名のもとに生きて

人の一生はだれもが等しく一回かぎり。
先人の気高い精神に敬意を表して、その生涯を追う

20世紀の殉教者 エリザベータ・フョードロヴナ・ロマノヴァ

2015-11-23 15:44:35 | 人物

夫を暗殺したテロリストを赦し
自らもロシア革命で暗殺された元皇女
Sister Elisabeth Feodorovna




Holy Martyr 新致命者
Elisabeth Alexandra Luise Alice of Hesse by Rhine
Елизавета Фёдоровна Романова
1864~1918




誕生~幼少
エリザベータ、通称エラ(Ella)はヘッセン大公ルートヴィヒ4世の次女。エラの母アリスは英国ヴィクトリア女王の次女である。アリスは2男5女を生んだ。
長女ヴィクトリアはバッテンバーグに嫁いだ。ルイス・マウントバッテンの母であり、エディンバラ公フィリップの祖母である。
三女イレーネはプロイセン皇帝ヴィルヘルム2世の弟に嫁ぎ、四女アリクスはのちにロシア皇后アレクサンドラとなる。
長男エルンストがヘッセン大公家を継いだが、次男フリードリヒは血友病で早逝した。姉妹のうち、イレーネとアリクスは息子に血友病が出現したため血友病保因者であったとわかる。
五女マリーは4歳のときに、不在だったエラを除く家族皆が同時期に麻疹にかかり、幼いマリーは命を落とした。その翌月、看病による過労と麻疹により母アリスも亡くなった。

母アリスとエリザベス

母のアリスは英国での質素な生活を家庭にもたらし、部屋は英国風にしつらえ、子女にも自分の部屋の床磨きをさせ、服は母が縫った。子供達は母とは英語で、父とはドイツ語で話した。

母の生前、ボン大学に通う従兄のヴィルヘルム(のちのドイツ皇帝ヴィルヘルム2世)が週末に叔母であるアリスのもとに訪ねてきた。ヴィルヘルムの母はアリスの姉で、ヴィクトリア女王の長女ヴィクトリアである。ヴィルヘルムは5つ年下で14歳の美しく賢いエラに想いを詩に書いて送り、求婚したが、エラの心には響かなかった。傷心のヴィルヘルムは学業も捨て、プロイセンへ帰った。ヨーロッパ随一の美女と囁かれたエラに求婚したのは、他に、シャルル・モンタギュー、マンチェスター公の息子、バーデン大公フレデリック2世、ロシア大公コンスタンチン・コンスタンチノヴィチ等。特にバーデン大公はヴィクトリア女王が強く推したが、エラは断った。





結婚
以前からロシア皇后マリア・アレクサンドロヴナが息子セルゲイとパーヴェルを連れて度々ヘッセンを訪れていて、エラと息子たちは顔見知りではあったが、お互いに興味はなかった。しかし、セルゲイは母の死後、母と似ている性質を持つエラを求めるようになり、エラの方もかつて母を亡くした自分に照らして彼のことを理解する。信心深く、几帳面な気質が2人には共通していた。セルゲイの2度目の求婚にエラは応じ、20歳でロシアに嫁いだ。


若い頃のヴィルヘルム2世

セルゲイ・アレクサンドロヴィチとコンスタンチン・コンスタンチノヴィチ(KR)



1884年6月、ロシアのエカテリーナ宮殿での2人の結婚式で、16歳のロシア皇太子ニコライはエラの妹アリクスに初めて出会った。数年後に求婚されたアリクスは正教への改宗を拒み、求婚を受け入れなかったが、当時既に正教に改宗していたエラが促し、アリクスは結婚を決意した。

ロシア皇太子ニコライ

大勢での集合写真でアリクスとニコライが手をつないで写っている
ニコライの右側に母皇后マリア、弟ミハイル、弟ゲオルギー


ロシア皇女として
美しく聡明なエラは、ロシア宮廷においても人々を魅了し、誰からも慕われた。1892年にモスクワ総督となったセルゲイに連れ添って、クレムリン近くのモスクワ総督官邸に住み、夏にはイリィンスコエの邸宅で過ごした。
セルゲイの弟パーヴェルの妻で元ギリシャ王女のアレクサンドラ・ゲオルギエブナとエラは親しかった。しかし、事故により早産した後急死したアレクサンドラに代わって、エラとセルゲイはパーヴェルを助けて子供達を養育した。

アレクサンドラ・ゲオルギエブナとエラ

モスクワ総督官邸

イリィンスコエにて
セルゲイ、エラ、マリア、ドミートリとユスーポフ夫妻
ラスプーチンを暗殺したフェリクス・ユスーポフの母ジナイーダ(写真右端)はエラの親友


エラとジナイーダ

イリィンスコエへは子供たちを招いて、ひと夏を過ごすのが常だった。のちにパーヴェルが離婚歴のある平民女性と再婚して国外追放になると、セルゲイとエラが後見人となり、2人の子供たちもモスクワで共に暮らすことになった。マリア・パヴロヴナとドミートリ・パヴロヴィチ。2人には代父母セルゲイとエラはどう映ったのか。マリアの著作に記されている。
セルゲイは何につけても全て自ら管理し、エラは黙々と従う。幼いマリアの目にも、エラが感情も考えも押し殺しているのが映る。そのためか、エラは冷ややかであり、その冷たい視線に竦む思いをマリアは何度もしている。エラは身を飾ることに細心の心を配り、自らドレスをデザインし修正を重ね、宝飾品も合わせて誂えていた。付き人が付いて身支度するときは、ピリピリした空気が漂っていた。
セルゲイが養父として厳格な愛情を押し付けてくることに、マリアもドミートリも戦慄した。

最前列 皇帝、皇后、皇女
次列 セルゲイ、エリザヴェータ
後列 マリア、ドミートリ




1893年に嫁いでロシア皇后になった妹アレクサンドラ(アリクス)と
アレクサンドラの内向的な性格ではロシア皇后に不向きであると誰もが心配した



セルゲイ暗殺
1905年1月、ペテルベルグで血の日曜日事件が起き、ロシア帝政は下り坂を転がり始めることになる。
1905年2月4日、クレムリンの元老院広場で待ち伏せしていた社会革命党員イワン・カリャーエフがセルゲイの乗った馬車に爆弾を投げ、セルゲイは一瞬でばらばらに散った。爆音を聞きつけ、もしやと思ったエラが駆けつけたとき、飛び散った遺体に誰かがコートをかけて覆っていた。エラはまだ息のあった馭者に、偽って主人の無事を告げ安心させた。自宅から出るなと言われたマリアは窓辺に張り付き、怯えていた。帰宅したエラは放心していて、椅子に身を預けたきり一点を空虚に見つめ動かなかった。教会に安置されたセルゲイの遺体は首から下が布で覆われていたが、腹部辺りに厚みがなく、相当部分が失われているのが一目瞭然であり、遺体の下にはまだ血が滴って血溜まりがあった。数日間、教会で長時間の祈祷が続いた。この祈祷や葬儀に出席するために皇族がモスクワへ行くことは危険であるとし、見合わせるよう文書通達があった。しかし、パーヴェル、エラの兄エルンスト、マリア・アレクサンドロヴナらは危険を冒してでも参列した。

埋葬の前日、エラは拘留されている暗殺者のもとへ行き、面会する。以下、ラジンスキーの著作より。


「何故あなたはわたしの夫を殺したのです?」

「わたしがセルゲイ・アレクサンドロヴィチを殺したのは、彼が暴政の道具だったからです。わたしは民衆のために復讐したのです」

「あなたの自尊心に従ってはいけません。
懺悔しなさい。あなたに命をたまわるようわたしから陛下にお頼みしましょう。わたし自身はもうあなたを許しております」

「嫌です。わたしは後悔しません。わたしは自分の仕事のために死ななければなりません。わたしは死にます。わたしの死はセルゲイ・アレクサンドロヴィチの死よりも役に立つでしょう」



暗殺実行直後のイワン・カリャーエフ

カリャーエフは死刑宣告を受け、それを喜び、宣告と処刑の公開によってこの先の革命を見据えることを望んだ。5月、絞首刑。
カリャーエフは暗殺実行の数日前にも実行するべく潜んでいた。しかしその時は、馬車の中にエラやドミートリらの姿があったため、犯行を断念していた。子供達を巻き込みたくはなかったのだった。
エラは夫の墓碑に、
「父よ、彼らを赦したまえ、その為す所を知らざればなり」
(ルカ 23-34)
というキリストの言葉を刻んだ。


修道院創設
セルゲイの死後、喪服に身を包み、ベジタリアンとなったエラ。1908年にはマリアを追い立てるようにスウェーデン王子と結婚させ、ドミートリはツァールスコエの皇帝一家の所に住まわせ、1909年には宝石に婚約指輪まで売り払って修道院を創設し、自ら長になった。
Covent of Saints Marta and Maryは、無料の病院、教会、薬局、孤児院、看護師養成学校を併設し、貧者、病者、寡婦のためにモスクワ最貧のスラムを頻繁に訪れ、世話をした。
多忙でほとんど家に帰らなくなったエラは自邸を処分し、病院のそばの3室を質素に設え、昼も夜も献身的に患者に尽くした。


総督邸のエラの執務室



マリアと婚約したスウェーデン王子と





それまでセルゲイに従い、自分を殺すように過ごしてきたエラは、積極的に自分の理想を現実化し、神に導かれるまま、為すべきことに身を尽くし、充実した人生を過ごした。


革命下の転変
血の日曜日事件以来、ロシアの首都にはじわじわと革命の不穏が拡がっていった。たとえラスプーチンが皇后の側に現れなかったとしても、革命が皇帝を倒したにちがいない。1914年の戦争突入で、はっきりその針路が差されていたはずだ。
しかしながら、戦争によって外から崩され始めた皇帝の神威はまた、内からもラスプーチンを盲信する皇后が崩し始めた。最も皇帝の神威を望む皇后が、はからずもその手で崩していたのである。悲しき母アレクサンドラは、命に不安のある唯一の皇太子のために、強く不安のないかたちでロシアを受け渡したかっただけだったのに。

皇帝は内政を皇后に託し、皇太子を連れて戦地を廻っていた


しかし、崩れそうなロマノフの帝政をみすみす内から崩すのを、皇族は黙って見ているわけにはいかなかった。民衆にさえ、政治をかき乱す根源と目されたラスプーチンは追い払わねばならない。説得に訪れる親類を、皇后はことごとく追い返した。元々、ロシアに嫁いで来た時から親しみを抱くこともなかった者たちがほとんどだった。だが、実の姉であるエラが訪ねてきても、アレクサンドラは拒絶した。
エラがラスプーチンのことを話し出すと、とたんにアリクスは口を閉ざして、話を打ち切り、使用人に客が帰ることを告げた。これは1916年のこと。1916年12月のラスプーチン暗殺は数ヶ月前から十全に計画が練られ、主謀者とされるドミートリはその間、エラに会いに来ている。ユスーポフの母ジナイダはエラの親友であり、ユスーポフ自身もエラを慕い、信用している。つまり、エラはこの殺害計画を事前に知っていたと思われる。皇后との面会のあと、エラは皇帝に手紙を書き、ドミートリとジナイダに電報を送っていた。

1917年2月革命で皇帝一家が逮捕された後、ロマノフ家の多くの者は身を案じて亡命した。10月革命でボリシェビキが主導するようになってからはより一層危険になった。周囲から亡命を勧められても、エラはそのまま修道院に残った。スウェーデンからの使者が訪れた時も、彼女は、自分はロシアとその民と運命を共にしたいと話し、丁重に断った。

最後の写真といわれている

1918年、とうとうエラはレーニンの命令により逮捕された。当初はペルミへ、その後エカテリンブルグへ送られた。エカテリンブルグで皇帝一家に会えることを期待していたが、許されるはずはなかった。同行していた修道女バーバラだけは、イパチェフ邸の窓越しに偶然に皇帝と顔を合わせただけだった。5月20日には、アラパエフスクに送られ、夫セルゲイのいとこのセルゲイ・ミハイロビッチと、いとこのコンスタンチン・コンスタンチノヴィチの3人の息子のイオアン、コンスタンチン、イーゴリと、パーヴェルの再婚後にできた甥ウラディミル・パーレイと合流した。
エラは、監禁されたアラパエフスクでも自由に教会に行くことを許され、菜園で野菜や花を育てることも許された。民から励ましの言葉が刺繍されたハンカチをもらうこともあった。エラは修道院に手紙を書き、自分が不在の修道院で働く者達を励ました。

1918年7月18日、エカテリンブルグの決定に基づき、エラ達は処刑された。エラが一番最初に連れて行かれ、処刑された。廃坑に突き落とされるときまで、エラは賛美歌を歌い続けた。
廃坑は20メートルほどの深さだったが、エラとイオアンは一部浅くなっていた辺りに落ちたため、即死しなかった。廃坑の底からしばらくは賛美歌が聞こえていたらしい。また、遺体が発見された時イオアンの額に布が巻かれていたが、おそらくエラが手当てしたものと思われる。
およそ一ヶ月後にアラパエフスクは白軍に制圧され、遺体はコルチャークによって引き上げられ、埋葬された。その後再び、ボリシェビキが襲い、混乱の中、エラの遺体は生前の望み通り、ゲッセマネの丘にある聖マリアマグダレーナ教会に英王室の手により埋葬された。





先に殺害された皇帝一家とエラ達は在外ロシア正教会によって新致命者として聖別された。また、エラはウェストミンスター寺院西扉に掲げられている「20世紀の殉教者10人」にも列せられており、キング牧師やボンフェッファー牧師らの聖像とともに並んでいる。











先週、パリのテロ事件で妻を亡くした人のFBへの投稿が感動したと話題となり、世界に拡散しました。「君たちにわたしの憎しみはあげない」というこの全文を読み、不謹慎かもしれませんが私には残念な思いが残りました。
以下はその全文和訳(転載)です。


 金曜の夜、君たちは素晴らしい人の命を奪った。私の最愛の人であり、息子の母親だった。でも君たちを憎むつもりはない。君たちが誰かも知らないし、知りたくもない。君たちは死んだ魂だ。君たちは、神の名において無差別な殺戮(さつりく)をした。もし神が自らの姿に似せて我々人間をつくったのだとしたら、妻の体に撃ち込まれた銃弾の一つ一つは神の心の傷となっているだろう。
 だから、決して君たちに憎しみという贈り物はあげない。君たちの望み通りに怒りで応じることは、君たちと同じ無知に屈することになる。君たちは、私が恐れ、隣人を疑いの目で見つめ、安全のために自由を犠牲にすることを望んだ。だが君たちの負けだ。(私という)プレーヤーはまだここにいる。
 今朝、ついに妻と再会した。何日も待ち続けた末に。彼女は金曜の夜に出かけた時のまま、そして私が恋に落ちた12年以上前と同じように美しかった。もちろん悲しみに打ちのめされている。君たちの小さな勝利を認めよう。でもそれはごくわずかな時間だけだ。妻はいつも私たちとともにあり、再び巡り合うだろう。君たちが決してたどり着けない自由な魂たちの天国で。
 私と息子は2人になった。でも世界中の軍隊よりも強い。そして君たちのために割く時間はこれ以上ない。昼寝から目覚めたメルビルのところに行かなければいけない。彼は生後17カ月で、いつものようにおやつを食べ、私たちはいつものように遊ぶ。そして幼い彼の人生が幸せで自由であり続けることが君たちを辱めるだろう。彼の憎しみを勝ち取ることもないのだから。


暴力に対して暴力で応酬すれば憎しみの応酬は止むことなく繰り返す。
憎しみを憎しみで返さないこと。
その決意に至った心は強く、正しい。

ただ、どうしても引っ掛かることがある。

君たちが誰かも知らないし、知りたくもない。

無差別テロという非情極まりない行為を犯したのも、信じたくないかもしれないが同じ人間である。母がいて、父がいた(あるいはとうにいなかったか?)自分の命も諦めることになるテロを断行するのにはどれほどの決意が要るものだろうか?なぜ最低限の良心に踏みとどまることすらもなかったのか?
どんな抑圧にさらされると人がそうなるのか、想像を絶することを、想像しなくてはならない。

パリで一夜に120数人の無辜の命が犠牲になった。空爆の一回の出撃で、平均して何人の命が犠牲になっているのだろう?
憎しみは後手に隠した。次は相手を知ること。


幼い彼の人生が幸せで自由であり続けること

これが世界の誰もが求めていることのはず。
もちろん投稿者の息子1人のことではない。
そして幼い日々が一度も幸せであったことのない子供達に対しても。

まさにこのために世界に諍いが起きていると私は思う。





英王室について書いている途中ですが、急にエリザヴェータ・フョードロヴナを割り込ませたのはこの件に思うところがあったからです。
ジョン王子も予定外で入れてしまいましたので、次は順番通りにバーティーを書きたいです。



20世紀前半の英王室(3)ジョン王子

2015-11-18 23:06:01 | 人物

自閉症と癲癇を患い13歳で早逝
冷たく厳格な英王室の家庭に明るい光を投じた
ジョン王子



His Royal Highness
Prince John Charles Francis
1905~1919


ジョージ5世の5男1女の子息のうちの末子であるジョン王子。1905年当時、父は王太子であり、ジョンは誕生の時点で王位継承権第6位だった。
年長の兄達は厳しく躾けられ、寡黙で従順に育っていたが、四男ジョージとジョンは「面白くてかわいい子たち」だったと、ジョンの祖母アレクサンドラ王妃の妹で当時のロシア皇太后マリアが、息子ニコライ2世皇帝に書き送っている。
セオドア・ルーズベルトによれば、「ジョージ5世王の子は皆、従順だ。ただしジョンを除いて」とのことである。
ジョンは4歳まで、大柄で健康的で整った顔立ちで人を「魅きつける」「ものすごくのんびりした」愛しうる子だった。3つ年上の兄ジョージとは特に仲良く遊んだ。家族は彼をジョンの愛称ジョニーで呼んだ。
母の腕にジョン 姉 兄ヘンリー 兄ジョージ





左ジョン 右ジョージ


しかし4歳のあるとき、ジョンは最初の癲癇発作を起こした。それからはだんだんに、学習障害や自閉症の傾向も表れるようになった。
刺激、ストレス、興奮に誘発される癲癇発作を回避するためと、さらに自閉症の特性として「外部の世界との接触に適していない」ことも考慮して、両親である王と王妃はジョンを静かなサンドリンガム・ハウスに転居させた。

世間一般には、ジョンは問題を抱えた子だとして王と王妃によって隠匿された「悲劇の王子」として語られることが多いようである。しかしこれは、癲癇や自閉症のリスクを減らすための常套的な方法をとったに過ぎない。当時ジョージ5世は王太子から王になり、多忙を極め、公私にわたって落ち着かない状況にあったため、身の側にリスクのある子を置ける訳はなかった。
自らの戴冠式に出席させなかったのは、興奮から癲癇発作の引き金になるのを避けるためだと考えられる。ジョージ5世は他の息子達には非常に厳格であったが、ジョンには親身に、愛をもって接し、他の兄達へのように厳しいお仕置きは施さなかった。マリー王妃も英王室の慣習に厳格に従い、自ら子育てはしなかったが、決して子供嫌いではなかった。
ジョンは他の兄達よりもポートレートが少ないことで、やはりジョンを公の場から封じ込めていたと批判もされているが、実際の記録によれば王室のメンバーとして一人前に扱われ、公式に姿を現わすことも度々あったという。


1909年
兄ジョージと


兄や姉と
長兄デイヴィッド(エドワード8世)とは11歳違い


母マリーとジョン
あいさつをしているのか、母の袖の毛皮に擦り擦りしてるのか、微笑ましい



けれどもやはりジョンは寂しかった。
既に年長の兄達は兵学校などで寄宿生活のため不在だったし、仲良しの兄ジョージもとうとう1912年からは学校へ通うようになった。
1914年、第一次世界大戦が勃発すると、父母にもほとんど会えなくなってしまった。上の兄達も従軍していた。







1916年頃、ジョンの癲癇発作はより頻繁に、より重篤になった。発達遅滞や学習障害の傾向も顕著になり、学習への向上心に欠けるため、家庭教師は退けられ、乳母"ラーラ"が根気よく指導を続けた。医師は、ジョンはこれ以上「大人」になれない、と告げたが、ラーラは彼の成長を信じ、教える努力を重ねた。

癲癇のためほとんどサンドリンガムから出られなくなってしまったジョンのために、祖母アレクサンドラ王太后は、庭仕事や散歩を楽しむジョンのために、庭の手入れに心を砕いた。
しかし11歳を過ぎてから、ジョンの癲癇は悪化し、さらに体に良い場所を求めて、サンドリンガム宮殿敷地内の農場へ移った。王妃がジョンの遊び友達を地元で集め、相手をさせた。兄達が時折来て、遊んでくれることもあった。
兄や姉にとって、また両親にとってもジョンはいつでも"outgoing little boy"であり、"mascot for the family"であったといわれる。





乳母Charlotte Bill 愛称ラーラと

最後に写された写真 ジョン13歳
農場を訪れた人は庭を散歩する大柄で体格の良い王子を度々見かけたという



1918年のクリスマス。
11月に大戦が終結し、英王室のメンバーはサンドリンガムハウスに揃ってクリスマスを過ごした。
サンドリンガムハウスでのクリスマスは英王室のファミリーイベントである。このとき、ジョンも一緒に楽しく過ごしたが、夜にはファームの家に帰っていった。
1919年1月18日。
ジョンは重篤な癲癇発作の後の眠りの間に、静かに息を引き取った。

Little Johnny looked very peaceful lying there,with angelic smile.

母王妃の日記にはそう記された。

ジョンはサンドリンガムの聖マリー・マグダレーナ教会にて、ささやかな葬儀のあと葬られた。

2人のジョニーが並んで横たわる。

祖母アレクサンドラ王太后はそう記した。
もう1人のジョニーとは、1871年に生まれ、出生の翌日に亡くなったアレクサンドラの息子で末子のことだ。ジョンという名は、欠地王ジョンに繋がるためその後の英王室ではその名は忌み嫌われ、国王の名には一切使われなかった。にも関わらずジョンと名付けられた王子は、二人とも早逝した。

ジョンの乳母ラーラは終生、ジョンの写真と手紙をマントルピースの上に飾っていた。
その手紙には

nanny,I love you


聖マリーマグダレーナ教会

教会内部
かつてジョンの洗礼もここで行われた






ジョンの死因について
癲癇突然死(SUDEP;Sudden Unexpected Death inEpilepsy)

●全身性強直間代発作を起こす癲癇患者の死因の2~18%
●癲癇のない人の突然死の40倍
●癲癇患者1000人に1人
●脳内で起こる発作の活動が心拍や呼吸に変化を起こす
●小児期の発症はリスクが高い
●頻繁に起きる人はリスクが高い
●若い成人年齢とくに男性
●寝ているとき、うつ伏せ寝


●発作による悪影響で年を追うほどIQが下がる
●突然死は緊張時よりも緊張から解放された時に起きやすい


癲癇には、遺伝によるものと外傷などの環境要因によるものがある。
ジョンの場合、遺伝を考えるとすると、祖父エドワード7世の末弟レオポルト(オールバニ公)に辿り着く。レオポルトといえば、王統に最初に出現した血友病患者でもある。血友病も癲癇も抱えながら、レオポルトは大変豊かな知性と教養を持ち、持病のために叶わなかったが軍務や総督を志していたほど勇敢な気概も持ち合わせていた。もろ手の病にもかかわらず、成人し、二人の子をも成したが、30歳で亡くなった。死因は癲癇ではなく、血友病の方である。父ジョージ5世にとって、この叔父の長命とは言えないまでも成年まで生き永らえた事実は、ジョンに照らして縋り付きたいものだったに違いない。これと同じく、レオポルトの命運はロシア皇室の血友病のアレクセイの両親にとっても頼みにしたいものだったに違いない。

オールバニ公レオポルト
ヴィクトリア女王の第8子
ジョンの祖父やアレクセイの祖母の弟にあたる
癲癇と血友病を患っていた
レオポルトの遺児アリス・オブ・オールバニはジョンの洗礼時の代母である
なおジョンの祖母とアレクセイのもう1人の祖母も姉妹である


生まれも11カ月しか違わず、どちらも末子、しかしロシアの子は嫡男だった。そしてジョンもアレクセイも13歳で亡くなった。
苦しみに追い詰められて殺害された13歳と、天使の笑みを浮かべて召された13歳。二人はほぼ同じ時代を、病を抱えたヨーロッパを挟んで生きていた。ジョンの死は1918年7月17日のアレクセイの死から半年。その間に大戦は終わっていた。

癲癇により長く生きられないと言われていたジョン
先天性の自閉症と癲癇の繰り返しによる精神遅滞は彼の心の成長も止めた


血友病に苦しみながら皇太子としての公務を務めたアレクセイ
一たび発症すれば数ヶ月は病床についた
医師には16歳まで生きられないと言われていた




ジョンを主人公にした作品『The Lost Prince』にはそうした運命の違いに向き合う場面があった。

The Lost Prince 1-4

The Lost Prince 2-4

The Lost Prince 3-4

The Lost Prince 4-4


祖父エドワード7世の部屋に呼ばれたジョン

メアリー、ヘンリー、ジョージも。
祖父のズボンにバターを落とし、溶け落ちるのが誰のが速いか、和やかに遊んでいた


"ロシアのいとこたち"が訪れる。家族で睦まじくしている様子をまぶしそうに見つめるジョン

記念撮影する父とツァー・ニコライ

こちらはホンモノ

ジョンのつぶやきに振り返って笑いかける美しいいとこたち

Russian Imperial Family Visiting Relatives in England at the Osborne House-August 4th 1909
映画のシーンはこの時のもの(この写真はホンモノの皆さん)

1910年に祖父エドワードが亡くなり、国賓が葬儀に集まる。癲癇発作を起こしかけ、乳母を探して廊下を走っていたらヴィルヘルム皇帝にたしなめられた。結局、乳母を見つけられず、人目につかない廊下で倒れた

集まった国賓の集合写真撮影シーン

こちらがホンモノ

父母の客の前に突然現れ、勝手におしゃべりを始めるジョン

苛立つ父がたしなめても話を止めない

王室の家系図を学ぶ
ジョンが描くとその歪みがかえってリアルだ


サンドリンガムに移ったジョンはロシアのいとこたちに、ぜひ自分の庭に遊びに来て欲しいと手紙を書く

甘い恋わずらい?

手紙を読むマリアを想像する

戦争が始まった。お召し列車の車窓から、駅で激しく別れの抱擁をする兵士と女性の様子を愛おしそうに見つめるジョン

ジョージは海軍兵学校に。その厳しさに驚き、授業で教師の口から語られる戦時の残虐さに慄然とする


学校で体感した軍の非情さを父に訴えようと父の部屋を訪れたジョージ

改称で頭がいっぱいの父はジョージの話を突っぱね、「お前は水兵になればいい、ずっと海軍にいろ、お前は海軍で死ね!」
実際にジョージはのちに空軍で死ぬ


傷ついたジョージは、海軍学校に戻る前にジョンのところを訪れる

ジョージはジョンに名前がウィンザーに変わることと、ロシア皇帝一家が幽閉されており、今後イギリスに亡命してくるかもしれないということを聞く。「それなら僕の家に来ればいいよ」とジョン

庭で一緒に農場の仕事をするロシア皇帝の家族達を想像する

ジョンの想像のなかでは皇帝一家の服装はかつてのまま、アレクセイだけ相応に成長させられている

はにかみながらも誇らしげにロシアのいとこを見つめる

その後
ロシアの家族に起きた異変をジョンは感じとったのか


想像に現れたマリアが何かを訴えるような悲しい顔で見つめる

ジョージ国王は執事から皇帝一家全員の殺害の様子を聞き、ひどく動揺する



ある日ジョンは従僕を引き連れて、トランペット演奏を聴いてもらおうと父母に会いに来た

普段なら断る母も、ロシアの惨殺された家族を思い、迷惑そうにしながらも受け容れる

家族や身近な人々の前で見事に演奏したジョン。
父は目を見張り、祖母は号泣した
演奏後、キョトンとして「なんでみんな悲しそうなの?」


戦争が終わり、ドイツ皇帝とオーストリア皇帝が亡命したことをジョージから聞く

「二人とも僕の農場に来ればいいよ」
想像上で農場でお茶している両皇帝


"Johnny!My dearest brother!"
草原を共に駆け回る二人だったが、発作の起こるのを感じたジョンは悲しく微笑んだ後に倒れた
乳母の名を呼び叫ぶジョージの声


亡くなったジョンを訪れた母

ささやかな葬儀のあとに埋葬された

ジョージの中に明るいジョンのすがたが映っている



フィクションはあまり好まないのですが、悲しくもほのぼのとしたこのストーリーを追ってみました。
厳しく冷ややかなイギリスの王家に、思いがけず差し込んだ暖かい光。わずかな間に消えてしまいましたが、皆の心を確かに照らしたその光の温みを家族として忘れないで欲しかったことでしょう。たった13年間の光の一条を、受け取ったのは誰だったのでしょうか。









I know where I'm going(Irish or Scottish folk song)

I know where I'm going

And I know who's going with me

I know who I love

And the de'il knows who I'll marry.


I have stockings of silk

Shoes of bright green leather

Combs to buckle my hair

And a ring for every finger.


Some say he's black

But I say he's bonnie

The fairest of them all

My handsome winsome Johnny.


Feather beds are soft

And painted rooms are bonny

But I would leave them all

To go with my love Johnny.


I know where I'm going

And I know who's going with me

I know who I love

But the de'il knows who I'll marry.





画像は皆お借りしました



20世紀前半の英王室(2)エドワード8世

2015-11-04 16:40:54 | 人物
即位326日で退位
『王冠を棄てた恋』は美談か
英国王エドワード8世



1894~1972
在位1936.1.20~12.11
Edward Albert Christian George Andrew Patrick David

King Edward Ⅷ
Duke of Windsor

1936年1月にジョージ5世が薨去し、41歳の長男デイビッドがエドワード8世として即位する。しかし同年12月には「自己都合により」退位、独身で嫡男がいないため弟アルバートがジョージ6世として後継した。在位326日は英王室で最短。
1936年は3人の王が王冠を被った異例の年になった。今回はエドワード8世を書く。

1936年の3人の王 左よりジョージ5世、ジョージ6世、エドワード8世
1936年の王位
~1/20 ジョージ5世(父)
1/20~12/11 エドワード8世(長男)
12/11~ ジョージ6世(次男)



誕生~幼少期
1894年、女王ヴィクトリアの直系の曾孫として生まれる。祖父、父に次いで王位継承権第3位。
Edward Albert Christian George Andrew Patrick Davidが全ての名前であるが、家族や親族からはDavidの名で呼ばれた。

父 のちのジョージ5世と
晩年、父と子は険悪になった


曾祖母ヴィクトリア女王、祖父エドワード、父ジョージと

母メアリーと

デイビッドの弟妹は、1895年にすぐ下に弟アルバート、1897年に妹メアリー、以降弟3人で、1900年にヘンリー、1902年にジョージ、1905年にジョンの5人である。
13歳までは弟アルバートとともに厳格な家庭教師に指導を受けた。父のヨーク公時代(~1901)は家族でサンドリンガム宮殿で過ごしており、父は持て余した時間を趣味の切手収集と狩猟に費やしていた。1901年に王太子になって以降、父母は長期公務に出ることが多くなり、幼子たちは宮殿に残された。このときの寂しさから、のちにデイビッドが人妻ばかりに愛を求めたと言われるが、祖父母の王と王妃が気遣ってなるべく孫たちと一緒に過ごし、深い愛情を注いでいたのだった。デイビッドも、学校での不満を祖父に漏らして慰めてもらっていた。




笑顔のデイビッド、アルバート、メアリー



海軍兵学校の頃

1907年、アルバートとともにオズボーン海軍兵学校に進むが、規律正しい学校生活になじめず、成績も悪かった。
1909年からはダートマス海軍兵学校へ進学。ここではいじめに苦しんだ。
1910年に父が即位すると、デイビッドは王太子となるため、海軍学校を卒業して、オックスフォード大学のカレッジに入学する。弟はそのまま海軍で経歴を積んで行く。



Prince of Wales(王太子時代)

1911年7月、ウェールズのカーナーヴォン城にて、16歳のデイビッドは叙位式を迎えた。プリンス・オブ・ウェールズとしての公務が始まる。







22年間の王太子時代の初め、庶民の生活環境に関心を寄せ、相手の身分にかかわらず気さくに応対するデイビッドは親しまれ、人気者となった。
1914年に第一次世界大戦が始まると、すすんで前線に慰問に訪れたため、戦後も元兵士らに敬愛された。一方で、人種差別的発言により物議を醸すこともあった。
戦後は海外の領土を訪問し、さらに人気を高めた。












デイビッドは英国人らしい数々の趣味(刺繍、狐狩、乗馬、バグパイプ、ゴルフ、ガーデニング)を嗜み、社交界でのプレイボーイぶりでも衆目を集めた。
歌手や芸能人との恋愛は数知れず。
数々の愛人の中でも長期にわたって公然と関係していたのは、下院議員夫人フリーダ・ダドリー・フォード、富裕な商人の妻テルマ・ファーネス伯爵夫人である。いずれも離婚歴のある人妻であり、彼は年上を好んだ。
そして1931年、ファーネス夫人の別荘で、夫人によって紹介されたのがシンプソン夫妻である。夫妻で招かれての交際が続いていたが、1933年、ファーネス夫人が海外に出かけている間に妻ウォリスが愛人の座を奪い、以降デイビッドはウォリスを外遊に同伴し、宝石を幾らでも買い与え、王太子の邸宅に同棲するようになった。夫シンプソンは自身にも愛人がいたため、状況を放置した。
正式な結婚をせず、ふしだらな恋愛を続けるデイビッドに対し勿論、父ジョージ6世は怒りをぶつけ、口論は果てしなく続いた。公務においても時間にルーズなのも父には腹立たしかった。
ウォリスとの交際については国王だけでなく、大多数の国民にも反対された。

14年間不倫交際していたフリーダ・ダドリー・フォード夫人

テルマ・ファーネス伯爵夫人とデイビッド

ウォリス・シンプソン夫人

晩年のジョージ5世は、不埒なデイビッドよりも、寡黙で真面目な次男アルバートを次代の王に、そのあとはアルバートの長女エリザベスに、と望んだ。1935年当時、未婚だったのは42歳になるデイビッドのみ。その年に結婚したばかりのヘンリーにはまだ子供はいないが、四男ジョージには当時すでに男子エドワードが生まれていた。

1936年1月、ジョージ5世薨去。
デイビッドがエドワード8世として即位した。
しかし父王の「自分が死ねば1年以内にデイビッドは破滅するだろう」との予言通りになるのである。

父の葬儀にて
左から ジョージ アルバート デイビッド ヘンリー



King Edward Ⅷ





即位したエドワード王はボールドウィン首相を呼び出し、ウォリスと結婚する意志のあることを伝える。ボールドウィン首相はこれを拒絶した。
ウォリスは既に離婚歴があるばかりが、当時は婚姻関係の夫がいるアメリカ女性である。死別によらない離婚はイギリス国教で認めていないにも関わらず、イギリス国教会首長も兼ねる国王が違反することは許されない。国王と議会はこの問題で対立を深めていった。
しかし、エドワードはウォリスを常に同伴して王妃として扱うことを望んだ。敢えて人目につくように連れ立ってバカンスに出かけたり、ペアルックのセーターまで着て登場した。
首相も同席した公の場で、ウォリスの夫シンプソンに「早く離婚しろ」と恫喝し暴行までした。

10月末にウォリスの離婚裁判が済み、離婚成立。
再び首相に結婚の意志を伝える。首相はこう返した。

「個人としての王の問題はさらに王位、王制そのものに対する問題に発展する恐れがあります」

そこで王に3つの道が示された。
1.ウォリスと結婚しない
2.議会に背きウォリスと結婚する
3.退位してウォリスと結婚する

エドワード8世は退位して
ウォリスと結婚する道を選んだ。

12/10エドワード8世退位・ヨーク公の即位の詔勅が議会でなされ、翌日夜のラジオ放送で国王自らが退位を報告する

12/11、
国王はラジオを通して国民にこう語った。

"‥But you must believe me when I tell you that I have found it impossible to carry the heavy burden of responsibility and to discharge my duties as king as I would wish to do without the help and support of the woman I love.‥"

国民にはわかりやすいかもしれないがしかし納得できるのかどうか、
「王である前に1人の男性であり、ウォリスとの結婚のために退位する」ことを宣告したのだった。
この晩、王室の皆と最後の食事をした後、翌日には軍艦で国外退去した。



Duke of Windsor

オーストリアで隠遁していたデイビッドは、1937年3月に弟王よりウィンザー公爵位を与えられた。5月にウォリスと合流し、16人の友人らだけで結婚式を挙げた。ウォリスにとっては3度目の、デイビッドにとっては初めての結婚である。
新国王ジョージ6世とエリザベス王妃、母であるメアリー王太后はデイビッドと絶縁を望んだため、式に列席するわけがなかった。デイビッドはイギリスへそのうち帰国できるものと思っていたが、国王が許さなかった。それでも王室から十分な手当をもらい、デイビッドがイギリス国内に持っていた個人資産を王室に買い取らせ、莫大な資金を、手にしていた。ウィンザー公夫妻はパリに定住した。

結婚式

パリの自宅から外出する夫妻

1937年、世間は彼らに冷ややかだったが、ドイツが彼らを手厚く迎えた。この年、ヒトラーの山荘ベルヒテスガーデンに滞在し、以降も度々訪れている。
イギリスとは和平を保ちたかったヒトラーにとって、ウィンザー公は切り札にぜひ手元に置いておきたかった。

ゲッベルスとデイビッド

夫妻はナチスに温かく迎えられた


1939年、ドイツのポーランド侵攻が始まると、夫妻は王族の海軍将校ルイス・マウントバッテンによって帰国させられ、デイビッドはフランスの戦線に送られる。任を解かれても、ドイツとの接触ルートをキープしていたと思われるデイビッドは、1940年バハマ総督を任じられ、事実上遠ざけられた。当地では子供の診療所を立ち上げるなど良い行いもあったが、夫妻共々黒人に対して差別的、侮蔑的であったといわれる。やがて辞任し、終戦までアメリカでバカンスを過ごす。



5年間のバハマ時代、ウォリスが特注のエルメスのバッグに毛皮のコート、たくさんの宝石を身に付け、飛行機でアメリカに買い物に出かけることが顰蹙を買っていた。その頃イギリスがどういう状態であったかを知ればわかるだろう。もっともウォリスはアメリカ人で、自分を受け入れてくれないイギリスを憎んでいたのだから気にとめる必要は感じなかったのだろう。






ヨーロッパ大陸の戦争に巻き込まれたイギリスは、チャーチル首相のもと国王ジョージ6世はよく国民を励まし、自身も空襲下にロンドンで配給で暮らした。どうにか辛勝したものの、傷付いた国の失われた国力を取り戻すことはもはや夢となり、主導権は完全に米ソに握られることとなった。
生来病弱な国王は、公務を次第に娘のエリザベスとその夫フィリップに委ねるようになった。弟グロスター公ヘンリーも助けた。末弟ジョージは戦死していた。国王は1952年に薨去した。

デイビッドは弟王の葬儀には単身で出席した。
亡くなった国王自身がウォリスを「ウィンザー公爵夫人」ではなく「シンプソン夫人」と呼び、エリザベス王妃も"that woman"、「あの女」と呼び、遠ざけていたことに配慮したのだった。
弟の死後、夫妻はイギリスにセカンドハウスを購入し度々訪れたが、相手にされずウォリスはますます孤独に、憎しみを強めていった。





夫妻は相変わらず悠々自適の趣味生活とパーティーに溺れる日々を過ごした。テレビインタビューにも気軽に応じ、回顧録なども執筆した。
しかし1960年代以降は、デイビッドは次第に体調を悪くし、手術も度々受けた。
1972年5月28日、77歳のデイビッドはパリの自宅で妻に看取られながらひっそりと亡くなった。
亡くなる数週間前に、フランスを公式訪問したエリザベス2世女王と王太子チャールズがデイビッドの病床を見舞っていた。

デイビッドの葬儀はバッキンガム宮殿で行われ、ウォリスは初めてバッキンガムに滞在することになった。ウォリスの悲しみは激しく、女王らがいくら宥めても号泣し泣き頽れるばかりだった。

デイビッドの葬儀 ウォリスとエリザベス女王

1976年、かつてウォリスを「あの女」と呼んでいたエリザベス王太后がウォリスとの面会をもとめてパリのブローニュの森の居城を訪れたが、体調不良だとして訪問を断った。それから10年をひっそりと生きた後、ウォリスは亡くなり、王族として葬儀、埋葬された。




デイビッドは幼い頃から神経性胃炎と双極性障害の持病があり、大人になってからも大声で泣き叫ぶことがあったそうだ。自己判断でドイツに招かれ、巻かれそうになったり、許されるはずのない違法な結婚を押し通そうとしたりで、国政に取っても危険な存在であった。第二次大戦を前に退位していなければ、国政にも王制にも混乱をもたらした可能性がある。
デイビッドばかりでなく、ウォリス夫人もまさに子供そのものだった。彼女は10代初めから異性に強く惹かれ、女性ばかりのなかではパッとしないのに、男性がその場に現れればたちまち色めき立つ性質が身に付いていたという。
そもそもが平民の母子家庭の育ちであるが、若い娘のうちから"I will marry for lots of money"と公言して憚らなかったといい、その言葉通りに、結婚離婚を繰り返しながら最後は王子を得た。
王子は自分のために国王を降りたため、王妃にはなり損ねたが、彼女は位が欲しかったわけではなく、たくさんのお金が欲しかっただけなので、結婚に固執したのは国王のほうだけだったそうだ。もっとも、最初にデイビッドと出会ったときに一目惚れしたのはウォリスである。
「金持ちで、いい男を見つけて結婚するのが夢なの‥」
少女の夢が叶う。狡猾なシンデレラストーリーに国民は辟易したのであるが。

若い頃のウォリス

若い頃のウォリス


ウォリスのこうした言動や体格を分析し、彼女がAIS(Androgen Insensitivity Syndrome)だった可能性を論じる記事があり、真偽はわからないまでも思考や行動について参考になる。

Was Wallis Simpson all woman? There's been always been speculation about her sexual make-up. Now in a major reassessment her biographer uncovers new evidence

(なお、ウォリスはデイビッドと並行して年下男性と交際していたほか、ロンドンで独自の外交を行っていたナチスのリッべントロップとも愛人関係にあったといわれている。因みに粗暴で冷徹なリッベントロップは大変な恐妻家だった。)


地上には多くの道がある。
けれど、最後の一歩は
自分一人で歩かねばならない。


ヘルマン・ヘッセの詩からの引用だが、最後の一歩というのは紛れもなく「最期の」一歩、つまり死の瞬間のことである。
この節の前の部分に、「車で行くことも、馬車で行くことも、誰かと連れ立って行くこともできる‥」というようにあった。
生きている間、友愛に満ちて常に幸福であったとしても、悲しみの果てに心中するにしても、
バンザイ岬から子供を抱えて身投げするにしても、
仲間とともに銃殺刑に処されるにしても、
家族や従僕とともに銃殺されるにしても、
原爆の熱に灼かれるにしても、
誰もがその瞬間はたった1人で踏み出すことになる。
これが死の、本当に悲しい重み。

葬儀で泣き崩れたウォリスには、考えたこともないものだったのだろう。そしてデイビッドも、こうした心構えを妻に抱かせることも自ら持つこともなかったのだろう。あるいは闘病中に頭にうかんだだろうか。
幼い心のまま国王になり、そのままに結婚し、幸せだった王子の死に、今私が思うことはありません。


晩年に至るまで美しい金髪は整えられ、どんなスーツも普段着もさすがは英国紳士と唸らせる見事な着こなし。大変魅力的なルックスであったと思う。兄弟の王子たちのなかではひときわ華やかな印象だった。しかし実際に言葉を交わすと愚鈍な印象を与えたそうである



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