、陽光、4月の雲、そして黒々と執拗に舞い降りてくる黒い雪片、黒い煤の片。
「ゲットーからよ」。
そう言って、母は窓の下枠から黒い雪を払い落とす。私の顔からも、目からも黒い雪を払い落とす‥
「何も心配することはない。ゲットーの中のことだから」‥」

ワルシャワに住んでいたハリナ・ポルトノフスカが60年後に回想している。

「‥黒い雪が降ってきたとき私はいったい何を感じていたのだろうか。何も感じなかったのだ。いや、本当に何も感じなかったのだろうか」

絶滅収容所近辺の村にも黒い雪が降っただろう。
白い雪は黒いものを消してくれない。払い落とさねばならない。その目からも。
彼らは知っていたはずだ。
フランス人やドイツ人はむしろ、目の前で連れて行かれたユダヤ人の行く末は知らなかったから、絶滅収容所の実態を知ったときには驚愕した。収容所の所在地のポーランド人は、自らが協力して連行させたユダヤ人の運命を知っていたはずである。元隣人の残酷な結末を、戦時中から知っていたはずである。
これが、なぜ絶滅収容所のあったポーランドにおいてポグロムが再発したのかの疑問である。

絶滅収容所 煙突が見える

アウシュビッツ以後のポーランドのポグロム
戦争が終結して、絶滅収容所の惨劇を知った世界は、ユダヤ人へ同情を寄せた。戦争していたどの国でも悲惨な戦禍で苦しんでいたにもかかわらず、ユダヤ人の受けた残酷な苦しみをとりわけ憐れんだ。
ところが、ポーランドの隣人はそうではなかった。ポグロムが各地で起こったのである。

終戦後、ユダヤ人が自分のいた地に帰ってくる。
国内のどこかで避難していた人や絶滅収容所で生き残れた人8万6千人、ソ連から解放された人13万6千人。かつての隣人が冷やかに迎える。そして、ここにいては危険だからすぐに何処かへ行くように、と。そしてこう付け加える。

「あなたの財産を私に渡しなさい。
さもなければ、あなたを傷つける連中が何もかも取ってしまうんだから」

亡くなったユダヤ人の財産は、ポーランド人が受け継いで良いことになっていた。ところが、絶滅させられたと思っていたユダヤ人が帰ってきた。自分の取り分として手に入るはずだった財産が手に入らなくなる。他の人はまんまと手にしているのに!
そうした妬みが膨らんで、地方で小規模なポグロムが起き始めた。都市部は比較的安全だったため、ユダヤ人は都市部に身を寄せた。
しかし、次には都市部においてもポグロムが起きるようになった。「妬み」だけが原因ではなかったことが次第に明らかになっていく。
1945年8月クラクフポグロム、1946年7月キェルツェポグロム。
当時、都市部ではドイツ人追放やウクライナ民族主義者弾圧、共産党をめぐる抗争もあり、非常に不安定でもあった。しかし、戦後の混乱に付き物のこれらの事件とは一線を画して、ポグロムが起きている。単にその目的は、殺害、略奪だった。


キェルツェポグロム
少年の嘘が虐殺を引き起こす

8歳の少年ヘンリク・ブワシチクはサクランボが食べたくて、以前住んでいた土地の友人のところへ親にだまってヒッチハイクで出かけた。親は捜索願を出した。2日後の晩、ヘンリクはたくさんのサクランボを抱えて帰宅。酔っ払っていた父親に、「ユダヤ人に誘拐されていた」と嘘をついた。
翌朝、父と隣人とともに警察に報告に向かう途中、通りにあったユダヤ人会館を指差し、「ここの地下室に監禁されていた」「入り口にいた緑色の帽子のユダヤ人に連れ込まれた」「他にもつかまっているポーランド人の子供がいた」と作り話をする。プランティ通り7番地ユダヤ人会館、当時、この会館には180人のユダヤ人が居住していた。

事件のあったユダヤ人会館 川のそばのため、地下水が多く、地下室はなかった

民警が事をあらためるために来ると、人々が集まってきて、話は次第に膨張し、「ポーランド人の子供が殺された」と広がっていった。
しかし、この建物には地下室はなく、中を調べた者により、少年が嘘をついたことが明らかになったのだった。本来、これで収束するはずの事態は、もはや収束できなくなっていた。民衆が建物前を取り囲み、建物に乱入しようとする。その場にいた民警も、公安警察も、エキサイトする民衆を制止できない。軍隊も危険を察知し、遠巻きに見守るだけだった。
状況に流された兵士が動いたのを見て、民衆が建物になだれ込み、広場に引きずり出されたユダヤ人は、棒や石で撲殺されるか銃殺された。病院に運ばれた遺体のほとんどは身ぐるみ略奪されて裸だった。結果42人が殺され、80人以上が負傷して病院に運ばれた。病院に運ばれた者には、看護師による虐待が待っていた。
暴徒は駅に入ってくる列車も襲い、年端もゆかぬボーイスカウトの少年がユダヤ人をピックアップして車外に出し、暴徒はここでも撲殺した。
停車中のコンパートメントから、1人の男性が、自分とそれほど年の違わぬ少年に連れて行かれるのを見た10歳の少年。のちに思い出して驚くのは、同じコンパートメントにいた誰一人として、このことに全く無反応であったということ。「黒い灰」を目から払う、それと同じ反応と言えるだろう。

キェルツェポグロムの犠牲者の墓地


「過去に自分が傷つけた相手を憎むのは、まさしく人間の常である」
これはタキトゥスが当時すでに言い古された箴言として紹介した言葉である。
隣人に棍棒を振るった人々。ユダヤ人が報復で彼らに危害を加える怖れがあったからではなく、ポーランド民衆は別の恐怖心を抱いていた。ユダヤ人の存在が、自分の道徳を崩壊させるのをまざまざと思い知らせることに恐怖を覚えていた。自分がまっとうに存在するためには、彼らを排除したい。そうすることで過去を葬りたい。
「加害者には過去に自分が傷つけた被害者を激しく憎悪する性向がある」
戦後のポーランドのポグロムは、決して群衆心理(※)に流された暴発事件ではない。そこには自分の存在のために相手にとどめを刺そうとする怜悧な計画があった。
殺害は日常生活の延長線上で行われている。
調書によれば、「家族でピクニックから帰ってきた後、‥」「仕事から戻って来てから、‥」「プールから帰ってきた後に、‥」殺害に出かけている。友人と何気ない会話をしながら、ユダヤ人に石を投げている。森に連れて行って殺そうとしている相手の交渉に言葉を返している。近所付き合いのあったユダヤ人を撲殺する間、殴られながら愛称で呼びかけ、話しかけている。まるで、学校の裏のリンチのようだ。
「挑発はあったのか」「煽動者がいたか」が争点になる。それがあれば、起きた結果はその者のせいにできる。同じような、隣人による虐殺として、ルワンダのジェノサイドがあるが、あの発端には煽動的なラジオ放送があった。戦後のポーランドのポグロムは、煽動も挑発もなく、心に根付いていた積年のわだかまりに自然発火したものだと言える。
上部機関からの命令に強いられたわけでもない。参加するかしないかは個人の判断だった。ということは、それを止められるのは自らの意志だけだったことになる。暴動を阻止しようとした勇気あるポーランド人にも危害は加えられている。自分を否定する者の存在を許せない。自分が崩壊しないために相手を打ち砕く。人間の心の、暗く冷たい底なし沼に浸される幻覚‥。

(※)「集団(群衆)心理」に見られる性質
⑴過度の情動 ⑵衝動性 ⑶暴力性 ⑷移り気性 ⑸一貫性の欠如 ⑹優柔不断 ⑺極端な行為 ⑻粗野な情動の表出 ⑼高度の被暗示性 ⑽不注意性 (11)性急な判断 (12)単純かつ不完全な推理 (13)自我意識、自己批判、自己抑制の喪失 (14)自尊心と責任感の欠如による付和雷同性
グレーは私がこの事件においては該当しないと考えるもの。つまり、集団の流れによって起こったと考えにくい。


事件との距離 カトリック司祭と知識階級
ポーランドには階級意識が周囲の国々よりも顕著であった。インテリゲンチャ(知識階級)は常に、祖国と名誉のために戦う誇り高き階層であり、第二次大戦で、ポーランドは売国的なファシスト政権は登場せず、独ソから挟み撃ちにされながらも英雄的に戦った。そして悲劇的な犠牲者であり、祖国の被害の語り手になった。
ただし、知識階級の人々の描く祖国には、庶民は描かれていなかった。度々起こるポグロムは、下層階級間の「下々のできごと」として捉えた。
戦後のポグロムに直面しても、当事者ではない知識階級は再び「語り手」だった。

カトリックの司祭たちは、キェルツェポグロムの最中、民衆を説得しようと近くまで来ていた。しかし、近寄るのは危険だと民警に制止され、仕方なく安全なところで待っているうち、早々に事件が収束したので引き揚げた、と報告している。これは本当に「仕方なかった」か。
そして、司祭の尽力で解決したかのような共同声明。ところが、たった一人、そのようなまやかしの声明を述べず、真実を教会で伝えた司祭がいた。ユダヤ人によるポーランド人の儀式殺人の否定、ユダヤ人殺害の事実。ポグロムでは度々、ユダヤ人が儀式のためにポーランド人の子供を襲うとして、儀式殺人の罪を着せて虐殺することがあった。キェルツェの事件では、警察の発表でも教会の発表でも、「人は死んでいない」とされていた。ユダヤ人40人以上が亡くなっているのだが、彼らを人として数えないからである。真実を伝えた司祭は罰せられた。さらに、上位の司教は嘘の上塗りもする。私(司教)の聞いた話では、ユダヤ人に虐待されたと証言してキェルツェポグロムのきっかけを作った子供は実際にユダヤ人に虐待されており、その子供の腕から血を抜いた証拠もあると、英国大使に話し、大使を唖然とさせている。
自明のことだが教会関係者こそ、紛う方なき反ユダヤ主義者である。宗教上、想定しうるものであるのに「寛容」の仮面が取り繕う。

キェルツェポグロム犠牲者の葬儀


擬似的種形成
チンパンジーの生態を研究したジェーン・グドールが、霊長類に起こりうる「擬似的種形成」を報告している。あるチンパンジーの集団で、それまで一緒に育ち、親しく暮らしたメンバーが、グループごと群れから分裂するとき、かつての仲間からは非常に激しく攻撃される。ともに毛づくろいもした元仲間が容赦なく攻撃する様は、それを別のサルに対して仕掛ける襲撃とは異なり、チンパンジーが大型の動物を殺し、解体して餌にするときのような、脚を捻りあげる動作や地面に叩きつける動作まで見られた。大型の動物に対峙するときは、半端でない殺意をもって挑むはずだ。
人の世界でも、最も激しく残酷になるのが「内戦」である。それは、文化的な対立である場合より、一層残酷極まるのは民族対立の場合である。

「5年前には、私は誰がクロアチア人か、セルビア人か、それともムスリムかなど、考えたこともなかった。気にかける必要もないことだった。友人が何という人種なのかさえ知らなかった。恐ろしいのは、いや、それ以上に魂消るのは、人種意識というものがなんと早く広がるかということだ」

ボスニアの三つ巴の戦いは不可解なほど残酷だった。とにかく多くを殺す、絶滅させる、数で勝負の大量殺戮だった。
いままで互いに「友人」だったのが、ある日「クロアチア人」になり「セルビア人」になる。もはや友人ではなくなるどころか、暗殺者になる。


ポーランドの現在
図らずも、ヒトラーが果たせなかった「ユダヤ人なき国家」に、その上、ほぼ単一民族国家になったのはポーランドだった。ユダヤ人は戦後のポグロムを怖れて国外へ、多くはイスラエルやアメリカへと脱出したからだ。
その後、ポーランドでは歴史認識をまとめるための国民記憶院を設けた。その流れの中で、2001年、ヤン・T・グロスが著書『隣人たち』により、イェドバブネ事件にドイツ兵は関与しておらず、非ユダヤ系ポーランド人が主犯だったことを明らかにした。それまで自国の被害者としての立場に落ち着いていたポーランド人達には、受け容れがたい事実だった。国民記憶院はグロスの説をやみくもに否定することをせず、説を検証した結果、大筋で説が正しかったと証明し、国民もそれを受け容れた。加害者でもあったことを、国家も国民も正面から認めたのだ。
これがどのくらい国民に定着しているかの物差しとして、教科書での取り上げ方がある。キェルツェポグロムに関しては、「キェルツェのユダヤ系住民虐殺」という項で6ページが割かれ、そのなかでは煽動説を否定と、国外脱出したユダヤ人亡命を加速させる要因となったと記されている。

歴史を正しく認識することは重要だ。
時に加害者ともなったことを認めねばならない。認めた上で何をするべきかも誤ってはいけない。ポーランド政府は国内国外問わず全てのユダヤ人に謝罪の意を表した。この方針に強く反対する動きは見られなかったようである。

翻って、イスラエルに定住したユダヤ人は、ガザをゲットーにしている。被害者だった者達が、別の地で加害者となっている。
最も長く迫害の歴史を経てきたユダヤ人が、解放された途端、迫害をする側になった。
被害者意識がそれほどまでに強かったのか。
我が身のいたみ以外、他者のいたみなどを想像してみることはなかったからなのか。
その限定された土地に固執するあまりに、人間性を失うその人たちが、アウシュビッツを経てきたユダヤ人なのだとは、信じたくない事実である。

平等な共存を保障しない限り、パレスチナはいつまでも抵抗を続けるだろう。ユダヤの歴史の中で、先に述べたカリシュの法をポーランドから授けられた時、先祖のユダヤ人たちは歓喜した。
法を尊ぶ宗教ならばこそ、カリシュを超える、平和の法を示してほしい。


ビルケナウ絶滅収容所







続・禁断のカチン 黙殺された虐殺

2016-03-10 23:46:34 | 出来事
”われわれの自由剥奪の
理由となった行為は何か”

列強の犠牲になったポーランドの運命




1940年1月7日付、収容所内のポーランド軍大佐の集団が戦争捕虜の待遇に関する国際規範適用を訴える声明文がある。
そのなかに、一考を迫る文がある。

I われわれはソ連政府のわれわれにたいする立場を明らかにするよう要請する。とくに、

1 われわれは少なくとも戦争捕虜とみなされているのか?
そうだとすれば、すべての国が認めている戦争捕虜にかんする規定にのっとった待遇を要請する。
(a~e省略)

2 われわれが逮捕者とみなされているのならば、われわれの自由剥奪の理由となった行為がなにか、正式告訴状を提示するよう要請する。

3 われわれが収容者とみなされているのならば、ポーランド領内で拘留された事実にも照らして、われわれの自由を制限する原因となったわれわれの行動がなにかを知らせるよう要請する。

続くⅡ~Ⅵには生活面の要請が種々なされているが省略する。
ここに上げられているのは、実に素朴な疑問だけである。それだけに突き刺さるものがある。
将校たちにしてみれば、自由剥奪の理由すらわからない。彼らの先の運命が銃殺になるなんて、到底、理解しえなかっただろう。
全体主義や共産主義の道理、戦時の道理の理不尽さと、そうした状況下にさらされた時、個人がどう振る舞ったかを追ってみる。




1. フィンランド共産党指導者アルヴォ・トゥオミネン
ソ連がポーランドへ侵攻したことで、西欧共産党(以下、コミンテルン)とソ連共産党の間に立場の違いが生じた。コミンテルンは、先にナチスドイツがポーランド侵攻したことを受けて、ポーランドを援護する方針だった。
共産党としての目的をソ連の考えと擦り合せる必要を感じたコミンテルンはスターリンに引見した。そのなかで、スターリンはポーランドに対する考えを明らかにしている。

「‥ポーランドはファシスト国家であり、ウクライナ人やベロルシア人、その他を抑圧している。現在の情勢下でポーランド国家を破壊すれば、ファシスト国家がひとつ減ることになる!ポーランド敗北の結果、新領土と新住民にソヴィエト制度を拡大してなにが悪いのか?」

コミンテルンの方針はこれに即、従うことになった。
「ソ連の援助を拒絶し、他の民族を抑圧しているファシスト・ポーランドを、国際労働者階級はぜったいに擁護してはならない」
この方針に全共産党はただ一人の例外を除き、誰も抗議しなかった。
それは、同じくソ連の侵攻を受けたフィンランドの共産党指導者アルヴォ・トゥオミネンだ。
その公開状にこうある。

「‥あるときから、私はコミンテルンの方針に同意できなくなった。とくにコミンテルン指導者が従順な奴隷のように、内外の政策についてソ連指導者の決定を、なんであれ、コミンテルン創立の綱領と国際プロレタリアートの利益に反する決定でさえも、認めて服従する傾向には同意できなくなった。‥どんな巧妙な宣伝をしたところで、ソ連政府が帝国主義ドイツの好戦的・犯罪的政府と同じ帝国主義的政策を採用した事実を隠蔽できないだろう。」

ポーランドをファシストとみなすならば、ソ連も間違いなくファシストだろう。スターリンのとんでもない詭弁に盲従するだけの共産党。
しかし、この公開状を出すのには相当な勇気が必要だったと思われる。トゥオミネンは裏切り者と呼ばれた。


2. 共産党の「潜在的な敵対勢力」

NKVDについて認識しておく必要がある。
NKVDはこうした虐殺や粛清をソ連の定める法的権限内で実行している。その残虐な行為全て、国家に承認されているのである。
「共産主義者はその理論と実践から、自分たち以外のあらゆる階級やイデオロギーと相容れないことを知っており、そのように行動する。彼らは現実の反対勢力のみならず、潜在的な敵対勢力とも戦っている」
これはチトーに追放された、ユーゴスラビア元副大統領ミロヴァン・ジラスによる。
先のスターリンの引用にも、ソ連に何の行動も起こしていないポーランドに対して、それを潜在的な敵対勢力とみなして攻撃に及んでいる。いま、日本で集団的自衛権が言われているが、こういう危険をはらんでいると言えなくはないか。

ともかく、現在のロシアのFSB、その前身KGBにつながる秘密保安警察NKVDによって、その時代、「何らかの敵」とみなされれば死刑は必至。NKVDは裁判官であり死刑執行人、虐殺も粛清も手の内だった。ポーランド将校らは、彼らの尋問を受ける中で、相容れない思考や判断にぶつかった。まるでコントのような、こんな尋問のやりとりがあった。

あるとき私は3人の将校に尋問された(略)
私が画家としてパリで8年間仕事をしていたと知ると、彼らにはそれがきわめて怪しく思えたらしい。「君がパリへ発つとき、外務大臣からどんな指示をもらったのかね?」
外務大臣は私がパリへ行くことすら知らないと私は答えた。「よろしい、しからば外務次官は君に何を命じたか?」
「外務次官だってそんなことは知りませんよ。私はパリへスパイではなくて、画家として行ったのです」
「画家としてパリへ行ったのなら、パリの市街地図を作成してワルシャワの外務大臣へ送れたってことをわれわれが知らないとでも思うのかね?」
パリの市街地図なら、パリのどこの街角でも50サンチームで買えること、ポーランドの芸術家がパリに行くのはスパイとして秘密地図を作成するためではないことを説明したが、どうしてもわかってもらえなかった」

国内の粛清時代と同様の方式で尋問するナンセンス。しかしこの行き違いも、容赦なくクロにされるだろう。国際理解の壁は、現代でも注意せねばならない。



3. ベリヤの提案

「‥全員がソヴィエト権力の矯正不能の敵である事実に鑑み、ソ連NKVDは、
Ⅰ ソ連NKVDにつぎの案件の処理がゆだねられるべきと考える。
‥このすべての案件を特別手続きに従って検討し、収容者に対して最高刑、すなわち銃殺刑を適用することとする。‥」
戦争捕虜管理局長ベリヤのこの提案にスターリンらが署名して、処刑が実行された。
それにしても、「処理」という言葉の無味乾燥な響きには、「浄化」と変わらぬ残酷を感じる。

この提案者ベリヤは、のちにこのことを後悔したかもしれない。ポーランド将校が軍再編成に関してベリヤと話し合う。その中で将校が、
「では、どこから将校をみつけてくるのでしょうか?私としては部下の将校をスタロベルスクとコゼルスク収容所から呼びたいのですが」。
ベリヤはこう答える。
「その人たちは来られない。‥われわれはたいへんな誤りを犯した。たいへんな誤りを犯した」
当時、まだ将校たちの消息はわからないままだった。ベリヤのこの「誤り」ということばが何を暗示したか。それ以上のことはまだ、土の中にしまっておかなければならなかったのだ。



4. ヤコフ・ジュガシヴィリ

「1万や1万5000のポーランド人が殺されたくらいで、こんなに騒ぎ立てるとはいったいなにごとかね?ウクライナの集団農場化のときは300万人くらい死んだぞ!なぜポーランド軍将校のことを心配しなければならないのか‥あの連中は知識人で、われわれにとっては最大の危険分子だ。絶滅しなければならなかった」。
そう言ったヤコフ・ジュガシヴィリとは、スターリンの息子である。彼はドイツで捕虜となり、収容所で隔離されていた。ジュガシヴィリと親しくなったポーランドの陸軍中尉は、当時話題になっていたカチンのことを聞いてみたのだった。
そしてジュガシヴィリはこうも言った。「ドイツの残忍な策略とちがって、人道的な方法で」絶滅されたから安心しろ、と。
これはスターリンの息子ならではの考えというより、ソ連のトップたちの共通認識だったに違いない。あまりにもストレートな表現に度肝を抜かれるが‥。
しかし、のちにジュガシヴィリも報われぬ死に方をしたのだった。おそらくスターリンの息子だったために。



スターリンとその子供



5. KGB議長より同志フルシチョフへ

以下は1959年3月、KGB議長がフルシチョフへ送った手紙である。

マイクを向けられているのがフルシチョフ


極秘
同志フルシチョフへ
ソ連閣僚会議付属国家保安委員会(KGB)は1940年来、同年に銃殺された元ブルジョワ・ポーランドの代表者である、拘禁されていた捕虜、将校、憲兵、警察官、地主にかんする個人ファイルその他の資料を保管している。‥総計2万1857の個人ファイルは封印された場所に保管されている。
どのソヴィエト機関にとってみても、この個人ファイルは工作上の利益もなければ歴史上の価値もない。‥予期せぬ事態が生じて暴露されるかもしれず、‥ましてカチンの森の銃殺にかんしては、‥委員会によって確認された公式見解が存在する。‥委員会の結論は国際世論にふかく根づいている。この見方に立てば、1940年に上記作戦で銃殺された者に関するあらゆる個人ファイルは破棄するのが適切と結論される。ソ連共産党中央委員会とソ連政府が必要とする場合に備えて、銃殺の判決を下したソ連NKVDトロイカの審判記録とトロイカ判決の執行にかんする文書を保存しておくことができる。この文書は少ない数であるから特別な書類入れで保管できる。‥

“工作上の利益もなければ歴史上の価値もない”

工作上の利益。KGBの脳内地図を占めるキーワードのようである。それと秤にかけられて、処分される個人ファイル。“工作上の利益”のために書かれた、例のお門違いな尋問による調書ではあるけれど、銃殺された一人一人の最後の情報であり、その時点で生きていた証でもある。無味乾燥なその紙切れでも、遺族にはぜひ触れたい愛おしい物にちがいない。歴史上の価値はないかもしれないが‥。暴露される可能性を論じるのはよしとしても、保管場所について言うことは蛇足だ。
フィンランドの捕虜を収容する場所が不足するために、急ぎ「処理」されることになったポーランド将校たち。彼らのファイルもまた、場所の節約を優先され、「処理」された。


この、非常に冷たいことば、“工作上の利益”と同等のことばを吐いたのは、イギリスのチャーチルである。


6. チャーチルとオマレー



イギリス、フランスは自力でドイツを倒すことはできず、ソ連を巻き込む必要がどうしてもあった。実際、ドイツと主に戦って成果を上げていたのはソ連だった。人命も含め大変な物量の犠牲。ソ連でなければこんな戦い方はできなかっただろう。ドイツは強かったし、ソ連もとんでもない底力があった。イギリスとしては、勝つためにはソ連を連合国に引き留めておく必要がどうしてもあった。そのため、ソ連に関する怪しい情報は遠ざけていたかった。チャーチルは、問題になっていたカチン事件を「実際的重要性がない」「スモレンスク近くの三年経った墓を病的にうろつき回るのをつづけるべきではない」とした。
亡命ポーランド政府付イギリス大使オーウェン・オマレーが、入手した証拠からソ連の犯行であると結論される覚書を作成したが、チャーチルが封じた。オマレーは歯切れの悪い自国の指導者に目をつむることはできなかった。

「道徳的に擁護できないことはつねに政治的に実効性がない」

オマレーの正論もまた黙殺されたのだった。



7. ルーズベルト



アメリカも、真実の報告を受け、実際に捕虜として見てきた士官の報告も受けていながら、ソ連に気兼ねをして、知らぬふりをした。ルーズベルト大統領は、ソ連がそんなことをするはずがないと耳を塞いだ。「ソ連に限って‥」のような発言は非常に聞き苦しい感じがする。アメリカはドイツが降伏してもまだ日本との戦争が続いていたが、日本に勝つためにはソ連に北から攻め込んでもらわねばならず、スターリンの機嫌を損ねるわけにはいかなかったのだ。
アメリカとイギリスは連合国の勝利にソ連が欠かせないのは承知していた。ヤルタ会談ののちも、ソ連に気遣い続けた。戦後の情勢にも、ソ連を取り込んでおかねばならなかった。
カチンの森の事件は、むしろこうした列強によって封じられたのである。

ヤルタ会談

ヤルタ会談の行われた場所はニコライ2世が新築したリバディア宮殿
幽閉先に皇帝一家はこの地を希望したが、ニコライをシベリア送りにしたかったケレンスキーは許可しなかった
ヒトラーも引退後はここで暮らしたいと言っていたそうだ



8. ニュルンベルク裁判とソ連検察官ゾーリャ

1945年のニュルンベルク裁判において、カチンの森事件に関してを告発できるのは、戦勝国の地理的な取り決めにより、ソ連のみということになった。まだグレーな部分が多いこの事件を、ソ連側は果たして告発するのかどうか。しかしソ連は告発した。
裁判の中で初めてソ連の検事がドイツのポーランド侵攻を非難すると、ドイツ側の被告は嘲笑した。
被告席のゲーリングとヘスはヘッドフォンをはずした。なぜ聞かないのかとたずねられてゲーリングは、「連中(ソ連)がポーランドに言及するほど恥知らずとは思わなかった。連中はわれわれと同時にポーランドを攻撃したではないか」
シーラッハも、「連中がポーランドと言ったときには、死ぬほどおかしかった」と。




ソ連はかつてのドイツの元国際調査委員のうちの数人を脅し、報告書の内容は嘘だったと証言させた。ソ連の脅しが効かない国に在住している元委員は逆に、報告書の内容の正しさを公式に表明した。
しかし、ソ連代表団のなかにこうした偽装工作に加わることを拒否した検察官がいた。
ニコライ・ゾーリャ。
彼は、ポーランド側のカチン事件の情報に接し、その後モスクワの準備した資料を読み、上司に、ソ連の立場について自分が抱く疑問とこの立場の弱点を主年検事に知らせてほしいと話した。
数日後、ゾーリャはニュルンベルクの自室で死んでいるのが発見された。ゾーリャの死を知ったスターリンは、「奴は犬並みに埋めれば良い」と言ったそうである。
正しくあろうとした検察官はあっけなく芽を摘まれてしまった。
犬。
さて、犬はどっちだろう。


ゴルバチョフのグラスノスチによる事件の情報開示(全てではなかった)、プーチンの合同慰霊祭への出席など、事件の真相へソ連(ロシア)が向き合ったこと、哀悼を表明しても許されるようになったこと(かつては禁じられていた)は、進歩だ。ただしロシアは謝罪は拒否した。

「ロシア民主主義の発展は過去との対決能力で決まる。スターリン主義の断罪とその犯罪の国民的責任の認識は、ナチ犯罪についての国民的責任感がドイツの良心の一部になったように、ロシアの新しい世代に浸透しなければ難しいだろう」
メモリアル協会会長アルセニー・ロジンスキーの言葉である。


「過去の克服が可能だとすれば、それは本当に起きたことを語ることにある。だがこの物語は、歴史に形をつけるけれども問題を解決しないし苦悩を和らげはしない。なにも克服されないのだ。事件の意味合いが生きているかぎり。‥」
ハンナ・アーレントによるこの言葉を、悲観的だと切り捨ててはいけない。
知った、語った、その後で何をするか。
その先のドアが最も重いはずだ。

哲学者ハンナ・アーレント



カチンの森ドキュメンタリー1 1989

カチンの森ドキュメンタリー2

カチンの森ドキュメンタリー3


参考文献
「カチンの森 ポーランド指導階級の抹殺」
ザスラフスキー著

「消えた将校たち カチンの森虐殺事件」
ザヴォドニー著








ポーランドボールの紹介です。
世界各国を国旗の柄のボールとし、各国間の関係などをキャラクターで表現するネット上のマンガです。キャラクター設定に若干の取り決めがありますが、その規定を守れば自由投稿できます。ただし、発案者の承認チェックがあります。

ちなみに、日本のキャラクターは〈kawaii〉文化に関連して猫耳としっぽをつけていることが多いのと、ドイツにくっつきたがる傾向があるようです。
投稿されたポーランドのものをいくつかご覧ください。また、日本語訳付きのものもネット上にあります。英語で書かれる場合は、各国の訛り風にわざとおかしな表現になっています。